地獄の底で足掻く悪魔
─〈デビル〉─







「──ったくテメーもバカだよなぁ、バカ正直に自分の家に帰ってくるなんてよ。【オリジナル】がいるに決まってんだろーが」

「──!?」

 真士は秋了の言葉に、弾かれたように視線を上げた。靴底越しに秋了のにやにや笑いを見上げる。

 オリジナル、と彼は言った。

 不意に、真士の脳裏に『コピー』という反意語が浮ぶ。

 そして次の瞬間、気付いた。

「……!」

 ゆっくりと目を見開き、驚愕に彩られた瞳で秋了を凝視する。

「──まさか……」

 呆然と呟くように言ったその言葉に、秋了は僅かに眉根を寄せ、

「あん? ……なんだ、もしかしてテメー、知らなかったのか?」

 ぐりっ、と足に力を込めた。

 秋了の問いに、真士は答えない。否、答えられない。もし己の予測が正しければ、真士の世界は根底から覆される。不安と恐怖だけが真士を満たしている今、彼に思考能力はない。

 数秒の沈黙。だが、その沈黙から秋了は答えを受け取った。

 くっくっくっ、と体を震わせた後、出し抜けに声を上げて笑う。

「はっはっはっはっ! 何だ知らなかったのか! めでてぇ奴だぜ!」

 秋了は真士の頭から右足を下ろし、右手を下に伸ばした。

 素早く真士の胸ぐらを掴み、軽々と立ち上がらせる。真士の踵が、アスファルトから僅かに浮いた。

 秋了は怯える真士に息がかかる程の距離まで顔を近付け、獰猛な笑みを浮かべる。

「じゃあ俺がいいこと教えてやる。──っても大体想像はついてるよな?」

「…………」

 真士は答えない。その顔は不安と恐怖に強張っていた。小動物のような瞳が、秋了の加虐心を刺激する。

 秋了は真士の左耳に口を寄せ、こう言った。



「俺達は【複製人間】だ」



 言葉が耳に入ったのは一瞬だった。

 その衝撃の言葉はしかし、するりと真士の深い所へ下りてきた。

 だが、それが真士の脳に染み込むには少し時間がかかった。

 信じられない、と真っ先に思ったのだ。

 生物を複製する──その技術は、確かにある。

 確かにあるが──違う。今ある──少なくとも真士が知る技術は、あくまで『同一の遺伝子を持つ生物』を『一から作成する』技術だ。

 『老人』の遺伝子を使用しても、生まれ出る生命は、同じ遺伝子を持つ『胎児』なのである。

 つまり、同じ顔、同じ人格、同じ記憶を持つ──【同じ人間を二人創る技術ではない。】

 そもそも、人体の未知の領域が今だ解明されていない今、全てが同一である人間を作り出すことなど不可能だ。

 そう、不可能なはずなのだ。

 しかし、頭の中でこねくり回すだけの机上の理論や推論は、もはや関係なかった。

 現実は【そこ】にあるのだ。

 【自分がもう一人いる。】

 それが答えだった。

 否定、出来ない。

 そして、真士の世界は根底から覆された。

 がらがらと音を立てて、真士の中の何かが、壊れていく。

 心の中に、ぽっかりと大きな穴が出来た。

 強烈な喪失感。

 脱力感。

 秋了の胸ぐらを掴む力が弛まった。

 力を失った少年の体は、後ろの壁に背をつけ、ずるずると擦り落ちていく。そして糸の切れた操り人形のように座り込んだ。

 俯き、呆然と見開いた瞳は焦点を結ばず、何も映してはいない。

 終わった、と感じた。

 何もかもが終わってしまった。

 そんな絶望感が、真士の四肢を満たしていく。

「……へっ」

 絶望に打ちひしがれる真士を見下ろし、秋了は楽しそうに鼻で笑った。まるで鬼の首を取ったような顔をしている。

 が、それは僅か数秒のことであった。

 真士がこう呟いた。

「……違う……」

「──あん?」

 小さくこぼれた言葉に、秋了は眉をひそめた。しかし続けて、ぼそぼそと真士は言う。

「違う……違う……、僕は……、僕は岩崎真士だ……」

「…………」

 秋了の顔つきが一転し、険しいそれになった。彼は眉を吊り上げ、眼下の真士を睨み付ける。

 だが真士はその灼熱の視線に気付かない。呟きは止まらない。

「僕は……複製人間じゃ……、コピーじゃ、ない……」

 否定できないことは分かっていた。

 しかし、否定せずにはいられなかった。

 自分は複製人間だ。そう認識したら、真士の全てが嘘になってしまう。

 今ある真士が、その全てが、『偽物』になってしまうのだ。

 過去の記憶がある。父と母と暮らした日々。友達と過ごした日常。平凡だが幸せだった、今までの人生。それらが全て、真士の中にある。

 それが『自分ではない他人』のものだとは思えない。思いたくない。

 心や感情だってある。自分は『岩崎真士』として考え、『岩崎真士』として行動してきた。

 それが全て意味のない『演技』だったというのだろうか。自分はただ、そうとは知らず『岩崎真士』を演じ続けていたというのか。

 ──違う。

 そんなのは嫌だ。絶対に認めたくない。

 自分は『岩崎真士』だ。

 決して『岩崎真士のコピー』ではない。

「僕は……僕だっ……!」

 こみ上げる涙を堪えられなかった。震える声と共に、大粒の雫が真士の両目からこぼれ落ちる。

 歪む視界の中、顎を伝わり落ちた数滴の雫がデニムシャツの腹をさらに濃い紺色に染めた。

「僕は……僕はっ、……偽物じゃ……、嘘なんかじゃ、ないっ……!」

「ボケてんじゃねぇよっ」

 絞り出した悲痛の叫びはしかし、黒い靴に蹴散らされた。

 秋了の右の爪先が、真士の側頭部をボールか何かのように蹴り飛ばす。

 叫び声もなく、真士はまるで人形のように横倒しになった。秋了は無気力に身を臥せた真士の胸ぐらを両手で乱暴に掴み、無理矢理立ち上がらせる。

 首を締め上げつつ顔を寄せ、彼は怒鳴り散らした。

「人の話聞いてんのかテメェ!」

 真士は答えない。涙を流す虚ろな瞳をあらぬ方向へ向け、全身の力を抜いている。秋了の怒声に、ピクリとも反応しなかった。

 秋了はゆっくり一言一言に力を込めて、言う。

「……いいか、もういっぺん言うぞ。テメェと、俺は、複製人間なんだよ。【二人目】なんだよ。いるはずのねぇ人間なんだよ」

 段々、秋了の語気が強くなってきた。舌の回転も速くなっていく。

「ついでに言やぁ人間でもねぇ! バケモンなんだよっ!」

 そして血を吐くような叫びが、狭い路地に響いた。真士は、はっ、と目を見開き、秋了を見る。

 彼の顔には、強い憤りがあった。単純に見れば、それは怒りに歪む顔だ。しかし先程の叫びから、真士はその奥にある悲しみを垣間見たような気がする。

 実際、彼が何に腹を立てているのか、真士には分からない。ただ単に少しも怯えなくなった真士に腹を立てているだけかもしれない。いじめっ子がいじめられっ子に反抗されて苛ついてるだけなのかもしれない。

 しかし、真士は気付いた。

 彼もまた、被害者なのだ。

 真士と同じ、ともすれば自己を見失うやもしれぬ、複製人間なのだ。

 そう分かった途端、真士は心のどこかで安堵した。

 自分と同じ境遇の者が他にもいる。

 身勝手な話だが、そう考えただけで心が驚くほど軽くなった。そして同時に、秋了に対する親近感めいたものを覚える。

 ──しかし、それは決して言葉にはならない。

 真士は正直、秋了が怖かった。彼が発する怒気に圧され、声も、声を出す勇気すらも出ない。

 だから真士は、丸くした瞳で、ただただ秋了を見つめる事しか出来なかった。

 と、頭上から音が落ちてきた。がらら、と窓を開ける音だ。

 申し合わせたように、真士と秋了は同時に頭上を仰いだ。

 そこに、窓から顔を出した『真士』がいた。

「──ちっ」

 秋了が舌打ちする。先程の秋了の怒声が聞こえたのだろう。『真士』は目を細めて、こちらを窺っていた。しかし、下から上の様子はよく見えるが、上からだと薄暗くて下の様子がよく分からないらしい。彼が二人に気付く様子はない。

 分かっていた事とはいえ、真士は『もう一人の自分』が動いていることに、少なからずショックを受けていた。

 ──やっぱり、違うんだな。

 もう一人の自分が、自分ではない意志の元で動いている。同じなのに、何かが違う──不思議な違和感だった。

「場所変えるぞ」

 ぼそりと秋了が言った。そして真士の胸ぐらを離し、背を向けて走り出す。その姿は路地を抜けると、右に消えた。

「あ……」

 真士は一瞬迷ったが、このままここに留まるわけにもいかず、慌てて秋了の後を追いかけた。

 その場に留まれなくとも、彼に付いていく理由など無いという事に気付かず。



「……? 何だったんだろう……?」

 何も知らない少年は、高橋さんの家との間にある路地から人の気配が遠ざかっていくのを感じた。軽く首を捻った後、ぴしゃりと窓を閉める。

 そして、再び読書に戻っていった。

 何も知らない少年は、何も知ることのないまま、日常へ戻っていく。

 彼は一生知ることはないだろう。すぐそこに、手を伸ばせば届くところに──薄いガラスで隔絶された向こう側に『もう一人の自分』がいたことを。



 秋了に付いていった先にあったのは、見知らぬ廃工場だった。

 既に黄昏時を過ぎ、辺りは宵闇に包まれている。照明はないが、今の真士の目に闇は意味を持たない。

 暗視。これもまた、真士の体に備わった尋常ならざる力だ。

 打ちっ放しのコンクリートの床。その上に、もう何に使うのか分からない鉄屑が点々と転がっている。壁は鉄板を鋲で打ち付けたもので、錆だらけだ。赤くない箇所など見あたらない。窓は全てガラスが抜かれており、単なる四角い穴と変わり無かった。

