■運命を操る妖精の瞳





 アシュリーは俺のために死んだ。
 いや、違うか。俺のせいで死んだんだ。
 これは、多分夢だ。懐かしい過去の記憶だ。
 十六歳の俺がいる。今とほとんど変わらない。何かに飢えているかのようにギラギラした金色の目に、痩せ狼みたいにいつでも臨戦態勢な身体。いつだって誰が相手だろうが無愛想で、寝る時さえ仏頂面だったような気がする。
 それはまだアシュリーが生きていて、俺がまだエーテルストライカーだった頃の話だ。
 この頃から俺の心は殺伐としていて、砂漠のように枯渇していた。何故だかはわからない。とにかく周囲にまとわりつく暖かい空気が、無性に鬱陶しかったのだけは憶えている。
 理由なんてなかった。強いていうなら、教会のグランマやシスターの優しさや思いやりが、生理的にだめだったんだろう。俺は、人の輪に溶け込むということができない人間だった。
 生まれつきの性格なのか、それとも親がいないせいなのか、はたまたエーテルストライカーだったからなのか。
 俺は周囲から浮いた存在だった。そして俺自身、そのことを自覚していた。
 だから自然と孤児院の皆から遠ざかり、一人で過ごす時間を多く持つようになった。ヴェイルや他の何人かがたまに話しかけてきたり用事を伝えにくることが何度かあったが、それも二言三言だけだ。しかも年下ばかり。俺の疎外感は全く薄れなかった。
 この頃の俺は、理由もなく、ただひたすらにむしゃくしゃしていた。だから気がついた頃には、街の荒くれ共と喧嘩する毎日を過ごしていた。もちろん、エーテルストライカーの俺に敵う奴などいなかった。血のように赤いエーテルを手足にまとわりつかせ、それで殴るなり蹴るなりすれば相手はすぐに倒れた。誰を敵に回しても俺は楽勝だった。
 それが悪いことだとは微塵も思わなかった。苛立ち紛れに誰かを殴るのは、俺にとって当たり前のことだったのだから。
 アシュリーはそんな俺に、毎日のように説教をしてくる女だった。
 鬱陶しい、と最初は思っていた。
「あんたまたケンカしてきたの!? もう、いい年してバッカじゃないの! あんたねぇ、いい加減にグランマやシスターに迷惑かけるのやめなさいよね!」
 とまぁ、毎度毎度こんな感じで小言を延々垂れ流すのだ。いや、今思い出してみたらやっぱりちょっと鬱陶しいな、こいつ。
 だが、この頃の俺は若かったんだろう。最初は煩わしく思っていたアシュリーの言葉を、いつしか楽しみにするようになっていた。そうやって誰かにかまってもらえるのが嬉しかったのかもしれない。俺はむしろ進んで説教の種を増やすような行動を取るようになった。そういう意味ではアシュリーの叱咤はむしろ逆効果だったと言えるだろう。
「うるせぇ」
 俺はいつもそうやってアシュリーをあしらっていた。いや、あしらったつもりになっていた。実際にあしらわれていたのは俺の方だったというのに。
 長い、炎のように赤い髪。陽光のように明るい琥珀色の瞳。誰がつけたか、あだ名は『ひまわり娘』。まぁ確かにそう言い表せるぐらい明るかったのは俺も認める。
 アシュリーが大声で俺の行動を非難する。俺は短い言葉でそれを遮断する。ただそれだけの行為に、俺は決して少なくない心地よさを覚えていた。
「あんたさぁ、せっかくエーテルストライカーに生まれたんだからもっとましな生き方しなさいよ。ねぇ、それに、もうちょっと心を開いてもいいんじゃない?」
「誰にだよ」
「あたしがいるじゃん。ほらほら、悩みがあるならこのアシュリーお姉さんに何でも話してごらん? 性的な意味じゃなければいくらでも一肌脱ぐよん?」
「うぜぇ。消えろ」
「なぁんですってぇ────────ッ!?」
 ノリ的にはどことなくマテリアに似ていたかもしれないな。どうでもいいが。
 とにかくアシュリーは何が楽しいのか、あるいはどこがそんなに気に喰わないのか、何度も何度もそうやって俺を説得しにかかった。やれ同じエーテルストライカーのヴェイルを見習ったらどうだ。やれ喧嘩ばかりしていたらろくな大人にならないぞ。やれ悩みがあるなら聞いてあげるから言いなさい。
 言いたいことを要約すると「素直になって喧嘩をやめて皆と仲良くしろ」ということだった。今なら、俺のことを心配してくれていたのだろう、と思えるが、この頃の俺にはそれがさっぱりわからなかった。
 ただ、ぎゃあぎゃあと文句を言ってくるアシュリーを見ているのが楽しかった。彼女の態度がどんな想いから発生しているのかなんて、全く考えもしなかった。
 俺は馬鹿だったんだ。
 だから不幸な事件が起こった。
 ある日のことだ。以前、俺に喧嘩で負けた奴が今度はエーテルストライカーを連れて報復にやって来たのだ。しかもどこで嗅ぎ付けたのか、俺の巣である聖マルグレーヌ教会まで。
 ガキの喧嘩なんてものは、馬鹿だけに熱くなりすぎると簡単に生き死にの領域まで行ってしまう。この日がそうだった。自分の領地にまで踏み込まれた俺は、巣を荒らされた獅子の如く怒り狂った。無差別に雑魚共を殴り、手加減無しで叩きのめした。力一杯やったせいか嫌な感じの痙攣をした後、動かなくなる奴が続出した。
 ならば相手もこちらを殺す気で来るのは当然だった。
 相手側のエーテルストライカーは現役の傭兵だった。エーテルを金属に変換し、生み出した鋼の刃を自由自在に操る能力を持つ男だった。今にして思えばこいつは弱かった。エーテルを使えない今の俺の方がむしろ強いんじゃないだろうか。だがこの時の俺は、今の俺ではなかった。
 対するこの時の俺は特にこれといった能力もなく、ただエーテルを使って肉体を強化するだけ。だがそれでも自身の破壊力には少なからぬ自信を持っていた。
 しかし、所詮この時の俺はガキ大将でしかなかった。そして、相手はまがりなりにも現役の傭兵だったのだ。
 今でこそ相手の実力を測るなんてことは造作もないが、この時の俺はまだ彼我の戦力差を分析することすら出来なかった。
 はっきり言って、分が悪すぎたのだ。客観的に見れば勝敗の結果など火を見るに明らかだったというのに。当時の俺はそんなことさえわからなかった。
 この後は、少しぐらい想像力のある人間なら容易に予想出来るだろう。
 圧倒的な実力差にあっさり追いつめられた俺は、今まさにとどめを刺されようとしていた。だがその瞬間、俺を庇った奴がいた。
 俺の代わりに全身を刃に貫かれたのは、あろうことかアシュリーだった。
 何が起こったのかすぐにはわからなかった。脳の許容範囲を超える現実が、俺の頭蓋に収まりきらなかったのだ。
