狂気の牙──Murderous Fung──
剣の如き三日月の浮かぶ夜の事だった。
窓枠に腰掛け、外に両足を放り出し、クリス=シンフォードは月の光を浴び
ていた。
三日月を見上げて、吐息。
絹製の白い寝間着が、艶やかに月光を照り返している。
微風が吹き、腰まで届く水色の髪が、僅かにそよいだ。
彼の背後は、殺風景な部屋だった。黒いパイプベッドと、黒い木製タンス。
そして黒い木製の机しかない。壁と床は、灰色のコンクリートそのままだった。
静かな部屋に、衣擦れの音が、やけに大きく響く。
クリスが右手を持ち上げ、左肩に触れたのだ。
「…………」
痛覚はない。傷は既に癒えている。
だが、肉体と精神は、同じ様でまるで違う物だ。感覚的に、まだそこに傷が
あるような気がする。
(──彼は……何だったんでしょうか?)
月を見上げ、本日、15回目の自問。
今日の昼下がり、突如、ジグ・ハウテン・ブルグに襲撃を仕掛けてきた狂人
を思い出す。
(彼の目的は一体何だったのでしょうか……)
それは、もはや答える者のいない問いである。
少年は殺された。
聖騎士団団長と暗黒騎士団団長の手によって。
そしてその死体は、暗黒騎士団団長が持つ黒い剣──暗黒剣の力によって瞬
時に腐り、消失してしまった。
身元すらわからない。
溜息。
と、ドアをノックする音が、クリスの背を叩いた。
「はい?」
首を巡らし、背後を見る。
ドアを開けて、一人の少年が入室してきた。
クリスと同じ絹製の白い寝間着に身を包んでいる、金髪の少年だ。
「ラウル……」
クリスは少年──天馬騎士団団長ラウル=アディスンの顔を一瞥すると、柔
和な笑みを浮かべた。
サラサラの金髪と、あどけなさの残る顔立ち。そして深い緑色の瞳。彼もま
た、クリスに負けず劣らず、美しい少年である。
「やあ、クリス」
同じく、ラウルもクリスに明るい笑顔を向けた。そして、行儀悪く、足でド
アを閉める。
「遠征、どうでした?」
窓枠の上で反転し、体をラウルに向け、クリスは問うた。柔らかい月光が、
白い寝間着の背中に降り懸かる。
「ああ。結局、小競り合いだけで終わったよ。被害も少なかった」
言いながら、ラウルはクリスが腰掛けている窓に歩み寄る。その手には、白
い湯気を立ち昇らせている紙コップが、二つ。
「はい」
「ありがとう」
礼を言い、クリスは差し出されたホットコーヒーを受け取った。
クリスは窓枠の端に寄り、場所を空ける。そしてそこにラウルは腰を下ろし
た。
言葉はない。何も言わないでもこうする事が、彼らにとって当たり前の事だ
からだ。
「なんか、遠征中に騒ぎがあったらしいけど……?」
ラウルの言葉に、コーヒーを口に含もうとしたクリスの顔が、強張った。
二秒ほど、沈黙。
クリスは言葉を選び、
「……たった一人のクーデターですよ」
と答え、コーヒーを口に含む。
「ふぅん……」
大体の事は他の者から聞いたのだろう。ラウルはクリスの皮肉った言い方に
、何の言及もしなかった。
「…………」
「…………」
無言。
二人の間に会話はない。しばらく、コーヒーをすする音だけが続く。
やおら、再びラウルが口を開いた。
「そういえば、肩の傷は大丈夫?」
「ええ。傷跡は残りましたが」
そして、再び沈黙。
負けたのか?
ラウルはそう聞いてこなかった。
当たり前か、と思う。
騎士は、己の敗北を、決して語ろうとはしない。
根拠はない。
ないが、クリスは言い切れる。
騎士という者は誇りの塊だ。
鉄よりも固く、塔よりも高いプライドを持っている。
そのような者は、例外なく、屈辱を隠す。そして、隠したまま、その雪辱を
果たすのだ。
だから、ラウルはクリスに聞かないのだ。
親友の誇りを保つため。
騎士が騎士らしく騎士であるために。
「──そうだ。さっき、会議があったんだ」
静かにラウルは切り出した。彼の手元の紙コップには、もうコーヒーは残っ
ていない。
「会議?」
まだ半分以上残っているコーヒーをすするクリスは、視線だけラウルに向け
た。
「……こんな夜中に?」
クリスの言葉に、ラウルは軽く頷く。
「うん。……また、戦争らしいんだ」
溜息交じりに言って、紙コップを握りつぶす。
ラウルの言葉に、クリスの表情が怪訝なそれに変わった。
「また? 今日、あんな事があったというのに──ですか?」
「うん。しかも、今回はいつもと違うよ」
立ち上がり、ラウルはベッドに向かって歩き出した。クリスは視線でその背
を追う。
そして、ラウルは背中に時間を溜めるようにして振り返った。
「全騎士団が出陣するんだ」
静かな声だったが、言葉は強烈だった。
「……まさか」
クリスは思わず否定の言葉を吐いた。
前代未聞、である。
デイリート八騎士団全てが出陣することなど、史上初めてでは無かろうか。
過去、全騎士団が出陣したという記録は、無い。
しかし、ラウルはゆっくり首を横に振った。
「明朝、天馬騎士団も出発するよ」
君はどうする?
ラウルは言外にそう聞いていた。
その事を理解して、クリスは黙り込む。
クリスは天馬騎士団の中でも、特殊な位置にいる。
天馬騎士団独立特殊部隊。それがクリスの所属だ。
しかし、部隊とは名ばかりで、実際にはクリス一人しかいない。
つまり、彼は剣王軍の中で、独立自由権を持つ、数少ない一人なのだ。
今回の戦争に参加することも、関わりを持たないことも、両方出来る。
だから、悩む。
選択肢が二つあるからこそ、クリスは逡巡する。
どちらが自分にとって正しいのか?
分からない。解らない。判らない。
戦争に参加することは本来、騎士としての義務である。
しかし、少年には気になることがある。
昼間の狂人だ。
彼は何者なのか?
彼の目的は何だったのか?
