血に濡れた聖剣
─〈エクスカリバー〉─






 殺風景な控え室の中で、真士は長椅子に腰掛けていた。背を丸め、両肘を太股の上に載せ、俯いている。

 そして、その体は微かに震えていた。

 清潔な光に満たされた、青い長椅子以外何もない部屋で、少年はただ震えている。

 祈りを捧げるような表情で。

 と、

 灰色の天井に張り付いたスピーカーが音を放った。

『〈エクスカリバー〉。時間だ』

 ノイズにまみれた声が真士の耳朶を打つ。少年の体が、びくり、と震えた。

 彼は顔に苦悩の色を浮かべ、しかしゆっくりとした動作で立ち上がる。

 白い長袖Tシャツにブルージーンズ、そしてパーカー付きベストという格好の少年は、控え室の扉を開け、廊下に身を移した。

 視線を右──これから自分が向かう先に向ける。

 見えるのは白い廊下に、白い壁。そしてその先にある、緑色のペンキに塗られた鉄の扉だ。

 そして二秒程、動かない。立ち尽くす。

「…………」

 吐息。

 彼は自分にしか聞こえない溜息を吐いた。

 そして歩き出す。黒いバスケットシューズで、静かに白亜の廊下を進む。

 キュッ、キュッ、という足音がひどく耳についた。

 真士はゆっくりと扉に向かい──ノブに左手をかける。

 そして、入り口をくぐった。

 

 染み一つ、塵一つない、白の空間。

 扉の向こうはそんな場所だった。

「…………」

 真士は無言で辺りを見回す。

 巨大な円柱をくり抜いたかのような、天井の高い、広い空間だった。丸井戸の底のようでもある。円の直径は十メートル程、高さは三十メートル程か。

 真士の真っ正面──先ほど彼がくぐった扉と向かい合うように、前方の壁にも鉄の扉が張り付いている。

 そしてその前に、立ちはだかる様に一人の少女。

 歳の頃は十七、八だろうか。黒と白の縞模様のTシャツに赤いキュロットパンツという格好で、手に抜き身の日本刀を握った少女である。

「……!」

 予想していた事とはいえ、真士は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。

(……どうしてっ……!)

 心の叫びはしかし、口を衝いて出ない。

 少女は真士に、怯えの表情を向けていた。その体は小刻みに震え、両手で危なっかしく握られた日本刀がカチャカチャと音を立てる。

 真士は思わず少女から視線を逸らし、深い溜息を吐く。その顔は苦渋に歪んでいた。

(どうして、こんな事っ……!)

『〈エクスカリバー〉。敵から目を逸らすな』

 真士の思考を遮るように、先程と同じノイズに脚色された声が響いた。びくり、と真士の体が震える。

「…………」

 真士は声に抗わず、言われた通り再び少女に視線を向けた。その瞳に浮かんでいるのは、怯え。しかし、少女が浮かべている怯えとはまた違う怯えだ。

 彼は少女に対して怯えているのではない。むしろ、自分が少女に対して『せざるを得ないこと』に対して怯えているのだ。

『よろしい。──では、戦闘準備をしろ』

 スピーカーから発された言葉に真士は上を見上げた。

 前方の壁。その高い位置に、窓がある。彼の位置から窓の向こうを見ることはできないが、誰かがいることは間違いない。そう、真士と少女を『殺し合わせようとしている』誰かが。

 真士は無駄だと思いつつも、その窓を睨み付けた。しかし当然の如く、窓の向こうからの反応はない。

 代わりに声が響いた。

『〈エクスカリバー〉。早く戦闘準備をしろ』

「…………」

 言葉に従い、真士は両腕をだらりと垂らし、目を閉じた。

 集中する。

 右手が飴のように溶ける──その感覚をイメージする。そして、さらに想像を膨らませた。どろり、と溶けた右手が、すーっ、と伸びる。まるで溶けたガラスの様に右手は伸び、一メートルほどの長さの棒となった。

 さらに集中する。

 一本の棒となった右手が、平らになっていく。そして、その色も鈍い銀色に変わっていく。

 やがて真士のイメージの中で、彼の右手は鋭い刃となった。

 右腕が、剣に変化したのである。

「…………」

 目を開く。そして右腕を軽く持ち上げ、視線を向けた。

 そこには、鈍い銀光を放つ、剣となった右腕があった。

「──っ!」

 我が身のおぞましさに、真士は思わず顔を歪める。

「…………」

 深く、吐息。真士は己を落ち着かせるため、二、三度、深呼吸を繰り返す。

 それから、前方の少女に目を移した。

「あ……ぁっ……!」

 彼女は瞳に涙を浮かべて、真士を見ていた。ガタガタと体を震わせて、怯えている。

 目の前で起こった異常に、恐怖している。

 無理もない。人の腕が金属の刃になるという異常な光景を、目の当たりにしたのだから。

『──よし。始めろ』

 スピーカーから短い言葉が発された。

 途端、プー、とも、ブー、ともつかない電子音が白い空間に鳴り響いた。音は数秒鳴り続け、やがて余韻を残しつつ、消える。

 そしてノイズまみれの声はこう言った。

『殺せ。〈エクスカリバー〉』

 

 時は一週間前に遡る。

 気がつくと真士は見知らぬ場所にいた。

 一瞬、病院かと思った。白く清潔な部屋に、同じく白く清潔なベッド。彼はそのベッドの上で寝ていたのだ。

 上半身を起こし、辺りを見回したが、ベッドは真士が座している物しかない。部屋は、がらん、としていた。窓から射し込む陽を見るに、昼間のようだ。

 彼が当惑していると、白いドアを開いて一人の男が現れた。

 ダークグレイのスーツに身を包み、濃いサングラスで目を隠した初老の男だ。オールバックにした髪には所々、白い物が混じっている。

 男は『男爵』と名乗った。

 そして訝しげな視線を向ける真士に、その男はこう言った。

『初めまして、と言うべきだな。岩崎真士──いいや、〈エクスカリバー〉』

 当然の如く、真士は男爵の言葉を理解できなかった。

 だが、真士が疑問を問うよりも早く、男爵は話を続ける。

 単刀直入に言おう、と前置き、彼は言葉を噛むようにしてこう言った。

『お前は、改造人間だ』

 と。

 苦笑混じりに言われたこの言葉に、真士も思わず苦笑いを浮かべた。

 いきなり現れた人間に、お前は改造人間だ、と言われ、はいそうなんですか、と応える輩はまずいないだろう。

 だが次の瞬間、真士は気付く。男爵の表情が、堅い。冗談を言っている顔ではない。

 本気で言っている、と。

 戦慄した。

 もし男の言うことが事実ならば、真士の体は知らぬ間に造り変えられたと言うことになる。

 何をされたのか?

 もしかしたら取り返しのつかない事をされたかもしれない。

 そう考えて、背筋が凍り付いた。人は自らの与り知らぬ所で、己の体が急激に変化する事に恐怖を覚えるのだ。

 口を開こうとして、喉がカラカラなのが判った。声が出ない。

 そうこうしている内に男爵が口を開き、話は続いた。

 だが真士はその時、男爵が何を言っていたのか、ほとんど覚えていない。話を聞くにつれ、己が改造された事実を認識してしまい、その衝撃のあまり思考が停止してしまったからだ。

 だが、最後の言葉だけは、やたら鮮明に覚えている。

『お前は私の所有物だ』

 

 そして、次の日から人殺しを強制された。



「──あああああああぁっ!」

 少女が走り出した。真士に向かって。

「!?」

 真士は素早く身構える。ほぼ条件反射だ。人殺しもこれでもう七回目。体が戦闘を覚え始めている。



 初めて殺したのは、大柄な男だった。真士は今でも覚えている。あの、他人の人生を力尽くで断ち切る、おぞましい感触を。

 あの日以来、真士は毎日毎日この闘技場の如き『白い部屋』に呼ばれ、殺し合いを強制された。

 一日目は金属バッドを持った、身長が真士より二十センチも高い男。二日目は良い体格を空手胴着に包んだ男。三日目はジャックナイフを持った金髪の男。全員、右腕の剣で斬り殺した。これには自分でも驚いた。右腕の剣は、人体をまるで豆腐か何かのように切り裂く力を持っていたのだ。

 だが、あの頃はまだよかった。今の真士はそう思う。

 最初の三人は『大人の男』だったからだ。彼らも真士を殺さなければ自分が殺されることを知っていたし、そのためか、彼らの全身からは殺気が放たれていた。

 自分を殺そうとする相手に抵抗しないほど、真士は臆病でも馬鹿でもない。

 人を殺すことについて恐怖や嫌悪はあったが『生き残るためには仕方ない』と思うことで、真士は最初の三人──『大人の男』達を殺すことが出来た。

 だが、それは所詮言い訳だった。

 四人目の相手は、中学生くらいの少女だった。真士はハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けたのを覚えている。