 彼女の血を浴びた時、俺の中で何かが壊れた。
 あんなひどい悲鳴を上げたのは、後にも先にもあれ一度きりだ。
 その直後のことはよく覚えていない。
 ただ、俺のエーテルが血液の赤から、七色の輝きに変わったことだけ覚えている。
 それを用いて敵をどうしたのか。全く記憶にない。気が付けばいなくなっていたから、逃げたか、あるいは俺が跡形もなく消してしまったかのどちらかだろう。まぁ、おそらく前者だと思うが。
 だが、アシュリーの言葉だけは今も心に焼き付いている。
 彼女は激痛が全身を苛んでいるにも拘わらず、俺を見て笑ったのだ。
「なんだ……あんた、〈エクステンド〉だったんだね……すごいじゃない……あ、ははっ……助けて、ほんとによかったぁ……」
 それはもう嬉しそうに微笑んで。
 そう言って、アシュリーは事切れた。
 俺は、何の言葉もかけてやれなかった。
 この時の、よかったぁ、という一言が俺の精神を再起不能にしたのだと思う。
 一体何がよかったのか、俺には今でもよくわからない。
 俺が〈エクステンド〉だったからよかったのか。〈エクステンド〉を助けられたからよかったのか。それとも、〈エクステンド〉である俺を助けられたからよかったのか。
 わからないのだ。よかったという、その言葉の意味が。それは解釈によって、絶望にも希望にも変わる紙一重の言葉だった。俺は希望的観測をするほど楽観主義ではなかったし、絶望的な感覚を持つほど悲観主義者でもなかった。
 アシュリーは俺が貴重な〈エクステンド〉だったから助かって良かった、と俗物的な意味で言ったのだろうか。
 それとも、俺を助けられたことも、俺が〈エクステンド〉だったことも、両方喜んでいたんだろうか。
 わからない。
 俺が〈エクステンド〉だから良かったのか。〈エクステンド〉が俺だから良かったのか。そんなジレンマ。
 結局、俺は答えがわからないまま今に至っている。
 ただ、あいつは笑いながら逝った。そこだけは救われている、と思いたい。
 この事件以降、俺はエーテルを使えなくなった。原因はわからない。精神的なものかもしれない。心の傷によってエーテルを失ってしまったのかもしれない。ただ、そのことを考えるだけで頭がひどく痛むため、いつしか俺は、自分は実はエーテルストライカーではなかったのだ、と思うようになっていった。その方が気分が楽だったのだ。いや、実際にはそう思わなければ、やっていられなかったのかもしれない。
 いたたまれなさや居心地の悪さもあって、俺はこの後、ほとんど時を置かずに孤児院を出て行った。おそらく、今まで罪悪感というものを感じたことの無かった俺が初めて得た、それは罪の意識だったのだろう。
 親もない。兄弟もいない。友達と呼んでよかったかもしれない奴さえ失った。気が付けば、エーテルストライカーという自らを形成していた要素の一つまで無くしてしまっていた。
 その代わりに得たのは『自分の内から湧き出てきた虹色のエーテル』という謎。ただそれだけ。
 結果として、俺は自分という存在がわからなくなってしまった。
 エーテルの使えないエーテルストライカー。血のように赤かった俺のエーテル色が、何故に七色へ変化したのか。
 俺は一体どこの誰なんだろうか。ただのエーテルストライカーなのか。それとも伝説の〈エクステンド〉なのか。どちらであるにせよ、それならどうしてエーテルが出なくなってしまったのか。
 俺の身体に何が起こったのか。
 ひたすらに、自分の正体がわからなかった。
 それから、ただ時間だけが過ぎていき、俺はいつし


 ぶつり、と映像が途切れた。まるで繋がっていた線がちぎれてしまったように。
 なんだ今の? さっきまで見聞きしていたのは……?
 ゼテオの記憶? 過去? 心?
 それとも、ただの白昼夢?
 わからない。一体何がどうなっているのか。
 恐怖で気が触れてしまったんだろうか、ボクは。
 両目が熱い。
 一体いつからさっきの映像に囚われていたんだろうか。エルザとベルゼに視線を向けると、二人はろくにこっちに近づいていなかった。どういうことだろう。ほんの一瞬であれだけの映像を視たっていうんだろうか。
 そうだ、さっきのはフェアリーアイ≠ノよる情報の映像だ。白昼夢なんかじゃない。
 だってほら、よく見ればボクの全身から大量に虹のエーテルが噴き出して……えっ?
 ボクは惚けたように自分の手足を見つめた。何ていうことだろうか。本気になったアレスくんや、エルザとベルゼみたいに、ボクの身体から〈エクステンド〉の証である七色のエーテルが煙のように溢れ出ている。
 なんだこれ。どうなっているんだろう。ボクはこんなこと、出来やしないはずなのに。だって、コレは戦闘系の能力じゃないと出ないモノじゃなかったんだろうか? しかも本気になった時しか。
 っていうかボクはこんなモノを出す気になってないし、こうやってエーテルを噴き出したところで出来ることなんて何一つないはずだ。

 名前も知らない男がエルザの頭を蹴り飛ばす。倒れた彼女にベルゼが駆け寄ると、エルザは額から血を流していた。ベルゼは憎悪の煮えたぎる瞳を男に向ける。

「──!?」
 なんだ、今の光景。違う、ボクはこんなのを視たいなんて思っていない。
 もしかして今のも過去なのだろうか。エルザとベルゼは今と違って、随分とみすぼらしい格好をしていた。
 だめだ、もう目が熱すぎる。瞼を開けていられない。どうなっているんだコレ。何がなにやら、わからないじゃないか。

 子供と大人じゃ勝負なんて見えている。エルザを庇ったベルゼはサンドバッグみたいにいいように嬲られた。目を開いたエルザが、撲殺されそうな勢いで殴打されるベルゼを見て息を呑む。「いや」と叫びが放たれ、殺気に満ちた金銀妖瞳が男に向けられる。そして彼女は虹色の声を放ったのだ。「お前なんか死んでしまえ」と。

「──〜ッ!」
 まただ。目を閉じたら閉じたで視たくもない映像が視えてしまう。一体どうしてしまったんだ、ボクの目は。
 フェアリーアイ≠ェ暴走しているとしか思えなかった。
 ちょっとでも気を許すと──
 この喫茶店の名前は『ホンキィトンク』と言って、昼は喫茶店で、夜は酒屋を営んでいる。店主の名前はジャン・バッハマン。裏街に店を構えているだけあって脛に無数の傷を持っている。
 ──なんていう情報が勝手に頭の中へ入り込んでくる。うわあん、どうでもいいよこんなのーっ!
