大気が振動した。
誰もが空を見上げ、そこに浮かぶ二体の異形を目の当たりにした。
不思議と叫び声を上げる者はいなかった。
人は、理解不能なものを見ると思考が停止し、つい魅入ってしまうのだ。
突如として現れた、もう一つの太陽のような炎の塊と、まるで昆虫を統べる王のごとき存在感を持つ漆黒の生物。
現実感のまるでない炎の騎士≠ニ昆虫王≠、人々は声もなく見守っていた。
何もせず、ただそこに在るだけだった炎の騎士≠ニ昆虫王≠ェ動くまで、いかほどの時間があっただろうか。永遠とも錯覚する時間、固唾を呑んで顔を上げていた人々は、その声を聞いた。
音だったのかもしれない。
空気を震わせ耳を劈くその波動は、一体いかなる修辞を懲らせば表現できるだろうか。
高いようで低く、低いようで高く、腹を揺らす音のようでありながら聞く者の頭蓋内で直接響いているような、形容しがたい──それは鳴き声だった。
例えばそれは、獣の唸り声のようにも聞こえた。例えばそれは、電子音の繰り返しのようにも聞こえた。電子機器のスピーカーが壊れたらこのような音を発するだろうか。それはただただ不快でしかない音だった。爪で脳を直接引っかかれているような、皮膚の下に何匹もの虫が這いずり回っているような、眼球の裏側がかぶれて痒いような、吐き気を覚えるほどの不快感をもよおす音だった。
そんな雄叫びを上げながら炎の騎士≠ェ右腕を振り上げ、振り下ろした。人々が耳を塞ぎながら見た、騎士の姿をしているが故に違和感のないその行動は、想像以上の結果を生んだ。
斬撃がそのまま烈火として飛んだ。太陽のプロミネンスさながらだった。その瞬間、それが本物の炎であるとは誰も信じていなかった。この期におよんでも、夢か幻か立体映像のどれかだと思っている者がほとんどだった。
炎の斬撃がいくつもの建造物を押し潰し、爆発炎上するまでは。
『!?』
爆音が連続し、空いっぱいに響いた。
途端、そこら中で悲鳴と驚愕の声が相次いだ。
ようやく空に浮かぶ化け物が夢でも幻でもなく、本物の脅威だということを生き残った人々は知ったのだ。
昆虫王≠ェただ生やしていただけだった羽根を動かした。向こうが透けて見えるほど薄い膜を、一斉に震わせる。
それだけで昆虫王≠フ真下の空間が、細かく裁断された。
建物も人間もその他の生物も等しく切り刻まれた。一定間隔で綺麗に、まるで空間ごと切り裂かれたように美しい断面を見せて。風が吹くと、紙吹雪のようにばらばらに飛び散った。
一般人は悲鳴を上げて逃げまどい、兵士達は怯えながらも武器を構えた。
非現実的な戦いが始まる。
テレビで流れていた空想的な戦いを、どこの誰が実際に演じることになると思うだろうか。ちっぽけな人間達が集まって、巨大な怪物へ立ち向かう。よくある話だ。そして物語の中で武器を持った人々は、強大すぎる怪物にあっけなく蹴散らされてしまう。
現実もその通りだった。子供向け番組とはいえ、そこだけは嘘ではなかった。実際に人間は、自分たちより巨大で強力な存在には束になっても勝てないのだった。
人間の百倍以上はあるだろう炎の騎士≠ニ昆虫王≠ヨの攻撃は散発的でしかなかった。現場が軍部の中枢だけに、指揮系統は混乱を極めた。その上、兵士達のそもそもの任務は元帥府地区における救助活動だったのだ。まともな武装を用意しているわけがなかった。なおかつ、中には包囲網を突破していった天使二人に被害を受けた、満身創痍の部隊もある。状況を全て把握している指揮官はおらず、命令伝達はうまくいかず、戦列などつくりようがなかった。
あっさり捻り潰された。
炎の騎士≠フ剣の一振り。昆虫王≠フ羽ばたき。
元帥府地区だけではなく、首都ガングニルが破壊され、燃え上がり、寸断されていく。
突如、昆虫王≠フ周りに建っていた背の高いビルが軒並み潰れていく。目に見えない空気のハンマーで殴られたような潰れ方だった。
重力制御。通常の数百倍の重力を受けたビルは自重だけで崩壊し、煎餅のように潰れたのである。
炎の騎士≠フ咆哮が一段と高くなった。昆虫王≠フ戦果に負けるものか、と叫んでいるかのようだった。天を刺した剣のシルエットから、炎が長く伸びた。濃密な炎によって三倍以上に伸張した刃が、勢いよく振り下ろされ、大地に突き刺さった。
地面が内側から爆発した。
ひび割れ、分断された大地が内部から弾け飛ぶ。巨大すぎるパズルのピースが炎と共に宙を舞った。文字通り天地がひっくり返った衝撃に、もはや街は街でなくなっていた。直撃を受けなかった建造物も全て、基盤を破壊されたために倒壊を余儀なくされた。
地獄絵図だった。
そんな中で、バトライザーとファーブルは呆然としていた。
言葉もない。
二人とも被害を避けるために必死に動いた後だった。
バトライザーはフッフール≠ニ力場シールド、そして各部のブースターを活用して難を逃れていた。炎の騎士≠フ最初の一撃で危険を悟ると、すぐさま北棟跡から退避し、元帥府地区から東へ離れた。今は逃げまどう人々を下に置き、とあるビルの屋上から破壊の限りを尽くす異形を見つめている。
ファーブルは南へ逃れていた。バトライザーが動き出したのと同時に我を取り戻し、とにかく瞬間移動を繰り返して安全な場所へ身を移した。
訳がわからなかった。彼女にしてみれば、バトライザーのレーザーに飲み込まれて死んだと思ったら生きていて、二人の少年の姿がない代わりに頭上の化け物がいたのである。
「……え? これってもしかして映画の撮影かなんか?」
思わずそう呟いてしまったファーブルを責められる者はいないだろう。彼女の目の前に広がっている光景は、人類が初めて遭遇する場面だったのだから。
巫桜院蜜姫のボディが安置されているホテルの屋上から、映画の撮影でも夢の続きでもない、ある意味では人間同士の戦争よりも悲惨なものを見つめる。
「……あんまり考えたくない話だけど……」
独り言で前置きをしてから、ファーブルは考える。
直感的には炎の騎士≠ェ昂で、昆虫王≠ヘ純。そう考えるのはおかしいだろうか。
「いや、おかしいでしょ!? そんなの飛躍しすぎ──」
ではないかもしれない。ファーブルは凍り付く。
思い出されるのは、死を覚悟した瞬間のこと。あの時、レーザーの直撃を受けながら二人の少年の右手は輝いていなかっただろうか。本来なら消滅しているはずの光の中、彼らの肉体はどうなっていただろうか。
ファーブルは全身から冷たい汗が出てくるのを感じた。
途方もない話だ。だが目の前で暴れている二体の異形そのものが常識の範疇ではない。とにもかくにも、二人の少年の姿が消え、二体の化け物が現れた。その単純すぎる因果を飲み込まなければ何も始まらないだろう。
とりあえず、まだ推測の域を出ないが、カーネルに報告しなければいけない。
ファーブルは深呼吸を一つ。息を整え、意識を澄み渡らせる。カーネルは既にこの事態を知っていることだろう。自分は事実を聞き、指示を受けなければならない。
瞼を閉じ、神経を集中させる。
──カーネル、聞こえる?
『……ええ、ファーブル。無事でしたか?』
心の中で語りかけた瞬間、聞き慣れた声が頭に入ってきた。だがその響きはいつもと違って、少し狼狽気味だ。
──ごめん、見てたよね? 多分……っていうか絶対に輪廻歴史にない戦闘やっちゃったみたいなんだけど……
『ええ……大変です。ヴァイツェンでここまでの事件が起こるなんてあり得ませんし、【アレら】がこの時代に存在するなんて……』
──【アレ】って……やっぱり、あの化け物、よね?
『そうです。【アレ】は化け物というよりも……』
──って、この時代? どういうことよソレ?
ファーブルの追求に、カーネルは即答しなかった。何かを溜め込むような沈黙を挟み、
『……【アレ】は兵器です。星体兵器であり、星石兵器です』
──いつの時代の? 古代文明とか?
さらなる言及にカーネルは口を閉ざした。カーネルの意識から迷いや戸惑いを感じる。やがて、ファーブルの脳内に響いた言葉は、
『……未来の時代です』
──はあ?
呆れてしまった。こんな時に冗談を飛ばすとは。カーネルらしい話だが、状況が状況だった。眉根を寄せたファーブルは怒気を籠めて声を送る。
──もしかして馬鹿にしてる?
『いいえ、違います。ファーブル、これは冗談でも嘘でもないのですよ。本当の話です。【アレ】はこの時代にあらざるべき兵器。本来なら、未来に誕生する力なのです』
真摯な声だった。少なくともカーネルは嘘を言っていない、と確信できるほど。
ファーブルは大きな溜息をつく。頭が痛くなってきた。なんとか理解しようと努めるが、うまく考えがまとまらない。
──つまり、どーゆーこと?
諦めてカーネルに説明を求めた。カーネルは言葉を選びながら、それに応じる。
『……輪廻歴史の末期に開発される『星石』を核とする星体兵器……だと思われます。私の見た限りでは。それが何故、現代に存在するのかまではわかりません……ですが、これだけは確実です。私たちのあずかり知らぬ所で何かが起こっています。輪廻歴史を致命的に狂わせる、何かが』
──!?