 物らしい物もなく、学校の体育館ほどの広さを持つ廃工場は、がらん、としている。

 そんな中、真士は秋了の後ろについて歩いていた。歩く毎、硬い足音がコンクリートに跳ねる。積もった埃が舞い上がる。

 真士は今、本革製のジャケットの背中を見据えつつ、考えていた。

 この人を誘えないだろうか。

 真士は予想する。秋了が真士の所へ来た目的は、おそらく『真士を殺す』又は『連れ戻す』のどちらかだ。と言うより、それ以外の目的は思いつかない。

 しかし。

 彼にだって、現状への不満はあるはずだ。それは先程の恫喝の言葉を聞いての通りである。彼の言葉はむしろ、真士にではなく彼自身に向けられていた。と、少なくとも真士はそう思う。

 仲間、と言う単語が真士の脳裏をよぎった。そうだ、仲間だ。自分と秋了は、同じ境遇にいる仲間なのだ。

 決めた。誘ってみよう。一緒に逃げよう、と。そうすれば、仲間が出来るし、真士の生命の危険もなくなる。

 真士は歩きながら、自然と息を詰め、声を掛けるタイミングを待った。

 広い空間の真ん中ほどに来て、不意に秋了は足を止めた。背後、二メートル程の距離を置いて歩いていた真士も、立ち止まる。

 秋了は振り返りもせずに言葉を放った。

「お前やっぱバカだろ」

 廃工場の天井に、秋了の声が反響する。数秒後、その余韻が消えた後になってから、

「……え?」

 真士はキョトンとした。一瞬、何を言われたのか分からない。そして一瞬後、何を言われたのかを理解したが、何故そんなことを言われたのか理解できなかった。

 反射的に尋ねる。

「え、あ、な、なにが、ですか……?」

「ここまで黙って付いてきた事に決まってんだろーが」

 そう言って秋了は振り返った。途端、見下すような冷たい視線が真士を打つ。

「あ……」

 確かに、と真士は納得した。そういえば、よく考えてみると、自分が彼に付いていく理由はなかった。

 慌てて答えを用意しようして──ぱっと閃いた。

 今が誘うチャンスだ。

「あ、あのっ……そのっ……」

 かぁっ、と頬が熱くなるのを感じた。緊張している。膝が微かに笑っている。先程は出なかった勇気を振り絞り、言った。

「ぼ、僕と一緒に逃げませんか?」

 途端、秋了は露骨に顔をしかめた。

「……あん?」

 反応は、半ば真士の予想通りだった。むしろ、いきなりこんな事を提案されて、あっさり『ああ、そうしようか』と言う方がどうかしている。

 どうかしているのだが──秋了は、そのどうかしている方だったらしい。

 数秒間、真士の顔を睨め付けた後──

「──いいぜ」

 と言った。ニヤリと、しかし好感の持てる笑顔と共に。

 真士はあまりの返答の速さに一瞬キョトンとし──ぱっ、と顔を輝かせた。

「ほ、本当ですか!?」

 秋了は苦笑し、頷く。

「ああ。実は俺もよ、正直ムカついてた所だったんだよ。あれやこれや命令しやがるし、おちおち外も出歩けやしねぇ。これじゃ女一人抱くこともできやしねえじゃねーか」

 秋了は無造作に真士との距離を詰め、おもむろに右手を差し出した。

「俺ぁ、皆瀬秋了だ。よろしく頼むぜ」

 にっ、と笑う秋了。

 真士は一瞬、躊躇する。できれば【右手】を使いたくないのだ。が、ここで差し出された手を握らず、逆の手を出すのも無礼だろう。真士は仕方なく、右手を差し出し、秋了と握手を交わした。

「僕は岩崎真士です。よろしくお願いします」

 同時に軽く会釈する。しかし、秋了はそれを見て無反応。真士から目を離さないまま、呟く。

「岩崎、真士、か。そういや、コードネームしか覚えてなかったぜ」

 秋了の、真士の右手を握る力が強まった。次いで、その目が一瞬泳ぎ──そして再び真士の顔に向く。

「お、そうそう、俺のコードネームは〈デビル〉ってんだ。覚えておけよ」

 一拍。

 彼は酷薄な──そう、彼のコードネームの如く、まるで悪魔のような笑みを見せて、こう言い放った

「冥土の土産なんだからよ」

「……え?」

 秋了の言葉に、真士がびくりと身を震わせた時だった。

 ぶちっ、という音と共に、右手首から先の感覚が、失せた。

 一瞬の空白。

 次の瞬間、真士は自分の右手が引きちぎられたことに気付いた。先程まで自分の物だった手が、秋了の右手の中にあったのだ。

「!?」

 恐怖と恐慌が、瞬時に真士の脳を満たす。

 息を呑み、

「ああああああああああっ──!?」

 恐怖に引き吊れた悲鳴が、廃工場の中に響き渡った。腰が抜け、真士はその場に尻餅をつく。その瞳は、そこから先のない右手首に釘付けだ。不思議なことに、血は出ていない。痛覚もない。ただ、右手がないだけ。それがより一層、恐怖を誘った。

 右手首の先端は、まるで腐ったかの様にどす黒く変色していた。

 否、腐ったように見えるのではなく、実際に腐敗している。肉の腐った悪臭が、真士の鼻孔を突く。

 その腐蝕はじゅくじゅくと音を立て、肘に向かって徐々にその範囲を広げていた。真士は口を大きく開き、喉が張り裂けんばかりの絶叫を上げる。

 と、真士の悲鳴に重なる、笑い声があった。秋了が笑っているのだ。

「ハハハハハハハッ! テメー最高だよ! なぁにが『僕と一緒に逃げませんか?』だ。ノーミソに蛆虫でもわいてんじゃねーのか? あの世で洗濯してこいってーの! ヒャハハハハハハハハッ!」

 右手の人差し指で自分のこめかみを指し示し、秋了は大声で笑う。が、真士にその言葉を聞いている余裕はない。秋了が自分の右手を放り投げたことにすら気付かない。

 ややあって笑いの衝動が収まった秋了は、笑みを口元に張り付けたまま、両手で前髪を掻き上げた。今だに悲鳴を上げている真士を見下し、

「へっ」

 と鼻を鳴らし、両手を目の高さまで持ってきて、固定。すっ、と細めた眼で己の両手を見据え──その手の肌が、色を変えていく。

 肌色から、黒く、黒く──硬い、鉄の色へ。

 そして、十本の指の先端から、皮膚を突き破り、より漆黒の物体が姿を現す。

 爪だ。それはぬうっと一息にその身を伸ばし、三十センチ程の長さになった。

 黒い鉄の質感を持つ手。その十本の指から生えた、漆黒の爪。

 それは正に、悪魔の爪だ。

 真士の悲鳴が、唐突に止まる。秋了が視線を向けると、少年はその両眼をこちらに向け、これ以上無いくらいに見開いていた。その純然たる恐怖に満ちた瞳を一瞥し、秋了はニヤリと笑って、爪の先をカチカチと鳴らし、ふと思いだしたことを言う。

「そういや、男爵から伝言があるぜ」

 男爵の名を聞いても、真士の表情は変化しない。内心、更なる恐怖を掻き立てられたのだが、顔の筋肉が硬直していて動かないのだ。真士の視線は秋了の唇に集中する。そして、その唇が言葉を紡いだ。

「お前は役立たずだ。死ね。──ってな」

 この言葉が引き金になった。

「ぅあっ、うああああああああああっっ!」

 真士はバネのように飛び起き、秋了に背を向けて走り出した。が、腰が抜けていたため、二歩も行かぬ内に転倒する。

 無我夢中で左手と右肘を突き、立ち上がろうとする。その左肩の付け根に、ずぶり、と異物の侵入する感覚が生まれた。途端、こもった音と共に、真士の左肩から先の感覚が消失した。左腕が肩ごと、上に向かって飛び跳ねる。バランスを崩し、真士はコンクリートに顔をぶつけた。ぼとっ、と紺色の袖に包まれた腕が、真士の顔のすぐ左に落ちる。

 じゅくじゅくじゅく──と、泡を吹く様な音が耳に入った。真士が目を向けると、己の左腕が一瞬にしてどす黒く腐り果て、ドロドロに溶けていく様が見えた。ジャケットの袖がゆっくりしぼんでいく。

 もう悲鳴も出なかった。

 気がつくと秋了の姿が消えていた。焦る。辺りを見回す。秋了の姿は見えない。焦燥感が急速に募っていく。あまりの恐怖に真士は涙を流していた。鼻水がとろとろと溢れる。鼻を啜ることすら忘れて、真士は何とかこの場から逃げようと、コンクリートの上を芋虫のように這いずる。

 暗闇の中、手首のない右腕だけで埃だらけの床の上を這い、真士は出口に向かう。心の乱れは体の乱れを呼び、彼の体は一向に前へ進まない。進まないことに焦り、さらに心は乱れ、余計に前へ進めない。

