剣霊戦記
律動
─Cadence─
冷たい風が夜の荒野を駆け抜ける。
どの方向を見ても何も見えない荒野に、黒のキャップを目深に被った、白のタンクトップと黒のハーフパンツ姿の少女がいた。
少女──悠木深水は一人、ぽつんと荒野に立ち尽くしていた。
黄砂を浮かせる風が吹き、黒いキャップからはみ出した金色の髪を揺らす。
夜空を写す透き通った碧眼は、じっと前を見据えていた。
右手を腰に当てている少女の左手は、一定の間隔で上下し、それに合わせて軽い金属の擦れ合うような音が鳴っている。
深水の手首が跳ねる度に腕輪が月光を照り返し、同時に小さな金属が数個、宙に浮いている。
指輪だ。
少女の掌に収まり、ちゃらりと音を立てるそれは計十二個の指輪。
一つ一つデザインの違う、美しい指輪である。
深水は、それを宙に投げては器用に掴み取るという動作を何度も繰り返す。
やおら、
「遅いよ勾邑」
と、言い放った。
答える声はない。
聞こえるのは風の音だけだ。
しかし、彼女はかまわず続ける。
「三分の遅刻だよーだっ。
……怒ってる?
あったりまえでしょー。
あんな危ない真似させられて怒んないヤツがどこにいるってーの?
いたらつれてきてミンチにして殺るからそんなバカ」
深水は、ふん、と荒い鼻息を吐いた。
左手の動きは止まっていない。
指輪同士のぶつかり合う音が、微かに聞こえている。
深水は険の篭った声で、さらに言葉を重ねた。
「──ほんじゃまー、今回の報告いこーかな。
はい、ぜ・ん・め・つ・で・す。
はーい気持ちいいねー座布団ちょーだいってか」
あは、と笑って、しかし目は笑わない。
深水は、ぺろっ、と舌を出し、
「いくらコレのキャパに言わせてマイコン保存したって、距離離れてるし三人もいるし。
流石に強制的な行動はさせられなかったなー。
──え? あ、うんうん、そう。
遠隔じゃ流石に洗脳してモニターできる程度かな。
だってあたしの意識は一つだもん。共有意識するにはまだきついよ。やるなら改造くわえないと。でも時間かかるから嫌なんだよねー」
はあ、と溜息を吐く。
しばし、沈黙。
そして、
「──え? 嘘、マジ?
えええぇぇぇー、あたしだけ仲間はずれー?
ひっどーぉぉぉいっ。
……はいはい、わかったわかった。了解しました。
その代わり駄賃はずんでよね。じゃないと怒るよ?
──ん、じゃ、そっちはそっちで頑張ってね。
うん、はーい」
深水の左手の動きが止まった。
十二個の煌めきが、吸い込まれるように掌に収まっていく。
少女は右手を腰に当てたまま、左手をだらりと垂らし、顎を上げて夜空を見上げた。
溜息。
少女は相手の声音を丁寧に真似て、
「……なーにが『私たちの方は別の計画を起動させますので、この計画はあなたに全権を委ねます。この計画にはサイバスターであるあなたが適任です。はい、それでは頑張ってくださいね』──よ」
吐き捨てるように呟く。
ちゃらり、と左手の中の指輪が音を立てた。
「──ま、おもしろそうだからいいんだけどさ」
にたり、と少女は口元に笑みを浮かべた。
ふと、左手の指輪に視線を落とし、
「──さーて、どうしようかな、っと」
深水は嬉しそうな声でそう言った。
月を背景に、鮮血が宙を舞った。
踵落としの直撃を受けた理玖の鼻から、派手に血がしぶいたのだ。
少年の右肘から生えていた鷲の翼が、ふっ、と消失する。
同時、彼の身体は重力の手に引かれ、地上に向けて落下し始めた。
落ちる。
「──!」
ほんの一瞬で彼は一メートル下へ。
踵を振り下ろした直後のカネチュアは、慌てて落ちていく理玖に手を伸ばして──
届かなかった。
体勢に無理がありすぎた。
カネチュアの視界の中、見る見るうちに理玖の姿が小さくなっていく。
きゅっ、と心臓を掴まれたような気がした。
叫ぶ。
「──スウェア君っ!」
「はっ」
力強い答えと共に、少女の愛龍は主の意志に従った。
空間を疾走。
無防備に地上へ落ちていく理玖を追いかける。
ごう、と空気の塊がカネチュアにぶつかり、髪とドレスを後ろに流した。
歯を食いしばり目を細めて、前方を見る。
その瞬間、彼女は安堵を覚えた。
理玖の落ちていく先に、背から翼の骨格を生やした騎士がいる。
きっと彼が受け止めてくれるだろう。
そう思った。
そして事実、そうなった。
だが、その瞬間、カネチュアは愕然とした。
騎士──クリスは右手に握った短剣を少年の右肩に突き刺すという動作で彼を受け止めたのだ。
「……なッ!?」
思わず喉から飛び出す驚愕の声。
肩を引っかけられた理玖は、がくん、と勢いを削がれ、しかし肩から血を噴いて空中に引っかかった。
「──何してるんだキミッ!」
二人に追いついたスウェアは、慣性を中和する絶妙の力加減で停止した。
カネチュアは有無を言わせぬ動きで理玖に手を伸ばし──
クリスの左手がその手を払いのけた。
「……!」
刹那、カネチュアの顔が憤怒に染まった。
彼女は何か叫ぼうと口を開き──しかしそれよりも早くクリスが言った。
「何者ですか」
疑問ではなく、詰問の声。
冷たい声だ。
声と同じく、彼の瞳も冷気を放っているかのようである。
その迫力にカネチュアは一瞬気圧され、口をつぐんだ。
骨格だけの翼。
短い瑠璃色の髪。
冷たい瞳と声。
弱い月明かりに照らされた彼の姿は、まるで黒曜石だ。
艶やかな漆黒──どこか禁忌の美を連想させる雰囲気を、この少年は纏っている。
「相手に名を尋ねるときはまず名乗るのが礼儀ではなかったか、騎士殿」
カネチュアの下にいるスウェアが厳かな声で言った。
『騎士殿』と呼んだのは、彼に騎士としての態度を求めるためだ。
逆に『堕天使殿』と呼んでしまってはいけない。相手の態度を硬化させてしまうだけだ。
クリスの視線が、つとスウェアに向く。
しばし龍の顔を見つめた後、彼はふと瞼を閉じた。
そして口を開く。
「剣王国デイリート天馬騎士団特殊部隊、クリス=シンフォード」
その言葉を受けて、カネチュアも憮然とした声で名乗った。
「……王国認定上級龍使い、ハーモニス=イグ=カネチュア。こっちはハイドラゴンのスウェア君」
「ハイドラゴンマスター?」
クリスは軽く目を見開いた。
じろじろと、カネチュアを上から下まで眺める。
ピンクのシルクのドレスを着てハイドラゴンマスターも何もあったものじゃない──と確かに自分でもそう思う。
だが、彼の態度がいかにも『本当か?』と疑っているように見えて、カネチュアはさらに腹が立った。
はっ、と気付く。
「──じゃなくてっ! それよりなにしてんだよキミっ!」
カネチュアは意識を失い、肩に短剣を突き刺されてぶら下がっている理玖を指さして怒鳴った。
対し、クリスは無言でナイフをもっていない手で理玖の首根っこを掴み、そして肩から短剣を抜いた。
ぬるりと血にまみれた刀身が、月に光る。
一拍置いて、クリスは言い放った。
「この少年の身柄は天馬騎士団特殊部隊が確保しました。何かご用があれば剣王国天馬騎士団を通してください」
それだけ言うと、彼は背後に首を巡らし、
「フィアー」
すると彼に呼ばれた白の天馬が、天を駆けてやってくる。
「下に降りますよ」
言った少年の姿が、突如、下に流れた。
水色の鎧を纏った少年は、理玖を手に提げたまま自由落下を始めたのだ。
素晴らしい速度で少年二人の姿は小さくなっていく。
フィアーという天馬が翼で大気を打ち、それを追った。
「ちょっ、ちょっとっ!」
慌ててカネチュアもスウェアの角を持ち、後を追いかけさせる。
下を見ると、そこに街並みがあることにようやく気付いた。
ハーディール・界練山脈から大分離れた所に来てしまっていたらしい。
──どこまで飛んできて来ちゃったんだろう?