ファーブルは元帥府ビルのダクトにいた時のことを思い出した。あの時、自分は今のカーネルの言葉と同じ事を考えたのだ。当時はただの直感でしかなかったが、今は目の前にれっきとした証拠がある。空の向こうに見える二匹の怪物がそれだ。
──誰かが……ううん、もしかしたらあいつらが……
脳裏に浮かぶのは、黒地に深紅をあしらった制服を纏った四人の少年だ。龍日の天使、つまりは神威天照帝の差し金だ。
『龍日の神威天照帝に確認した方が良いですね。あちらも現状に驚いているかも知れませんが……』
──でも、龍日の天帝が黒幕って可能性はどうなのよ? あいつら、天使よ? いや、正確には天使って確認した訳じゃないけど。
『それはあり得ません』
断言したカーネルに、ファーブルは鼻白んだ。あまりにもはっきりした声だったので驚いたのだ。どうしてそう断言できるのか、と。
──どうしてよ?
『輪廻歴史において、神威天照帝がそのような行動をとるという事実はありません』
きっぱりとした言い方だった。ファーブルにとっては不満の残る話だったが、輪廻歴史を持ち出されては何も言えない。それでも一つだけ言っておくことがある。
──輪廻歴史が狂ってきてるっていうのに、そんなの信用して良いの?
『いけません、ファーブル。その考えがいけないのです。そうやって疑うことこそが、輪廻歴史が狂う最大の要因なんですよ?』
逆に説教されてしまった。ファーブルは目を閉じたまま苦虫を噛み潰したような顔をする。
──ごめん。それにしても未来の兵器って……アニメとか漫画みたいね。
『事実は小説よりも奇なり、と言います。正直な話、私も信じられません。現代の技術で開発できるようなモノでは決してありませんし、『遺産』にしては状態が良いですから……一体何がどうなっているのやら』
『遺産』とは、何度も巡る輪廻歴史の中からこぼれ、現代に復活した物を指す。以前の輪廻歴史のどこかの時代の物が、輪廻歴史末期の滅びから逃れ、何かの手違いで発見されることが稀にあるのだ。そのほとんどが原型を留めておらず、実際に活用されることはまずない。カーネルによると、一巡前の世界でもいくつかの『遺産』が発見されていた、とのことだ。カーネルは過去を知り、未来を視る。そこに嘘はないとファーブルは信じている。
──にしても、あたしはどうしたらいい? ぶっちゃけ、あんなのどうしようもないんだけど。
『とりあえず放置しましょう。それが良策です。あなたもすぐに帰還してください』
──はい?
あんまりな発言に、ファーブルは拍子抜けする。肩すかしを食らったような気分に、思わず口に出して叫ぶ。
「何よそれ!?」
『あの二機の星体兵器がO.B.Kまで来るならば、その時は私が全力で戦います。ですが、それ以外の場合においては手を出さない方が得策です。何にせよ、今すぐどうこうできる代物ではないんですよ、アレは』
冷静というよりも、冷徹な声だった。無理もない。カーネルはその小さな肩に、O.B.Kに属する全ての人々を背負っているのだ。指導者として、時に非情な判断を下さなければならないこともあるだろう。それは良く理解している。理解しているつもりだ。
しかし。
──ヴァイツェンの人達を見捨てるっていうの……?
『どうしようもないんです。わかってください、ファブリッツィア=テナルディエ』
承伏の意志はなかった。カーネルは念を押すようにファーブルの本名を呼んだ。だが、それでも縦に振る首を少女は持ち合わせていなかった。
『ただでさえ不鮮明なことばかりなのです。より詳しく調べれば、あの二機をどうにかする手段も見つかるかもしれませんし──』
なおも言葉を重ねるカーネルに、
──勝手にやらせてもらうわよ。
とファーブルは言い切った。
『え?』
──勝手にやらせてもらう、って言ったのよ。放置するなんて、そんなのあたしの性分じゃないって事ぐらいわかってるでしょ? 何だったらホットライン切っても構わないわ。
『……ファーブル……』
カーネルの吐く溜息には軽い困惑がある。だが、どんな声を出されてもファーブルには引くつもりはなかった。ファーブルもまた大きく息を吐き、
──ごめんね。でも、好きにさせて。お願い。大丈夫よ、危ないことはしないわ。住民の避難を手伝うとか、そういうことだけにしておくから。それに、ここで退いたらあのアンドロイドの子はどうするのよ。最低でも、あのオッサンから『星石』を取り戻すまでは帰れないわよ。
心の声が直接届くテレパスだけに、決意の程は十分に伝わっただろう。
『……しかたありませんね。あなたはこうと決めたらなかなか意志を曲げない人ですから。いいですよ、好きにしてください。ただし──』
──無理、無茶、無謀しないこと、でしょ? 大丈夫だって。ほんっと、カーネルってお母さんみたいなんだから。
ファーブルが笑ってそう言った途端だった。
『──お母さん?』
カーネルの声が冷気を帯びた。
──へ?
『……あなたのためにと思って、取っておいた御菓子があるのですが、しばらく帰って来れらないのでしたら私が頂いても大丈夫みたいですね』
ころころと鈴を転がすような声が逆に怖い響きになっていた。にこやかな仮面の下に鬼がいる。そんな気配を感じて、ファーブルはぞくりとした。
──カーネル? もしかして、怒った……?
『いえいえ。私を年寄り扱いする方にはそれなりのお灸を据えるという、ただそれだけのことですよ。楽しみにしておいてくださいね。あなたが帰ってくるまでには、みんなにある事ない事吹き込んでおきますので』
音符付きで言われた台詞にファーブルは慌てて謝罪しようとした。
──か、カーネルぅ!? ちょい待ち! ず、ずるいわよそんなの! あ、謝るから! 謝るからそういうのはやめ
『それでは私も忙しい身なのでそろそろ切りますね。無事を祈っていますよそれじゃ』
──ちょっ、切るってあんた電話じゃないんだから……!? ってあ────────ッ! 切れたぁ────────ッ!
もはやファーブルの声が聞こえていよういまいが、カーネルはウンともスンとも言わないだろう。ファーブルは悔しさに顔を歪めて天を仰ぐ。こうなるとカーネルは頑固だ。機嫌を直してもらうのは帰ってからになるだろう。
幸い、まだホットラインは繋がっているようだった。なんだかんだ言いつつも、やっぱりカーネルは優しい、と再確認する。
ファーブルは目を開き、再びヴァイツェンの空を視界に収めた。
相も変わらずそこには未来の兵器らしい化け物二体が屹立して、それぞれの力を振るっている。街は破壊され、人々は騒然と逃げまどっていた。
「……ん?」
と、化け物の斜め下から光の柱が伸びてきた。と思ったら凄まじい勢いで昆虫王≠ノ炸裂する。
バトライザーのレーザーだろう。しかし、直撃を受けたというのに昆虫王≠ヘ痛くも痒くもないという様子だった。化け物だけに、化け物じみた装甲と耐久力だった。
カーネルはあの二体がO.B.Kの本拠地まで来たら戦うと言っていたが、正直、勝てる見込みは薄いと思う。ファーブルの私見だが、おそらくバトライザーが攻めてきてもかなり危険なはずだ。炎の騎士≠ニ昆虫王≠ヘ生粋の化け物だが、今のバトライザーだってほとんど不死身の怪物だ。実際、かつてのカーネルがバルーダー≠ノ滅ぼされたという前例がある。
──だから、あたしが護るよ。何があっても。どんなことをしても。
無視されるとわかっていながら、ファーブルはそうテレパスで語りかけた。
「──ぃよしっ!」
ファーブルは自分の頬を両手で勢いよく叩いた。小気味よい音がして、目が覚めたような爽快感を得る。
両肩にはっきりとした重圧を感じる。正直に言うと、全身を走るおののきが止められなかった。今この瞬間にも世界は変容しつつある。あるべき姿から外れていっているのだ。不確定の未来へ、世界中が飛び込んでいく。自分はそれをなんとかしなければならないメンバーの一人だ。世界を背負っている、とは過言だろうか。だが自分はこの重さを噛み締めながら動かなければならなかった。
「──やってやる。見てなさいよ、最後に笑うのはあたし達なんだから」
ここではない遠く、この世のどこかで輪廻歴史を狂わせようと策謀しているものに宛てて、ファーブルは呟く。
まずは住民の避難の手伝い。その次にバトライザーから『星石』を奪取する。それまでにあの化け物達がバトライザーを潰してくれればめっけものだ。
自分の中での優先順位を決め、ファーブルは瞬間移動した。
一度ぐらい部屋に戻っておけばよかった、と思うのは後の話だ。
部屋にいったん戻り、巫桜院蜜姫のボディを別の場所へ移動させておけば良かった、と。
よもや巫桜院蜜姫のボディが既に麟と浮に発見されているとは、彼女は思っていなかったのである。
あれは一体何だ。
急激に自信が萎んでいき、絶望がとって変わるように膨らんでいく。
最強の力を手に入れたと思っていた。
カーネルをこの世から消し去るに足る、圧倒的な力を。
だが目の前にあるこの光景は何だ。
巨大な炎と金属の塊。悪魔がごとき未知の昆虫。
街を破壊し、人々を殺し、空を揺らす。
それらの前に、バトライザーはちっぽけだった。
信じられない。
認められない。
ほんの数分前まで、究極の力を手に入れたと自負していた自分がまるで道化ではないか。
二体の異形の被害を受けない位置に建つビルの屋上。そこから射込むような視線を空へ向け、バトライザーは怒りに身を震わせていた。
何がどうというわけではない。バトライザー自身にも怒りの原因はよくわからない。
強いて言うならば、いきなり攻撃を仕掛けられたことぐらいだろうか。それだけでも十分な理由にはなるだろう。しかし結果としてバトライザーはそれを回避し、逃げおおせている。
許せないのだ。
自分よりも強大な存在を。
彼自身は気付いていないが、際限のない『星石』の力は精神にまで影響を及ぼしている。その結果、バトライザーは己が戦う理由すら見失いかけていた。セシルの写真を失ったこともその原因の一つだろう。
より強い力を持つ者に襲われ、逃げることしかできなかった。その事実が『傭兵元帥』とまで称された彼の矜持を、したたかに傷つけていたのだ。
バトライザーは感情の赴くままに動いた。
跳躍。