 目に、溶けてしまいそうな程の灼熱感がある。多分、フェアリーアイ≠フ過剰な稼働による過負荷だ。知ってもしょうがない情報や、視るためには多量のエーテルを必要とする過去のことを無差別に取得しているから、眼球が悲鳴を上げているんだ。
 でもダメだ。制御がきかない。どんどん、変な情報が、過去の記憶が、ボクの中に、流れ込んで、くる。
「──〜ッ!?」
 頭が割れるように痛い。誰かがボクの頭蓋骨の割れ目に指を突っ込んで、無理矢理開こうとしているかのようだった。あるいは、氷柱で何度も頭の奥を刺されているような激痛、と言ってもいい。
 頭痛だけで死にそうだ。このままこれが続くか、悪化するようなら冗談抜きでショック死するような気がする。
 だけど不思議なことに、頭に入ってくる情報は今のボクの周辺のモノに関することが多かった。きっとボクのエーテルがそれらに触れているからだろう。エーテルを伝って情報が伝播して、それがボクのフェアリーアイ≠介して『知識の源泉』に干渉しているんだ。で、そこに収められた知識や回答がボクの中にフィードバックしている。
 エルザとベルゼの過去だってわかる。これまであの双子がどんな人生を送ってきたのか、その情報が頭に入ってくる。以前試した時は無理だったのに。双子のエーテルの方が強くて干渉出来なかったのに。今は出来る。
 本当は、二人はボクよりもゼテオよりも年上だった。子供なんかじゃなかった。見た目が幼いだけで、中身は老人と言っていい年齢だった。
 身寄りのない二人が本当の子供だった頃は、今よりもエーテルストライカーの扱いがひどい時代だった。二人はどこへ行ってもむごい虐待を受け続けた。それでも最初の頃は、他人を信じたい気持ちを持っていた。だけど、誰も双子に優しくしなかった。仲良くしたいのに、仲良くなれない。そんなジレンマ。そうしていつしか、双子の心は摩耗してしまった。
 結局、とうとう殺さなければ殺されてしまうかもしれないという極限の状況まで来てしまって、双子は他者を拒絶する道を選ぶしかなかった。その結果、大切な何かがすり切れてしまって、もうお互い以外の誰も信用出来なくなってしまったのだ。
 ついさっき視た映像も、その一場面だった。年端もいかない子供に対して悲惨すぎる、あの光景が。まぎれもなく現実にあったことだった。
 その後、紆余曲折を経て二人は新たに発足した『水晶機関』の保護を受けた。そして、力の性質と本人達の性格の関係から処分執行官に任命された。
 二人にとってそれは一つの転機だったし、一筋の光明だった。迫害され、忌み嫌われ続けてきた双子が初めて誰かに必要とされた瞬間だったんだ。
 その居場所が例え血と臓物にまみれた世界であっても。
 二人はもう、ジレンマを感じないで済むから。
「──ァッ!」
 いきなり頭痛が激しくなった。限界が近いんだ。何となくそれがわかる。
 ハワードさんのこと。この街のこと。この国のこと。この地に住む人々のこと。フェアリーアイ≠フ対象範囲が加速度的に拡大していく。その結果、ボクは何もかもがわかってしまうから、逆に何もかもがわからなくなっていくという、矛盾した状態に陥った。
 情報の氾濫がボクの脳内を次々に侵略していく。もう何の情報が入ってきているのかすらわからない。処理しきれない膨大な量の情報が溢れかえって、神経が焼き切れそうだった。上書きをし続ける知識がそのうちボクの人格部分まで蹂躙しようとしていた。このままじゃ意識が『アカシックレコード』や『賢者の石』『神の座』に塗りつぶされて、ボクがボクでなくなってしまう。フェアリーアイ≠介してボクからあちらへアクセスするはずが、逆に向こうからこちらを乗っ取られてしまうのだ。
 なら、せめて、そうなる前に、未来を。
 フェアリーアイ≠フ暴走を逆手にとれば、普段なら絶対選べないような未来の可能性だって選択できるはずだ。
 だから、この状況を何とかする未来を、せんた、く、し──

 ぶつり、と意識が途切れた。


「こっちにくるっ……なァッ!」
 恐怖に怯え、絶望に満ちた絶叫。それはエルザとベルゼにとっては聞き慣れた類の声だった。
 だから意に介することはない。二人はマテリアの叫びを無視して歩を進めた。
 だが、それもたったの三歩で止まってしまう。
 小動物のように震えるマテリアから、突如、虹色の輝きが間欠泉の如く噴き出したのだ。
「「!?」」
 同じく虹の光を纏っている二人はすかさずその場を飛び退き、マテリアから距離を取った。未知の現象には迂闊に近寄らないこと、これは生き残る上での鉄則だった。
「これは……もしかして、アレかしら? ベルゼ」
「もしかしなくともそうじゃろう、エルザ。間抜けな話じゃ。窮鼠が獅子に化けおったわい。どうやら脅しすぎてしまったようじゃの」
 眉根を寄せるエルザに、ベルゼは苦虫を噛みつぶしたように答えた。エルザは肩に掛かる髪を振り払うと、つまらなさそうに息を吐く。
「まさか土壇場で『覚醒』するなんて。ベタすぎて笑えないわ、ベルゼ」
「わしとしてはこの現象を『覚醒』と呼ぶ連中の方がベタと思うんじゃがのう、エルザ」
「論点ずれてるわよ、ベルゼ」
 〈エクステンド〉には通常のエーテルストライカーにはない成長段階というものがある。
 第一段階が能力の発現。これはエルザで言う『声』、つまりラジカルヴォイス≠ノあたる。マテリアで言えばフェアリーアイ=Bベルゼで言えばラジカルライター=Bアレスならウラヌスブーツ≠ニなる。
 第二段階が『覚醒』と呼ばれている状態だ。全身から〈エクステンド〉の証である七色に変化するエーテルが放出され、第一段階の能力の精度と出力が飛躍的に向上する。
 記録によると第三段階もあるらしいが、エルザとベルゼはまだそこに到達していない。というより、そこまで成長している〈エクステンド〉は今の時代ではまだ確認されていなかった。
「──〜ッ! ……ァッ!」
 体中から途切れることなく虹色に輝くエーテルを噴出し続けているマテリアは、どうやら明瞭な意識を持っていないようだった。うつろに目を開いていたかと思うと、急に瞼を強く閉じ、何かを堪えるようにうめき声を漏らす。
 『覚醒』はいつ起こるかわからない現象だ。〈エクステンド〉であればいつかは通らなければならない道だが、その時機は千差万別だった。例えばエルザとベルゼは齢三十を過ぎてから『覚醒』を果たしたが、アレスのそれは十四の時だった。
 精神的な衝撃が『覚醒』に関与しているという話は聞かない。よって、この瞬間にマテリアが『覚醒』したのはただの偶然か。あるいは、彼女のフェアリーアイ≠ェ故意的に呼び寄せた強制未来かのどちらかだった。自ら成長進化を促す〈エクステンド〉の能力など聞いたこともないが。
「まあ、多少手間が増えただけじゃ。封じるとするかの、エルザ」
「そうするしかないわね、ベルゼ。あの子の能力じゃ何が起こるかわからないし」
 ラジカルヴォイス≠ニラジカルライター≠ヘ名前の通り、二つで一つとなる能力だ。先程の『雷火炎』のように組み合わせることで相乗効果を生み、強力無比な威力と無限の可能性を得ることが出来る。
 つまり、ベルゼが『封印』と記し、エルザがそれを読み上げれば、封印効果も数倍に跳ね上がるのだ。そうすればマテリアの『覚醒』を強制的に中断させることも可能だと思われた。
 既に狭い喫茶店の内部には七色の光に満ちている。飽和状態とすら言っていい。エルザとベルゼの双子の輝きに、マテリアから湧き出す巨大な奔流。むしろマテリアのエーテルは壁に空いた穴から外へ飛び出して、大気中に広がっていっていた。
 つまり、この時点で双子の思惑は手遅れだったということになる。
