「どうして邪魔したのよっ!」
狭い部屋にファーブルの怒声はよく響いた。
O.B.Kの本拠地は、元はビジネスホテルであった場所をほとんどそのまま利用している。柔らかなクリーム色の室内に、落ち着いた色合いの調度品がいくつか。ベッドと机、クロゼットにトイレと浴室。必要最低限のものがある、ベーシックな部屋だった。
ファーブルの声による衝撃を受けたのは、質素な椅子に腰掛けた幼い少女である。透き通る絹のような長い白髪に、白磁のような肌を持つ。その瞳は色素の欠乏した赤。
O.B.K代表、カーネル。
表情のない、ルビーの色を少し薄めたような瞳が静かに、怒った猫よろしく肩をいからせるファーブルを見つめている。
「…………」
ふぅ、と小ぶりな唇から息をつく。
つまらなさそうな態度はカーネルの常である。感情が欠落しているのではなく、感情表現が欠乏しているのだ。喜怒哀楽、どの時もカーネルの表情はほとんど変わらない。実はその都度、微妙に変わっているはいるのだが、それを見極めることの出来るメンバーは数少ない。ファーブルはその稀少な人物の一人だった。
「何よ! 言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ! 他人を哀れむような目で見るなんて失礼じゃない!」
自らの盟主に対する敬意など微塵もない。少女は激怒のあまり我を忘れていた。
──どうしてあんな無理矢理な方法で自分をO.B.Kまで連れ戻したのか?
それについて彼女は憤怒しているのだった。
「ファーブル……」
「何よッ!?」
怒鳴り声に大気がビリビリと震動した。カーネルのささいな呼びかけだけでも、彼女は火中の栗の如く弾ける。それほど怒っていた。
ヴァイツェンのホテルで、金髪チビと白髪巨人に啖呵を切って、さあこれからだ、という時だったのに。
気が付けば、カーネルが常駐しているこの部屋にいた。
勝手に転移させられたのだ、と理解したときの絶望たるや。
刹那、目の前が真っ暗になったかと思うと、次の瞬間には頭の中が真っ白になるほどの怒りが噴き上がり、全身を衝き動かしていた。
「あなたの意志を無視したことは謝罪します」
表情筋をほとんど動かさないカーネルだが、声の抑揚だけはちゃんとある。その声は確かにすまなげで、彼女の気持ちを十分に聞き取れるものだった。
しかし、今のファーブルはそれだけでは収まらない。
「頭下げりゃいいってもんじゃないでしょ!? あたしは〈公約〉を破ってもいないし、ホットラインがあるからそう簡単にやられなかったし、第一あのアンドロイドの子は一体どうするってんのよッ!」
カーネルが実際に頭を垂れたわけではないが、彼女が謝罪すると言うことはO.B.Kそのものが低頭するのと同義だ。だが怒り心頭に発しているファーブルはそのことに気付かない。それよりも少女にとって重要だったのは、不幸な巫桜院蜜姫をこの手で救えなかった、という一点に限られていた。
「はい……あなたは〈公約〉を破ったわけではありません。そのあなたの自由意志を無視したことを、本当に申し訳なく思っています。どうか許してください」
O.B.Kのメンバーの間には〈公約〉というものがある。カーネルを含め、O.B.Kに属する者全てが守らなければならない約束事である。その中の一つに『非常時、あるいはO.B.Kや他者に迷惑や害を及ぼさない限り、メンバーの自由意志は尊重される』というものがある。
ファーブルはその〈公約〉を破ったつもりはない。守っているはずだった。
そう。ファーブルの行動はO.B.Kや他者に迷惑や害を及ぼすこともなく、それどころかヴァイツェンの人々の避難を助け、救護活動を行い、また幾多の情報をカーネルの元へ届けるという、立派なものだった。さらには不幸なアンドロイドを救おうとさえしていた。しかし、カーネルはその行動を妨げた。ほとんど力ずくで、無理矢理なやり方で。
その上、謝罪すると言うことは、ファーブルを呼び戻したのが緊急の用件ではなかったことを示している。
ならば何故、勝手に転移などさせたのか──ファーブルの赫怒の炎に油が注がれていく。
「あたしが聞きたいのはそんな言葉なんかじゃないッ! どうしてあたしの邪魔をしたのよッ!? どうしてッ!?」
掴みかかって締め上げない程度には、まだ理性が残っていた。だが、カーネルの返答次第ではそのたがすら飛んでいってしまうだろう。
カーネルは白い衣服を身に纏っているため、ほぼ唯一の色彩である瞳がよく映える。透き通る二つの赤が、悲しげにポニーテイルの少女を見つめていた。
「…………」
無言のまま、不意にカーネルが立ち上がった。小さな椅子から腰を上げ、一歩、前へ出る。
何度も怒鳴っていたため、荒い息を繰り返していたファーブルは、
「……?」
一瞬、怒りを忘れ、訝しげにその様子を見入った。カーネルが何をするために立ち上がったのか、すぐにはわからなかった。
だが、カーネルが床に膝をついた瞬間、ファーブルはその意図を爆発的に理解した。
「……!? ちょっ──やめてよカーネル!」
慌てて駆け寄り、カーネルの行動──土下座を制止した。
怒りが吹き飛ぶほどの驚きだった。まさかカーネルが地に額をこすりつけようとするなんて。
顔から血の気が引いていくのが自分でもわかった。我に戻り、自分が一体何を言っていたのかを理解したのだ。そして、カーネルのとった行動の意味も。