情けないことに逃亡の際、どの方向に逃げたのか覚えていない。
推測では、剣王国デイリート、和国・聖、光剣帝国レイアースの三つの内のどれかであろう。
──これって、もしかして密入国……?
夜であり、空中にいるために見つかっていないのだと推測される。
もし国境警備隊に見つかれば大問題だ。
カネチュアの僅かな焦りが伝染したのか、スウェアの降下速度がやや上がる。
騎士と龍使いと犯罪者は、街へ降りていった。
「──で、どーすんだよ?」
「あたしに聞かないでよ。気絶させたのあんたでしょ」
「俺がやったんじゃねえって! この娘が勝手に気絶したんだろーがっ!」
「あたしが推察するにアンタがわざわざあのバカの腕斬り飛ばして血飛沫なんか上げちゃったから普通の女の子であるあの娘はショックのあまりに気絶しちゃったんだと思うだけど……どう?」
「な、なんだよ、その淀みのない言葉は……お、おめぇさてはさっきから言葉組み立ててたな?」
「あーあ……ということは血を見て気絶しなかったあたしって普通の女の子じゃないみたいじゃない。ヤダヤダ」
「質問を無視してんじゃねぇっ!」
場所は宿屋の一室である。
コマチを寝かせたベッドを挟んだバードとミーナは、まるで漫才の様な会話を交わしていた。
二人は全く声を抑えようとはしていない。
が、コマチの目が開く気配はなかった。
つと、コマチの寝顔を横目で見たバードは、
「……だから、どうすんだよ。さっきのヤツみたいに役所に引き渡すわけにもいかねぇし」
と、小さく吐息。
『さっきのヤツ』とは、彼によって腕を斬り飛ばされた通り魔──セキ=トリズムの事である。
彼は、つい先程やって来た役所の手によって報奨金と交換された。
無論、その金は既にミーナの財布の中である。
「ま、目が覚めたら家に帰るんじゃない? それまで面倒見ればいいじゃないのよ。報奨金貰えたし、もしかしたらお礼貰えるかもしれないし」
「そう言う問題かぁ?」
「なによ、あたしの考えに文句ある?」
「いんやぁ、べっつにぃ」
わざとらしくあらぬ方向に視線を向け、やけに含みのある口調で言うバード。
そんな態度の男を、じとっ、と睨んだミーナはやおら、
「……ま、それよりも──」
ごそごそとスカートのポケットから一つの指輪を取り出した。
黒い環に、ワインレッドの宝玉。
宝玉の中では、より濃い赤で描かれた『D』という印が見て取れる。
そしてその印は、一秒に一周の周期で縦軸横回転していた。
その指輪は、斬り飛ばされたセキの左手に填められていた物である。
ミーナは、どこか試すような視線をバードに向け、こう言った。
「コレ、何だと思う?」
少女の言葉にバードは首を伸ばし、その指輪を凝視する。
「何って……アレだろ? あの通り魔の左腕をやべぇ武器に変えてた……」
バードの脳裏に、高速超微震動する六角棒に変化したセキの左腕が思い出される。
本当に、アレはやばい武器だった。
触れる物体全てを塵に返る力を持っていたのだ。
使い方によれば、街一つ消滅させることだって出来る代物である。
今更ながら、自分の相手していた物に対してゾッとしない思いを抱いた。
だが、続くミーナの言葉がさらにバードをゾッとさせた。
「コレ、剣霊よ」
「……なんだと?」
顔から血の気の引いていくのが、自分でもよく解った。
思わず手を伸ばして、ミーナの手から指輪をひったくる。
剣霊。
それは今現在、バードが仕事で探している物の総称である。
否。『仕事』というよりも、『使命』というべきか。
コレを全て回収せねば、多くの人が死ぬことをバードとミーナは知っているのだ。
「ほら、あの妖しいオッサンが残していった資料があったでしょ? アレに載っていたの。えっと……それの名前は『デストラクティブ』……【基本的な】剣霊……だって」
「……をいをい……」
思わず漏れたバードの言葉に、ミーナは溜息で答えた。
街単位の破壊力を持つ物が【基本的】だとは。
さらにその上をいく物を回収しなければいけないのだと考えると、バードは頭が痛くなってきた。
「……ねえ、バード」
「……んぁ?」
「やっぱり、どっかのギルドとかに依頼した方が良くない?」
不安げなミーナの言葉を、しかしバードは即遮断した。
「いや、そりゃダメだ」
「──なんでよ」
ミーナの問いに、バードはしばし沈思。
数秒間、中空に視線を泳がせた後に口を開いた。
「……あいつ、なんで俺に依頼を持ってきたんだと思う?」
「え……?」
「あいつ──確か、勾邑だっけか?──あいつは何で、【俺】に依頼を持ってきたんだと思う?」
「さ、さあ……?」
いきなりの質問に戸惑うミーナに、バードは指を三本立てて見せた。
「考えられる理由は三つだ。一つは、単なる偶然。二つは、俺でなきゃ見つけられない代物である。三番目は──」
「三番目は──?」
我知らず、ミーナは唾を飲み込んだ。
「──俺……つまりバード=ミューゼルその人に、剣霊を探させるため──だ」
「バードに、剣霊を探させるため……?」
「ああ。なんでかまでは思いつかねぇけどな。ただ、もし三番目としたら……」
そこまで言って、急速にバードの顔が曇った。
同時、何かを悟ったのかミーナも表情を暗くする。
沈黙。
二人は同時に視線を逸らした。
そして、バードの苦々しい言葉が吐き出された。
「俺の失くした記憶に関係あるってこった……!」
「…………」
硬い空気が室内に充満した。
その時だ。
ベッドのコマチが、小さく呻いた。
「……ん……あ……ほ、ほぇ?」
目をうっすら開き、瞬きを繰り返す。
間の悪いときにコマチは目を覚ましてしまったのだった。
してやられた。
薄暗い部屋で、セラフィーは忌々しげに舌を鳴らした。
場所は、セラフィー専用の研究室、その一室。
彼女の眼下には、腰の高さほどの台に寝かされた少年がいる。
その少年が、舌打ちの原因だ。
「…………」
少年、久遠は何も喋らない。
開いている瞳はしかし、虚ろ。
ただ、彼は浅い呼吸を繰り返しているだけ。
──つまり、医学的見地から言うに、植物人間状態。
(なになに、どうしたのぉ?)
(……壊れてるわ)
(何が?)
(この子の精神が、よ。……いいえ、壊れたと言うより、むしろ【吸われた】って方が正しいのかしら)
(吸われたって……何に?)
(何って──)
セラフィーの視線が動き、台の隅に立つ小人属性の精霊、ミルクティオに向いた。
その彼女の両手には、白い環に七色に輝く多面体、と言うデザインの指輪が抱かれている。
セラフィーはその多面体の中で縦軸横回転している『C』という文字を凝視した。
(……これ、なの?)
