O.B.K
〜あいつはオバケじゃない?〜




 あたしは幽霊と旅に出る。


「……あのさ」
「ん? 何?」
「いや、あたしさ、実は飛行機に乗るのって初めてなんだよね」
「そうなのか? ああ、それで離陸の時やけにはしゃいでたのな、お前」
「うん。でさ、今、ちょっと疑問なのよね。本当に今、この鉄の塊は空を飛んでるんだよね?」
「おいおい、お前いつの時代の人間だよ。俺に聞かなくても、実際に飛んでるだろ?」
「だよね? だよね? 飛んでるよね?」
「ああ、飛んでる飛んでる、飛んでます。それがどうかしたか?」
「うん。あともう一つ疑問があるんだけどさ、人間って空飛べないよね?」
「はぁ? ……あたり前だろ? 人間が空飛べるわけないだろ。飛べたら飛行機なんていらないって」
「だよね? だよね? ……で、でもさぁ……」
「何だよ? 変な奴だな」
「うん。自分でも変な奴だと思う。……あのさ、ごめん、ちょっとアレ見てくれる……?」
「アレ? アレって……どれだよ?」 
「だからアレ、窓の外。……見える?」
「だから何が? 空と雲以外何も見えないぞ?」
「嘘! 見えるでしょ!? ほら、アレ!」
「な、なんだよ、いきなり……」
「もっとちゃんと見てよ! 窓の外に誰か立ってるじゃない! 男の子! 白い服着て、背中に『おばけ』って!」
「お、おい、どうしたんだよ、『おばけ』ってお前……」
「ほらこっち見て手振ってるじゃない! 見えないの!? ねえ!? 見えないの!?」
「おい、いい加減にしろって、お前なに分けのわかんないこと言ってるんだよ!」
「ここ空なんでしょ!? 地面ないんでしょ!? なのになんであの子歩いてんの!? ねえコレ本当に飛んでるの!?」
「おい、落ちつけって!」
「教えてよ、ねえ!? あの子が見えるのあたしだけなの!? あたし、おかしくなっちゃったの!? た、助けて! ねえ、助けてよ!」
「落ちつけ! いいから落ちつけ!」
「これが落ち着いてられ……! …………あっ」
「落ちつけよ、深呼吸しろよ……ん?」
「……消えた……」
「はぁ?」
「……消えちゃった……男の子……背中に……『おばけ』って書いてた……」
「だからなぁ、お前、どうしたんだよ? 大丈夫か? 病院いくか? 最近忙しそうだったし、働き過ぎたんじゃないのか?」
「そ、そうかな……そう、だよね……ハワイついたら、ちょっと休む……」
「そうしろ。まったく、おばけなんか見えてきたら人生やばいぞ? 冗談ぬきで」
「おばけ? ……あ、そっか。あたし、おばけ見ちゃったんだ……ああ……どうしよう、あたし電波系になっちゃったかも……おばけ……おばけ、かぁ……」