「どこ行くんだ。あ?」

 心臓が止まった。比喩ではなく、真士は本気でそう思った。全身が凍り付き、脳から送られてくる信号を全て拒絶する。

 動けない。

 声は背中に落ちてきた。背後。気配を感じる。冴えなくてもいいのに五感が冴えていく。息遣いが耳に聞こえる。近い。半径一メートル以内に絶対にいる。

 振り返られなかった。振り返ってはいけない。そう感じた。しかし、振り返らずにはいられなかった。

 首だけ回して、ゆっくりと振り返る。

 黒い爪の先端が、つっ、と真士の鼻先に触れた。

「……!」

 いっそこのまま意識が飛んでしまったら、どれほど楽だっただろうか。しかし、真士の精神は本人も驚くほどの強靭さを見せた。今まさに鼻を切り裂こうとする爪よりも、その主である秋了の顔に、真士の視線は向いた。

 悪魔は何か言いたげな顔をしていた。コツコツとわざとらしく足音を立て、秋了は歩く。その動きに会わせて真士の首も巡る。秋了は真士の前に回り、爪を突きつけたまま、しゃがみ込んだ。

「──お前、さっき、俺に一緒に逃げようって誘ったよな?」

 真士は答えない。答えられない。何か言えばその瞬間に殺される。そう思った。そんな雰囲気の中、秋了は吐き捨てるように言った。

「ざけんじゃねえよ……!」

 今にも火を噴きそうな、そんな怒りの篭った声だった。秋了は鬼のような形相を真士に近付け、その右の五本の爪を少年の左頬に這わせる。真士の視線が爪の動きを追う。左目の下から唇の横まで動いた爪は、五本の深い赤い線を引いた。刹那、傷口がぞわぞわと黒く変色していく。腐蝕していく。

 その痛みを伴わない、しかし身を切る感触に、真士は『自分の感覚は全て麻痺してしまったのかもしれない』と思った。

 烈火の如き瞳で真士を睨む秋了は、低く押し殺した言葉を繋ぐ。

「俺ぁな、てめぇみてぇな【腰抜け】たぁ違うんだよ。格が違うんだよ。次元が違うんだよ。……一緒にするんじゃねぇ」

 ゾッとする思いに真士の胸は締め付けられた。何だ。何なんだこの人は。さっきまで笑っていたのに、今度は怒っている。何を考えているんだ。怖い。何を言っているかもよく分からない。わかりました。よく分からないけどわかりましたから、もう何もしないで。お願いです。もう怖いコトしないで──

 真士は呼吸が苦しくなり、鼻で荒い息を繰り返す。

「てめぇは弱ぇ。だがな、俺は強えんだよ。てめぇのオリジナルを見てがっくりするほど情けなくはねぇんだよ」

 なおも言葉を重ねる秋了。極限状態にある真士は、その時、ようやく、たった一言だけ絞り出せた。

「た……助けて……」

 喉に力が入っていない、掠れた囁き声だった。秋了から発される怒気が、一層強くなった。

 秋了の右の爪先が、真士の顎を蹴りあげた。今度は容赦のない一撃だった。真士の体が衝撃でふわりと宙に浮き、三メートルほど後ろに吹っ飛び、背中からコンクリートに落ちる。床の一部が真士の背中で払拭されて、綺麗になった。真士の顎は、砕けていた。爪で切られるのとは違って、灼熱する激痛があった。真士は激しく咳き込み、溢れる血を口から吐き出し、激痛に身を悶えさせた。顎を手で押さえたったが、押さえる手がなかった。

「男爵の言う通りだなテメー。生きてる価値ねぇよ」

 秋了の冷たい声が投げられる。声と共に彼は歩きだし、右足で真士の腰の後ろを蹴った。がふっ、という呼気と共に、真士の体はごろごろと転がる。秋了は転がる真士を追う。止まったところで、秋了は左の爪を五本、真士の右太股に突き刺した。腐る肉をちぎり、脆くなった骨を折る。少年の右太股の半ばから先が、バットか何かのように宙に放り投げられた。



 ぼんやりと、真士の意識は現状を把握していた。

 自分の体が、切り刻まれている。時に裂傷を付けられ、時に肉を抉られる。痛覚は、無い。傷口が生まれると同時にその付近の肉と神経が腐り果てる為、脳が怪我をしたという事を認識しないのだろう。

 こうやって冷静に分析する自分とは別に、情けなくなるほど傷つけられることに怯えている自分がいた。顎を砕かれたせいで声は出ないが、自分は確かに悲鳴を上げている。

 そして、そんな自分を見て哄笑している人物がいた。秋了だ。彼は笑いながら両手の爪を振るい、しかし決して致命的ではない傷を真士に刻む。何度も何度も刻む。その度に真士は悲鳴を上げる。その度に秋了の哄笑は高くなっていく。

 ──本当に何なんだろうか、この人は。笑って、怒って、また笑っている。何がそんなに楽しいんだろう。というより、一体何を考えているんだろう。さっぱり理解できない。

 真士はふと、自分の体の状況を確認した。体中に傷。ジャケットもシャツもジーンズもボロボロ。右手首がない、左腕がない、右足の太股から先がない。そして今、右腕の肘から先が切り飛ばされた。

 これで何が出来る──そんな体だった。

 ──死ぬのかな、僕。

 漠然とそう思った。むしろ死は目の前にあるというのに、それがどこか遠くに感じられた。

 それどころか、死ぬのも悪くないとすら思った。自分はコピーだ。『岩崎真士』でなければ、他の誰でもない。今ここで自分が死んでも『岩崎真士』はこの世から消えはしない。

 生きていても意味がない。

 秋了の右の人差し指の爪が、ゆっくりと真士の左目に入ってくる。激痛を予想した『臆病な真士』が身を強張らせる。が、予想に反して痛みは全くない。目の中に何かがある──その感触だけがあった。それが余計に怖かった。

 爪を眼窩から引き抜き、秋了は真士の髪の毛を乱暴に掴んで顔を近付けた。何か言っている。が、その言葉は右耳から入って、少しも脳で引っかからず、左の耳から出ていった。

 ──殺されちゃおうかな、もう。その方が楽だから。

 そう思って全身の力を抜いた。そして左足だけで腰を浮かし、前傾姿勢をとり、短くなった右腕の先端、つまり肘を秋了の顔にぶつけた。

 ──あれ?

 肘打ちと言うよりむしろ拳の一撃に近かったその打撃は、腰が入っていたためかなりの威力があった。しゃがんで真士をいたぶっていた秋了は、不意の攻撃に大きく吹き飛ぶ。

 ──おかしいな。僕、死のうと思ったのに。

 その時だった。真士の奥底で、何かの栓が抜けた。生まれた穴から、すさまじい勢いで溢れ出たのは──憎悪と狂気。

 全身がビリビリと震えるほどの、負の感情。

 今まで圧迫されていた異様に濃密なそれらの感情は、瞬く間に真士の全身に行き渡った。

 意識が飲み込まれる。彼の意識は真っ黒に塗り潰された。



 いきなり左頬に一撃。

「!?」

 秋了は訳も分からず、そのボウリングの玉をぶつけられたような衝撃に吹き飛んだ。まだ痛くはない。そんな刹那の中、さらに腹にも衝撃が生まれた。秋了の意志に関係なく、彼の体は空中でくの字に折れ曲がる。後ろ向きの力を加えられた秋了の体は慣性の法則に則り、勢いをさらに増して廃工場の壁に背中から激突した。

「──っはっ……!」

 肺の中の空気を全部叩き出された。瞬間、目の前が真っ暗になる。壁で慣性が中和されると今度は重力に引かれる。コンクリートに足をつき──踏ん張った。なんとか膝を折らずにすんだ。途端、嘔吐感がこみ上げて来たが、これも我慢する。

 何が起こったか分からなかった。しかし、次の瞬間、その答えが秋了の視界に飛び込んできた。

 真士だ。真士が、左足だけで立っている。その右肘の断面から突出している骨の先端には、赤い血が付着している。秋了の血だ。意識してみると、左頬に痛みと濡れた感触、そして口の中に広がる血の味。状況を掴んだ秋了は、一瞬呆気にとられた。まさか、真士のような腰抜けが反撃してくるとは思わなかったのである。しかし次の瞬間、彼は鼻っ面に獰猛なしわを寄せ、

「──やりやがったなテ」

 メェ、というよりも早く、真士が左膝を曲げ、ぐん、と屈んだ。

「!?」

 飛び出す。弾丸の如き勢いで真士がこちらに突進してくる。

 咄嗟に反応できなかった。真士の【右拳】が秋了の腹に突き刺さる。人より強靭な循環器系がしかし、悲鳴を上げた。呼吸が止まる。間を置かず左のこめかみに真士の【左拳】が炸裂した。コンクリートに叩き付けられた秋了は素早く起きあがろうとして、しかしその顎を真士の【右足】が蹴り上げる。足の甲が見事に命中し、秋了は大きく仰け反った。

「──!」

 秋了は反射行動をとる。仰け反ったかと思ったら、それはそのまま後方宙返りの動きになる。コンクリートに、カチン、と黒い爪と手を突き、体勢を立て直し、そして素早く後方へ飛び退った。真士との距離をとると、ぺっ、と口から血の混じった唾を吐き捨てる。

 目の前に、【五体満足】な真士がいた。

 そう。今──たった今、秋了の目の前で再生したのである。真士の両腕と右足が。

 秋了はその異様な光景に思わず身が竦み、回避行動がとれなかった。突進してくる真士の傷の断面がボコリと盛り上がったと思ったら、ボコボコとまるで積み重なる様に膨張していったのである。それは指向性を持つ膨張だった。一瞬にして膨張を続ける肉は形を整え、裸の腕や足に変化した。

 今、少年は、右肘と左肩から先のないジャケットと、右太股から先のないジーンズ、そして左足だけのバスケットシューズという、浮浪者よりもひどい格好をしている。

 〈デビル〉のコードネームはあっちに付けた方が良かったんじゃねえのか。と、内心でこぼす秋了。その視線の先に立つ真士の瞳が、淡い──まるで人魂のような金色の光を宿していた。

「ゴルァアアアアアアアアァァッ!」

 突然、真士の口から獣の如き咆哮が迸った。否、その声はまさに獣そのものだ。それに答えるかのように、彼の右腕の表面が、液体のようにゆらりと波立った。

 変化する。真士の右腕が粘土か何かのように、すうっ、と一メートルほどの長さに伸びた。色は白銀。形状は僅かに湾曲した──まるでサーベルタイガーの牙のような──円錐。

 秋了は疑問を抱いた。

 ──なんだ? これが【〈エクスカリバー〉】か? 想像していたのとちょっと違うな──

 彼は真士の顔とコードネームは知っていたが、その特殊能力までは聞いていなかった。いや、聞いたが、答えてもらえなかった。男爵に『気にする必要はない。相手がその気になる前に殺せ』と言われたのだ。

 秋了はてっきり、〈エクスカリバー〉というコードから刃物に関係したものを想像していたのだが──どうやら違ったらしい。しかし、それでは何に由来して〈エクスカリバー〉と名付けたのだろうか?