(あ、そか。確か剣霊って使用者の精神レベルが低いと『喰われ』ちゃうんだっけ?)
(迂闊に外したのは失敗だったわね。……ちょっと待って)
(ほえ?)
(──そうよ。一定の精神レベルがないと『喰われる』はずなのよ。……なのに、どうしてこの子はコレを付けたままこのマンションまで来れたの?)
(……精神を補強する何かがあったって事……かなぁ?)
セラフィーは唐突に口を開き、ミルクティオを呼んだ。
「ミルクティオ」
「あ、は、はいっ」
ぼぅっとしていたミルクティオ──目がとろんとしている。眠そうだ──は主の声に慌てて顔を上げた。
セラフィーは小人に目を向けぬまま言った。
「──少し、出掛けてくるわ。その子の事、よろしく頼むわね」
「……へ?」
間抜けな声をこぼした頃には、既にセラフィーは部屋のドアの前に。
慌てて声を張り上げる。
「あ、あのっ、セラフィー様っ!? ど、どちらへっ!?」
「ちょっと調べ物よ」
その言葉だけ残して、冷然とドアは閉められた。
「…………」
ミルクティオはぽかんと口を開いた間抜けな顔で、唖然とする。
しばらくそのままでいて、ふと、自分の何倍もの身長を持つ少年に視線を向けた。
彼女から見れば、彼は立派な巨人だ。
平均で言えば痩躯と言っていい身体も、山のように見える。
「……はぁ」
溜息。
もしかすると私は使える主人を間違えた不幸な精霊かもしれない、と思う。
──ミルクティオは知らない。
やがて、自分が本当に『不幸な精霊』になることを。
そしてすぐ側の抜け殻が、その未来を象徴していることも。
彼女は、まだ知らない。
知る由もない。
一人の男が宙に浮いている。
浅黄色の、絹の法衣に身を包んだ若い男だ。
浅黒い肌に、短い黒髪。
寝ているのか、いないのか、それが解らぬ程細い瞳。
そんな男が、何の支えもなしに宙に胡座を掻いて浮いている。
そして、その男の眼前にも、同じように宙に浮いた本が一冊。
不意に、男が身じろぎしなかったにも関わらず、ぺらりとページがめくれた。
男の表情は変わらない。
本を読んでいるようにも、読んでいないようにも見える。
と。
突然、男は言葉を発した。
「──よお。お前から来るなんて超弩級珍しいじゃねぇか」
「そうかしら?」
答える少女の声に、男は視線を眼下に向けた。
彼の細い目が捉えるのは、まず本の山だ。
絶妙なバランスを持って、何百冊という本が重なっている。
その上には、さらに分厚い埃も重なっている。
魔法国家ウィズ・国立図書館、特別資料室。
壁際に設置されている、部屋全体を囲む背の高い本棚。それらに収まりきれず灰色の床に重ねられている本の山。
数十幾つある本の山の隙間に、少女──セラフィーはいた。
薄い生地の黒のワンピースに身を包んだ彼女は、腕を組んで男を見上げている。
男はセラフィーの出で立ちを見て口笛を吹いた。
「おう、こりゃまた魅力的な格好じゃねぇか」
「あなたのことだから『服が魅力的』という意味なんでしょうね」
「お、おいおい、ひでえな。中身は誉めるまでもないって事じゃねえか」
「余計に失礼な話ね」
「あ、あら……? あ、ちがうちがう! 今更誉めるまでもない、って意味だぜ!?」
「あ、そ」
狼狽えた様子で喚く男を置いて、セラフィーは辺りを見回した。
すこし、眉根が寄る。
「相変わらず、埃っぽい所ね。……掃除したのは?」
「三年ぐらい前……だなぁ」
「最低だわ」
「お、お前、相変わらず超弩級ストレートな奴だなぁ……」
苦笑──否、苦笑いを浮かべた男は、ゆっくりと高度を下げていく。
「ところで、マジで何の用だ? お前、ここに来るの二年ぶりだろ」
「そんなに前だったかしら?」
半ば、どうでもいいような空気を漂わせて、セラフィーは聞くともなしに言った。
「ま、多分だけどよ。俺の記憶に間違いがなければの話だ」
「あら、それなら絶対間違ってないわね。あなたの記憶力だけは信用しているわ」
「へーへー、それはありがとよ、ってか」
男は宙に浮いたまま、視線をセラフィーに合わせた。
尻が本の山の頂に触れそうで触れない、そんな高さにいる。
不意に、沈黙が降りた。
セラフィーは、口を閉じている。
男は、セラフィーの言葉を待っている。
そんな静寂だ。
それが十数秒続き、やがてセラフィーは口を開いた。
「ツワブキ」
「おうよ」
名を呼ばれた男──ツワブキは、口元に、にっ、と笑みを浮かべた。
すっ、とセラフィーの視線が動き、ツワブキの顔に固定される。
冷涼な視線。
セラフィーは、強い口調で言った。
「調べて欲しいことがあるわ。協力しなさい」
有無を言わせない台詞だった。だが、ツワブキはさらに笑みを深め、
「──へいへい、わかってますよ、マイリトルプリンセス──ってな」
と言って、その両目を軽く見開いた。
その両目にはまっていたのは、瞳ではなかった。
白銀色の、水晶。
──彼の名はツワブキ。
鏡の目を持つ男である。
心臓が、どくん、と脈打った。
「!」
急速に意識は覚醒する。
痙攣に近い動きでチャスターは上体を跳ね起こした。
彼の身体にかかっていた毛布が跳ね上げられる。
意識せず、周囲に視線を走らせ己の状況を確認した。
狭い空間、白い壁、自分はベッドの上、傍らには人の気配が一つ。
チャスターの視線は、自然と傍らの気配へと向いた。
そこに立っていたのは、名前は知らないが、見覚えのある青年だった。
チャスターが小脇に抱えて浚った、銀髪の青年である。
「…………」
すぐには言葉が出てこなかった。
口をぽかんと開けて彼を見上げている自分はひどく間抜けなのだろう──冷静にそう思った。
チャスターの視線を受けた青年は、薄く微笑み、
「おはようございます」
と言った。
これが機となってチャスターは我を取り戻した。
まず、己の心臓が早鐘を打っていることに気付く。
焦っている。そして驚いている。
不安を感じている。
チャスターは深く息を吸い、深呼吸。
鼓動が収まるのを待つ。
ややあって、口を開いた。
「……ここは?」
「さあ?」
たった一言の答えが返ってきた。
怪訝な表情で青年の顔を見る。
「わからぬのか?」
チャスターの問いに、青年は静かに首を横に振った。
「いいえ。ですが、この場所の名前は知りません」
チャスターはいまいち青年の言葉が理解できず、さらに眉根を寄せる。
「どういう意味だ?」
青年は一拍の間を置いて、こう答えた。
「ここは私が最近のねぐらにしている小屋です。が、名は知らないのです」
何を言っているのだろう、とチャスターは思った。
別段、彼はおかしな事は言っていない。
ここは彼が最近ねぐらに使っている小屋であり、その小屋の名前を彼は知らない。
そう言っている。
だが、
「……小屋に、名前があるものなのか?」
「さあ……?」
青年は小首を傾げた。
──からかわれているのだろうか。
チャスターの両目が細められた。
「真面目に答えてもらいたいのだが」
「はい?」
青年は瞬きを一つ。
意外な言葉を聞いた──そんな態度だ。
まさか、とチャスターは思う。
──本気で言っていたのか?