 マテリアの能力はフェアリーアイ=Bそれは過去を見通し、未来を読み、『知識の源泉』と繋がって世界中の謎という謎を解明することが出来る神秘の瞳。
 だが、それだけではないのだ。
 その本領は、無限に広がる未来の可能性を選び取り、それに応じて流動的な過去を改竄して、希望する現実を呼び寄せること。
 つまり『アカシックレコード』『賢者の石』『神の座』と呼ばれるものに干渉し、書き換えることを指す。もっと端的に言おう。
 運命を操るのだ。
 フェアリーアイ≠フ組み立てる時間の流れに組み込まれたが最後、何人たりともそれに逆らうことは出来ない。過去の事実を変え、記憶を上書きし、時系列を修正して、全てのつじつまが合わされるのだから。誰も彼も、過去と運命を修正されたことに気付くことは出来ない仕組みになっているのだ。
 エルザとベルゼが『覚醒』状態のマテリアを封印する直前。
 フェアリーアイ≠フ過剰稼働による過負荷でマテリアが意識を失う直前。

 一瞬で運命は書き換えられた。

 出し抜けに轟音が響き、ベルゼの風弾が穴を開けた壁の反対側が爆裂した。
『──!?』
 封印するまでもなく気絶したマテリアを取り囲むように立っていたエルザとベルゼは、その音に鋭く振り向いた。
 遅れてやって来たヒーローのように登場したのは、両脚から極めて強い虹のエーテルを放つ少年だった。
 名前をアレス・フォルスターという。
「ベルゼリオン執行官、エルザリオン執行官!」
 『笑う壊し屋』と異名を持つ彼だったが、今だけは微笑んでなどいられなかっただろう。柳眉を逆立て、真剣な表情で処分執行官の双子を見据える。
 慌てて駆けつけてきた様子だった。エルザとベルゼは申し合わせたように、同時に舌打ちをした。
「ここへあなた方が派遣されたと聞いて……ッ!」
 〈エクステンド〉の少年は台詞の途中で、胸に矢を射込まれたかのように言葉を止め、息を呑んだ。
 アレスは見る。エルザとベルゼの間に倒れ臥しているマテリアを。その、うつぶせになっている彼女の背中が、酷いことになっていた。首筋から腰にかけて、服が燃え失せて肌が剥き出しになっている。しかも、露わになった皮膚が全て醜く焼け爛れていた。余程の高熱を浴びたのだろう。肌色は消え失せ、赤と黒と毒々しいピンクが彼女の背面を占領していた。青みがかった黒髪も燃えてしまったのだろう。長かった髪は、ちりちりと白くなった毛先をうなじあたりまで後退させていた。
「何て事を……!」
 絶望的なマテリアの姿だったが、幸いにも息はまだあった。弱々しく微かにだが、背中がゆっくりと上下している。そんな不幸中の幸いに、アレスは少しだけ安堵した。
 そのすぐ傍に、いつか見た黒髪の男が倒れているのを確認すると、彼はエルザとベルゼに視線を戻す。表情を引き締め、毅然と、
「ここは私が受け持ちます。お二方はどうぞ、本部へお帰り下さい」
 反駁を許さぬ口調で告げた。だが、そんな言葉だけですごすごと退くほど、『二人っきりの処刑者』は甘くなかった。
「いきなりやって来て、一体なにを言い出すのかしらアレス坊やは。ねぇ、ベルゼ?」
「うむ。わしらの領分に土足で踏み込んでくるとは、アレスも無粋な男になってしまったものじゃのう、エルザ」
 小馬鹿にしたような笑みを浮かべて、双子は横目でアレスを見やる。アレスも自覚してのことだったが、彼の行動は明らかな越権行為による横槍だった。いや、もはや逆ネジと言っていい。保護回収官と処分執行官の仕事は完全に区分されている。マテリア・オールブライトは『水晶機関』が正式に定めた処分対象だった。エルザとベルゼを制止出来るのは、『水晶機関』機関長その人しかいない。アレスに「ここは私が受け持ちます」と言う権限など、どこにもなかったのだ。むしろマテリアの『処分』を手伝うことこそが、今彼がするべきことだった。
 しかし、アレスにとってそんな選択肢など有り得なかった。彼の意思はマテリアを生きたまま連れ戻し、再び生活を共に送ることだった。自らの職務とのジレンマは確かにある。だがそれでも、アレスにはマテリアを見殺しにすることなど到底出来なかったのだ。
「無礼は承知しています。ですが、ここは私の顔に免じて退いていただけないでしょうか。マテリアさんは私が必ず説得して連れて帰ります。機関長への説明も私がきちんとします」
 アレスは理路整然と言葉を並べ立てる。彼としては絶対にマテリアを『処分』させるわけにはいかなかった。自分は何があろうと彼女を死守する、と覚悟を込めた瞳で双子を見つめる。
 それはエルザとベルゼにとってはおもしろくない態度だった。頼み事をするのなら頭の一つでも下げるべきだろう、と二人は思う。そうでなくとも譲るつもりがないというのに、このような気にくわない態度をとられては、より一層マテリアを渡すわけにはいかなかった。
 どんな汚れ仕事であろうと、双子は居場所と存在意義を与えてくれた『水晶機関』に感謝している。機関長には彼らなりに大恩を感じているのだ。だから、任務を放棄することは双子にとって有り得ないことだった。与えられた任務は、彼らの使命と同義だった。何人であろうとも、それを邪魔、妨害することは許されない。立ちふさがる全ての障害を、これまで幾度と無く実力で排除してきた二人だった。今更アレスが立ちはだかろうとも、止まるわけにはいかなかった。
 エルザは青と緑の瞳を不快げに細めて、アレスを睨む。
「面倒だわ、ベルゼ。アレス坊やもここで消しましょうよ」
 ベルゼはエルザと同じ金銀妖瞳に、氷のような冷ややかさを宿してアレスを一瞥した。ただし口角をやや吊り上げ、嗜虐的な笑みを浮かべて。
「仕方ないのう。まぁ、大義名分はわしらにあるのだから問題ないじゃろう。アレス・フォルスターは任務遂行の邪魔をした裏切り者だったので同様に『処分』した──ということでのう……どうじゃ、エルザ?」
「いいわね、ベルゼ。文句なしだわ」
 エルザとベルゼの身体から噴き出すエーテルの量が目に見えて増大した。少女は喉に一際強い光を、少年は両手の指先に強烈な輝きを宿す。
「どうしても、退いてもらえませんか?」
 低い声でアレスは繰り返した。じりじりとしたジレンマが彼の胸を苛む。戦いは彼の望むところでなかった。だが、マテリアを救うために避け得ない道であるのならば、押し通るしかなかった。何があろうと死守する、と覚悟を決めたのだから。
 アレスも虹色のエーテルを全身に纏い、〈エクステンド〉第二段階へ移行する。
「アレス坊やはいつからあんなにくどくなったのかしらね? ベルゼ」
「それほどマテリアに情が移ったんじゃろう。可哀想にのう。捨てずに済む命を、意味もなく失うことになるな。のう、エルザ」
 言外に、退くことは有り得ない、と二人は示していた。むしろ、遠慮無くかかってこい、とすら言っている。
 アレスは唇を噛み締める。ここが覚悟の決め時だった。
 少年は自らの能力ウラヌスブーツ≠ノ意識を込める。勝負はおそらく一瞬。双子が声を放つより、文字を書くより速くこちらの攻撃が決まればいい。そうしなければ、お互いに絶大な力量を有する〈エクステンド〉同士だ。最悪、しのぎを削り合う泥沼の長期戦へと突入することになるだろう。
 刹那、世界中から音が消えてしまったかのような静寂が満ちた。
 静謐な空気の中、エルザが唇を開き、ベルゼが片手を閃かせ、アレスが地を蹴った。
 世界に七人しかいない〈エクステンド〉の内、三人が激突するという史上類を見ない戦闘の火蓋が切って落とされた。


 目が覚めた時、俺は無傷のまま喫茶店の汚い床に倒れていた。
 ……生きているのか、俺は?