 その答えを探す時間はなかった。

 ぶん、と真士が『牙』を頭上で振り回した。近くにあった壁に先端が引っかかり、音もなく、鉄板を豆腐か何かのように切り裂く。

 そして予備動作もなくコンクリートを蹴って飛びだした。ぐん、と彼我の距離が縮まる。零になる。『牙』が一閃。真下から真上へ走る鋭い銀光。しかし秋了はこれを上体を後ろに反らして避ける。今度は秋了の攻撃。生物・金属全般を例外無く腐蝕させ、それを疫病の如く全体へ広げる毒を含んだ爪が、十本の軌跡を描く。手応えあり。『牙』を大きく振り上げ、がら空きになった真士の胴を左右から挟むように繰り出された爪は、両脇腹から体内に侵入した。途端、傷口が腐り始める。

 だが。

「ゴォオオオオオアアアアァッ!」

 真士の咆哮。脇腹の筋肉が爆発的な力を発揮し、黒の爪がみしりと音を立てる。やばい、と思って爪を抜こうとした時は遅く、左の五本が半ばから折れた。が、右の五本は無事に引き抜けた。バックステップして距離を取り『牙』を腰の横に引き戻した真士の、

 金色の光が横に流れた。

「!?」

 見失う。どこだと思う暇もなく背中に衝撃。棒で強く突かれたかの如き攻撃に秋了の呼吸が止まり背骨がみしりと悲鳴を上げる。見えないがおそらく足の爪先で蹴られたのだろう。

 秋了は焦る。なんだ。何だこの動きは。速すぎる。馬鹿な。相手は自分と同じ複製人間だ。特殊能力を除けば性能はほぼ同等のはず。そうだ。同等のはずなのだ。それなのに──

 上体が泳ぎ、秋了はよろめきながらも必死に体勢を立て直す。振り返った。半ばヤケになって真士がいると思われる空間に向けて右の爪を振るう。が、それは空を切り、秋了はさらにバランスを崩した。そして意味もなく大気の中を突き進む右腕が、閃く『牙』の一撃によって切り飛ばされた。

 ──なのに何でこんなに強いんだ!?

 叫ぶ暇すらなかった。肘から切断された右腕は後方へ吹き飛び、断面が血を噴く。そしてその血が雨のように降るより速く、

 『牙』が秋了の額を貫いた。



 こうして、彼のたった一ヶ月の人生に幕が下りたのだった。



 ◎



 鋭い『牙』は秋了の額のみならず、後頭部をも突き抜けた。押し出された脳と頭蓋の破片が、たぱたぱとコンクリートに跳ねる。一拍置いて『牙』の超震動により秋了の頭部が液化し、

 爆ぜた。

 即死だった。

 頭を失った体は慣性に従い、棒のように後ろに倒れた。どさり、と、べちゃり、が同時に響く。

 ゆっくり『牙』を戻し、だらりと垂らす。液化した肉に血を洗われた『牙』の先端が、まるでそれが当たり前かの如く、すっ、とコンクリートの中に潜った。

 感情の感じられない、淡い、ゆらゆらと揺れる金色の光が死体を見下ろす。

 真士は、動かない。



 ──あれ?

 足元に、頭と右肘から先のない死体が倒れていた。死体の服には見覚えがあった。艶やかな漆黒の、本革製のジャケットとスラックス。そしてワインレッドのシャツ。

 秋了だ──と思う。確信はない。顔が、ないのだから。でも何となくわかるのは、【自分が彼を殺したからだ】。うすぼんやりと覚えている。

「…………」

 全ての感覚が分厚い膜に覆われているようだった。目の前の光景に、まるで現実味が感じられない。眼下の死体が、壊れた人形と同じに見えた。

 ──僕は……ここは、ど

 意識は唐突に途切れた。



 余談だが、これより三日後、町外れの廃工場にて頭部と右腕のない、トランクス一丁の男性の死体が発見される。第一発見者は件の廃工場を秘密基地にしようと忍び込んだ小学生数人である。しかし、これほど奇異な事件にも関わらず、この事が新聞やニュースで報道されることはなかった。



 ◎



 ──こなんだろう?

 意識が繋がった時、周囲の風景が激変していた。

 まず、明るい。いや、正確には薄暗いのだが、夜の廃工場と比べると格段に明るい。次に目の前に広がる光景が、左右に森、足元に土を均した傾斜路、というものに変わっていた。ついさっきまで殺風景な廃工場にいたというのに。

 意識は朦朧としている。未だ感覚は鈍い。そのためか、真士は目に映る情景が変わった事に、少しも驚かなかった。

 真士は歩いていた。ゆっくりと、一歩、また一歩と。その足取りはどこか頼りない。歩いていると言うよりもむしろ、倒れないために足を前に出している。

 意識は再び薄れ──気づいた時には、またも周囲の風景ががらりと変わっていた。

 背の高い木々に囲まれた白い建物。見覚えがあった。たった一目だったが、確かに見た覚えがある。

 そう。【自分が産まれた場所】だ。いや、実際にここで生まれたのかどうか真士は知らない。知らないが、そう思う。なんとなく──直感でそう感じる。

 自分はここで産まれたのだ、と。

 真士はその場に立ち止まり、ぼんやりと白い建物を見上げていた。

 ──僕は、なんでここにいるんだろう……?

 抱いて当然の疑問。一度はここを逃げ出したのに。ここには男爵がいるのに。見つかったら殺されてしまうのは明白なのに。なのに、何故自分はここにいるのか。戻ってきたのか。

 ──ここしか、帰るところがないから……

 考えてみると、理由は簡単だった。病院で母の腹から生まれたと思っていた自分は、実はこの建物で生まれた複製改造人間だった。家には帰れない。そこには本物の『岩崎真士』がいるから。なら、自分の──コピーの帰る場所は、ここだ。ここしか、ない。

 真士はその場に立ち尽くす。頭は真っ白で、何も考えられない。行けば殺される。しかし、引き返すにも帰る場所がない。前にも後ろにも進めない。だから、その場から動けない。

 意識がまた、薄れていく──

 気がつくと、やはり周囲の風景が変わっていた。それでもやはり真士は驚かない。まるで夢を見ているような気分で、その状況を受け入れる。彼には夢と現実の区別が付いていない。

 真士は森の中にいた。霧が出ていて、空気がひんやりと冷たい。真士はゆっくりと、おぼつかない足取りで木々の間を縫うように歩いていた。どこへ向かっているのか、自分でも分からない。湿った土に足跡を残し、盛り上がった木の根を踏み、ふらふらと森の中を進む。

 やがて、木の根に足を引っかけて転んだ。べちゃり、と地面に左頬をぶつける。土が霧で湿って柔らかかったため、あまり痛くはなかった。

 真士はそのまま、動かない。

 ──冷たくて気持ちいい……

 柔らかい土に頬を埋めるようにして、目を閉じた。このまま天国にいけるかもしれない、と思う。が、次の瞬間、行けるわけないか、と思い直した。自分は血に汚れすぎている。天国に行こうとしても門前払いされるに決まっている。むしろ地獄に堕ちるべきだろう。

 全身に、心地よい脱力感があった。

 そして、真士は眠りに落ちた。



 女の子がいた。小学校二年生か三年生ぐらいの、白いセーターと赤いスカートの女の子が。

 黒い髪を肩の上あたりで切りそろえた彼女は、その大きな瞳をこちらに向けて、ガタガタと震えていた。

 真士は、その子の首を、はねた。

 ごろんとサッカーボールのように足元に転がる少女の頭を見下し、真士は笑っていた。そして泣いていた。

 笑いながら泣いていた。

 嬉しかった。これでこの女の子は救われたのだ。少なくとも、前の娘のようにひどい仕打ちをされた挙げ句、虫けらのように殺されたりはしないのだから。

 だが、悲しくもあった。自分はこの子を殺してしまった。この子のこれからの人生を、力尽くで絶ってしまった。それを思うとこの少女が不憫で哀れで可哀想で──自然と涙が溢れた。

 だけど、仕方ないと思う。やりたくてやっているんじゃない。男爵が──壁の中に潜む機関銃が──そうしろと言っているから仕方なくやっているんだ。

 だって、だって──

 ──僕だって、死にたくないんだ。

 あの時──娘の哀れな末路を見た時、真士の中に一つの恐怖が生まれた。

 それは、生物が持つ原初の恐怖。どんな人間でも、どんな動物でも、生物である限り不可避の恐怖。

 死の恐怖だ。

 確かにあれは効果的な脅しだった。向こうにしてみれば『お前が殺らなければこちらがより残虐な方法で殺るまでだ』という、真士の良心の呵責につけ込んだ脅しだったのだろう。だが、真士には余計とも言える想像力があった。少年は、考えなくてもいいことを考えてしまったのだ。

 ──言うことを聞かなければ、僕が殺されるかもしれない。

 そう、真士は思った。なにせ、あれだけ酷い仕打ちをビデオに録画して人に見せる相手である。良心なんてものを持っているとは思えない。

 男爵の目的が何なのかは知らない。自分に人殺しをさせて何をどうするのか、想像もつかない。だが、男爵が自分に何かを求めている事だけは分かる。そう。男爵にとって、自分は必要なのだ。

 ──だが、もし自分が逆らい続けたら彼はどうするだろう?

