壊れた機械
─〈マシン〉






 三日が過ぎた。

 早くここを出よう、早く逃げようと思っている内に、いつの間にか三日も経っていた。

 貴子に七海の話し相手やら、日曜大工やら、食料の買い出しやら、いろいろと仕事を任されたせいかもしれない。生真面目な性格の真士は、任された仕事をほったらかしにして去ることが出来なかった。おかげで買い出しの途中に出会う、農業を営んでいる老夫婦とも仲良くなった。ついでに言えば、彼らは真士が研究所を脱走したときに道を尋ねたあの老夫婦だ。杉原さんと言うらしい。

 四日目、ついに一大決心をし、貴子にお礼を言ってさよならしようとした。が、真士がその旨を伝えようとした途端、貴子は機関銃の如く真士に話しかけ、話の腰を折るどころか粉々に砕いてしまった。しかも数時間後、貴子から話を聞いたのか、七海までも真士が話を切り出そうとしたら無理矢理に話題を変えるようになった。

 そんなこんなで、さらに十日が過ぎた。



 桧山家に着て二週間目。珍しく七海と一緒に食料の買い出しに行った時のことだった。

「あたしね、ガラクタなの」

 出し抜けに七海がそう言った。

 真士の両手にはスーパーの袋が四つぶら下がっている。比べて、七海は手ぶらだ。二人は今、山に向かって伸びる、左右を田畑に挟まれた道路を歩いていた。後十分もすれば杉原さんの畑も見えるだろう。

「……え?」

「ガラクタなの、ガラクタ」

 先を行く七海の背中が言った。今日の彼女は濃紺のデニムシャツとハーフパンツ、白いウィンドブレーカーという格好をしている。どれも男物だ。実は真士用に買ってきた服なのだが、七海が気に入ってしまい、以来彼女ばかりが着ている。ボーイッシュだが、よく似合っていた。一方の真士は、白いセーターとブルージーンズの上に黒のブルゾンという出で立ちだ。

「ガラクタ……?」

「そ、ガラクタなの」

 真士は七海の意図を計りかねた。何を言っているのかさっぱり分からない。

「あの……ガラクタって?」

 ぴたり、と七海がその場に足を止めた。

「……?」

 訝しがりつつ、真士も距離を保って足を止める。

「──失敗作なの」

「……え?」

「あたし、失敗作らしいの。本当はちゃんと『七海』を作ろうとしたらしいんだけど、失敗しちゃったんだって。何がどう失敗したのかはわかんないんだけど、ほら、あたしって一日の大半寝てるでしょ。多分、あれだと思う」

 畳み掛けるように七海は言った。さして早口だったわけではないのだが、口を挟むことの出来ない雰囲気を持って。

「…………」

 話の内容に衝撃を受けつつ、真士は何故七海が突然そんなことを話し始めたのかを不思議がった。

「だから、ガラクタなの。だからお父さんも家に来ないし、お母さんも……」

「…………」

 何も言えなかった。言うべき言葉が見つからなかった。

 七海の声は、震えていた。そして彼女は、振り返らない。

 真士は言葉もなく、得も言えぬ悔しさを噛みしめ、その背中を見つめている。

「──ごめんね、いきなりこんな話して。ほら、お母さんの前じゃあんまり話せないことだし、でも君に話しておきたかったし」

「…………」

 真士からは見えないところで、七海は鼻を啜り、両手で涙を拭った。そして振り向く。

 涙に濡れた赤い目を細めて、無理矢理な笑顔を浮かべて、ごまかすように、

「なんていったって、君は『仲間』だもんね。言うの遅れたけど、君が初めてなんだよ。【同じ】、複製人間の友達って」

「…………」

 七海の無理矢理な笑顔が、胸に痛かった。黙って立ち尽くし、その顔を見ているしかできない自分が情けなかった。かっこわるいと思った。それでも体は動かなかった。──荷物が重いせいだ。両手が塞がっているから何もできないんだ──。無理矢理に理由をでっち上げ、自分を正当化しようとする。が、そんな事に意味はなかった。

 七海はぺろっと舌を出して、あは、と笑った。

「ほんと、ごめんね。いきなりこんな暗い話して、いきなりな、泣いちゃ──」

 言葉は段々尻窄みになって消えた。語尾が、また震えていた。

「ぇくっ……っ……」

 七海は両手を口に当て、声を殺す。が、涙が止まらないらしい。ややつり上がった大きな瞳から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれた。

 何もできないのか──。真士は葛藤する。以前、自分があんな風に泣いていた時、七海さんは優しく抱きしめてくれたじゃないか。側にいてくれたじゃないか。なのにどうして──どうしてこの体は動かない。荷物なんかどうでもいいじゃないか。今、荷物を離して、歩み寄って、涙を拭って、

「ぇっ……ご、ごめんっ、あたし、先に帰ってるっ……!」

 涙ながらに言うが早いか、七海は真士に背を向けて走り出した。

 段々小さくなっていく七海の背中を見送りながら、真士は立ち尽くす。

 ──結局、何もできなかった。

 七海の姿が見えなくなってから、真士は再び歩き始めた。

 何も考えていない。頭の中は空白だ。

 歩いている内に、一つの疑問が浮かんだ。

 何で、あんな事を話してくれたんだろう。

 泣くぐらいなら、言わなければいいのに。

 女の子の泣き顔は好きじゃない。

「…………」

 ──違う。

 七海の泣き顔は、見たくない。



 畑で働いていた杉原夫婦に挨拶し、山道の途中で右に折れ、ようやく桧山家に到着した。荷物をぶら下げたままの右手で器用にドアノブを回し、玄関に入る。靴を脱ぎ、キッチンに入って荷物を置いた。貴子の姿はない。今日は知人の所に出掛けている。