 『生き残るためには仕方ない』という言葉が頭の中から蒸発した。

 彼は抗議した。女を、しかも子供を、殺すことなど出来ないと。しかし、窓の向こうは非情だった。スピーカーが言う。

『殺せ、〈エクスカリバー〉』

 彼は拒否した。殺せない、殺すものかと。そして、こちらを見て怯えている少女を安心させるため、近寄ろうとした、その瞬間だった。

 銃声が空気を震わせた。

 音は連続した。数秒間、幾百の銃声が木霊する。

 その間、少女は幾百もの鉛玉に全身を貫かれていた。

 音が止み、少女はどっと倒れる。驚きのあまり硬直していた真士だったが、少女の胸が微かに上下しているのを見て、慌てて駆け寄った。

 彼女はまだ生きていた。いや、それどころか、ゆっくりではあるが、真士の見ている前で傷が塞がっていくのだ。

 目を剥く真士に、スピーカーが言った。

『その娘も、改造人間だ。これぐらいでは死なんよ』

 愕然とした。そして、しなくてもいい想像をしてしまった。

 もし自分がこの少女を殺さなければ、男爵達はこの子をいくらでも銃弾でなぶるかもしれない、と。

 殺すべきかもしれない、と思った。同時に、そう考えた自分に恐怖した。今まで『出来るわけがない』と思っていた殺人が、『やろうと思えば出来る』事になっている。知らない内に変わっていた自分に驚愕した。

 ──結局その日、真士は少女を殺せなかった。与えられた部屋で、眠れず、訳もわからず、ガタガタと震えていたのを覚えている。

 次の日、人間という生き物の恐ろしさを知った。

 とある部屋へ呼び出され、扉を開くと、そこには男爵がいた。薄暗い部屋の中で、彼は真士に椅子を勧めると、意味深な笑みを浮かべ、傍らのテレビとビデオデッキの電源を入れた。リモコンのボタンを押し、ビデオを再生する。

 再生された映像を見て、真士は一瞬、自分をここに呼んだ男爵の意図を汲み取りかねた。

 ビデオは十八歳未満は見ることが出来ない内容だったのだ。画面の中では、数人の男に一人の少女が輪姦されている。

 画面いっぱいに、涙でぐちゃぐちゃになった【昨日の少女の顔】が映った。

 よく『死ぬほど驚いた』と言うが、正にそれだった。この瞬間、真士は自分の中の何かが、音を立てて壊れた気がする。

 目を背けようとして、許されなかった。無理矢理目を開かされ、否応なしで見たくない映像を見せつけられた。

 画面の中で、少女は男に犯され、次に目に挿した電極に電流を流されたり、力尽くで歯を抜かれた歯茎を棒でかき回されたり、ありとあらゆる拷問を受け、

 最後にはあっさり首を跳ねて殺された。

 ビデオには最後の最後まで映っていた。首の断面から血を噴き出し、小刻みに震える少女の体が、もうピクリとも動かなくなるまで。

 そして一時間後。真士はまた『白い部屋』に呼ばれた。

 相手は小学生くらいの女の子だった。

 真士はその子を殺した。



 真士は右に動き、突進してきた少女の日本刀を避けた。

 この娘も、自分が殺さなければあの少女のように殺されるのだ。人の行いとは思えない、残虐なやり方で。

 そう考えて、真士の胸は締め付けられるような苦しみを抱く。

 殺りたくないのに、殺らねばならない。出来ることなら泣いて跪き許しを乞いたかった。

 躊躇を振り払えないまま、真士は右腕を繰り出した。狙いは少女の手に握られた日本刀。鍔の部分に切っ先をぶつけ、

「あっ──!」

 上に向かって弾き飛ばした。一瞬にして少女は無防備になる。真士の瞳が両腕を上に上げた少女の、がら空きになった腹を捉えた。

 絶好の機会。このまま右腕を振り、少女の腹を横一文字に切り裂けば、この戦闘は終わる。全ては一瞬で、少女に多少の苦しみを与えるだけでその人生を絶つ事が出来る。あの時の少女のような苦しみを与えることなく。

 この瞬間、真士は決意を固めた。少女を斬り殺す、と。

 真士は右腕に力を込め、

「──きゃっ!」

 【左手で少女を突き飛ばした】。突っ込んできた反動で彼女は勢いよく尻餅をつき、派手に転がる。ガチャン、と日本刀が真士と少女の間に落ちた。

「……!」

 真士は自分の行動に自分で驚いた。まじまじと、少女を突き飛ばした自分の左手を凝視する。今、自分は少女を殺そうと右腕に力を込めたのではなかったのか。何故。何故斬らなかった。斬ればそれで終わりだったのに。

 やはり、心のどこかに躊躇いが残っていたのか。真士の顔に苦渋が浮かぶ。

 と不意に、視界の隅に何か黒い物が映った。視線を向けると、それは壁の一部から突き出た、鈍く光を反射する黒い銃身。

「!?」

 焦った。これは脅しだ。男爵が無言で『早く殺せ』と言っている。『さもなければこの間の様にその娘を蜂の巣にするぞ』とも。

「う、あ……」

 真士は呻き、一歩後退した。彼は壁から突き出た銃身と起きあがろうとする少女を、慌ただしく交互に見る。視線が何度も何度も往復する。その内、全身が震え始めた。ガクガクと、膝だけでなく体中の関節が笑う。

 このままでは、この少女が、あの時の少女と同じ目にあってしまう。

 それだけは、それだけは避けねばならない。

 やがて起きあがった少女が恐る恐る真士を見上げ、視線で牽制しつつ日本刀を手に握り、立ち上がろうと

 出し抜けに真士はキレた。

「うあああああああああっっ!」

 絶叫する。左手で顔を無造作に覆い、俯き、肺腑の奥底から声を絞り出す。

 喉から声を迸らせながら、真士は思う。

 いっそのこと狂ってしまえ。そうすれば全ては楽になる。人殺しだって出来る。殺した後の罪悪感に苛まれる事もない。

 狂ってしまえ。

 全ての感情を声に換えて吐き出し、彼は無理矢理に自分を塗り替えようとする。

 心の奥底から、力尽くで殺意を引きずり出す。すると、まるで栓を失ったかのように憎悪と狂気が体の中から溢れ出てきた。

 ドス黒い感情が真士の心を占めるのに、そう時間はかからない。

 そして、真士の目の前は真っ白になった。



 殺す。意識も思考も感情も全て吹き飛び、真士はそう考えるだけの生き物になった。



 真士は立ち上がった少女の背後に一瞬で移動した。その動き、正に電光石火。突如、少女の背後に真士が現れたようにも見えた。少女は真士が視界から消えた事に、まだ気付いていない。それほどの一瞬の中、真士は右腕を上から下に振り下ろす。

 鈍い銀色の刃が少女の脳天に入る。そして何の抵抗もなく刃は走り、肉を豆腐か何かのように切り裂く。血はまだ噴き出さない。それほどの一瞬の中で、真士は少女を真っ二つにした。

 まだ終わらない。殺意は止めどなく噴き出す。真士の体は止まらない。自動的に動く。

 滅茶苦茶に右腕を振り回した。白銀の刃が何の規則性もない軌跡を描き、少女の体を切り刻む。

 細切れにされた肉が宙を舞い、一瞬遅れて、思い出したように血を噴いた。

 バケツをひっくり返したような血が、一斉に白い床に向かって落下する。重力に引かれる血液ですら、真士は切り刻んだ。嵐の如く白銀の刃が落ちる鮮血をかき回す。血がすさまじい勢いで飛び散る。真士の全身が赤く染まっていく。

 一秒後、真士は動きを止めた。刃を左から右に振り風切り音を立て、ピタリ、と静止する。

 ざばぁ、と血と肉が床で弾けた。

 間。

 剣先から血が滴り、白い床の上で小さな水っぽい音を立てた。

 血の池にぽかりと浮かぶ肉塊。それが突然、ずぶずぶと液化していく。どろっとした液体になった肉は血と混ざり、嫌な色の液体と化した。もう何処が目で何処が鼻だったのかよくわからない。そしてその上に、元は衣服だった細かな布切れがはらはらと舞い降りる。

 真士は動かない。硬直している。息一つ、乱れていなかった。

 スピーカーがノイズを発し、くぐもった拍手と共に声を出した。

『上出来だ、〈エクスカリバー〉。大分慣れてきたな』

 その声は、低く笑っていた。暗い満足を覚えた者の笑いだ。

 真士は動かない。

 すると突然、高い天井に張り付いたスプリンクラーが大量の水を放出した。豪雨の如く水が降り、真士は一瞬にしてずぶ濡れに。全身の返り血が洗い流される。少女だった物は水と混ざり、部屋の隅にある排水溝に流れ込んでいく。【高速超微震動する刃】に細切れにされて液化した肉と、肉からこぼれた血液は、水に流すだけで処理できるのだ。

 滝のような雨に身を打たれても、真士は動こうとしない。激しい雨の中、スピーカーが言う。

『部屋に戻っていいぞ、〈エクスカリバー〉』

 一拍置いて、右腕をゆっくりと下ろし、真士は歩き出す。少女と水が混じった液体に靴を浸け、自分が入ってきた鉄の扉を開け、退室。

 扉が閉まる。

 と、突然、打音が響いた。

 肉と鉄がぶつかり合う音だ。それは連続して三度鳴り響く。

 次いで、扉の向こうで、絶叫が迸った。

 が、それらは全て水音にかき消され、真士以外の人間が聞くことはなかった。



 彼は、狂えなかったのだ。



 ◎



 雪村清隆は、自称ロマンチストの生物学者である。

 それだけだ。真士は眼前にいる男について、それだけしか知らない。

 まるでセットしていない、ボサボサの髪。一度もアイロンをかけたことがないのではと思う程、よれよれの白衣。その中に纏った、これまたよれよれの白いカッターシャツに、黒いスラックス。そういえば以前見た時と格好が全く変わっていない。もしかしたら、あれから一度も風呂に入らず、着替えもしていないのかもしれない。以前見たのは三日も前だというのに。ちなみに真士は濃紺のデニムシャツに同色のジーンズ、そして黒いバスケットシューズという出で立ちだ。