 男爵には常識が通用しないと思っていい──真士はそう考える。そして男爵の今までの行動を総合的に見た結果──真士はこんな答えを出した。

 彼はいらないものはあっさり切り捨てる主義である──と。

 こうなると話は簡単だった。目の前の殺すべき人物と、自分の生命を天秤にかければいいのだ。

 己の生命というものは圧倒的に重かった。迷うまでもなく、真士は自分の生命を優先していた。

 ──考えてみると、僕って歪んでいたな……

 何が『この女の子は救われた』だ。何が『少なくとも、前の娘のようにひどい仕打ちをされた挙げ句、虫けらのように殺されたりはしない』だ。無茶苦茶じゃないか。こんな理由があってたまるものか。僕はただ自分を無理矢理に正当化していただけじゃないか。

 僕はただ自分の命が惜しかったんだ。死ぬのが怖かったんだ。自分が死にたくないから相手が誰だろうと殺したんだ。

 それなのに──それなのに、何を偉そうに。何を考えて相手を救ってあげたような気分になっていたんだろう。

 僕は最低だ。

 身も、心も、血に染まっている──

 真士は笑い続ける。涙を流しながら。

 本当は悲しくなんて無かった。ただ嬉しかった。

 自分が生き残れたことが嬉しかった。

 だから笑う。涙は嬉し涙だった。



 女の子がいた。高校二年生か三年生ぐらいの、白いセーターと赤いスカートの女の子が。

 黒い髪を肩の上あたりで切りそろえた彼女は、その大きな瞳をこちらに向けて、あは、と笑った。

 殺さなきゃ──!

 真士はソファから身を起こし、二の腕に左手を沿えて、猛然と右腕を振り上げた。刹那、その右腕が幅広の長剣と化す。その場に場違いなほどの風切り音が響く。

 殺してあげないとこの子が可哀想だから──!

 彼は自分に言い訳することを止めない。事実を受け止めることを無意識に拒否している。そうしなければ精神が保たないからだ。

 真士は無表情のまま振り上げた右腕に力を込め、苦しませずに殺してあげようと脳天を狙って、

 ぱんっ、と頬をはたかれた。

 その一撃に意識の全てを吹き飛ばされた。じん、と痺れる左の頬を前に向けて、真士は唖然とする。

「…………」

 剣呑な右腕を振り上げた体勢のまま、少年はピタリと硬直した。頭の中は真っ白だ。五感が様々な情報を得てそれらを供給しているのだが、脳は全て拒否している。

 だから彼には、ここが見覚えのない家のリビングであり、自分は黒い革のソファの上にいて、漆黒の革のジャケットとスラックス、そしてワインレッドのシャツという出で立ちをしているという事にとんと気づかない。

 彼の五感でまず起動したのは、聴覚だ。

「ダメでしょ。大人しく寝てないと」

 という少女の声。これでも真士はまだ我に返らない。頭の中が混乱している。同時に浮かび上がる疑問が多すぎて何が何だか分からない。そして何が何だか分からない内に体を押されて、ソファの上に寝かされた。

「はいはい。危ないものはしまっておきなさい」

 少女がぺしっと真士の右腕の刃を叩いた。すると右腕がビクッと痙攣して、勝手に人の腕の形に戻った。

「うん、いい子だね」

 少女は笑顔で頷いた。そして身を乗り出し、右手を伸ばす。小さくて柔らかい掌が真士の頬に触れ、

「まだ早いよ。もうちょっとおやすみ……ね」

 逆らうことが出来なかった。少女の掌が視界を覆い、光を遮る。真士は自然に目を閉じ──

 再び眠りに落ちた。



 今度は夢を見なかった。



 ◎



 耳をくすぐる微かな音に、真士の意識は覚醒した。

「ん……」

 うっすらと目を開ける。灰色の天井が見えた。否、正確には薄暗いため灰色に見える、白い天井だ。

 真士はしばらく、それを、ぼぉっ、と見つめる。

 体内の三半規管が、自分は今仰向けに寝ているのだということを教えてくれた。

 ──あれ……?

 ゆっくりと、腹筋の力だけで上体を起こす。体に掛かっていた茶色い毛布が擦り落ちた。真士はぼんやりと周囲を見回す。

 どこかで見たような気がする、薄暗い、広い部屋だった。

 まず目に入ったのは、部屋の隅で聞き取れないほど小さな音をこぼしているテレビだ。薄暗い部屋の中で、その周囲だけがオアシスのように明るい。次に真士の左、すぐ横にある足の短い茶色のテーブル。尻の下にある、先程まで真士が寝ていた黒い革のソファ。そして、右手には壁。

 たっぷり五秒間、真士は辺りを視線で撫で回した。そして、

 ──ここはどこだろう?

 と思った瞬間、記憶が怒涛の如く再生した。

 勝手に動いた体が秋了を殺したこと。足元に転がっていた、頭のない秋了の死体。気がつくと、あの白い建物の前に立っていた。それ以上進むこともできず、かといって引き返すこともできず──どこかで見つかるのを期待していた自分。そして、いつの間にか森の中を歩いていた。それから──

「んぅ……」

 いきなり小さな呻き声がした。

「──!?」 

 口から心臓が飛び出すかと思った。電撃に打たれたかのように、真士は身を強張らせる。

 静寂。

 声は、背後から聞こえた。真士は破裂しそうな勢いで鼓動を繰り返す胸を左手で押さえつつ、ゆっくりと首を巡らせる。

 すぐ後ろで、すーすーと寝息を立てる女の子が、こちらに頭を向けて寝ころんでいた。小柄な体を猫のように丸めている。その姿を真士は一瞬、可愛い、と思った。

 その少女は、L字を描くソファのちょうど角に当たる所に寝ころんでいた。ソファの背もたれを壁に例えたなら、本当に部屋の隅で丸くなっている猫に見えなくもない。

 テレビの発する弱い光が少女の寝顔を照らしていた。

 記憶の続きが、一気に再生される。

 真士は少女に見覚えがあった。いや、あったことを思い出した。そう──真士の最も新しい記憶の中で、彼の頬をひっぱたき、そして寝つかせた少女である。不意に左の頬が熱を帯びた。痛くはないが、頬は確かに殴られた感触を覚えている。真士は左手を腰の後ろにつき、右手で殴られた頬をさすりつつ、まじまじと少女を観察した。

 歳の頃は、真士と同じぐらいだろうか。おそらく、十六、七。肩に届くか届かないかくらいの黒髪は綺麗に切り揃えられていて、今はソファの上で扇状に広がっている。テレビの光があまりにも弱いのでよく分からないが、着ているのはおそらく赤い無地のパジャマだ。

 ふと気づいた。頬を撫でる右手。その腕を包むはずの袖がない。いや、あることにはあるのだが、右肘の辺りで途切れている。左腕にはちゃんと手首まで袖があるのに。ここで真士は自分の体を見下ろした。そして、自分でも驚くほど似合わない格好をしていることに気付いた。

 右が半袖で左が長袖の、黒い革のジャケットと、同質同色のスラックス。そして、ワインレッドのシャツ。

 閃光の如く記憶が蘇り、真士は息を呑んだ。

「これって……!」

 よくよく見てみると、服の至る所に血痕がある。もう間違いなかった。

 これは秋了の服だ。

 ──な、なんで……?

 思い出せない。一体いつの間に自分は着替えたのだろう。しかも、よりにもよって秋了の服に。

 ──いや、考えてみると簡単か……

 意識が無い時──文字どおり無意識時に秋了の服を剥ぎ取ったのだろう。おそらく。あの時着ていた服はもうボロボロだったから。その時の自分が寒いと思ったのか、格好悪いと思ったのか──それは分からないが。

 そこまで考えて、ようやく真士は最初の疑問に戻った。

 ──ここはどこだろう?

 簡単に言えば、どこかの家の中だろう。それは言うまでもない。だがしかし、一体いかなる過程を経て自分はここにいるのだろうか? 覚えているまでなら、確か森の中を──そう、あの白い建物がある山の中を歩いていた。いや、本当にあの山の中なのかは分からないが、とにかく森の中を歩いていた。そこから──?

 ──夢だ。森の中で意識を失い、ひどく嫌な夢を見たのだ。──おかしい。夢の内容が思い出せない。その夢が原因で、目覚めた途端、少女に斬りかかろうとしたことだけは覚えているのに。

「……?」

 ふと、真士は妙なことに気付いた。視線を少女に向ける。相変わらず規則正しい寝息を立てて寝ている。

 そういえば、この少女は自分の右腕を見ても【驚かなかった】。

 ──あれ?

 おかしいな、と真士は思う。もしかして、あれも夢だったのだろうか。いや、そんなことを言えば、全部夢かもしれない。記憶が確かなのは、秋了に身を切り刻まれている所までなのだから。

「んっ……」

 もぞっ、と少女が身をくねらせ、真士は、はっ、と我を取り戻した。寒そうだったので、とりあえず自分の膝の上にあった毛布を少女に掛けてあげる。

 ──どうしよう?