「ですが……」
カーネルが小さな声で言う。ファーブルはその声音に頭を殴られたような気がした。彼女の声は、明らかに震えていたのである。
「私は、あなたの自由意志を踏みにじりました。謝罪することしかできないんです……」
俯いたカーネルの顔をのぞき込んで、ファーブルは愕然とした。呼吸が止まり、心臓を鷲掴みにされたかと思うほどの痛みがあった。
カーネルの瞳から、涙がこぼれていた。
これまで燃えていた怒りの炎が、水をぶっかけられて消えてしまった。そして悔恨の念という紙が、残った水を吸って重たくなっていく。
謝罪を受けているファーブルの方こそが、逆に頭を下げなければいけない気になってきた。
「ご、ごめん、カーネル……あたし言い過ぎた……」
カーネルの手首を掴んで土下座を遮っていたファーブルは、萎んだ風船のように肩を落とす。
カーネルは涙に濡れた頬をあげた。その美しい瞳は、驚きに軽く見開かれている。
「そんな、あなたが謝ることではないのです。私は……」
なおも言い募ろうとしたカーネルに、ファーブルは大きくかぶりを振った。
「ううん、ごめん! そうよ、カーネルはあたしを助けてくれたのよね。どうせあのままやってても負けるのは目に見えてたし……だからここに連れてきてくれたのよね? あたし、そんなこともわからないで……」
カーネルという生きた伝説ともいえる存在の涙に、少なからずファーブルは動揺し、狼狽えていた。おっかぶせるような早口で言って、カーネルの口を塞ぐ。
「だから、ごめんなさい、あたしが悪かったわ。カーネルはあたしのためを思ってやってくれたんだもん、責めるのは筋違いだったわ。本当にごめんなさい。カーネルは何も悪くな──」
カーネルの人差し指が優しくファーブルの唇に触れた。それだけで、ファーブルの唇筋は動くのを止めてしまった。
涙に濡れた赤い瞳が、しっとりとファーブルを見上げていた。するり、とカーネルの両腕が伸びて、ファーブルの首に回る。
抱きつかれた。
怒りではない理由で、頭の中が真っ白になる。
「……カーネル……?」
「ごめんなさい……ごめんなさい、ファブリッツィア……」
ファブリッツィア。そう呼ばれた瞬間、あ、まただ、とファーブルは思った。
それは、ごくたまに生じる、カーネルとファーブルとの『ズレ』だった。
カーネルはファーブル自身が知らないファーブルの過去を知っている。しかし、ファーブルが記憶喪失というわけではない。
彼女がカーネルだからだろう、とファーブルは思っている。
カーネルとは、名前であり、役職であり、地位を示す単語だ。
そしてカーネルは、カーネルになった瞬間から、カーネルでしかなくなる。
そのことを誰も理解できないし、考えもしない。だが、それは絶対的な法則だった。カーネルとなった者は、その瞬間から過去現在に至るまで【カーネルだった】ということになる。
つまり、カーネルになる直前までの記録、人格は全て『カーネル』に塗りつぶされてしまうのだ。
それは無論、カーネル以外の他者の記憶も例外ではない。たとえ過去に、今のカーネルがどのような名を名乗っていたとしても、その記録および記憶はどこにもない。他でもない本人の記憶の他には、どこにも。例え世界中の人間の頭を開いても出てきはしないのだ。
だが残酷なことに、カーネル本人は自らの過去を覚えている。
それ故に、カーネルとその周囲の間には微妙すぎる『ズレ』が生じる。互いの持つ記憶がかすかに違っていたり、場合によってはあったはずの事がなかった事にされていたりする。
その『ズレ』が消え、全ての記憶が元に戻るのは、今のカーネルがカーネルでなくなった時だけだ。それは即ち、今のカーネルの消滅を意味する。そのため、ファーブルが『ズレ』によって生み出される今のカーネルの悲哀を理解するのは、遅すぎることに、彼女がいなくなってからなのだ。
ファーブルに抱きつく、と言うよりしがみつき、肩を震わせて泣く少女。ファーブルはそんな彼女の本当の過去を知らない。というより、思い出せない。わからない。昔から一緒にいた記憶はある。だが、ファーブルの記憶の中では彼女はいつでも『カーネル』だったのだ。
「ごめんなさい……あなたは覚えていないかもしれないけど、私にとってあなたは大切な人なの……だから、だから……!」
小さな子供をあやすようにファーブルはカーネルの背中を何度も撫でる。そうしながら、ぼんやりと思う。
彼女はきっと、いつもは仮面をかぶっているのだ。『カーネル』という仮面を。だが、時折、堪えきれなかったものがこうして心の堤防を打ち破り、こぼれてしまうのだ。
「視えたの、あなたがあのまま戦っていたら、捕まってひどいことをされるって。記憶を消されてしまうって。もしあなたがこれ以上私の記憶を失ってしまうのかと思うと、私、怖くて、私……!」
泣きじゃくるカーネルの口調には、いつもの凛とした面影が微塵もなかった。
なるほど、ただでさえ過去のカーネルの記憶を失っている自分が、さらに昔のことを忘れてしまうと思ったのか。そう考えてファーブルは微笑した。そう、笑ったのである。今、腕の中にいるのはO.B.Kという集団の代表ではなく、自分自身という存在が忘れ去られることを恐れる、一人の少女だった。母のような、姉のような気持ちになって、カーネルを優しく抱きしめる。
「ごめんね、カーネル……ありがとう」
カーネルは良い香りがする。さらさらの白い髪に顔を埋めて、ファーブルはそう思う。