 先端から細い煙を立ち昇らせる煙草をくわえた雪村は、手にした書類に視線を注いでいる。と、やおら、パイプ椅子に座る真士からの視線に気付いたのか、

「やあ、ゴメンゴメン。もう少し待ってて」

 と笑顔で言って、再び書類に視線を戻す。

 狭い部屋だ。灰色の事務机が一つ、机の上に銀色の灰皿が一つ、茶色のパイプ椅子が二脚。これらしかない。真士は、まるで警察の取調室みたいだな、と言う感想を抱いた。

 手持ち無沙汰の真士は、何気なく辺りを見回した。白い壁に囲まれたこの部屋にも、やはり窓はない。真士はここに来て以来、太陽の光を浴びていないのだ。

 上を見上げると、明るい蛍光灯が二本。ここも、あの部屋──真士が白い部屋に行く前に入る控え室──と同じだ。白く清潔な光に満たされている。

 視線を、机を挟んだ向こうに座っている男に向けた。雪村は真士の視線に気付かず、机に両肘を突き、一心不乱に書類を読んでいる。その表情は凛々しい。先程真士に向けた笑顔と比べて、随分な落差がある。まるで別人だ。ちなみに真士からは書類の裏しか見えず、それがなんなのかはわからない。

 と。

「ふぅ……」

 雪村が軽い溜息を吐いた。白い煙が、もわっ、と吹き出る。そして、凛々しい表情から一転して、再び笑顔を浮かべた。

「いやぁ、待たせてゴメンね」

「いえ……」

「さて、じゃ、講義を始めようか」

 言って、雪村は先程まで目を通していた書類を、灰色の机の上に置いた。真士はそれに目を向けようとして、

「あ、こっちはまだ気にしなくていいよ。後でちゃんと説明するから」

「あ、は、はい」

 雪村の言葉に思わず姿勢を正して顔を上げた。それを見た雪村は、にっ、と唇の端を吊り上げて笑う。

「うん、君はいい子だ」

 言いながら煙草を右手でつまみ、灰皿で押し潰した。ふーっ、と最後の煙を吐き出す。

「えっと……前はどんな事を説明したんだったかな?」

 『前』とは三日前のことだ。三日前にも、真士はこの男から『講義』を受けている。

 雪村は視線を泳がせ、記憶を探った。が、それよりも早く、真士が言う。

「僕の……剣の事です」

「あーあー、そうだったそうだったね。ありがと。じゃ、復習しよっか」

 雪村は肘を突いたまま、右手の人差し指で真士の右肩を指さす。

「そう、君の右腕が変化した剣──あ、男爵さんが言うにはエクスカリバーだったっけ。それは前にも説明したとおり、目には見えないんだけど超高速で微震動しているんだ」

 真士の脳裏に、血の池に溶ける肉塊が浮かんだ。そう、少女だった物が、その血に溶ける光景だ。気分が、急速に沈んでいく。真士の表情は、暗いそれになった。すっと雪村から視線を外し、俯く。

「……はい」

 だが、そんな真士の反応を気に留めもせず、雪村は続ける。

「ほら、よく漫画とかであるじゃないか。超震動ブレード、ってやつ。アレだよ。細かく震動することで熱を発したり、触れた物の分子その物を直接揺らして分解したりするんだ」

「……はい」

 と、ここで雪村は出し抜けに遠い目になり、こう呟いた。

「にしても、右腕が剣になる改造人間。……うーん、男のロマンだねぇ」

 どこが男のロマンなんだ、と真士は思う。こっちはこんな腕など、出来ることなら今すぐにでも切断してしまいたいというのに。

 と、ここで雪村は我に返った。

「おっと……ん、よし、これで復習終わり。じゃ、解散」

「……え?」

 思わず顔を上げ素っ頓狂な声をこぼした真士に、雪村は破顔。

「冗談だよ、ジョーダン。いやぁ、君は本当にいい子だなぁ。そんなに真面目で、疲れやしないかい?」

「い、いえ……」

 再び、真士は俯く。雪村はそんな真士の様子がおかしくて堪らないらしく、小さく『あはは』と笑った。

「さて。じゃあ、今日は前回の続き。前はすぐに終わったけど、今回は長いから覚悟してね。──題して『何故君の右腕は剣に変化するのか』だ」

 雪村は右手を白衣のポケットに突っ込み、そこから小さなメモ帳を取り出した。青い無地の表紙の、そこらの文房具店で売っている物だ。が、メモにしては少し厚い。何かを表紙の裏に挟んでいるようだ。

 メモ帳を机の上に置き、男は再び右手をポケットに入れ、今度は黒いペンを取りだした。頭を回すと黒のボールペン、赤のボールペン、シャープペンのどれかに変化する物だ。これもよく文房具店で見かける。その表面に、薄く『清隆』と白い細い文字で書かれているのを、真士は見た。

 雪村はメモ帳を開き、白紙のページの上にシャープペンシルを走らせた。適当な掌の絵を描く。

「例えば、これが君の手としよう。あ、汚い絵でゴメンね」

 言いつつ、彼はペン先で絵を何度かつつき、無数の点を付けた。

「この点。これが、君の秘密だ」

 真士は首を伸ばし、メモ帳を覗き込んだ。手の絵の、手首あたりに、幾つかの点が集中している。

「この点はね、ナノマシンなんだよ」

「……ナノマシン?」

 オウム返しにした真士に、いつの間にか表情を引き締めたのか、雪村が真面目な顔で頷く。

「君は、漫画を読んだり、科学や物理、医学に興味があったりするかな?」

「は、はい……一応」

「そっか。ま、念のために説明するとね、ナノマシンって言うのはものすごく小さな機械のことを指すんだ。センチの十分の一が、ミリ。ミリの千分の一がマイクロ。あ、マイクロマシンって言うのは有名だね。そして、マイクロのさらに千分の一が、ナノ。さらに小さいのでピコとかアトとかがあるけど、これはまあいいや。……どう、わかる?」

 雪村の問いに、真士は顎を引くようにして頷いた。すると、雪村は微笑みを浮かべた。

「よろしい。君は頭もいい子だね。さて、そのナノマシン。とても小さいんだよね、ほんと。人間の細胞より小さいんだ。だから、医療ではマイクロマシンのように体内に入って悪い虫を退治したり、物理だと周囲の原子分子を集めるなんて事が出来ちゃう。でも、実は現代の科学力では実現は不可能だと言われているんだ」

「……え?」

「吃驚した? いやぁ、僕も吃驚したよ。これを作った人の話を聞いた時は。僕の恩師の徳島博士って言う、無名の人なんだけどね。彼は何と、現代科学の先端を行くナノマシンを開発しちゃったんだよ、これが」

 真士は段々話が分からなくなってきた。ただ、

「はぁ……」

 と言うしかない。

「おっと、話が逸れちゃったね。とにかくだ、君の右腕には最先端技術であるナノマシンが埋め込まれている。君の右腕が剣に変化するのは、そのナノマシンの効果なんだよ。わかる?」

「……はい」

 ここで雪村は再び遠い目をして、

「にしても、ナノマシンで右腕が剣になる……うーん、愉快だねぇ」

 と呟いた。

 何が愉快なものか、と真士は思う。真士にとってこの事実は、むしろ悪夢だ。絶望と言ってもいい。右腕を見ていると自分が殺した人々の顔が脳裏をよぎり、今にも自殺してしまいたい衝動に駆られるのだ。

 不意に雪村は我に戻り、真士に向かって出し抜けに問うた。

「……おや? どうしたんだい、そんな怖い顔をして?」

「えっ?」

 言われて、真士はドキリとした。我知らず、表情が険しくなっていた。顔の筋肉が強張っている。

「あ、い、いえ、何でもありません……」

 慌てて顔を逸らし、ばつが悪そうに真士はそう言った。その様子に雪村は苦笑。

「へぇ。まあ、いいけど」

 さらりと話題を流し、そして先程目を通していた書類を手に取った。

「さて、次はこれの説明」

 トントンと机の上で書類を整え、上部を右手で掴み、真士に差し出す。

「いいよ、読んでごらん」

「あ、はい」

 真士は左手を伸ばし、書類を受け取る。そして、通読し始めた。

 それは、履歴書のような物だった。全面、側面、背面の顔写真と、プロフィールが書かれている。それが四枚。

「それはね、君以外の〈コーヅ〉のプロフィールだよ」

「……!?」

 真士は驚愕に満ちた瞳で雪村を凝視した。

 まさか、自分以外にも己と同じ境遇の人間がいたとは。

 正直、夢にも思わなかった。

「じゃあ、紹介しようか。まず一人目。そのポニーテールの女の子だね。この髪、結構長いんだよ。確かお尻ぐらいまであったはず。名前は見ての通り、鳳月夜ちゃん。顔や性格に似合わず可愛い名前だよね。……あ、今の爆弾発言? オフレコね」

 あはは、と雪村は笑う。この人は何でこんなに陽気なんだ、と真士は少々げんなりとした。

 手元の書類を見ると、写真にはやや目つきの鋭い、茶髪の少女が写っている。雪村の言うとおり、髪型はポニーテール。

「年齢は十五歳。君の二つ年下だね。大仰な名字で分かると思うけど、【元】名門の娘さんだよ。でも、凄く男の子っぽい娘でね。しゃべり方なんて、男の子その物なんだ。君は大人しいから、ちょっと圧倒されるかもね」