 これからやるべき事がまるで思いつかなかった。強いて言えば、それは目の前の少女を起こして色々と聞くことかもしれない。だが、折角気持ちよさそうに寝ているところを起こすのは少々気が引けた。

 真士は何気なく、部屋の隅で煌々と光を放つテレビに目を向けた。すると、

「……!?」

 ブラウン管に見知った顔が映っていた。先程、真士の脳裏にも浮かんだ顔である。真士は立ち上がり、慌ててテレビに近付いた。膝を突き、画面の下のパネルを開いて、少女が起きないかと危惧しつつも心持ち音量を上げる。

「──せあきらさんは、今日未明、自宅のアパートにて倒れていた所を地元の住人に発見されました。警察の調査によると鋭い刃物で全身をメッタ刺しにされたらしく、傷の具合から見て、殺されたのは十数日前という見解──」

 違う、と思った。

 これは、このテレビに映っている秋了は、真士の知っている秋了ではない。

 まず、死体の状態が違う。真士が知っている秋了は、右腕を切断され、首から上を失っている。その上、着ていた服は、今は真士の物だ。彼は今頃、頭のない下着一丁の死体のはず。

 そして、そんな死体の身元照合は簡単ではない。

 つまり──

「オリジナル……」

 その言葉は、今までにない重みを持って、真士の口から吐き出された。この言葉にこんなに重みが出るとは夢にも思わなかった。

「…………」

 今、ニュースで報道されている『殺人事件』は、【皆瀬秋了のオリジナル】が殺された事件だ。

 しかし、何故? 一体誰が──



『てめぇは弱ぇ。だがな、俺は強えんだよ。【てめぇのオリジナルを見てがっくりするほど情けなくはねぇんだよ】』



「!」

 まるで天啓の如く声が耳に蘇り、真士は目を見開いた。

 そうだ。そうに違いない。

 皆瀬秋了が、皆瀬秋了を殺したのだ。

 真士は確たる証拠を探すため、画面内に素早く視線を走らせた。

 あった。ニュースキャスターの手前にある今日の日付。それは、真士があの白い建物から逃げ出した、翌日。つまり、あれから──真士が逃げ出してからまだ一日しか経っていないのだ。

 秋了が外界に出たのが、真士が逃げ出した日と同じだとしよう。そして彼が、真士を見つける前に自分の『オリジナル』を殺したとしよう。それならば『傷の具合から見て、殺されたのは十数日前という見解』を持たれても、あの爪の力を考えれば無理はない。

「…………」

 打ちのめされた気分だった。何にどう打ちのめされたのか分からないのだが、ただ『負けた』と思った。秋了の言っていたことが、今、本当の意味で理解できた。

 彼はこう言っていたのだ。

 俺はオリジナルを消して、ただ一人の『皆瀬秋了』になった。そうまでして俺は自分の存在を確立させた。だからお前とは違うのだ──と。

 何の反論も思いつかなかった。まさにその通りだった。自分は、オリジナルに会おうとすらしなかった。自分は本当に複製人間なのか、それすら確認しようとはしなかった。ただ、幾つかの事実を前に、逃避しただけ。

 情けない──と、自分でもそう思う。

「…………」

 真士はテレビに手を伸ばし、電源を切った。途端、辺りは真っ暗闇に包まれる。

 ──自分は一体、何なのだろう。漠然とそう思った。

 どこの誰でもなければ、どこかの誰かになろうとする意志もない。名前、記憶、顔──それらも全て『借り物』だ。

 あまりにも小さな存在。弱い存在。

 自分は一体、何なのだろう。

 だが、考えても考えても、答えは出ない。

 右手に冷たい、濡れるような感触が生まれた。こんな暗闇でも関係なく見ることの出来る目を、右手に向ける。しかし、別段なんともなかった。気のせいだったのだろうか。

 気付いた。今のは確かに錯覚だったのだろうが、あの濡れた感触は、血に濡れる感触だ。染み着いている──そう感じた。

 ほんの少しだけ、意識を右手に傾けた。すると、右手首から先が、ふっ、と揺らめいたと思ったら、そこに三十センチほどの長さの刃が生まれていた。

 死にたい。強烈な衝動が心の奥底から衝き上がってきた。首をかっ斬って死んでしまいたい。この血に濡れた右手を、最後は自分の血で濡らして終わらせるのも悪くはない。後ろで寝ている少女には迷惑だろうが、この際、そんなことは気にしていられない。どうせ死ぬのだ。誰にどれだけ迷惑を掛けようが関係ない。

 真士の右手の刃が、流れるように喉に向かう。その剃刀の如く鋭い刃が喉に触れ、

 背後から真士の首の横を通って伸びてきた手が、その右手首を掴んだ。同時、真士はふわりと甘い香りに包まれる。

「──?」

 驚かなかった。ただ、何だろうと思った。まじまじとその手を見る。小さくて、柔らかくて──

「ダメだよ……」

 その声は吐息と共に、真士の左耳に届いた。誰だ、とは思わなかった。聞き覚えのある声だったから。真士は振り向こうとして、

 もう一本の腕が真士の首に回された。背中に暖かい感触。程良い重さ。背後から抱きしめられている──。そう認識するのに真士は一秒も掛かった。

 驚いているのか、呆然としているのか──自分でもよく分からない。とにかく真士の思考は真っ白に染まり、体は一切の動きを止めた。

 固まった真士の耳元で、声が囁く。

「あたしも同じだから、分かるよ。『自分』じゃないって、つらいもんね。誰でもないって、凄い不安なんだよね」

 優しい声。その言葉は、真士の心のどこまでもどこまでも深い所に下りてきた。

「ぁ……」

 いつからだろう、常に真士の中にあった不安が、まるで氷のように溶けていく。この人は──今、自分を抱きしめてくれるこの人は、自分を理解してくれている。そう思った途端、まるでそのスイッチを押されたように、真士の両目から涙が溢れ出た。視界がぐにゃりと歪む。

「でもね、死んじゃダメだよ。死んじゃったら、そこで終わりなんだから。……ね? 大丈夫だよ。まだ、時間はあるから」

 涙が止まらなかった。真士は俯き、嗚咽を漏らし始めた。子供のように泣きじゃくる。何故泣いているのか自分でもよく分からない。うれし泣き──とは違う気がする。沸き上がる巨大な感情の奔流を吐き出すように、真士はむせび泣いた。

「それに──」

 耳に掛かる吐息。背中に感じる温もり。右手首を包む感触。優しい言葉。どれもこれもが、真士の胸を熱くした。訳も分からず感動した。

 そして、次の言葉が最も強く、彼の胸を衝いた。

「君は、君だよ」

 その言葉を最後に、背中に感じていた重量が唐突に増した。左肩にも重みを感じ、真士はそちらに視線を向ける。涙で歪む視界の中に、目を閉じた少女の顔が映った。

 予想通り、赤いパジャマを着た少女の顔が。

「……?」

 少女は寝息を立てていた。さっきまで喋っていたのに──真士はどう対応すればいいか分からず、呆然とする。

 と、その時だ。

 ぱち、という音と共に室内が明るくなった。

 突然の光量の変化にしかし、真士の目には何の支障もない。涙を拭いもせず、音のした方向──背後に瞳を向ける。左肩に顎を乗せる少女の頭越しに、一人の中年女性が見えた。

「……あら?」

 部屋の出入口に立つその女性は、真士を見て軽く首を傾げた。

 長い黒髪は一本三つ編み。灰色のセーターと同色のロングスカート。そしてクリーム色のエプロンを身につけている。この娘の母親だろうか、と真士は思った。

 確かに自分の娘が、見知らぬ──しかも涙を流している──男の背中にへばりついていれば、おかしな顔もするだろう。

 真士は、ずっ、と鼻を鳴らし、弁明しようと口を開いた。何か言おうとして、

「あふっ……」

 意味不明の言葉が口から飛びだした。瞬間、一度は持ち直した涙の堰が再び崩れた。止まらない。涙が次から次へと溢れ出てくる。みっともない──そう思うのに止められない。

「ふぐっ……っ……あふっ……」

 目も開けてられなかった。真士は女性に背を向け、俯き、ボロボロと涙をこぼす。

「あ、ああっ。だ、大丈夫?」

 足音。女性の近寄ってくる気配。真士は問いに答えられない。ただ、泣く。

「どこか痛むの?」

 不意に背中が軽くなった。おそらく女性が少女を退けたのだろう。言葉を放てない真士は、首を横に振って意志を表す。

「どうしたの、どうして泣いているの?」

 背中をさする感触。いつの間にか人の形になった右手を包む、温もり。まさにとどめだった。

 真士の中の、何かの糸が、音を立ててちぎれた。

「ぅぁっ……はっ……あああああああああっ……!」

 真士は崩れ落ちた。腰を折り、亀のように体を丸めて、声を上げて泣く。

 【生まれて初めて】、声を上げて泣いた。



 結局、真士が泣き止むまで、三分ほどの時間を要した。



 ◎



「どうぞ」

 真士の前に、白いカップに入ったコーヒーが置かれた。

「あ、どうも……」

 真士は軽く頭を下げた。

「お砂糖は?」

「あ、二つお願いします……」

 真士は軽く頭を下げた。

「はい」

 箱から取り出された角砂糖が二つ、ソーサーの上に置かれる。真士はまた軽く頭を下げた。──さっきから女性が何かする毎に真士は頭を下げている。

 場所は変わっていない。真士が目覚めた、ソファとテレビと足の短いテーブルのある居間である。真士と女性はテーブルを挟んで座っており、女性の背後のソファには、あの少女が眠っている。

 しばらく、スプーンでコーヒーをかき回す音と、カップとソーサーのぶつかり合う音が室内に響く。

 やおら、女性が言った。

「──私は桧山貴子と言います。こちらの」

 ちらり、と背後を一瞥し、

「ソファで寝ているのは、娘の七海です」

 女性──貴子が言っていることが自己紹介だと気付くのに、真士は一秒ほどかかった。

 真士は慌ててカップをソーサーに置き、

「あ、僕は──」

 ──誰だ?

