血に濡れた魔剣
─〈レーヴァテイン〉─
「やあ、おひさ」
『白い部屋』に飛び込んだ真士を迎えたのは、雪村清隆だった。
「!」
勢い込んで駆け込んできた真士は、思わぬ人物の登場に足を止めた。絶句する。男は、部屋の中央に両手を白衣のポケットに入れて立っていた。思わず、真士は呟く。
「ゆ、雪村……さん……?」
なんで、と思う。彼とは先程、別れたばかりだと言うのに。なのに何故、彼がここにいるのだろうか。唖然とする真士に、雪村は軽く肩を竦め、
「いやいや、待ちくたびれちゃったよ。実は僕、変なところで短気でね。ついつい余計なことして君を急がせちゃったよ」
あははは、と笑う。真士は彼の言っていることが理解できない。待ちくたびれた? 短気? 余計なこと──? いや、それよりもまず、
「……七海さんはどこですか」
部屋のどこを見ても七海の姿がない。ここは、相変わらず何もない部屋だ。まるで井戸の底のような、円柱状の空間。よって、隠れる場所はない。もしかして、この男は自分を騙したというのだろうか。真士の言葉に雪村は、にっ、と笑い、
「ああ、あの子ね。あの子ならもう少しでここに来るよ。だから、それまで少しお喋りしないかい?」
真士は答えない。素直に待つべきか、言葉を重ねて急かせるべきか、迷っている。なにより、雪村の意図が掴めない。この男は、何を考えているのだろうか。
「そうだねぇ、何から話そうか。いろいろと教えてあげたい事があるんだよね」
雪村は中空に視線を泳がせ、うーん、と唸る。そしてやおら、ポケットから両手を出して、右拳で左手の平をぽんと打ち、
「そうだ、真士君は何か僕に聞きたいことはないかな? そう……例えば、君の身体のこととか」
「…………」
「あら? 興味ない? んじゃ……君が殺した秋了君や渚ちゃんのより詳しいプロフィール、とか。──って、君に言ったらよけい落ち込んじゃうか」
「…………」
「うーん……とすると君がこの建物に来た時、何で僕が入り口で待っていたのか、とか」
「…………」
雪村の声だけが、白い空間に虚しく響いている。数秒の沈黙の後、雪村は苦笑いを浮かべ、
「まいったなぁ、時間がもったいね。じゃあ悪いけど、今まであげた話、全部してみようか。鬱陶しいとは思うけどおじさんの戯言だと思って聞いてね」
真士は当然、答えない。一秒数え、雪村は再び口を開いた。
「まず、君の身体の話だね。僕は以前、君に『右手首にナノマシンが埋め込まれてる』って言ったよね? いやぁ、ごめん。あれ真っ赤な嘘なんだ」
知っている。自分は『改造人間』ではなく『複製人間』だということは。
「秋了君から話は聞いているよね。そう、君はいわゆる複製人間。とどのつまりは、ナノマシンの群生体、という分けなんだ。……わかる? 君という一つの個体が、全てナノマシンによって構成されているんだ」
何となく予想は付いていた。真士は雪村の説明に驚かず、むしろ納得していた。自分の身体の超人的な力。異常な再生能力。自分の身体が【まとも】ではない事を証明する材料は、いくらでもある。現に今真士の左肩から生えている腕は、瞬き一つ程の時間で再生した。
「ナノマシンの特色は、自己再生、自己増殖、自己進化──って言われているんだけど……まあ僕が言うのも何だけど、凄い話だよね」
全くだ、と真士は思う。実際、話を聞いていても実感はまるでない。自分がナノマシン──つまりは超小型機械の集まりだと言われても、そうとは思えない。
「それにしても、不思議な話だよねぇ。今ここにいる君と僕が、実は全然違う生き物なんてね。身体を構成している物が、僕は細胞で、君はナノマシン。ま、言っちゃえばそれだけの違いで、実はあんまり変わらないかもしれないんだけどね。どうする? 今もし君は実は細胞でできていて、複製人間じゃないんだ、とか言ったら? 信じる? それとも信じられない? いやぁ、難しいねぇ。だって確かめる方法はないんだから」
あははは、と雪村は笑う。一体何がおもしろいのか。真士は雪村の態度に、少し腹を立てる。
「さて、次は秋了君と渚ちゃんの詳しい紹介だったかな。ああ、月夜ちゃんと武彦君はいらないね。君とはあんまり関係ないし。何せ月夜ちゃんは逃げ出したから殺されちゃったし、武彦君は」
ここで雪村は真士の背後を一瞥する。彼の瞳に、白亜の廊下に倒れている長身痩躯が映る。
「あの様だしね。じゃあ、秋了君から。実は彼、空手の有段者なんだよね。確か、三段だったかな。かなり強いんだけど……いやぁ、さすがは真士君だね」
雪村は婉曲的に真士が秋了を殺したことを言っている。だが当の真士自身は、実はあまり覚えていなかった。うすぼんやりとした記憶の中で、彼を殺したような気がする──それが真士の感覚だ。
「それで渚ちゃんの方は──あ、大変だったでしょう? 彼女ちょっとイカレちゃったから。あれは計算外だったなぁ。うん、貴子さんが殺されたのと同じぐらい誤算だったよ」
「……!?」
真士は一瞬、我が耳を疑った。貴子、と雪村は言った。彼は、貴子のことを知っているというのだろうか。
「……ん? どうしたんだいその顔? ……ああ、貴子さんのことかい?」
雪村の問いに、真士はややあって、顎を引くように頷いた。