過去のことはよくわからない。カーネルも自分も見た目は幼いが、それなりに長い年月を生きてきている。なんだかお互い成長してないみたいだな、とファーブルは少し可笑しくなった。
ファーブルは出来うる限りの優しい口調で、
「カーネル、あたしもね、カーネルが大切よ。覚えてなくてごめんね。でもあたしとカーネルは今でも親友よ、そうでしょ? 助けてくれてありがとう。それなのに怒鳴ったりなんかして、ごめんね」
そうだ。ファーブルがヴァイツェンに捕まったときも、きっと彼女は助けようとしてくれたはずだ。だが、カーネルとしての地位と役職が理性に働きかけ、それを阻止したのだろう。だが先程は、どうしようもない気持ちが沸き起こり、つい助けてしまったのだろう。だから彼女は泣いて謝罪しているのだ。カーネルなのに、勝手なことをしてごめんなさい。〈公約〉を破っていないあなたの自由意志を踏みにじってごめんなさい、と。
「いいえ、わかってくれたらいいのです」
「……は?」
いきなり飛び出した明晰な声に、ファーブルは目を点にした。
腕の中、カーネルがするりと抜け出て、立ち上がる。そのまま後ろ向きに歩いて、椅子に腰を下ろすと、
「今はまだ、あなたを失うわけにはいかないのです。とにかく、あなたが無事で良かった」
服の袖でごしごしと涙を拭いながら言うのである。
照れ隠しだというのは一目瞭然だった。だが、ファーブルは敢えてカーネルのつくった空気に乗ってやることにした。
「な、なによそれぇ!? 今の嘘泣きぃ!? あたし泣き落とされちゃったってわけぇ!?」
「ふふっ、まだまだ甘いですよ、ファーブル」
くすっ、と笑うその目の周りは赤かった。心なしか、頬にも朱がさしている。
カーネルは、ぐすっ、と鼻を鳴らすと、
「ああ、そういえば、結局お菓子を残しておいたんです。お詫びと言っては何ですが、これから一杯ごちそうしましょうか?」
優しい声。第三者からすれば無表情にしか見えないだろうが、それでもファーブルには、カーネルが微笑んでいることがわかった。
ファーブルはカーネルが大好きだった。だから、そんなところも可愛いな、と思う。
つられるように口元を綻ばせ、
「ったく、しょーがないわねぇ。美味しくなかったら怒るわよ? 自信ある?」
「ええ、私、これでもカーネルですから」
「いや、それ意味わかんないから」
そう言って笑い合いながら、ふと、ファーブルはヴァイツェンに残してきたアンドロイドを思う。
──あの子、今頃どうなっているかしら? あの四人、そんなに悪い奴じゃないみたいだったから、大丈夫だとは思うけど……
そう思った瞬間、赤毛サルの文句や、金髪チビの冷たい態度を思い出して少し血圧が上がる。
──前言撤回、すごいムカツク奴ばかりだったわ。でも、まあ、女の子にはそれなりに紳士的な対応とるでしょ。いくら輪廻歴史を壊そうとしているにしても。
自分と色々あったのは事情が事情だったからだろう、と結論づけて、ファーブルは小さく溜息をついた。何にせよ、今更どうにもならないのだ。
「? どうしたのですか、ファーブル?」
「んー? ああ、いや、別に何でもないわよ、こっちの話。あ、それよりさ、あたし色々と話さなきゃいけないことがあるのよね」
「そうなんですか? では、お茶会がてら聞きましょうか」
「うん。んじゃ、食堂行こっか?」
「ええ」
扉に向かって歩き出したファーブルの背に、カーネルの小さな呟きが、ぽつん、と当たった。
「……『お母さん』の件もありますしね、ゆっくりと……」
「…………」
カーネルは最強の超能力者だとファーブルは思う。
今だって、ほら、念動力も使わずに自分の動きを止めてしまったのだから。
当然だが麟の極印知恵の輪≠ノも第二段階がある。
本人命名の賢者の石≠ェそれである。
形状はまず他の三人と同じく、四枚の翼となる。特筆するべきはその翼の大きさだろう。他の三人のものよりも倍以上の長さを誇る。
その四枚の翼が丸まり、折り重なることによって繭を作る。
その繭の中で起こるのは、凄まじいまでの情報制御と圧縮、そして物質化である。
この世の全ては情報の塊である。仮想現実に実体を与えるだけで現実となる。逆に言えば、現実を非実体化させれば仮想現実となる。即ち、現実と仮想現実の相違は実体のあるなしでしかない。となれば、現実に匹敵する情報量を集め、あるいは創成し、そこに実体を与えればよい。星体という実体を。それが賢者の石≠フ機能。
わかりやすく簡単に言ってしまうと、繭の内部に思い描いたとおりの物体を創製する事が可能なのが賢者の石≠ナある。
原理は如意宝珠とほぼ同じだった。と言うよりも、如意宝珠こそが賢者の石≠ノよって生み出された劣化版であった。
どちらも物理法則の原理を知り、物体の構造を思い浮かべることが出来れば、星体によってそのものを形作ることが出来る。
賢者の石≠熹@意宝珠も星体を物質化させることにより、持ち主の意に沿った物を創り出すことが出来るのだ。
この極印のおかげで麟は理論と設計図さえ完成させてしまえば、それを実現させる技術力を必要としなくて済んでいる。理論は完成していても現実には作製不可能な物が多くあるが、それすらも麟の賢者の石≠ノかかれば障害など無きに等しかった。