彼の右腕の刃は何だったのか?
疑問がある。
心の至る所で、狂人の存在、行動、その力が引っかかっている。
「……少し、時間をください……」
十秒以上の間を置いて、ようやく、クリスは絞り出すようにして言った。
月光が少年の迷いを浮き彫りにするかの如く、煌々とその背中を照らしてい
た。
昼間の酔っぱらい程、迷惑なものはない。
「うぉぉぉーいっ、しゃーけ持ってこぉぉぉーいっ」
他に客がいない酒場で、酔っぱらい──バード=ミューゼルは空になった徳
利を器用に掌の上で回転させ、カウンターの親父に向かって大声を張り上げた。
所々、赤色の混じった、銀髪の男だ。腰まで届くその髪を、無造作に垂らし
ている。
大柄な体を黒いタートルネックセーター、ブラックジーンズで包み、鮮血の
如き色のジャケットを羽織っていた。
そしてそれらの上に、真っ赤に染まっただらしのない顔を乗せているのであ
る。
「お客さぁん、飲み過ぎですぜぇ」
白い調理服を着た初老の男──酒場の親父がバードを窘める。その顔に浮か
んでいる表情は、辟易。
純和風の店内には、小さなカウンターと畳席があるだけだ。遠慮無く言って
しまえば、狭い。
客はカウンターに座っているバードしかいない。しかも、店内の雰囲気にそ
ぐわない洋服を着ていた。
迷惑な上、場違いな酔っぱらいであった。
「うるっへぇーっ、オレが飲むつったら神でも悪魔でも飲むんでぇっ」
勢いはあるが力のない声。誰がどう見ても、バードは泥酔状態にある。
親父は小さく溜息をつき、カウンターの下から一升瓶を取り出した。そして
酒を熱湯に浸した徳利に注ぐ。
「おうおう、最初からそうすればいいんでぇ」
注がれる魔性の水を眺めて、バードは真っ赤な顔に、にんまりと笑みを浮か
べた。
と。
「──ああああっ! 見つけたわよぉぉぉっ!」
狭い店内に甲高い怒声が轟いた。
「……おや?」
親父は徳利に向けていた視線をあげ、
「……あん?」
バードはだるそうに首を巡らし、声が飛んできた方へ視線を向ける。
酒場の入り口に、一人の少女が立っていた。
ブロンドの髪を短めに刈った、色白の少女だ。一メートルほどの身長からし
て、8歳ほどだろうか。
白い無地のセーターと赤いフレアスカートを身に纏った、幼い少女である。
またも洋服。バードに引き続き、場違いであった。
「何こんな所で飲んだくれてんのよっこのごくつぶしがぁっ!」
怒りの形相で言い放つと、少女はバードに向かって大股で歩き出した。
ずんずんずんずんずんずん。
途中でカウンターの上に置いてあった灰皿を手に取り、
ずんずんずんずんずんずん。
そしてバードのすぐ側まで近寄り、
「ん?」
こんな所で飲んだくれていた穀潰しが呻いた瞬間。
ぱっこぉぉぉぉぉぉん!
いきなり灰皿の底でバードの後頭部を殴りつけた。
「ぐおおおおおおっ!?」
突然の激痛に、バードは後頭部を両手で抑え、身悶え。
「でぇっ──!?」
そしてバランスを崩し、椅子から転がり落ちた。
「ふんっ……!」
少女は床に転がったバードを腰に両手を当てて見下ろし、荒い鼻息を吐く。
右手で後頭部を抑えつつ、バードは上体を起こし、少女に噛みついた。
「いっ、いきなりなにしやがるミーナ!」
「それはこっちの台詞よ! 今何時だと思ってんのよっ! このバカっ!」
「保護者に向かってバカとわなんだバカとわっ!」
「保護すべき美少女を放っといたバカをバカって言って何が悪いのよっこのバ
カっ!」
「誰が美少女だ誰がっ! ガキがナマ言ってんじゃねぇっ!」
喧々囂々。
店内にはたった三人しかいないというのに、この騒がしさは何であろうか。
親父の表情が、辟易から困惑へ移行する。
「あ、あのぉ……お客さん? ケンカは──」
親父が恐々と口を挟もうとした、その瞬間。
バードと、ミーナと呼ばれた少女が同時に振り返り、
「「部外者は黙ってろっ!」」
「は、はい……」
そのすさまじい剣幕に、親父はあっさり弾圧されてしまった。
ああ、情けない。
しかし、世の中、神様もいれば、仏様もいるのであろう。
親父の助っ人たる人物が、酒場の出入口に立った。
一言で言ってしまえば、黒尽くめの男である。
短く刈った黒髪に、サングラス。黒いカッターシャツに、黒いネクタイ。そ
して黒いスーツの上に、黒いトレンチコート。
その男には黒と肌の色しか存在していなかった。
この男も、着ているのは洋服。この酒場は、つくづく、場違いな人物が来る
ようになっているらしい。
扉から差し込む日光が、男の形に切り取られ、大きな影を床に投げる。
やおら、男は広い歩幅で歩き出した。
そして、床に座り込んだままミーナと睨み合いを続けているバードに近寄り
、
「こんにちわ」
と口元に微笑を浮かべ、手を差し伸べた。
「──あん?」
突然声をかけられ、バードはミーナから視線を外し、男を仰ぎ見た。
同じく、ミーナも視線を走らせ、黒尽くめの怪しい男を見上げる。
「誰だおめえ?」
「ちょっと、あんた誰よ?」
全く同時に不躾な言葉をぶつけられた男は、微笑を崩さず、
「バード=ミューゼルさん。あなたにご依頼したいことがあるのです」
と言った。
「「はぁ?」」
男の言葉に、バードとミーナは思わず互いの顔を見合わせ、目をぱちくりと
させた。
「捜し物の依頼だぁ?」
すっかり酔いが覚めたバードは、男の言葉に、露骨に嫌そうな顔をした。
全身黒尽くめの男は、『勾邑』と名乗った。
『勾邑』といえば、この超大陸──セヴァリアースでも有数の大国の名だ。