 雪村は真士の手元を覗き込みつつ、べらべらと説明する。その口元は、苦笑の形を取っている。

「で、この子のコードネームは〈ガイア〉」

 この言葉に、真士は、はっ、と顔を上げた。

 やっぱりあった、と思う。

 コードネーム。

 漫画や小説、ドラマの中にしかないと思っていた物が、今、自分に付けられている。そして、この娘にも。

 〈エクスカリバー〉──アーサー王が持っていたと言われる聖剣の名が、真士のそれだ。少年の右腕を揶揄してこのような名を付けたのなら、成る程、的確である。まるで皮肉だ。人殺しにしか使われていない剣が、聖剣とは。

 真士は、自分が男爵や雪村から〈コーヅ〉と呼ばれていることを知っている。言葉の意味をそのまま取るならば、コードネームを持つ者達、という意味だ。

 コードネームを持つ者が自分以外にもいるとは思っていたが、まさかこんな少女だったとは。

 おそらく残る三枚にも〈コーヅ〉のプロフィールが載っているのだろう。

「…………」

 書類に視線を落とし、真士はふと思う。

 真士をここに連れてきたあの男──男爵。そして、今目の前にいるこの男──雪村は、一体何を考えているのだろうか。

 そして、自分はこれから何をさせられるのだろうか。

 どうなるのだろうか。

 不安だけが、真士の心に募っていく。

「──で、身長は一五五センチ、体重五十キロ。……少し、体重多めかな?」

 と、雪村の声が真士を現実に戻した。

「うーん……この子に関しては、これぐらいだね。んじゃ、次行ってみようか」

 言われたとおり、真士は鳳月夜のプロフィールを一番下に回し、次のプロフィールへ。

「はい、二人目。元大学生の渚=ブルックスさん。イギリス人と日本人のハーフ。美人さんでしょ? 金髪も綺麗だしね」

 写真には金髪碧眼の少女が写っている。年齢の欄を見ると、十八歳。真士の一つ年上だ。

「この髪型は、何て言うのかな? ショートカットに……シャギーだっけ? 内ハネとも言うけど。うん、可愛い髪型だよね」

 この人は女の子なら何でも『可愛い』と付ければいいと思っているのだろうか。真士はふと、そんなことを思う。

「性格は至って温厚。というより、穏やかすぎてこっちが疲れちゃうよ。喋るのが遅くて会話がもどかしいんだよねぇ、この娘。あ、でも君とは相性がいいかもね。この子のコードネームは〈マシン〉。身長百六十センチ、体重四九キロ。あ、この娘は結構軽めだね。──んじゃ、次」

 ここで、真士は躊躇いがちに声を出す。

「あ、あの」

「ん? なんだい?」

 プロフィールに向けていた瞳を真士に向け、雪村は首を傾げた。

「〈ガイア〉とか〈マシン〉とか、どういう意味なんですか……?」

 この質問に対して、雪村は、にまぁ、と笑い、

「いやぁ、ゴメン。それは言えないんだよ」

 しかし答えは拒否。『ゴメン』と言いつつ、少しも悪びれた様子はない。

「……そうですか」

 真士はその笑顔から、何を言っても教えて貰えないだろうと感じた。諦め、プロフィールを差し替える。

「いやほんと、ゴメンね。──じゃ、三人目。元陸上自衛隊員の南武彦君。……いや、君じゃないか。武彦さんだね。二十一歳だから」

 写真には彫りの深い顔立ちの、角刈りの男が写っている。

「顔は、うん。正に体育会系って感じだよね。身長一八五センチ、体重七十キロ。身長の割に、少し軽いかな? でも、体格はかなりいいよ。痩せてるけど筋肉質。もうすごいマッチョマンってヤツだね。コードネームは〈オーラ〉。うん、実に彼にピッタリな名前だね。あ、まあ、詳細は言っちゃいけないんだけど。多分、見れば分かるよ」

 雪村は、うーん、と唸り、

「そうそう、性格だった、性格。彼は何というのかな……寡黙とか実直とか、そういう言葉が似合う人だね。悪く言えばカタブツ」

 再び、うーん、と唸る。そして、左の人差し指で額の真ん中辺りをポリポリと掻き、

「いやぁ、男に関しては言うこと浮かんでこないねぇ。参った参ったー」

 あはは、と陽気に笑った。

 真士は正直、呆れた。ここまで変に陽気で開けっ広げな人間は見たことがない。学者には変人が多いと、何かでよく聞いてはいたが。

「さあさあ、さっさと終わらしちゃおう。講義はまだあるんだしね」

「……はい」

 溜息と同時に、真士はプロフィールを差し替えた。

「では、最後の一人。元フリーターの皆瀬秋了君。十八歳。彼も渚=ブルックスさんと同じで、君の一つ年上だね」

 プロフィールの写真には、髪を明るい茶色に染めた少年の顔が写っている。髪が長い。肩に触れるぐらいある。毛先が外に向かって軽く跳ねたボブカットだ。

「んーと……なんというか、今時の男の子だよね。そういえばこの髪型、どこかのアイドルそっくりだとは思わない? 流行なのかな? おじさん分からないや」

 あはは、と雪村は笑う。言われてみると確かに、写真の少年はすぐに流行に手を出しそうな雰囲気をしている。

「さて、彼のコードネームは〈デビル〉。いかにも悪そうな名前だよね。でもま、本人は別に悪い人じゃないよ。いい人とも言えないけどね。あ、自分で女好きを自称していたなぁ、そういえば」

 なるほど、と思った。よく見てみると、顔の造形が整っている。女性が好みそうな、また、女性を好みそうな顔立ちをしている──と思う。女性の感覚はよく分からないのだが。男の直感としては、この顔は『女好き』の顔だ。そう、真士は感じる。

「身長一七五センチ、体重六十キロ。うん、実に平均的だね。中肉中背とは正にこの事だよ。うんうん」

 雪村が何に納得してうんうん頷いているのか、真士には分からない。が、

「は、はぁ……」

 と相槌だけは打った。雪村はまたまた、うーん、と唸り、

「やっぱり、言うこと無いねぇあはははっ。んじゃま、これで終わりにしようか」

 と言って、真士に手を差し出す。真士はその手に四枚のプロフィールを渡した。雪村は机の上で、トントンと書類を整える。そして、右胸のポケットから煙草とライターを取り出しつつ、視線を空中に泳がせ、こう言った。

「んー……じゃ、ちょっと休憩しようか」

「あ、はい」

 真士が頷くと同時に煙草をくわえ、ライターで火を点ける。大きく息を吸い込み、ふーっ、と白い煙を吐き、彼はスラックスの右ポケットから六枚の硬貨を取り出し、机の上に置いた。

「えーっとね、そこのドアを出て右へ行った突き当たりに、自動販売機があるんだ。悪いけど、コーヒー買ってきてもらえないかな? 君の分もおごるから」

 机の上の硬貨は、ちょうど二四十円。缶ジュース二本分の料金だ。そして真士に断る理由は、無い。

「あ、はい」



 雪村の言うとおり、自動販売機はドアを出て右へ行った突き当たりにあった。どうやら休憩室らしい。突き当たりは広い空間になっており、真士の左手の壁際に自動販売機が三台。部屋の中心に青い長椅子が四本、平行に並べられている。

 そして、真士の真っ正面──つまり本当の意味での突き当たりには、白い壁と同化した扉があった。

 何処へ繋がっているのだろうか、と真士は思った。が、すぐさまその疑問を捨て去る。気にしても仕方がない。開くわけがない。どうせ鍵がかかっているに決まっているのだから。

 自動販売機の中身はどれも同じだ。適当に、一番左の自販機に硬貨を入れる。

 しかし、人間の頭はそう単純ではない。考えないようにしても、ふと気付けば考えているのが人間だ。

 真士は、あの扉が外へ繋がっていたらいいな、と思った。もし扉を開けて、そこが外に通じていて、逃げ出せたのなら、どれだけ楽だろうか、と。

 数種類あるコーヒーから、適当な物を選び、ボタンを押す。ガコン、という音が足元で跳ねた。真士は腰を屈め、取り出し口に左手を入れながら、さらにこう思う。

 逃げ出したい。

 ここから逃げ出して、自由になりたい。

「…………」

 真士は取り出し口に手を突っ込んだまま、ふぅ、と溜息を吐いた。

 我ながら馬鹿なことを考えているな、と思う。逃げたところで、どうするというのだ。第一、何処へ逃げるというのだ。ここが何処なのかも分からないのに。

 何より、自分はもう人殺しだと言うのに。

 越えてはいけない線を越え、踏み込んではいけない領域に踏み込んでしまったのだ。自分は。

 もう戻れないのだ。永遠に。

 そして、たとえここから逃げ出したとしても、剣に変化する血塗れの腕を持って帰る場所など、どこにもないのだ。ここ以外の、どこにも。

 真士は左手でコーヒーの缶を掴み、取り出した。掌に冷たさを感じてから、そういえば雪村からホットかアイスか聞くのを忘れていたな、と気付く。

 だから自分の分には、同じコーヒーのホットを買った。

 最後に、二秒ほど扉を見つめ、

 真士は踵を返した。



 ドアを開けると、雪村はいきなり両手を合わせ、謝罪してきた。

「あ、ごめんごめん。そういえば暖かいのか冷たいのか言うの忘れてたよね。どっち買って来ちゃった?」

「あ……分からなかったので、両方買っておきました」

「そう? やっぱり君はいい子だなぁ。んじゃ、僕は冷たいのをもらおうかな」

 真士は左手のコーヒーを雪村に渡し、パイプ椅子に腰を下ろした。ぎしっ、とパイプ椅子が軋んだ音を出す。雪村がプルタブを起こし、コーヒーを口に含んだのを確認してから、真士は自分の缶を開けた。ふと見ると、灰皿の中には吸殻が三本。たったあれだけの間に、二本も吸ったらしい。