今も丁度、賢者の石≠発動させ、彼は失われた如意宝珠を再作製していた。昂と純が戦闘の最中に失ってしまったのである。昂のはファーブルに奪われた後、バトライザーとの戦闘において砕け散ったらしく。純のも、同じくバトライザー戦でレーザーキャノンによって消滅したとのことだった。
如意宝珠を二つ作製すると、賢者の石≠ヘその身をほどくようにして麟の腕から離れ、空気中へ溶けていった。後に残るのは、赤銀と青銀のメタルプレート。
麟は身をかがめると、それらを拾い上げる。
彼は今、単独でホテルの寝室にいた。ヴァイツェンを出る前に新たな如意宝珠を作製しなければならなかったのだ。
賢者の石≠フ発動時は誰にも見せないことにしている。特に理由はなく、あるとすれば職人としての矜持のようなものだろう。自らの仕事を他人に見せる気になれないのだ。
「これで良かろう。昂殿と純殿には後でしっかり灸を据えてやらねばな」
賢者の石≠ェある限り材料費もかからない上、かかる手間も客観的には微々たる物だ。
だが、麟本人にしてみれば非常に疲労感の強い作業だった。
知恵の輪≠セけでも十分に神経を削り、体力を消耗するのだ。賢者の石≠ニもなると、どれほど神経をすり減らし体力が失われていくか。それはもう知恵の輪≠ニは比較にならなかった。麟としては、出来ることならばやらずに済ませたい仕事の一つだった。
文句の一つでも言わなければ気が済まない。
例外的に、新しい物を開発するときだけは嬉々として賢者の石≠発動させる麟だったが。
手筈通りに浮が聖子にテレパスで連絡をとると、空に浮かぶ龍日では四人が予想だにしなかった事態が起こっていた。
寝室から出てきた麟を合わせて、浮の報告を聞いた少年達は一斉に驚いた。
「聖子殿がスウェーデンボルグを抜け出した?」
「んだと!?」
「それは本当なんですか、浮君?」
三者三様の声があがる。
浮は背中に乗せた巫桜院蜜姫の体を落とさないようにかつぎ直しながら、純の確認に頷き返した。
アトレイユタイプのアンドロイド、巫桜院蜜姫の意識はまだ戻らない。麟がいくつかの回路を情報負担によって焼き切ってしまったためだ。彼女が目覚めるためには、技師による修理が必要だった。ただ、『星石』を取り戻したため、肉体が腐敗する心配がないのが幸いである。彼女は龍日に戻った後に修理を行い、それに伴って記憶の整理と心のケアをする予定だった。
しかし、世の中はなかなか予定通りにはいかないらしい。
「何かあったのかよ? 後で抜け出すつうのは聞いてたけどよ、随分はえーじゃねえか」
昂が聞くと、浮は首を横に振り、
「合流したときに話す、と言っている」
昂、純、麟はそれぞれの顔を見合わせた。
何が起こったのかはわからないが、あの片桐聖子が動いたのだ。何かとてつもないことがあったのだろう。おそらく、テレパス越しでは説明できないほどの何かが。
少年達は一斉に頷く。
「浮殿、合流地点は?」
「連れて行く」
浮がぶっきらぼうに左手を差し出した。麟はその手に自分の掌を乗せ、昂と浮は手首の裾を掴んだ。
瞬間移動する。
龍日は空中に浮かぶ巨岩の上に建つ国である。
空を飛ぶ天然要塞とは誰が言ったことか。地上から十キロメートル以上の高空に浮遊する、直径五百キロを超える円盤形の大陸。それが神威天照帝が統べる国、龍日である。
原則的にはヴァイツェンの南方に位置し、そこから動くことはほとんどない。そう、龍日という浮遊大陸は空中移動を可能とし、風に流されることなく常に特定の座標を維持することが可能なのだ。その気になれば着陸することも出来る。
本来、龍日があるべき位置はヴァイツェンよりも東、それも標準世界地図で言えば右端にあたる。その地域は現在『龍の巣』と呼ばれる盆地になっていて、龍日の姉妹国である『牛月』という小国がある。真相は不明だが、その国を治めているのは天帝の兄妹と言われ、名を『東方水湖王』という。だが龍日の天帝にならい、実際には『地王』と呼ばれることが多い。
龍日が空中都市となった時機は正確にはわからない。それに関する記録が失われてしまっているのだ。龍日は二千年ほどの歴史を持っているが、その中に大陸が浮上したという記載はないため、少なくともそれ以前に浮上したと考えられている。
よって、浮上した大陸に龍日という国が建ったのか? それとも、龍日という国が大陸ごと浮上したのか? その問いに対する答えは、今なお調査中である。
そして、何故ここまで巨大な大陸が浮上したのかもまた、謎に包まれている。
原理としては、天然星体装置とでも言うべき風穴が大陸の周囲に何千・何万と空いていて、それが空気中の星体を呼吸し浮力を得ているのだという。これは龍日の天帝による公式発表なのだが、一つ大きな穴がある。真偽はともかく、確かに巨大な大陸が滞空し続け、移動が可能である説明にはなっているのだが、これだけでは浮上の理由にはならないのだ。これほどの質量を持つ物体が、上空十キロまで上昇するには途方もないエネルギーを必要とする。それはどのような経緯によって持たされたのか、また、そのエネルギーの正体は何なのか。そう、かつて過去にいかなる地殻変動が起こり、一つの大陸が空中に浮いたのか、それらは未だに謎のままなのである。
現在、ヴァイツェン南方の海上に位置しているのは、パンゲルニアと睨み合うためだと言われている。パンゲルニアは間に四つの小国を挟んで、ヴァイツェンの北に位置している。移動が可能である龍日にすればまさしく指呼の距離であり、大国パンゲルニアに対する強烈な威圧になっていた。