しばし、青年の顔を見つめて沈思。
溜息を吐いた。
「いや、いい。ところで……何故私はここにいる?」
「覚えていないのですか?」
「いや……」
覚えている。
飛来してきた小さな光の粒が、己の心臓に突き刺さった。
そこまでは覚えている。
と、チャスターはようやく気付いた。
「……傷は?」
傷がない。
身体のどこにも。
光が突き刺さったはずの左胸にも。
「ああ、それならば私が癒しておきましたよ」
青年の言葉を聞くと同時、チャスターは彼の左腕も炭化していたことを思い出した。
視線を向ける。
青年の左腕は、何事も無かったかのように肩からぶら下がっていた。
チャスターは青年の顔を、見開いた瞳で見上げる。
「その腕も……癒したというのか?」
「ええ」
青年はにっこりと微笑み、頷いた。
完全に火の通った、『肉』としての機能を失った細胞を再生するなど、並の所業ではない。
その瞬間、チャスターは意識を失う前に見た『破壊と再生』を思いだした。
納得する。
なるほど。あれほどの力を持っていたのだから、この程度のことは造作もないのだろう。
チャスターは青年に向かい、頭を垂れた。
「礼を、言う。助かった」
青年は言葉では応えず、ただ微笑んだ。
そして紡がれた言葉は辛辣だった。
「それでは、お帰りください」
驚いて見上げたチャスターの視界の中で、やはり青年は微笑んでいた。
光剣帝国レイアース。
わずか十歳の皇帝が治める、永世中立国である。
和国・聖と剣王国デイリートの北。まるで二国の頭上に寝そべるかのような場所に位置している。
この国は、現在『光剣戦争』を続ける近隣二国に、一切の干渉を絶っている。
別段、漁夫の利を狙っているのではない。
現在交戦中の聖、デイリートの二国の最終目的がレイアースであるためだ。
やがて二国が同盟を組み、レイアースに向けて侵攻する可能性がある。
故に、レイアースは二国に対し『永世中立国』という立場に立ったのだ。
そして今、そのレイアースとデイリートとの国境付近の街の一角にて、激しい口論が行われていた。
「手当が先だろ!」
「余計なお世話です」
走る怒声に、ぴしゃりと返す冷たい声。
夜。
小さな公園の入り口付近。そこに、三つの人影がある。
二つの影は声を放ち、残りの一つは地に伏せている。
カネチュアとクリス、そして理玖である。
カネチュアが怒鳴る。
「何のつもりか知らないけど、怪我人相手に手当もせずに尋問するのが騎士のやり方!?」
「あなたには関係ありません」
「ないことない!」
クリスは猛るカネチュアから視線を外し、溜息を吐いた。
自分らしくもない。
──何を苛立っているのだろうか。
眼前の少女の言うとおりだ。まずは怪我の手当だろう。理性ではそう思う。
だが──
「尋問が、先です。これは譲れません」
クリスは無表情に、しかし頑として言い放った。
そして足元に転がる少年に視線を向ける。
左腕は、無い。クリス自身が斬り飛ばした。
右腕は──先程まで宝玉と刃という形状を取っていた右腕は、今は通常の形を取っている。
どこにもおかしい所は無い。強いて言えば、中指に填めた指輪ぐらいだ。
何故この腕が剣に変化していたのか。それを聞かねばならない。
──違う。義務ではない。
聞きたいのだ。
不意に、クリスは左肩に灼熱感を覚えた。
斬り飛ばされた左腕は既に再生している。傷もない。
なのに、切り裂かれたような灼熱感が、そこにある。
そして、その灼熱感を植え付けた狂人の顔が脳裏によぎった。
「……!」
腹の奥底から憤怒の炎が吹き出し、クリスは奥歯を食いしばる。
と、
「──死んじゃったらどうするのさ!?」
「!」
カネチュアの声がクリスを現実に引き戻した。
驚いたように少女を見る。
思いも寄らぬ反応をしたクリスに少女の方も驚いたのか、
「な、なに……?」
と息を詰まらせたように言った。
沈黙。
数秒置いて、クリスは言った。
「いえ、何でもありません」
溜息。
そして今度こそカネチュアを置いて、理玖の方へ歩み寄った。
傍らに膝を突く。
「ちょ、ちょっとっ、まだ話は」
「早く手当しないと手遅れになるのではないのですか?」
視界の外でカネチュアの驚く気配がした。
当然驚くだろう、と思う。
今まで頑なに『手当の前に尋問だ』と言っていた自分が急に掌を返したのだから。
死、という言葉がクリスの精神を揺らした。
かつて、彼は死を実感した。
ほんの数十時間前に。
その時の恐怖を払拭するために、そして誇りを取り戻すために、彼はここにいる。
大切な情報源を死なせてはいけない、という思いが彼の方針を変えたのだ。
クリスは地面に仰向けに寝ている理玖に、右手をかざした。
ぱっ、と掌が閃光を放つ。
一瞬だ。
一瞬にして光は消え、そして理玖の身体は癒される。
血は真新しいままだが、傷という傷が全て塞がっていた。
だが、左腕は依然として無い。
肉を再生してやるほどクリスはお人好しではない。
「これで文句ありませんね」
カネチュアの方を見もせず、言い放った。
返事を待たず、右手で理玖の頬をはたく。
快音。
強めに叩いたつもりだったが、理玖は目を覚まさない。
もう一度、逆の頬をはたく。
「ん……」
反応があった。
もう一度、頬をはたく。
「んむっ……」
理玖の瞼が弱々しく震えた。
やがて、ゆっくりと、少年は瞼を開く。
「…………」
少年は焦点を結ばない瞳で虚空を見つめる。
そして、ゆるゆると瞳が焦点を結び始めた。
瞳に意志の光が宿っていく。
「…………」
理玖の視線がすっと動き、クリスを見た。
二人の少年の視線がかち合う。
無言の一秒。
動きはいきなり生まれた。
少年の右腕が金色の閃光を放ち、刃と化したのだ。
「──!?」
一瞬の光。
それだけでクリスとカネチュアは時を止められたかの様に動けない。
虚を突かれた。
理玖が突然、弾かれたように上体を起こす。
そしてその勢いのまま、己の額をクリスの額に激突させる。
「!」
肉に包まれた骨同士のぶつかり合う音が響いた。
反動で後ろに傾きながらも理玖は右腕を引き絞る。
神速の動きで突きが放たれようとした刹那。
彼はにやりと笑った。
はたして理玖の突きは、迷い無くクリスの左肩に突き刺さった。
肩甲に守られていなかった、【左肩】に。
深々と。
──だがそれは、大きな間違いだった。
彼の人生、最大の間違いとも言えよう。
カネチュアは、その時の様子を後にこう語る。
『風が吹いた』
そして、
『何かが光って……そう思ったら、理玖の右腕がボクの足元に転がっていたんだ。それで──』
一拍。
『顔を上げて二人の方を見たら……、首が、無かったんだ』
誰の?