 一瞬、真士は息すら止めて硬直した。思わず『岩崎真士です』と言いかけた。もう、自分は『岩崎真士』ではないというのに。

「あ……その……」

 真士は俯き、言葉を模索する。と、貴子がくすっと笑った。

「七海から話は聞いています。あなたも、複製人間なんですって?」

「──!?」

 弾かれたように真士は顔を上げた。目を見開き、貴子の顔を凝視する。

「な、なんで……あっ」

 はっ、とする真士。今、貴子は『あなた【も】』と言った。

「もしかして……」

 ──あの女の子も改造人間──複製人間だと言うのだろうか。

 そんなまさか──そう思いつつも、目がソファの少女の方に向いた。少女──七海は、ソファの手すりを枕代わりにして眠っている。すーすー、と寝息を立てて。

 ──とてもそうは見えない。

 貴子の視線がついっとテーブルの角に逸れた。どこか、遠い目をしている。そして、微苦笑。

「あの子ね、一度あなたが起きた後に『お母さん、あの人あたしと一緒だよ』って言ってたから──」

 彼女は敢えて、真士の問いには答えなかった。が、その言葉の中に、答えがあった。

 貴子は小さく吐息。首を巡らし背後の七海を見つめ、

「それに、【初めて会った頃】の七海も、さっきのあなたみたいに突然泣き出したりすることがあったの」

 その言葉に、真士の脳裏に先程の事が思い出される。少年は頬を朱に染めて恥じ入った。

「あ、あの、す、すみません。さっきはその、取り乱して……」

「え……?」

 貴子が少し驚いた顔で振り返った。次いで、口を『あ』の形に開き、

「あ、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの。ごめんなさいね」

 右手で口を隠し、苦笑して、軽く頭を下げる。

「いえ……」

「えっと……何の話だったかしら? あ、そうそう。名前ね」

 一息。

「七海も、最初は名前で呼ばれるのを嫌っていたわ。『それはあたしの名前じゃない』──って。今はそうでもないんだけどね」

 くす、と笑う。

「……結局、その人にピッタリ来る名前って一つしかないのよね。七海も幾つか試したけど、結局『七海』に落ち着いちゃったわ」

 貴子の顔に、昔を懐かしむような微笑が浮かぶ。真士は黙って話の続きを待つ。

「──結局、何が言いたいかというと、名前がどうのこうのなんて気にしなくていいのよ、ということかしら。──だから、あなたのお名前は?」

 そう言って、貴子はにっこりと微笑んだ。母さんみたいだ──。真士はそう思った。しわが多くて、お世辞にも女性的な美しさを持っているとは言えない──しかしまるで慈愛の象徴のような微笑み。真士の母がよく浮かべていた表情だ。そのせいだろうか、真士もつられて微笑み、言葉はするりと出た。

「──僕の名前は、岩崎真士といいます」



 ◎



 三時間後。

 寝ぼけ眼で階段を下りてきた七海に、廊下の真士は開口一番、

「あ、はじめまして」

 と言った。

「……ほぇ?」

 右手で左目を擦りつつ、七海は間抜けな声をこぼした。数秒間、しげしげと真士の顔を眺める。

 居間から出て一メートルの場所。前方には玄関。右手には二階へ続く階段。真士は階段の一番下に、七海は下から四段目に立っている。

 壁に掛けられたデジタル時計によると、現在は午後八時三十八分。貴子の話によると、真士が桧山家にやってきたのは午前八時頃。一度目覚めたのがちょうど昼頃らしい。そして完全に覚醒したのが三時間前の、午後五時半頃である。

「あ」

 七海が声を上げた。ぱちっ、とややつり上がった目が大きく開く。途端、トトンと一息に階段を下り、廊下の真士が一歩後退して開いた場所に立ち、いきなり右手で真士の頬をはたいた。

 ぱんっ、と乾いたいい音が廊下に響く。

「……え?」

 前回と同じように、真士はその一撃に意識の全てを吹き飛ばされた。顔を右に向け、唖然とする。

 一瞬の空白の後、

「バカ」

 と七海は言った。

「…………」

 真士は左手をはたかれた頬に沿え、ゆっくりと顔を七海に向ける。何故殴られて罵倒されるのかが分からない。赤いパジャマの少女は右手を振り抜いた体勢のまま、真士を睨んでいる。

 彼はただ、足音が聞こえたので何となく廊下に出て、そこでちょうど階段を下りてきた七海と遭遇しただけなのに。

 真士が黙っていると、七海は右手の人差し指で少年の顔を指さし、

「死のうとしたでしょ、君」

「…………」

 いきなりの話に、真士は言葉もなかった。少女の言うことは事実であり、弁解の余地はない。だが、何故今その話をするのか、真士には分からない。

「あ、その……」

 何と言えばいいのだろう。目が泳ぐ。とりあえず、真士は思いついたことを言った。

 名乗る。

「僕は……真士って言います」

 名字は省いた。貴子と話した後、意味がないと感じたからだ。自分の名前は『借り物』であり、名前は所詮『記号』である。ならば、『真士』だけで事足りる気がしたのだ。

 七海はわざとらしい、大きな溜息を一つ。両手を腰に当て、上目遣いに真士を見上げる。

「あたしは七海。──で?」

 少女も名字を省いた。真士は心のどこかで安堵する。やっぱり同じだ──。そう実感した。

 『で?』と言われて、真士は困惑した。何と言えばいいのだろう。彼女はどうやら怒っているらしい。これ以上余計なことを言って、もう一発殴られるのは避けたい。

「あの……すみません」

 何となく謝ってみた。悪いことをしたような自覚はないのだが、相手が怒っているのだ。謝れば、向こうの気が収まるかもしれない。

 そして、その試みは一応の成功を見た。

「……よろしい」

 ふぅっ、と吐息。七海は怒りの表情から一転して、あは、と満面の笑みを浮かべる。

「人間、生命は大切にしなきゃダメだよ。たった一つしかないんだからね」

 トン、と右手の甲で真士の胸を叩く。やおら、右手を伸ばし、真士の左頬に触れ、

「これ、ごめんね。痛かった?」

「……かなり」

 真士は正直に答えた。

「あう……ごめんね……つい、勢いで」

 少し赤くなった顔に苦笑いを浮かべ、すまなそうに自分の頬を撫でる七海を見て真士は思った。

 不思議な人だな──

 今日初めて会ったばかりなのに、圧倒されてばっかりだ。

 貴子の話によると、七海は十六歳で、生まれて二年らしい。真士は十七歳で、生まれたばかり。年下なのに、年上。ここの所も、真士が抱く不思議な違和感に関係があるのかもしれない。

「──え? なに、何かついてる?」

 じっと眺めていたら、七海は自分の顔をぺたぺた触りながら照れくさそうに言った。真士は慌てて首を横に振る。ごまかすように、早口でこう聞いた。

「あの、もう眠くはないんですか?」

「え? あ、うん。もう大丈夫。そうだ、今何時?」

「えっと……」

 真士は壁の時計に目を移す。午後八時四十分。

「八時四十分ぐらいですね」

「んじゃ……うん。五時間ぐらい寝たから、十二時ぐらいまでは大丈夫」

 七海は笑顔で言った。

 七海はよく眠る。一日の大半を寝て過ごす。そう貴子が言っていた。何かの病気らしい。詳しい病名は聞けなかった。語る母の姿が、あまりにも苦しそうに見えたからだ。

「真士君は、もう夕飯食べた?」

「あ、いえ。でも、桧山さんが着替えたら台所に来てって──」

 真士の言葉に七海の視線がさっと下に落ちて、再び元の位置に戻った。真士の格好を確認したらしい。真士は今、貴子から借りた水色のシャツとブルージーンズを着ていた。ちなみにさっきまで着ていた服は貴子が洗濯している。もう二度と着るつもりはないのだが。

「桧山さん? お母さんのこと?」

「はい。──なんですか?」

「ううん。君って、真面目っていうか、礼儀正しいって言うか──堅そうだよね」

「……そうですか?」

「うん」

「じゃあ、七海さんは、誰かのお母さんを何て──」

「ほら、七海『さん』。堅いよぉ、真士『さん』」

 七海は、あはは、と笑った。つられて、真士の顔もほころぶ。

「──そうだ、真士君は何歳? いつ生まれたの?」

 七海は階段の二段目に腰を下ろし、太股の上に両肘をついた。背を丸めて花のように開いた両手に顎を乗せ、上目遣いに真士を見上げる。

「十七歳です。生まれたのは……多分、一週間ぐらい前だと思います」

 真士はこうやって他愛もないお喋りをしている自分が不思議だった。己の境遇を、さらりと言えた。『自分は生まれてから一週間しか経っていません』と言える人間なんて、世界中どこを探しても自分ぐらいなものだろうな──心のどこかでそう思う。

「ふーん……。じゃ、一つ年上なんだけど二つ年下なんだ」

 妙な話ではあった。真士の脳の中には十七年分の記憶が詰まっているが、その身体は生まれてから一週間ほどの赤子のような物で、七海の脳の中には十六年分の記憶が詰まっているが、その体は生まれてから二年しか経っていない。厳密な意味では、真士と七海は赤子と二歳児なのである。