 飛び降りて死んだ奴はこの世にいない。
 いつだったか、もう名前も顔も思い出せないが、小学校のクラスメイトがこんなことを言っていた。なるほど。確かに。高いところから飛び降りて死んだ人間は、もう『この世にいない』だろう。なんとも他愛のない言葉遊びだ。つまらないことを思いつくものだ、と当時は呆れながら感心した。
 そんな思い出が脳裏をよぎることで、楸輝色は我が身の状況を明確に思い知った。こんなつまらないことを思い出すほど、自分の心は追い詰められている、と。
 一三メートルという数字はそれだけを見れば取るに足りないものだが、こうやって見下ろしてみると、それがいかに恐ろしい数字であるか。輝色は自分の見解の未熟さを痛感していた。
 甘く見ていた。なんだ、この目も眩むような光景は。授業で分度器を使ってこの校舎の高さを測ったとき、あれは確かに一三メートルだったはずなのに。こうやって見れば地面まで一〇〇メートル以上はあるように見えるではないか。計算が間違っていたのだろうか。
「そうよ……そうに違いないわ……」
 ぽつり、頭に浮かんだ数学教諭の顔に冷笑を浴びせながら呟く。所詮あんたの教えていることは、いざというときには役に立たないものなのだ。
 一月の冷たい風が、地上から一三メートルの位置に立つ少女の全身を、やや強めに撫でる。少年のように短い髪の毛が静かに揺れる。
 私立神無学園、B校舎、屋上の縁、隙間だらけの鉄柵を超えた向こう。一歩踏み出せば二秒で死に至る場所に、楸輝色は立っている。
 死ぬ気だった。
 落ちて死んでしまえば楽になれる。そう思ってここまで来た。
 その決意はまだ、くじけてはいない。
 鉄柵を握る両手に伝わる冷たさ。頬と、スカートから出た素足にまとわりつく冷気。足元に切り立つコンクリートの絶壁、その底にある駐車場のアスファルト。雲一つない空から降り注ぐ、実体のない蛍光灯のような陽光。日曜日の学校に人気は無く、静寂を肌に感じる。
 死のうと心に決めてからは、驚くほど全てをリアルに感じていた。こんな時は、分厚い膜に包まれたように感覚が鈍くなるものだと思っていたのに。今、輝色は全身で世界を感じ取っている。
 だからこそ決心は揺るがない。
 輝色はこの世界が嫌いだった。これから13メートルの高さから落ちて死ぬことが、足が震え、唇が紫色になるほど恐くとも、その感情を圧してなお余るほど、生きていることが苦痛だった。
 視界が広い。輝色の立つ場所からは、爽やかなほど透き通った空と、街の風景がよく見渡せた。歩き慣れた土地も、こうやって見下ろすとどこか新鮮に映る。吐いた息が白く染まって風に乗り、流れ去っていく。
 覚悟は不意に決まった。何気なく『飛ぼう』と思った。鉄柵を握る力が弱まり、重心をゆっくり前へ。
「あ、飛び降り自殺?」
「!?」
 いきなり背中にかけられた声で輝色は石になった。強張った両手が鉄柵を握りしめ、宙を飛ばんとしていた少女の姿は、さながら十字架に張り付けにされた聖人のようだった。
「最近こういうの多いよなぁ。不景気だからかね? しっかし、経営に行き詰まった親父ならともかく、女子高生がなぁ。髪の毛短いし、失恋でもしたのかねぇ? っていうか結構可愛いな……スカートめくって、中身見たいかも。減るもんじゃないし、下に回り込ませてもらうかな……」
 突然聞こえた声は、彫像と化した輝色の回りを動き回りながら、喋り続けた。最初は背後、次に右後ろ斜め、左後ろ斜め、頭上、最後に前方斜め上へと。明らかに声の発生源は、輝色の頭上をまたぐように動いていた。
 見上げる。
 ズボンのポケットに両手を入れた少年が、階段を降りているような体勢で、空中から輝色を見下ろしていた。
「……あんた誰?」
「…………」
 輝色自身、意識せずに口をついて出た誰何の言葉に、少年は軽く目を見張った。地面に落ちていた小銭を見つけた、という感じだ。少年は、輝色が屋上から飛び降りて五回は死亡できる程の間を置いてから、口を開いた。
「あれ?」
 あれじゃないだろ。反射的にそう言おうと思ったが、その前に輝色は気付く。
「浮いてる……」
 輝色の立つ位置が地上一三メートルならば、少年の足があるのは地上一五メートルと言ったところだろうか。少年の爪先は輝色の額よりも遥かに高い位置で静止している。
 輝色が間の抜けた顔で少年を見つめていると、彼は空中で屈み、右手をポケットから取り出して輝色の眼前でヒラヒラと振った。輝色は反応を示さない。ただ、呆然と少年の顔を見ている。
「あれ? 見えてんのかな? 見えてないのかな? 微妙だな……」
 小首を傾げる少年の声だけは耳に捉えていたので、輝色は素直に答えた。
「見えてるわよ……」
「あ、やっぱり?」
 まるで悪戯が見つかった子供のように少年は笑った。その表情には邪気がまったく無く、一瞬だが輝色の目に、翼を隠した天使のようにも見えた。だが、少年の余裕のある佇まいに輝色は反感を覚えた。不意に、途方もない理不尽を感じたのだ。今これから自分はここから飛び降りて死のうというのに、こいつは何故こんな風に笑うのか。笑えるのか。