『……理玖の、首が』
クリスが理玖の首を斬り飛ばした。
というと嘘になる。
正確に言えば彼が直接的に理玖の生命を奪ったわけではない。
要因は、別にあった。
事実のみを語ろう。
それは、こうやって起こった。
左肩に刃を埋められ、クリスはそれだけで我を失った。
左肩に走った激痛が、【あの時】の記憶と重なったのだ。
彼は疾風の如く、そして機械の如く動いた。
右手で剣を抜き、左肩に刃を突き刺している理玖の右腕を切り払った。
肘より上。つまり宝玉のすぐ上だ。
『E』という刻印を内包する金色の宝玉と、理玖の身体とが、離れる。
途端、宝玉が爆発的な光を放った。
だがクリスは頓着しない。
光に塗り潰された視界の中、記憶だけを頼りに理玖がいるであろう空間に剣先を突き込む。
手応えは、無かった。
右から左に剣を薙ぐ。
やはり手応えはない。
一瞬後、光が収まり、白に塗りつぶされていた周囲の景色が形を取り戻した。
そして、クリスは見た。
地面に転がった『E』という刻印を内包する宝玉。その中から黒い毛皮に覆われた、まるで熊の如き巨腕が生えているのを。
腕は二本あり、右手と思しき腕が理玖の身体を鷲掴みにし、持ち上げていた。
そしてもう片方の左手と思しき腕が、理玖に迫る。
その掌には、縦に走る傷のような溝があった。
刹那、それが左右に開き、縁から【ぞろり】と牙を生やした。
言うまでもなく、それは口だ。まるで食虫植物のような。
巨大な掌の、巨大な口。
それが、
理玖の首から上を呑み込んだ。
今、天馬騎士の目の前には、首から上を失った学生服の死体が横たわっている。
そして龍使いの足元には、切り離された右腕が転がっている。
その右腕の中指には、血にまみれた金色の宝玉を持つ指輪が、一つ。
周囲に音はなく、耳が痛くなるほどの静寂が満ちている。
やがて静かな空気をなぞるように、カネチュアが震える声で呟いた。
「──な、なに……? い、今、何が……」
視線は頭部を綺麗になくした理玖の死体に釘付けにされている。
彼女の歯が、カチカチと微かな音を立てていた。
「…………」
カネチュアの問いに、クリスは応えられなかった。
彼の脳裏には、先程の光景が繰り返し再生されている。
光。
宝玉から現れた、異形の腕。
巨大な口に頭を呑み込まれそうになりながら、理玖はそれでも笑っていた。
そして、少年の頭部を喰らった腕は満足したように宝玉の中へ吸い込まれ──宝玉は理玖の右腕へと変化する。
どさり、と力を失った理玖の身体が、地上に落ちる。
「…………」
今のクリスに、思考能力はない。
何度も何度も同じ光景を思い出しては、ただ呆然としている。
左肩から溢れる血にすら気付いていない。
ふと風が吹き、クリスの髪とカネチュアのドレスの裾を揺らした。
地面に転がる理玖の腕。その中指に填められた指輪が、月光を照り返している。
彼らがその指輪の正体に気付くのは、一刻ほど後のことである。
目が覚めたら、妙に空気が硬かった。
上体を起こすと、男の人と女の子が、なんだか凄く驚いたような顔をしてベッドの上を自分を見ていた。
それだけで、コマチはひとたまりもなく困惑した。
「────」
絶句。
(なななな、なに? なにこのくうきっ? わ、わたしなにかした?)
硬直したコマチは、内心で滝のような汗を流す。
静寂。
誰も動かなければ、何も言わない。
ただどことなく『コマチがやってはいけないようなことをしてしまった』と言うような空気だけがある。
椅子に座ってこちらを見ている二人から、無言で責められている──そんな気がした。
そうして、気まずい沈黙が何秒続いただろうか。
やがてコマチは、何を思ったか再びベッドに寝転がった。
目を瞑り、足を向けている方にいる二人に意識を尖らせる。
そして、こう言った。
「う、うーん……」
寝たふり、である。
これ以上の物がどこにあるか、というぐらいのあからさまな狸寝入りだった。
硬い空気に冷たさが加わった。
当然の如く、ミーナもバードも無反応。
状況は悪化しつつある。
これを打破すべく、コマチは次の手を打った。
ころんと寝返りを打ち、こう言う。
「──むにゃむにゃ……」
打破するどころかこれ以上ないってぐらいに悪化した。
硬く冷たい空気に、さらに重さが加わった。
今や、室内には形容しがたいもの凄い空気が充満している。
声や音を出せば、何かを壊してしまうような──そんな危うい静けさ。
この状況を何とかするには、もはやアレしかない。
そう決断したコマチは、とうとう最後の切り札を使った。
「も、もう食べられない……」
二人の人間が椅子から転げ落ちたような、派手な音がした。
「そんなわけで、だ」
「は、はいっ」
赤い顔を俯かせたコマチは、バードの言葉に上擦った声で返した。
現在の三人の位置はこうである。
入り口から見て二つあるベッド。右のベッドにはコマチが腰掛け、左のベッドには、向かい合うようにバードとミーナが座っている。
コマチの顔が赤いのは先程の出来事が原因だ。
あの直後、当たり前だが室内に爆笑の渦が生まれた。
その笑い声でコマチは二人に自分の狸寝入りがばれていることを知った。
どうやら本気で欺けると思っていたようだ。
自分のしたことのあまりの情けなさに、コマチは恥ずかしくて顔が上げられない。
「とりあえず、自己紹介といきましょうよ。あたしはミーナ。で、こっちの穀潰しが──」
「バード=ミューゼル。って誰が穀潰しだコラ」
「あ、ごめん。穀潰しって言うより、バカだったわよね」
「なにをう!」
「なによ?」
至近距離で睨み合うバードとミーナ。
視線が火花を散らしているかのような錯覚を、コマチは覚える。
いや、それよりもなによりも、
(こ、怖い……どうしよう……)
なんとか愛想笑いを保っているが、正直言って目の前の二人が怖かった。
なにせ目が覚めたら見知らぬ部屋である。
そして目の前には険悪な雰囲気を纏った二人組。
片や派手なジャケットを着た大柄の男。
片や男より大分若く見える、十歳ぐらいの少女。
兄妹か? いや、それにしては歳が離れすぎているような気がする。
親子か? いや、それも微妙である。男はそれなりに若い。
一体何者なのだろうか、この二人組は。
辻斬りよりも、正体不明なこの二人の方がよほど怪しい。
(……辻斬り?)