 気を失う直前、背中には言葉に出来ないほどの灼熱感があった。俺はマテリアを庇ってあのチビ猿共の雷撃と炎を浴びたはずだった。
 しかし今、背中には何の感覚もない。痛みがひどすぎて感覚が麻痺しているのかと思えば、そうではない。首を巡らして背中を見ても、傷も何もなかった。
 どういうことだ? 何があった? 俺の記憶違いか? それとも夢? それならそれで、どこまでが現実でどこからが夢だったんだ?
 わからない。
「くっ……!」
 頭の奥が鈍く痛む。何か得体の知れないものが頭の真ん中で蠢いているような感覚。一瞬だが、意識が朦朧とする。
 ──いや、違う、そうだ。俺がマテリアを庇ったんじゃない。逆に俺が庇われたんだ。
「!? マテリア!?」
 思い出した。奴らの攻撃が迫る中、あいつは俺の身代わりになりやがったんだ。どっかの誰かみたいに。
 俺は身体を起こして慌てて辺りを見回した。マテリアはすぐに見つかった。すぐ傍で、ズタズタに焼け爛れた背中をさらけ出して倒れていた。
「マ……」
 名前を呼ぼうとして、その醜悪なまでの火傷痕に俺は喉を詰まらせた。人肉の焼ける匂いが鼻孔をつく。
 胸の奥がかっと熱くなるのと、頭の中がさーっと冷たくなっていくのはほとんど同時だった。
 俺はマテリアの近くまで駆けずり寄った。長かった髪が焼失して短くなっていた。四つんばいになって床に顔をぶつけ、マテリアの顔に声をかける。
「マテリア! 大丈夫か!? マテリアッ!」
 返事などあるわけがない。完全に意識を失っている。マテリアは熱にうかされているような、苦しげな息づかいを繰り返していた。
「くそっ……! どうしてこんな……馬鹿が!」
 なんだって俺なんかを助けやがるんだ! どいつもこいつも! 身代わりになられる方の身にもなってみろって言うんだ! どれだけ気が狂いそうなほどの罪悪感に悩まされるか! あれをもう一度味わうぐらいなら背中に大火傷だろうが何だろうが負った方がまだましだ!
 ──いや、待て。そうだ、俺はアシュリーの件があってからずっとそう思ってきた。だから、さっきは俺がマテリアを庇ったはずだ。……いや違う、実際には俺は怪我一つ負っていないではないか。だからあれは気絶している間に見た夢……にしてはやけにリアルな激痛だった気がする。第一、マテリアに俺を押し倒すほどの力があるわけがない。双子の攻撃に反応する反射神経もなかったはずだ。大体、俺は何で気絶していたんだ?
 違う。今はそんなどうでもいいことを考えている場合じゃない。目の前に重傷人がいるんだ。
 とにかく病院だ。すぐに治療を受けさせなければならない。
 俺はもう一度周囲を見渡した。そういえばあの双子はどうなった。どこへ行った?
 喫茶店の内部はこれまた無惨な状態だった。まともに立っている椅子もテーブルもない。俺から見て左右の壁にはどちらも大穴が空いていて、見事な風の通り道になっていた。そして、右の穴の向こうにはヴェイルの死体が──ない。
「?」
 ちょっと待て、どうしてここでヴェイル・ハワードの名前が出てくる? あいつとはもう十年も会っていないはずだろう、俺は。しかも死体って何だ? なんでこんな突拍子も無いことを思いつく?
 ──違う、ヴェイルはここにいた。あいつはエーテルストライカーとして『水晶機関』に保護されて、保護回収官になっていただろ。そして、エルザとベルゼに殺された。だから穴の向こうの外にはあいつの死体が転がってなければならない。もっとよく見ろよ、俺。
 しかし、やはりヴェイルの死体はない。ただ、その痕跡はあった。土の上に赤黒い血の痕がある。間違いなく、誰かがそこで血を流した証だ。ということは誰かが死体を持って行ったということか。あの双子か? ふざけるな、そんなこと何の目的で──
「こっちです……!」
 その時、どこか遠くから聞き覚えのある声が耳に届いた。待て。待て待て。この声はどう聞いてもヴェイルのものじゃないのか?
 ったくさっきからどうなってるんだ? 俺の頭がおかしくなっちまったのか?
 さっきから記憶と現実が食い違っているように感じる瞬間がある。だが、その直後に「いや、記憶違いだ」と思っても、胸の中の違和感が少しも消えやしないのだ。すると段々、現実の方がおかしいような気になってくる。だが、現実はまぎれもない現実だ。間違っているはずはない。だからといって、自分の記憶を疑う気持ちにはどうしてもなれない。すると今度は、自分が何かものすごい勘違いをしているんじゃないか、と突発的な恐怖感が湧き上がってくるのだ。
 記憶の中の出来事と、現実に起こっている事とが違いすぎる。しかも、よく考えれば記憶の方が理屈としても合っているような気がするっていうのに、現実は変わりっこなく厳然とそこにある。
 どうなっているんだ?
 そんなもの凄いジレンマに頭を捻っていた俺は、こちらへ近づいてくる大量の足音によって意識を現実に引き戻された。
 馬鹿か俺は。今は余計な事を考えている場合じゃないだろうが!