 真士は七海を捜した。居間を見ていなかったので、おそらく二階の自室だろう。階段を上がり、七海の部屋の前まで行く。

 右手を持ち上げ──下ろした。そして今度は左手を持ち上げ、躊躇いがちにノックを二回。

 返事はなかった。

「……七海、さん?」

 声を掛けてみたが、それでも返事はない。これはいつものことだ。七海は自室にいる場合、寝ていることが多いのだ。

 だが、今はそうではない気がした。

「……入りますよ?」

 ドアの向こうで何かが動く気配がした。鍵を閉められる──そう直感的に察した真士は、素早くドアノブを回した。

 が、予想された抵抗はなかった。

「……?」

 気のせいだったのだろうか──。真士はゆっくりドアを押し開いた。

 以前、七海の部屋に入った時、真士は『白いな』という感想を抱いた。ベットや毛布、机から本棚、カーテンから絨毯に至るまで白一色だったのだ。

 だが、今日の七海の部屋は赤かった。

 どきりとした。

 血──ではなかった。夕焼けの光だ。残照に照らされて、白い部屋が赤く染まっていたのだ。

 そして、窓際のベッドの上に、毛布をかぶった塊があった。

「……なに?」

 毛布をかぶった塊が声を出した。

「七海さん……」

 真士は安堵の息を吐いた。篭っていたのでよく分からなかったが、七海が声を出してくれたからだ。何も言ってくれなかったら、真士から話しかける勇気が湧いたかどうか。

「返事してくれれば良かったのに」

「……ごめんね」

「いえ、べ」

 つに、と言おうとしたら、七海がそれを遮った。

「違う。さっきのこと」

 真士は一瞬、反応が遅れた。さっきのこと──ああ、帰り道のことか。

 真士は部屋に足を踏み入れ、静かにドアを閉めた。

 ──違いますよ、七海さん。謝るのは僕の方です。

 心の中で言葉を用意してから、真士はベッドの上の毛布をかぶった塊に近付いた。毛布に手を掛け、ゆっくり引く。毛布を退けると、七海の丸めた背中が目に入った。少女は、折り畳んだ両足を胸に引き寄せ、まるでアルマジロのように体を丸めてベッドの上に座っていた。白いウィンドブレーカーの背中と、うなだれているために露になったうなじが、夕陽に照らされ赤く見える。

「すみません」

 口を衝いて出たのは、用意した言葉ではなかった。あれ、と思う。不思議に、自然と言葉が出た。

「……真士君は悪くないよ。あたしが」

 七海の言葉は、息を呑む声と共に途切れた。真士が七海の首に腕を回し、背後から抱きしめたのだ。

「すみません」

「……え?」

 七海が首を右に巡らし、振り返る。真士はあの時の七海のように、少女の左肩に顔を寄せた。ふわりと、甘い香りがした。

「さっきは何もできなくて、僕の方こそすみませんでした」

「え……? え、なに」

「わかりますよ、七海さんの気持ち。僕も【同じ】ですから」

 さらに首を巡らそうとした七海の動きが、止まった。

 その言葉は、前に七海が真士に言ってくれた言葉──心を救ってくれた言葉だ。だから真士は、あの時の七海と同じ事を言う。同じように、彼女の心を救うため。

「『自分』が自分じゃないって、つらいことですよね」

「……うん」

 七海が頷く。そう。分かってはいるのだ、七海とて。以前、真士に同じ事を言ったのだから。だが──

 ぴちゃり、と真士の左手に水滴が落ちた。だが、少年はかまわない。その水滴が何かなど、見なくても分かる。

「特に七海さんは、僕より──」

 さらに言葉を募ろうとした真士を、七海の涙塗れの声が制した。

 嗚咽混じりに、濁音だらけの声で、

「……あのね、なんかね、『本物のあたし』は死んじゃっててね、でも、『偽物のあたし』が生きててね、でもあたしはあたしで、本物で、でもね、お父さんは会いに来てくれなくて、お母さんも知らない人でね、あたし、あたしぃ……!」

 一言一言を発する度に、七海の声がボロボロと崩れていく。声は段々鼻づまりになり、嗚咽の割合は多くなり、真士の左手を濡らす水滴が多くなっていく。後はもう、言葉にならない嗚咽しか出なかった。