「やっぱりって何よ? っていうか、だからあんた誰?」
「ああ、いやいや、そんなに眉つり上げないで。恐いから。ってことは、あれかな? 俺がスカートのぞくとか言ってたのも聞こえちゃってた?」
「聞こえたわよ。あんた誰よ」
「ああ、ごめんねぇ。悪気はないんだよ。ほら、俺ってあんまり人に見えないしさ、君もどうせ死ぬなら見知らぬ男にパンチラぐらい最期に見せてもいいとか思わない?」
「あんた誰よ!」
 喉の下から熱い感情が勢い良く衝き上がり、弾けた。少年の口から出た卑わいな単語による恥ずかしさも相まって、顔が赤くなっているのが自分でもよくわかった。荒い息を繰り返して、輝色は少年を睨む。この行動が八つ当たりだということは、頭の何処かでわかっていた。
 輝色の剣幕に、少年はくすりと笑い、肩をすくめた。
「大庭桂介」
 さりげない名乗りに、輝色はあっけにとられた。
「……はぁ?」
「だから、大庭桂介。俺の名前。あんた誰って聞いたでしょ?」
 そういう問題ではない。
「ち、違うわよ! あたしが聞いてるのは、あんたが何で」
 浮いてるのかってことよ、という言葉は声に出来なかった。口にするのが躊躇われた。言ってしまうと、何かが壊れてしまうような恐怖に駆られたのだ。
 息を詰めたように黙り込んだ輝色に、大庭桂介と名乗った少年はその意を汲んだようにこう言った。
「いや、君の言いたいことはわかるけどね。でもさ、これから死ぬ人間にそんなこと教えたって意味無いでしょ?」
「!」
 痛いところを突かれた。途端、輝色は見下ろす桂介の視線に、むしろ見下されているような気になる。自殺するような奴と交わす言葉に価値など無い。そう言われたようだった。
「……そりゃそうだけど」
「でしょ?」
 にっこり、という副詞がよく似合う笑顔で桂介は頷く。しかしそれだけで輝色の感情が納得するわけはなく、彼女は執拗に食い下がった。
「でも……冥土のみやげとか言うじゃない」
「ああ、ごめん、俺そういうの信じてないから」
「え?」
「それってつまり、死後の世界が存在するっていうのが前提なわけでしょ? 俺、信じてないんだ。死後の世界」
 どきりとする言葉だった。輝色は先程と同じように、桂介に自分自身を否定されたような錯覚に陥る。いや、錯覚ではない。彼は確かに自殺という行為を否定しているのだ。見下されているのも、気のせいではなく、彼は実際に輝色のことを見下しているのだろう。
 輝色としてはこう聞かずにはいられない。
「……どうしてよ?」
「どうしてって、決まってるだろ?」
 桂介は立ち上がり、空中を歩き出した。輝色の頭上を渡り、背後へ。輝色は首を巡らせてそれを追う。
 何もない宙を、空気の橋を渡るように歩く少年の背中に、輝色は奇妙な刺繍を発見する。桂介は白いカジュアルシャツとブルージーンズという出で立ちをしているのだが、その背中には赤い刺繍でこのような文字が描かれていた。
『O.B.K』
「つまりさ、死後の世界っていうのは」
「おばけ?」
「そう、おばけ。……はい?」
 桂介は目に見えない階段を下り、屋上へと降り立った。ちょうど輝色の真後ろ一メートルの位置である。桂介は自分の背中をチラリとかえりみて、
「ああ、これ? ま、気にしないで。それで、死後の世界なんだけど」
「あ、うん」
「死後の世界っていうのは、大昔の詐欺師のついた大嘘。俺はそう思ってるよ。天才だね、最初に思いついた奴は。大昔から現在にいたるまで、めちゃくちゃたくさんの人を騙しているんだから」
「……嘘?」
「そう、嘘。科学的に、というより、現実的に考えてみれば簡単だろ? そんなのどこにあるのさ。地面の底? 空の上? 角を生やした鬼や、翼を生やした天使? あり得ないね。人間なんて、つまるところ生きたロボットと言ってもさしつかえないんだよ。死んだら終わり。死後の世界もなければ、魂なんかも存在しない。死んだ後にまた新しい人生が始まるなんて、夢みすぎ。っていうか、都合良すぎだよ」
 言いながら、桂介はゆっくりと鉄柵に歩み寄り、輝色に近づく。輝色は屋上の縁の上で体ごと振り返り、何故ともなく桂介に対して身構えた。鉄柵をさらに強く握りしめる。
「……あたしはそうは思わないけど」
「そう? なんで?」
「あるかもしれないじゃない。世の中、科学とか、人間の頭だけで理解できるようなもんじゃないわ。もしかしたら本当に、魂みたいなのがあって、死んだ後はどこかに飛んでいくかもしれないじゃない」
「ふーん……ま、『なんとかカモ』って、可能性のことを言い出したらキリがないんだけどね」
「でしょう? 可能性ぐらいあるでしょ? 死後の世界が嘘かどうかなんて、わかりっこないじゃない。そうでしょ?」
「そうだねぇ」
 白い息を吐きながら反論する輝色とは逆に、桂介の口から声以外のものは出てこない。少年はジーンズのポケットから両手を取りだし、輝色と同じように鉄柵にかけた。もたれかかり、頭を下げて、下から覗き込むように視線を少女に送る。輝色は思わず腰を引きかけたが、背後は虚空だった。