 俺はマテリアの身体に手をかけて、抱き起こした。軽い。これなら問題なく運べる。
 火傷を負った背中に触れないようにして、マテリアの両腕を俺の首に回させて、身体を背負った。そこに、近づいてきていた足音の主達が現れる。
「ゼテオ兄さん!」
 半壊した喫茶店に現れたのは、俺の記憶の中ではベルゼに瞬殺されたはずのヴェイルだった。
 確かに傷は負っている。額に包帯を巻き、頬の至る所に絆創膏が貼られている。また制服の右肩から左脇腹にかけては赤い裂線が走っているし、左腕の袖が肘当たりから中身を失ったようにひらひらしている。圧縮空気の砲弾で腕を吹き飛ばされたんだろう。だが、生きている。制服の傷跡の下には包帯巻きの身体が見て取れた。
 やはり、どう考えても内臓を散らばらせて死んでいた奴には見えない。現実にこうやって生きているんだから、俺の記憶の方がおかしいのは確かだった。
 ──そうだ、思い出した。店の外まで吹っ飛ばされて半死半生だったヴェイルに、俺が「逃げろ」と言ったのだ。ついでに「自警団か傭兵を連れてこい」とも。だからヴェイルは最低限の怪我の治療を受けて、再びここに駆けつけたのだ。
 ──本当にそうだったか? 今、ふと思い出した記憶に俺はやはり疑問を持つ。
 本当にそうだったのか?
 だがこれ以上考えている余裕はない。マテリアの容態は一刻を争う。
「ヴェイル! 医者だ! マテリアがやばい! 病院に急ぐぞ!」
「エルザリオン・ベルゼリオン両執行官は!?」
「知るか! 気付いたらいなくなってた! それより医者は!? こんだけいて一人も連れて来てないのか!?」
「来ています! そこの表通りに車を待たせてありますので、そこで!」
「よし! 案内しろ!」
 ヴェイルの背後にわらわらと群がっている自警団の連中を押し退けて、俺は店を飛び出した。後からヴェイルもついてくる。
 耳元にマテリアの息づかいを感じる。荒くはない。心細くなるほど弱々しい。命の灯火が消えようとしているような、危うさを感じる。マテリアが呼吸する都度、その生命力が空気に溶けて消えて行っているかのようだった。
 ふざけるな。誰が死なせるものか。アシュリーの時の二の舞は絶対にごめんだ。こんな事が二度と起きないように俺は他人に関係なく生きてきたっていうのに。
 死なせなどしない。絶対に。目が覚めたらこのバカ小娘に文句という文句を全て怒鳴りつけてやる。
 だから、
「死ぬなよ……!」
「あの車です!」
 俺の呟きと被さるようにヴェイルが叫んだ。奴の指差す先に、白く四角い自動車が見える。星の裏側にある大国ならともかく、この国で車なんて代物は庶民の目にほとんど触れることが無いほどの貴重品だ。『水晶機関』のコネなのだろうか。何にせよ大いに助かる。
 車に乗っていた奴が俺達の姿を確認して、後部のドアを開く。俺はろくに速度を落とさずに車の中へ飛び込んだ。すぐさま衝撃を与えないよう、丁寧にマテリアを後部座席へうつぶせにして寝かせる。それが終わると俺は運転席に向かって肺活量の限り叫んだ。
「重傷だ! 病院へ急いでくれ! 頼む!」
 この時は気付かなかった。
 ここまで切実に、他人に対して頼み事を口にしたことなど、生まれて初めてだったということに。


 不幸中の幸い、と言えばいいのか。
 マテリアの怪我の具合は、どうにか命を無くすには至らないようだった。医者の話によると、マテリアは常人と比べて随分と生命力が強靱らしい。あいつの目を見て、すぐに医者もマテリアが〈エクステンド〉だってことに気付いたんだろう。流石は〈エクステンド〉ですね、助かりますよ──と、医者はそう結んだ。ゴキブリかあいつは。そう思うが、内心ほっとしたのも事実だった。
 とは言え重傷は重傷だ。皮膚移植手術が行われることになり、長期の入院が必要だと診断された。また、ヴェイルの手配で近日中にも『水晶機関』から治療系のエーテルストライカーが来るらしい。とにかく、マテリアは助かることになった。星の巡りが良いとはこの事だった。
 これで一安心だ──と言いたいところだったが、そうではなかった。
 治療のためにお抱えのエーテルストライカーを派遣するぐらいなのだから、『水晶機関』はもうマテリアを『処分』する気をなくしたのだと思っていたのだが、そうではなかった。
 ヴェイルが受けた指示は次のようなものだったらしい。
マテリア・オールブライトが完治後、自らの意志で『水晶機関』へ戻ってくるのならば良し。そうでない場合は『処分』もやむなし
 つまり、ちゃんと戻る気があるなら許してやるが、その気がないなら絶対に殺せ──そういうことらしい。ヴェイルとしてはそれでも十分な寛恕と思えたんだろう。奴は一も二もなく了解したという。単純すぎるだろう、それは。
 大体、あのマテリアが大人しく連れ戻されるタマだろうか。俺としては絶対、死をものともせずに抵抗すると思うんだが。でもって、その際に俺が巻き込まれるのはおそらく間違いなく決定事項だ。今の内なら逃げることも出来るのだろうが、その気にはなれなかった。少なくとも、今の俺はマテリアに本物の借りが出来てしまった。これを返すまでは、元の他人には戻れない。不本意なこと甚だしいが。
 不安要素はまだある。ヴェイルの話によると、『水晶機関』の方でも現在エルザリオンとベルゼリオンとは連絡が途絶している状態らしい。つまり、あの双子はまだマテリアの命を狙っている、ということだ。
 何故あいつらがあの場から姿を消したのかはわからない。マテリアは重傷だったし、俺も何が原因か憶えていないが気絶していた。マテリアを殺す機会としては十分なものだったはずだ。
 それがどうしてトドメも刺さずにいなくなったのか?
 俺とマテリアが気を失った後、一体何が起こったんだろうか? そういえば見覚えのない大穴が壁に空いていたな。別の誰かがやって来たのか? とすると、あの場に出てくる可能性が一番高いのは、マテリア達〈エクステンド〉の捕獲や殺害を目的とした連中だな。それがエルザとベルゼの双子と鉢合わせして、何かが起こった。それにより、そいつらと双子はあの場から離れていった。そう考えれば、なるほど、納得は出来る。
 いや、待て。それはそれで、やはりマテリアを放置していったことの説明は付かないぞ。捕獲にせよ殺害にせよ、絶好のチャンスだったんだ。ああいった奴らがそれを見逃すとは考えられない。それとも、エルザとベルゼが自ら手を下すために、敢えてマテリアを守ったとでもいうのか。有り得ないな。少なくとも俺の記憶の中じゃ、あいつらは何の躊躇もなくハワードを殺しやがった。いや、殺そうとしやがった、か。どちらにせよ、とんでもないガキ共だった。
 考えても埒が明かないことに俺はジレンマを感じる。とにかく、今はマテリアを動かすことは出来ない。エルザとベルゼがここへ来た場合、どうすることも出来ないだろう。最悪、ヴェイルに『水晶機関』へ連絡を取ってもらって、奴らと同じ〈エクステンド〉の奴を警護に──
 アレス・フォルスター。
 刹那、稲光のようにその名前が俺の脳裏に閃いた。そうだ、奴がいた。あの少年なら双子とも互角以上に渡り合えるはずだ。あの時に見たエーテルの量は尋常じゃなかった。それにあの速度。下手をすると、逆に双子を瞬殺できたかもしれない。……いや、それはないか。だったらマテリアを放置していかないわな。
 やはり考えるだけ無駄だったか。
 俺は真っ暗になった病院のロビーで、椅子に座ったまま伸びをした。とにかく、今日は疲れた。この病院に来てからもう何時間経過したんだろうか。マテリアの手術はもうそろそろ終わる頃じゃないか?