間違いなく偽名だな、とバードは思っている。
現在三人は、真ん中に白い丸テーブルを置いて、三角形の形で座っている。
当然、純和風の店に丸テーブルがあるはずがない。先程までいた酒場は、勾邑が
来て事態が収拾された途端、親父に追い出されてしまった。
というわけで場所は変わり、ここは和国・聖ではまだ数少ない喫茶店である
。
「はい。これを」
言って、勾邑は懐から一枚の写真を取り出し、テーブルの上に置いた。
バードはチラリと、ミーナは身を乗り出し、その写真を見る。
写真には、茶色の木目を背景に、一つの指輪が映っていた。それは白い輪か
ら突出した四本牙に、紅玉が挟まれているというデザインの物だ。紅玉の中には
、より赤い色の『X』という印が描かれている。
「なにこれ?」
ミーナがテーブルの上に小柄の体を乗せ、勾邑を上目で窺いつつ、尋ねる。
男は柔和な笑顔を浮かべたまま、静かな声で答えた。
「剣霊という物です」
「めでぃうむ?」
ミーナがオウム返しにしたが、勾邑はそれに対して笑顔で受け止めただけ。
何も答えず、バードに視線を向けた。
「どんな仕事でも引き受けてくれると聞いて尋ね来たのですが……。さて、依
頼は受けて貰えるのでしょうか?」
バードは答えない。
沈黙している。
テーブルに右肘を突き、掌に顎を乗せ、あらぬ方向に視線を向けていた。
(さて……どうしたもんやら)
バードは思考する。
本音を言ってしまえば、依頼など受けたくない。
捜し物の依頼など、もう飽き飽きである。しかも、この手の仕事は異様に面
倒くさいのだ。
もう一つ言えば、依頼人が怪しい。
バードはチラリと勾邑と名乗った男に視線を向けた。
格好も格好だが、名前も名前だ。そしてあの態度。
あまりにも怪しすぎる。
(断っちまうか……)
そう思ったが、しかし。
死角にいるので見えないが、ミーナの方から射すような視線を感じる。
つつっ、と瞳を動かして、ミーナの方を窺う。
案の定、彼女はバードを睨んでいた。
その目が、こう言っている。
『受けなさいよ。そろそろお金無くなるわよ。あんたのせいで。この飲んだく
れの穀潰し』
後半はバードの被害妄想かもしれないが、前半の意味は間違いなく篭ってい
る瞳だ。
溜息。
(はてさて、どうしたもんやら……)
とりあえず酒が一杯欲しいな、と思うバードであった。
夜空は吸い込まれそうな紺色だ。
星の光が瞬く闇夜の中、ぽつん、とピンク色のドレスが浮いている。
高級のシルクだろう。その簡素だが気品漂うデザインのドレスは、柔らかに
月光を照り返していた。
「キレイだね」
夜空に浮かぶシルクのドレス──つまり、絹の如き質感を持つブロンドを短
く刈った少女は、夜空を見上げ、呟くように言った。
高空の寒さを持った風が吹き、少女の髪を揺らす。
風は冷たい。がしかし、仄かに柔らかい感触がある。
和国・聖の上空にも、春が来ていた。
空は濃紺。月は金。
「──ねえ?」
たった二色だが、それらは微妙な濃淡で構成されており、頭ではなく心で、
正直に美しいと思える。
「スウェア君もそう思わない?」
少女は夜空を見上げながら、同意を求める言葉を下に落とした。
「そうでございますね、カネチュア様」
すぐさま優しげな声が返ってきた。しかし、その音は人の口から発せられた
ものではない。
龍だ。
剣呑な牙が、ぎらり、と月と星の光を反射する、龍の口から発せられたのだ
。
そう。少女──ハーモニス=イグ=カネチュアは暗緑色の鱗を持つ龍・スウ
ェアの背に袴って、春の夜空を飛翔しているのだ。
「まるでカネチュア様の事を祝福しておるようですな」
大蛇の如き体をくねらせ、空を翔る龍は、巨大だ。
月光を鋭く反射する、暗緑色の鱗。人ならば耳に当たる部分から後ろ向きに
生えている、六本三対の、銀色の角。その角の長さも、軽く一メートルを超えて
いた。
全長十三メートルを誇るその巨躯は、大気を捻り、力強く、夜空を疾走して
いる。
「そっかな」
頬を朱に染めて、カネチュアは照れくさそうに笑顔を浮かべる。そして体を
傾け、スウェアの背の上で寝ころんだ。
視界いっぱいに夜空が広がる。
大きく息を吸い込んで、
「今日からボクもハイドラゴンマスターかぁ……」
感慨を込めて、吐息と共に呟く。
「今日で私が誕生して一年目でございますから」
「そっかぁ……」
カネチュアは苦笑。
「……本当はボクが生まれた時からの付き合いなんだけどね」
少女と龍は背中合わせで会話する。
「申し訳ございません。私、及び、私達は、融合の度に最低限のものを残して
、記憶の全てを抹消されますから……」
言葉通り、申し訳なさそうにスウェアは言う。
龍とは、融合成長する生物である。
二匹のサーペントが融合することで一匹のドラゴンが生まれ、三匹のドラゴ
ンが融合することによって一匹のハイドラゴンが誕生する。
つまり、スウェアは六匹のサーペントが融合した、或いは三匹のドラゴンが
融合して誕生した、ハイドラゴンなのだ。
「ううん。いいよ、気にしないで。ただ……」
「……ただ?」
「キミとの契約を維持するだけが精一杯なんて、ボクも修行が足らないなぁ…
…」
溜息交じりに言うその声には、ひどく力がない。
龍使いは常に己と龍との契約を維持しなければならない。
サーペントマスターなら少量の魔力で維持できるが、ハイドラゴンを所有す
るハイドラゴンマスターはそうはいかない。
膨大な魔力が必要になる。