「いやぁ、僕の予定じゃ彼女は無事なはずだったんだけどねぇ。渚ちゃんが独断で殺っちゃってね。惜しい人を亡くしたよ」
追悼の言葉を吐いているが、しかし彼は笑みを崩していない。それどころか、どこか嬉しそうに雪村は言った。
「子供を作る前に旦那さんに他界されちゃったらしくてね。それで君の探しているお姫さまを引き取ったのかな」
知っている。貴子と七海からはっきり聞いたわけではないが、二人の言動を合わせるとその様な事実が浮かび上がってくる。あの二人は、元は赤の他人なのだ。
「いやいや、あの人も不幸な人だねぇ、本当。あ、ちなみに僕とあの人は学生時代の知り合いね。大学が同じだったんだよ」
彼は笑顔のまま、続ける。
「──で、渚ちゃんだけど、実は彼女はあれでも某名門大学を主席で卒業した人なんだよ。あの歳で凄いねぇ。まあ、壊れちゃったけど。それにしても、僕の予定じゃいろんな罠で君を苦しめるはずだったんだけどねぇ。もったいないなぁ」
不意に真士は、嫌な予感がした。──なんだろう。なにか、ものすごい違和感を感じる。変だ。雪村の言っていることが、どこかおかしい。だが、どこがどうおかしいのかが分からない。
「次は君をタイミング良く待ち伏せていたことだけど……これは簡単だね。実はこの建物まで来る途中の山道に、隠しカメラを設けてあるんだ。君が逃げた時もそのカメラでモニターしていたんだよ」
『君が逃げた時』という言葉に真士は思い出した。そうだ、あの時にも感じた違和感だ。
解せない。何故、あの時雪村は自分を逃がしたのか。何故、今こんな話をしているのか。
──彼は一体、何を考えているのだろうか。そして、一体何を望んでいるのだろうか。
分からない。判らない。解らない。
真士は雪村の顔を注視する。男の瞳は、暗く濁っていた。月夜と相対した時に感じた底知れなさを思い出す。否、この男はそれ以上に底が分からない。水面すら、真士には見えていないのかもしれない。
「さて、と。まだちょっと時間あるかな?」
左腕を持ち上げ、腕時計を見ながら雪村は言った。やおら彼は右胸のポケットから煙草の箱とライターを取り出す。一本くわえ、火を点けた。ややあって、紫煙が立ち昇る。雪村は一度、真士の全身を眺め、
「それにしても君は凄いねぇ。お腹は痛くないのかい? 武彦君のパンチ喰らったんだから、内臓の一つや二つ、やられていると思うんだけど」
言われて真士は、はっ、とした。そういえば、先程から少しの痛みも感じていない。武彦と戦っていた時は、体の不調だけを認識していた。もしかするとあの時は夢中で気付かなかったのかもしれないが、今は違う。内臓が破裂したのなら、悶絶していても──いや、死んでいてもおかしくないはずなのに。
「それも無意識なのかな? どうやら痛覚の抑制機構が働いているみたいだね」
どこか嬉しそうにこの男は言う。彼は煙草をくわえたまま、両手を白衣のポケットに突っ込み、
「そうそう、エクスカリバーの伝説は知ってるかな? よく切れる名剣として有名だけど、実はそれだけじゃないんだよ。あの剣の真価は、鞘にあるんだ。鞘に魔力が込められているらしくて、持っている人を怪我から守ってくれるんだって。で、それを持っている限り、所有者は一滴の血も流さない──と。……どう?」
『どう?』と聞かれても真士に答える言葉はない。強いて言うなら、
「そうなんですか」
で、ある。雪村はその返事に、にっ、と笑い、
「うん、そうなんですよ。これが君のコードネームの由来、かな。君の右腕がエクスカリバーだとすると、君はその鞘だね。いくら傷つけてもすぐに治っちゃう再生能力。それが君の真価だよ」
「…………」
真士は、だからどうした、と思う。腕にしろ身体にしろ、迷惑な話だ。自分はこんな右腕も再生能力も、いらないと言うのに。
雪村はふと、いつかのように遠い目をしてこう呟いた。
「不死身で無敵のヒーロー……いやはや、男のロマンだねぇ」
何がロマンなものか、と真士は内心で吐き捨てる。ヒーローと言えば聞こえはいいが、つまるところそれは化け物の代名詞だ。そしてつまらない事を突っ込めば、無敵というのはおかしい。確かに真士は不死身に近いかもしれない。だが、それは『誰にも負けない』ということであって、最強という意味ではないはずだ。
「しかもあれだよねぇ、能力の不安定さが良かったよね。今はもう説明しちゃったから、これからはもう勝手に動くだろうけど──君の再生機構、時々にしか動かなかったからね」
くっくっくっ、と白い煙をこぼしながら笑う雪村。何がおかしい、と真士は怒鳴りつけたくなった。この男は、人の不幸を楽しんでいる。
真士は歯を食いしばり、無理に自分を抑えて怒りの矛を収めた。落ちつけ、と自分に言い聞かせる。この人は悪くない。悪いのはこの人を使って自分を生み出した男爵だ。怒りを間違った方向に向けてはいけない。
と、その時だ。何かが、真士の胸に引っかかった。
「……?」
今、考えていたことの何かが、真士の胸に引っかかったのである。何だろう。そういえば先程違和感の正体を突き止めたはずなのに、まだ違和感が消えてない。おかしい。自分が感じている違和感の正体が違ったのだろうか。
──悪いのはこの人ではない……?