 一度様子を見に行くか。
 そう思って立ち上がった時だった。俺は不意に背後に人の気配を感じて、振り返った。病院の出入り口に、なにやらぼんやりと白い人影が立っている。
「誰だ?」
 俺は反射的にそう声をかけた。何か妙な感じがしたのだ。あれは、少なくとも医者や看護師ではないだろう。並々ならない気配がひしひしと感じられる。
 幽霊のような人影が少しずつこちらへ近づいてきて、ようやく俺はその正体に気付いた。
「……アレス・フォルスターか?」
 噂をすればなんとやらだった。
 こちらへ近づいてきたのは、癖のある金髪と深い緑の瞳を持つ〈エクステンド〉の少年だった。
 アレスはこちらに向かって微笑みを作り、
「お久しぶり、と言ったところでしょうか。ゼテオさん、でしたね? 私としてはつい先程もあなたをお見かけしたばかりなんですが」
 妙な言い方をする。とすると、本当にあの喫茶店にやって来てエルザとベルゼを何とかしたのはこいつだったというのか? だがそれ以前に聞くことがある。
「それよりもお前、どうしたんだその格好は。傷だらけじゃねぇか」
 言葉通りだった。アレスの制服は至る所が破れ、赤い血に染まっていた。中には黒い焦げ痕もある。満身創痍。誰がどう見ても戦闘後の出で立ちだった。だと言うのにアレスは危なげもなく立っていた。まるで、こんな傷など痛くも痒くもない、と言うように。
 俺はさらにアレスの返答に先んじて、
「お前か? 喫茶店でエルザとベルゼを追い払ったのは」
 と質問をぶつけた。
 これに対してアレスは、ふっ、と血の滲む口の端を吊り上げる。
「気絶しているようにも見えましたが、起きていたんですか? それともただのカマ掛けですか?」
「ただのカマ掛けだ」
 俺は率直に応じた。取り繕ったところで意味はない。
「でしょうね。それよりマテリアさんは無事なんですか?」
 アレスは質問には答えないまま、逆に尋ねてきた。と思ったら、その右手が急に伸び上がり俺の胸ぐらを掴む。
「……何のつもりだ」
 俺はアレスを見据え、低く押し殺した声を絞り出した。理由が何であれ、いきなり胸ぐらを掴まれて好意的に対応することなど出来るか。
 アレスはなおも笑顔を崩さず、穏やかに言う。
「手込めにされたというのは冗談でしょうから気にしていませんでした。ですが、マテリアさんがあんな目にあってしまったのでは話が別です」
 ここでアレスの顔付きが激変した。柔和な笑顔から一変、突然柳眉を逆立て、奥歯で苦虫を噛みつぶしたかの如き形相で俺を睨みつける。
「あなた、本気で万死に値しますよ? 何をしていたんですか。大の男が一緒にいて、どうしてマテリアさんがあんな状態になるっていうんです? 本気でなかったとは言え、あの時、私を軽々とあしらったあなたでしょう? どうして守れなかったんですか!」
 人気のないロビーにアレスの怒声が響き渡った。余韻が反響を繰り返して廊下の奥へと消えていく。
 俺は即答出来なかった。アレスの言うことはもっともすぎた。何をどう考えていたにせよ、結果的にマテリアが重傷を負い、俺が無傷であるのはどうしようもない事実だ。
 もしここで「いや、俺としてはちゃんと庇ったつもりだっんだが、気付けばあいつの方が大怪我をしていて、何故か俺は無傷だった」などと言い訳めいたことを言ってみろ。すかさず目の前の〈エクステンド〉は俺を本気で蹴り飛ばすだろう。下手な言い訳は絶対にできない。
 思えば路地裏のあの時、こいつは俺にマテリアを任せたのかもしれない。よく考えれてみれば、こいつなら刻零騎士団を蹴散らした後でもすぐに俺たちに追いつくことが可能だったはずだ。だがこいつは敢えてそうしなかった。
 そうなのだ。こいつは俺よりも遙かに『マテリアに近しい存在』だった。同じ〈エクステンド〉として共に長く『水晶機関』で過ごしてきたのだ。あいつの望むことなんて十分理解していたことだろう。
 だから敢えて見逃した。そういうことだ。
 その結果がコレだ。『水晶機関』はマテリアの『処分』を決定し、エルザとベルゼを派遣した。彼女が選んだ人間ならば、とマテリアを託した男は思っていたよりも遙かに無能で、肝心な時には何の役にも立たなかった。そしてフェアリーアイ≠フ少女は一歩間違えれば死んでいたような重傷を負った。
 そりゃ怒るしかない。信頼を裏切った俺に対しても憤りがあるのだろうが、何よりそんな低脳を信じた自分自身に腹が立っているに違いなかった。
 怒りの眼差しを突き刺してくるアレスに、俺は答える言葉を持たなかった。
 ぶっちゃけて言おう。正直、俺自身はさほど罪悪感を感じてはいない。俺の境遇も考えて欲しい。元々から理不尽な話だったのだ。俺に無理矢理くっついてきたのはマテリアで、今回の件もあいつの関係者が引き起こしたものだ。客観的に見れば、むしろ巻き込まれたのは俺の方なのだ。そうだろう? そもそもあの双子は『水晶機関』の処分執行官だろうが。悪いのはあっちで、どう間違っても俺じゃない。
 気持ちはわかる。だが言っては悪いが、俺に対するアレスの怒りはただの八つ当たりだ。自分の上司に噛み付けないから、こいつにとってはより立場の弱い俺に対して牙を剥いているだけだ。
 だから俺はこう言った。
「俺を殴って気が済むなら殴れ。そうでないなら、離せ」
 この行為が八つ当たりでしかないことはアレスも自覚していたのだろう。
「くっ……」
 と苦々しく吐き捨て、俺の胸ぐらから手を離した。本来ならば俺に掴みかかる道理はないことを知りながら、それでもそうせずにはいられなかったのだろう。
 俺は襟元を正しながら、淡々と事実のみを述べた。
「マテリアなら手術中だ。命に別状はないらしいから安心しろ。ただ、しばらく入院することになりそうだ。それより、お前も手当を受けた方がいいんじゃないか?」
「結構です。自分で済ませましたので」
 落ち着いているように見えて、こいつも結局は子供だったということだろう。やけにこちらを突き放すような態度を取りやがる。まぁ、こちらとしても仲良くするつもりは毛頭ないがな。
「で、俺の質問に答えろ。エルザとベルゼはどうした? お前なんだろ? 喫茶店の壁に大穴開けたのは」
「ええ。本部であの二人が派遣されたと聞いて飛んできました。そこで間抜けにも気絶していたあなたとマテリアさんを確認した後、両執行官をあの場から遠ざけるために戦闘を行いました」
 間抜けにも気絶していた、とは言ってくれる。とはいえ紛れもない事実だ。弁解のしようもない。怒るのも大人げないので、俺はその部分を聞き流すことにした。