カネチュアはその契約の維持だけに魔力を使い果たし、スウェアを完全に使
いこなすことが出来ないでいた。
「気を落とさないでください。それでもカネチュア様は世界で五本の指に入る
のですよ」
「他にハイドラゴンマスターが二人しかいないんじゃ、当たり前じゃないか」
と、カネチュアが憮然と言い放った時だ。
強い風が吹いた。
髪が乱れ、ドレスの裾が翻る。
「きゃっ……!」
カネチュアは慌てて起きあがり、右手で髪を、左手でドレスの裾を抑えた。
そして、風に乗って、鉄を多く含んだ香りが、カネチュアとスウェアの鼻孔
をつく。
血の匂いだ。
「──!」
弾かれたようにカネチュアは香りが来た方向──右に振り向く。
そこに、一人の少年がいた。
まるで空間に貼り付いたかの如く、中空に立っている。
黒いズボンに、裾を出した白いカッターシャツ。
学生服だ。
短い髪が風に揺れ、踊っている。
彫りの深い顔が、カネチュアを見つめている。
「やあ」
親しげに少年はカネチュアに話しかけた。
散歩の途中で友達に会った──そんな感じの口調だ。
しかし、カネチュアは応えない。
少年の右腕に、異常を見たからだ。
右の肘部分が、赤子の頭ぐらいの球体に覆われている。
そして、その球体から、長さ一メートルほどの、サーベルの刀身が伸びてい
るのだ。
「いい夜だね」
横殴りの風に吹かれながら、周囲を見渡し、少年は言う。
月の光が、夜空に浮かぶ少女と少年を照らす。
彼の右肘を覆う球体が、月色の光を放った。
彼我の距離は五メートル。
もし、後一メートル近くにいれば、カネチュアは見ることが出来ただろう。
球体の中に、より濃い黄金で描かれた『E』という印があることを。そして
その印が、一秒に一周の周期で縦軸横回転していることを。
「月も綺麗だ」
少年は眩しそうに月を見上げる。
彼の右肘にある球体から、一対の翼が生えていた。
片翼二メートルは下らない、鷲の翼である。
それが球体から、前と後ろに向かって生えているのだ。
カネチュアは理解する。
少年はあの翼で空中にいるのだと。
羽ばたきもせずに、浮かんでいるのだと。
「……スウェア君……」
掠れた声で、愛龍の名を呼ぶ。
何故かはわからない。
少年から、ピリピリとした『何か』を感じる。
威圧感、といってもよい。
口調が柔らかだというのに、少年の気配はまるで獅子の如く力強いのだ。
しかし、その力強い『何か』の正体は、判らない。
少年の目が、カネチュアを見る。
冷たい瞳だ。針のような視線が、カネチュアを射抜く。
少年は微笑を浮かべ、次いで、裂けたのではないか思うほど唇の両端を釣り
上げた。
そして次の言葉で、カネチュアは少年から感じる『何か』を知る。
「死ぬには最高だよ」
それは抑えきれない殺意と狂気だった。
少年が右腕を振り上げる。
ぎらり、と白刃が月の光を照り返した。
牙の如き月が浮かぶ夜。
獣人国家咆吼。
グラスを石に叩き付けたような音が、夜気を叩いた。
裂破と化した空気が、森林を駆け抜ける。
音の発生源は、一本の大木であった。
全長300メートルを越える、巨木。
その前に、一人の少年が立っている。
黒い綿パンツに白い無地のTシャツという、簡素な格好をした少年だ。
その頭部に、毛髪はない。
むき出しの頭皮が、月光を受け、輝いている。
少年──チャスター=クレイジーは、全身から蒸気を立ち昇らせていた。
汗の蒸気だ。
チャスターは鋭い目を細め、前方を見る。
巨木の幹に、深く、拳の形が刻み込まれている。
先程の快音は、巨木の幹と、チャスターの硬い拳のぶつかり合いから生まれ
たのだ。
素早い吐息。
硬い皮の如き筋肉が、しなる。
躍動する。
幹に、正拳突き。
再び、裂破を伴う快音が夜の森に響いた。
そして、音は連続する。
まるで音楽を奏でるかのように、拍子にのって、音が走る。
動きは上半身だけでは終わらない。
膨大な筋肉が収束した足。それが空気を斬り、大木に炸裂する。
拳と脚の連撃。
十数発。
音が連続して鳴り響き、やがて、余韻を残しながら消えていった。
安堵の吐息。
チャスターは全身の緊張を解き、姿勢を自然体へ。
汗の蒸気が夜の空気に溶けていく。
おもむろにチャスターは俯き、握りしめていた右手を開いた。
掌の上に、一つの指輪があった。
味気のない、単なる木の輪とも言える。
それを見つめる少年の顔に、僅かな感情が浮かぶ。
(まだ、足りないか……)
しかし、それも一瞬。
緊の表情に戻る。
再び指輪を握りしめ、構えをとる。
全身に気を巡らせ、力を蓄積する。
そして、ため込んだ力を解放しようとした、その時である。
「何者だ」
突然、虚空に向かって言った。
沈黙。
チャスターの言葉に、応えるものはない。
静寂。
木々の葉が風にそよぐ。
それ以外に音はない。
たっぷり十分以上は経過しただろうか。
「辛抱強い坊やだこと……」
いつの間にか、チャスターの背後に、一人の女が立っていた。
赤髪が地に触れる程長い、グラマラスな美女だ。官能的な肢体を、胸部に薔
薇を模したシンプルなドレスで包んでいる。
ドレスの色も、真紅。
「──!」
予想外の出現に、チャスターは僅かに動揺した。
(一体いつの間に……?)
気配は上空からしていたはずだ。
それが、気がつけば、後方にある。
「ふふ……驚いたかしら?」
そして、女は目の前にいた。
象牙の如く白い肌が、闇の中に浮かんでいる。
「──!?」
また、だ。
また、女の動きを知覚することが出来なかった。
(何者だ……?)