真士は必死に雪村の言葉を思い出す。
──予定……?
この単語だ。これが、引っかかったのだ。
考える。
僕の予定じゃ──雪村はそう言った。つまり、彼は予定を立てていたという事になる。何の予定を? 逃げ出した真士に、秋了や渚を差し向ける予定。差し向けられた彼らが何をするかの予定。しかしそれは──
突然、嫌な悪寒が真士の背筋に走った。心臓を鷲掴みにされたような驚愕が、真士を襲う。
「……!」
しかしそれは──それは、【男爵が立てるべき予定ではないのか?】
真士がそう考える理由は、秋了や渚、そして月夜も武彦も、【男爵の伝言】を持っていたからだ。彼らは間違いなく男爵の命令を受けて、真士に会いに来ていた。
なのに何故、雪村が『予定』という言葉を使うのか?
──いや、答えなら、もう出ている。だが、真士はそれを思いついた直後に否定した。
まさか、と思う。そんなおかしな話があるものか。
考えてもみろ。自分は一度、男爵と会っているはずだ。そう、生まれて初めて目を開いた時に。確か、灰色のスーツを着ていて、サングラスをかけていて、髪の毛に白髪が混じっていた。
声だって覚えている。何度もスピーカーを通して聞いた。あれが、あの声が男爵のはずだ。
はずなのに──真士の中の違和感は消えない。消えるどころか、ますます膨れ上がっていく。
「──おっと、そろそろ時間かな?」
腕時計を見て、雪村が言った。その時だ。ノイズに彩られた【男爵の声】が響いた。
『男爵様、〈レーヴァテイン〉の準備が出来ました』
「──!?」
有り得ないはずの台詞を聞いてしまった。聞き間違えなどしはしない声が──男爵の声が、今確かに『男爵様』という言葉を放った。そして──
雪村がスラックスの右ポケットから、なにやら黒い塊をとりだし、口を近付け、
「ああ、ありがとう。じゃ、二人をここに呼んでくれるかな」
『はい』
愕然とした。今、目の前で交わされた会話に。
男爵の声が、雪村を男爵と呼んだ。そして、雪村がそれが当たり前のように応対した。
「…………」
もはや推測は確信へと進化していた。
だが、ここまで来ても真士は信じることが出来ない。雪村の顔を凝視し、我知らず唾を呑む。
そして次の瞬間、とどめを刺された。
雪村の背後にある鉄の扉がゆっくり開き、姿を現した人物がこう言ったのだ。
「……お父さん……」
七海の声だった。
◎
七海の父は、研究所で男爵と呼ばれている人物だ。
それはよく覚えている。実に衝撃的な話だったから。
だがしかし──
驚きのあまり、ようやく会えた七海にも視線を向けない真士を見て、雪村が口を『あ』の形にした。
「……ああ、そういえば君には言ってなかったんだっけ。そうそう、わざと隠してたんだよね」
あはは、と男は笑い、続けた。実に軽い口調で。
「そう、実は僕が男爵なんだな、これがまた。いやぁ、嘘ついててごめんね。悪気はあったんだから弁解の余地はないんだけどさ。ちょっとしたお遊び気分っていうか、あまり警戒されずに君とお話しするには隠しておいた方がいいかなっていうか、こちらの都合上知られてたら困るからって言うか。……ねぇ?」
「…………」
唖然。真士の頭の中は空っぽになった。
──全部、嘘……? じゃあ、今まで僕が男爵だと思っていたのは……
真士のそんな心理を見抜かしたかの如く、雪村──否、男爵はこう言った。
「あ、ちなみに君が今まで男爵だと思っていたのは、僕の秘書の椎名さんね。ちょっと白髪の混じったオールバックのおじさん。さっきのマイクの声も、あの人だよ」
何と答えればいいのだろうか。何も浮かんでこない。
ただ、解ることが一つ。
自分はこの男に完全に騙されていた、と言うことだ。
あまりにも見事に騙されたせいか、悔しさも浮かんでこなかった。ただ呆然とするしか術がない。
やおら、男爵は背後に首を巡らせ、
「やあ」
声をかける。真士もつられてそちらを見た。真士が入ってきたのと対照の位置にある扉、そこに二人の人間がいる。
手前にいるのは赤いパジャマの少女──七海だ。
そして、そのすぐ後ろに立っている人物の顔を見た瞬間、真士は今度こそ驚きを隠せなかった。
「なっ……!?」
思わず声を漏らした。
七海の背後にいたのは、誰であろう、真士自身だったのだ。
短く刈った髪に、武彦が着ていたのと同じ黒い服。どこか、虚ろな目をして、七海の後ろに無造作に立っている。
真士自身が複製人間であり、何かの拍子にもう一人自分のような存在がいてもおかしくないなと思ったことはある。だが、こうやって実際にそのもう一人の自分を目にすると、予想以上の衝撃があった。
真士が漏らした声によってか、七海が少年の存在に気付いた。
「し、真士君……」
そして、七海の声に真士も我を取り戻す。
見ると、少女は戦慄の表情を浮かべていた。おそらく、真士の姿が原因だろう。なにせ彼は今、全身に大量の返り血を浴びているのだから。血の赤が白いウィンドブレーカーによく映え、より一層凄惨な雰囲気を醸し出している。
真士が七海に何か言おうと口を開いたとき、男爵がそれを遮るように、
