剣霊戦記


ワクワクしない? ドキドキしようよ
─Shall we battle? Let‘s Slaughter─


 
 月明の夜。
 柔らかい月光が射すその場所で。
 三人の男はこう囁いた。
「「「やあ」」」
 押さえ切れない殺意と、
「「「いい夜だね」」」
 狂気を込めて。
「「「月も奇麗だ」」」
 そして微笑む。
「「「死ぬには最高だよ」」」
 これから行う虐殺に胸を躍らせて。
 
 
 柔らかい日差しが射し込む、昼下がりの喫茶店。
 
 客が三人しかいない狭い店内は、静寂に包まれていた。
 言葉を待っているのだ。
 その言葉を発する男──バードは、テーブルの上に肘をつき、掌に顎を乗せ 、あらぬ方向に視線を向けていた。
 先程からずっと、黙考している。
 答えを待つミーナと勾邑は、じっと押し黙り、バードを見つめていた。
 静寂は続く。
 やがて、一分以上は経過しただろうか。
 やおら、バードは視線を勾邑に向けた。
 鋭い眼光で、男を睨み付ける。
 黒衣の男は、サングラスでそれを受け止めた。
 殺気を孕んだ強い視線を受け止め、勾邑はただ、微笑を崩さない。
 ややあって、バードは口を開いた。
 紡いだ言葉は──
「──断る」
「ぬぁんですってぇぇぇぇっ!?」
 バードの声が空気に染み入るより早く、ミーナは怒声をあげ、テーブルを両 掌で叩き付けた。
 ばん、と快音が店内に響く。
 しかし、バードも、勾邑も、反応しない。
 怯まない。
 反応がなかったので、ミーナは次の行動に困り、結果、店内は再び静寂に包 まれた。
 しん、とする。
 静かな空気の中、男二人は、お互いの視線を音が聞こえそうな迫力で、ぶつ け合っている。
 一秒程の空白。
 次の瞬間、ミーナは、はっ、と我に帰り、バードに噛み付いた。
「ちょっ、ちょっとぉっ! 仕事受けないってどういう事よっ!?」
 この問いに、バードはさらりと即答。
「嫌だから」
「ふざけんなぁぁぁぁっ!!」
 言うが早いか、ミーナはテーブルの上にあった灰皿をバードに投げつけた。
 渾身の力を込めて投げられた灰皿は、直線を描き、見事バードの顔に命中。
「ぶはっ!」
 スッコーン、という小気味よい音が飛び跳ねた。
 あまりの威力にバードは体を仰け反らせ、喧しい音と供に椅子から転がり落 ちる。
「ぜぇ……はぁ……ぜぇ……はぁ……」
 ミーナは幾度か肩で荒い呼吸を繰り返した後、深呼吸を一つ。
 ふぅ、と息を整え、勾邑の方に振り向いた。
「すみません。先程のはこちらの手違いです。ご依頼、お受けいたしますわ」
 口調がガラリと変わっていた。
 しかも、灰皿を投げた夜叉の如き形相とは違う、明るく朗らかな笑顔を浮か べている。
 俗に言う、営業スマイル、というものだ。
 それに対して、勾邑も笑顔で答える。
「そうですか。それは良かった」
「ま、待ちやがれ……俺は受けねぇって……」
 テーブルの足元の方から、バードの弱々しい抗議の声が揚がった。
 しかし、
「誰のせいでお金がないと思ってるの? この飲んだくれの穀潰し」
 笑顔を崩さないまま、早口にミーナは言った。
 その可愛い笑顔と優しい声に、バードは途方もない恐怖を覚えた。
 冷たい汗が背筋を流れるのを感じながら、バードは思考。
(こ、こりゃぁ……逆らったら飯抜きだな……)
 彼は全財産をミーナに預けている。もしそうなれば、冗談抜きに死活問題に なる。
 バードは自らの保身を優先し、沈黙することを決め、
「…………」
 降参、とばかりにテーブルの下から両手を上げたのだった。
 
 
 刃が鋭く月明かりを跳ね返した。
 
 場所は、剣王国デイリートではハーディール、和国・聖では界練と呼ばれて いる山脈の上空だ。
 北と南に走る、二国の境たるこの山脈は、巨大だ。
 道のりが険しく、足で越えるのに三日はかかる。
 聖軍の主力は地上部隊である。そして剣王軍も、天馬・鳳凰の空中部隊もあ るが、やはり主力は地上部隊だ。
 しかし、地上部隊が攻め込むには山脈が邪魔だ。細く険しい道のせいで、同 時に進軍できる人数を限られてしまうのだ。
 故に、十数年前から二国の間に続いている『光剣戦争』は、未だ終わりの兆 しを見せていない。
 そして今、その邪魔な山脈の上空に浮かぶ、少年と少女、そして龍がいた。
 空間に貼り付いたかの如く空中に立つ少年と、龍に袴った少女とが、互いの 視線をぶつけ合っている。
 緩やかな風が吹いている。
 その風が運ぶのは、緑と、春と、血の匂い。
 爽やかだが、生臭い香りだ。
 と、天を突く少年の右腕が動いた。
 一メートル程の白銀の刃と化した右腕である。
 それが、ゆらり、と動いた。
 刹那。
 少年は言葉を放った。
「切り刻んでやる」
 さらりと言った言葉と同時、彼の体はいきなり前進した。
 まるで蹴り飛ばされたボールのような勢いで。
「!?」
 カネチュアは驚愕した。
 今、目の前の少年は、物理法則を無視したのである。驚くなというほうが無 茶だ。
 反射的に叫ぶ。
「──スウェア君!」
「はっ!」
 寸暇を置かず、鋭く力強い声が返ってきた。
 空中を滑るように、少年は距離を詰める。
 彼我の距離が、五メートルから一メートルに縮む。
 刃を振るえる間合いに入った。
 瞬間。
 カネチュアを乗せたスウェアが、少年に向けて尾を振った。
 そして、夜空を疾走。
 逃げる。
 直後、豪風がカネチュアを叩き付けた。
 否、風ではない。
 急激な移動によって、彼女自ら空気にぶつかったのだ。
 乱れる髪を無視して、少女は右手でスウェアの角を、左手でドレスの裾を押 さえる。
 そして、振り返った。
 何もない。
 少年の姿は見えない。
「遅いよ」
 耳元で囁き声。
「!?」
 声は右耳に直接入ってきた。
 吐息まで聞こえた。
 少年は、すぐ側にいる。
 叫んでいる暇はなかった。
 だから、カネチュアは心で叫ぶ。
(──スウェア君、降下!)
 途端、力のベクトルが下に向いた。
 前向きの力に逆らいつつ、少女と龍は、落ちる。
 そして、カネチュアは上空を仰いだ。
 今度は少年の姿を捉えることができた。
 靴の裏が見える。
 彼は先程と同じく、空中に立ち、こちらを見下ろしていた。
 少年の視線と、カネチュアの視線が、音を立ててかち合う。
 少年は、にっ、と笑った。
 爽快感を覚えるものではない。
 嫌悪感を呼び起こす、嫌な笑顔だった。
 彼の右腕の肘部分にある、月色の球体。
 そこから生えている鷲の翼が、大きく羽ばたいた。
 大気が唸る。
 少年の体が傾き、地上と向き合う。そして、氷上を滑る様に動き出した。
 カネチュアに迫る。
 迫りながらも、彼は右腕を左から右へ払った。
 再度、大気が唸りをあげた。
 弧を描く衝撃波が、地上へ向かう少女に襲いかかる。
「右っ!」
 カネチュアが叫ぶと同時、彼女の体は右にずれた。
 スウェアが同じ体勢のまま、横に滑る。
 斬撃波が何もない空間を通り過ぎ、地上へ向かう。
 木材に戦斧を叩き落としたような音が、大気を震わせた。
 次の瞬間、彼らの真下にあった山脈が、二つの国を分かつ国境が、東から西 にかけて、真っ二つに切り裂かれた。
 ビリビリと大気が振動する。
 山脈のど真ん中に、後に剣鷲谷と呼ばれる、巨大な渓谷が誕生した瞬間だっ た。
「!?」
 カネチュアは目を剥いた。
 ただ、腕を振っただけだ。
 ただ、刃が風を切っただけだ。
 なのに、この威力は何であろうか?
 常識を遥かに越えている。
「ハハハハハハッ! サイコーだよコレぇっ! 魔力まで増幅されてやがるっ !」
 高音の嫌な哄笑がカネチュアの耳を劈いた。
 見ると、少年が空中で体をくの字に曲げ、腹を抱えて笑っている。そしてそ の場で縦軸横回転をはじめた。最初はゆっくり、やがて加速していき、高速に。
 所業が非常識ならば、それを行った彼もまともではなかった。
 いきなり襲いかかって、脈絡もなしに笑い出し、阿呆の如くクルクル回って いるのである。
 完全に狂ってる。
「ハハハハハハハハハハハハハハハッ!」
「──スウェア君っ!」
「はっ!」
 少年が笑いつつ背中を丸め、コマのように回転しているのを後目に、カネチ ュアはスウェアに加速を促した。
 主の意志を受けた龍は、その身を躍動させる。
 夜空を疾走する。
 1秒で100メートルほど前進し、カネチュアは後方を振り返った。
 少年は笑い続けており、先程の場所から動いていなかった。まるでダンサー のように、その場で丸まった体を高速で回転させている。
 追いかけてくる気配はない。
 吐息。
 少しだけ、安堵する。
 しかし、油断は禁物だ。
 カネチュアは少年の挙動に警戒しつつ──
 そして彼らは逃走した。
 