全身各部のブースターから推進エネルギーを噴き、ビルからビルへ跳躍を繰り返しながら再び二体の異形──炎の騎士≠ニ昆虫王≠フ元へ向かう。
そうしながら体内の『星石』からポンプのように星体を吸い上げる。力を両手に溜め、異形へと向けた。空中で狙いを定め、
撃つ。
光の龍が飛翔した。
先程の天使の少年二人とO.B.Kのスパイとの戦闘において、既に力の制御は会得している。フッフール≠フ性能を最大限に引き出した、完璧な一撃だった。しかし、
「……!?」
炎の騎士≠ヘ当たり前のようにフッフール≠フ光を吸収した。
世界最大のレーザーが直撃したというのに、何も起こらず、光の柱はただ炎に呑み込まれた。ごく普通のライトが炎の騎士≠照らしただけのような、つまらない結果。
愕然とするあまり着地点を誤ったバトライザーは、そのまま街中へ落ちていった。
アスファルトを砕いて着地する。周囲にはもう人気がなかった。当然だ、ここまで来たら正体不明の化け物まで目と鼻の先だ。ここに残っているのは愚か者でしかないだろう。
その愚か者が自分かもしれない、とはバトライザーは考えない。
歯軋り。
猛る激情をそのままに、頭上の炎の騎士≠ニ昆虫王≠睨みつける。
「おおおおおおおおおッ!」
もう一度星体を両手に収束させ、フッフール≠放つ。
今度の標的は昆虫王≠セ。しかし、結果はほとんど同じだった。
何百人もの超能力者を一瞬で屠るはずの光の矢は、漆黒の甲殻の前には無力だった。堤防に衝突した激流の如く弾け飛び、残滓を振りまきながら消える。
今度こそ絶望感は、暗い幕となってバトライザーの眼前に降りた。
「……!」
言葉がなかった。声にならない感情が熱した鉛のように、胸内で狂おしいほど渦を巻く。
思い知らされた。格の違いを。
──力が全てだ。
バトライザーは、自身がそう言い放ったことを思い出していた。
そう、力こそが全て。この世は弱肉強食。強い者は生き残り、弱い者は死んでいく。生き残った者は自己の正当性を騙り、死んだ者は何も話さない。強きことは正義であり、弱きことは悪であり罪だ。
だが、かつて死んだセシル=スタインバレーはその弱さ故に死んだのではない。バトライザーを庇い、それ故にO.B.Kの念動力に引き裂かれたのだ。その時に弱かったのはバトライザーだった。よって彼女を殺したO.B.Kは、殺す相手を間違えた愚か者であり、卑劣な手段で強者を倒した卑怯者だ。
強く正しき者が、弱き愚か者に殺されるなどあってはならないことだ。それは、何があろうとも矯正されなければならない。
そのためには力が必要だった。バトライザー自身はセシルの死を恐れ、情けない悲鳴を上げて戦場を脱するほどの弱者だった。だからバトライザーはこの三十年間、必死にそれを求めた。文字通り血眼になって。
だが、そうして手に入れた力が今、否定された。
自分も、セシルも、全てが。
バトライザーは慟哭した。
何故だ。何故、否定する。何故、邪魔をする。何故、現れたのだ。
自分はセシルの仇をとりたいだけだ。そのための力も手に入れた。悲願の成就までもう少し。カーネルを倒す日は、もう目前まで迫っているのに。
──どうしてこんな時にお前達は現れる!? 俺が手に入れたよりも圧倒的に強大な力が、よりにもよって今この時機に現れるのだ!
運命が人の形をしているならば、間違いなく嘲笑の声を高くしていることだろう。悪意ある悪戯としか思えない巡り合わせだった。
バトライザーは自らの怒りの理由を悟った。
神や悪魔、あるいは運命と呼ばれるものがもたらす理不尽に対して怒っていたのだ、と。今、目の前にそれらがいれば、バトライザーは間違いなく詰め寄っていただろう。何故こんなことをするのか、と。
「──うぉおおおおおおおおおッ!」
負けるわけにはいかなかった。
力こそが全て。そう言ったからには責任をとらねばならなかった。
弱者であるということは、愚かで卑怯と言うことだ。そして卑怯な愚か者に、生きている価値などない。逃げるなどもってのほかだ。戦い、勝利することでしか強者の証明は成り立たない。自らが弱者でないという証を立てるためにも、バトライザーは背を向けるわけにはいかなかった。
フッフール≠フ回路が焼き切れんばかりにレーザーキャノンを連射する。苛烈な光が剣となって幾度も大気を貫いた。だが、そのことごとくが弾かれ、あるいは吸収された。何も成さず、ただ空気を焼くだけの攻撃が繰り返される。
バトライザーは荒廃した街で、たった一人で戦った。虚しく。
やがて、うっとうしい蠅か何かを睨むような動きで炎の騎士≠ェ振り向いた。眼下のバトライザーを見下し、それこそ子虫を払うように炎の剣を振るった。
質量を持った猛炎が鞭のようにバトライザーを打つ。バトライザーは全身から白い星体を吹き出し、力場シールドを限界まで酷使してこれに耐えた。
周囲の建物が圧壊し、熱で地面ごとドロドロに溶ける。炎の騎士≠フ一撃はバトライザーの想像を超える威力を持っていた。あまりの衝撃に、肉体が無事でも意識が持って行かれそうになった。
「──!」
バトライザーは言葉にならぬ声を上げ、ひたすらに耐える。
圧倒的すぎた。あまりにも差がありすぎた。実力差が大人と子供どころではない。話にならない。あちらにとって、こちらは虫ケラ以下だった。
次の瞬間だった。
「!?」
頭上に影が差した、と思ったときにはもう手遅れだった。
目の前に巨大な昆虫王≠フ顔があった。
「──なッ!?」
驚愕のあまり思考が停止し、体が硬直した。
それは一刹那の交錯だった。
バトライザーは子虫のように、昆虫王≠ノ喰われた。
疾風の如き速さで地上に舞い降りた昆虫王≠ヘ、その素晴らしい速度を維持したまま空へ上昇する。
バトライザー自身が言っていたとおりだった。
強き者は生き残り、弱き者は死んでいく。
そこに情けも容赦もない。
バトライザーは後悔することも、走馬燈を見ることもなかった。
ぞろりと生え揃った昆虫王≠フ獰猛な牙に、彼はあっさりと噛み砕かれた。
何度も何度も繰り返し。
最後には平たい歯に入念に磨り潰された。
他局のチャンネルに何度も変えて、聖子と細村はヴァイツェンの情報を収集し続けていた。
聖子は何も言わない。
細村もまた口にする言葉を持てなかったようだ。
どのチャンネルでもヴァイツェンについて報じられていた。
そこに現れた二体の天使≠ノついても。
いくつもの報道ヘリが撃墜された。その度に細村はチャンネルを変える。徐々にカメラは元帥府から離れていき、終いには超望遠カメラによって様子を捉えるようになった。
炎の騎士≠ノ昆虫の王=B
正体不明の怪物の登場に、全世界が震撼していることだろう。
これが聖子の言っていた天使≠セった。
互いに無言の時間がどれぐらい流れていただろうか。不意に細村が呻くようにこぼした。
「やっぱり悪魔ではありませんか……」
何を言うのだ、と聖子は思う。確かに見てくれは良くないが、やっている事はとても素晴らしいではないか。他にどこの誰が、これほど完璧に輪廻歴史を打ち砕けるだろう。
「……やはり、アレはあの四人の仕業なんでしょうか?」
細村の声は意外に明晰なものだった。正直、もっと動揺するか、ショックのあまり感覚の一部が麻痺するのではないか、と予測していたのだが。
聖子は頷く。
「その通りだろうな。それ以外に考えられんよ。少なくとも私には」
スクリーンに映る紅蓮の炎と、漆黒の巨体。さて、細村はこの二つに一体どのような推論をはっつけるだろうか。聖子は既に答えを知っているが、すぐに教える気にはならなかった。彼はいつも愉快な予想をしてくれる。それを聞くのが楽しみだった。
「アレは一体何なのですか? 機関長はご存じですね?」
「さて、何のことだホサ村? 私はなんでも博士かね?」
とぼけて見せた聖子に、いつものことながら細村は真剣な表情を崩さない。彼自身、真面目だけが取り柄、と自負しているきらいがある。聖子にしてみれば、そこが微笑ましくてたまらないのだが。
口元に綻んだ笑みから何を得たのか、細村は踏み込むように、
「ご存じのはずです。あなたは先程天使≠ニ仰いました」
ここで聖子はあっさり観念してみせる。
「よく聞いていたなホサ村。実はな、私は君がしっかり話を聞いているかどうかを試して」
「ご説明を願います」
ひっぱたくように細村は聖子の言葉を遮った。これは目上の者に対して明らかに失礼な行為だったが、聖子は寛容だった。むしろ彼の必死な様がおかしくてたまらない。
「では説明しよう。だが具体的な質問がなければ私も要領を得られない。聞きたいことを手短にまとめたまえ。答えられるものには全て答えようではないか」
傲然と言い放たれたそれが、実は一つの挑戦状であることに細村は気付いただろうか。知らない者が質問するという形式は、これまでの流れの中で本質を知覚し、それをうまく言葉にして問わなければ、永遠に真実には辿り着けないのだ。
細村は視線を逸らして考え込むような事はしなかった。率直に突き込んでくる。
「あの二体の怪物を天使≠ニ機関長は呼びました。そしてあの四人が天使か悪魔≠ニも仰いました。つまり、あの怪物と四人には、なんらかの関係があるということですね?」
「それは質問と言うより、ほとんど確認なのではないかね?」
問い返すことで聖子は答えた。
あの四人にはなにがしかの秘密がある、とはこれまで十分に匂わせてきた。それに気付かないようでは話にならない。まずは第一関門突破、と言ったところか。
「では関係があるということ前提で話を続けさせて頂きます」
こうやって前置きするあたりが細村らしい。丁寧と言うより、正直くどい気がする。
「あの化け物は、天使≠ニは一体何なのですか?」
「以前にも言ったはずだぞホサ村。──天使≠ニいうのは我々の使っている意味ではない。もっと大きな意味を持つ。神を名乗る人間の部下ではなく、本物の天の御使い≠ナある天使の意味だ──とな」
「では、その正体は?」
おやおや、と聖子は嬉しくなる。誤魔化しをものともせずに鋭く切り込んできた。十分な進歩である。
「よろしい、答えよう。あれの正体は、『星石』を核とした未来の星体兵器だ」
ほぼ同じ頃、O.B.Kのカーネルが配下の者に同じような説明をしているとは、流石の聖子も知りようがない。そして細村も、自らの反応がファーブルという少女とほとんど同じだということを知る由もない。