「ってことは、あの二人は死んだのか?」
 それならマテリアが完治するまで心配事はなくなるのだが。予想通り、アレスは残念そうに目を伏せると、首を横に振った。
「……いいえ。殺してはいません。すんでの所で逃げられました」
「嘘つけ。殺せなかっただけだろ」
「!?」
 俺の舌鋒にアレスは驚愕の表情を浮かべた。深緑の瞳を見張って、俺の顔を見つめる。男に見つめられても全然嬉しくないがな。
「お前な、路地裏の時もそうだったが基本的に殺気を感じないんだよ。マテリアから聞いたが、正義の味方に憧れてるんだってな? 目指してる所は確かに立派だがな、それじゃ何にも守れないだろうが」
「…………」
 アレスは俺から視線を逸らし、眉根を寄せて押し黙る。
 マテリアの話を総合するに、アレス・フォルスターという人間は「自分とは正反対の人」となるらしい。
 極端な例で言えば、マテリアは自分のために他人を犠牲にできる人間だ。つまり貴重な少数のために無価値な大多数を切り捨てる性格を持つ。実際、自分を殺しに来た連中の一人を躊躇いなく殺していたことから、これは間違いない。
 だが、アレスはそうではない。アレスは逆に、圧倒的多数のために少数を切り捨てる派だ。つまり、他人のために自分を殺して動く人間なのだ。そんな奴だからこそ、正義の味方などというまやかしに憧れるのだろう。
 俺にしてみれば、甘い、としか言いようがない。路地裏でのこともそうだ。今になって文句を言うぐらいならば、あの時、無理矢理にでもマテリアを連れて帰っていれば良かったのだ。それを妙な情けを出して自由にさせるからこのような事になる。アレスに全ての責任があるとは言わないが、一端を担っていることは自覚してもらいたいものだ。
 正義の味方だろうが何だろうが、好きなものを目指せばいい。俺はそう思う。だがそれ故のジレンマに陥って、始末しなければならないものを始末出来ず、結果的に被害を拡大させるような真似は愚劣の極みだろう。反吐が出る。
「ヴェイルの話によると、あのクソガキ共はお前のとこの本部でも連絡がつかないらしい。間違いなく、またマテリアの奴を狙いにやって来るぞ?」
「……それなりの手傷は与えました。三日ほどは万が一を考えて両執行官も動かないでしょう。それに、私はそのためにここに来たのです。私が、マテリアさんを守ります」
 むっすりとした顔でアレスは言った。おいおい、それが『笑う殺し屋』なんていう異名で呼ばれている奴のする顔か?
「そうかい。それじゃ頑張ってくれ」
 延々と子供の相手をするほど俺は物好きではない。そうやって適当に話を切り上げると、俺はマテリアが入っているであろう手術室へ向かうことにした。
 と、その時だ。廊下の角から片腕のないヴェイルが姿を現した。
「あ、ゼテオ兄さん。ここにいたんですね」
 こちらの姿を確認して歩み寄ってくる。近づくにつれて、傍のアレスに気付いたのだろう。顔面を蒼白にして、
「フォ、フォルスター保護回収官……!?」
 『水晶機関』という組織内における上下関係の色々があるのだろうが、俺には興味がない。
「ヴェイル、マテリアは?」
 自分の上司に向かって吐き出す言葉を考えているヴェイルに、不意打ちのように質問を喰らわせる。
「えっ? あ、はい、今ちょうど手術が終わったところで、無事に」
「そうか」
 短く答えてその横を通りすぎる。少し歩くと背中にヴェイルとアレスの会話が届いてくる。細かい内容はよく聞こえなかったが、ただアレスの声が俺と相対した時とは打って変わって、やけに笑顔なのが気にくわなかった。ほほうそうか、俺には愛想振りまく必要は全く感じなかったというわけか。嫌味なガキだ。
 手術室の前へ行くと、ちょうど中から医者が出てくるところだった。話を聞くと、背中への皮膚移植は無事に済んだという。あとは回復を待つだけだが、あのお嬢さんならそれも早いでしょう、とのことだった。
 俺は儀礼的に礼を言って、医者の前を辞した。どうせ今から病室に行っても、マテリアは全身麻酔を受けているから話も出来ないだろう。俺はナースステーションに向かって、仮眠室を借りることにした。一度自分の部屋へ戻ることも考えたが、どうにもアレスの言う「双子は三日は動かない」という話を信用する気にはなれなかったのだ。もし部屋でのうのうと寝ている内にマテリアが殺されては、俺もかなり夢見が悪い。それに、マテリアをここへ運び込む前に俺は俺に誓ったのだ。
 もう誰も俺のために死なせやしない、と。
 だから今回、マテリアには傷が完治するまでは何があろうと絶対に生き残ってもらう。そのためなら俺は無償でボディーガードでも何でもしてやろうではないか。
 何度でも思う。アシュリーの時の二の舞はごめんだ、と。
 敵対関係にある奴ならともかく、俺なんかを庇うために誰かが死ぬなんて事は間違っているのだ。特に、女子供がそんなことのために死ぬなんてことは、絶対にあってはならないことだ。
 別段、今回マテリアを守りきったところでアシュリーが生き返るわけでもない。だが、俺自身があの頃からちゃんと変わっているのだと、そういう証が欲しかった。
 そうすれば何かが救われるような気がした。
 思えば俺はアシュリーが死んだあの瞬間から、ずっとある種のジレンマに囚われているのかもしれない。
 俺には生きている価値があるのだろうか。俺には誰かを身代わりにしてまで生きる価値があるのだろうか。そんな価値など微塵もないのではないか。アシュリーの死は無駄ではなかったのか──と。
 考えたってもうどうにもならない。あれはしょうがなかったのだ。何度もそう繰り返した。
 あの時、俺に向かって「よかった」と言って死んでいったアシュリーは、何が良かったと思っていたんだろうか。
 俺自身に対して何かしらの価値を見いだしていたから、身を挺して守ったのだろうか。そして俺の無事な姿を見て「よかった」と言ったのだろうか。
 あれはただ反射的に身を差し出してしまっただけで、その後で俺が〈エクステンド〉だとわかったから「よかった」と思ったのだろうか。
 どれだけ考えようともう答えは出ず、悩めば悩むほど何もかもがわからなくなっていく。そんな泥沼に、俺は今でも浸かり続けているのだ。
 俺は何を求めているのか。俺はどう救われたいのか。
 未だ答えはわからない。




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