「そうだ、辻斬りっ!」
「「は? 辻斬り?」」
突然大声を上げたコマチに、バードとミーナは声を重ねて振り向いた。
声が正確に重なっている辺りに、二人の付き合いの長さがうかがえる。
「ああああ、あのあのあのあのっ! あの人どうなりましたあの辻斬りな人っ!?」
「つ、辻斬りな人って……」
いきなり凄い剣幕で迫られたミーナは、思わず視線でバードに助けを乞う。
振られたバードは『バカこっち見んじゃねぇよ』という顔をして、
「あー……役所」
と、一言で応えた。
役所に引き渡した。そういう意味合いで言われた言葉だったが、少女は誤解した。
「役所!? もしかしてもももももしかして役所にまで殴り込みをかけたとかっ!?」
「は? あ、いや、そうじゃなくて」
突拍子もない言葉に、バードも流石にたじろぐ。
「あああああどうしようどうしよう! 早く家に帰らないとっ! お兄ちゃんが危ないかもっ! あっ、でもご主人様は!? もしかしたら今頃勾邑にも行っているかも──!」
素晴らしいまでの早口で喋るコマチ。
その側でうんざり顔のミーナがこう呟く。
「ないない……」
しかしその言葉はコマチには届かない。
「あああああどうしようどうしようどうしよう!」
結局、コマチが落ち着いたのは五分後のことであった。
よくよく話の脱線する面々である。
「そ、そーいうわけで、だ」
「は、はい……」
溜息の混じったバードの声に、コマチはしゅんと身を縮めた。
三人を畑の野菜に例えるなら、タマネギ二つとトマト一つと言ったところだろうか。
呆れ顔のタマネギと、真っ赤なトマト。
話はトマトが切りだした。
「あ、あの……私はコマチと言います。その……助けていただいてありがとうございます」
「まあ、助けたというかなんというかいでっっ!」
「え?」
「ああ、何でもない何でもないの。気にしないで」
「は、はあ……」
突然顔を歪めたバードと、向日葵のような笑顔のミーナ。そんなミーナの右肘が見事にバードの左脇腹に突き刺さっているのを、コマチは見た。一瞬だけバードの『何しやがんだ』という視線とミーナの『バカ、余計なこと言わないの』という視線が交錯し、コマチの表情は笑顔のまま青ざめる。
ミーナの視線がコマチに戻り、
「──で、さ。物は相談なんだけど……」
「はい?」
ぴっ、とミーナは右掌をコマチに向かって突き出した。
「……?」
キョトンとするコマチに、金髪の少女は言う。
「できればその誠意を形にして欲しいのよね。あんたが気絶する前にも言ったと思うけど、こっちってばそんなに余裕ある暮らししていないし、急だったとはいえああいう人助けの仕事もしているのよね」
「はあ……」
ペラペラと歌うように喋るミーナに、コマチは曖昧に頷く。
つまり、金をよこせ、と言うことである。
二人の少女に──特にミーナに聞こえないようにバードは
「役所で報奨金もらったじゃねぇか」
と呟いた。
「えっと、あの……お給料の殆どは家に入れてますから、私のお小遣いで良ければ……」
確か、いくらか財布に入っていたはずだ。と、コマチは自分の鞄を探す。
見回すと、ベッドの枕元に自分の旅行バッグがあった。
コマチの返答にミーナは、ぱっ、と顔を輝かせて、
「あ、本当にくれるの? いやー、悪いわねぇ。何だか催促しちゃったみたいで。あはははー」
しちゃったもなにもしたんだろーが。という心の声を、バードは敢えて口に出さなかった。
コマチは笑顔で、
「あ、はい。助けていただいたんですから、お礼はしないと」
「……なぁ嬢ちゃん。さっき給料の殆どを家に入れてるって言ったよな?」
「あ、はい。……私の父と母が病気で……私とお兄ちゃ──じゃなくて、兄で生活費を稼いでいるんです。兄はパン屋さんのアルバイトを、私は勾邑の貴族であるフォルト様のメイドとして──」
働いているんです、と言うより早く。
「そんなことより、お・れ・い☆」
ミーナがずいっと掌を突き出した。
にこにこと笑っている。
この時、コマチは自分の甘さを知った。
目の前の少女は、自分の境遇になんぞ興味はないのである。
少しでも同情して貰えるかも、と思っていた自分が甘かった。
コマチの頭の上に、ででん、と涙滴形の汗がのっかかる。
「は、はい」
まるでミーナの笑顔に圧されたかのように、コマチは慌ててバッグを手元に引き寄せ、開いた。中から財布をとりだし、
いくら渡そうかと迷う。
(辻斬りから助けてくれたという事は、つまり命の恩人と言うことで……)
もったいないような気がしたが、なにせ命の恩人である。恩は返さなければいけない。
瞬き三回ほどの時間をコマチは悩み──
果たしてコマチは、自分の小遣い全額をミーナの掌に乗せた。
「一、二、三、四……うん、確かに。──って、本当にいいの? こんなにたくさん」
「はい。バードさんとミーナさんは命の恩人ですから。それに、それは私のお小遣いですから、少し我慢すれば……」
少しどころか、実際には三ヶ月ほど我慢しなければいけない額なのだが。
命に比べれば安い物だよね、とコマチは自分に言い聞かせた。
「ってコラ。それ全部もらうつもりか、ミーナ?」
「そうよ? なんか変?」
「おめえ、さっきの嬢ちゃんの境遇聞いてたか?」
「聞いてたわよ。……何? 同情して一割ぐらい返せばいいの?」
「いやそこは普通二割だろ」
(ああ、せめて三割……)
内心涙ながら、コマチはバードから渡した金の二割分を受け取る。
一瞬でも彼に期待した自分が馬鹿だった、とコマチは後悔した。
「──ところで嬢ちゃん、話は変わるが……剣霊って知ってっか?」
「え?」
「……ちょっとバード? 何聞いてんのよ。わかるわけないじゃ──」
「おめえは黙ってろって。な、どうだ?」
と聞かれても、コマチには心当たりはなかった。
正直に首を横に振る。
「いえ……」
すると、バードはどこか安堵にも似た吐息を吐いた。
「そっか……悪ぃ、今のは忘れてくれ」
「はぁ……」
コマチは気のない返事を返す。
剣霊。
どこかで聞いた覚えがあるような気がする。
が、どこで聞いたのか、それがなんなのか、全く思い出せない。
(何だったかなぁ……?)
頭を捻るが、霞がかった記憶の向こう側からは何も出てこない。
眉間にしわを寄せ、さらに記憶を遡ろうとした、その時だ。
どん、と爆音に似た重低音が、コマチの全身を叩いた。
「──!?」
直後、規模の小さな地震が起こった。
ガタガタと部屋中の家具が物音を立てる。
「な、なんだ!?」
「な、なに!?」
バードとミーナが同時に、異口同音に疑問を叫ぶ。
規模は小さいが、決して軽い揺れではない。
コマチは驚きのあまり悲鳴さえ上げられなかった。
息を止め全身を硬直させた。
三人は無意識にベッドの端を掴み、不安げに周囲を忙しなく見回す。
揺れは十秒ほど続いた。
静まった頃には、部屋のレイアウトは僅かに変わっていた。
「…………」
コマチは早鐘を打つ胸を押さえながら、安堵の吐息をつく。
(び、びっくりした……)
「──なぁミーナ、デイリートって地震のある国だったか?」
「う、ううん……数年にあるか無いかのはずだけど……」
地震の原因が森に棲む一人の青年の仕業とは、勿論この場にいる三人は知らない。
この後、地震で動いた家具を元通りになおし、念のためにと安全点検に来た宿屋の親父に怪我人がいないことを伝えると、三人はコマチを家に送るために宿を後にした。
そう。コマチの実家へ。
誰も待っていない、その場所へ。
「調べたいことは?」
「剣霊についてよ」
「剣霊? って聞き返しても無駄なんだろうな、やっぱり」
「あら、よく解ってるじゃないの」
「超弩級付き合いが長いからな。……やれやれ」
呟きと同時、見開かれたツワブキの双眸が淡い光を帯びた。
彼の両目に収まった、一対の白銀色の水晶。
それが、まるで奥の方でくすぶらせていた火種を膨張させたかの如く、金色の光を放った。
同時、まるで彼の身体から伝染したかのように、室内の大気に漂う埃が同様に金色の淡光を帯びた。
そしてそれはさらに伝染し、壁際の本棚、セラフィーの足元に詰まれた本の山まで。
場は、部屋全体が光が淡光を放つという、一種幻想的な光景となる。
そんな中でもセラフィーの表情は、少女らしかぬ硬さのままだ。
やおら、ツワブキは厳かにこう告げた。
「──検索開始」
一言。
そして静寂が満ちた。
数秒。
ツワブキは身じろぎ一つしない。
セラフィーも同様に、じっとツワブキを見守っている。
さらに待つこと数秒。
「……ふむ」
ツワブキが嘆息にも似た吐息をついた。
「……どう?」
セラフィーの問いに、ツワブキは双眸を細め、ニッと笑う。
頷いた。
「──アタリ。ただし、二項目だけ」
「二つだけ?」
「ああ。お前のことだから、剣霊が何なのかってのはもう知ってんだろ? で、それを除けば、たった二つだけだ」
「あら、サービス良いのね」
「なにせマイリトルプリンセスの為だからな。俺、超弩級がんばるぞ」
「ありがとう、と言えばその苦労は報われるのかしら?」
「無論の勿論」
「じゃ、その二つだけの情報に価値があれば、言ってあげるわ」
「かーっ、相変わらず手厳しいねぇ、お前は」
ふぅぅ、とわざとらしく肩を竦め、大袈裟に溜息を吐いてみせる。
だが、内心ではまんざらでもなかった。
何故なら、セラフィーの言葉は正しいのだから。
そう。彼とこの少女との関係は、彼の能力無くしては語れず、また有り得ないのだから。
彼の能力。それは『ある決められた一定の範囲における情報を検索或いは分別する能力』である。
もっと簡単に言おう。
彼はこの国立図書館にある全ての情報の中から、自分の望む情報だけを自由に取り出すことが出来るのだ。
一言で言えば、検索能力。
対象となる情報媒体は本でも良ければ、人間の脳でも良い。
とにかく『それ』に情報が詰まっているのなら、それは彼の能力の対象となる。
ただし、あくまで『国立図書館』と範囲が限定されるのと、キーワードによる検索しかできない融通の無さが欠点だ。
また、彼の能力を行使するためには両の眼に収まった『水晶』が必要となる。
この『水晶』は正式呼称『義眼形情報蓄積水晶』、別名『サード』とも呼ばれる、ある特殊な才能を持つ者にしか扱えない代物だ。
ツワブキは思う。
もしこの『両目』が無ければ、自分はただの魔法使いであり、エリート中のエリートであるセラフィーとは袖擦り合うこともなかったであろう、と。
「──そんじゃま、情報公開といきますか」
ツワブキの言葉に、セラフィーが軽く頷く。
彼は右の人差し指を立て、
「とは言っても見つかった情報は人名とその備考だけだ。詳しいプロフィールは他の所で調べてくれよ」
「わかったわ」
「うし。んじゃ、まず一人目。アレス=フォルスター。記録によると、殺戮数歴代十六位。予測によると死ぬまでに十六位から八位まで上昇する──とんでもねぇジャンキーだな」
「なるほどね」
セラフィーの反応に、ツワブキは少し面食らう。
歴代十六位。歴代というのは勿論、今までの歴史の中で、という意味である。
つまり、今までに何百億、何千兆人存在したか解らない大勢の人間の中で、十六番目に多く人を殺しているのである。
そして、死ぬまでにそれが八位まで上昇するのだと言うのである。
歴史のトップテンに入る、殺戮者なのである。
それを聞いて──なるほど?