「は?」
「未来からやってきた究極の最終兵器だよ。『星石』を動力源とする兵器のなれの果て。比類する物のない最強の武器。それこそが天使≠フ正体だ」
大仰な物言いは勿論わざとだった。こういった話は嘘くさいほど良い。半信半疑の人間の顔を見るのはとても楽しいのだ。
「……機関長、私は真面目な話をしているのですが」
「私もしている。真剣に君の質問に答えているつもりだが? 何か不服かね?」
「……未来の兵器ですか」
細村の顔に苦悩が見て取れる。無理もない話だが、
「これまでの話を聞いておいて、信じられないのかね? ここまで来るのにも十分非常識な事柄が多くあったはずだが」
からかいの調子が多分に含まれた聖子の声に、細村はやはり真摯な表情を崩さず、大きな溜息をついた。
「いえ、その通りでした。失礼致しました」
彼の内的世界では実に複雑な葛藤や懊悩があったことだろう。それを無理矢理抑え込んでいるのがまた愉快なのだ。
「では、あれが未来の兵器だとして、どうして現代にあるのでしょうか? どんな理由が? そもそもあの四人と一体どんな関連が?」
やはり精神の均衡を保つことは難しいのか、細村は矢継ぎ早に質問を飛ばした。聖子はそれを手で制し、
「ああ、次からは質問は一つずつにしたまえ。私も一気に答えられるものではないのだからな」
「し、失礼しました」
「うむ」
頭を下げる細村に頷くと、聖子はしばしの沈黙を挟んでから口を開いた。
「まず、あれらが何故現代に存在するのか。だがそれを説明する前に、まずあの兵器がどういったものかをさらに詳しく解説する必要があるだろう」
自分を見つめる細村の瞳に、好奇心の光が宿るのを見る。本人にそのつもりはないだろうが、時に細村はこのように子供っぽい一面を見せることがある。ほんの小さな片鱗だけ、ではあるが。
「あれが開発されるのは輪廻歴史の末期。つまり、我々の歴史が終わろうとしている終末期だ。大きな戦争でもあるのだろうな。『星石』を核とした星体兵器が多く開発されるそうだ。その中の一つがあれでな。コードネームはディスアンゲル=B未来の人間の中に『星石』を埋め込み兵器と化す、未来でも抜群に非人道的な代物だ」
ディスアンゲル>氛氓サの響きを細村は舌の上で転がしているようだった。駄天使、という意味だ。洒落なのか本気なのか、いまいちよくわからない名称だろうと聖子も思う。
「特徴は知っての通りだ。人間形態時は制御・起動鍵・武装を兼ねる極印を持ち、一定以上のダメージを受けるか、かなりの危険が及ぶか、強力な星体を吸収すると天使′`態に変化する。……以前、あの四人以外にも奴らの持つ極印が使いこなせるかどうか試してみただろう? 結果はどうだったかね? 現役の天龍でも使いこなせなかっただろう? つまりそれが一つの証明だよ。あれらの極印は未来の産物であり、同じく未来の存在であるあの四人にしか扱えないのだ。そもそもホサ村、君は奴らの極印に段階が存在することすら知らんはずだ」
呆気にとられて話を聞いていた細村が、はっと我に返り、
「段階? 極印に段階とは?」
貪欲に食い付いてくる。まるで餌に寄ってきた犬のようだ、と意地の悪い笑みを聖子は浮かべた。
「魔神の右手∞操り人形∞知恵の輪∞魔術師=Bそう呼んではいるが、あれらは元々名前のない極印だ。今より未来に生まれるはずの極印だぞ? 今のものより高性能なのは当たり前だろう。未来の極印は込める星体によって何段階かに進化するのだよ。今のところ、あの四人が自力で発動させられるのは第二段階までだがな。実際、何段階まで上がるのかまでは私にもわからん。少なくとも天使′`態が最終段階なのは確実だろうが」
不意に細村は何かに気付いたように視線を下げた。思考の数秒が過ぎると、彼はこう呟く。
「……成長する? 兵器が……?」
「ほう」
と、思わず聖子は感嘆の息をついた。まさかそこに気付くとは思わなかったのだ。
「そうだ。奴らが成長すれば、今よりも極印の能力を引き出せるだろう。またそれに伴い、最終段階での出力も変わってくる。変化成長する兵器、それこそがアレを『究極』と呼ぶ所以だよ」
「あの四人が未来からきた究極の兵器、ですか……」
自分に言い聞かせるように呟いた細村だったが、突如、雷撃に打たれたかのように身を震わせた。
「──とするとあの二体は!?」
衣擦れの音も高くスクリーンへ振り返る。ニュース番組はもはや遠巻きに、傍若無人に暴れ回る炎の騎士≠ニ昆虫王≠映し続けていた。キャスターの言によれば、軍の地方部隊と傭兵とが急遽組織され、二時間後には総攻撃が始まるらしい。
炎の斬撃が飛び、重力波が荒れ狂う。二体の天使>氛汞ディスアンゲル≠ヘ破壊の活動範囲をじわりじわりと広げつつあった。その光景を見ていれば、人間がどれほど束になろうが敵わないというのは一目瞭然だった。戦うなど無謀の極みだ。総攻撃が集団自殺になるのも、決して悲観的ではない観測だろう。玉砕は目に見えていた。
「四人の内の誰か、だろうな。発現前の星体の色からして、昂と純の二人だと私は見ているが」
二人の少年がどのような経緯であのような破壊の化身となってしまうのか、想像するのは難しいだろう。聖子自身も、星体を如意宝珠のように物質化するのだと知識で知ってはいるが、原理まではよくわからない。
「さて、そんなとんでもない未来の兵器がどうして現在にあるのか、だったな。これまでの私の話を聞いていたのなら容易に想像できるだろう? 『私』の仕業だ」
やはり、という空気が細村から漂ってくる。そういった反応は聖子にとっては非常につまらないものだった。
「一巡前の私は、さらにその前の私から得た延命処理技術を使用したのだ。それにより輪廻歴史の終末期まで生き延び、四つのディスアンゲル≠フ卵を手に入れ、今の私へと伝えた。そしてそれを受け取った私は、時が来るまでそいつらを適当な奴らに預けたのだよ。それがあの四人。昂、純、麟、浮だ。つまり奴らは正確には未来の世界ではなく、一巡前の世界──遙か古代から現世に転生してきた、というわけなのだよ」
適当とは言うが、彼らの育ての親を選ぶのにはそれなりに苦心したものだ。一人は剣聖、一人は犯罪組織、一人は学者、一人はO.B.Kに。結果論ではあるが、四人とも良い育ち方をしてくれたものだ、と思う。特に昂と浮に関しては、よく生き延びてくれた、と。運が悪ければ天帝やカーネルに見つかって抹殺されていたのかもしれないのだから。無論、そうならないように手を打ってはいたが。
「そして時が来たのを見計らい、特待生としてこのスウェーデンボルグへ招集した、ということですか」
よろしい、良く理解している。そう言ってやりたいところだったが、細村の言葉はほとんど棒読みだった。やはり突拍子のない話にうまくついてこれてないらしい。
まあ良い、ついてこれなければそれまでだ。聖子はさっさと質問への答えを口にしていく。
「次に、何故そんなことをしたのか、だが……既に言ってあるな。輪廻歴史を狂わせるためだ。過去の『私』が判断したのだろう、あの四人が必要だと。ならば今の私はそれを活用するだけだ。あるいは……そうだな、あの四人を使って早めに歴史を終わらせるのも一興だろうな。なにせ、輪廻歴史は奴らによって終わると言っても過言ではないのだから」
「……は?」
細村が間抜けにこぼした声の意味を、聖子は正確に理解した。やれやれ、と肩をすくめながら、
「ホサ村、君は今ひとつ頭の回転が遅いな。もう一度言ってやろう。将来、輪廻歴史が終わるのは、今ヴァイツェンにいるディスアンゲル≠ノよってだ。奴らが世界を滅ぼす。つまり詩的に言えば、破壊神が現代に降臨された、のだよ」
「……!?」
おもしろい。細村の顔が驚愕全開だ。ここまで真面目に驚く奴も珍しい。写真にとって残しておきたいぐらいだった。
「な、な、な……」
「777、おめでとうフィーバー大当たりだ」
「違います! ──呆れて物が言えなかっただけです!」
どうやら『何故そんなことを』と問うて『おもしろそうだったからだ』と返される愚を避けたらしい。短い逡巡の中に、細村のそんな意志があるのを聖子は感じ取った。
彼女はそれを嘲笑うように、
「さて、先程の質問にはこれで答えられたと思うが、他に質問はあるかね?」
わざとらしい口調で細村を促す。
細村は口元を押さえると、しばし黙考する。やおら、
「そういえば先程は割愛されていましたが、機関長はどのようにして、以前の機関長と情報の伝達を行っているのですか?」
素朴な疑問だったのだろう。素直な声がそれを表していた。
もはや隠す必要もないことだろう、と聖子は判断した。全てを明かす必要もないが。
「そのことかね。これと言って説明しやすいものではないのだがな。単純なところだと、この世界のどこかに、何度歴史が輪廻しようと『変わらない場所』がある。主にそこを利用して情報の伝達を行っているな。当然だが場所は教えんよ?」
「わかっています。必要になった時のみ知らせて頂ければ」
「それ以外では……私が必ず読むであろう書物に、こっそり私にしかわからない暗号を混ぜる、などと言った非常に原始的な方法もある」
なるほど、と細村が頷く。その後、新たにあげられる疑問に一つ一つ答えながら、次第に聖子の心は自己の内へとこもっていく。
口と耳は正常に働き、細村の問いに応じているが、その思考はまったく別の場所を見つめ始めていた。
輪廻歴史の発端。
つまり、幾度も同じ歴史をなぞり、幾度も滅びては始まるこの世界の原因。
それについて聖子は考えている。
細村に言えることではない。まだ彼女自身、結論を出せずにいるのだから。
現実世界で細村が、
『麟と浮がディスアンゲル≠ノなり、四体揃えば世界が滅びるのでしょうか?』
と聞いている。それに聖子は、
『わからん。これまで試す機会がなかったのだ。あの四人をディスアンゲル′`態にするために私がどれほど頭を捻ったか、君は知らんだろう? あそこまで実力のある輩を絶体絶命まで追いつめるのは骨だったぞ。それにディスアンゲル≠ヘ奴らだけではない。そもそも奴らがここにいるのだから、前回の歴史を終わらせたのは別の物に決まっているだろう?』
と答える。
率直に言って、輪廻歴史はいびつな概念だ。
同じ歴史を幾度も繰り返す。それに何の意味がある?