 理玖は狂喜していた。
 抑えきれない喜びが、全身を駆け巡る。
 大人しくしていると、それこそ狂ってしまいそうだった。
 居ても立ってもいられず、その場で回転する。
 ぐるぐると、全身の力を迸らせるように旋回する。
 とても愉快だった。
 今夜は最高だ。
 あんなにすばしっこい獲物は初めて見た。
 なんて気持ちのいい手応えだろう。
 アレこそ、正に『狩り』。
 命と命を懸けた、最高の賭博だ。
「ハハハハハハハハハハハハハハッ!」
 笑う。
 笑うと喜びがさらに弾ける。
 声がスタッカートを刻む。
「ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、ハッ!」
 そして回転する。
 ぐるぐるぐると、三次元的な回転を何度も繰り返す。
 そして、一頻り回り笑うと、理玖はピタリと動きを止めた。
 夜空に足の裏を向けた体勢で、ひた、と龍を駆る少女が消えた方向を見据え る。
 もう、彼女の姿は見えない。
 しかし、彼には分かっている。
 今から追いかけても、十分間に合うのだ。
 指に填めた祖父の形見は、それだけの力をくれる。
 理玖は刃と化した右手を頭上に掲げ、二つに裂けたハーディール・界練山脈 を指した。
 右肘の宝玉から生えた翼が、力強く夜気を叩く。
 そして、長大な翼が、彼に覆い被さった。
 鷲の翼に抱え込まれる。
 完成した形状は、蛹か、ラグビーボールか。
 縦に長い球体だ。
 方向転換。球体の頂点から突き出た銀色の切っ先が、前へ──カネチュアが 逃げた方向へと向く。
 そして飛翔。
 矢の如く、弾丸の如く、雷の如く、翔る。
 空気の壁を貫き、二秒ほど直進したところで、
 少し時間をおきすぎたかな?
 そう考えたがしかし、すぐさま振り払う。
 なぁに、慌てる必要はない。
 大丈夫だ。
 夜は長い。
 鬼ごっこは始まったばかりだ。
 

 ミーナは、テーブルの下から生えたバードの両手を一瞥すると、
「では、お手数ですが、詳しい説明をお願いします」
 大人顔負けの毅然さで、勾邑を促した。
 全身黒尽くめの男は軽く頷き、懐から右肩を紐で綴った紙束を取り出した。
 それをテーブルの上に置く。
「私が探してもらいたいのは、剣霊という物です。先程見せた写真は、ゼノン という剣霊ですが……あれだけではありません」
 ミーナは窺うように勾邑を見つめた。
 交渉において、相手の心理を読む事はとても重要なことだ。相手の心を、交 渉が上手くいくよう、導くためである。もし、それが出来なければ、逆に己の心 が導かれ、圧倒的に不利になってしまうだろう。
 だから、ミーナは勾邑の瞳を窺う。
 瞳から感情を読み取ろうとする。
 だが、サングラスに隠された瞳から、感情を読み取ることは出来なかった。
 ──不気味。
 ミーナは正直にそう思う。
「それだけではない──では、他にも?」
 勾邑は小さく頷く。
「剣霊は計二十六個あります。それを全て見つけだして欲しいのです」
 話を聞きつつ、ミーナは思案する。
(二十六個……ちょっと、多いわね)
 もし何の手がかりもなしに、二十六個もの指輪を探す事になれば、ひどく骨 の折れる仕事になるだろう。
 そう考えたが、しかし。
(──ま、やるのはバードだし)
 そんな結論を出して、少女は思案をあっさり終了してしまった。
 ああ、無情。
 ミーナは勾邑の話に軽く頷き、
「わかりました。──では、理由は?」
 問うて、懐からメモ帳とペンを取りだした。
「……理由、ですか?」
「はい。貴方が剣霊を求める理由です」
 少女の言葉に、勾邑は押し黙った。やや俯き、思考する。
 そして、その唇の端が、僅かに吊り上がった。
 しかし、ミーナはその微かな変化に、気付かない。
「──もう一度、ゼノンを封印するためです」
「封印?」
 聞き返しながらも、彼女は勾邑の言った言葉をメモ帳に記していく。
「ええ。この写真に写っている剣霊──」
 言って、勾邑はテーブルの上の写真を指す。
「ゼノンは二百年前からつい最近まで、とある所で封印されていました」
 サラサラと紙面を走っていたペンが、ピタリ、と止まった。
 ミーナはメモ帳に落としていた視線を上げ、勾邑を凝視。
 呟く。
「……つい最近まで封印されていた──と、言うことは……?」
 その言葉に、勾邑は手袋を填めた両手を叩いた。
 くぐもった拍手を少女に送る。
「ご明察。彼の封印は解かれました。現在行方不明です」
「……ちょっと待って。封印されていたって事は、つまり……」
 思わず、事務的な態度が崩れ、口調が地に戻った。
 『何か』が封印される。
 そこには、たった一つの理由しか存在しない。
「剣霊は、世界を滅ぼす可能性を持っている──ってこと……?」
 史上、それ以外の理由で封印されたものは、ない。
 勾邑はミーナの言葉に頷く。
「そして、ゼノンは混沌、矛盾、憎悪等を司る剣霊です。このままでは、近く 、争いが起こるでしょう」
 ミーナはゾクリとした。
 この怪しい男は、何という仕事を持ってきたのであろう。
 個人の依頼で済む話ではない。
 下手をすれば国家──否、世界中を巻き込む程の危険を、孕んでいる。
「……あんた、本気?」
 まるで気の狂った人間を相手するかの如く、ミーナは問うた。
 冷や汗が、背筋を流れ落ちる。
 男は、問いに答えず、ただ、微笑を返した。
「詳しい事はこちらに書いてあります」
 黒い手袋が、先程取り出した紙束を示す。
 次いで、勾邑の視線が、テーブルの足元に向いた。
 つられて、ミーナもそちらの視線を走らせる。
 と。
 そこには、床に胡座をかいて、酒を飲んでいるバードの姿があった。
 吃驚仰天。
「──なぁっ!? ちょ、ちょっとバード! アンタそれどこからだしたのよ !?」
「ぁん?」
 上機嫌で一升瓶を呷っていたバードは、ミーナの怒声に振り向き、にまぁ、 と破顔。
「さっきの酒場からくすねてきた」
 さらりと答えた。
「ばかぁぁぁぁぁっ! アンタさっきの話聞いてたのっ!?」
「いんやぁ、全っ然っ」
 歌うような調子で言いつつ、バードはゆらりと立ち上がった。
 ちょうど、左半身を二人に曝す形になる。
 バードはジャケットのポケットに左手を突っ込み、右手の人差し指で勾邑を 指し──
「──っていうか、何でそいつが、二百年前からつい最近まで封印されていた 指輪の写真を持ってんのか。俺はそれが気になるぜ?」
「……え?」
 言われて、ミーナは初めて気付いた。
 そうだ。男は『指輪はつい最近まで封印されていた』と言った。
 しかし、テーブルの上の写真は、二百年前ではなく、つい最近撮った物にし か見えない。
 そして、『封印を解かれた指輪を探して欲しい』とも言った。
 ミーナの脳裏に、三つの疑問が生じる。
 何故、彼が、指輪を欲する?
 何故、彼が、封印が解けた事を知っている?
 何故、彼が、探しているはずの指輪の写真を持っている?
 その答えは、たった一つだ。
「そいつが封印解いたんじゃねーのか?」
「!」
 弾かれたようにミーナは振り返り、勾邑を見た。
 黒衣の男は、唇の端を軽く吊り上げ、笑っていた。
 まるで、今頃気付いたのか、と言外に言っているような、嘲りを含んだ笑み である。
 バードの瞳から、勾邑に向けて、あからさまな敵意の込められた視線が放た れる。
 鋼鉄の針の如き視線が、黒衣の男に突き刺さる。
 強い視線に射られて、しかし平然と、勾邑は椅子から立ち上がった。
 言葉を紡ぐ。
「ご名答。流石ですね」
「誉めても何も出ねーぜ」
 バードの言葉を、勾邑は無視。
 コートのポケットに右手を入れ、左手でサングラスの中央を軽く持ち上げる 。
 そして。
「報酬は世界中の人間の命です」
 不敵な笑みと共に、剣呑な言葉を吐いた。
「…………」
 バードもミーナも、何も言わない。
 青年は敵意を持って、少女は疑惑を抱えて、男を睨み付けている。
 だが、勾邑は怯まず、言葉を続ける。
「受けるか受けないかは、そちらの自由にしてください。何せ、報酬の額はあ なた方次第なのですから」
 一息。
 そして、いっそ爽やかとも言える笑顔を浮かべ、こう言った。
「成果を期待していますよ。バード=ミューゼルさん」
 刹那。
 男の姿が、忽然と消えた。
 唐突に、である。
 予告もなしに、男の姿はその場から消え失せたのだ。
 出し抜けに、場に静寂が訪れる。
「──え?」
 突然生まれた、時が凍り付いたような静寂の中、ミーナは思わず間抜けな声 をこぼした。
「…………」
 バードは油断なく、店内を見回した。
 見えるのは、白い壁と、こちらの様子を恐々と窺うウェイターとウェイトレ ス。
 勾邑の姿はない。
 男は、その気配すら、消えていた。
「……ちっ」
 舌打ち1つ。
 そして、吐息。
 一拍おいて、バードは腰を屈め、先程自分と一緒に倒れた椅子を立ち上がら せた。
 店内に、物音がやけに大きく響く。
「──あっ」
 その音に我を取り戻したミーナは、慌ててキョロキョロと辺りを見回した。
 結果はバードと同じ。
 男の姿は見あたらない。
 溜息。
(何よ。結局、報酬無しじゃない……)
 あのような会話の後にこのような事を思うとは、大した少女である。
 心の中で愚痴を吐きつつ、ミーナはふと、バードに視線を向けた。
 彼は立てた椅子に座り、勾邑が置いていった紙束に目を落としている。
 そこに、少女はとんでもないものを見た。
「……!」
 目を見開き、絶句。
 何か言おうと口を開き──声が出なかった。
 ゆっくりと唇を閉じる。
 深呼吸。
「──ね、ねぇ……?」
 ミーナは意を決し、再び口を開いた。
「あん?」
 呼びかけに対して、バードは声だけを返す。
 その声に喜悦が含まれているような気がするのは、ミーナの聞き間違いだろ うか。
「……一つ、聞いていい?」
「なんだよ?」
 バードは紙束に視線を向けたまま、聞き返す。
 ミーナは息を吸い込み、知らずに溜まっていた唾を飲み込んだ。
 そして、
「何であんた、そんなに嬉しそうに笑ってんの?」
 