「さて、そろそろメインイベントといこうかな」
と言って、真士に背を向けて歩き出した。七海の方へ。
「まずは紹介しようか。驚いたでしょう? 見ての通り、彼はもう一人の君さ。コードネームは〈レーヴァテイン〉」
硬い足音を立てつつ、彼は七海と、その後ろに立つ〈レーヴァテイン〉との距離を縮める。
やがて三者の距離は手を伸ばせば届く程になった。七海が男爵を見つめて、こう呟く。
「お父さん……」
途端、男爵の右手が口にくわえた煙草を掴み、おもむろにそれを七海の頬に押し付けた。じゅっ、と肉の焼ける音が白い部屋にやけに大きく響く。
「──ぅあっ!?」
「七海さん!?」
七海の悲鳴と真士の声が重なる。当然、七海は弾かれたように後ろへ下がった。その拍子に足が絡まったのか、体勢を崩して尻餅を付く。そして両手を火傷した頬に重ね、まるで怯えた小動物のような目で男爵を見上げた。
男爵は冷たい視線を七海に向け、しかし軽い口調で言い放つ。
「馴れ馴れしくお父さんなんて呼ばないで貰えるかなぁ。僕は君みたいなできそこないの娘を持った覚えはないんだけど」
ふーっ、と煙草の煙を吐く男爵。その足元で、七海はすがるような視線を彼に送っている。男は冷然と少女を見下し、
「第一、君は桧山七海だろう? 僕の娘は雪村七海。君じゃあ、ない」
突き放すように言って、男爵は煙草の吸殻を放り捨てる。宙を舞ったそれは、うまく七海の頭の上に乗った。
「う……」
七海の瞳から、涙が溢れた。俯き、嗚咽が漏れ出す。吸殻が、ぽとりと床に落ちた。
それを見た瞬間、真士の脳裏にある記憶が蘇った。
(あたし、ガラクタなの)
(だからお父さんも家に来ないし、お母さんも……)
(でもあたしはあたしで、本物で、でもね、お父さんは会いに来てくれなくて、お母さんも知らない人でね、あたし、あたしぃ……!)
怒りは一瞬で沸点を超えた。気付いた時には叫んでいた。
「何てことするんだ!」
「え?」
鋭い怒声にしかし、男爵はいつもの調子で振り返った。何故真士が怒鳴るのかが解らない──そんな顔をしている。彼はひょいっと肩を竦め、
「──何を怒っているのかは知らないけど、これは僕らの問題だよ? まあ、弁解するなら、この」
男爵は足元で泣いている七海を一瞥、再び視線を真士に向ける。
「失敗作は確かに、僕の娘の七海の複製人間だけど、七海自身じゃないんだ。悪いけど、この子を娘とは思えないなぁ」
嘲るように言う男爵に、真士は噛み付くように叫んだ。
「そんなこと関係ない! 七海さんは七海さんだ!」
一拍。言いたいことが幾つも頭の中を駆けめぐる。が、どれもうまく言葉にはならない。真士は一瞬だけ躊躇い、たった一つ言葉になった台詞を吐いた。
「……お前には人の心ってものがないのか!」
さすがの男爵も、この真士の罵声には驚いたようだ。目を丸くした。
「真士君……」
七海も泣き止んで、激昂している真士を見つめていた。
一秒置いて、いきなり男爵は笑い出した。
「あっはははははは。いいね、君。ほんといい。おもしろいよ」
真士を指さして笑う彼の声は、どこか乾いたものだった。それもそのはず、目が少しも笑っていない。
男爵はおもむろに右手を白衣のポケットに差し込み、そこから黒光りする拳銃を取り出した。何気ない動作で、銃口を足元の七海に向ける。
その動作があまりにも自然だったため、真士は男爵が何をしたのか、すぐには理解できなかった。
真士が驚きの声を上げるより早く、男爵は言った。
「ま、それはそれとして、悪いけど話を変えよう。お姫さまを助け出す直前の最後のイベント。つまりはラストボスとの戦闘だね」
彼は足元の、見開いた目で自分を見上げる七海と、傍らに立つもう一人の真士を一瞥し、
「──ラストボスは……ま、君も予想してるだろ? そう、『君自身』だよ」
にやりと笑う。
「さっきも言ったとおり、こっちの君のコードネームは〈レーヴァテイン〉って言うんだ。ちょっと神話の話をすると、スルトっていう神様が持っていた魔剣のことだね。君が聖剣だから、ちょっと引っかけてみたんだけど……どう?」
両眉を軽く持ち上げ、男爵は楽しそうに真士の言葉を求めた。先程牽制され、声が出せなかった真士は深呼吸を一つ。男の問いに、もはや遠慮なしにこう答えた。
「悪趣味ですね」
すると、男爵の笑みが深くなった。まるで真士の棘のある言葉を、誉め言葉として受け取ったかの如く。
次いで男爵は笑みを浮かべたまま声のトーンを落とし、真士から視線を外さず、こう呟いた。
「立て、失敗作」
びくん、と七海の身体が震えた。頭上からの言葉にしかし、彼女は動かない。何かを期待するかの様に、男爵を見つめている。しかし男爵は無言。娘の複製に、視線すら向けない。
数秒後、諦めたのか、七海は左手で頬を押さえつつ立ち上がった。それに合わせて彼女の頭に照準された銃口も上昇する。
男爵は七海が立ち上がったのをちらりと確認すると、打って変わって軽い口調で喋り出した。
「〈レーヴァテイン〉に勝てたら君のお姫さまは返してあげよう。なぁに、遠慮なんてしなくていいよ。相手は君自身だし、商品はゴミだし。ちゃっちゃっと勝って賞品を持ってけどろぼー、ってね」