しかも、まったく同じ歴史を繰り返させようという意志まで存在する。
何のために?
現実世界で細村が、
『あの四人は、自分たちのことについて知っているのですか?』
と聞いている。それに聖子は、
『少しだけなら、な。だがディスアンゲル′`態のこと、自分たちが未来の存在であることは知らん。知っているのは、体内に輪廻歴史を壊すほどの力があること、極印が段階進化すること、肉体が人並み外れて頑丈かつ怪我の回復が常人より早いこと、無尽蔵の星体を扱うことが出来ること、ぐらいか。ここまでおかしいのに、麟ですらほとんど自分について考えておらん。いっそ愉快だよ。すぐにでも気付きそうなものなのだがな』
と答える。
詳細はわからない。だが、何かしらの利益があることなのだろう。
メリットのない行動をとる存在はない、と聖子は考えている。それが例え自分のように『おもしろいから』でも良い。植物だって自身が生きるために光合成するのだ。行動する理由になるもの、自己にプラスになること。動機は確実にあるはずだ、と。
だから、聖子はある仮説を立てている。
このいびつな世界。輪廻歴史という終わらない円舞曲を奏で続ける世界。
それを始めたのは──もしや自分自身ではないのか、と。
現実世界で細村が、
『ヴァイツェンのバトライザー元帥に巫桜院蜜姫を誘拐させ、あの四人を派遣し、新兵器と戦わせてディスアンゲル′`態へ導く。そのために今回のことを仕組んだと?』
と聞いている。それに聖子は、
『その通り。多少の偶然も手伝っているし、全てが『今の私』だけの功績ではないがな。だが『私』の仕業だ。少々大がかりに過ぎたかね?』
と答える。
聖子は自分自身を客観的に分析し、評価している。
有能、頑固、偏屈、意地悪、気分屋、優秀。
同じような匂いを、輪廻歴史の根本に感じるのだ。
自分は輪廻歴史を狂わせ、壊そうとしている。だがその輪廻歴史を作製、運営している側にも、自分とよく似た感じがある。
感覚でしかない。だから細村どころか、どこの誰にも言っていない。
これは疑念だ。
聖子は自分という人間をよく知っている。だからこそ、思うのだ。自分もこういうことを考えるかもしれない、と。
なるほど、確かに同じ事を何度も繰り返すというのは、それが実に楽しいからだろう。楽しいことは何度だってしたい。だから繰り返す。
そんな考えを拡大すれば、輪廻歴史に行き着くのではないだろうか。
例えば、永遠の命を望む。
あるいは、自分が自分として生きること。生まれ変わってもまた自分でありたい、という願い。
それらを組み合わせれば、世界を何度も再生するという壮挙が生まれるだろう。
現実世界で細村が、
『しかし、どうやって巫桜院蜜姫がアトレイユタイプであることを知ったのですか?』
と聞いている。それに聖子は、
『それはトップシークレットだが、代わりに良いことを教えてやろう。その質問のヒントにもなる。──『星石』の数。これが輪廻歴史の中では重要な意味を持つのだよ』
と答える。
もしも輪廻歴史を回し始めたのが片桐聖子ならば、それを終わらせるのもまた片桐聖子しかいないだろう。
そう考えるだけで高揚する自分がいることを、聖子は知っている。
現実世界で細村が、
『……『星石』の数、ですか?』
と聞いている。それに聖子は、
『そうだ。天帝は巫桜院蜜姫の奪回のために天使を派遣しようとした。それは何故だ? それはな、きたるべき時に備えて『星石』を確保しておかねばならんからだ。先程も言ったとおり、『星石』は将来、歴史を終わらせるほど強力な兵器の動力源になる。それをみすみす、しかも輪廻歴史にない事柄で喪失するわけにはいかなかったのだ』
と答える。
当然だが、自分以外の存在を考慮するのを忘れてはならないだろう。
O.B.Kの『カーネル』と、龍日の『神威天照帝』。
そして、パンゲルニアを支配するゴールデンブラッド『アルケミスト』と、世界情勢を裏から操っていると言われて久しからぬ『黒皇』。
どいつもこいつも世界に対して影響力がありすぎる。
四人の内の誰か、あるいは四人全員が輪廻歴史に荷担している可能性は十分にある。
その四人が輪廻歴史を始めたという説も捨てがたい。
さらに考えると、輪廻歴史を始めた者がその四つの座を入れ替わりに乗っ取り、偽の歴史をただ繰り返してきたとも──
考え過ぎかもしれない。
現実世界で細村が、
『それは、未来に起こる戦争のためでしょうか?』
と聞いている。それに聖子は、
『それもあるだろう。だが、私は別の可能性も考えている』
と答える。
本来あるべき歴史を進んでいれば、世界はどうなっていただろうか。
それは一種のパラレルワールドだろう。
いつから歴史の本道が輪廻歴史に接続されてしまったのかはわからないが、もしかするとそこには、星体もなければアンドロイドも存在していないかもしれない。
黄金色の血液を持ち、超人とも、神の子孫とも呼び称されるゴールデンブラッドも。
現実世界で細村が、
『別の可能性?』
と聞いている。それに聖子は、
『それはな、『星石』が輪廻歴史という概念そのものに必要なのではないか、という可能性だ。時間を巻き戻すように、人類の歴史をもう一度ゼロからやり直すのだ。動力機関があり、エネルギーが必要ならば、その量は並大抵ではなかろう』
と答える。
突き詰めると、全ては駒なのかもしれない。
何者かによって配置された駒たちが世界を動かし、歴史を紡いでいる。
まるでゲームではないか。
会うことが出来るならば、その何者かはなんと名乗るだろうか。
やはり、神、とでも名乗るのだろうか。
現実世界で細村が、
『……そもそも輪廻歴史とは、何のためにあるのでしょうか?』
と聞いている。それに聖子は、
『それは私も考えているところだ。いくつか思いつくが、どれも確証がなくてな。ホサ村、君は何か思いつかないかね? この無限連鎖の世界を作った理由を』
と答える。
もはや歴史が輪廻することは、物理法則の一つになっている。
これを覆すのは並大抵の努力では不可能だろう。
そのためのディスアンゲル≠セ。
それだけではなく、他にも思いつく限り様々な手を打っている。それらは、遙かな過去から現在に至るまで、『片桐聖子』が積み上げてきた成果だった。
全ての布石を置き終えたとき、何が起こるのかは聖子自身にもわからない。
だが、きっと愉快なことになる、と確信はしている。
惰性の世界にブレーキがかかり、動き出す意志と力を持たない者は朽ちていくだろう。
そして本当の歴史が始まる。
現実世界で細村が、
『……いくつかの偶然が重なって生じたのでは?』
と聞いている。それに聖子は、
『不合格だ、ホサ村。ならば、それが維持され続けていることが説明できない。歴史は繰り返すが、時間は確実に流れている。我々は敢えて繰り返しをして、あるいは、させられているのだよ』
と答える。
それにしても滑稽な話だ、と聖子は苦笑を禁じ得ない。
そもそもここは『現実』なのだろうか? と自分は疑っているわけだ。
神と呼ばれる存在が自分の頭の中を覗いたら、なんと言うだろうか。
やはり『所詮お前達は箱庭の住人なのだよ』と、そう言うだろうか。
神に与えられた世界で、必死になって考え、動き回り、何かを変えようとしている。だがそれは箱庭世界の中だけであって、その外にはどんな影響も与えられない。
時には、自分たちの住む世界が本物かどうかさえ疑いながら、それでも頑張る。
小さな箱の中でちまちま飛び跳ねる生物を見るのは、さぞ愉快なことだろう。聖子自身、覚えがある。隙を見つけては細村をからかって楽しんでいるのだから、その気持ちはとてもよくわかる。
しかし、その時の細村が抱く感情と同様、上から見下されるのは非常に気分が良くない。
むしろ、嫌悪感すら覚える。
はて、神に対する反発心には何という名前を付ければ良いだろうか?