 少女と少年は、鉄柵から上空へ伸びる見えない壁を挟み、対峙する。斜めに交差する視線の中、桂介は口の端を軽くつり上げて笑い、こう言った。
「それじゃ、死んでみたらわかるんじゃない?」
「え?」
 その言葉に、輝色は喉を直接掴まれたような思いをした。刹那、息が詰まる。桂介の瞳が刃物のように鋭く輝く。
「ちょうどいいじゃないか。君、死のうとしてたんだろ? 死んでみたら、今の話、本当かどうか判明するじゃないか。ああ、ちなみにさっき説明したから冥土のみやげは無しだよ。あげても意味無いからね」
「…………」
 輝色は必死に表情にカーテンを掛けた。初対面の人間に、面と向かってこのようなことを言われたのは、勿論生まれて初めてだった。ましてや空中を闊歩する正体不明の人物となれば、世界中を探しても前例は無いだろう。当然、輝色にとっても未知との遭遇であった。強がっているようにも反発しているようにも見える、必死の無表情を輝色は作ったが、実はどのように反応すればいいかわからなかっただけだった。
「…………」
 無言のまま、輝色は少年の顔から視線を外し、足元へ移す。一三メートルの高さに、目が眩んだ。気がつけば、つい先程まであった覚悟が全身から剥ぎ取られていた。さっきまで当たり前のように『飛べる』と思っていたのに、はるか下方にある駐車場のアスファルトを見た瞬間、肝が縮み上がった。我ながら、顔が青くなるのがわかった。
 トイレに行きたくなってきた。
「事情はわからないんだけどさ。自殺しようと思ってここまで来たのは大したものだと思うよ。ほんと。よっぽどの理由があるんだよね。どうも俺が邪魔しちゃったみたいで、ごめん。ほら、遠慮なく飛んで良いよ」
 そんなことを言われても困る。飛べと言われて簡単に飛べるものか。足の震えを抑えるのが精一杯なのに。大体、なんなのだこの男は。こいつさえ邪魔しなければ、今頃自分は亡き者になっていたというのに。いきなり現れて余計なことをしておいて、この態度は何様のつもりなのだ。言い種にも腹が立つ。
「あ、でも、出来ることなら落ちる前にパンチ」
 望み通りにしてやろう、と思った。
 軽い左ジャブを顔面に叩き込んでやった。
「ラをぶっ!?」
 小気味よい手応えがあった。不意打ちは完璧なまでに成功し、桂介は不敵な笑みをそのままにのけぞった。
「っとっとっとっ……」
 鉄柵から手を離して数歩後退した桂介は、それからようやく殴られたことに気付いたらしく、しばらく呆然とした後、驚きを隠せない顔でこう言った。
「……いきなり何をするんだ」
 アホかこいつは。
「うるさいわね! さっきから人が大人しく聞いてたら好きなことベチャクチャ言ってくれちゃって何様なのよアンタ! 大体あたしがせっかく飛ぼうとしてたのにアンタが邪魔したんじゃない! おかげで恐くなってきたじゃないの! どうしてくれるのよ本当に飛び降りられそうな気がしてたのに!」
「いや、そう言うことを言われてもなぁ。気分で飛び降り自殺っていうのもどうなのさ」
「うるさい! あんたのせいでやる気なくした! 大体、あんたこそ何なのよ! いきなり出てきて、浮いてて、意地悪なこと言って、この変態!」
「へ、変態!?」
 言いたいことを一気に吐き出した輝色は、すぐ側で落雷が炸裂したような表情の桂介を横目に、足を上げて鉄柵を乗り越えた。その時、桂介の視線が輝色の下半身に向かう。明確に言えばスカートの裾まわり、輝色の太股へ。
「どこ見てんのよ」
「はっ? あ、いや、その……変態は言い過ぎじゃないだろうか」
「どこがよ!」
「流石に傷つくじゃないか。せめてエッチとかスケベとか……オブラートに包まれていて良いと思うんだけど」
「ふざけんな!」
 怒声の爆弾を叩き付け、輝色は桂介を無視して歩き出した。
「どこに行くのさ?」
「あんたのいない所よ!」
「俺が浮いてた理由知りたくないの?」
 ビデオの静止ボタンを押したように、輝色の足が止まる。
「…………知りたくないわよ!」
 精神にまとわりつく好奇心のツタを払い除けるように怒鳴って、輝色はまた歩き出した。こころもち速度も上がる。
「また、微妙な間をとってから言うんだねぇ。興味あるんでしょ?」
 桂介の笑い声が少女の背中を追いかけてきた。嬉しそうなその響きが、輝色の感性をささくれさせる。心の中を見透かされたようで、恥ずかしかった。そうとわかってしまう態度をとる自分にも腹が立ったが、それ以上に、そのことを口に出して言う少年の方がよっぽど癇に障った。
「うるさいわね! ついてこないでよ!」
「どこをどう歩こうがそれは俺の自由だよ」
「また殴るわよ!?」
「おっと、それは勘弁……っと、ちょっと待って。ストップ」
 桂介の右手が輝色の肩を掴んだ。反射的にその手を払い除けようとした輝色は、思わぬ強い力に驚く。冗談の範疇を飛び越えた何かを感じた。自然、輝色の抵抗は弱いものになった。
「ちょ、ちょっと……痛い」