ゴミ、という単語に真士の顔がさらに険しくなった。それを見た男爵は嘲りとも酷薄ともとれる笑みを口元に刻み──そして出し抜けに表情を引き締め、銃の先端で七海の頭を小突く。
「扉を開けて廊下に出ろ」
低い声の命令に、七海はゆっくりと従った。俯き、真士に背を向け、入ってきた扉に向かう。その後ろに、真士から目を、七海の頭からは銃口を離さない男爵が続く。
七海が扉を開いた瞬間、真士は半ば衝動的に叫んでいた。
「七海さん!」
赤いパジャマの背中が立ち止まった。七海は首だけ振り返り、涙に濡れた不安げな瞳で真士を見る。
その刹那、言いたいことが幾つも真士の頭の中を駆けめぐった。が、どれも言葉にはならない。結局、彼の口をついて出たのはたった一言だけだった。
「……後で迎えに行きます」
七海の瞳が、見開かれた。その拍子に、一粒の涙が頬を流れ落ちる。
真士の声は、決して自信満々のそれだったわけではない。むしろ、はったりに近い響きがあった。しかし、それでも少女は顔をほころばせた。何か言おうと口を開き、
「……真士く──」
「早く行け、邪魔だ」
男爵の氷のような声が七海の言葉を遮った。七海の表情が、凍り付く。
「…………」
口を半開きにして固まった七海は、再び暗い表情で俯き、そして今度こそ背を向けて廊下へ。真士はその背中を、口を真一文字に結んで見送る。と、真士の視線を遮るように男爵が間に入り、
「んじゃ、せいぜい頑張って。僕は君を応援してるよ」
数分前にも言った言葉を、皮肉の如くもう一度繰り返した。閉じる鉄の扉が、左手をヒラヒラと振る彼の姿を隠し──
そして、『白い部屋』に二人の真士が残された。
◎
扉が閉まった後、父に銃口で後頭部を押され、七海は白亜の廊下を歩きだした。裸足のため足がつく度、ぺたん、ぺたんと間抜けな音が響く。
廊下は、静かだ。七海の素足が立てる間抜けな音と、父の靴が鳴らす硬い音しかない。遺伝情報的には親子であるはずの二人の間に、会話はない。
七海はかぶせた左手で頬の様子を確認した。まだヒリヒリするが、どうやら火傷は治りつつあるらしい。ふと、後ろの男に煙草を押し付けられた事を思い出し、胸に悲しみが充満する。また泣きそうになり、ぐっ、と歯を食いしばって我慢した。
二人は無言のまま廊下を渡り、突き当たりのエレベーターに乗り込んだ。父の左手の人差し指が、『5』のボタンを押す。その右手は、今も少女に銃を向けていた。
程なくして上昇感が二人を包み込み、呼吸一つ分の時間で五階に到着する。エレベーターを下りると、しかしそこは四階と同じ白亜の廊下だった。ただし両側の壁には扉は一つもない。一番奥に白いドアが一つあるだけだ。
再び銃で後頭部を小突かれ、歩き出す。気の抜ける音と硬い靴音が廊下に響く。突き当たりのドアの前まで来ると、父が短く、
「開けろ」
と言った。七海は黙ってそれに従い、銀色のノブに右手をかけて押し開いた。扉をくぐり、中に入る。そこは狭い部屋だった。否、決して狭くないのだが、四階の『白い部屋』に比べると圧倒的に小さかった。
部屋に入ってまず目に飛び込むのは、前方の壁に填められた大きな窓ガラスだ。その向こうに、白い壁が見える。次いで、その真下にある、何に使うのかよく解らない機械が目に入った。七海は、己の物ではない記憶の中にある、学校の放送室を連想した。
背後で扉が閉まる気配。そして明るい声。
「やあ、待たせたね椎名さ……ん?」
七海は最初、父が誰に向かって声を発したのか解らなかった。部屋には誰もいなかったからだ。そして父の言葉が途中で失速した時、気付いた。
父の反応が、そこにあるべき物がなかった時のものだということに。
「……?」
どうしたんだろう、と思う。言葉から察するに、ここには椎名さんという人がいるはずだったのだろう。
父は今どんな表情をしているのだろうと思い、振り返ろうとして──やめた。自分は、やはり彼から疎まれている。二年前、自分を貴子の所に預けたのは、何かの間違いではなかったのだ。それを先程、痛感させられた。真士が家に来るまで毎日毎日、研究所の近くまで通っていた自分がひどく惨めに思える。
静寂。
突然、思わぬ会話が七海の耳に入った。
「……参ったな。生きていたんだ?」
「ああ、残念ながらな」
驚くほど妙な会話だった。しかも父の声が、微かに震えていたのだ。思わず七海は振り返る。
そして彼女は、父のこめかみに拳銃を押し付ける、茶色のポニーテールの少女を見た。
唖然とする。あまりに意外な光景に、七海は言葉を失った。
「…………」
目を見開き、父の顔と、その左に立つ少女の横顔とを見比べる。呆気にとられた七海の頭は、完全に真っ白になっていた。
父が口だけを動かして言った。
「報告じゃ、ちゃんと殺したって聞いていたんだけどなぁ」
ポニーテールの少女が無表情に返す。
「お前の前に立って報告したのがオレ自身だからな」
「……へぇ。君、熊みたいな男に変装できるんだ。すごいね」
父が口元に笑みを浮かべて言うと、少女も、へっ、と不敵に笑った。