 
 狂った笑顔はピエロの顔に似ている。
 
「えっ……?」
 月光を、血色に染めて照り返すワインレッドの水晶。
 男はその光と共に、コンクリートを蹴って、夜空に跳躍した。
 高い。
 月の光が、歪な人型に切り取られる。
 即ち、左肘が球に、左腕が一本の棒になった人型に。
 ふわり、と男は、まるで蝶の如く、静かにアスファルトの上に降り立った。
 コマチの前方、二メートルの位置に。
 そして微笑み、
「──セキ=トリズムと言います」
 と名乗った。
 コマチはセキと名乗った男の威圧感に押され、後退る。
 すると、がしゃり、と背中に硬い感触。
 首を巡らして見ると、それは、パン屋の下ろしたシャッターだった。
「……!?」
 彼女は、唐突な自己紹介に反応できないでいた。
 何故なら。
 先程の男の言葉が、頭の中で反響していたから。
 男の金色の瞳が、妖しい光を放っていたから。
 恐怖に体が竦んで、指先一つ動かせなかったから。
 男──セキの左腕が振り上げられる。
 近くで見ると、彼の左腕は、紅玉から一メートル半ほどの六角棒が飛び出し ているという、異形だった。
「覚えて置いてください」
 柔和な笑み。
 否。それは狂気を孕んだ笑顔だ。
「貴方の人生に終止符を打つ名前です」
 言うなり、セキは六角棒と化した左腕を振り下ろした。
 彼我の距離は二メートル。棒の長さは一メートル半程。
 届くはずはない。
 しかし。
 ぎん、と大気が啼いた。
 同時、嫌な予感がコマチの背筋を駆け抜けた。
「ひっ──!?」
 コマチが動いたのは、殆ど反射神経の働きによってだ。
 まるで痙攣するかの如く体が動き、地面を蹴って左に跳んでいたのである。
 背中のすぐ側で、風の渦巻く気配がした。
 次いで、砂山に砲弾をぶち込んだような、くぐもった音。
「きゃっ!」
 そしてコマチはアスファルトの上に滑った。
 肘や膝を擦りむいたが、気にしている余裕はない。慌てて起きあがり、振り 返る。
 目を見開いた。
 風景が、変わっていた。
 先程、コマチが背を付けていたシャッターも、それを抱いていた建物も、ど こにも見あたらない。
 代わりに、それらがあった場所にあるのは、こんもりと積もった、白砂の山 。 
 もうもうと、薄く粉塵が舞っている。
「……!?」
 コマチは、直感で何が起こったかを理解した。
 即ち。
 建物全体が塵と化した──と。
「な、な、な……!?」
 信じられない現象を目の当たりにして、コマチの思考は上手く回転しない。
「おやおや。いけませんよ。避けては」
 理不尽なことを言いつつ、セキは視線をコマチに向けた。
 金色の光が、コマチに突き刺さる。
 右肘の宝玉が放つ光に、セキの顔が照らされている。
 彼は変わらず、不気味な笑みを浮かべていた。
 ピエロみたいだな、とコマチは場違いな感想を抱く。
 一瞬、脳裏に、塵と化す自分の姿が浮かび上がった。
「──きゃあぁあぁあぁあぁあぁっっ!!」
 絶叫。
 少女は座り込んだまま、ジタバタと反転。セキに背を向け、立ち上がりざま に駆け出した。
 逃げる。
 鋭く硬い音をアスファルトに立てて、コマチはセキから──狂気の辻斬り男 から逃げる。
 コマチは意外な俊足を見せた。
 セキが立ち止まっているとはいえ、素晴らしい速度で彼我の距離を広げてい く。
 しかも重い旅行バックを片手に持って。
「おやおや」
 金色の視線が彼女の背中を追う。
「逃がしませんよ」
 そして、その下にある口が、裂けたのかと思うほどに開き、笑みを浮かべた 。
 疾風。
 ふっ、とスーツ姿が闇に消えた。
 カツッ、と鋭く硬く高い音が、夜気を叩く。
 音は、余韻を残しながら、ゆっくりと消えた。
 そして通りは静寂に満たされた。
 
「はぁっ……はっ……はぁっ……!」
 一キロ程、アスファルトの上を全力で駆けた。走りながらも、首を巡らして 背後を見る。
 誰もいない。
 だが、コマチの足は止まらなかった。不安に背中を押されるようにして、少 女は全力疾走。
「はっ……はっ……」
 三十秒ほど疾走しただろうか。
 やがて、コマチの走る速度が緩まってきた。
 走行が歩行になる。
 ややあって、道端に立つ、明るい街灯の下で足を止める。
 風景は先程の場所と比べて、ほとんど変化が無い。微妙な変化はあるが、所 詮同じ通り。似たようなものだ。
「はぁっ……」
 両膝の上に両手をのせて、腰を落とす。肩で荒い呼吸を繰り返し、動悸を整 えさせた。
「……はぁ……はぁ……一体、なん」
 なの、と言う前に、彼女は凍り付いた。
 下げた視線の先、街灯に照らされたアスファルトの上に、黒い革靴がある。
「…………」
 絶句。
 真っ白な思考の中、コマチはゆっくりと首を擡げ、視線を上げた。
 すると、白いスーツが見えた。先程は暗かったせいか、スーツの色までは確 認できなかった。
 視線が重力に従って下がるものならば、どれほど良かった事か。
 更に視線は上昇する。
 スーツに包まれている、赤いカッターシャツが見えた。
 まだ、少女の思考回路は動かない。真っ白だ。
 好奇心でも、義務感でもなく、真っ白な意識の中、ただ確認するためだけに 、彼女は視線を上げていく。
 オールバックの、ピエロの顔が見えた。金色の瞳が、コマチを見ている。
「……!?」
 驚愕。
 一体、何時の間に追い越されたのだろうか?
 コマチの背後ではなく、前方にセキはいた。
「いけませんねぇ。逃げないで下さいよ」
「そ、そんな……どうし……」
 カチカチと歯の根の合わない声で、コマチはセキに問う。
 しかし、彼は答えず、ニィ、と笑う。
 そして、理不尽な言葉を放った。
「早く死んで下さい」
 