 その頃、私立神無学園の敷地内、北側に位置するB校舎の出入り口の一つに、二つの人影が立っている。一人は大柄、もう一人は小柄。比べて見ると、大柄な方は小柄な方より二倍以上の身長がある。

「あ、ごめん。でもちょっと待って。やばいかも」

 小柄な方が歩き出し、その後を大柄な方がついてゆく。大柄な方が歩きながら身を屈め、小柄な人影を片腕で肩に担ぎ上げた。

「やばい? やばいって……何がよ?」

 二人は校内を勝手知ったる様子で進む。その足取りに迷いはなく、彼らは最短距離でB校舎の屋上を目指す。

「あー、でもちょうどいいか。君、死ねるかもよ?」

 小柄な方が、大柄な方の肩の上で、何事か囁く。大柄な方は、廊下を歩きながら重々しく頷く。

「はぁ? ……って、ちょっとあんた、なによそれ?」

 冬休みの期間中に限ったことではないが、屋上へ続く階段の前には檻にも似た巨大な格子が立ちはだかっている。巨大な南京錠がぶら下がっており、通常、生徒達はこの先へ向かうことは出来ない。だが何事にも抜け道というのは生じるもので、生徒の中には、どこで手に入れたのか錠の合い鍵を持つ者や、誰が細工したのか鉄棒の一本が取り外せることを知っている者がいるのだった。

「秘密兵器ってやつかな。あ、ところで、君の名前まだ聞いてなかったよね?」

 二人は屋上への道を遮る格子の前に立った。

「な、なによ、いきなり。人の名前聞いてどうするつもりよ」

 格子をじっくり観察した後、小柄な方が何事かを呟く。

「君だって俺の名前聞いたじゃないか。それと理由は変わらないよ。それに、人に名乗らせておいて自分だけ名乗らないなんて、変態呼ばわりするより失礼とか思わない?」

 大柄な方が大きく頷く。

「だからあたしはあんたの名前なんか聞いてないわよ! ……楸、輝色だけど」

 小柄な方が肩から飛び降り、大柄な方から少し離れた位置に立つ。

「へぇ、ひさぎきいろちゃんかー。イエローなんだね」

大柄な方が、動いた。

「字が違うわよ。あたしのは輝く色って書くの」

 格子が強烈な力で切り裂かれた。
 金属の断たれる音が連続して、校舎の中を反響して飛び回る。音は烈風となって屋上にも飛び出し、ちょうど階段の近くにいた輝色と桂介は、全身にその音を浴びたのだった。
「……な、なに……? 今の音……」
 怖々と輝色は音のした方へ顔を向ける。
「おいでなすったね」
 桂介が溜息混じりに呟く。
 やがて、輝色の耳に重厚な足音が聞こえてくる。ゆっくりと、何かを踏みしめるような速度で、階段を上がってくる。屋上に、上がってくる。ごくっ、という音がしたと思ったら、それは輝色自身が生唾を飲み込んだ音だった。
 そして、彼女は見た。
 世にも奇妙な二人組を。