「いろいろと調べて解った。オレがナノマシン生命体である事や、今の姿を保っているのはオレの思いこみだという事──その他諸々、な」
「…………」
「思いこみ──つまりは意志の力によって、オレは今『鳳月夜』という人間の姿をしている。とすると、意志如何によっては他人に変身することも不可能じゃないのか、と考えた。……殆ど賭けに近かったがな。出来れば二度とやりたくない」
「……なるほど、ね。こいつはやられたなぁ。どこで調べたんだい?」
「世の中、死にたくない奴は人の数ほどいる」
二人の会話に、当然の如く七海はついていけない。が、少女──鳳月夜という名前らしい──のいわんとしている事は何となく解った。父の部下の誰かが裏切ったのだ、と。
父はしばらく押し黙り──しかし、再び軽い口調で話し始めた。
「……なるほどねぇ。それで椎名さんはここにいないのか」
「ご名答。流石に察しがいいな、『始めた者』」
「いやいや、それほどでも」
二人の間に流れている緊迫した空気に、七海は息苦しさを覚えた。訳も分からず焦る。どうしよう、あたし、どうしたらいいんだろう──。
二人の話は続く。
「で、今日はこんな所にそんな物騒な物を持って、何の用かな」
「その話をする前に、お前の持つ物騒な物を捨ててもらおうか」
一拍置いて、ごとり、と父の手から拳銃が落ちた。素早く月夜の足が床に転がったそれを蹴る。床の上を滑ったそれは、ちょうど七海の足元で止まった。
「拾え」
月夜が父を見据えたまま言った。七海は、それが自分に対する言葉だと気付くまで数瞬の間を要す。月夜の意図に気付くと、慌てて拳銃を拾い上げた。
それを気配で感じたのか、月夜は話を繋いだ。
「聞きたいことがあって来た。いくら考えても答えのでない問題でな、手っ取り早く聞きに来たというわけだ」
「へぇ、なんだい?」
月夜の次の台詞は、はっきりした強い声だった。
「お前は何故こんな事を始めた?」
「……こんな事、って?」
「オレ達五人を使った殺し合いだ。……お前にとってはゲームだったろうがな」
「…………」
「はっきり言って、おかしい。お前は〈エクスカリバー〉を殺せと命令を下しておきながら、奴の情報を一つもオレ達に教えなかった。何故だ? 相手を知り己を知れば百戦危うからずという言葉があるが、逆に相手のことを知らなければ負ける確率は高い。事実、皆瀬秋了と渚=ブルックスは〈エクスカリバー〉の能力に気付かないまま殺された。何故だ? 何故、〈エクスカリバー〉の情報をオレ達に与えなかった」
父は答えない。だが、月夜はそれを予想していたかの如く続ける。
「──では、オレの推測を言おう。イエスかノーで答えてもらう。……今回の件、全ては【〈エクスカリバー〉の性能テスト】だったな?」
父が、深い溜息を吐いた。
「……まいったな、君って結構【やる】人だったんだね。いやほんと、まいったなぁこりゃ」
「黙れ。軽口を叩くな。イエスかノーで答えろ」
月夜の鋭い言葉に、数秒の沈黙があった。永遠かと思えるほどの数秒間だった。父の視線が、月夜の方へ流れた。もはや、その顔に笑みはなかった。ゆっくり、父の唇が動く。
「イエス」
月夜の返事は銃声だった。娘の目の前で、父の頭が血を噴いた。音と鮮血と肉が飛び散り、七海の全身を叩く。耳を劈く銃声に七海の意識は吹き飛ばされた。まるで糸の切れた操り人形のように、父が崩れ落ちる。
「……下衆が」
足元に倒れ伏した父を見下して、月夜が吐き捨てた。次いで、鋭い眼差しを七海に向ける。
七海は動けなかった。月夜の眼光に身が竦んだわけではない。解らなかったのだ。どんな顔をすればいいのか、何をすればいいのか──このまま立っていてもいいのかすら、解らなかった。すぐそこに、父と呼ぶべき人が頭から血を流して倒れている──それが今の彼女の全てだった。許容範囲を超える現実を突きつけられ、脳が機能を停止していた。
突然、全身から力が抜けた。がくん、と膝を突き、その場にへたりこむ。手に持っていた拳銃が、重そうな音を立てて床に転がった。
「……ぁ……」
吐息が漏れた。寒いわけでもないのに、身体が震えていた。頭の中は空っぽだ。七海は無心に、父の死体を見つめている。
数秒。月夜が無言のまま、きびすを返した。扉を開き、部屋から出ていく。足音が、遠ざかっていく。
震えが、止まらない。どうしよう、あたし、どうしよう、どうすればいいんだろう──。七海は頭の中で、何度も同じ事を繰り返す。
お父さん──。そう言おうとして、口が動かなかった。そんな自分に、唖然とする。どうしてだろう、どうしてこんな時に、お父さんのこと呼べないんだろう──。
七海は震えている。自分を娘と認めてくれなかった父の死体を目の前にして、いつまでもいつまでも震えている。
◎
真士は困惑していた。
男爵と七海が部屋から出ていった直後である。
〈レーヴァテイン〉が、動かないのだ。彼は虚ろな瞳を、真士の腹あたりに固定したまま、微動だにしない。
──いや、何かの罠かもしれない、と真士は油断なく右手に意識を傾けた。