「お、驚かねぇ……のか?」
事も無げにセラフィーは頷いた。
「ええ。……あなたも、剣霊が【そういうもの】だっていうのはもうわかってるんでしょう? 今更驚くことはないわ」
「そ、そりゃそうだが……」
そう簡単に飲み込める事実なのだろうか、とツワブキは思う。
しかし、そんなツワブキの心を見透かしたかのように少女は呟いた。
「……あなたも実際に目の当たりにしてみればわかるわ」
その言葉に、ツワブキは今度こそ面食らった。
「──!? お、お前、まさか剣霊を……!?」
見たというのか。現在、【封印さているはずの】剣霊を。
世界を滅ぼしかねない危険を孕んだ、失われた凶器を。
だが、彼の言葉は半ばで途切れる。
セラフィーの冷たい視線が、ツワブキに突き刺さっていた。
言外に、詮索するな、という瞳。
ツワブキはごくりと唾を飲み、
「……わかってんのか? 喪失遺物なんだぞ、剣霊は。その封印を解いたってこたぁ、超弩級とんでもないことなんだぞ?」
「──念のために言っておくけど、封印を解いたのは私じゃないわ」
「…………」
ツワブキは荒々しく、深い吐息を一つ。
あくまで冷静なセラフィーの声に、ツワブキはこれ以上の言及を諦めた。
「──ったく……!」
「で、もう一人は?」
促すセラフィーを一秒ほど睨むと、ツワブキはその名を口にした。
「セイジェクシエル」
敢えてその以上は口にしなかった。
言わずとも、セラフィーには解るはずだからである。
記憶を探っているのか、一瞬セラフィーの視線が宙を泳いだ。
「──『武闘将』……」
『武闘将』。
それは、魔法国家ウィズにおいて、『魔力を持たない者』の着ける最大の地位である。
この国の特色上、やはり肉体的な強さを持つ戦士は必然的に不足している。
そのため、ともすれば強力な戦士は並の魔法使いよりも重宝されるのだ。
『武闘将』とはつまり、この国における【最強の戦士】の事を指す。
セラフィーの呟いた言葉にしかし、ツワブキは首を横に振った。
「いいや、今は違う。『閃裂輝光兵団』って聞いたことあるだろ?」
「確か、ここ数年になって目立ってきた盗賊集団だわ」
「そうだ。なにせ武闘警察でも魔導治安維持隊でも手が出ねぇ。そろそろ八軍団のどれかが出張るんじゃねぇかって噂されてるほどだ。超弩級危険な奴等だぜ」
「それなら久槌あたりが行きそうね」
「ああ……あの有名な死にたがり。氷の軍団長、だったっけか?」
「ええ。詳しい理由は聞いてないけど」
「どうせ、興味がないから、だろ」
「よくわかってるわね」
「おかげさまでな」
二人は同時に苦笑。
「それにしても……」
セラフィーはそっと息を吐いた。
「まさか、どっちも犯罪者とは、ね」
「怖ぇのか?」
「まさか。むしろ、その逆よ。最近、面白いテーマがないか探していたのよ」
「テーマって……をいをい、マジかよ?」
戦慄がツワブキの背筋を走り抜けた。
ぞくり、と背筋に氷でも入れられたかのような寒気を覚える。
この、目の前にいる少女は、封印されるほどの凶器と歴史的犯罪者二人を相手に、一体何をやらかそうとしているのだろうか。
解らない、判らない、分からない。
そして次の瞬間、ツワブキは改めて彼女の底の深さを思い知らされる。
ツワブキの問いに、セラフィーは口元に笑みを浮かべ、こう言ったのだ。
「これからしばらく、退屈しないで済みそうだわ」
退屈しのぎをするらしい。
「ここから小一時間ほど行くと、小さな村があります。ご存じですか?」
「ああ。母国の村だ。行けば何とかなるだろう」
「そうですか。それはよかった」
夜の森。
少年と青年は、森の中にひっそりと建つ小屋の前に建っていた。
小さく開いたドアの隙間から、淡い光が漏れている。
仄かな光による陰影が、少年と青年の輪郭を朧気に、夜の闇の中に浮かび上がらせていた。
「それでは、世話になったな」
「いえ。暗いので、お気をつけて」
「ああ」
チャスターはラミリエルに背を向け、夜の森に向かって歩き出した。
が、ふと足を止め、
「──やはり言っておこう」
「は?」
チャスターは振り返り、
「言葉には気を付けた方がいい。思わぬ言葉が思わぬ事態を引き起こすこともある」
彼が言っているのは、先程、小屋の中で交わした会話についてのことだ。
いきなり『お帰りください』は失礼である。
彼はそう言っているのだ。
が、ラミリエルはその意を汲んだのかそうでないのか、顔に微笑みを浮かべ、
「はい。ありがとうございます」
と言った。
「…………」
チャスターはどうにも釈然としないが、これ以上の言及は無駄だと悟る。
再び背を向け、
その場で回転するように、また振り返った。
「──そういえば名前を聞いていなかったな」
「おや、そうでしたか?」
「私から名乗ろう。私はチャスター=クレイジー。獣人国家・咆吼の者だ」
クレイジー、という名を、ラミリエルは小さく反芻した。
そして、薄い微笑を崩さぬまま、彼もまた名乗った。
「私はラミリエル=アルパラスと申します」
「ラミリ……エル?」
聞いたことのある名だな、とチャスターは眉根を寄せる。
どことなく、天使を彷彿させる名だ。
記憶を探るチャスターに、ラミリエルが声をかけた。
「あなたは、自然が好きですか?」
「……む?」
唐突な質問に、チャスターは瞬間、言葉に詰まった。
一拍置いて、返答する。
「──愚問だな。我ら獣人は自然と共に生きている。好き嫌いの次元では言い表せない程に、な」
誇りと自信に満ちた声だった。
そう、彼には矜持がある。
拳は民のため。
体は王のため。
命は国のため。
そのためだけにあるという、矜持が。
チャスターの答えに、ラミリエルは満足げに微笑を浮かべた。
そして優雅とも言える動きで腰を折り、頭を下げ、静かにこう言った。
「あなたの進む道に、自然の恩恵があらんことを」
別れの言葉だった。
ラミリエルから聞いた村は通り越した。
既に己の居場所は把握している。
村から二時間も行けば、咆吼の首都『月花』に着くはずだ。
チャスターは夜の森を疾走している。
月花に着くのが早いか、夜が明けるのが早いか。今はそんな時間だ。
チャスターは走りながらも思考する。
月花にたどり着いたのならば、すぐにでも獣王に報告をしなければ。
邪神酒、と言っただろうか、あの女は。
あれほどの力を持つ者を、チャスターは神話でしか聞いたことがない。
もし、あの女が何か良からぬ事を企てれば──?