女が妖艶な笑みを浮かべて、チャスターを見つめる。
その甘い視線を、チャスターは鋭い眼光で返した。
「何者だ」
その問いに、真紅の女は短く応えた。
「邪神酒」
鮮血のように赤い唇が、闇の中で映える。
一息。
気付いた時には、背後から女──邪神酒に抱きしめられていた。
「──!?」
背中に豊満な胸を押しつけられる。
邪神酒の手が、チャスターの胸筋と腹筋の上を、艶かしく撫でた。
戦慄する。
「坊やの名前は?」
女が聞いた。
少年は答えられない。
沈黙が一秒続き。
「そう……チャスター=クレイジーっていうのね」
吐息が耳にかかる距離で、邪神酒が囁いた。
心を読まれた。
「そして、獣人国家咆吼の黒虎隊所属兵士。……へぇ、エリートなのね」
「──!」
その瞬間、チャスターの中で、感情の引き金が引かれた。
動く。
疾風の如き速さで、絡んでいる邪神酒の両腕を振り払う。
地を蹴って、間合いを広げる。
振り返った。
赤髪の女を睨み付ける。
と、女から小さな光が飛んできた。
一直線。
チャスターは反射的にその光の粒を左手で掴んだ。
「それをあなたにあげるわ」
「……何?」
ゆっくりと、握りしめた左掌を、開く。
掴み受けた光の粒の正体は、指輪だった。
真っ正面から見た虎の顔が、水色の宝玉を咬んでいるというデザインだ。材
質はおそらく、エメラルド。
宝玉の中で、青色で描かれた『G』という印が、縦軸回転している。
指輪を一瞥し、チャスターは尋ねた。
「何だこれは?」
その問いに、女は微笑だけを返した。
答えず、チャスターが望まない言葉を放つ。
「受け取りなさい。これは命令よ」
傲慢な言葉だった。
当然の如く、チャスターは拒否の言葉を放とうとした。
彼は主君──獣王の言葉以外を聞くつもりは、毛頭無い。
誇りがそれを許さない。
しかし、口は、心の声を、真っ直ぐに表さなかった。
婉曲的に拒否の意を込めつつ、問いかける。
「もし断れば?」
「殺すわ」
一瞬にして剣呑な言葉が返ってきた。
チャスターは邪神酒の顔を窺う。
妖艶な微笑を浮かべ、少年を見つめている。
チャスターは視線を落とし、もう一度、左手の指輪を見た。
エメラルドの虎が、月の光を浴びて、キラリと輝く。
もし断れば、女は本当に自分を殺すだろう。
悔しいことに、チャスターはそれを確信できた。
(この女は……計り知れない)
強さが分からない。
だが、自分は確実に凌駕されている。
それだけが、分かる。
否。
それだけしか、分からない。
命を選ぶか。
誇りを選ぶか。
選択はどちらか一つだった。
男とは愚かな生き物である。
ビルの壁にもたれて、セラフィー=ミッドナイトは心底そう思った。
魔法国家ウィズの黄昏時。
ここはとあるビルとビルの間にある路地。
そこに、7人の男達が半円状に布陣して、壁を背に立つ少女を囲んでいる。
男達の頭は色鮮やかに染められていた。赤、青、緑、黄、紫、橙、藍。つま
りは虹色である。
囲まれているのは、茶色の髪を、大雑把に短くした少女だ。白いセーラー服
に赤いリボン、黒いスカートという出で立ちをしている。
男達は下卑た笑みを浮かべて、少女──セラフィーの全身を、舐め回すよう
に眺めていた。
彼らの興味は専らセラフィーの体にあるらしい。
彼女が露骨に嫌そうな顔をしているのに、気付いていない。
少女は吐息。
無駄だとは思いつつ、十センチ上にある猿達の顔に向かって、言う。
「私、急いでいるんですが」
「なあ、どうするよ?」
「やっちまうに決まってんじゃねーか」
男達は彼女の言葉など聞いちゃいない。口々に勝手な事を喋るだけだ。
溜息。
無駄だとは思いつつ、十センチ上にある猿達の顔に向かって、警告する。
「私を甘く見ると火傷しますよ」
「どこ連れていくよ?」
「いつもの場所でいーんでない?」
「じゃあ、そうすっかぁ」
やっぱり聞いちゃいない。
(ねえねえねえ、どうしたのぉ?)
(うるさい)
(あたしにも教えてよぉ)
頭に響く甲高い声に、彼女はしばし思考。
一息。
(……だったら、交替してあげるわ。後よろしく)
(おっけぇぇいっ)
セラフィーの表情が変わった。
張りつめた鋼線のような強面から、一転。
ヒマワリのような笑顔へ。
「ねえねえねえ、どこに連れていってくれるのぉ?」
そして、無邪気な声で男達に話しかけた。
この行動に、男達は一瞬、鼻白んだ。が、すぐさま笑みを浮かべる。
こいつ、バカだぜ。
楽に事が運べるな。
彼らはそう思ったようだ。
それが愚考とは知らずに。
「ディスコなんてどうだよ」
にやにやと笑みを浮かべながら、男の一人がセラフィーに顔を近付けて言っ
た。
「うんっ」
頷くセラフィー。
と、小首を傾げ、右の人差し指を顎のラインに沿える。
うーん、と唸り。
やおら、破顔した。
「──でもね、いちいちディスコなんかに行かなくても、ここで踊ればいいじ
ゃんっ」
「はぁ? 何言ってんだおま──」
言いかけた男の口が、凍り付いた。
セーラー服に包まれた体が、炎を纏っている。
セラフィーの全身から、紅蓮の炎が噴き出していた。
「な、何だこいつ!?」
男達の間に動揺が走る。
しかし、セラフィーは無邪気な笑顔を崩さない。
「踊るんでしょ?」
にんまりと笑みを浮かべたまま、セラフィーは素早く両手を振り上げた。
その手から、鮮烈な炎が天に向かって舞い上がる。
「おっけーっ。楽しくやろうよっ」
炎が躍った。
事が全て終わる頃には、日が暮れていた。
(すぐに終わっちゃった……つまんなーいっ)
(自分で灰にしたくせに)
(だってだって、アレぐらいやらなきゃスリルがないんだもんっ)
(そういう問題じゃないわ)
セラフィーはアスファルトと夜空の間を、我が家に向かって歩いている。
真っ白だったセーラ服が、少し、汚れている。
白い布に貼り付いているのは、黒い灰である。
男達だったモノだ。
(でもバカだよね。あたしをナンパするなんてさっ)
(しょうがないわ。一応、外見は女子高生なんだから)
(これでも国おかかえの研究者なのにねー)
(猿に分かるわけないわよ)
しばらく歩くと、やがて、白い建物が見えてきた。
二十階建てのマンションだ。
セラフィーはここの十三階に部屋をもっている。
マンションの名前は『アウシュビッツ』。
その『アウシュビッツ』の足元。
唯一の出入口である自動ドアの前に立ち、開くのを待つ。
一拍。
ゆっくりと強化ガラスのドアが開いた。
その時である。
耳に、微かな、音楽が聞こえてきた。
「──?」
ドアを挟んだ数歩前に、一人の少年が立っている。
テンポの速い音楽が、少年の方から流れてくる。
セラフィーは、その少年から、圧力のようなモノを感じた。
思わず、立ち止まる。
首の辺りで束ねた紺色の長髪。その上に、赤いキャップをかぶっている。
そして、赤いセーターとブルージーンズ、黒い革ジャンという出で立ちをし
ていた。
ポケットから細く黒いコードが伸び、胸の辺りで二叉に別れ、左右の耳に吸
い込まれている。
ウォークマンだ。
音楽は耳に挿したヘッドホンから、微かに流れている。
外に漏れるほどの音量で耳を悪くしないだろうか、とセラフィーは思った。
少年は革ジャンのポケットに両手を突っ込み、無造作に立っている。
ちょうど、セラフィーの前に立ちはだかっているようにも見える。
「やあ」
大音量で音楽を聴いているせいだろうか。少年のその台詞は、まるで歌うよ
うな調子だった。
そして、セラフィーの返事を待たずに、少年は歩き出す。
少女の横を通り過ぎ、止まる。
セラフィーの背後に、背中合わせに立った。
空を見上げ、
「いい夜だね」
体を小刻みに揺らしながら、呟く。
全身でリズムを踏んでいる。
腰まで届く紺色の髪が、それに合わせて躍る。
(ねねね、この人誰だっけ?)