 あの時の自分も、こんなだったのだろうか──。真士はそう思い、嗚咽を漏らし続ける七海をより強く抱きしめる。

 彼女は二年間、孤独だったのだ。いや、側に誰かがいたかもしれない。だが『仲間』がいなかったことは確かだ。彼女と同じ、複製人間が。

 真士の孤独は一週間で終わった。それは、彼女の孤独に比べて、塵のような物だ。

 二年間。決して短くはない時間だ。その間、七海は『仲間』ではない人々に囲まれているという、孤独よりも深い孤独の中にいたのである。

 彼女はいつも求めていたのだ。自分と同じ存在、同じ境遇の『仲間』を。時に自分が支え、時に自分を支えてくれる人物を。

 そして、今の彼女に必要なのは、『仲間』の慰めだ。いつかの自分がそうだったように。

 だから真士は言った。自分が知る上で、一番強い、慰めの言葉を。

「七海さんは、七海さんですよ」

 刹那、七海の体が硬直し、泣き声が止んだ。

 そして、

「……っく……えっく……」

 再び泣き出した。だが、それは余韻だ、と真士は知っている。自分がそうだったからだ。

 やや体を離し、泣き止まない七海の頭を右手で撫でようとして──結局、撫でた。

 しゃっくりを上げる七海の頭を、何度も、何度も撫でてあげる。泣き止むまで。

 やがて、泣き止んだと思ったら、七海は眠っていた。それに気付いた真士はくすりと微笑し、ゆっくりベッドに寝かせてあげた。毛布を掛け、カーテンを閉める。

 眠っている七海の涙を、右手の親指で拭った。しばらく、その寝顔を見つめ──

 吐息。そして苦笑。

 左手でぺんぺんと自分の側頭部を叩き、真士は音を立てないよう静かに部屋を出ていった。

 音もなくドアが閉まり、数秒が過ぎる。

 と、七海しかいない部屋の中で、ぽつりと言葉が生まれた。

「……ありがとう……」



 ◎



 平らな切り株の上に、こん、と薪が立てられる。真士は右手に持った鉈を振り下ろし、それを真っ二つに切り裂く。すると、再び切り株に薪が立てられ、真士もまた、それを鉈で切り裂く。それを何度も繰り返す。

 立てられた薪を鉈で割る。その動作を繰り返しつつ、真士は前方の七海に声を掛けた。

「……あの」

「んー?」

 薪を立てるのに夢中なのか、七海は顔も上げずに生返事をする。それでも真士は視線を七海に固定しつつ、

「あの……なんで薪なんか割るんですか?」

 七海の動きが止まった。軍手を填めた手を傍らの薪に伸ばしかけたまま、硬直する。

「…………」

 七海は無言。真士は七海の言葉を待つ。

 二人は今、桧山家の庭にて薪割りをしていた。二人は一本の切り株を挟んで、足の短い椅子に腰掛けている。見ての通り七海が薪を立てる役で、真士が割る役だ。

 だが、真士は薪の用途が分からなかった。風呂炊きに使う──まさか、この家のお風呂はガス沸かしだ。使うわけがない。ならば一体何に使うのか。全く予想がつかない。

 固まっていた七海が、再びゆるゆると動き始めた。一本の薪を掴み、切り株の上に立て、ぼそりと、

「……ばーべきゅー」

「……は?」

 七海のすっとぼけた答えを聞いた途端、真士は彼女の真意を悟った。なんのことはない、これも【真士をここに引き留めておくための口実】なのだ。仕事を与えていれば真士はどこにも行かない──それを実践しているだけなのである。この仕事自体には、大して意味はない。

「…………」

 溜息。なるほど。そういえばそうしないといけなかったんだっけ──真士は思い出した。ここ数日、自分でもその事を忘れてしまっていた。──余計なことをしなくてもいいのに、と思う。そうすれば、自分も思い出さずにここで暮らせたかもしれないのに。

 真士は全てを悟りつつも、やはり聞いてしまう。

「……バーベキュー、するんですか?」

「うん。多分」

「多分って……」

 苦笑い。顔を横に向ける七海が、少しおかしかった。困っているが、笑いたい。それを我慢すると、苦笑いになる。

 真士が黙っていると、やおら七海は慌てたように、

「あ、ねえねえ、真士君。これ使ったら?」

 と言って、真士の右手を指さした。

「え……?」

「こっちの方が切れ味いいでしょ。ほら」

 ぺしっ、と真士の右腕をはたく。

「あ……!」

 真士は驚きの声を上げ、慌てて右手を空に向けた。次の瞬間、真士の右手首から先がぐんと伸び、二つになった軍手が地面に落ちる。ぎらり、と白銀の刃が陽光を照り返した。

 真士は思わず声を少し荒げた。

「な、七海さん、危ないじゃないですかっ」

「あ……ごめんごめん」

 と言いつつ、七海は、あは、と笑った。

 ここに来て以来、真士の右腕の感覚はおかしくなっていた。以前は集中しなければ剣に変化しなかった腕が、今ではちょっとしたことでその形を変えてしまうのだ。

 ──あの時、七海さんに叩かれて元に戻したせいかな……?

 と、七海の顔を初めて見たときのことを思い出し、真士はそう思う。『七海に叩かれる』、もしくは『七海に叩かれる程度の刺激』で変化するようになってしまったのかもしれない。パブロフの犬のように。

「まったくもう……怪我とかしたらどうするつもりなんですか」

「大丈夫。平気だよ。真士君だし」

「そんなの理由になりません」

 憮然と真士が言うと、やはり七海は、あは、と笑った。

「堅いよぉ、真士『さん』」

「もう……」

 ブツブツ言いながら、真士は刃を短くした。結局、その右手の短剣で薪を割ることにする。思った通り、薪はまるで消しゴムのようにスパスパと切れた。

 どうして七海はああまで自分を信頼してくれるのか──。真士はそれが不思議だった。自分が『仲間』であること以上の何かが、あるような気がする。

 七海には変に動じない、不思議な強さがあった。顕著な例を挙げれば、初めて会った時がそうだ。あの時の真士は右腕の剣を振り上げていたにも関わらず、七海は動じる様子もなく、その頬をはたいたのである。