 
 碧落の空に浮かぶは、天を翔ける勇士。
 
 クリスは壁に刻まれた、天馬騎士団を象徴する、意匠化された紋章をじっと 眺めていた。
 ここはデイリート・天馬騎士団・兵舎。
 コンクリートで建造された、三階建ての建物である。
 その一階。
 天馬を待機させておく納屋に、彼はいた。
 天馬の動きを遮る木材と、下に敷かれた藁以外、全てコンクリートのここは 、騎士団が出陣する場所である。
 背後の、天馬の世話に走り回る同僚たちを尻目に、クリスはただ、天馬を駆 る勇姿を見つめている。
 現在、午前三時十八分。
 深夜である。

「わかった」
 静かに、顎を引くようにして、ラウルは頷いた。
 場所はクリスの自室。時は同じく夜である。
 柔らかい月光が、悩むクリスの背を照らしている。
「出陣は四時。もし来るなら、それまでに」
 ラウルは、強い眼差しをクリスに向けた。
 普段のクリスならば、ここで『わかりました』と、答えただろう。
 しかし。
「……了解」
 と、彼は答えた。
 何故なら、この時、彼らは『団長とその部下』であったからだ。
 友情の絆は、無い。
 ラウルは団長としての言葉を伝え、クリスは部下としてそれに答えを返した 。
 今、ラウルを友人と認めてしまうと、泣き出してしまいそうだったからだ。
 何故かは、分からない。
 ラウルが、己の弱い部分を知っている、ただ一人の人間だからだろうか。
 今、彼と『親友』になれば、自分は、己の弱さを吐露してしまうかもしれな い。
 そんな予感があった。
 ──確かに、それも悪くない。
 ラウルは、この世でただ一人、クリスの弱さを受け止めてくれる人物なのだ から。
 だが、今はどうしても、そうする気にはなれなかった。
 見せたくない。
 自分の弱さを、誰にも見られたくない。
 そんな気持ちが、クリスの何処かにあった。
「…………」
 クリスの返答に、ラウルは無言で、敬礼。
 少年もそれに応えるため、窓枠から腰を上げ、直立し、敬礼。
 そしてラウルは何も言わず、部屋から出ていった。
 軽い音を立てて、ドアが閉まる。
 力強い足音が、壁の向こうから聞こえ、遠ざかっていった。
 足音がやけに大きかったのは、彼なりの心遣いだろう。
 確かに部屋から離れていくことを、足音で主張する親友に、クリスは密かに 感謝した。
 足音が遠ざかり、消えた頃。ふと、クリスは首を巡らせ、肩越しに月を見上 げる。
 吐息。
 月は、夜空に浮かび、煌々と輝いている。
 儚い光だ、とクリスは思う。
 夜が明ければ、いや、雲に遮られるだけで、その光は何処にも届かない。
 ともすれば、誰にも気付かれない、そんな光。
 それでも、月は輝いている。優しく、光を地上に注いでいる。
「…………」
 ふと、思った。
 月は何故あの場所にいるのか。
 そう考えてから、しかし、クリスは苦笑した。
 月だからに決まっている。
 月だから、そこにあり、光を放っているのである。
 ならば自分は?
「!」
 思い、気が付いた。
 思わず腰を上げ、体を月に向ける。
 月は、月故に、そこにある。
 ならば、自分は一体何者であり、何処にいるのか。
 思考する。
 答えはすぐに出た。
「ぼくは……」
 呟く。
「ぼくは……騎士」
 誇り高き、天馬を駆る騎士。
 それが自分だ。
「…………」
 先程の、ラウルの問いが、脳裏によぎる。
 戦争に参加するか、否か。
 微笑。
 クリスは月に向かって、微笑みを浮かべる。
 答えは、出た。
 騎士は、使命を果たさなければならない。
 
 クリスは、いつの間にか閉じていた瞼を、ゆっくりと開いた。
 再び、天馬騎士団の紋章が目に入る。
 それを見つめる瞳は、静穏だ。
 刹那。
 空気が、変わった。
 キン、と鋼線の如く、張り詰める。
 瞬間、クリスの背後、天馬の世話に右へ左へ動いていた同僚達が、ピタリ、 と動きを止めた。
 皆一斉に、クリスの背中を凝視する。
 彼を取り巻く空気が、急激に変化したのを、感じとったのだ。
 殺到する視線の中、クリスは動き出した。
 歩く。
 触れれば切れる程の気配を纏い、彼は己が天馬の納屋へ向かう。
 その背中を、同僚の天馬騎士達は、ただただ呆然と見送った。
「フィアー」
 クリスは静かな、だが力強い声を放った。それに対し、小さな嘶きが返って くる。
 嘶いたのは、藁の上に四本の足で佇む、白き天馬。
 輝いているかの如き毛並みを除けば、一見、何の変哲もない天馬である。
 だが、よく見ると、その天馬には、他と違う点があった。
 翼が、四枚あるのだ。
 通常、種類によって翼の色や形は様々だが、天馬の翼は、二枚である。
 それが常識である。
 だが、クリスの愛馬・フィアーには翼が四枚あった。
 クリスは硬い足音を立てて、フィアーに近付く。
 足甲に包まれた足が、藁を踏みしめる。
 フィアーが嘶いた。まるで、早く乗れ、と言わんばかりに。
 クリスは微笑。宥めるように、輝かんばかりの白毛を撫でる。
 そして、フィアーの傍らに置いていた鎧を持ち上げた。
 左の肩甲のない、水色の鎧である。
 それを、ゆっくりと身に着けた。
 そして、装着が終了すると、右手を持ち上げ、左肩に触れる。
「…………」
 無言。
 彼の瞳に、変化はない。
 感情は揺るがない。
 吐息。
 クリスはさらに手を伸ばし、鎧の側に置いてあった兜を、脇の下に抱えた。
 天馬の頭部を模した、これまた水色の兜である。ちょうど、天馬の顎の辺り から、装着者の顔が除くデザインとなっている。
 と、そこに、声がかかった。
「クリス」
 振り向くと、そこにはラウルがいた。
 驚きと喜びの混じった顔で、こちらを見ている。
 間抜けとも思える表情の親友に、クリスは苦笑。
 そして、決意の篭った声で言い放った。
「行きますよ。騎士としての使命を果たしに」
 
 
 その森は、二つの光に焼かれた。
 
 エメラルドの虎が、月光を跳ね返し、飛んだ。
 真紅のドレスに身を包んだ女──邪神酒は、チャスターから飛んだ光の粒を 、受け取った。
 そして、光の粒を掴んだ左手を一瞥し、
「どういうつもりかしら?」
「この指輪は受け取れない。ただ、それだけだ」
 問うた途端、答えが返ってきた。
 瞬間、邪神酒は眉根を寄せた。
 チャスターは無意識に、拳を固めた。
 間違っていない。
 そう。これで正しかったのだ。
 自分は、王のため、国のために生きる。
 それ以外は、誇りが許さない。
 チャスター=クレイジーと言う男は、命よりも誇りを優先するのだ。
 邪神酒が、短く呟く。
「──そう」
 沈黙。
 夜の森は、静寂に包まれる。
 邪神酒の冷たい視線と、チャスターの挑むような視線が、音を立ててぶつか り合う。
「──よく、わかったわ」
 突然の声は、チャスターの背後から。
「!?」
 振り向いた瞬間、眩い光が少年の双眸を貫いた。
 一瞬、真昼になったのかと思った。
 十メートルほどの高みに、邪神酒が浮いている。
 そして、そのさらに上空に、冗談かと思うほど巨大な光球が浮いていた。
 ざっとみて、直径は百メートルを超えている。
 白熱する光球は、振り上げた邪神酒の右掌から、十センチほど離れているだ け。
 女は、たった一瞬で、この巨大な光球を生み出したというのか。
 刹那。
 よく通る、冷たい声がチャスターの耳朶を打った。
「さようなら」
 まるでボールを放り投げるように、邪神酒は腕を振り下ろした。
 大気を焦がす光球が、落ちる。
 チャスターめがげて。
 