またヴァイツェンをパンゲルニアとの間に置くことにより、かの大国が直接的に手を伸ばしてくるのを避けることが出来る。有事の際には、ヴァイツェンは龍日の盾になるはずだった。
龍日はその特性上、不法入国というものがまずもって不可能と言われている。遮蔽物のない開けた海上を飛ばねばならず、そうすると簡単に国境警備隊に発見されてしまう。我が国にスパイはいない、とは天帝の言葉でも有名なものの一つだ。
だが逆に、出国は容易だった。物理的な隣国がないため、国境警備の目は他国のそれに比べれば少ない。また警備員の視線は主に外側に向けられているため、内側の動きには存外脆いのだ。
そんな隙をついて聖子は龍日を脱出してきたのだという。
何かが起こった、という四人の予感は当たっていた。
細村がバイブレーターのようにひどく震えていた。表情は真っ白で、視点がまるで定まらない。部屋の隅に向かって座り込み、ぶつぶつと何事かを呟き続けている。
ひどい事件があったのだ、と少年達は共通の見解を得た。
場所はヴァイツェンの南端にある海岸線沿いの街シーブレイーズ。その一角に建つ観光ホテルの一室に六人と一体はいた。
昂、純、麟、浮の駄天使四人組に、上に元がつく天使養成機関スウェーデンボルグ機関長の片桐聖子と、その補佐役である細村悟、そして龍日の貴族であるアンドロイドの巫桜院蜜姫。
言い換えれば、ヴァイツェンの首都ガングニルを壊滅状態に追い込んだテロリスト四人に、力ずくで龍日の国境を越えてきた反逆者二人に、禁忌の存在であるアトレイユタイプが一体。
そうそうたる顔ぶれだった。
まず麟が口火を切った。
「それで、聖子殿。一体何があった?」
細村と蜜姫以外の全員がリビングのソファーに身を沈めていた。細村は部屋の隅に。蜜姫は寝室のベッドに横たわっている。
蒼穹の視線を、鋭く光を反射する眼鏡で受け止めると、聖子は言った。
「時が来た、というわけだよ。なに、ちょっとばかり無茶をしたのでな、勢い余って脱出してきたのだ」
聖子の話によると、四人組がヴァイツェンへ侵入した後、細村に『輪廻歴史の破壊』とも『全世界へのクーデター』とも言える計画について話していたらしい。その後、ニュース番組で昂と純の変貌した姿を見て、時機の到来を確信したのだという。
そうと決まれば龍日などにはいていられない、とスウェーデンボルグを脱し、細村を連れて国境を越えたのだ、と。
「つうか、細村のオッサンよく無事だったな。素人だったんじゃねえか?」
部屋の隅で放心状態にある男を、四対の瞳が一瞥する。浮は両目を失っているため数には入らない。
「問題ない。私が一人いれば事は足りた。まあ、どうやらホサ村はその時の騒動で随分と心に深い傷を負ってしまったようだが」
「聖子さんが二人も三人もいたらたまりませんね。騒動って何ですか?」
柔和に皮肉を言って、純が聞く。
「うち──いや、もう『うち』とは言えないな。スウェーデンボルグに景、藍、蓮という生徒がいるのを知っているか?」
聖子の質問に、麟が顎を引くようにして頷く。
「うむ。成績で言えば我々よりもはるか上位に位置する連中だ。そういえば景とか言う男は、一度だけ昂殿に勝負を挑んで負けていたな」
麟が視線を向けると、頭の後ろで両腕を組んでいた昂は、
「ぁあ? そうだっけか?」
「覚えていないのか……」
とぼけた事を言う赤毛の少年に、麟は嘆息する。
そんなやりとりに聖子は軽く頷くと、
「その三人がだ、誰の命令かは知らんが一人の天龍と五人の天使と共に、私とホサ村の行く手を阻むものでな」
「情報が漏れていた、ということでしょうか?」
純の疑問の声に、麟が答える。
「三善趣の蓮山機関長やペリグリーズの鷹道機関長が怪しいだろう。あの二人なら盗聴やスパイ工作はやっていて当然だ。そうだろう、聖子殿?」
その確認するような問いに、元機関長は、にやり、と不敵な笑みを見せた。
「まあな。わざと聞かせてやったのだよ。お前達をヴァイツェンに送り込んだ以上、もはや隠蔽する意味などほとんどなかったしな」
実はある程度の妨害工作は施していたが、ことごとく無効化されていた──というのが聖子の正直なところだった。とはいえ、聞かれても構わないと思っていたのも、また事実である。
「ンで? その天龍と天使と天使見習いをどうしたら、細村のオッサンがああなるっつうんだよ?」
「全員、片手でのしてやった」
しん、と室内が静まりかえった。
その時、昂は『マジかよ』という顔をしていた。
その時、純は『すごいですねあははは』と笑っていた。
その時、麟は『信じられん……』と頭を抱えた。
その時、浮は『どうでもいい』と呟いた。
その時、細村は怪鳥のような叫び声を上げた。
「キぃえあああああああああ────────ッ!」
男は喉が破れんばかりの声を上げ、立ち上がった。
全員が奇行に及んだ補佐役を一斉に見た。
どうやら会話の端々を耳に入れていたらしく、それがトラウマに触れたようだった。
慟哭のような雄叫びが終わると、細村は石膏像のように固まった。聖子は、くくく、と可笑しそうにすると、
「細村悟、そんなところで何をしている。さっさとこっちへ来て私の補佐をしたまえ」
まるで手綱を引かれた馬のようだった。細村は涙まみれになった顔を向けると、出来の悪い人形師に操られているみたいに、こくん、と頷いた。
とぼとぼとソファーに近付き、どすんと腰を下ろす。