 と、机の上に、一枚の紙があることに気付いた。ざっと見たところ、先程まで見ていたプロフィールと同様の物のようだ。

 そこに張り付いている写真には、真士が写っている。

「……?」

 缶を口に運ぶ左手が、止まった。雪村は真士の様子に気付いたのか、

「あ、それ? さっき見せるの忘れてたんだけど、それがこっちで用意した君のプロフィールね。見るかなぁって思って出しておいたんだ」

 雪村が言い終わる前に、真士はそのプロフィールに手を伸ばしていた。

 読む。

 すると、雪村が机の向こうから真士の手元を覗き込み、プロフィールの内容を読み上げ始めた。

「では、最後の最後の五人目。元高校生の岩崎真士君」

「…………」

 雪村はちらっと真士に視線を向けた。少年は沈痛な面もちで、プロフィールに視線を注いでいる。雪村はその様子に、微苦笑。そして続ける。

「年齢は十七歳。外見は見ての通り、短い髪になかなか凛々しいお顔。うん、真面目そうでいい顔だよ、ほんと。今時珍しいんじゃないかな?」

 誉められているのかそうでないのか。雪村の言葉に、真士は複雑な感想を抱く。が、悪い気はしない。

 ふと、真士は気付いた。プロフィールの顔写真。前と、横と、後ろからの計三枚の写真なのだが、真士はこれを撮った覚えがないのだ。先程の四枚のプロフィールのも含め、写真は全て、白い背景の首から上を撮影した物だ。いつ撮ったかを示す手がかりは、無い。あるとすれば、髪の長さだろうか。写真の真士の前髪は、眉より少し上に毛先がある。今の真士も同じぐらいだ。

 つまり、この写真は撮られて間もないということになる。

 おかしいな、と思った。が、よく考えれば、他人の右腕に信じられない改造を施す人間が用意した写真だ。どうせ合成写真かCGだろう。そう結論づける。

「僕が見たところ、性格は至って真面目。調べたところによると学校の成績も良好だった。頭もいい、と。その上、学校では剣道部に入っていたんだよね? 実力の程は知らないけど……んー、僕の予想じゃ、文武両道でなかなか強かったんじゃない?」

 雪村の質問に、真士は無言。肯定も否定もしない。だが、この場で沈黙は肯定に等しい意味を持つ。雪村は満面の笑みを真士に向け、

「ほぉら、やっぱり」

 と言った。事実、真士は剣道にはそれなりの自信と実力を持っていた。地区大会で準優勝した経験がある。

「身長一七一センチ、体重五四キロ。そしてコードネームは〈エクスカリバー〉」

 最後の『エクスカリバー』という単語が、ざくりと真士の胸を貫いた。

 〈エクスカリバー〉──それが、自分の名前。そして、この右腕の名前。

 人殺しの名前だ。

 と、真士の視界に、妙な文字列が入った。プロフィールの備考欄の『エクスカリバー』という単語の隣。そこに、

「……二番目……?」

 と、書いてあったのだ。顔を上げ、雪村に問うように視線を向ける。

 『エクスカリバー 二番目』──これはつまり『二番目のエクスカリバー』という意味ではないだろうか?

 だが、その答えは得られなかった。雪村は笑顔を浮かべ、右手をはたはたと振り、

「嫌だなぁ、真士君。それは聞かないお約束ってヤツだよ」

「…………」

 雪村の笑顔の前に、真士は再び何も言うことが出来なくなった。溜息と共に肩を落とし、プロフィールに目を戻す。他におかしな所はもう無かった。他のプロフィールと同じく、名前や生年月日や履歴等が書いてあるだけ。

「はい、これはこれでおしまい」

 雪村の腕が伸びて、真士の手からプロフィールを取り上げた。そして、それを机の隅に置き、その上に空になったコーヒーの缶を置く。

 コホン、と咳払い。

「さて、実はまだ講義があるんだ。というより、特別講習かな? あ、コーヒー飲みながらでいいから」

「……はい」

 言葉に甘えて、真士は缶に口を付ける。雪村はそれを尻目に、話を切りだした。

「まだ、人殺しに慣れてないらしいね」

「!?」

 真士は危うくコーヒーを吹き出しかけた。

「…………」

 真士は缶から口を離し──無言。ただ、その左手に持った缶の表面を見つめる。そして、動かない。黙ったままだ。が、雪村はそれを肯定ととった。

「ま、確かに人殺しってのは、異常な行動だよね。生物としても、理由もなく同族を殺すのは狂った行為だよ」

 真士は無言。

「……とはいえ、行為は行為だよね。同じ行為を何度もやっていると、そこには慣れが出てくるものなんだ。効率をよくしたり、反射的にでもできるようにしたり──自分の心を守るために、ね」

 真士は黙っている。雪村は真士を見つめ──

「──だけど、君はそうじゃない。そろそろ慣れてもいいのに、いつまでもいつまでも苦しんでいる。それは、どうしてだい?」

 真士は口を貝のように閉じている。

 沈黙が降りた。

 ──一分が過ぎる。

 やおら、雪村は吐息。

「……一つ、いいことを教えてあげるよ」

 真士は応えない。ついっ、と顔を右に背けた。雪村は机上の真士のプロフィールを、人差し指でトントンとつつき、

「君に殺される人たちも、君と同じ改造人間だって言うのは、前の講義で話したと思う」

 真士は動かない。かまわず、雪村は続ける。

「インプラント──あ、埋め込まれたナノマシンのことだけど──のおかげで、彼らも君と同じく、筋肉、神経、再生機構が人間離れしている。……だけど、知っているかい? 気付いたかい?」

 一拍。

「彼らにはコードネームがないんだ。もちろん君みたいな、腕が剣になるような特別な力も、ね」

 真士の表情に、僅かな変化が生じた。眉根にしわが寄り、『だからどうした』という表情を浮かべる。

「だからどうした、って顔してるね。まあ、話は最後まで聞いて欲しいな。つまりまあ、彼らのことを一言で言うなら──」

 一瞬の躊躇の後、雪村はすっぱり、

「失敗作、だね」

 と言った。

「彼らはナノマシンを埋め込んだにもかかわらず、何の変化もみせなかった。ただ単に全身が強化されただけ。ま、これはインプラントの効果だから当たり前。君のように何らかの形で特殊な所を見せなかった彼らは、君と比べて、失敗作という事になる。だから、いらない。いらない物はあるだけ邪魔でしょ? だけど、ただ捨てるにはもったいない。少しでも役に立てよう、となる」

 真士の目の色が、変わった。雪村に揺らめく瞳を向け、その顔を見つめる。唇が微かに動いた。が、掠れた声は、音にならなかった。口だけが開閉を繰り返す。その口の動きは『まさか』と言っていた。

 雪村は神妙な顔で頷く。

「そう。そのまさかだよ。彼らは捨て駒なんだ。君が、平気で人を殺せるようになるための、ね」

 一息。

「要するに、君が少しも心を乱すことなく殺人を行えるようになるまで、君の日課は続く。ちょっとした都合で失敗作はたくさんいるからね。人材には事欠かさないよ」

 真士の口が『そんな』と開閉した。しかし、声は出ない。その瞳は焦点を結んでおらず、どこか遠くを見ている。

「──話をもっとまとめようか。つまり、君は今五人しかいない『成功例』の一人で、言い換えれば『選ばれた人間』。で、君に殺される彼らはたくさんいる『失敗作』で、言い換えれば──ゴミ」

 真士の肩が、わなわなと震えていた。俯き、唇を噛み、拳を握りしめ、何かに耐えるように。

「ゴミ捨てなんて、最初は誰だって嫌なもんさ。だけど、いつかは慣れて、それが日常化して、何とも思わなくなるものじゃないかな? それに──」

 我慢の限界が、すぐそこまで来ていた。真士は体の奥底から噴き上がる感情を必死に抑制する。押し殺す。決して面に出さないように努めた。

 だがしかし、次の言葉が引き金を引いた。

「ゴミ処理の時に悲しそうな顔をする人って、普通いる?」

「──!?」

 真士の左手の中で、缶コーヒーが音を立てて握り潰された。

 アルミニウムのひしゃげる音が、室内に響く。

 温い褐色の液体が逃げ場を求めて缶の口から飛び出し、真士の左手を濡らした。

「…………」

 が、それだけだった。以降、真士は身じろぎ一つせず、何も言わない。雪村も同様だ。

 室内は静寂に包まれる。ぴちゃり、とコーヒーが床の上で水っぽい音を立てた。

 ゆっくり、雪村が口を開く。

「──いや、悪いね。ちょっと言い過ぎちゃったみたいだ」

 そして溜息を吐く。真士は応えない。ただ缶を握りしめた拳を震わせ、俯いている。

 が、やがて、

「……僕は」

 真士はポツリポツリと語りだした。

「僕は……あなたみたいに人殺しを、ゴミ処理だとか……失敗作だとか……割り切ることは出来ません」

 雪村は黙って真士の話を聞いている。

「何て言えばいいのか分からないんですけど、その……失敗作でも何でも、あの人達はやっぱり生きていますし、人殺しはやっちゃいけない事だと、僕は思うんです」

 雪村は胸ポケットから煙草を取り出し、一本をくわえ、ライターで火を点けた。

「人を殺すって事は、その先の人生を背負うような……そんな気がするんです。それは凄く重くて、痛くて……何て言えばいいのか分からないんですけど──」

 白い煙がゆっくり吐き出される。

 真士は自分の言いたいことを言葉に出来ない焦燥感に、缶をさらに強く握りしめた。突き刺すような痛みを掌に感じる。歪んで尖った一部が刺さっているのだろう。が、真士はその痛みを無視。どうせすぐ治る。