 不思議な人だな──

 嬉々と薪を立てていく七海を眺めながら、真士はもう何度も思ったことを、再度思った。この人には、いろんな意味で勝てる気がしないや。



 そうして、真士が桧山家に来て一ヶ月の時が流れた。

 出て行かねば、ここから離れなければ、男爵から少しでも遠いところへ行かなければ──。いつしか真士はそんなことを考えるのを忘れてしまっていた。

 それほど平和だった。危機感が失せるほど、幸せだった。

 いつしか真士の脳裏に、七海と貴子と暮らす未来の姿が、漠然と現れるようになっていた。

 ここでずっと暮らす。それが決定事項のように思えていた。誰でもない自分に行くところはなく、そしてここはそんな自分を受け入れてくれる場所なのだから。

 そして、かけがえのない『仲間』がいるのだから。

 真士が形ばかりの仕事を押し付けられ、引き留められるのを楽しんでいる。七海が形ばかりの仕事を押しつけ、真士を必死に引き留めている。貴子がそんな二人を見て、嬉しそうに微笑んでいる。

 そんな時だった。

 忘れたはずの危機がやってきたのは。



 ◎



 昼下がり。

 真士は食料の買い出しに出ていた。駅前のスーパーで貴子に頼まれた物を購入し、両手に多くの荷物を持ち、帰路につく。

 白のカジュアルシャツとブラックジーンズ、そして黒のブルゾンという格好の真士は、田畑を二分する長い長い道路を歩く。この買い出しもまた、真士を引き留めておくための『仕事』だ。何度も外に出る内、杉原老父婦と親睦を深め、聞いたのだ。『あの家は以前、買い物は通信で済ましていた』と。

 だが、真士はそれを聞いても何とも思わなかった。ああ、そうなのか──と、それだけだった。むしろ、今となっては『仕事』を貰えることが嬉しかった。また通信で済ませるようになると、こちらが困る。あそこにいる口実が無くなってしまうのだから。

 畑に出ていた杉原老夫婦と挨拶を交わし、山に入る。山道の途中で右に折れ、桧山家に到着。荷物を持ったままドアノブを回し、玄関に入る。

「ただいま」

 と少し大きめの声で言った。同時、『ただいま』と言えるようになった自分に苦笑する。随分慣れたものだ、と我ながら感心した。

 しかし、誰の返事もなかった。おや、と思う。今日は貴子も七海も出掛けていないはずだ。七海は寝ているのかもしれないが、貴子がいれば『おかえりなさい』と声が帰ってくるはずなのに──

 だが真士はその事をさして気に留めず、靴を脱ぎ、キッチンに入って出入口付近に荷物を置き、

 貴子の死体に気付いた。

「!?」

 驚愕に全身がびくりと震えた。全身に電気を流されたかのような衝撃だった。体中の筋肉が凍り付き、悲鳴も上げられなかった。腰を抜かし、尻餅をつく。

「……!」

 ぱくぱくとまるで魚のように口を開閉させる。

 確認するまでもなくそれは貴子だった。そして死体だった。

 首だけが体から離れて、血溜まりの中に浮かんでいたのだから。──そう、首【だけ】なのだ。体が見あたらない。真士の目は自然と貴子の体を探した。キョロキョロと忙しなく動き──見つけた。血痕だ。幾つもの赤い点が、左方向、庭に向かって続いている。真士の視線はそれを追う。

 ガラス張りの扉が開け放たれていた。庭の様子がよく見える。

「……!?」

 目を剥く思いだったが、これ以上は無理だった。皿のように開いた真士の瞳に、庭に立つ、一人の人物が映った。

 白いブラウスにカーディガン、そしてスカート。しかし、所々に赤いペンキをぶちまけたような模様がある。否、模様ではない。近付いてみるまでもなく、真士の目と鼻は、それがなんなのかをよく知っている。それは、血。

 貴子の血だ。

 クスクス、とその人物は笑った。陽光に煌めく短い金髪、南海を思わせるような透き通った碧眼。その白い顔に、小悪魔のような悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。

 知っている顔だった。どこかで見たことのある顔。なのに名前が出てこない。

 ──思い出した。彼女を見たのは、一ヶ月前。雪村から〈コーヅ〉のプロフィールをもらった時だ。──それでも名前は出てこない。真士の脳は一ヶ月前に、たった一度しか聞いたことのない名前を覚えているほど優秀ではないのだ。

 ちょいちょい、とその少女が手招きをした。瞬間、真士の頭に音を立てて血が上った。

 あいつだ……あいつが貴子さんを──!

 腰を抜かしていた真士はしかし、猛然と立ち上がり、少女に向かって走り出した。点々と床にあった血痕を踏みしめ、庭に出ようと、

 頭上から何かが落ちてきた。

「──!」

 反射的に真士はその場を飛び退く。そして、彼の足元に【それ】は落ちた。

 どちゃっ、と柔らかく重く、そして湿った物が落ちる音。

 真士の足元に落ちたそれは、クリーム色のエプロンを身につけた首なし死体だった。全身の至る所に刺し傷があり、血を噴いている。

 言うまでもなく、貴子の首から下である。

「キャハハハハハハハハハッ!」

 甲高い哄笑が響き、真士は弾かれたように顔を上げた。庭に立つ少女が、右手で腹を抱え、左の人差し指で真士の頭上辺りを指し、大声で笑っていた。

 それを見た瞬間、嫌な予感が真士の胸を貫いた。

 まさか──!?