そう考えただけでぞっとする。
何かしらの対応策を立ててもらうためにも、獣王に報告をするべきである。
そして──
「…………」
チャスターは走りながら眉根を寄せた。
左胸──心臓に違和感がある。
走り出す前は特に何もなかったが、どうやら走り出して鼓動が早くなったことにより、認識できるものになったらしい。
心臓の中で、血流が何かに引っかかっているような、そんな違和感。
痛いわけでも苦しいわけでもないが、どうにも気になる。
やはりこれは──
(あの時、心臓に何かを撃ち込まれたのか……?)
もしそうであると仮定するのならば。
チャスターはさらにこう予測している。
【撃ち込まれたのはあの指輪ではないだろうか】、と。
邪神酒はチャスターに指輪を渡すことに固執していた。
理由は分からない。まさかプレゼントでも無かろう。
受け取れ、と女は命令した。
拒否すれば殺すとも言った。
事実、チャスターは彼女の圧倒的な力の前に、死の危機に面した。
そして、それは今もそれはある。
心臓の違和感──それは、死を直感させるには十分な感覚だ。
チャスターは思う。
邪神酒は何者なのか?
何故、指輪を渡すことに固執していたのか?
そもそも、あの指輪は一体何なのか?
それらは答えのでない疑問である。
だが、考えても答えが出ない疑問であるからこそ、今、チャスターの中である一つの決意が固まろうとしていた。
その時だ。
頭上に、圧倒的な存在感を感じた。
思わず立ち止まり、空を仰ぐ。
森の木々の隙間から、夜明け近くの紫の空が見えた。
そして、その隙間を、巨大な影が埋める。
「……あれは……!」
我知らず、声が漏れた。
巨大な影は、長大な羽根を生やした蜥蜴のような形をしていたのだ。
そんな形の影を持つ存在は、間違えようもない。
竜だ。
竜の腹がチャスターの視界を通り過ぎると同時、風の音が鳴る。
大きな物体が空を切る音だ。
そして、その音は連続した。
「!」
気が付くと、空には幾匹もの竜が舞っていた。
チャスターはそれらの全てに目を走らせる。
と、竜の上に、人影が見えた。
シルエットからして、ごつい。
鎧をまとった人影だ。
竜に袴った鎧の人影。
その姿は、チャスターにある名詞を吐かせた。
「……デイリートの竜騎士──!?」
これから戦争が始まる。
その事実を、少年はまだ知らなかった。
風が吹いていた。
冷たい風だ。
人気のない団地街を駆ける風は、コマチの体を、そして心を冷やす。
コマチは絶句していた。
言葉に迷っているわけではない。
言うべき言葉が見つからないのではない。
言葉を発する──その行為すら忘れていた。
ただただ、目を皿のように見開いて。
そしてそれは、コマチの一歩後ろに立つミーナとバードも同様だった。
「……こいつぁ……」
バードが低く呻いた。
それが引き金だったかの如く、コマチの手からバッグが落ちた。アスファルトの上でくぐもった音を立てる。
コマチはポツリと呟いた。
「……嘘」
声は震えていた。
と、口を開いた拍子、少量の塵が彼女の口内に滑り込む。
だが、今のコマチはそんなことには頓着しない。
ザラザラする舌にも気付かず、もう一度呟いた。
「……嘘……嘘」
ひきつった声だった。
喉の筋肉が痙攣しているような、そんな声。
無理もない。
今、彼女の眼前には、信じがたい光景があった。
何も、ないのである。
まず、視界を遮るものがない。
遥か遠くに建つ家々と、その上に広い夜空。
天上には針の如き三日月。
広い空間。
そう。街灯も、建物も、コマチの家も。
全て。
無かった。
消えていた。
街が、丸ごと一つ。
ただ、塵が舞っていた。
まるでここにあった物全てを塵に変えたかの如く、砂塵のように塵が足元を舞っている。
あるはずの物は全て無く、広い空間とそこに満ちる空気、そして足元をたゆとう塵。
誰もいない。
父も、母も、兄も、犬のキッドも。
生きているものは見あたらない。
「……嘘……!」
全身から急速に力が抜けていくのがわかった。
自重を支えきれず、膝を折る。地面に座り込んだ。
胸のすぐ近くに塵の霧。
塵を見て、脳裏に一人の男が思い浮かぶ。
アスファルトや、建物を塵に変えた辻斬りの男。
瞬間、嫌な想像をした。
──この塵は、父さんや母さんかもしれない。
「──!?」
自分の想像におぞましいものを感じた。
今まで硬直していた顔の筋肉が、あからさまに歪んだ。
息を呑む。
叫んだ。
「ぃやぁああああああああああああああああああっっ!!」
それで全ての堰が切れた。
コマチの思考回路は焼き切れ、口からは激情が迸る。
「いやあ! いやあぁっ! お兄ちゃん! お父さん! お母さん!!」
大粒の涙をこぼしながら叫び、両腕を無茶苦茶に動かす。
塵をかき集めようというのだ。
だが、大気に浮くほどの塵がそう簡単に集められるわけはない。
少女が手を動かせば動かす程、塵は彼女から離れていく。
──お兄ちゃんが、お父さんが、お母さんが、離れていく。バラバラになっていく。
「──ぃやあああああああっ! 誰か、誰かっ! いやあっ!」
「おい、落ちつけ! 嬢ちゃん!」
錯乱するコマチの肩を、バードが掴んだ。が、
「いやっ! いやあっ!」
コマチは暴れ、バードの手を振り払おうともがく。
まだ、塵をかき集めようとしているのだ。
バードは眉を寄せ、ちっ、と舌打ちを一つ。
暴れるコマチを背後から抱きしめ、必死に抑えながら、傍らに立つもう一人の少女に向かって叫ぶ。
「ミーナ、お前今から役所行って誰か呼んでこい!」
バードの声に、眼前に広がる荒野を呆然と眺めていたミーナは電撃に打たれたかの如く身を震わせた。目を白黒させて、こう呻く。
「……え?」
その声はしかし、コマチの「いやあっ! 離してぇ!」にかき消された。
バードは、ああもう、と口の中で呟き、
「いいからさっさと役人呼んでこい!」
一拍。
そして、恐ろしいまでの現実を言葉に換えて叫んだ。
「──街が一つ消えてんだ!!」