現実世界で細村が、
『すると、歴史が輪廻する必然性を考えなければなりませんね……例えば、何かの実験をしている、というのはどうでしょうか?』
と聞いている。それに聖子は、
『ほう、それはおもしろい意見だ。参考にしよう』
と答える。
背神、とでもいうべきか。
造語だが、神に背を向ける、という意味で語呂も良い。
細村が言ったように人類を実験動物扱いする神など、こっちから願い下げだ。
それに、神という存在に唯々諾々と従うより、反旗を翻した方が絶対におもしろい。これ以上はない、最高の刺激となるだろう。
最後には負けることになるかもしれない。結局、自分たちは箱庭の住人でしかない。当たり前の話だが、弱い奴は強い奴にはどうやっても勝てないものなのだ。
だが、足掻けるだけ足掻かなければ生きている価値がない、と聖子は思う。
それこそが、人が持つことを許された自尊心というものであり、挑戦精神というものだ。
現実世界で細村が、
『それにしても、あの二体のディスアンゲル≠ヘどうやって元に戻るのですか?』
と聞いた。それに聖子は、
『…………』
答えられなかった。
危険な香りのする静寂が生まれた。
「……考えていなかった、とは言いませんよね?」
むしろ言わせない、とその声が言っていた。
聖子はつと視線を逸らし、
「まあ大丈夫だろう。最悪、浮の奴が何とかするはずだ」
そんな適当な、と細村の目が訴える。ここは一つ、安心させてやるためにも言葉を弄さねばならないだろう。
「聞きたまえ、ホサ村。君は浮の極印の能力を知っているか?」
「テレパスの強化版のようなもの、と聞いておりますが」
「それに何故魔術師≠ニいう名前がついていると思う? ちなみに名付けたのは私だ」
「……?」
訳がわからない、と頭を捻る細村。聖子はもったいぶるように沈黙する。
「……何か特別な力があるのですか?」
「それはこれからわかる。スクリーンを見て待っていよう──と言いたいところだが、そろそろ時間だ」
突然、聖子はソファーから立ち上がった。その姿を細村が目をぱちくりさせて見上げる。
「出掛けられるのですか?」
「そうだ。君もついてこい」
聖子は言葉を選んで言う。
「もう時間切れなのだよ、細村。我々には行くべき場所がある」
つられたように立ち上がった細村は、一瞬だけ惚けたような顔をしたが、すぐに聖子の言わんとしている事に気付いたようだった。
口元を引き締め、頷く。
「わかりました」
「では行こう。忘れ物はないな?」
「どんな状況でも必要な物は用意して見せますよ。私はあなたの補佐役ですから」
「ほう、言うようになったではないか。頼もしい限りだ」
二人はいつものように連れだって執務室を出て、当たり前のようにスウェーデンボルグを脱出した。
別段、近くに行けばどうにかなる、などと楽観していたわけではない。
だが、なんとかしてみせる、という自負はあった。
浮の瞬間移動で降り立ったそこは、もはや焦土だった。見渡す限り破壊の跡。大地は焼け爛れ、建物は崩れ落ち、細切れにされたコンクリートの欠片、自重で潰れた車両。
容赦がないところは変わらないな、と麟はつまらない感想を抱く。
我ながらくだらない感情を抜きにすれば、高確率で炎の騎士≠ニ昆虫王≠ヘ昂と純の二人だ。現場に近付き、余計にその確信は強まった。辺りに残留する星体の気配から、それとなく感じるのだ。二人の匂いとでもいうべき手応えを。
──炎の騎士≠ェ昂殿で、昆虫王≠ェ純殿だな。
ほぼ確実だろう、と口の中で小さく呟く。
麟は不意に、冷静に状況を読み取っている自分を殴ってやりたくなった。戦友が化け物に変わったというのに、そんなことしか考えられない自分を。
知らず、顔のどこかが歪んでいたのだろう。
「麟、どこか痛いのか?」
浮が気遣ってくれた。この大柄な少年は、他者の心を読む力を持ちつつも、それを使わずに麟を見てくれる。そのためか、その気遣いはどことなく無骨で拙い。この状況でどこかが痛いわけなどないのに。それでも麟はその優しさを嬉しく思う。
「大丈夫だ、浮殿。それより、強さが増してきているようだな」
麟は浮の右手に向けて言った。
極印魔術師≠ェその出力をあげていた。今や黒のワイヤーフレームが『杖』の記号と『魔法』という意味を持つ文字列を描いていた。
「こうまで極印が勝手に動くとはな。一体何がどうなっているのだ。いくら我々の星体が人並み外れているとはいえ、無意識に発することなど考えられないのだが……」
麟自身は知識として、自分たちの扱う星体の量が常人よりも遙かに多いことを知ってはいたが、それ以上のことは考えたことがなかった。理由はいくつかある。一つは、自分たちが天使見習いであるということ。天使となるために天使養成機関スウェーデンボルグで鍛錬を続けているのだから、常人より強いのは当たり前だという思いがあった。もう一つは、麟自身が極印を何度も使用すると、体力を消費して動けなくなってしまうからだ。星体はほぼ無尽蔵でも、その制御や扱いに腐心しなければならない知恵の輪≠ヘ、昂や純の極印よりも神経を削る。他にもあるが、大体において以上のような理由で、麟は自らについてほとんど思考を巡らせたことがなかったのである。
麟はまだ自己の生い立ちを知らない。まさか自分の中に『星石』があるなどとは、考えたこともない。一度、盛大に星体を消費する昂をみて皮肉で──『星石』でも埋め込まれているのではなかろうか──と思ったことはあったが、それはあくまで思いつきでしかなかった。後に体力を使い果たした昂がぶっ倒れてしまったのもあるだろう。
「やはり何かしらの関係があるのだな……浮殿、試しに昂殿か純殿にテレパスで連絡をとってみて欲しい。私の考えが正しければ、反応はないはずだ」
浮は一つ頷くと、しばし沈黙した。五秒後、ゆっくりと首を横に振る。
「やはりな。昂殿も純殿も戦闘中であっても冷静なところがある。呼びかけには必ず応えるはずだ。それがないとなれば……」
麟は空を見上げた。
北。その方向から空気の震えが伝わってくる。背の高い建造物は全て薙ぎ払われ、残骸の山となっている。そのため炎の騎士≠ニ昆虫王≠フ姿は鮮明に見えた。
麟の目には、彼らがただ暴れ回っているようにしか見えない。そこに明確な意志は感じられず、まるで怒れる野獣がごとしだ。凶暴な本能が赴くまま、ただ目の前にあるものを破壊し尽くさんとしている。
「一体何があったというのだ、昂殿、純殿……」
まだ信じられない。あの二人があのような怪物になってしまったとは。彼らは一体何者なのだ。どのような原因と経緯があれば、少年が怪物に変貌してしまうというのだろうか。
しかし麟は目の前の現実を遮断し、夢や妄想に逃避するほど弱い少年ではなかった。
憐憫をたたえて揺れていた瞳が一転、鋭い光を発する。まなじりを決し、蒼穹の宝石がその意志の強さを示すかのように烈しく輝いた。
彼は背後の浮へ向き直り、
「浮殿、あれらは間違いなく昂殿と純殿だ。我々は彼らを正気に戻し、巫桜院蜜姫と共に連れ帰らなければならない」
浮は静かに頷く。
「だがそのための方法というと、恥ずかしいが何も思いつかない。今の私にはあれが何なのか、全く理解できない」
自嘲か、それとも自信か。自分でも良くわからない理由で、麟は口元に笑みを浮かべる。
「だが希望はある。一握りではあるが」
白衣のポケットからミラーシェードを取り出し、顔にかける。青い烈火のような瞳が隠れるが、全身から立ち上る凄味のある威圧感は少しも柔らがない。
ミラーシェードを浮の右手に向け、
「昂殿と純殿の変化に、浮殿の極印が反応した──私はそう見ている。魔術師≠フ能力は他者・他生物との交信であることは知っているが、実は以前から疑問に思っていたことがある。何故、聖子殿は浮殿に魔術師≠授けたのか、とな」
浮は黙って聞いている。今の彼の役目は、麟の立てた仮説を聞き、それと視える未来とを照らし合わせ、正否を答えることだった。
「不自然なのだ。浮殿は極印を必要としない。そんなものがなくとも、浮殿に勝てる者などまずいない。単体でカーネルと同等の能力を持っているのだからな。なのに極印を刻んだかと思えば、その能力はほとんど役に立たないものだった。浮殿はテレパスも持っているというのに。せいぜい動物と心を通わせることができるぐらいだろうか。そんなシチュエーションがそうそうあるものでもないというのに」
しかし、と麟は言う。
「あの聖子殿が無意味なことをするとは思えない。さらに言うなら、現状をこそ聖子殿は求めていたのかもしれない。我々をヴァイツェンへ送り込み、昂殿と純殿があのように変化することを。我々には何も知らせずに、な。女狐め」
少し本音が漏れた。麟は咄嗟に咳払いでそれを誤魔化した。
「可能性として最も高いと思われるのは、浮殿の極印が今の昂殿と純殿に何かしらの影響を与えるものだ、ということだ。つまり、テレパスは通用しないが、極印を通じての交信なら可能なのではないか、と思われる。どうだろうか?」
麟の確認に、浮は頷いた。
おもむろに右腕を上空へ向ける。すると、極印魔術師≠ゥら黒い紐状のものが飛び出した。かと思うとそれはみるみる内に伸び上がり、空へ駆け上がる。素晴らしい速度だ。
あっという間に黒い紐は高空まで到達し、蛇のようにうねりながら炎の騎士≠ニ昆虫王≠ノ近づく。途中で二叉に別れると、それぞれの先端が二体の一部に突き刺さった。いや、突き刺さったように見えただけで、実際には触れた箇所から内部へと浸透している。炎の騎士≠フ火炎で燃えないのは、黒の紐が極印の産物だからであろう。
「…………」
押し黙る浮を、麟は焦る胸を押さえながら見つめた。
やがて浮が口を開き、平淡な口調で、
「なんだこれわけがわからねえつうの。いったいどうなっているんでしょうからだがかってにうごいてしまうんです」
「……?」
「と、言っている」
「は?」
あんまりな内容に、麟は呆気にとられた。昂と純の意志を感じられたのは喜ばしいことだが、だからといって、もう少しタメになるような事は言えないのだろうか、あの二人は。
「そ、それだけか? 浮殿から何か言葉は送れないのか?」
「何を言えばいい?」
逆に問われて、麟は形の良いあごに白魚のような手をあてて考え込む。
「そうだな……自力で元に戻ることはできないのか、と聞いて欲しい」
「わかった」
浮が頷き、数秒が経過する。再び棒読みで、
「できるかこのちび。それよりありさんきいてくださいとてもきもちわるいものをたべてしまったんです」
「私をチビと言うなッ! ──誰が蟻だッ!?」
浮を通じてしか交信できないと知りつつも、麟は叫ばずにはいられなかった。怒りを発散させるように、肩を上下させて大きく呼吸する。
考える。
どうやら自力では戻れないらしい。ではどうすればいい?