 光の差し込まぬ、暗い森。
 一本の大木の上で、一人の少年と、一人の青年が、向かい合っている。
 その一方、闇の中ですら、うっすらと浮かび上がる銀髪を持つ青年が、言葉 を放った。
「……あなたには、見えますか? この深い闇の中──美しく、精一杯燃える 多くの生命の色彩が……」
 銀髪の青年──ラミリエルの言葉に、閲祇は訝しげな表情を浮かべた。
 闇夜に輝く紅玉の如き瞳を歪め、ラミリエルを一瞥。
 わざとらしく肩を竦め、ため息を吐いた。
 二者択一の質問に対して、このような言葉を吐いたのだから、当然だろう。
 やおら、閲祇はラミリエルを睨み付け、薄い嘲笑を浮かべた。
「どうやら僕の言葉が理解できなかったみたいだね」
 そして、背中を震わせ、押し殺した声で笑う。
 しかし、ラミリエルは反応しない。
 真摯な瞳で閲祇を見据えている。
「質問に答えて貰えますか?」
「──ふざけるなっ!」
 怒号が走った。
 声の発生源は、もちろん閲祇である。
 瞬間。
 空中に浮かんでいる彼の右手に、一枚の紙切れが現れた。
 閲祇はそれをぐしゃりと握りつぶし、ラミリエルを怒りの形相で睨み付ける 。
「……よく、わかったよ。君は僕とまともに話すつもりなんか無いんだね」
 符を握りしめ、怒りに肩を震わせる閲祇に、ラミリエルは否定の言葉を紡ご うとした。
「別段、そのようなつもりは」
「黙れっ!」
 しかし、怒声がそれを遮断する。
 刹那。
 閲祇の全身が光を放った。
「勾邑には『お前が自殺した』って報告してやるっ!」
 右手を振りかぶったと思った、次の瞬間。彼はその手に持った符を、下方に 向けて投げた。
 光を纏う紙切れが、落ちるより早く地上に向かう。
 そして、炸裂。
 途端、轟音と共に、大地から光が迸った。
 幅百メートルを超える光の束が、天に向かい、大気を駆け抜ける。
 その軌道にいるのは、銀髪の青年だ。
 
 森に二本の光柱が立った。
 
 森は一瞬にして荒野と化した。
 樹木は消えた。残っているのは、黒い消し炭のみ。
「へぇ……」
 赤髪の女は、感嘆の、しかしひどく退屈そうな声を挙げた。
 彼女の眼下にあるのは、黒墨に染まった大地と、広げた両掌を天に向けたチ ャスター。
 全身に黄玉色の光を纏った少年だ。
「月と力の幻獣王ね」
 邪神酒の言葉を、チャスターは無視。
 頷きもしない。
 ただ、上空の邪神酒を睨み付けるのみ。
「…………」
 獣人には独特の戦闘型がある。
 ソレは即ち。
 『光と熱の無限王』
 『風と獣の豪裂王』
 『光と闇の聖魔王』
 そして、先程、邪神酒が口にした、『月と力の幻獣王』の四つの型である。
 『月と力の幻獣王』とは、格闘。
 拳闘士の事である。
 刹那、チャスターが動いた。
 跳躍。
 全身に光を纏ったまま、邪神酒のいる高みまで、一瞬にして昇り詰める。
「オオッ!」
 裂帛の気合いと共に繰り出されたのは、大木をも一撃でへし折る回し蹴りだ 。
 しかし、
「遅いわよ、坊や」
 声はまたも、耳のすぐ後ろで聞こえた。
 黄玉色の軌跡を残し、筋肉の束が、空を切る。
 チャスターが驚愕する暇があればこそ。
「がっ──!?」
 彼は背中に灼熱の衝撃を受け、前方に吹き飛んだ。
 そして、再び衝撃。
 地上十数メートルの位置から、下に向かって叩き落とされた。
 何処を殴られたのかすら、わからなかった。
 少年の体は焦げた大地に激突。盛大に黒い煙を噴き上げた。
「くっ──!」
 全身を駆けめぐる痛覚を無視し、チャスターは素早く身を起こす。
 空を仰ぎ、邪神酒の姿を求めた。
 しかし、見えたのは牙の如き三日月のみ。
 敵の姿は見えない。
「こっちよ」
 声は真下から。
 視線を下げた途端──足下の大地が、火を噴いた。
「!?」
 否、火ではない。
 赤く輝く溶岩だ。
 熱い土壌が、チャスターに襲いかかる。
「──オオオオオオオッ!」
 我知らず、チャスターは叫んでいた。
 ぶわり、と彼の全身を覆う黄玉色の光が、輝きを増した。
 膨張する。
 そして、光が渦を巻く。
 巨大化、そして渦となって回転する黄玉色の光が、迫る溶岩を巻き、吹き飛 ばした。
「──はぁっ……はぁっ……!」
 チャスターは全身から力が抜けるのを感じた。
 まるきり、相手の動きが捉えられない。
 敵がわからない。
 わからない敵に勝てるわけがない。
 チャスターははっきりと、己の敗北を悟った。
「…………」
 だが、何の感情も浮かんでこない。
 否、浮かんでこないのではなく、押さえつけている。
 今は戦闘中。余計な感情はいらない。
 それが『月と力の幻獣王』の戦い方だ。
 必要な事は、分析。
 生きるための手段を模索するだけにしか、脳は使わない。
 そして、彼は今の状況を材料に、分析を開始した。
 答えはすぐに出た。
 すぐさま、彼は行動を起こす。
 即ち──逃亡。
 逃げる。
 チャスターは森に体を向け、焼け焦げた大地を蹴り、走り出した。
 邪神酒の居場所は、未だ分からない。
 だが、彼が走り出した方向には、森がある。
 その先には、街がある。
 彼は己が所属する『黒虎隊』に助けを求めようとしていた。
 走る。
 数歩で焼けこげた大地を超え、森の中へ。
 駆ける。
 樹木という障害物が多い森の中を、それでも速度を緩めることなく、チャス ターは駆け抜けていく。
「……なるほど、ね」
 邪神酒は、黒く染まった大地から十数メートル離れた空間で、そう呟いた。
 言葉通り、なるほど、と納得する。
 流石は『彼』が見込んだ人材だ。
 冷静かつ、優秀な判断力を持っている。
 勝てない相手から逃げる。
 そんな当たり前のことを、誇りや責任を理由に、出来ない者の、なんと多い ことか。
 しかし、彼は最初に見せた誇りすら捨て、彼女の前から逃げ出した。
 一見、情けなく見えるが、しかし素晴らしい。
 最後には必ず勝つ人材である。
 不意に、邪神酒は左手に握った、指輪へと視線を落とした。
 凝視する。
「……参ったわね」
 苦笑。
「これを渡せ、って言われてるってのに」
 辟易した口調。
 だが、彼女の笑みは崩れなかった。
 
