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イクスィード・ゴウレム
ここは驚くところなんだろうな、と喜久生は思った。
正直、驚いてはいる。むしろ、驚くなという方が無理な相談だ。
だが同時に、これは予想の範囲内でもあったのだ。それ故に彼を襲った衝撃は半減してしまっていた。
人間の姿をした、しかし人間ではない生き物が、喜久生の目の前にいた。
それは架空の物語ではよくある話。だが、現実ではまずお目にかかれない存在。せめて無機物であれば、人形なりロボットなりが挙げられるのだが。
そう、生物なのだ。喜久生の眼前にいるのは。
いや、正確には【そこにある】と表現した方がより正しいだろう。ソレは両眼を閉じ、沈み込むように大きなソファに全身を預け、休眠しているのだから。
ゴウレム。
喜久生の父、真木野陽介が考案し発明したモノ。人間に似た姿に、人間を超越した能力を持っていながら、登録された主人の言葉に絶対服従するという歪な人工生命体。
かつて人類が夢にまで見た理想の相棒。犬や猫などとは比べものにならない。人類と共に生き、共に繁栄するために生まれてきた、神ならざる者の手による落とし子。
額に薄くマーキングされた『emeth』の文字が、その証だ。これはヘブライ語で『真理』を意味しているという。伝承に伝わるゴウレムなら一文字目の『e』を消せば『meth』、即ち『死』という意味になって崩壊してしまうらしいが、現代のゴウレムはそうではない。専門知識のない喜久生にとっては魔術か魔法としか思えないが、これは歴とした科学技術の塊だ。もっとも少年は未だに、何か神秘的な力を秘めた超常の存在なのでは、と思いたがっているのだが。
このゴウレム、もちろん世間に出回ってなどおらず、その存在は非公式だ。そこらを歩く人々は、こんな生物が誕生していることすら知らない。知っているのは当然、非一般的な人間だけである。
何故ならば、ゴウレムは兵器として取引されているから。いつだったか喜久生は父・陽介にその相場を聞いたことがある。その時の父は『そうだな、最新鋭の戦闘機が二十機は買えるな』と笑って言っていた。それが本当のことかどうか、喜久生は知らない。ただ、今喜久生のいるこの部屋が、父が建てた五十階建てのビルの内部であることは紛れもない事実だった。
だが、その父はもう亡い。代わりに喜久生の傍にあるのが、目の前のゴウレムだった。
これまで父だけしか入ることを許されてなかった最上階のフロア。その片隅でソファに沈み込んでいるゴウレムは、喜久生と同じ年頃の少女の姿をしていた。
深窓の姫君。
そんな言葉が脳裏に浮かぶ。艶やかで繊細で、それでいて弾力性に富んでいそうな長い黒髪。白磁の像に直接命を吹き込んだのかと思うほど、すべらかで美しい肌。だというのに、ゴウレムが持つべきであろう作り物めいた雰囲気を全く感じさせない。額のマーキングさえなければ、きっとゴウレムだとわからずにただ見惚れてしまっていただろう。
我知らず息を呑む。
五十階建てのビル。最上階フロアの一角。全面嵌め殺しの窓から差し込む陽光に照らされて眠るゴウレムの少女は、まるで翼をなくした天使のように見えた。
歩み寄るために踏み出した喜久生の足は、おずおずとしていた。彼女の存在感が圧倒的でありながら、指先が触れただけで消えてしまいそうな儚さを持ち合わせていたからか。それとも彼女──ゴウレムの名前が、禁断の果実よろしく『エバ』だったからか。
どちらにせよ、自分は【彼女】に触れるべきでないのではなかろうか、という疑念が喜久生の心に絡みついていた。
だがここまで来て何もせずに帰ることなど出来ない。亡き父との約束を守るため。何より、喜久生自身のためにも。
腕を伸ばし、エバの額に掌をあてる。ひんやりとした感触。人間ではありえない体温に、一抹の不安感。自分は今、人間の姿をした、しかし人間ではない生物に触れているという背徳感。背筋がぞくりとした。