 床を蹴って庭に飛び出す。そして振り返り、頭上を仰いだ。

「!?」

 案の定、いた。

 扉のすぐ上の壁に、赤いパジャマ姿の七海が張り付いていた。否、張り付いているのではない。吊されているのだ。両手を二階の窓から垂らされたロープにくくられて。

「……!」

 言葉がなかった。眠っているのだろうか、意識のない七海を見上げ、荒い呼吸を繰り返す。よく見ると、彼女の両手を縛っているのはロープではない。黒い、何かのケーブルだ。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。どうやって助けよう。今から二階に上がって窓から助けた方がいい。でも後ろの人が──

 真士は竜巻のような勢いで振り返った。そうだ、まずこの人を【片づけないと】助けに行けない。行こうとすると邪魔されるに決まっている。

 少女は真士を眺めて、クスクスと笑っていた。まるで小悪魔のような──もとい、小悪魔そのものの笑顔で。

「ねぇ、お兄ちゃん」

 鈴を転がした様な声。少女は左手を腰の後ろに回し、右手で口元を覆い、目を細め、楽しそうに真士を見つめる。

「お兄ちゃんは、〈エクスカリバー〉?」

 〈エクスカリバー〉。その単語に、真士の全身の筋肉が緊張した。怒りと戦きの混じった複雑な表情が少年の顔に浮かぶ。少女はなおもクスクスと笑いつつ、言葉を重ねる。

「男爵さんから言われたんだぁ、多分忘れてるだろうから、お兄ちゃんに会ったらちゃんと挨拶しろって。怖いこと、思い出させてやれって」

 口元を覆う右手をやや下げ、唇を割って舌先を出した。赤い赤い舌で、右の中指の先端をちろちろと舐める。よく見ると、少女の五指の先は赤い血にまみれていた。

「あたし、渚ね。渚=ブルックス」

 唇に右の人差し指を、さっ、と走らせ、血をルージュのように塗る。その細められた目が、一瞬、妖しい潤いを見せた。

「なにするか、わかってるよね」

 赤い唇が、ニヤリと笑った。

 ──勿論、言わなくても分かっている。〈エクスカリバー〉、男爵。この二つの単語が全てを表している。

 いつにない危険な感情が真士の胸にあった。今の真士は怒りを覚え、戦意を持っている。以前の彼には見られなかった状態だ。

 奥歯を噛みしめ、少女──渚を睨み付ける。

 頭のどこかでわかっていた。こうなることを。このままこの家にいれば、いつかはこうなることは目に見えていたのだ。

 ──そうとも。ちゃんとわかっている。

 こいつは敵だ。



 爆音が真士の背を殴った。

「なっ!?」

 振り返ると、赤い炎が目に飛び込んできた。家が、燃えている。一階の居間の窓から、赤い炎と黒い煙が吹き出ている。

 居間が爆発した──!?

 と思った瞬間、背に激痛。薄い何かが、体内に侵入してくる。首を背後に巡らすと、そこには渚の顔。嬉しそうに左手の包丁を、真士の背に突き立てている。

「くぁっ……!」

 包丁の先端がへその隣から出たと思った瞬間、真士は体を振り回した。それを予想していたのか、渚は素早く真士から離れる。

「キャハハハハハハハッ」

 真士のしかめ面を指さして、渚が楽しそうに笑う。真士は数歩よろめき、右膝を折った。地に膝を突き、左手を背後の包丁の柄に回し、渚を睨む。ごぷ、と喉の奥から何かが衝き上がってきた。咳き込む。喉に引っかかりながら、鉄の味のする液体が数滴、真士の口から飛び出した。

「く、のっ……!」

 唇の端から血を垂らしつつ、真士は歯を食いしばった。左手に力を込め、ゆっくり包丁の柄を引く。刃を半ばまで抜いた、その時。背後から、黒いロープが蛇の如く真士の両腕に絡み付いた。

「!?」

 驚愕する暇があればこそ。真士の体は強く後ろに引かれ、宙に浮き、家の壁に叩き付けられた。その時、柄の尻を壁に押された包丁が、一気に真士の体内に埋没する。

「ぐぁっ──!」

 瞬間、真士は大量の血を吐いた。ボタボタと落ちる赤い液体が真士の服を汚す。反射的に壁から離れようとして──動かない。両腕に絡み付いたロープの力が強い。まるで真士を壁に繋げておくように、後ろへ後ろへと力が加えられている。

 よく見ると、それは黒いロープではなく、黒いケーブルだった。首を巡らし、その源を探す。すると、真士の頭のすぐ後ろに窓があり、ケーブルはそこから這い出ていた。窓を覗き込むと、そこは向こうへ真っ直ぐ伸びる廊下だ。ピン、と張ったケーブルが奥に伸びている。

 ケーブルの力がいきなり増した。包丁が、さらに真士の中に潜ろうとする。

「ぐっ……あぁあぁあぁっ!」

 肉を裂くあまりの激痛に、真士は悲鳴を上げた。歯を食いしばり、壁を足場に必死に前に出ようとする。その目に、こちらを見てクスクスと笑う渚が見えた。

 少女は何かを両手で抱えていた。その『何か』を見た瞬間、真士の体から全ての力が抜けた。ずぶり、と包丁がさらに深く、根本まで突き刺さったが、今の彼は痛みを忘れていた。