 上手く言葉に出来ないのなら、自分の気持ちを率直に言おうと思った。

 深呼吸。

 顔を上げ、しっかりした声できっぱりと言う。

「だから……だから僕は、割り切れません。人殺しは、嫌です」

 これに対し雪村は無言。何も言わず、ただ煙草を吸う。

 しばらくして、彼は左手を白衣のポケットに入れて、中から黒い革の財布を取り出した。そしてその中から一万円札を引き抜き、机の上に置く。滑らせるようにして、真士の前に出した。

「……?」

 不可解な行動を訝しがる真士に、雪村はこう言った。

「君は優しすぎるみたいだね」

 そして立ち上がり、机と真士の横を通り抜け、ドアの前で立ち止まる。真士はその動きを目で追った。

 白衣のポケットに両手を突っ込み、雪村は振り返りもせずに言った。

「君がさっきコーヒーを買いに行った所に扉があったでしょ? アレ、外に通じているんだ。鍵もかかっていない。あそこから外に出られるよ」

「……え?」

 突然ガラリと変わった雪村の話に、真士はキョトンとした。男の意図を、少年は汲み取りかねる。何の話だろうか。今そのようなことを教えてどういうつもりなのだろうか。

 疑問の解答は次の瞬間に与えられた。

 雪村は振り返らないまま、言った。

「逃げちゃいなよ」

「──!?」

 いきなりの予想外な言葉に、真士は思わず身を硬くした。目を見開き、雪村の白い背中を凝視する。

「君は優しすぎるよ。このままここにいたら、人殺しに慣れる前に君が壊れる可能性大だね」

 一息。雪村の頭の向こうで、もわりと白い煙が立ち昇った。

「逃げちゃいなよ。外に出てそのお金を使えば、多分家に帰れるから。大丈夫、男爵さんには僕の方から上手く言っておくよ」

 そう言い残して、雪村はドアを開け、

「じゃ、達者でね」

 最後に振り返り、にっ、と笑顔を見せて──部屋から出ていった。

 ドアが閉まり、真士は一人、部屋に取り残された。



 雪村は静寂に満ちた白亜の廊下に身を移し、ドアを閉めた。

 そっとドアに背を預け、ゆっくり煙を吐く。空中に昇っては霧散する煙をぼんやりと見つめ、

「……ナノマシンが埋め込まれている、ねぇ……」

 ポツリと呟いた。

 その口元が歪み、くっくっくっ、と押し殺した笑い声をこぼした。そして、自嘲気味に呟く。

「──僕もヤキがまわったなぁ……」

 深く、吐息。

 静かな廊下に足音を響かせ、彼はその場から立ち去った。



 十数分後。

 建物から真士の姿が消えていた。



 ◎



 はっきり言って、解せなかった。

 何故あの男が自分を逃がしてくれるのか、今でも分からない。

 休憩室のドアから建物を脱出し、山道を下っている今でも。

 真士が軟禁されていた建物は、山中にあった。背の高い木々に囲まれた土地に、大きく白い建物が鎮座していたのだ。真士が出てきた扉はどうやら裏口だったらしく、扉の外側に赤い文字で『関係者用出入口』と書かれた白いプレートが張られていた。

 真士は走った。誰かが追いかけてくるような気がして、それはもう必死になって山道を駆け下りた。木々に挟まれた狭い道を通り、木々に囲まれた広い場所に出た。そこには数台の車が停まっていた。どうやら駐車場らしい。そこから車でも通れる広い道に出て、真士はさらに走った。不安が背を押し、足の回転の速度は急速に上がっていき、左右にある木々の群が素晴らしい速度で後ろに流れていき、

 転んだ。

 それはもう、土煙を上げるほど派手な転び方だった。地面の上を一メートルほど滑り、ようやく停まる。

 数秒間、じっとしていた。

 地面に顔をぶつけて、真士は我を取り戻していた。鼻をさすりつつ、ゆっくり起き上がる。

 深呼吸。吐息は、微かに震えている。

 真士は改めて辺りを見回した。左右に森。前方と後方には道。空を見上げると太陽は見えるが、日光は木々の葉によって遮られている。辺りは薄暗い。

 落ちつけ、と自分に言い聞かせた。

 大丈夫。雪村といた部屋にカメラはなかった。あの男が監視されるのを嫌うからだ。前の講義の時もそうだったから覚えている。廊下や休憩室にもカメラはなかったはずだ。

 ──おそらく。

 残念ながらうろ覚えだ。こんな事になるならもっと自分の周囲を観察しておくのだったと後悔する。そういえば、与えてもらった部屋には監視カメラがあったが、アレは問題外。例え『部屋に戻って来るのが遅い』という理由で脱走がばれるにしても、それには時間がかかるはずだから。

 とにかく、自分が逃げ出したことは誰にも──雪村を除いて──分からないはずなのだ。第一、ばれているのなら今すぐにでも追手がやってきているだろう。

 だから今はとにかく落ちつけ。そう、今にも恐慌を起こしそうな頭に言い聞かせる。

 真士は今、確かな足取りで山道を下りている。心を宥めつつ、決して遅くない歩調で。

 すると、頭の中に一つの疑問が生まれた。

 何故、雪村は自分を逃がしてくれたのだろうか?

 勿論、逃げていいと言われた時も同じ疑問を覚えた。が、あの時の真士は冷静ではなかった。不安と期待で頭が回らず、『ここから逃げ出したい』という思いのまま行動していた。我ながら浅はかだったと思う。

 真士は、ただ土を均しただけの山道を歩きながら考える。

 例えば、雪村の良心が彼にあのような行動をとらせた──とか。

 思いついた直後、真士はその答えを否定した。

 それは有り得ない。彼は真士が殺した人々を『ゴミ』と称したのだ。あっけらかんに、少しも悪びれなく。それが当たり前であるかのように。そんな人間に良心などあるはずがない。

 ならば、何故?

 ──答えは、出ない。他の理由がまるで思いつかなかった。

 と、その時。真士の耳に、微かな音が聞こえた。

 排気音──車の音だ。

「!?」

 真士は反射的に辺りの茂みに身を隠した。

 音はこちらに近付いてくる。真士は必死に体を丸め、早鐘を打つ胸を押さえ、息を殺した。

 真士が隠れている茂みのすぐ側を、黒塗りのベンツが通り過ぎていった。

 刹那、茂みの隙間から、真士は見た。車の後部座席に座っていた人物の横顔を。

 男爵という名の男だった。

 車は山道を登り、白い建物へと近付いていく。

 真士の鼓動がさらに跳ね上がった。

 このまま彼があの建物に入れば、自分が逃げ出したことがばれるかもしれない。そう思った。

 ベンツの姿が、視界から失せる。

 強い鼓動に衝き動かされるように、真士は走り出していた。

 道を歩いていると目立つかもしれない、と咄嗟に判断し、森の中を進んだ。斜面を下っていけばいつか麓にたどり着くはずだ。

 ──と言うよりも、むしろ道を行くのが怖かった。また誰かが通るかもしれない。そうなると見つかるかもしれない。そんな恐怖故の判断だった。

 道無き道を駆け、木の根に足を取られつつ、枝で引っかいた傷は一秒も経たずに癒え、息はいくら走っても乱れない。再生機構と循環器系の機能が人間のそれを遥かに超越しているためだ。

 それから、どこをどう走ったのか。

 気が付くと、真士は山の麓にいた。

 足を止め、深呼吸を一つ。少し疲れた。自分の体を見下ろすと枝で引っかけたのか、デニムシャツの所々が破れ、ジーンズは膝から先が泥にまみれていた。バスケットシューズも、渇いた泥で砂色になっている。

 と、足元のアスファルトに気付き、真士は前を見た。

 アスファルトの路面が、ずっと前へ伸びていた。道路の果てに緑の山々と青空の境界線が見える。道路は広い田畑に挟まれている。真士の頭に『田舎』という単語が思い浮かんだ。

 右手の畑に小さな人影が二つ。老人だ。男女の一組だったので、真士は彼らを老夫婦と判断した。そして二人の格好から、彼らが農業を営んでいることを察する。二人ともセーターとジーンズという動きやすい服装で、手に鍬やスコップを持っていたのだ。

 老夫婦は二人して口をぽかんと開け、真士を見つめていた。徒歩で山から出てきたのが、そんなにおかしかったのだろうか。

 事実、真士が下りてきた山は、ここいらでは私有地として有名で、専ら山に入っていくのは車だけだったのだ。それなのに人が徒歩で下りて来たのだから、珍しそうに見てしまうのも無理はない。