「大丈夫か、ホサ村?」
「……天龍を、しかも五人の天使を、それも景と藍と蓮の三人までいたのに、あんな一瞬で……」
「何をブツブツ言っているのかね、君は」
細村の悲痛な呟きを、聖子は笑って済ました。
彼が受けた衝撃は無理からぬものだった。天使とは超人の別名だ。その上に立つ天龍にもなれば、それこそ怪物じみた戦闘力を持つ。また、天使見習いの三人は細村のお気に入りで、駄天使四人組には及ばずとも、十分天龍になれる素質を持っていたのだ。
それが一瞬だった。
片桐聖子の前ではひとたまりもなかったのだ。
細村は失念していた。未来の兵器を配下に持ち、輪廻歴史を知る女性が、自らに何も施していないはずがなかったのだ。当然である。強力な、生きた星体兵器を四体も統率するのだ。それ以上に強くなければやっていけないことは明白だった。
「して、その後は?」
鬱病寸前の細村のことはどうでも良いらしく、麟が聖子に話の続きを促した。
聖子はすぐに表情を引き締め、
「それなりに邪魔があったのだが、とりあえず排除し、国境で飛行機をいただいて降りてきたというわけだ。今頃、私と細村は指名手配されているだろうなふふふふふ愉快だぞこれは」
堪えきれない、と言わんばかりの笑い声が聖子の口からこぼれる。
別段いつものことなので誰もそれを止めようとはしなかった。
はた、と聖子は自ら笑いを納め、
「そういえば、お前達はどうだったのかね? あちらで何があった?」
四人は顔を見合わせると、麟を筆頭説明役として、口々に報告を始めた。
O.B.Kのスパイの少女に会ったこと。巫桜院蜜姫がアトレイユタイプのアンドロイドだったこと。そのボディから『星石』が抜かれていたため、それを取り返しに行ったこと。アレックス=バトライザー元帥が『星石』を用いた新兵器を開発していて、ひどく苦戦したこと。昂と純が新兵器のレーザーに呑み込まれた結果、異形の姿に変異してしまったこと。それと同時に浮の魔術師≠ェ自動的に起動し、第二段階まで発動させることで昂と純を元の姿に戻せたこと。巫桜院蜜姫が目覚めるためには修理が必要なこと。
細かいことを挙げればキリがないが、大雑把に言ってこのようなことを四人は報告した。
「なるほど、な」
報告を聞き終えた聖子は、まずそう言った。
それからしばしの沈黙を置くと、次に言ったのは、
「そのファーブルという女、危険だな」
という言葉だった。
聞き返したのは、他でもない彼女を逃してしまった麟だ。
「危険? どう危険なのだ、聖子殿? 確かに情報を持ったまま逃がしてしまったが、我々はもう龍日とは関係ないのだろう? 問題はないはずでは?」
麟の疑問に、聖子は小さく首を横に振る。
「いや。カーネルは輪廻歴史の守り手の一人だと私は見ている。そのカーネルにお前達の情報が伝わるとなると……」
「何か対策を立てられるかも、ということですか?」
純の台詞を、聖子は肯定も否定もしなかった。例えカーネルが輪廻歴史に関係のない存在だったとしても、何かしらのアクションがあるのは確実だと思われた。
やおら聖子は、ふっ、と笑う。
「まあいい。伝わってしまったものはしょうがない。何かしてくるのならば、それごと踏み潰すまでだ」
強い笑みの表情だった。それを見た四人の少年も、それぞれの形で笑みを浮かべる。聖子の言っていることに、全員が同感だった。
と、ここで麟が思い出したように、
「そういえば聖子殿、聞きたいことがいくつかあるのだが」
その唐突な質問を、しかし聖子は待ちかまえていたようだった。
「わかっている。お前達の体のことだな? 安心しろ、ちゃんと説明してやる。細村」
「……あ、はい?」
呼ばれ、弾かれたように細村は顔を上げた。
聖子は横目でそんな補佐役をただ見つめる。
数秒の沈黙。
聖子はつまらなさそうに息をつく。
「君は話を聞いていなかったのか?」
「あ、いえ、そんなことは……」
「では説明をしたまえ。私は面倒だ。補佐役の君に任すぞ」
「も、申し訳ありません」
意気消沈した細村の姿は四人から見ても痛々しかった。いつもの凛然とした態度はどこへやら。彼はすっかり意志のない人形のように、聖子の言葉に従った。
彼は説明する。お前達四人は未来の兵器なのだ、と。
正確には一巡前の歴史の末期から、『片桐聖子』によって現代へもたらされたのだ、と。
そして浮の極印魔術師≠ェ、ディスアンゲル≠フ制御装置を兼ねていることも。
流石に自分自身に関することだけに、四人は真剣な顔で細村の話を聞いていた。
これにより、細村は徐々に自信を取り戻していく。自分の言う言葉に、あの駄天使四人組が素直に頷いている。ただそれだけのことで、彼は自らの自尊心を回復させていったのだった。
「──つまり我々は、時を超え、次の歴史へ飛んだというわけか……」
麟が彼らしく難解な言葉に変えて、一人納得する。
四人の反応は細村の意外を極めた。なんと、彼らは自分たちの境遇をあっさり受け入れたのだ。
これを恐るべき適応力、理解力と言って良いものなのだろうか? 細村は悩む。もしかして何も考えていないのではないだろうか? と不安になってしまうのだ。
突然、細村は天啓のようにそれに気付いた。
「ちょっと待ってください! 機関長!? もしかして彼らは自分たちのことも計画のこともほとんど知らなかったのでは!?」
自分たちが未来の兵器であることを知らなかったし、聖子が龍日を脱出する予定だったことも知らなかった。