 それは貴子の首だった。渚はそれを、まるでボールか何かのように持っていた。貴子の顔を、真士に見せるように。

 クスクスと笑いながら。

 ブチ切れた。

「がぁああああああぁぁっ!」

 咆哮を上げ、真士は右手に意識を集中させた。一瞬にしてその右腕は一メートル前後の剣に変わる。くん、と動かすとケーブルはあっさり切れた。しゃっ、と風を切る速度で右腕の刃を振るい、左腕を拘束するケーブルも切り裂く。

 砕かんばかりの勢いで壁を蹴った。真士は弾丸のように飛び出す。渚に向かって。

 彼我の距離は一瞬にして零に。渚が真士の行動に気付かず、今だ笑みを浮かべている──それほどの一瞬の中、真士は空中で右腕の刃を振り上げ、

 何故か渚の顔に七海の顔が重なった。

「!」

 一瞬の躊躇が全てを狂わせた。ぎん、と硬直した全身は、そのまま岩の如く渚に突進する。

 ぶつかる──!

 真士は無理な体勢から右足を突き出し、地面を蹴って上空に逃げた。三メートルほど跳躍した真士は、渚を軽く飛び越え、空中で半回転。頭と足が逆さまになる。

 そして気付いた。

 二階の窓から吊されていた七海の姿が、ない。消えている。

「──!?」

 驚愕しつつも、空中で体勢を整えようと、

 目の前に逆さまになった渚の顔が現れた。

 一瞬、時が止まったかと思った。その一瞬の中で、渚が、にっこり、と花のような笑顔を浮かべた。

 そして雷の如き平手打ちが真士の右頬に炸裂した。その一撃に右側の歯の殆どが折れるのを、真士は感じた。真士の体は回転し、上下が正常に戻った──と思ったらまた逆さまになった。世界がめまぐるしく回転する。

 真士はグルグルと三次元的な回転をしながら、頭から地面に叩き付けられた。一度目は頭で跳ね、二度目は背中で跳ね、三度目で地面に俯せに倒れる。もうもうと土煙が舞い上がった。

「──ぐ……」

 一拍の間、動かなかった真士だったが、呻き声を上げ、左手を突いて体を起こした。口を開くと、血と共に幾つかの歯が吐き出され、コロコロと地面に転がる。だが、真士は歯のことは気にしなかった。既に再生しているのだ。

「くっ……」

 完全に目が回っていた。頭がくらくらする。それでも起きあがろうとして、出し抜けに背に灼けるような激痛が走った。

「あぐっ……!」

「ねぇねぇお兄ちゃん。どうしてあそこから逃げ出しちゃったの?」

 渚が真士の背に刺さった包丁の柄を踏んでいた。体重をかけ、ぐりぐりと傷を抉るように動かす。真士の体がまるで玩具のように、びくん、びくん、と跳ねた。

「じゃなきゃこんな痛いコトされなくても良かったのに。怖いこともなかったのに。ねえ、どうして?」

「ぐあっ……、ぐっ……ぅあっ……!」

 傷口をかき回されている真士に答える余裕など無い。左手で包丁の柄を掴み、地面にへばりついて、血を吐き苦悶の声を上げている。顔には玉のような脂汗が浮いていた。

 やがて飽きたのか、渚は包丁の柄から足を浮かせた。そしてその時を待っていましたとばかりに真士は疾風の如く動いた。渚に気付かれないように掌に戻しておいた右手で地面を押し、左に飛ぶ。素早く体勢を立て直し、立ち上がって渚との距離を取った。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 荒い呼吸を繰り返し、真士は渚を睨む。そして今度は躊躇せず、一息に包丁を背から抜いた。息が詰まるほどの激痛が走るが、抉られている時よりかはましだ。歯を食いしばり、我慢。

「──七海さんをどこにやった!?」

 左手に掴んだ包丁の切っ先を渚に向け、真士は猛々しく叫んだ。しかし少女は両手を腰の後ろに回し、そっぽを向いて、

「ふん。渚の質問に答えてくれなかったから、教えて上げないっ」

 と、あっけんべーして、いきなり背を向けて走り出した。

「キャハハハハハハハハッ!」

 一転して嬉しそうな笑い声を上げて、渚は森の方へ駆けていく。

「…………」

 真士は、ポカン、とそれを見送りかけ──ハッと正気を取り戻し、渚を追いかけた。

 ──何だ、何なんだあの女は。何を考えているんだ。うろ覚えだが、雪村から聞いた話では確か、彼女は自分よりも年上ではなかったのか。なのに何だ、あの幼稚な精神は。全く訳が分からない。

 真士は森に入り、木々の間を駆け、渚の白と赤の背中を追いかける。靴を履いていないために足の裏が痛むが、敢えて無視する。と、足元の何かに右足を引っかけ、真士は派手に転倒した。木の根か──と素早く身を起こしつつ見ると、そこにあったのは木々の間で、ピン、と張った黒いケーブル。何で──と思ったが、そんなことはどうでもいい。あっさり思考を切り替え、真士は渚の姿を探した。

 いた。十数メートル先の、森を抜けた山道で、こちらに向かって手招きしている。右手でクスクスと笑う口元を覆い、左手で髪を掴んだ貴子の首を見せつけるように持ち上げて。

 カッ、と音を立てて血が頭に上った。真士はがむしゃらに土と木の根を蹴って、渚に向かって走る。

 冷静でなかった真士は、耳で『その音』を聞きつつも意識の表面で受け流していた。だから気付かなかった。

 彼我の距離はぐんぐん縮まり、真士はとうとう森を抜け、山道に出た。右腕を刃にして、振り下ろせば渚を切り裂ける。それ程まで近付いてようやく真士は気付いた。そして気付いた時には遅かった。