 真士が七海を『さん』付けで呼ぶのも、そんな理由からだった。

「ややこしいですね」

 苦笑混じりに真士がそう言うと、七海は、

「そう? おもしろいと思うよ」

 と言って、あは、と笑った。



 二人は貴子が呼びに来るまで、その場で他愛もないお喋りをしていた。



 ◎



 食事の途中、桧山家の場所を聞いて、真士は凍り付いた。

「──え?」

 黒い楕円形のテーブルと夕食──ビーフシチューとポテトサラダ──を挟んで、真士は七海と向かい合って座っている。右斜め前には、二人の食事を楽しそうに見守る貴子が座っていた。

 真士がこぼした声に、

「ん?」

 と七海はスプーンの先を口にくわえつつ、ぱちくりと瞬き。

「……山の中──って言いました?」

 七海はスプーンをくわえたまま、うん、と頷いた。

「言ったけど、それが何?」

「……もしかして、白い建物のある……?」

「研究所のこと?」

 ここで『七海、行儀悪いわよ』と貴子の注意が入り、七海はスプーンの先端を口から出した。

 真士は視線をビーフシチューに落とし、ごくりと唾を飲む。

 研究所──。言われてみれば、そんな感じのする建物だった。雪村もそうだが、何度か白衣を着た人間を見たことがある。

「もしかして、真士君は研究所で生まれたの?」

 真士は答えない。俯いて固まっている。が、七海はそこから応えを受け取ったようだ。

「──って、聞くまでもないよね。近くの森で寝てたんだから」

 寝ていたんじゃなくて、気絶していたんです──。心の中で言葉を用意するが、口に出す気力が湧かなかった。

「──あの……ここから、その研究所は、どれぐらい離れているんですか?」

 真士は貴子に聞いた。彼女は口元に運んでいた紅茶をソーサーに置き、視線を中空に泳がせる。

「……歩いて三十分ぐらいじゃないかしら。ここは裾野にあるから、山道を登らないといけないけど」

 歩いて三十分──大体二キロ程離れているという事になる。

 ──危ない。滅茶苦茶に危ない。こんな近くじゃいずれ見つかる。そうなったら──

「お父さん、元気だった?」

 七海の質問が真士を我に返した。

「……えっ? あ、はい?」

 顔を上げて、七海を見る。彼女は真士とは目を合わさず、視線をあらぬ方向に向けていた。繰り返す。

「だから……お父さん、元気だった?」

「……誰のですか?」

「あたしのに決まってるじゃない」

 そう言う七海の声は、ひどく抑揚に欠けていた。何かの感情を抑圧しているような、そんな雰囲気を感じる。真士はそれを不思議に思いながら、

「……誰ですか?」

 お父さんの名前は? 又は、お父さんの役職は? というニュアンスで聞いた。十中八九わからないとは思いつつ。あそこで真士が名前を覚えている人物と言えば、男爵と雪村ぐらいなのだ。

 が。

「……あそこで、男爵って呼ばれてる人」

「──!?」

 心臓を鷲掴みにされたのかと思うほど驚いた。息を呑み、目を剥き、七海を凝視する。

 男爵。真士を生んだ張本人。真士に人殺しをさせた張本人。

 真士にとって、始まりの人物。

 恐るべき人物。

 そして、憎むべき人物。

「……!」

 恐怖と怒りがごちゃ混ぜになって噴き出した。

 生まれて初めて見た人間──男爵の顔。自分が殺した男達と少女達、それらの死体。血。白い部屋。非情の言葉を放つスピーカー。黒光りする銃口。画面一杯に映る、涙でぐちゃぐちゃになった少女の顔。それらが真士の脳裏にフラッシュバックした。

 ぎりっ、と歯軋り。少年の体から強い怒気が吹き出した。

「──ど、どうしたの……?」

 視線を逸らしていたはずの七海が、恐々と言った。見ると、七海も貴子も、真士の方を見て驚きの表情を浮かべている。自分が今どんな顔をしているか、鏡を見なくても分かった。歯を食いしばり、眉根を寄せ、露骨な怒りの形相を浮かべているのだろう。

 本気で怒っていることを自覚できたのは、生まれてからはもちろん、仮初めの記憶の中でも初めてだった。

 二人の視線に耐えきれず、顔を右に逸らした。白いドアが目に入る。怒りが収まらない。男爵と、男爵に怯えている自分が、殺してやりたいほど憎かった。

「……知りません」

 歯の根から絞り出すように、それだけを言った。気を付けたつもりだったのに声に怒りの色があった。

「そ、そう……ごめんね」

「何で謝るんですか」

 顔を横に向けたまま言い放った。

「え、だって……」

 七海が言い淀む。

 ──何をやっているんだ僕は。七海さんは悪くないじゃないか。なに八つ当たりしているんだ。謝るべきは僕の方だろ。

 鼻で大きく息を吸い、俯き、小さく開いた口からゆっくり吐き出した。少し、落ち着く。冷静になれ──。そう自分に言い聞かせた。

「……すみません」

「う、ううん……ごめんね。あたし、何か悪いこと言っちゃったみたいで……」

 真士はゆっくりと顔を前に戻し、七海を見た。少女はスプーンをシチューの中に潜らせ、俯いている。真士は無理矢理、顔に笑みを浮かべて見せた。

「……いえ。ちょっと、嫌なことを思い出しただけですから。七海さんのせいじゃありませんよ」

 出来るだけ明るい声で言った。真士が場の空気を元に戻そうと努めているのを察したのか、貴子が立ち上がり、

「お母さん、お茶入れるわね。コーヒーと紅茶、どっちがいい?」

 二人の顔を交互に見る。真士もそれに飛びついた。

「あ、じゃあ僕はコーヒーをお願いします」

「……あたしも」

「はいはい」

 と笑顔で答えて、貴子はキッチンに入っていく。

 二人になった途端、真士と七海は喋らなくなった。先にスプーンを動かしたのは真士だ。シチューを口に運ぶ。やや遅れて、七海もそれに倣った。

「…………」

 シチューを食べながら、真士は七海を盗み見た。

 男爵の娘──いや、彼女は複製人間だ。実の父ではない。が、彼女のオリジナルは男爵の娘だったのだ。少年に本物の殺意を抱かせる男の娘──の複製。

 複雑な事情に、真士の胸中もまた複雑だった。七海の父が男爵だと分かった途端、彼女とどう接すればいいのか分からなくなってしまった。

 と、七海がスプーンを止め、こちらを見た。真士は慌てて視線をビーフシチューに向ける。

「……ねえ」

「……はい?」

 真士は顔を上げ、七海の目を見た。少女の瞳が、揺らめいている。七海は何か言おうと口を開き、

「……ううん、やっぱりなんでもない」

 と言って、再び食事に戻った。

「……?」

 真士は怪訝な表情を浮かべつつも、言及することもできず、自分も食事を再開した。

 それ以降、貴子がトレイでコーヒーを運んでくるまで、二人は一切口を開かなかった。



 七海の部屋の隣を使っていいと言われた。

 何もない、八畳程度の広さの部屋。その中央に敷かれた布団の上に、真士は胡座をかいている。

 吐息。

 ──悪いこと、しちゃったな。七海さんは悪くないのに。

 七海の怯えた表情が脳裏に浮かぶ。心に重くのしかかる。冷静になって、ようやくあの時の自分の愚かさが分かった。

 あれは完全に八つ当たりだった。

 溜息。

 脇には、黒い男物のパジャマが畳んで置いてある。真士はそれを見て、ふと思った。

 ──これは誰の物だろう?

 この家には貴子と七海しかいない。なのに何故、男物のパジャマがあるのだろう。

 ──お父さんのかな……?

 と思った瞬間、その『お父さん』が男爵だということを思い出した。

 一気に着る気を無くした。そして、今着ている服も脱ぎたい衝動に駆られる。

 背を倒し、布団の上に寝ころんだ。

 ──どうしよう……?

 これからどうするべきなのだろうか。行く宛がない、戸籍がない、お金がない。今の自分はないない尽くしだ。今はただ、漠然と『そこにいる』だけだ。

 とにかく、ここにいると危ない。それはわかる。だが──

 目を閉じる。同じ複製人間の少女──その顔が、瞼の裏に浮かんだ。続いて、その母親の顔も浮かぶ。

 ──いや、本当のお母さんじゃない。

 母は『本物 』でも、娘は『複製』だ。

「──!?」

 目を開いた。自分の考えに、自分で驚いた。

 ──スペアだって? 何を考えているんだ、僕は……

 遅れて、自己嫌悪。今の考えは確かに間違ってはいなかった。むしろ正しい論理だと思う。が、冷血な──そう、まるで男爵のような──嫌な考え方だった。

 再び目を閉じ、考える。出来ることなら、一刻も早くこの家から出て行くべきだろう。そして逃げるべきだ。ここにいるのはあまりにも危険だ。

 だが──。

「…………」

 七海と貴子の顔を思い浮かべる。優しくて暖かい二人──。離れたくない、と思った。

 出来ることなら、ずっと、この家にいたい。

 自分を理解してくれる人が側にいる。それがこんなに安らぎを感じることだとは思わなかった。

 それに、気になることが幾つかある。何故、七海はこの家にいるのか。何故、研究所にいないのか。何故、彼女が複製人間なのか。何故、三十分もかかる場所にいる真士を見つけたのか。何故、父のことを聞く時にあんな抑揚のない声だったのか。

 何故、何故、何故──

 いつの間にか、真士の意識は闇に吸い込まれていた。



 夢を見た。

 嫌な夢だった。

 山の様な死体。赤い赤い肉の山。

 真士はそれをまたいで歩く。前に、前に。

 死体の中に、見知った顔があることに気付いた。

 母、父、友人──七海。

 そして、真士自身の顔もあった。

 場所はいつの間にか、見知らぬ廊下へ。赤い廊下──血塗れの道。

 壁も床も天井も血で赤く染められた空間を、ぴちゃぴちゃと血を踏みならし、真士は歩く。

 その果てに



To Be Continued…





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