それにしても、と思う。〈レーヴァテイン〉は、もう一人の自分だ。岩崎真士だ。なのに、あの様子は一体何なのだろうか。
正気があるようには、見えない。何らかの薬を投与されたのだろうか。彼からは、まるで生気が感じられないのだ。
まるで自分の等身大人形を見ているようだ、と真士は思う。
と、その時だ。聞き覚えのある音が耳に届いた。プー、とも、ブー、ともつかない電子音だ。それが、室内に鳴り響く。
その途端だった。いきなり〈レーヴァテイン〉が顔を上げ、金色の瞳が真士を見た。
「!?」
驚く暇があればこそ。出し抜けに〈レーヴァテイン〉が動いた。
疾走。瞬く間に、十メートルもあった彼我の距離が縮んだ。〈レーヴァテイン〉の無表情な顔が、二つの金色の光が、迫る。
風切り音。真士は真上から落ちてくる鋭い音に向けて、白銀の刃に変えた右手を繰り出した。同じく刃と化した〈レーヴァテイン〉の右腕を、受け止める。金属音、そして火花が散った。強い衝撃に、右腕が痺れる。
「っ!」
床を蹴って左に飛び、距離を取る。が、〈レーヴァテイン〉はそれを許すまじと右足を踏み出し、鋭い突きを放ってきた。が、十分な距離を取った真士にそれは届かない──はずだった。突如、銀光がその身を伸ばした。
「──!?」
慌てて顔を右に傾けて避ける。が、避けきれなかった。左耳に違和感。痛覚はないが、おそらく斬られた。頭の左側が何となく軽くなる。
真士は腰を落とし身を屈め、〈レーヴァテイン〉の剣の下を潜って懐に入り込もうと床を蹴って前に走った。右腕を後ろに引き、こちらも突きを〈レーヴァテイン〉の腹に入れようと、
〈レーヴァテイン〉が吠えた。
「ゴアアアアアアアアアァッ!」
「!?」
嫌な予感が真士の背筋を走り抜けた。半ば本能的に身体を右に倒す。と、左肘に灼熱感。視線を飛ばすと、無茶な体勢から振り下ろされた〈レーヴァテイン〉の刃が食い込んでいた。真士は自分でも驚くほどあっさり、左腕を捨てた。自分から腕を上げて、切断させる。肘から先の感覚が失せ、しかし真士は力尽くで体勢を立て直した。
突く。先程の〈レーヴァテイン〉と同じように、刀身を伸ばす。まるで西遊記の梧空のようだ、などと場違いな思考が脳裏をかすめた。そして思惑通り銀光が〈レーヴァテイン〉の腹を貫いたのだが、その後どうするか、ほんの一瞬迷った。
それが命取りだった。〈レーヴァテイン〉は腹に刺さった剣を無視したかのように前に足を踏み出し、そして振り上げたのだ。真士の顎に強い衝撃が炸裂する。ぱっと飛沫くように目の前が真っ白になった。
一瞬の空白。まるで時が止まったかのような感覚。その中で、真士は思った。
何で僕は【自分】と殺し合っているんだろう──?
真士は自分の行為に意味を見いだせなかった。遅れて、あ、そうか、七海さんを助けるためだ、と思い出す。
が、それでは足りない気がした。七海を助けるため、だけでは足りない。それだけのために自分は戦っているのではない──そんな気がする。
ならばそれは何なのかと言えば、わからない。
強いて言うなら、なんとなく、でなる。
そう、【なんとなく】嫌なのだ。〈レーヴァテイン〉が、もう一人の自分が。
なんとなく許せないのだ、彼の存在そのものを。
理不尽なこと考えてるな、と我ながら思う。が、思いは払拭できない。
背を打つ衝撃に真士の意識は現実に戻った。すぐさま己の状態を確認。顎に痛覚、これは認識した途端失せた。体勢、床に仰向けに倒れている。なるほど、蹴られて倒れたのかと思う。右腕は──いつの間にか人のそれに戻っていた。赤い血に──【真士の血】に、まみれている。
足の方向に気配。真士は足を振り上げ、首の力だけで無理矢理後ろ回り。足が床に着いた途端、後ろに飛んだ。
三メートルほど前方に足を振り上げた〈レーヴァテイン〉の姿を認める。床に、相手と自分の間を繋ぐような血痕が点々とあった。左肘から先の感覚がないので、その血だな、と思う。ちなみに痛覚はやはり無い。そして〈レーヴァテイン〉が足を下ろす頃には左腕の感覚は復活していた。蹴り飛ばされた際に上向きの力が加わったのか、〈レーヴァテイン〉の腹の傷が胸の辺りまで広がっていた。ボタボタと大量の血と、液化した肉がこぼれている。
唐突に腹が立った。自分自身に蹴られるのがこんなに頭に来ることだとは思わなかった。
許せなかった。
吠える。
「ああああああああああっ!」
そして右腕を後ろに引き絞って反動をつけ、刃に変化させる。そして三メートル以上に伸ばした刃を〈レーヴァテイン〉の腰へ叩き付けるように振るった。が、それは空を切った。〈レーヴァテイン〉が跳躍したのだ。真士の剣は何もない空間を通り、
「あああああぉおおおおおおおおっ!」
真士は全身の筋肉を総動員し、左へ行こうとする刃の進路を無理矢理に変更。左下から、右上へ。空中にいる〈レーヴァテイン〉は動けない。無論、避けることは出来ない。
全ては一瞬だ。
〈レーヴァテイン〉の右脇腹に刃が入り、走り、そして左肩から出た。
まだだ、と真士は思う。それは完璧な直感だ。だが、真士はこう思うのだ。
まだだ、まだこれなら【自分は死なない】──!