 
 轟音と共に、光が大気を駆け抜けた。
 焼け焦げた空気を残し、光は余韻を残しつつ、ゆっくりと消える。
 二秒ほど、その場は静寂に満たされた。
 樹木が焼き払われた、黒い大地。
 そこに、再び音が現れた。
「──ありがとうございます」
 それは、礼の言葉であった。
 その言葉を受けた人物──閲祇は、嫌悪の表情を、更に深くした。
「……余裕だね。そんな状態で、よくそんな口が利けるもんだよ」
 赤い瞳の少年が視線を向けているのは、下方。
 地上である。
 そこには、左腕を黒炭と化した銀髪の青年がいる。
 彼の左腕は、完全に火が通っていた。二度と、使い物にはならないだろう。
 しかし、ラミリエルはそれでも姿勢を正し、直立していた。
 彼は微笑を浮かべ、
「こんなに驚いたのは久しぶりですよ」
 と爽やかに言った。
「本当に、ありがとうございます」
 この言葉が、閲祇の理性の糸を、完膚無きまでに切り離した。
 閲祇は赤い瞳を、くわっ、と開き、
「──消えてなくなれ」
 しかし、誰にも聞こえない声でそう言った。
 前兆も前振りもなしに、閲祇の姿が、ラミリエルの視界から消える。
 否、少年の姿が消えたのではなく、ラミリエルの視線が遮られたのだ。
 少年を取り囲む、数十枚の符に。
 次いで、澄んだ声が響いた。
「爆炎龍の息吹」
 同時、符が炎と化し、膨張した。
 数十の巨大な火球が、空中に発生する。
 そして、降り注ぐ。
 地上のラミリエルめがけて。
 大人一人を飲み込むほど巨大な火球が、大気を焦がし、ラミリエルに迫る。
 しかし、ラミリエルはそれでも、微笑を崩さない。
「──静かな悪を司り黒よ」
 ラミリエルはぽつりと呟いた。
 その直後、彼の銀髪と蒼天色の瞳が、光を吸う漆黒へと変化した。
 そして、額が光を放つ。
 極弱い、それこそ風に吹かれてしまえば消えてしまうような、儚い光だ。
 そんな光が、彼の額に、ある紋様を描く。
 太陽を模した、意匠的な紋様だ。
 詠う。
「我が意に応えよ」
 その言葉に、空間が悲鳴を上げた。
 まるで怪鳥が嘶くような音で、空間が振動する。
 それは一秒ほど続き、そして、不意に終わった。
 怪鳥音は消え、大気は落ち着き、そして火球も消えたのである。
 静寂が、場に再来する。
 閲祇は舌打ち。
 ──夜に喰わせたのか。
 忌々しげに、眼下のラミリエルを睨み付ける。
 今先程、彼の目の前で顕現した現象は、俗称『カラー』という。
 正式な名前は『色彩魔法』──色を指揮する式。
 つまり、色より力を得、それを行使する術である。
 閲祇はこの力を得るため、勾邑の命に従い、ラミリエルの元へやった来たの だ。
 だが、こんなモノは児戯だ、と閲祇は思う。
 ──たかだか、色を操るだけじゃないか。光がないと、何もできないくせに 。
 閲祇は口を開こうとし、しかし先に言葉を放ったのは、ラミリエルの方だっ た。
「──しかし、貴方は自然を傷つけました」
 抑揚のない口調。
 初めて、ラミリエルの顔から、微笑が消えた。
 真剣。
「許しません」
 動く右手を眼前に掲げ、額の紋様が光を放つ。
 長い指が、印を描いた。
 その毛髪と光彩が、鈍い光沢を持つ鉄色へと変化する。
 詠唱。
「黄金律を纏いし夫子を司り黄よ」
 視線はまっすぐ斜め上。
 両手に二枚の符を召還した閲祇へと、注ぐ。
「鋼の力持て我が意に沿う天使を喚びたまえ」
 その言葉の先で、紅眼の少年は、掌を開いた。
「いいから死んじゃえ、バカ」
 彼の手から離れた二枚の符が、風を切って飛んだ。
 そして、符は空中でその身を変化させる。
 鳥へ。片や金色、片や銀色の鳥へと。
 金と銀の二匹の鳥は、併走するように空を翔る。
 そして、螺旋を描く。
 金と銀の二重螺旋を描いて、二匹の鳥は、すさまじい速度でラミリエルに迫 る。
 一方、ラミリエルの手前の地面が、ぼこり、と盛り上がった。
 轟音。
 大量の土砂を吹き上げて姿を現したのは──異形だ。
 一枚の全長が三メートルを越す、不思議の光沢を持つ鋼鉄の翼が三対六枚。
 巨大な鉄塊を思わる、完全球体の頭部。
 全てが鏡の如く輝く表皮。
 そして、砂鉄の衣に覆われた、巨大な男性の体。
 それは、六枚の鋼鉄の翼を持ち、鉄球の如き頭の、巨大な天使であった。
 異形の天使は、ゆっくりゆっくり、轟音と共に大地の中から姿を現す。
 腰から上までを露わにした巨大な天使は、無造作に、右掌を、迫り来る金と 銀の螺旋に突き出した。
 巨大な鋼鉄の掌と、金と銀の螺旋とが、激突した。
 快音。
 大気が、ガラスを砕いたような悲鳴を上げた。
 膨大な量の光が、辺りに充満する。
 
 その時、チャスターは森の果てに強い光を見た。
(何だ……?)
 疑問に思いつつ、彼の足は止まらない。
 すぐ後ろに邪神酒がいるのではないか。そんな不安に背を押されるようにし て、疾駆。
 立ち並ぶ樹木の間を縫うように、素晴らしい速度で駆け抜けていく。
 光りに向かって。
 やがて、森は終わりを見せた。
 最後の樹木の間を、抜ける。
 そして、彼は見た。
 先程、己が目の前にも現れた、焼け焦げた大地を。
 そして、その場にいる、二人の人物を。
 巨大なる異形の天使を。
「…………」
 唖然。
 思わず足を止めた。
 言葉もない。
 呆然と、鉄色の髪の青年と、異形の天使と、空中の少年を、順に眺める。
 不意に、鉄色の髪の青年──ラミリエルが、こちらに気づいた。
 髪と同じく、鉄色の瞳が、呆然とする獣人の少年を捉える。
「鬼ごっこは終わりかしら?」
 出し抜けに声が聞こえた。
 女の声。
 チャスターの、すぐ後ろから。
「!?」
「──邪神酒?」
 チャスターが驚愕すると同時、空中の少年──閲祇がとぼけた声をこぼした 。
 やはり、彼の視線は、チャスターの背後に向いている。
「あらぁ、閲祇。貴方もお仕事かしら?」
「ああ。そこのバカを、ちょっとね」
 ラミリエルを一瞥し、右眉と、唇の左端をつり上げ、閲祇は苦笑。
 チャスターには見えないが、彼の背後で、邪神酒も似たような表情をしてい ることだろう。
 ──どうする?
 チャスターは考えた。
 会話の内容からして、あの赤眼の少年が、邪神酒の仲間であることは、間違 いない。
 外見はただの幼児。だが、彼が外見通りの幼児だとは思えなかった。
 足下の焼け焦げた大地が、外見を信じることを、拒否させる。
 となると、チャスターの退路は断たれたことになる。
「…………」
 だが、一つ、活路はあった。
 あの、鉄色の髪の青年だ。
 閲祇の言葉から察するに、彼らの仲間ではなかろう。
 敵の敵は味方、と言う言葉がある。
 ──どうする?
 雲が月を隠し、辺りは宵闇に包まれた。
 