「……?」

 が、そんなことを知らない真士は不可思議そうな視線を向けてくる老夫婦に、これまた不可思議そうな視線を返した。

 そして彼は、老夫婦が自分を見ているのは己の格好に理由があるのだと思い、赤面した。確かにひどい格好だった。浮浪者か、はたまた誰かに暴行を受けたか──そんな風に思われ、好奇の視線を向けられるのも当然だろう。事実、老夫婦の視線を釘付けにする理由はそこにあった。

 滅多に人の入らない山から、ボロボロの服を着た少年が下りてきた──注目するなという方が無茶だ。

 真士はしばし躊躇してから、声を出した。少し距離があるので、大きめの声を。

「あ、あのっ、も、最寄りの駅は……どちらの方でしょうか?」

 老夫婦は反応しない。こちらを呆然と見ている。と、老婆の方が我に戻り、隣の老人に、

「じ、爺さんや」

 と言った。その声に老人は正気を取り戻し、

「おお……」

 と言って右手の人差し指で、真士から見て前方を指した。

「え、えっと……ここを真っ直ぐ行けば、駅があるんですか?」

 老夫婦は顔を見合わせ、そして真士を見て、二人同時に頷いた。

「あ、ありがとうございますっ」

 真士は両足を揃え、背筋を伸ばし、深々と頭を下げる。そして、老人の指が指し示した方向に走り出した。

 老夫婦は、その姿を見送る。

 あっという間もなく、少年の姿は見えなくなった。陸上選手のような素晴らしい速度で走り去っていったのだ。

 顎が外れたかのように、ぽかんと口を開けている老夫婦。

「……爺さんや」

 ぼんやりと、老婆が呟いた。

「珍しいこともあるもんやねぇ……」

「……おお」

 と、老人は応えた。



 ◎



 田舎だったのが幸いした。

 真士は山から三キロ程離れた駅に着くまで、誰にも会わなかった。そして幸運にも駅の近くにあった古着屋で安いジャケットを購入し、ボロボロの上着の上に羽織って体裁を整えた。ちなみに色は上着と同じ濃紺。

 駅に着いて地図を調べると、ここが真士の住んでいた土地からさほど離れていないことが分かった。距離にして三十キロ程度。多少時間はかかるが、電車で帰ることが出来る。雪村からもらった金も余るだろう。

 今、真士は電車の中にいる。真士が両親と住んでいた街──片桐市へ向かう電車の中だ。先頭の車両の、一番前の左側の扉。その側に真士は立っていた。発車駅が田舎だったため乗っている人は少なく、車内は閑散としている。席もがらがらに空いていた。

 が、真士は椅子に座らない。

 他人に近寄るのが嫌だった。座っていると、そのうち誰かが隣に座るかもしれない。そう思うと座れなかった。

 何もすることが無く、ただ窓の向こうの景色を眺めていると、思考はどんどん暗い方へ転がっていく。

 自分は何をしているのだろうか。一体、どこへ行こうとしているのだろうか。

 あの時、休憩室で自覚したのではなかったのか。

 自分に帰る場所など、どこにもないということを。

 自分は今、家に戻ろうとしている。そこには父がいて、母がいて、学校へ行くと友達がいて──

 ──本当に戻っていいのか?

 今の自分は、改造される前の自分とは、まるで違う。

 人殺しで、脱走者で──なにより、【人間】ではないのだ。

 人殺しの息子を持った親の気持ちとは、どんなものだろう。

 人殺しの友人を持った者の気持ちとは、どんなものだろう。

 自分の息子が化け物だと知ったら、両親はどう思うだろう。

 自分の友達が化け物だと知ったら、友人達はどう思うだろう。

 ──帰れない。

 帰れる訳がない。

「……っ……」

 涙がこみ上げてきた。鼻の奥がつんと痛む。真士はドアに体重を預け、下唇を噛む。強く目を瞑り、こみ上げてくる涙を必死に堪えた。



 帰れなくてもいい。ただ、一目だけでもいいから様子を見たい。

 そう思って、聞き慣れた名前の駅の、見慣れたホームに降りた。

 両親と友人達の様子を見たなら、その後は一人でどこか遠くへ旅に出よう。今や自分は脱走者だ。あの男爵という男が追手を差し伸べないとも限らない。危険を引き連れて家に戻るわけにはいかない。警察へ行くことも考えたが、殺人犯として捕まるかもしれないと思うと、それは出来なかった。

「…………」

 一週間ぶりに見る風景だ。真士はじっくり辺りを見回しつつ、駅を出る。

 出た途端、知り合いに出くわした。

「あ、よお、岩崎」

「!」

 瞬時にして真士の頭の中は真っ白になった。そしてその顔に泣き笑いのような複雑な表情が浮かぶ。実際、彼の心中は複雑だった。友人に会えて嬉しいと思う気持ちと、姿を見せないで様子を見るだけだったのにという気持ちが混ざり合っていた。喜んでいいのやら、悔やめばいいのやら。わからない。

 場所は駅の改札を出てすぐの所だ。前方と左方に道が伸び、右手にはコンビニ。左前方には本屋がある。

 ややあって、真士はぎこちない笑顔を浮かべ、ぎくしゃくと片手を挙げた。

「あ、や、やあ。……久しぶり」

 友人の少年──白いシャツにブラックジーンズ、その上に纏った黒のブルゾンのポケットに両手を突っ込んでいる──は、真士の言葉を聞いて眉根を寄せた。

「はぁ? 何言ってんだお前。昨日会ったじゃん」

「……え?」

 一瞬、真士は少年の言葉が理解できなかった。思わず目が点になる。

 昨日会った? 自分は一週間前からあの白い建物に幽閉されていたというのに?

 そして今日ようやくこの街に帰ってきたというのに?

 ──おかしい。

 真士に、昨日少年と会った記憶などない。大体、物的証拠もない。

「それに──ほれ、昨日借りた本。今から返しに行こーと思ってたんだよ。ちょうどよかったよな」

 少年はブルゾンのポケットから一冊の文庫本を取り出した。差し出されたそれを、真士は反射的に左手で受け取る。

 昨日会ったはずはないのに、物的証拠があった。

 少年が差し出した本は確かに真士の物だったのだ。表紙に付いた醤油の染みが証拠だ。以前、食事をとりつつこの本を読んでいて、誤って染みを付けてしまった事がある。

「んじゃ、サンキュ。また明日な」

 そう言い残し、少年は右手をヒラヒラと振って去っていった。

 真士は呆然とその背中を見送った。

「……?」

 手に持った文庫本に視線を落とし、真士は唖然とする。あまりにも訳が分からなくて、何も考えられなかった。

 夢でも見ているのだろうか、と思う。それとも、漫画や小説でよくある『時間軸のずれ』とか『平行世界』とか、そんなことが起きたのだろうか。

 ──そんな馬鹿な。

 文庫本の角でこめかみの辺りを二・三度小突き、溜息を一つ。

 真士はこの疑問について考えることを放棄した。なんにせよ、自分がおかしいか、あの少年がおかしいかのどちらかだ。

 自分は昨日あの少年と会っていない。

 それが真士の答えだ。

 きっと彼は自分にそっくりな誰かと勘違いしているのだろう。──何故彼が自分の文庫本を持っていたのかは説明できないのだが。

 真士は今度こそ誰にも会わない様に、慎重に街を歩いた。裏道や細い路地を通り、自宅へ向かう。

 真士の家は閑静な住宅街にあり、夕方を過ぎると表の人通りは極端に少なくなる。真士はちょうどそんな時間帯に家へ向かっていた。

 両親の様子と──後、できれば自分の部屋の様子を見ておきたかった。旅に出るなら支度はした方がいいだろう。それに両親への置き手紙も出来ることなら残していきたい。

 が、それは出来ればの話だ。

 最優先事項は両親の様子を見ること。彼らは自分がいなくなって心配しているはずだ。警察に通報しているかもしれない。何らかの方法で安心させてあげたいと思う。

 もう一時間もしない内に日が暮れる。そんな頃、真士は自宅のすぐ側までやってきた。

 向かいの路地に身を隠し、壁に背を付け、こっそり岩崎家の様子を窺った。窓の明かりが灯っている。あれは台所の窓だ。母・薫が家にいるのだろう。

「……母さん……」

 窓の灯を見つめて、真士は呟いた。不意に、郷愁が胸に去来する。涙がこみ上げてきた。

 もう会えない。自分はもう、母と顔を合わすことも言葉を交わすこともできないのだ。

 脳裏に母の顔が浮かび上がる。温厚で滅多に怒ったことのない母。彼女は真士の思い出の中に、笑顔で刻まれていた。

「…………」

 子はいつか、何らかの理由で親から巣立つものだということは、わかっている。わかっているがしかし──こんな別れ方は納得できない。

 真士は、自分でも女々しい行動だなと思いつつ、しばらく台所の窓を見つめていた。

 と、

「……?」

 真士は妙なことに気が付いた。

 二階の、彼の部屋の明かりが灯っていた。真士がいない今、あの部屋に用がある者などいないはずなのに。

 ──胸騒ぎがした。

 それは一瞬にして嫌な予感となり、真士の胸に重くのしかかる。

 喉を鳴らし、唾を飲み込んだ。

 真士は路地から顔を出し、辺りを見回す。誰もいない。彼は素早く路地から出て岩崎家の玄関に近付き、再度辺りを見回した。そして一秒ほど思考した後、隣の高橋家との間にある路地に身を滑り込ませる。