(知らないわ)
(でも、あたしのこと知ってるみたいだよ?)
(図々しいだけよ)
背中を押されるような気配に、セラフィーは振り返った。
少年が背を向けて、夜空を見上げている。
真円を描く月を見ている。
「月も綺麗だ」
その言葉を合図に、少年の耳からこぼれていた微かな音楽が、止まる。
一息。
再び、ヘッドフォンから音が漏れ始めた。
その柔らかい旋律に、セラフィーは聞き覚えがある。
古い曲だ。
よく覚えていないが、いつかどこかで聞いた、そんな音楽。
微かな記憶を辿り、その題名を呟いた。
「月光……」
少年が首を巡らし、セラフィーに横顔を曝した。
キャップが邪魔して瞳は見えない。
しかし、その口元には、笑みが浮かんでいた。
くいっ、と口の端を釣り上げた──そう、先程燃やしてやった男達が浮かべ
ていたモノと、同じ笑みだ。
「……!」
訳も分からず、戦慄する。
歌うように、少年は言葉を紡いだ。
「死ぬには最高だよ」
言って、振り返り、革ジャンの右袖を捲りあげた。
右腕が虹色の光を放った。
自然は大切にしなければならない。
鬱蒼とした森の中。
その中には、一つの色がある。
闇だ。
夜において、森の中では、金色の月光と黒い闇が、常に喧嘩をしている。
だが、いつも負けるのは闇の方だ。
闇はいつも、森の中でしか存在できない。自己主張できない。
だから、反動で、森の闇は、深く濃くなる。
その深い、濃い闇の中に身を置く者が、一人、いた。
その者──ラミリエル=アルパラスは、高い位置にある木の枝に腰掛け、夜
空を眺めていた。
空には月と星と、
「メヴィウスリングですか……珍しいですね」
ラミリエルは微笑を浮かべ、呟いた。柔らかいアルトが、闇に溶けて消える
。
紺色の夜空に浮かぶ、銀色の無限の輪。
それはまるで、巨大な天蓋である。
二つある輪は、一つの中に月が三十個は入るだろう。
ラミリエルは蒼天色の瞳で、空一面を覆う捻れた輪を眺める。
メヴィウスリングは、滅多にその姿を現さない。
その出現周期に、法則はない。
神出鬼没に空を覆う、捻れた輪の天蓋。
それがメヴィウスリングだ。
「……いい夜ですね、今日も……」
そっと呟き、ラミリエルは目を閉じる。
微風が吹いている。
か弱い風が、闇の中でさえ、うっすらと浮かび上がる銀色の髪を揺らした。
と。
出し抜けに豪風が吹いた。
木々が大きくしなり、銀髪が乱れ、大気が吠える。
「…………」
しかし、ラミリエルは動じない。
豪風を微風と同じく、瞳を閉ざしたまま、受け流す。
突風は、わずか一秒ほどで終わった。
木々が余韻を残しつつ大人しくなり、銀髪が再び重力に引かれ、大気が唸り
ながら静まっていく。
そして、
「やあ」
風が止むと同時、声が響いた。
青年は、ゆっくりと瞼を開く。
ラミリエルの前方1メートルに、一人の少年が浮いていた。
地上から三百メートルも離れている、木の枝の側に。
「…………」
ラミリエルは視線だけを動かし、少年を舐め回すように観察。
背格好から察するに、五、六歳の少年だろう。
子供にしては、なかなか端正な顔立ちをしている。将来が楽しみだ。
小柄な体を緑を基調とした法衣で包み、小さな頭に緑色の三角帽子を乗せて
いる。
そして、髪の色は、紫。
「……こんばんわ」
突然の来訪者に、ラミリエルは微笑を崩さず、淡々と挨拶した。
深く濃い闇の中に、赤い花が二つ、咲いている。
否、それは瞳だ。
少年の双瞳が、紅玉の如く美しい光を放っているのである。
「こんばんわ」
少年は満面の笑みを浮かべて、挨拶を返す。
と、ここでラミリエルは気付いた。
少年は、森の闇の中に置いて、くっきりと姿を現しているのだ。
原因を探すと、それはすぐ近くにある。
少年の右手だ。
小さな手に、仄かな光を放つ、一枚の紙切れが握られている。
それが、少年の姿を闇の中で浮かび上がらせる、光源だ。
言霊が凝縮・結晶化した、符である。
「はじめまして、だね。僕の名前は閲祇。よろしくね、ラミリエル=アルパラ
ス」
『はじめまして』と言いつつも、少年の口調は、友人に対するそれだ。
子供らしい図々しさだ。
少年──閲祇は符を持っていない方の手を、ラミリエルに差し出した。
握手を求める。
しかし、銀髪の青年は応じない。
代わりに、問う。
「どうして私の名を?」
その問いに、閲祇は一転して不機嫌そうな表情を浮かべて、差し出した手を
引いた。
そして、ふぅ、と溜息。
紫の色を掻き上げ、笑みを浮かべる。
子供の笑みではない。何か企んでいる、意地の悪い大人の笑みだ。
「……君のことは調べさせてもらったよ。簡単に言えば、異常と言っていいほ
どの自然愛好者。自然を壊す者は、何人たりとも許さない男。ちなみにその年齢
は百四十程。──どう? 間違ってる?」
「…………」
ラミリエルは何も言わない。ただただ、微笑を崩さずに、閲祇を見つめてい
る。
肯定も否定もしなかった。
だが、状況が、沈黙に肯定の意味を持たせていた。
やおら、閲祇の体が一メートルほど上昇する。
闇の中で爛々と輝く赤い瞳が、ラミリエルを見下した。
吐息。そして言い放つ。