魔術師≠ナ意思の疎通ができたということは、やはり万が一に備えて聖子は浮に極印を授けていたのだ。
基本的な発想は間違っていない。他に何か、見落としている方法があるはずだ。
鍵は魔術師≠セ。この極印で他に出来ることと言えば──
脳裏に閃いた単語を、麟は思わず叫んだ。
「──第二段階か!」
そういえば浮の極印の第二段階を自分はよく知らない。もともと使う必要がなかった極印だっただけに、おそらく浮自身も第二段階まで起動させたことはないだろう。
きっと、いや、間違いなく魔術師≠フ第二段階こそが現状を打破する唯一の方法だ。
そうでなければ聖子の行動が不合理なものになってしまう。合理主義を支持する彼女だから、そんなことは有り得ないのだ。
「浮殿、第二段階だ。極印の段階を上げれば、きっと何とかなる」
「わかった」
間髪入れず浮は承伏した。
浮の巨体から黒い光とも言うべき『闇そのもの』が迸った。暗い靄のようでありながら、影の塊のようでもある。それが稲妻の如く浮の全身を駆け巡り、徐々に右腕へと収束していく。
黒の線が成長するように伸縮、増殖を繰り返し、立体的になっていく。描くのは四枚の翼と、幾何学模様。
極印魔術師¢謫段階。
第一段階時に炎の騎士≠ニ昆虫王≠ニ繋がった黒の紐はそのままだ。当人達の意志を無視して街を攻撃し続ける二体へ、段階進化した魔術師≠ェ力を注ぎ込む。
今度は心の声ではない。
ある一定の特性を持った星体だ。
麟は静かにその様子を見守った。
成功すれば──いや、成功するはずだ。確信がある。これは出来レースだ。聖子か、あるいはそれ以外の存在か。何者かによって仕組まれた茶番劇なのだ。
麟の胸中に一つの炎が灯る。それは、聖子が内部で燃やしている炎と同種のものだ。誰かの掌の上で踊らさせられることに対する嫌悪感、である。
この試みが上手くいったならば確実だろう、麟は思う。聖子は必要な情報をこちらに渡さず、意図的に泳がせていたのだ、と。その時はいくら上司とて許せるものではない。再会したときにでも相応の償いをしてもらわなければなるまい。
麟が内心でそう決意したときだった。
頭上に影が落ちた。
「!?」
見上げる。
空一面を、巨大な暗雲が支配していた。それが陽光を遮り、焦土全体を闇に落としている。
暗雲の中心には炎の騎士≠ニ昆虫王≠ェ囚われていた。
紅蓮の斬撃も、空間断裂もない。二体は凍り付いたかのように動きを止めていた。
急速に暗雲がその身を縮めていくのを麟は見た。中心の炎の騎士≠ニ昆虫王≠ノ向かって闇色の靄が収束していく。
二体の異形は闇に呑み込まれた。
暗雲が消え去る一瞬前、滴のようなものを二つ、地上へ落とした。
その正体を麟はすぐに看破。指示を飛ばす。
「浮殿、昂殿と純殿だ! 回収して先程のホテルに戻ろう!」
「わかった」
浮は極印魔術師≠フ発動を解除、すぐに麟の指示に従った。
ホテルに戻り、ルームサービスで服と食事を調達し、麟は二人から事情を聞いた。
二人とも変貌時の記憶があった。
「なんつうかよ、体がこう勝手にカーッって熱くなったと思ったら、いてもたってもいられなくなってよ」
体が勝手に暴れたのだ、と昂は言う。
「僕なんてとても気持ちの悪いものを食べてしまったんですよ? 今でも思い出すと──」
話している途中で純は口元を押さえて、トイレへと走っていった。彼のファンには見せられない光景である。
しばらくして戻ってきた少年が──胃液を洗い流してきたのであろう──水に濡れた『星石』を手にしているのを見たとき、麟は思わず目を丸くしてしまった。
「純殿、どこでそれを!?」
「……すみません、昂君に聞いてください」
蒼い顔で、話したくなさそうにする純。仕方なしに昂へ視線を向けると、
「バトライザーのオッサンだよ。純の奴、喰っちまったんだよ、そのオッサンを」
意地の悪い笑みを浮かべる。
「喰った……? 手がつけられなかったと言っていたバトライザーを、喰ったというのか?」
新兵器を装備したバトライザーが、どのような変化を遂げたのかは既に聞いている。話に聞いただけでもとんでもない変貌ぶりだった。
麟が推測するに、バトライザーに起こったのは『星霊憑き』と呼ばれる現象だろう。理論上の話ではあるが、『星石』がアトレイユタイプの脳として機能するように、大量の星体を濃縮させるとそこに意志が生まれる可能性がある、と言われている。そうやって生まれる意志を学術的には『星霊』と呼んでいるのだ。
おそらく『星石』の活用によって生まれた星体が、バトライザーの体内で濃度を増し、一種の『星霊』を発生させてしまったのではないだろうか。
『星霊憑き』は、星体に体を犯された人間が行き着く終着点だ。事故か、あるいは故意にか、常識を逸した星体を浴びてしまう人間がごく稀に現れる。
その時に起こる現象が『星霊憑き』だ。
肉体に異常としか言えない症状が出て、精神が汚染され、最後には狂死する。この時の精神状態が別人格のようになってしまうので、星体の濃縮によって何らかの意志が生まれたのでは、と言われているのだった。
バトライザーのケースでは有り得ない防護力と、不死に近い肉体再生能力。高出力のレーザーに、それに耐える骨格と筋肉。そして口調の変化。
おもしろいほど『星霊憑き』の症例にあてはまる。
「カーネル以上の化け物だっただろうに……いや、あの時の昂殿と純殿の方がよっぽど、だったか」
あるいは炎の騎士≠ニ昆虫王≠ウえ現れなければ、『星霊憑き』のバトライザーは地上最強の存在だったかもしれない。
とはいえ、どのみち彼の行く先には、死が口を開けて待っていただろうが。よしんばカーネルを倒せたとしても、その直後には肉体が星体に分解され、消滅していたに違いない。
テーブルについてルームサービスの料理を平らげる昂と、その横でコーヒーカップを前にしてうなだれている純は、スウェーデンボルグの制服を着ていない。バトライザーのレーザーに耐えきれず、防護結界ごと消滅してしまったらしい。今は同じくルームサービスで取り寄せた普通の格好をしている。目立たぬよう、二人とも黒を基調にした服を着ていた。
また純の左腕は完全に再生していた。バトライザーのレーザーによって消滅したらしいのだが、おそらくは変貌による副作用だろう。人間の体があのような異形になってしまうのだ。元に戻ったときに怪我や病気が完治していたとしても、なんら不思議なことではないだろう。それ以前の時点で、事態は常識の範囲を逸脱しているのだから。
麟は広げたハンカチの上に受け取った『星石』を見つめた。
小さい。吹けば飛んでいってしまいそうなほどだ。こんな小さな物にアトレイユタイプ一体分の心と記憶が入るのか、と麟は驚嘆する。赤黒く、血を固めたような色合いが少々不気味だった。
「まぁいい。昂殿と純殿の件に関しては帰ってから聖子殿に確認すればいいことだ。まずはこの『星石』を巫桜院蜜姫嬢に戻さねばな」
食事に夢中な昂と、俯いて『この僕が男性を食べてしまうなんて……』と呟いている純は、完全に麟を無視していた。別段、麟も反応を期待していたわけではないので、やれやれ、と呟くと、浮を連れて蜜姫の部屋へ身を移した。
そこでファーブルと鉢合わせした。
「「──!?」」
互いの視線がかち合う。
ファーブルは部屋の中に潜んでいたわけではない。麟が入室したのとほぼ同時に、瞬間移動で忽然と現れたのだ。
少女が驚きに息を呑むのに合わせて、麟は行動していた。
如意宝珠を取り出しブックファイルへと。左手で素早く一枚の紋盤を取りだし、ファーブルに突きつける。
「大人しくしてもらおうか、スパイ殿」
「あ、あんた……!? なんでここに……!?」
ファーブルの疑問を、麟は冷たく無視した。
「超能力は使わない方が良い。こちらの浮殿は貴殿よりも上等な超能力者だ。断言するが、貴殿では絶対に勝てない」
ファーブルの実力の程は昂から聞いている。前回は如意宝珠を奪われたために不覚をとったが、今回はそうはいかない。
「前にも言ったが、安心して欲しい。命までは奪わない。貴殿の中にある情報を少しいじらせてもらうだけだ。抵抗するだけ無駄なので、手間を取らせないでいただきたい」
「……っ!」
屈辱によるものか、ファーブルの頬がさっと紅潮する。
「巫桜院蜜姫のボディを使って何を企んでいるのかは知らないが、我々としても彼女を奪われるわけにはいかないのだ。悪いが諦めてもらおう」
麟の右手の極印知恵の輪≠ェ発動した。蜜姫にも使用した情報破壊の光が、煌々と室内を照らす。
ベット脇に立つファーブルが威圧感に押されるようにして、一歩退いた。
下手に刺激すると逃げられるな、と麟は読む。昂と純は呼ばない方が良いだろう。
「あんたたち……」
ぽつり、とファーブルが言葉を作った。
「……?」
怪訝に顔をしかめながら、麟は警戒を怠らない。背後の浮もいつでも指示に従えるよう、構えてくれていることだろう。
「あんたたち、一体何なの? 何がしたいのよ? どうして輪廻歴史を狂わせようとするの?」
いっそ懇願かと思うほど、少女の声は弱かった。
しかし麟には彼女の言っている意味がわからない。
「……何の話だろうか」
「とぼけないでよ。さっきの化け物、あんたたちの仕業なんでしょ? なに? 龍日の天使ってああいうことまで出来ちゃうんだ? それとも全員が未来の兵器なの?──冗談キッツイわよ!」
いきなり上がった怒声に驚くほど麟も浮も油断していない。麟は目まぐるしく思考を回転させる。
未来の兵器? 何の話だ? 先程の昂殿と純殿が変化した炎の騎士≠ニ昆虫王≠指しているのはわかるが……未来の兵器だと? しかも我々の目的『輪廻歴史の破壊』を知っているとは……どういうことなのだ?