 薄暗い路地から見上げると、高い位置に窓があった。窓からは煌々と柔らかな光が漏れている。そして、微かな──そう、常人では聞こえないほど微かな──音楽が真士の耳に届いた。

 誰かが、真士の部屋にいる。しかも音楽まで聴いている。

 誰だろう、と思った。薫は台所で夕食の支度をしているだろう。父・鷹哉は仕事でまだ帰ってきていないはずだ。特に鷹哉は毎晩遅くに帰ってくるのが常だ。こんな時間に、しかも真士の部屋にいるはずがない。

 そして真士は一人っ子だ。兄弟姉妹はいない。

 ならば誰が──

「……?」

 ふと、真士は耳に届く音楽に聞き覚えがあることに気付いた。これは真士のお気に入りの曲だ。友人が作曲し、パソコンで演奏したのをテープに録音したものだ。

 ──嫌な予感が、加速する。

 この曲を知っているのは真士か、作曲した友人だけなのだ。

 今、誰がそれを聞いているのか。

 胸の奥で渦を巻く黒い予感に、衝き動かされる。壁に左手を乗せ、跳躍。軽く地を蹴っただけで真士の体は二メートル以上も浮かんだ。すたっ、と壁の上に着地。

 はた、と気付く。

 無意識に、人を超えた体の力を使っていた。今までは上手く感覚が掴めず、人以上の能力を出すことは珍しかったのに。その上、この体を心のどこかで嫌悪していたというのに。

「……!」

 異常なこの体を、心が受け入れつつある。真士はその事実に、さらなる嫌悪を覚えた。ぎりっ、と歯軋り。真士の顔が自己嫌悪に歪んだ。

 真士は壁の上をカニのように右へ移動し、壁に沿って下から上へ走る排水管に手を掛けた。次いで、排水管の金具に足をかけ、猿の如くするすると登り始める。過去何度か、この排水管を家出に使ったことがあった。こういう動作は一度できてしまえば簡単なもので、登り方を頭でなく体で覚えていた。

「…………」

 ──あの頃は些細な事で家出をしていたな、と思う。

 今となっては、帰りたくても帰れないというのに。

 真士は一呼吸で窓の高さまで登り上がった。左足を伸ばし、靴底を窓枠に掛ける。

 そして、こっそり窓を覗き込み──

 真士は我が目を疑った。

「──え……?」

 思わず小さな声がこぼれる。

「…………」

 真士は左手で目を擦った。そして、再び瞼を開く。

 窓に視線を向けた。

 真士の目が、ゆっくりと見開かれていく。

 驚愕に染まっていく。



 窓の向こうに、『真士』がいた。



 ガラスの向こう──明るい部屋の中で、茶色のセーターとホワイトジーンズという格好の『真士』が、椅子に座り、文庫本を読んでいた。聞き覚えのある音楽の源は、【彼】の傍らにある机の上にあった。黒いCDラジカセからアップテンポの音楽が放たれている。

「…………」

 一瞬、頭の中が完全に真っ白になり──

 直後、真士の脳は混乱した。

 呟く。

「あ、あれ……?」

 思わず、視線を己の左手に向けた。

 左手は、そこにある。

 そうだ。

 自分は──岩崎真士は、ここにいる。あの顔を持つ人間は、今、ここにいる。

 ここにいるのだ。

 では、室内のあの人物は誰だ?

 世界をひっくり返すような矛盾が真士を襲った。

 頭の冷静な部分が、無表情に現状を把握する。

 岩崎真士という名を持ち、岩崎家の二階の部屋で、友人が作曲したマイナーとすら呼べない音楽を聴いているべき人物は、たった一人だ。

 それは、今、窓枠に足をかけ、室内を覗き込んでいる【自分】である。

 しかし──

 『そこ』には、別の『存在』がいた。同じ色の髪と瞳、同じ形の顔。

 『自分』──【岩崎真士】が。

「──!?」

 事実を認識した途端、真士の中で恐怖と恐慌が同時に発生した。

 背筋に氷を入れられたような悪寒と、心臓を鷲掴みにされた様な圧迫感。

「な、なんで……なんだよこれ……」

 心臓がどくどくと早鐘を打つ。頭がくらくらしてきた。左の五指で前髪を掻き上げ、掌で額を押さえる。額は自分で驚くほど汗でべったりしていた。

 誰だ? あそこにいるのは誰だ? 自分はここにいる。そう、自分はここにいるのだ。なのに何故、あそこにも自分がいるのだ?

 あれは一体、誰なんだ──?

 腹の底から嘔吐感がこみ上げてきた。たまらず真士は排水管から右手を離し、窓から路地に飛び降りる。

 アスファルトに足を付いた途端、がくりと両膝が折れた。体勢を崩し、無様に倒れる。

 両手を付き、膝を立てて四つん這いになった瞬間。胃の中で芋虫が蠢くような感触を覚え、

 真士は吐いた。

「うっ……げぇ……っ……!」

 びちゃびちゃと音を立てて、胃液がアスファルトに跳ねる。昼から何も食べていなかったせいか、出てきたのは橙色の液体だけだった。

 胃が蠕動するまま、真士は壊れた蛇口のように胃液を吐き続けた。

 洗面器一杯程の胃酸を吐き出し、真士は肩で息を繰り返す。

「はっ……はぁっ……」

 酸味が口内に充満し、鼻がツーンと痛んで涙が滲み出ていた。

 脳が心臓になったかの如く、どくん、どくんと脈打つ。貧血にでもなったかの様に頭がくらくらしている。目が回りそうだ。

 不明瞭な意識の中、アスファルトの上で四つん這いになった真士は荒い呼吸を繰り返す。

 不意に、ぶれる視界の中に異物が侵入した。その異物は、びちゃり、と真士が吐いた液体を踏み──跳ね上がる。

「──がっ!?」

 突然、顎に強い衝撃を受けて、真士は大きく仰け反った。背中から倒れ、数十センチ後方へ滑る。

「ぃよう」

 若い男の声が、仰向けに倒れた真士に投げられた。その声のトーンは低い。侮蔑の色が含まれている。

 どこか遠くて、自分のものとは思えない顎の痛み。真士はそれを左手で押さえつつ、身を起こした。

 頭はまだ混乱している。今自分の身に何が起きたのか。何故顎が痛いのか。今の真士の脳はそれすらも把握できない。

 ぐらぐらと揺らぐ視界の中になんとか声の主を納めようと、真士は顔を上げた。

 上げた瞬間、靴底の形をした影が真士の顔に激突した。

「!?」

 声もなく真士は後ろへ吹き飛び、背中から路地の奥の壁にぶつかった。衝撃で後頭部も強く打ち付ける。目の奥で火花が散った。

(──な、なに……なにが……!?)

「おいおい、きたねぇなぁ。こんな所で吐いてんじゃねぇよ」

 声が不機嫌そうに言った。

 焦点の結ばない瞳に力を込め、声のした方向を見る。ようやく、視界が明瞭になってきた。

 狭い路地に落日の光は届かない。薄暗い空気の中、真士はその人物を見た。

 男だ。

 肩に触れる程の、毛先が外に跳ねている髪を明るい茶に染めている。視線を下げると、黒い革のジャケット。ワインレッドの綿シャツ。ジャケットと同じ色と素材のスラックス。

 顔に、見覚えがあった。造形は整っているが、どこか軽そうな雰囲気──そう、今日の昼頃に見た顔だ。

 雪村にプロフィールを見せてもらった四人の内の一人──確か、皆瀬秋了という名の少年だった。

 一瞬、心臓が凍り付いた。直後、鼓動が跳ね上がる。

「う、あ……!」

 恐怖が喉までこみ上げてきた。真士は目を見開き、口をぱくぱくと開閉し、秋了から視線を外せない。その瞳は恐れと戦きに満ちていた。

 来た。

 来てしまった。追手が。

 やはり男爵は自分を逃がすつもりなど無かったのだ。

 心のどこかで『もしかしたら放って置いてくれるかもしれない』と期待していた自分が馬鹿だった。

 想像もつかなかった恐怖が真士の全身を駆け巡る。体が硬直して、動けない。

 動けないのに、体はガタガタと震えていた。

 男──秋了は真士の様子を一瞥し、ふん、と鼻を鳴らした。

「何ビビってんだよ。だらしねぇな」

 無造作に、つかつかと真士に歩み寄る。

「ひっ──!?」

 喉に引っかかった悲鳴を上げて、真士が逃げようともがく。が、背後は壁。真士の行為は、ただ壁に背を押しつけるだけで終わってしまう。

 秋了は右足を持ち上げ、靴を真士の頭に乗せた。そして、ぐりぐりと踏み付ける様にして、壁に押し付ける。

「う……ぐっ……」

 真士は目を細め、されるがまま抵抗しない。

「あそこから逃げる度胸はあったんだろぉ? もっと根性出せよ。じゃねぇとつまらねーじゃねーか」

 秋了は、にやにやと笑みを浮かべていた。それは、弱者をいたぶる喜びの顔だ。

 暗い愉悦に歪んだ唇から、ぺっ、と唾が吐き出された。それは、びちゃっ、と真士の右頬を汚く濡らす。

「……!」

 だが、それでも真士は抵抗しない。秋了の笑みが、深くなる。

 秋了──〈デビル〉のコードネームを持つ少年は、楽しそうにこう言った。

「なぁ──〈エクスカリバー〉よぉ」




To Be Continued…





戻る