全ては感覚だ。本能だ。理性的な思考は存在しない。
空中で二つになった〈レーヴァテイン〉が落ちてくる。彼の瞳の金色の光はその力を少しも弱めていない。
そして、真士の双眸が金色の光を放った。
殺す。意識も思考も感情も全て吹き飛び、真士はそう考えるだけの生き物になった。
「がぁあああああああああああっ!」
自分でもどう動いたのか解らなかった。腕を滅茶苦茶に動かしていただけかもしれない。刃を振り回すのにただ夢中だった。
気がつくと、赤いペンキを一缶被ったのかと思うほど、血にまみれていた。
肩を大きく上下させて荒い呼吸を繰り返す。真士は、液化した肉と血が混ざった液溜まりの中央に立っていた。俯き、右手の刃を床に潜り込ませて、口を大きく開いている。
周囲には、誰もいない。
どれほどの時間、そうやっていたのだろうか。
やおら気配を感じて、真士はそちらに視線を向けた。そちらには、真士が蹴り破った緑の扉が転がっている。が、誰の姿もない。
おかしいな、とは思わなかった。今の真士には考える力がない。だから、廊下に倒れているはずの武彦の姿がないことにも、気付かなかった。
次いで、今度は逆方向に気配を感じた。やけに五感が冴えている。見ると、開いた鉄の扉の付近に、赤いパジャマの少女が立っていた。顔に、点々と赤い物が付着している。それが血だとは、真士は気付かない。彼女はまるで扉に寄り掛かるようにして、ぼんやりとした表情で、真士を見ている。
七海が呟いた。
「真士……くん……?」
真士は全身から力が抜けていくのを感じた。何か言おうと思って──思考が言葉にならない。口を半開きにして、真士はただ七海を見つめた。呼吸の乱れは、七海を見た途端収まってしまった。右腕も、いつの間にか人のそれに戻っている。
沈黙が下りた。
やがて、真士と七海は、どちらともなく歩き出した。互いの方へ、ゆっくりゆっくり、一歩ずつ。
七海が歩く度に、ひた、ひた、と音がする。真士が歩く度に、靴の底で水っぽい音がする。
互いの距離が限りなく零に近付き──やがてどちらからともなく腕を伸ばし、二人は互いの身体を求めた。抱き合う。真士の全身を濡らす血を、二人は気にしていない。
真士が震える声で言った。
「よかった……無事で、良かった……」
抑揚のない口調。まるで台本を棒読みしているかのような、そんな言葉。
「うん……うん……」
七海も同様だ。まるで魂を抜かれたような話し方をする。
やがて二人は同時に膝を折り、へたりこんだ。そして、
「ぅ……」
と嗚咽を漏らしたのはどちらが先だっただろうか。最初は小さく、しかし段々段々、まるで氷が溶けていくかのように、二人の嗚咽は大きくなっていく。
他に誰もいない、天井の高い広い部屋で、血塗れの少年と赤いパジャマの少女は抱き合って、声を上げて泣いた。
まるで子供のように、大きな声で。
訥々と、真士は語りだした。
「僕、僕自身を殺して……殺してしまったんです……。あいつは悪くなかったんだと──思います。多分、薬か何かで操られてて……意識も自覚もなくて、ただ命令を聞いていて……。なのに、僕はあいつを……なんだか、すごく嫌と言うか、腹が立ったというか……。な、なんとなく……なんとなくで……!」
七海は真士の左肩に顎を乗せたまま、黙って話を聞いている。頭のすぐ横で、真士が泣いているのがわかる。肩の上に回された腕から、彼の身体の震えを感じた。
真士は涙に濡れた声で、やけに早口で続ける。
「……で、でも……もしかしたら死んだのは僕の方で、実は僕はあいつで、そう考えると凄く不安で、よくわからなくて──」
七海は、真士の動揺、不安、恐怖が手に取るように解った。そのためか、急速に自分の気持ちは醒めていった。心が平静を取り戻している。人は自分より弱い者を見ると安心するって、何かの本に書いてあったな──とぼんやり思う。
己の存在の不確定さに怯える真士に、七海は言った。
「君は、君だよ」
真士の震えが、ぴた、と止まった。
「……でも、あいつは……」
と、なおも言い募ろうとした真士に、七海は彼の背に回した腕に力を込めた。強く、抱きしめる。
「あれは君じゃないよ。別人。他人。真士君は、ここにいるんだから」
「……でも、僕、ただ腹が立っただけで──」
「いーじゃない、腹が立ったから殺したって。どうせ『真士君』はここにいるんだから。ね?」
沈黙。真士が、深く吐息するのを感じた。彼は、ポツリと言った。
「……わがままなんですね」
七海は頷いた。
「それが人間でしょう?」
真士の返答は、無い。七海の答えが意外だったのだろうか。押し黙ってしまった。それでも、七海ははっきりとした口調で続けた。
「あたしも、人間だから」
「……そう、ですね」
七海の左肩に、真士が軽く頷く感触。次いで、どちらからともなく、小さく吹き出した。
笑い出す。二人は小さく、声を殺して笑った。
嬉しかった。
仲間がいることが。仲間と、自分たちは『人間』であることを確認し合うことが。
何故だろう──とても、嬉しかった。
To Be Continued…