「あんたたち、一体誰の差し金なのよ?」
ぎくり、とする。ファーブルの言っている『誰』とは少なくとも天帝を指してはいない。別の誰かのことを聞いている。麟達の直属の上司──即ち聖子のことを尋ねているのだ。だが、何故そんなことを聞く? この女、何を知っているのだ?
麟は努めて冷静に、
「話が見えないのだが──」
「とぼけないでって言ってるでしょ! 輪廻歴史を壊して何がしたいのよ、あんたたちは!」
激情がファーブルの全身を包んでいた。
麟が女性を嫌う理由の一つに、女は感情に酔いやすい、というものがある。今のファーブルがまさにそれだった。自分勝手な義憤で熱くなっているのだろう。麟にとっては迷惑極まりない話だった。
内から湧き出る感情に駆られたまま、ファーブルは大きな声を張り上げる。
「カーネルから聞いたことがあるけど、輪廻歴史を否定する奴って大抵『繰り返しがつまらないから』とか言うそうね。でも、それの何が悪いの? いつも安定した未来がきて、安心できる歴史が作られるのよ? そこにはちゃんと頑張っている人達の意志があるし、幸せだってあるじゃない。なんで? どうしてそれを壊そうなんて考えるのよ? あんなものまで持ち出して、たくさんの人を殺してまで!」
ファーブルの指が窓を指した。その向こうに広がっている風景は、ほんの数時間前と比べて激変している。背の高い建物は姿を消し、至る所から煙が立ち上り、そこら中を救急車や救助活動をする人々が走り回っている。死傷者の数は決して少なくないだろう。
惨状だった。
一気にまくし立てたせいか息を切らしながらこちらを睨むファーブルを、麟は静かな瞳でじっと見つめた。
彼女の言っていることは唐突すぎて訳がわからなかったが、そこに込められた気持ちはよく理解できた。彼女は輪廻歴史を肯定する人なのだ。輪廻歴史を尊守し、安全な道を行って幸せを掴むことを良しとする人種なのだ。
それが悪いとは、麟は思わない。分かれ道に立たされたとき『右へ行けば少なくとも安全が保証されるが、左へ行くのなら何の保証も出来ない』と言われれば、ほとんどの人間が右へ行くことだろう。それは決して愚かなことではない。もてる知識を有効に活用し、危険を回避する利口な生き方だ。だから麟は輪廻歴史に沿って生きていく人々を否定するつもりはない。
だが麟は違う。麟自身はその生き方を良しとしないのだ。
「何故そんな話を始めたのかはわからないが……我々は輪廻歴史が悪だと言うつもりはない。ただ好きではない。それだけだ。同じ事を繰り返したり、前と同じ自分をまたやるのは飽き飽きしてくるだろう。だから、我々はおもしろおかしく愉快に生きたいと思う。それはそんなにおかしいことではなかろう」
「じゃあ!──じゃあ、もしそのせいで終わっちゃったらどうするのよ? 歴史が輪廻しないで、何もかもが全部終わっちゃって、新しく始まらなかったらどうするのよ!?」
弾けるように反駁したファーブルに、麟は決して平静を崩さずに答えた。
「我々の選んだ道の先にたとえ滅びが待っていようと、別にかまいやしない。どうせ滅びるならいっそ楽しく滅びたいものだ。別段、滅びて困ることなどないだろう。滅びるのだから。極論、貴殿らの言っていることもただの希望、ただの願望だ。安全を約束された世界で、安穏と暮らしていきたい──とな。我々の言い分を自分勝手というなら、貴殿らのもそうだろうよ」
鞭で背中を打たれたような顔を、ファーブルはした。麟はその表情の理由を知らなかったが、それは後になって、昂と純の話を聞くことで明らかとなる。金髪の少年は、赤毛と黒髪の少年らと同じ事を言っていたのだ。
「みんなが……世界中の人が望んでいても、なの?」
もはやファーブルの問う声は静謐だった。確認するような質問。
「知ったことではないな。誰よりも、私自らが望んでいることだ。そして、自分は自分の味方でしかない」
それは輪廻歴史を肯定する人間に対する、決別の言葉だった。
他人も、世界も関係ない。重要なのは自分の意志だ。輪廻歴史など屁でもないのだ、と。
静かだが帯電しているような空気の中、対峙の時間が過ぎていった。
静寂を破ったのは、隣の部屋から飛んできた昂の声だった。
「ンだよ、さっきからうっせえな。そっちで何やってやがんだ?」
それが引き金になった。
「──だったら戦うしかないわね!」
ポニーテイルを翻して少女が吼え、両腕を構えた。念動力が来る。
「望むところだ……!」
麟の左手の紋盤が回転を開始した、その時。
戦闘の火ぶたが切って落とされようとしたその瞬間、ファーブルの姿が蜃気楼のごとく掻き消えた。
──瞬間移動か!
「浮殿、捕縛を!」
瞬時に判断して指示を飛ばす。だが、
「無理だ」
と浮は言った。
その言葉の意味をすぐに理解できなかった麟は、周囲に警戒の目を光らせながら、
「……なんだと?」
肩すかしを食らったような気分で浮を振り仰ぐ。
並の超能力者の瞬間移動は視線の届く範囲に限られているはずだ。それが何故、浮ほどの実力者に補足できないのか。
麟がその疑念を口にするまでもなくわかっていたのか、浮は頭を下げ、
「今のはカーネルが連れて行った。遠すぎて捕縛はできない。すまない、麟」
「カーネルが? ああ、いや、こちらこそすまない、浮殿。貴殿を責めているのではないのだ」
麟は慌てて彼の面を上げさせた。そして紋盤をブックファイルに戻し、如意宝珠に変えて懐へしまいながら、麟は思考の淵に足を踏み入れる。
──カーネルがわざわざ手を出してきたというのか? これまでの事を考慮すると、手出しはないと思っていたのだが……
遠距離の瞬間移動はそれなりに体力を消耗する、と浮も言っている。また、自らを転移させるならともかく、他者を強制的に転移させるのは非常に難しいとも聞く。O.B.Kを統治し、他のメンバーともやりとりをしているだろうカーネルに、そんな余裕があるのだろうか。それとも、あの少女にはそれだけの価値があると……?
なにはともあれ、相手方のスパイに情報を持たせたまま、みすみす取り逃がしてしまった。その点が素直に悔しい麟だった。
「──なぁ、おい。さっき、そこにクソ女がいなかったか?」
ひょい、とスプーンをくわえたままドアの縁から顔を出した昂に、麟も浮も無言の視線で応対した。
あれだけの声量で交わされていた会話を、ほとんど聞いていなかったようだ。気を抜くにもほどがある。ここはまだ敵地だというのに。
二人の態度は冷然を極めた。
「さてな、気のせいではないか? あのような姿になってまだ間もない。昂殿は寝ぼけておられるのだろう」
「うざい」
慇懃に失礼なことを言って肩をすくめる麟に、吐き捨てる浮。
「? ? ?」
目をぱちくりさせる昂は、確かに麟の言うとおり、大分気が抜けているようだった。
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