聖子の目的が『輪廻歴史の破壊』であることは知っていて、その上で賛同はしていただろう。だからいつかは龍日を飛び出すことも理解していただろう。そして自らの肉体の特異性も知っていただろう。だが、それだけだ。
それでは何も知らないのとほとんど変わらない。むしろ今となっては、細村の方がより多くのことを知っているではないか。
「その通りだ、細村。よく気付いたな」
「よく気付いたな──じゃありませんよ機関長! お前達もだ! 知らないままヴァイツェンへ行ってあんな事をしたのか!?」
聖子に噛み付いた後、身を翻し、駄天使四人組にも吼え猛る。
あっさりした四種類の返事があった
「おおよ」
「そうですよ?」
「うむ」
「うざい」
細村は混乱して叫んだ。
「すごいなァお前達ィ!」
気絶寸前だった。聖子を含めた五人のノリについて行けそうになかった。細村は今、少しだけだが聖子についてきたことを激しく後悔していた。少しだけ激しくとは矛盾した表現だったが、細村の心境はまさしくそうだったのである。
くらくらする頭を押さえる細村に、聖子が言う。
「ところでホサ村。私はもう機関長ではないぞ?」
目の前がぐるぐるしている細村は、これに上手く応えられない。
「え、あ、はあ……?」
「そういうわけだが、君はこれから私をなんと呼んでくれるのかね?」
その質問で細村はやや混乱が収まったが、同時に非常に困った。
「……なんとお呼びすればいいのでしょうか?」
これまでずっと『機関長』と呼び続けてきた彼だった。今更、他の呼び方など思いつかない。
「女王様つうのはどうだオッサン?」
「聖子様ですよ、やっぱり」
「上司ではないのだから様づけでなくともよかろう」
「どうでもいい」
周囲の四人は好き勝手なことを言う。細村はその中で一番無難なものを選択した。
「……では、聖子様で」
きりっとした表情で言うものだから、これまた失笑を買った。
浮以外の全員が小馬鹿にしたように笑うのを尻目に、彼は真面目な質問を聖子に提出した。
「ところで、これからどうするのですか? あの国を出てしまいましたが、行く当てはあるのでしょうか?」
駄天使四人組も興味のあることだったようで、彼らも口を閉ざして聖子の答えを待っていた。
聖子は不意に居住まいを正した。その正すというのは彼女らしく、腕と足を組み、片手で眼鏡を押し上げることを言う。ひどく不遜な態度だったが、それは実に似合っていた。
首を巡らし、自らの周囲にある者達の顔を順に眺めていく。
静かに息を吸うと、彼女は凛とした声で語り出した。
「諸君、我々はこれから世界に反逆する」
その言葉はよく透った。透りすぎて、細村が一瞬にして盗聴の可能性を思いつくほどだった。
「今回、昂と純がディスアンゲル≠ノなった件で、輪廻歴史を裏から操っている者が動き出すだろう。これは間違いない。予測でも願望でもなく、これは真実だ。相手も本気になってくるぞ」
それは戦士を鼓舞する将軍のようでもあった。その姿を見ていると、この女性は例え勝利の女神がそっぽを向いていても力ずくで振り向かせるのだろう、と彼らに思わせる。
「こちらのように、先の時代の力を持ち出すかもしれない。あるいは我々の全く知らない恐ろしい方法を用いるかもしれない」
それは当然望むところだ、と彼女の瞳が語っていた。
「これから、繰り返しの世界、決まり切った歴史をかけて戦いが始まる」
唾を嚥下する音が大きく響いた。音源は細村の喉だった。刹那、いくつかの非難めいた視線が特徴のない地味な顔を冷たく突き刺した。
「諸君、我々は反逆者だ。世界に対して、歴史に対して、我々は反旗を翻す」
そんな些末なことを掻き消すように、聖子の言葉は強く言い放たれた。
問う。
「覚悟はいいか?」
ここに来て怖じ気づく者などいなかった。
細村でさえ力強く首を縦に振った。
一拍を置いて、全員が頷きを返す。
それを一身に受けた聖子は、それは強烈な、目の当たりにした細村が一生忘れられなかったほどの、不敵な笑みを見せた。
「よろしい! それではお前達の覚悟を私によこせ!」
猛然と立ち上がり、彼女は右手を勢いよく差し出した。
申し合わせたように四人の少年と、彼女の補佐役も立ち上がる。
六枚の掌が重ねられた。
「ここに誓おう。我々はそれぞれの望むがままに生きる、と。我々は同志であるが、場合によっては互いに傷つけ合うこともあるだろう。それでも後悔しないと」
そして、
「我々は力を合わせるわけではない。たまたま目的が同じだっただけだ。それを忘れないということを!」
「おう!」
などと協調性と調和に満ち溢れた瑞々しい重声など上がらなかった。恥ずかしいことに、大きな声で応えたのは細村一人だけだった。
どいつもこいつも自分勝手な奴らばかりだった。くだらない扇動になどそうそう乗るはずがない。それぞれが、それぞれらしい表情を顔に浮かべて、聖子の言葉を聞いていた。
申し合わせたかのように、細村以外の全員が一斉に腕を引いた。
「さて、私はシャワーでも浴びるか」
「おい純、一杯どうだ?」
「いいですね。コンパニオンさんは呼べないんでしょうか?」
「浮殿、蜜姫殿の修理にかかる。手伝って欲しい」
「わかった」
話は終了とばかりにそれぞれ自由に動き出す。
「…………」
細村だけが腕を差し出したまま突っ立ち、一人で赤面していた。
──こんな調子で、この先やっていけるのだろうか……?