「ま、僕に言わせればただのバカだけどね」
トーンの低い声だった。
侮蔑の声である。
ラミリエルは視線だけで、頭上の少年を見上げる。
空中の彼は、ひどくつまらなさそうな顔をしていた。
「……不本意なんだけど、今日は君を誘いに来たんだ。僕たちの仲間にね」
一息。
「僕は嫌なんだけどね。君みたいな人といるのは」
「…………」
ラミリエルは無言。何の反応も返さない。
ラミリエルのそんな態度に、閲祇は不愉快な思いを抱いたのだろう。
赤い瞳が鋭い光を放つ。
「勾邑が言わなきゃ、すぐにでも殺してやるのに……!」
嫌悪感を凝縮したような声で、吐き捨てるように閲祇は言った。
その言葉すら微笑を崩さず受け流し、やおら、ラミリエルは枝の上で立ち上
がる。
二人の視線の高さが、同じになる。
青年の姿が月光に照らされ、露になった。
背の中程まで伸びた流れる様な銀髪を、首の辺りで一本の三つ編みにしてお
り、長身痩躯を黒いレザーの上下で包んでいる、という出で立ちだ。
蒼天色の瞳が、睨み付ける閲祇の、赤い視線を受け止めていた。
「──1つ聞いてよろしいでしょうか」
ラミリエルの申し出に、閲祇は空中でそっぽを向き、
「……どーぞ」
と無愛想に答えた。
「どうして貴方のような方が私をお誘いに?」
ピクリ、と閲祇の肩が僅かに震える。
「…………」
沈黙。
ゆっくりと、赤い瞳が、ラミリエルに向く。
そして、少年は呟いた。
「……君はまだ気付いていないんだね……」
「……?」
ラミリエルは閲祇の呟きを理解できなかった。
赤い瞳を見据えたまま、しばし待つ。
しかし、閲祇が続きを話し出すような気配はない。
仕方なく、話題を変えようと口を開く。
が、ラミリエルの口が言葉を紡ぐ前に、
「どうするんだい?」
遮断するように、唐突に閲祇は尋ねた。
誘いに応じるのか、それとも断るのか。
そういう意味の問いである。
「そうですね……」
ラミリエルは視線を空中に泳がせ、しばし黙考。
そして、答えた。
今日は極上の天気である。
皇都・勾邑。
その都市にある、とある屋敷の庭で、コマチは洗濯物を干していた。
広い庭だ。緑が敷き詰められて、まるで野原である。
日光が降り注ぎ、微風が吹いて草がそよぐ。
いい日和だった。
そして、その明るい空気の中を流れているのは、音楽だ。
アップテンポの、鼻歌である。
「〜♪」
歌っているのは、ターコイズに似た、青緑色の髪の少女。
鼻歌に合わせて、紺色のメイド服に包まれた体が、リズムを刻む。それに乗
じてセミロングの髪も揺れる。
布を叩く小気味よい音。
勢いよく振られた真っ白なシーツが、その表面からしわを消した。
「〜♪」
鼻歌のテンポが、さらに上昇。
それに合わせて少女──コマチの動きは速くなる。
「コマチ」
手早くシーツを物干し竿に掛け、しわにならないように広げる。
躍るような足取りで、洗濯篭に近寄り、中から別なシーツを取り出す。
素早く、同じ手順で、シーツを干す。
「コマチ」
鼻歌は続く。
スカートの裾を翻し、メイド服が躍る。ターコイズの髪が揺れる。
「〜♪」
次々とシーツを干していく。
速い。
脚がタップを刻み、コマチは本格的に躍り始めた。
ついにシーツ一枚を片手で捌くようになった。
右手でしわを伸ばし、左手で干す。
「コマチ」
最早、干した後に広げる必要はない。完璧な状態で、シーツは物干し竿にか
かる。
「〜♪」
絶好調。
シーツを全て片づけて、次は衣服に手を伸ばす。
その瞬間。
「コマチ」
出し抜けに、ぽん、と肩を軽く叩かれた。
吃驚仰天。
「──!? うっきゃぁああっ!?」
慌てて振り返る。
もう一度悲鳴を上げそうになるほど近くに、男の顔があった。
必死で突き上がって来た衝動を殺し、悲鳴を堪える。
一秒ほど目を白黒させ、
「ご、ご主人様……」
胸を撫で下ろす。
日光を照り返す、美しい銀髪の青年だ。理知的な顔をしていて、それをさら
に強調するかのように、小さな眼鏡を鼻に引っかけている。
「四度目で振り返りましたか。もっと早く気付いて欲しいものですね」
そう言って、焦げ茶色の綿パンツに真っ白なカッターシャツの裾を入れてい
る青年は、柔和な笑みを浮かべる。
「歌うことがいけないというわけではありませんが、ね」
青年の言葉にコマチは頬を朱に染めて、
「す、すみません……」
上目遣いにご主人様──レインハート=アイン=フォルトの端正な顔を窺い
つつ、軽く頭を下げた。
少女の様子に、フォルトは微笑。
やおら、話を切り出す。
「先程、アイーシャが帰ってきました。次はあなたの番ですよ」
「──え?」
フォルトの台詞に、コマチは間抜けな顔を浮かべた。
銀髪の青年は笑顔を崩さず、
「故郷に帰ってもいいですよ、コマチ」
さらりと言い放った。
「──!」
その言葉に、コマチは頭を金槌で殴られたかの様な衝撃を受けた。
「そ、そんな……!」
トルコ石の如き瞳に、みるみる涙が溜まっていく。
フォルトは訝しげな表情を浮かべた。
「……コマチ?」
「私っ、お暇を出されたんですかっ!?」
「──は?」
さっぱり訳が分からないという顔で聞き返すフォルト。