声を発しようとして上手くいかず、何故かと思えばそれは早鐘のような心臓の鼓動が全身を揺らしていたからと気付く。脳みそどころか体中が蒸発していってるんじゃないのかと思うほど、喜久生は緊張していた。
「……、……起動」
緊張による硬直、数瞬の迷い、その果てに喜久生はその言葉を放った。ようやく出た声は、自分で驚くほど震えていた。
それからは、ゴウレムの起動に必要な単語をただ口にしていくだけだ。
「ユアネーム『エバ』、マイネーム『マキノキクオ』、プログラムナンバー『ゼロ』、パラレルコア・イグニッション」
実のところ、ゴウレムの起動を行うのはこれが初めてだ。もちろん手順は知っている。あくまで知識だけではあるが。
額の『emeth』のマーキングに登録者の掌紋を読み込ませ、次いでゴウレムの名称、登録者の姓名を入力し、機能レベルを設定した後、起動コードを発令してゴウレムの心臓に火を入れる。以上がゴウレムの起動手順だ。
たったこれだけ。たったこれだけのことに、断崖絶壁からバンジージャンプする以上の勇気が必要だった。
それもそのはず。喜久生がいま触れているのは、ただのゴウレムではない。
──世界を変えるゴウレム。
比喩でも誇張でもなく、これは正真正銘の話。
このゴウレムを起動させることで、喜久生はこれからの世界を変えていくことになる。
世界大戦が勃発するかもしれない。はたまた逆に、世界平和が実現するかもしれない。
一体何が起こるのか、起こってしまうのか、全く予測が付かない。世界が良くなっていくのか。それとも、滅びてしまうのか。
どちらにせよ、その際に少年を襲う艱難辛苦は想像を絶する。
そんな危険な生物を、喜久生は今、目覚めさせようとしているのだ。
それを恐れないのは自殺願望の持ち主か、よほどの愚鈍だけであろう。残念ながら喜久生はそのどちらでもなかった。
甘い吐息が聞こえた。
「……!?」
喜久生自身のものではもちろんなかった。そのどきりとする音は、彼のすぐ目の前で生まれた。
エバが呼吸していた。起動直後のためか、寝息のように静かな音。そんなものが聞こえるほど近寄っているのだ、と今更ながらに自覚する。
途端、目の前のゴウレムが急に、喜久生の中で『女の子』になった。
「!」
彼女の額に当てている掌が猛烈に恥ずかしくなってきた。何故かはわからない。ともかく全力で恥ずかしい。痙攣したような勢いで掌をエバの額から引き離す。そうしてから『しまった』と思ったが、よく考えれば掌紋の登録はとっくに終わっていた。問題はない──はずだ。
早鐘を打っていた胸の鼓動が、もはや緊急警報のようになっていた。今なら心臓が胸を突き破って飛び出してきても全然不思議ではないと喜久生は思う。エバの肌の感触がまだ残っている手を、確かめるように何度か握り込む。
呼吸を始めたことでわずかに上下しているエバの胸に自然と目がいって、意外に豊満な膨らみを見つけてしまい、危うく心臓が停まるかと思った。呼吸のリズムが無茶苦茶になって今にも酸欠で倒れてしまいそうになる。
これは反則だ。卑怯だ。なるほど間違いない、この少女は兵器だ。戦闘機が束になっても敵いはしないだろう。彼女は何もしないうちからこうやって一人の男子の息の根を止めようとしているのだから。
などと喜久生が馬鹿なことを考えている間に、果たしてゴウレムの少女は目を覚ました。
ゆっくりと、瞼が開かれる。
顕わになった瞳は嘘みたいに綺麗だった。色は光という光を吸い込む漆黒。なのに、澄んでいる。言葉にすると矛盾した表現になってしまうが、それは確かに存在した。
宇宙の深淵を水晶に閉じ込めたような双眸に、ゆるやかに光が宿っていく。
「────」
休眠状態のゴウレムは死体と変わらない。心臓部はもちろん、その他全ての機関が停止している。それを起動させるのは、蘇生と言っても過言ではない。心臓部が動き、そこから血液に似た液体が、これまた血管の役割を果たす管を通って各部を叩き起こしに行く。まずは心臓部の近くにある心肺機能や消化機能が目を覚まし、そいつらが目覚めの体操をしている間に全身の筋肉をほぐして、全身の血行を良くする。そうして手近にあるものから順番に覚醒させていくのだ。そういった構造なので当然、頭と爪先が一番最後にあくびをすることになる。