細村はソファーに腰を下ろし、頭を抱えて悲嘆にくれるのだった。
そこに浴室の扉の影から顔を出した聖子が、
「ああ、お前達。余談だが明日はパンゲルニアへ行く。そのつもりでいたまえ。細村、準備を頼む」
「はい、了解しました」
悲しいことに、仕事を与えられると忠実に働いてしまう細村だった。
彼女は闇の中にいた。
何もわからない。
自我の存在すらわからない闇の中に。
わからないということは、何も知らず、何も思い出せないということだ。
考えることすら出来ない。
そこに自我は存在しない。
何も思わず、何も考えず、ただひたすらそこに在る。
在ることさえ意識せずに。
時の流れも関係なく。
いつから、いつまでそうしていただろうか。
一瞬でも永遠でも彼女にとっては大した違いはなかった。
やがて、目の前に光が来た。
眩しい。それが初めて思ったことだった。
視覚が来る。
瞼を開けると様々な情報が一斉に回路を駆け抜けていく。
光の波長を一つ一つ、しかし瞬時に処理していくことで視覚に風景が形作られる。
明るい部屋だった。
狭いも広いもわからない。判断するための材料が見あたらない。彼女は初めて空間を認識したのだった。
人がいた。
一人、二人……六人。
視点が低いためか、胸から下しか見えなかった。
体に上手く力が入らず、ぎこちない動きで彼女は視線を上げた。
赤い髪の男性がこちらを見ていた。
「なぁおい、なんでオレなんだよ?」
「純殿にはまかせられまい。私と浮殿は女性が苦手だ。貴殿が一番の適任だ」
「細村のオッサンはよ?」
「彼はダメだ」
赤い髪の彼は、背後の金髪の人と何かしら話をしていた。
彼女にはその内容が理解できない。
呆然とその光景を見つめている。
すると、赤い髪の人はこちらに向き直って、近づいてきた。
「……よう」
彼はぶっきらぼうに片手を上げる。
彼女は理解できない。その声が何を意味するのか。その仕草が何を表すのか。
体が勝手に動き、彼女は硬い動きで小首をかしげた。そういった仕草をした、という意識はまるでなく。
彼女はじっと彼を見上げた。
しばらく見つめ合う。
不意に、彼が片手を伸ばして彼女の頭に乗せた。
撫でる。
「…………」
沈黙が続く。彼女は頭を撫でられるという行為に対して、どんな反応をして良いのかわからなかった。
憮然と、彼が言った。
「なぁテメ……お前」
そこで言葉を切る。彼女は無言のままその続きを待った。
彼は咳払いを一つ。
「お前、泣けよ」
意味がわからなかった。泣け、という言葉が理解できなかった。だから彼女は何もしなかった。
「もう泣いていいんだぜ」
その言葉はするりと、何の抵抗もなく彼女の心の深いところまで降りてきた。
訳がわからなかった。
だが、彼の言葉は彼女の心の琴線に触れた。
何故か、両の瞳から涙が出そうになった。
「──!」
彼女は、自分でもよくわからない理由で、それを我慢しようとした。
目が潤む。視界の彼が、滲む。
わからない。何故、涙が出てくるのか。何故、それを我慢してしまうのか。そもそも、涙とは一体何なのだろう。
動き出して間もない言語機能が、彼女の中で静かに責務を果たしていた。
我知らず唇を強く引き結んで涙を堪える彼女に、彼は頭を撫でながら重ねて言った。
「だから、泣いていいっつってんだろ。遠慮すんな」
やめて、と彼女は思った。
やめて、そんな事を言わないで、泣いてしまうから。
その思いは言葉にならなかった。全身の筋細胞と神経網の起動がまだ完全ではなかったのだ。それに、口を開けば涙がこぼれそうだった。
彼女はさらに唇に力を込め、眉根を寄せた。
体がふるふると震えていた。
彼はそんな彼女を見て、小さく息をついた。
「しょーがねぇなぁ……」
そう言って、彼は彼女を抱き寄せた。
彼女は、彼の胸の中に抱きしめられる。
頭と一緒に、背中までさすられた。
「ほら、こうすりゃ泣きやすいか?」
彼の言葉が、心の根幹を激しく揺らした。
発作が来た。
「あ……」
声が漏れた。
だけどダメだ。泣いちゃいけない。どうしてかはわからないけど、泣いてはいけない。彼女は自分に言い聞かせる。
だけど、頭を撫でてくれる手の温かさが。
背中をさすってくれる優しさが。
どうしようもないほど。
「あ……ああ……」
たまらない。
体の震えが大きくなる。自分でも押さえられない。
感情の高ぶりがどうにもならない。発作の波が、何度も何度も押し寄せる。
「あ……あ……ああ……」
それでも彼女は拳を固めて我慢した。もうほとんど泣いているようなものだったが、まだ涙はこぼしていない。だから自分は泣いていないのだ、と言い聞かせていた。
彼が言った。
「我慢すんな。お前は泣いていいんだ。許してやるから。誰も怒らねえから」
先程までの無愛想な声じゃなくて、とても優しい声だった。
耳から入ったその声は、すぐに彼女の芯に染みこんでいく。抵抗が出来ない。
息を呑む。
「……!」
もうダメだった。
限界を超えてしまった。
全身の震えが止まらない。心のざわめきが収まらない。
涙が、目尻からこぼれた。
「あ……!」
泣いてしまった。
そう思った瞬間、彼女の心の堤防は消滅した。
「あ──!」
止まらなかった。
感情は、加速度的に。
次の瞬間、彼女は大きな声を上げた。
遠慮も制御も何もなかった。
哀しみなのか、怒りなのか、感激なのか、それさえわからなかった。
ただただ巨大な感情の奔流が彼女を責め立てていた。
大きく口を開けて、涙をどんどん流して、声を張り上げて、彼女は泣いた。
赤子のように、火がついたように。
自ら彼にしがみつき、服を握りしめて、力の限り声をあげて泣いた。
彼女は生まれて初めて泣いたのだ。
頭を撫でられる度、背中をさすられる度、彼女の涙は目の奥から涸れることなく湧き出てきた。
「おー、よしよし」
彼が慣れない手つきで、彼女をあやす。
その優しさが嬉しかった。
抱きしめられていることが、とてつもない幸せだった。
自分でもよくわからない内に溜まっていたものを全て吐き出すように、彼女は泣き続けた。
大きな声で。
大きな声で。
自分が誰なのか、わからないまま。
彼女は今、産声を上げたのだから。
To Be Continued…?
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