 それは小柄な少女を肩に乗せた、大柄な男だった。
 輝色が今までに見たことも聞いたこともない組み合わせだった。
 実際にはもちろん、テレビや小説、漫画でもこんな格好をした人間達を見たことはなかった。
 小柄な少女は、しかし神父の服と思しき黒衣を身につけ、同色のカウボーイハットをかぶっている。さらに蛍光イエローのジャンバーを羽織り、履いているズボンは葡萄酒を染み込ませたような色をしていた。帽子の鍔下から顔が覗き、大きな青い瞳が現れる。庇の影にあっても、それはまるで千年をかけて結晶化したような水晶の如き──あるいは永久凍土の核から取り出した氷塊のような──淡い輝きを放っていた。
 少女の出で立ちは珍妙だったが、大柄な男は異常だった。
 なによりまず目に付くのは、顔を覆う鬼面だろう。怒りの感情をそのまま色にしたように真っ赤で、作り物にしては嫌に生々しい金色の瞳を持つ仮面だった。その上には漆黒のシルクハットをかぶっている。筋骨隆々たる体を包んでいるのは、シルクハットと比べて、みすぼらしい黒衣だった。所々が鋭いものに引っかけたように破れており、茶色い泥がついているジャケットとズボン。それらとは裏腹に、漂白したように白いシャツが男の中央部で太陽の光を浴びて輝いている。
 背に長大な刀を背負っていた。
 屋上に渇いた冬の風が吹いたが、輝色の背筋に悪寒が走ったのはそのせいではないだろう。
「…………」
 なにこいつら。輝色の心の底からわき上がった感想が、それであった。無論、口には出さない。出せない。この奇妙な二人組には形容できない威圧感があり、輝色の喉はその手に押さえつけられている。
「「…………」」
 対する二人組も黙り込んでいる。しばらくしてから、少女が小首を傾げた。男は微動だにしない。少女は男の肩の上から身を乗り出して、大きな瞳をくりくり動かして辺りを見回し、輝色に目を留めた。
「……ここで何をしているんですか?」
 鈴を転がすような声の、流暢な日本語だった。よく見れば、カウボーイハットの影から見える髪は黒い。日本人なのだろうか。
「あ、いや……」
 輝色が返答に困っていると、少女が続けて質問を重ねた。
「ここで人を見ませんでしたか? 背中に赤いローマ字が書いてある白いシャツと、青いズボンの男です。見えましたか?」
 鈴を張ったような瞳が、輝色を飲み込もうとするように見開いた。淡い輝きに縁取られた視線が輝色のそれとぶつかり合う。蛇に睨まれる蛙の心境の一端を、輝色は肌で感じる思いだった。
 少女が帽子を上げ、さらに輝色の瞳を覗き込もうとしたとき、
「俺はここにいるけど何か用かな?」
 自信に満ち満ちた声が高らかに響いた。
 輝色は見た。丸く開いていた少女の瞳が、刹那にして、鋭く凶悪なものに変化する瞬間を。それを一度も見たことはないが、暗殺者の瞳とはこんなものだろう、と感想を抱いた。
「……やはりいましたか、オオバカさん」
 溜息を吐いた後、不思議なことに、背後の高い位置から発された桂介の言葉に少女は振り返らないまま応えた。男も同様に身じろぎ一つしなかった。
「誰がオオバカだ、このクソガキ。俺の名前は大庭だっての」
 何故二人は桂介に振り返らないのか。今、輝色にしかわからないはずのことが、彼らにはわかっているのだろうか。
「今日こそは観念していただきますよ。いい加減、あなたとの鬼ごっこには飽きましたし」
「俺はもうとっくに飽き飽きだったけどな。……どうしたんだよ、ズージィ。こっち向けよ」
 桂介の声のトーンがひどく低い。さっきまでとはまるで別人のようだ。見ると、彼はとても冷たい表情をしていた。宙に立って銀色の懐中電灯のような物を構えている少年は、その体勢のみならず、心からこの二人組を見下ろしていることがわかる。
「お断りします。……というのは、前回も言いましたっけ。では今回は、素直に応じてみせましょうか。伊達」
 ズージィと呼ばれた少女がそう言った途端、輝色の前に立っていた二人は風になった。伊達という名前らしい男がいきなり動いたのだ。輝色には突然黒い突風が吹いたようにしか見えなかった。
 人間とは思えない動きで二人組は桂介に躍りかかった。