「キャハッ」

 子供のように笑って、渚はバックステップ。近付く真士から、同極の磁石の如く離れる。

 そして、

 真士の左右から、爆音の如き排気音を響かせる二台の車が高速で迫ってきていた。

「──!?」

 右は黒、左は白の乗用車。どちらも無人で動いているその二台は、既に真士の【すぐ両隣にいた】。



 閑静な山中に、鉄塊と鉄塊のぶつかり合う轟音と、大地を揺るがすような爆発音が鳴り響いた。



「キャハハハハハハハハハッ!」

 燃え立つ炎を前に、渚は高笑いを上げた。

 彼女の眼前では、いびつな形に歪んだ巨大な鉄塊二つと、それらに挟まれた黒い人影が、燃え盛る烈火に焼かれていた。

 炎の中で黒い人影が、狂った操り人形のように躍っている。筋肉が炎に焼かれ、勝手に萎縮を繰り返しているのだ。びくん、びくん、と激しく、おもしろいように跳ねている。渚はそれがおもしろかった。大声を上げて笑う。

 渚は赤い炎が好きだ。何もかも燃やしてくれるから。

 いらない物、嫌いな物、怖い物。全部全部、燃やしてくれるから。

 消してくれるから。

 親も兄妹も友達も──そして自分さえも消してしまえる炎。

 みんな燃えちゃえ。

 みんなみんな消えちゃえ。

「キャハハハハハハハハハハッ!」

 胸の奥がむずむずする。踊りだしたい気分だ。渚は腹の底から笑いながら、もういらない左手の物を炎に向かって放り投げた。

 と、その時だ。一度は爆発した鉄塊が、再度爆裂した。

 爆風と、それに乗って飛び散る破片。

 風圧に押されて戻ってきた生首の頭突きが、渚の顔に炸裂した。

「キャウッ!?」

 叫び声を上げ、爆風と言うより生首の頭突きによって後ろに吹き飛ぶ渚。ごろんごろんと二度転がって木にぶつかり、ようやく止まる。──ちょっと痛かった。

 運がいいのか悪いのか。結果的に身を伏せたおかげで車の破片の被害は受けなかった。ふと気付くと、手前の地面に黒こげの包丁が落ちている。なんとなくそれに手を伸ばそうとして、頭上から聞こえるバチバチという音に気付いた。渚は手を止め、頭上を仰ぐ。

 傍らの木が、燃えていた。いや、その木だけではない。他の木──周辺の樹木全てに火が移っていた。

「キャハッ」

 胸の鼓動が高鳴った。炎だ。真っ赤な炎がもっと増える。やったやった、これでたくさんの物が燃える。消える。綺麗になる。

「キャハハハハハハハハハハハッ!」

 渚は天に向かって大きく両手を広げ、腹の底から、心の底から笑い声を上げた。

 楽しい嬉しい最高だ。──決めた。今日は祭りだ。火祭り。いっぱいたくさん火を付けて遊ぶんだ。渚一人で。他の人はいらない。渚一人だけで十分だから。一緒に祭りをするより、燃えてくれた方が渚は楽しい。

「キャハハッキャハハハハハハハハハッ!」

 万歳したまま立ち上がり、笑いながらその場でグルグルと回転する。が、目が回ったのですぐに止めた。目が回ると頭がくらくらして気持ち悪い。──つまんない。

 ふと、もっと遠くから見れば綺麗に見えるかな──と思い、ヘリポートから【『ポチ』を呼んだ】。一分もしない内に到着するはずだ。それまではじっくりとここの炎を眺めていようと、