コマチの瞳から、ボロボロと涙がこぼれ落ちる。
「今まで……一生懸命この家のために尽くしてきたのに……」
「──あの……コマチ? 何か勘違いしていませんか?」
「故郷に帰れなんて、そんな……お、お願いしますっ!」
「はい?」
突然コマチは膝をつき、フォルトの脚に腕を絡ませ、
「何でも、何でもいたしますからっ! どうか、どうか私をこの家に置いてく
ださいっ!」
と、すがった。ギュッと目を閉じて、フォルトの脚を抱きしめ、
「私ここしか居場所がないんですっ働かないと生きていけないんですっお国の
お母さんやお父さんやお兄ちゃんに仕送りできないんですっお願いしますっ私を
解雇しないでくださいっ!」
息継ぎもなしに一気に捲くし立てる。
フォルトはすがりつくコマチを困惑の表情で一瞥し。
吐息。
「……あのですねぇ……お暇じゃなくて、休暇をあげると言ってるんですよ」
「──へっ?」
涙が、止まった。
キョトンとした顔を上げ、フォルトを見上げる。
コマチの表情を見て、フォルトは安堵の吐息。
もう一度微笑を浮かべて、コマチの頭を撫でる。細い指が、柔らかい髪を弄
ぶ。
「一ヶ月ほどの休暇です。久しぶりに故郷に帰るのも、悪くないでしょう?」
一息。
「大丈夫。あなたを解雇したりなんてしませんから」
というわけで、コマチは夜の街を歩いていた。
場所は剣王国首都・クォヴァディスである。
休暇を出されて、今日で二日目。
フォルトや同じメイド仲間達の見送りを受けて、今、故郷のデイリートにい
る。
夜空には星と、剣の如き三日月が浮かんでいた。
トランクケースを片手に歩く彼女が身につけているのは、メイド服ではない
。
クリーム色のベレー帽に、白いセーターと黒のフレアスカート、という出で
立ちだ。
「久しぶり……」
歩きつつ街並みを眺めて、コマチは呟いた。
この街に帰ってきたのは、約一年ぶりだ。
そう。彼女は毎年この時期に、一ヶ月ほど帰郷するのである。
一昨日はその事をすっかり忘れており、随分な恥をかいてしまった。
「…………」
思い出したら、急に恥ずかしくなってきた。
苦笑いを浮かべ、頬が朱に染まる。
「お兄ちゃん、元気かなぁ」
トコトコとアスファルトに足音を響かせながら、コマチは独り言ちる。
現在の時刻は午後九時。
狭い通りには、コマチ以外、誰もいない。
こんな時間では寝ている人も多い。無論、店などは開いていない。通りの全
ての建物は、光を消していた。
薄暗い通りを、コマチは一人で歩く。
不意に、出掛けにフォルトから聞いた事を思い出した。
『デイリートでは最近、辻斬り事件が多発しているそうです。くれぐれも気を
付けるんですよ』
(……やだなぁ、辻斬りなんて……)
少し、不安になってきた。
足の回転が速くなる。
影に覆われた暗い場所から、月の光の当たる明るい場所に出た。
と、その時。
「やあ」
月光を浴びた声が、アスファルトの上で跳ねて、コマチの耳朶をつついた。
振り向く。
右方向。
そして、高い位置だ。
声の発生源を探し、見上げる。
コンクリート造りの四角い建物。
『犬丸ピザ』という看板が入り口の上に貼り付いている、白い建物である。
その上に、長身痩躯の人影が立っていた。
三日月を背景に、人影は両腕を広げ、空を仰いでいる。
「いい夜だね」
シルエットから、その人物が、スーツを着ていることが分かった。
(……男の人……?)
声と、影の形から、コマチはそう判断した。
声を掛けようとして、しかし、迷う。
(どうしよう……なんて声かければいいのかな……?)
いい言葉が思いつかない。
(挨拶、ちゃんと返さなきゃいけないのかな……でも、気にしないで話し続け
てるし……)
彼女が迷っているのを後目に、人影は言葉を続ける。
「月も綺麗だ」
人影は、コマチから見て右掌を月にかざし、左手を腰に当てた。
その、右手が、変化する。
月の光を浴びた腕が、水飴か何かの様に、肘の辺りまで縮んだ。
そして、縮んだ腕の先端が膨らみ、バレーボールぐらいの大きさの球体と化
した。
球と化した箇所が、赤黒い光を放つ。
ワインレッドの光だ。
赤光がコマチの顔を照らす。少女の無垢な顔が、血色に染まった。
変化は続く。
赤黒い球体から、一本の棒が突き出した。
長さ一メートル半の、細いシルエットが、天を突く。
「──!?」
変化は一瞬で終了した。
今、人影の腕は、異形と化した。
月の光と、赤黒い光とが、少女を照らす。
己の一部分が放つ赤黒い光によって、人影の顔が闇の中に浮かび上がった。
男だ。
目の細い、黒髪オールバックの男。
唇の端を釣り上げた酷薄な笑みを浮かべ、月を見つめている。
やおら、その視線が、コマチに向いた。
金色の光が少女を撃つ。
彼女は訳も分からず、戦慄。
(な、何……この人……)
一歩、男から遠ざかるように、後退った。
そして。
闇と静寂の中、男の柔らかな声が、剣呑な言葉を紡いだ。
「死ぬには最高だよ」
剣の如き三日月の浮かぶ夜の事だった。
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