「……勘弁してよ。なにそれ? それ、信じろっていうの? あんたバカ? オオバカでしょ?」
「だから俺の名前は大庭だって。信じられない? 無理? 絶対無理?」
「無理。絶対、無理」
「そこをなんとか」
「できるわけないでしょ!」
 時はすでに夕暮れ。窓から差し込む夕日が眩しい。茜色の光は視聴覚室を真横に通り抜け、机の影に隠れている輝色と桂介を照らす。
 あの直後、輝色は生まれて初めて戦闘というものを見た。
 伊達という男が背負った刀を抜き、桂介に斬りかかったのを皮切りに、事態はあっという間に転がっていった。
 桂介は右手に懐中電灯のような物を、左手には子供の玩具のような武器を持っていた。彼は左手の武器で伊達の斬撃を受け取り、受け流し、巻き込み、反撃を放った。
「だいたいなんなのよ、それ。手に持ってるの」
「ああ、これ? これ、この懐中電灯みたいなのはレーザーガンであいつらの目を灼く。こっちは、俺が開発したマルチメディア・ヴァリアブル・ウェポン。略したMVW。俺はマブーって呼んでるけど」
「なによそれ」
「さっき言わなかったけ? 俺の秘密兵器ってヤツかな? ヒントは特撮の玩具から得たんだけど」
「ヒントっていうか、パクリじゃない。銃になったり剣になったり……どっかで見たような気がしてたのよね」
「お、実は特撮マニアだったりする? 気が合うねぇ、俺の恋人にならない?」
「なるかっ! っていうかマニアじゃないわよ! ちょっとチラッと見たことがあるだけ!」
「ま、こっちはあんまり役に立つとは思ってない。伊達の体力バカには流石にかなわないからね。こっちはあくまで防御と牽制専用。メインはこっちのレーザーガン。これであいつらの目を灼ければいい」
 言葉通り、伊達と斬り結んでいた時の桂介は、とにかく右手のレーザーガンを仮面の目と、ズージィという少女の瞳に向けていた。先端から飛び出す赤い光には網膜を灼き、失明させる効果があるらしい。ズージィはあと一歩というタイミングで目を瞑っていて、伊達は仮面のせいで表情が見えず、効果があったのかどうかわからなかったが。
「そもそもねぇ、なんであたしなのよ。あたしを巻き込むのよ。静かに死なせてよ」
 その時、輝色は屋上の真ん中に突っ立って、まるで大道芸を披露しているような三人をじっと見ていた。誰がどう見ても桂介を殺す気で振るわれている伊達の日本刀。両手に妙な物を持って危なっかしくそれを防ぎながら、レーザーガンで男と少女の目を照準しようとする桂介。伊達の耳のすぐ側で何事か呟きながら、決して桂介から目を離さない少女、ズージィ。
 あまりにも非日常な光景に唖然としていたら、突然、桂介がこっちに走ってきた。普通にではない。空中に見えない道があるように、あるはずのない足場を蹴ってやってきた。そしてこう叫んだ。
『逃げよう!』
 返事をする間もなく、かっさらわれた。腹の辺りを両腕で抱えられて、体が浮き上がり、
 気が付けば宙を飛んでいた。
「いやー、あの時は必死だったからねぇ」
「いやー、じゃないわよ! 勝手に人を抱えて空飛ぶな! あんた人をなんだと思ってるのよ!」
「そういえば君、すんごい悲鳴上げてたよね。なに、恐かったの? 死ぬのが」
「うるさい! ニヤニヤするな! 人差し指であたしの顔を指すな!」
 その後、桂介は空気の階段を校庭まで駆け下り、輝色を下ろすと、こう聞いた。
『どっか鍵のついてる部屋ない?』
 輝色が反射的に考え込み、『視聴覚室』と答えたか答えないかだった。二人の頭上に影が差し、見上げると、屋上の淵から人影が飛び出していた。ズージィを担いだまま伊達が飛び降りたのだ。
 重力加速度で加速して落ちてきた大男は、予想に反して、あっけない音を立てて着地した。階段の三段目ぐらいから飛び降りた程度の砂埃が舞った。
 輝色は心の底から思った。あたしは今、やけにリアルな夢でも見ているんじゃないのか、と。目の前で起こっている事には、どうしても現実感が伴わない。伴わなさ過ぎる。
 鬼ごっこが始まった。どうしてあたしまで一緒になって逃げなきゃならなかったのか、と輝色が気付くのは後のことだった。
『こっちだ!』
 と叫んで走る桂介の後を必死になって追いかけた。学校を飛び出し、アスファルトの道路に出て、街中を駆けずり回った挙げ句、この視聴覚室へと戻ってきたのだった。
「まー、なんとか撒けたみたいでよかったよかった。あいつらしつこいんだよ。いい加減にして欲しいよなぁ」
「それはこっちの台詞だわ! だからアンタ一体なんなのよ!」
「またそれ? だからさっき言ったじゃないか。でもって信じられないと君は答えた。別に良いよ。信じられないなら」
「あんた無茶苦茶よ……ふつう信じるわけないじゃない。頭おかしいわよ」
「あはははは、それよく言われる」
 視聴覚室に逃げ込み、鍵を閉めて落ち着いた後、桂介はこう言ったのだった。