 
 月の光は刃の如く。
 
 赤いキャップをかぶった少年の右腕が、虹色の光を放つ。
 その瞬間、セラフィーは本能的に危険を察知。
 動く。
 素早く印を組み、己の魔力を壁に変える。同時、彼女に前に青銀色に輝く魔 力の壁が出現した。
 刹那。
 魔力の壁の向こうで、少年の右腕の肘から先が、ふっ、と消え失せた。
「!?」
 次いで、虹色の光が凝縮し、光り輝く結晶と化す。
 現れたのは、肘を覆い、虹色に輝く多面体の水晶だ。
 異常はまだ終わらない。
 次に、月から降り注ぐ光が、少年の右腕のあった空間に集まっていく。
 まるで帯の如く柔らかな光が、天空から舞い降り、彼の右腕があった場所─ ─虹色の水晶の先へ、収束していくのだ。
 見えない芯に、光が巻き付くかの如く。
 そうしてできあがったのは、月色の、一本の剣。
 月光の刃である。
「ワクワクしない?」
 唐突に、少年は言い放った。
 セラフィーは応えない。応えられない。
 何故なら、その時既に、少年は彼女の懐に踏み込んでいたのだから。
「なっ──!?」
「ドキドキしようよ」
 セラフィーの目の前に顔を近づけ、少年はにやりと笑った。
 一閃。
 咄嗟に後ろへ飛んだセラフィーの目の前を、下から上に、光の線が走った。
 魔力の壁は、まるで紙のように切り裂かれた。
 マンションの中へ逃げたセラフィーは、床に足を着き──ぬるり、としたモ ノに足を滑らせた。
 転ける。
「──っ!」
 強く腰を打った。鈍痛が、腰から脳天に、ゆっくり上昇する。
 腰をさすろうとして──セラフィーの目は、見てはいけないモノを見てしま った。
 マンションの入り口をくぐり、二、三歩進んだその場所から──今のセラフ ィーからすれば左だが──右方向。
 開きっぱなしになった、鉄の扉の向こうに──死体。
 首と胴が別れた、中年男の死体である。
「!?」
 しかも、よく見ると、それはこのマンションの管理人の死体であった。
 彼女が足を滑らせたのは、彼の血液だったのだ。
「君で──」
 衝撃で真っ白になりかけたセラフィーの思考を、少年の声が引き留めた。
 慌てて視線を走らせ、少年の顔を凝視。
 彼は酷薄な笑みを浮かべたまま、言葉を続ける。
「──二六八人目だよ」
 そう言って、笑みを濃くした。
 とても楽しそうに。
 瞬間、言いしれぬ衝動に、セラフィーは動いていた。
 蹴るように床から立ち上がり、腕を振る。
 印を組む。
 青銀色の魔力を灯した指先が描くのは、光の紋章。
 そして、早口に叫ぶ。
「異界の光を呼び込め天界の騎士っ」
 言い終えた同時、紋章が前方に走った。
 直径二メートル程の太さの、円筒状の光線が、飛ぶ。
 文字通り、光の速さで。
 『天界の騎士槍』──大人一人を消滅させることの出来る、短縮詠唱魔法の 一つである。ちなみに属性は『光炎』。
 だが、信じがたい事が起こった。
 天界の騎士が放つ光の槍が、光の速さでねじ曲がったのである。
 進路を変えた光線は、少年の右腕へ。
 月の光と同じように、刃に変換されてしまった。
「──!?」
 これで何度目の驚愕だろう。思考の隅で、セラフィーはそんなことを思った 。
 耳から『月光』を零しつつ、少年は右腕を持ち上げる。
 光の刃を見せつけるように掲げ、
「僕の名前は久遠。久遠=クラリアス」
 ぶん、と腕を右に払い、風を切る。
「地獄の神様に教えて上げてよ」
(──ね、ねえねえっ!? どうなってるのアレっ!?)
(……わからないわ)
(ま、魔法が効かないよっ!? ど、どーすんのっ!?)
(少し黙りなさい。良い案が浮かばないわ)
 セラフィーは目まぐるしく思考を回転させる。
 だが、何も浮かんでこない。
 やばい、と思った。
 焦る。
 そして、焦燥感は『逃亡』に直結した。
 ばっ、と久遠と名乗った少年に背を向け、
「速っ」
 呪を紡いだ。
 魔力が脚力を強化。
 陸上選手もかくやという速度で、駆け出す。
 廊下を渡り、エレベーターの前を通り抜け、非常口へ。
 スカートの裾が翻るのも気にせず、跳び蹴り。
 右足で緑色の鉄の扉を蹴り開けたセラフィーは、左足をコンクリートの床に 着け、再び疾走。
 非常口をくぐった先にある、螺旋型の非常階段を、駆け上がる。
(ど、どうするのどうするのどうするのっ!?)
(…………)
(ね、ねえっ!?)
(……私に良い案があるわ。貴方は、魔力を集めておいて)
(えっ? あ、う、うん……、だ、大丈夫なの?)
(自分自身が信用できないなんて、バカな私ではないでしょう?)
 『彼女』は走りつつ、唇の端に、あるかないかの笑みを浮かべた。
 そして、コンクリートに足音を跳ねつつ、螺旋を描き、階段を昇っていった 。

「鬼ごっこはもう終わりかい?」
 赤いキャップの少年──久遠は、腰まで届く紺色の髪を躍らせ、屋上で立ち 止まった。
 彼の視線の先──屋上の縁には、背を向けたセラフィーがいる。
 セーラー服の少女は、危なげもなく、屋上の縁に立っていた。
「──二つだけ、聞くわ」
 背を向けたまま、少女は言葉を紡いだ。
「──何人殺したって?」
「君で二六八人目だよ」
 久遠のヘッドフォンは、音を生んではいなかった。
 黙っている。
 そして、月光の刃も、その姿を消していた。
「……私が何者か、知っている?」
「知らない。どうでもいい」
 再び、音が生まれた。
 発信源は、やはり久遠の両耳。
 音楽。
 まるで雷撃の如く、テンポの速い音楽だ。
「そう」
 セラフィーは、まるで背に時間を溜めるように、振り返った。
 彼女は、微笑んでいた。
 優しげに。
「──?」
 虚を突かれたのは、久遠の方であった。
 ──なんで笑ってる?
 軽い疑問。
 それを抱くと同時、彼の右腕──虹色の結晶体から、炎が溢れた。
 変化は一瞬。
 炎は蛇に様に伸び、長い棒の形を取った。
 即ち、炎の刃。
 ──ま、いいや。殺しちゃえ。
 一歩、踏み出した。
 そのまま、彼の足は進み、炎の刃が少女を焼く──はずだった。
「!?」
 しかし、そうはならなかった。
 足下のコンクリートが、光を放つ。
 光は走り、線となり、面となる。
 瞬時にして、彼の足下に、直径3メートル程の、光線で描かれた魔法陣が現 れた。
「知らないかもしれないけれど、このマンションの名前は──アウシュビッツ 」
 魔法陣から、空間を超えて、鋼糸が飛び出した。
 十数条のそれは、瞬く間に久遠の体に巻き付いた。
「私の家、兼マンション、兼研究所よ」
 そう言って、セラフィーはにやりと笑った。
 まるで先程、久遠が浮かべたモノを、真似するように。
「武闘警察と魔導治安維持隊──どちらがお好み?」
 
 
 ただ今、午前、四時四十四分。
 天馬騎士団は鏃型陣形を組み、、デイリートの白く染まりつつある空を進軍 していた。
 通常、大将たる軍団長は、陣の最後尾に位置するべきである。
 だが、天馬騎士団長・ラウル=アディスンは、そのようなことを嫌う武人で あった。
 彼は今、最後尾どころか、鏃の頂点──陣の最先端にその姿を置いていた。
 その右斜め後ろには、女だてらに副団長を務める、フェルミ=ノヴァリーバ ス。
 そして、左斜め後ろには、ラウルの親友であり、独立特殊部隊長を務める、 クリス=シンフォード。
 無言で進軍する、水色の海。
 一万の天馬騎士達。
 まさに、圧倒的。
「ラウル──団長」
 クリスは、ラウルに呼びかけ──やや迷い、形だけの言葉を付け加えた。他 の騎士達の目がある。迂闊に団長を呼び捨てるわけには行かない。
 先頭を切っていたラウルが、その声に振り向く。
 クリスは言葉を選び、
「行き先は?」
 ラウルも言葉を選んでいるのか、答えが来るまでしばし間があった。
「──獣人国家・咆吼。竜騎士団との共同戦線だ」
 似合わない高圧的な口調。クリスは、思わず浮かんできた苦笑をなんとか押 し殺し、
「了解」
 と応えた。
 それ以降、会話は途切れる。
 聞こえるのは、天馬が風を切る音のみ。
 その中でひときわ大きい音を創っているのは、やはりラウルの愛天馬だ。
 巨黒天馬イズルード。
 通常の三倍の巨躯を有す、漆黒の天馬である。
 まるで黒い山だ。
 風を切ると言うより、大気を圧するように、空を翔ている。
 だが、それでも、ラウルという男は小さく見えなかった。
 小さな人間の体がしかし、巨大な天馬と比べ見ても、見劣りしないのである 。
 不意に、クリスはその姿に見入ってしまった。
 そして、誇らしく思う。
 この男が、己の親友だと言うことを。
 何処か爽やかな気分が、クリスの胸中を満たす。
 だが、次の瞬間、それは無惨にも引き裂かれた。
「──!?」
 黒く長い物体が、一同の眼前を横切った。
 右から、左へ。
 通過は一瞬。黒い物体は瞬きする暇こそあれ、左へ流れていった。
 そして、遅れて衝撃と音がやってくる。
 大気が咆哮を上げ、烈風が吹く。
「──!」
 真正面から風に打たれたクリスの背後で、叫びと呻きの混じったような声が 、多数上がった。
 続きはまだあった。
 今度は、丸い影である。
 それが、先程の影と同じく、右から左へ、天馬騎士団の前を横切っていった 。
 ドクン、とクリスの心臓が跳ねた。
 彼は見た。
 丸い影の先端に、鋭い刃と──赤い宝玉を。
 ドクン、と心臓に合わせて、視界が揺れた。
 ぶれた視界の中を、黒い影──鷲の羽を丸めたような物体が、横切る。
 再び、衝撃と音。
 強い風斬り音が、クリスの全身を叩く。
 風が、長い瑠璃色の髪を躍らせ、視界を遮る。衝撃に、ビリビリと全身が震 えた。
 