エバの瞳孔が拡大と縮小を繰り返し、視界に映るものに焦点を合わせる。そろそろ頭脳にキックが入った頃合いだろう。
脳みそに当たる部分がまともに機能していないこの時点ではまだ、目に映るものを見てはいるが、【視て】はいない状態だ。
つまり、人間で言えば『寝ぼけている』ということになる。
「……はぇ?」
世界を変えるゴウレムが間抜けな声をこぼした。喜久生は思わず膝から力が抜けて崩れ落ちそうになる。あまりにも予想外だった展開に、このフロアで彼女を見つけたときよりも驚いてしまった。
もっとこう『おはようございます、ご主人様』、あるいは『問おう、汝が我を目覚めさせしマスターか』という雰囲気のある台詞を期待していたのだが、そんな空想はまるで手元から落としたグラスの如く粉々に砕け散ってしまった。
もうちょっとどうにかならなかったのかな、父さん。そう思いながら、喜久生はエバの意識が本格的に覚醒するのを待つ。
それにしても──と、喜久生の視線は改めてエバの出で立ちへと向いた。
父・真木野陽介は早くに妻を亡くし、それからずっと傍にいたのは喜久生一人だけだった。息子しかいなかった抑圧からの解放だったのか、それとも元々そういう趣味の人間だったのかは喜久生にはわからない。たとえ今も生きていたとしても確認したいとは思わない。
なんだ、このティーンズファッション誌に載っていそうな格好は。黒のインナーとストッキング、ベルト付きの純白のシャツワンピース。しかもよく見ればワンピースには控えめなレースが施されている。どう考えても適当に用意した衣服だとは思えない。男の喜久生から見てもそれなりのセンスを感じてしまうこれを、本当に父が揃えたのだろうか。いや、揃えたのだろう。認めてしまおう。これは父が支度したものに違いないのだ。何故なら、先程も述べたとおり先日までこの部屋には父しか入れなかった上、エバの存在を知っていたのは親子二人だけだったのだから。
こんな趣味があったのか、父さん。確かに『ゴウレムはみんな、父さんの子供だ』とは言っていたけれど。何も知らない第三者から見れば、危険な着せ替え人形遊びにしか見えないよ、これ。
父の意外な一面に少なからずショックを受けていると、やがてエバの瞳の焦点が完全に結ばれた。ふぅ、という小さな吐息。宝石のような瞳がすっと動いて、喜久生の顔を照準する。
その瞬間、脳内にある全ての思考が吹き飛び、喜久生は一個の石像と化した。
「…………」
見られている。つぶらな瞳が無邪気かつ無表情な視線を一心不乱に喜久生へと突き刺している。いたたまれない。これは非常にいたたまれない。しかし、咄嗟にそれをはね除ける言葉も浮かんでこない。というか、何も思いつかない。どう行動すればいい? 何をすればいい? むしろゴウレムの方から何か言ってくれないのか?
実際にはエバは視覚情報から入力されたデータの分析とさらなる収拾を行っていたのだが、ゴウレム起動初心者の喜久生にそれがわかるはずもない。取扱説明書のない機械の電源をどうにか入れたがその後どうすればいいのかわからずに首を傾げている老人の如く、喜久生はどうすることも出来なかった。
だから数秒をおいてエバがにっこりと微笑み、口を開いた時には彼女が本物の天使に見えた。
「初めまして、マキノキクオ様。私の名前はエバと申します。今この時より私は貴方の──」
そこまで言いかけてエバは突如静止した。ひどく不自然な途切れ方だった。口を開いて笑顔のまま硬直してしまったその姿を、背筋がぞっとするほど不気味だと喜久生は思う。
熱くなっていた体が冷え始め、テンションが奈落へと落ちていく中、喜久生は胸の奥にいる父に語りかける。
──ねぇ父さん。この世界を変えるゴウレムって、どこか壊れてないか?
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