 大太鼓を叩いたような大音声が空気を震わせた。

「ンキャアッ!?」

 渚は飛び上がって驚いた。まるですぐ近くでライオンが吠えたみたいだった。慌ててどこから聞こえたのかを探す。キョロキョロと辺りを見回す。

 すると、右の方から、とっ、という音が聞こえた。渚はびくっと震えて、振り向く。

 そこに、人型の黒い塊があった。

「──?」

 その黒い塊は、無造作に立つ人そのままの形をしている。一瞬、何だろうな、と思った。黒い、変な形、いい匂い──。

 わかった。

「あ、お兄ちゃんだぁ」

 何となく嬉しくなって、キャハッ、と笑った。黒い塊──全身黒焦げになった真士は、何の応答もしない。ピクリとも動かない。じっと立っている。

 渚はぱちぱちと真士に拍手を贈る。

「すごいすごい、生きてたんだ、すっごーいっ。──でもぉ」

 渚は両手を腰の後ろで繋ぎ、クスクスと笑った。

「渚、もうお兄ちゃんには飽きちゃった。渚、今から新しいコトして遊ぶから、もう死んじゃっていいよ」

 動かない真士にそう言って、意識を『ポチ』に移した。そろそろ上空にさしかかる頃だ。降りておいで──と念じる。

 ヒュンヒュンヒュン、と『ポチ』の音が聞こえてきた。同時、風が吹く。上空から下に向かって吹きつける風に煽られ、炎がさらに勢いを増す。山火事の範囲が広がっていく。

 渚は両手でスカートの前と後ろを押さえ、

「じゃーねっ」

 とにっこり微笑み──ぐん、と膝を折って、真上に跳躍した。

 『ポチ』へ──上空四メートルの位置に滞空する、暗緑色の軍用ヘリへ。

 前もって下ろしておいた縄ばしごの端を掴み、渚は猿のように両手を動かしよじ登る。縄ばしごに足をかけ、眼下を見下ろした。

 黒焦げの真士が、赤く燃える森が、立ち昇る黒い煙が、ぐんぐん遠ざかっていく。小さくなっていく。渚が『ポチ』と名付けた軍用ヘリが上昇しているのだ。

 右掌を口の前に持ってきて、キャハッ、と笑う。そして縄ばしごを昇り、『ポチ』の中に入った。【無人】のコクピットシートに腰を下ろす。そして『ポチ』に語りかけた。

「ねぇねぇポチぃ。何かおもしろい物なぁい?」

 当然の如く誰も何も答えない。しかし、渚には聞こえた。『ポチ』の声が。

 ──右下にある赤いボタンを押してごらん、渚。

「赤いボタン? んー……」

 渚の視線が操作盤を這い回った。

「あ、これだね。でも、これ押すとどうなっちゃうの?」

 ──それは押してからの楽しみだよ、渚。

「えー? ポチのいぢわるぅ。キャハハハハッ」

 ──キャハハハハハハハハハハッ!



 上空で渚が【一人芝居】をしている頃、真士は顎を上げ、上昇するヘリを見上げていた。

 動いた拍子に炭化した顔の皮膚がボロリと剥がれ落ち、再生した肌が露になっていた。そして今も、ボロボロと黒こげの皮膚が連鎖的に剥がれ落ちていっている。

 【金色の光を宿す双眸】が、暗緑色のヘリを見上げていた。



「キャハハハハハハハハハハ──ハッ!?」

 愉快に笑っていたら突然、がくん、と『ポチ』が右に傾いた。視界がぶれる。体が揺れた拍子に舌を噛んでしまった。──かなり痛い。

 ギュッと目を閉じて痛みを堪える。ちょっと涙が出た。意味もなく舌を垂らし、言葉にならない呻きを漏らす。

「あうぅ……ポチ、どうしたのぉ?」

 ──引っ張られているよ、渚。

「引っ張られてる……?」

 前を見ると『ポチ』の言う通り、景色が下から上に動いていた。ゆっくりだが、確かに『ポチ』は下降している。

「ねぇポチ。引っ張られてるって」

 何に引っ張られているの、と聞こうとした瞬間だった。

 前方の窓の向こうに、黒い物体が現れた。

 きらっ、と物体の一角が日光を反射した。

 渚はその、きらっ、が眩しくて、顔をしかめ、一度だけ瞬きをした。

 目を凝らす。

 その黒い物体は、真士だった。黒こげの体で右腕の剣を振り上げている。剣はとても長かった。どれぐらい長いかというと、渚の位置からでは先端が見えない程長かった。

 悪魔の騎士──。刹那、渚はそう思った。ここまで跳んできた拍子に剥がれたのか、両手両足の所々に肌色を見せている黒い身体。金色に輝く瞳。振り上げられた長大な剣。その姿はまるで、数々の修羅場をくぐり抜けてきた悪魔の騎士のようだった。

 悪魔の騎士が獅子の如く吠えた。空気がドンと震え、音の衝撃に渚の全身がジンと痺れた。鼓膜が破れ脳味噌がグチャグチャになるかと思うほど大きな声だった。

 『ポチ』がものすごく慌てた声で叫んだ。

 ──赤いボタンを押すんだ渚!

 渚は反射的に『ポチ』の言葉に従った。視線を振り回して赤いボタンを探す。見つけた。渚の視線がそこに止まった瞬間、ボタンは勝手にへこんだ。ボタンは赤い光を灯し『ポチ』が無機質な声で言った。

 ──ターゲットロックオン・ミサイルファイア。

 渚の視界の左右が光に塗りつぶされた。直後、『ポチ』の言ったとおり二本のミサイルが素晴らしい速度で悪魔の騎士に飛んで

 悪魔の騎士が右腕の凶刃を振り下ろして振り上げた。同時に二本のミサイルが爆発。黒煙が膨張して視界を覆った。そして、

 『ポチ』が三つに下ろされた。

「──!?」

 わざとやったとしか思えなかった。刃の軌道は紙一重で渚のいる所を避けていた。そこに──細く切り取られたコクピットに渚を閉じこめるように。

 爆風に押されて空中分解。切り離された『ポチ』の両側部が落ちていく。真ん中だけは落ちない。メインローターは斬られなかったのか。

 渚は『ポチ』の悲鳴を聞いた。

 ──何これ何これ何これ何これ何これ怖い怖い怖い怖い怖い怖いよぉぉぉぉぉぉぉっ!

 『ポチ』のメインローターが起こす風によって煙が晴れた。そして、渚は眼球が飛び出すほど目を見開いた。

 悪魔の騎士が、右腕の剣を【振り下ろしていた】。

 頭が真っ白になった。何が起こったのか理解できない。さっき下ろして、また上げたはずなのに、何でまた下ろしているんだろう?

 次の瞬間もしかしてと思い、心臓が凍り付いた。そんな、まさか、でも──

 視界が真っ二つに割れ、右が上に、左が下にずれた。

「……うそ?」

 小さくこぼしたその声は、爆発に呑み込まれた。



To Be Continued…





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