 自分の肩に刃を埋めた狂人の笑顔が目の前に浮かんだ。
 
「!」
 クリスは後に語る。
 自分でも何故あんな事をしたのか、今でもよくわからない、と。
「──フィアー!」
 愛天馬の名を、叫ぶ。
 手綱を力強く引き、
「クリス!?」
 ラウルの声を無視し──
 彼は影を追いかける。
「独立特殊部隊長クリス=シンフォード独立権を行使しますっ!」
 必要最低限の言葉だけを空間に置いて、翔る。
 四枚の翼が、華麗な舞いを見せた。
 速い。
 騎士と天馬は、あっという間に空間を渡り、空に浮かぶ黒い点になった。
 ラウル及び天馬騎士団は、ただ呆然と、それを見送った。
 
 
 強い風の中。
 瞬きする間に後ろへと流れていく雲。
 藍色から白へ、移行しつつある空。
 少女と龍は、逃げていた。
「カネチュア様、このままでは追いつかれますっ」
「もっとスピード、出ないのっ!?」
「残念ながらこれが全力でございますっ」
 思慮深い龍は、決して声を荒らげはしなかったが、焦燥感は露わだった。
 背後に学生服の少年──理玖が迫ってきている。
 カネチュアは、焦る気持ちとドレスの裾を抑えつつ、背後を振り返る。
 妙な物体が見えた。
 それは、鷲の翼を丸め、先端に刃をつけたような物体である。
 それが、ハイドラゴンの飛翔速度より速く、追いかけてきているのである。
「…………」
 思考。
 ──このままじゃ、追いつかれる。
 それは確信であった。
 そう、スウェアが言ったのだ。カネチュアに、それを疑う理由はない。
 ──なら、どうしたらいいの?
 そんな事を思い、しかし、次の瞬間、苦笑する。
 ──答えなんて、決まってるよね。
「スウェア君」
 カネチュアは、うるさい風の中、しかしよく透る、優しげな声で呟いた。
「──カネチュア様?」
「止まって。迎え撃つよ」
 主の言葉に、龍は小さな驚愕を覚えた。
「──!? お待ちください、それは──」
 龍の忠言を、しかし彼女は遮断した。
 契約せし『名』を呼ぶ。
「スウェア」
 そして、命を下す。
「止まれ。迎え撃つぞ」
 龍と、龍使いの間に交わされし契約。
 それは、ひどく単純なモノだ。
『主の言葉に絶対服従』
 それだけである。
 だが、カネチュアは敢えて、常にその契約を利用しないでいた。
 言葉に魔力を乗せず、放っていたのである。
 だが、今だけは違った。
 契約を履行するため、彼女は紡ぐ。
 魔力ある言葉を。
「振り返れ」
 もはや、反論も何もなく、スウェアはその場で反転。
 迫り来る理玖を、迎え撃つ体勢をとる。
「──大丈夫」
 まだ、豆粒程の大きさにしか見えない、迫り来る丸い物体をひたと見据え、 カネチュアは、くす、と笑った。
 そして、
「ボクは君のマスターだ」
 自信を込めて、そう言った。
 迫る、もう一つの瑠璃色の影に、彼女はまだ気づかない。
 
 
 コマチは、肺腑の底から引き絞るように、悲鳴を上げた。
 まさに絹を裂くような声が、夜気に乗って、響きわたった。
 静寂。
 誰も、何も、反応しない。
 ただ、目の前の男が、片眉を軽く上げた以外は。
 助けは来ない。
 コマチは戦慄した。
(な、何でっ!? どうして誰も来ないのっ!?)
「助けを期待しても無駄ですよ」
「!?」
 まるでコマチの思考を看破した彼の如く、男──セキは言った。
 金色に輝く双眸が、弓なりに反る。
 ピエロの顔。
「それでは」
 一歩踏みだし、セキは左腕を振り上げる。
 コンクリートすら、塵に変える、左腕が。
「さような──」
「ストップ!」
 振り下ろされようとしていた六角棒が、しかし、その動きを止めた。
 突然の制止は、コマチの背後から。
 コマチは、まるで藁を掴む溺れる者のような気持ちで、頭を巡らした。
 街灯の下に、二人の人物。
 一人は、所々、赤色の混じった、銀髪の男だ。腰まで届くその髪を、無造作 に垂らしている。
 大柄な体を黒いタートルネックセーター、ブラックジーンズで包み、鮮血の 如き色のジャケットを羽織っていた。
 もう一人は、ブロンドの髪を短めに刈った、色白の少女だ。一メートルほど の身長からして、八歳ほどだろうか。
 白い無地のセーターと赤いフレアスカートを身に纏った、幼い少女である。
 声からして、先程の言葉は、少女のものだろう。両手を腰に当て、小さな胸 を張っている。
「……をい、ミーナ」
「何よ、バード」
「人助けが悪いとは言わんが……」
「じゃあいいじゃない。早く助けて上げなさいよ」
「やっぱりやるのは俺かい。……ったく、何で仕事探しに来てこうなるんだか ……」
 面倒くさそうな溜息を吐き、バードと呼ばれた男が、一歩、前に踏みだした 。
「おい、そこのにーちゃん。一つ聞いてもいいか?」
 セキはその言葉に、場違いに柔和な笑顔を浮かべ、
「何でしょう?」
 と聞き返した。
 左腕を降ろし、六角棒の先端がアスファルトに触れる。
 途端、触れた箇所が塵となって散った。
「──にーちゃん、悪いことやってるのか?」
「へっ?」
 何とも単刀直入な聞き方であった。
 コマチは思わず、聞かれた立場でもないのに、目を点にして、とぼけた声を 零してしまった。
 
 
「──冗談は、嫌いだな」
 鋼糸に拘束されながらも、久遠は余裕のある声でそう言った。
 セラフィーは怪訝な表情を浮かべ、
「冗談に聞こえたかしら」
「ああ、くだらない冗談さ。ボクを猫に突き出すだって?」
 猫とは、武闘警察や、魔導治安維持隊などの、公僕を示す単語だ。
 猫のようなしたたかさの給料泥棒、という由来である。
 久遠は、自信に満ちた声で、こう宣言した。
「できっこないね」
 そう言った姿が、音もなく、虹色の光を放った。
「!?」
 目を剥くセラフィーの目の前で、拠り所を失った鋼糸が、屋上に落ちる。
 ──すり抜けた!?
 そう思ったが、違う。
 伏した鋼糸はどれもこれも、先端に熔解した跡がある。
 焼き切られたのだ。
 だが、動揺は一瞬だけ。
 セラフィーはすぐさま、冷静さを取り戻す。
 視線の先で、虹色の輝く久遠が、走り出した。
 セラフィーめがけて。
「君はその前に死ぬんだから」
 まるで光を振り払うかのように、久遠は走る。少年が走る毎、付着した泥の ように、虹色の光が剥がれ消えていく。
 刹那で間合いを詰め、久遠は勝利を確信した。
 常人に、今の彼の動きが知覚できるはずがない。このまま腕を振るえば、彼 女はきっと自分でも気づかぬ内に、死んでしまうことだろう。
 そう思った。
 だが。
「──!」
 セラフィーの瞳が動いた。
 久遠が先程までいた位置──今の久遠の背後に向いていた視線が、下がった のだ。
 驚愕。
 澄んだ瞳が、彼を見る。
 冷たい視線に、射抜かれる。
「おやすみなさい」
 その声は、やたらとよく聞こえた。
 だが、久遠は、その言葉を理解する前に──
 全身を走るすさまじい衝撃に、意識を蹴り飛ばされた。
 
 刹那、光が瞬き、木材を幾重に叩き折るような音が夜に響き──
 どさり、とセラフィーの足下に、少年が倒れ伏した。
 その体の所々から煙を吐いているのは、焦げ跡。
 『雷壁方陣』──初歩的な、しかし威力の高い罠型魔法である。
 屋上を取り囲む雷壁を置き、そしてセラフィーは縁に立っていたのだ。
 最初の鋼糸拘束陣を退けた久遠は、それだけで油断し、まんまともう一つの 罠にかかったのである。
(すごいすごいすごい! うまくいっちゃったねっ!)
(男なんて所詮猿よ。当然の結果だわ)
(ね、それで──どうするのこの人っ?)
(……どうしたいのかしら?)
 セラフィーは自問する。
 しつつも、雷壁を消去。
 倒れた少年に歩み寄る。
 そして、腰をかがめ、無造作に彼が被っていた赤いキャップを外した。
 白目をむいた少年の横顔が、視界に飛び込む。
(……どうすればいいのかしら?)
(……わかんない)
 死体が詰まったコンクリートの箱の上で、少女は自問を続けるのであった。





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