『突然だけど君のさっきの質問に答えよう。俺、実は幽霊なんだ』

 そして現在に至る。
「だからさ、他の人には俺は見えないし、触れない。というか、俺に触れるのは俺が見える人だけなのかな」
「ちょっと待ってよ。……なんか、頭がうまく整理できない……」
「そうだなぁ……例えば、さっき俺に抱えられて屋上から降りた君は、多分君の友達から見たら飛んでいるように見えたんじゃないかな。変な体勢で」
「変なのは余計よ。ってか誰のせいだコラ!」
「うわぁ。最近の女子高生って口悪いなぁ。幻滅ぅ」
「なによ、これぐらい普通よ……って、ああもう、あんたと喋ってるとなんか頭おかしくなりそう……!」
「あ、それ言うの二回目だ。本当に大変そうだね」
 誰のせいだ、誰の。輝色はもはや文句を言う気力すら無くし、机の脚にもたれかかった。大きく溜息を吐き、軽蔑しきった目で桂介を見やる。日も落ちかけてきて、気温が下がっているらしく、吐いた息は煙のようだった。
「……それじゃ、あたしもう関係ないから。帰るわ」
 輝色と同様、机の下で胡座をかいていた桂介は驚いたように声をあげた。
「え? 帰るの? こんな寂しそうな幽霊を放って? しかも命を狙われてるっぽいっていうのに?」
「自分で言うな」
「……今思ったけど、イエローってけっこう遠慮ないよね」
「──!」
 桂介がそう言った途端、輝色の中の火薬に火が点いた。猛然と立ち上がり、いや、立ち上がろうとして机の底に頭をぶつけた。
「!?」
 勢いがありすぎた。輝色の目の前で火花が散った。派手な音を立てて輝色は机と共に転倒する。それでもすぐさま起きあがり、笑い出す一瞬前の桂介に向かって叫んだ。
「イ、イエローって呼ぶなぁっ! たたた……ぅく〜っ!」
「あっはははははははっ! 今のナイス! 今のナイス!」
「うるっさいわね! ぶん殴るわよ!」
 イエローというあだ名がそもそもの原因とも言えるのだ。輝色という名前からイエローが出てきて、イエローからカレーが出てくる。カレーの次は勢い良くレベルアップして『うんこ』だった。一日にして周囲の人間が輝色を汚物のように扱い始める。臭い、汚い、近づくな、バイ菌が移る。最終的にはバイ菌扱いだ。誰が持ってきたのか、輝色の歩いた場所、触れた場所が殺虫剤で消毒された。
「……あたしの名前は輝く色って書くの。今度イエローって呼んだら本当に殴るわよ。いいわね」
 低く押し殺した声と険しい表情にようやく輝色の激情を悟ったのか、桂介は笑みを消して目を丸くし、しばらく置いてから呟くように謝罪した。
「……ごめん」
 予想外の反応だったと思っているに違いない。確かに、我ながら過剰反応だったかも知れない。輝色は少し後悔した。
「……ふん」
 そっぽを向き、わざと大きな音を立てて机を起こす。今度こそ立ち上がった輝色は、机の下の桂介を高見から一瞥し、短く言った。
「それじゃ」
「ああ待って待って。困る。それはひっじょーに困る。ちょっと話聞いて欲しい」
「嫌」
 手を挙げて制止しようとした桂介を、鮮やかなまでに一言で切り捨て、輝色は視聴覚室を出ていこうとする。その背中をしつこく桂介の声が追いかける。
「君は死にたいんだろ?」
「だから何よ」
 輝色は立ち止まらず、振り返らずに、つっけんどんな口調で応答する。
「実は俺もなんだ」
「……はぁ?」
 出入り口に差し掛かったところで、輝色は露骨な声を上げて振り返った。声に込めた感情を、改めて言葉にして言う。
「あんた、何言ってんの? 幽霊が」
「死ねるはずないじゃない、とか言いたいんだろ? わかってるさ」
 わざとらしく輝色の声音を真似た桂介は肩をすくめ、口の端をつり上げて不敵な笑みを浮かべた。左手を腰に当て、右手の人差し指を輝色に向ける。
「ふふん……君の考えることは何でもお見通しさ」
「気色の悪いこと言わないでよね変態バカ」
「…………」
 間髪入れず跳ね返った輝色の台詞に、桂介はしばし彫像になった。題名をつけるなら『衝撃』であろうか。輝色自身、自分の口から放たれた言葉に少し驚いている。今の発言には一ミクロンの遠慮がなかった。
「……まあ、あれだよ。とにもかくにも、君に帰られると非常に困る。実は今もかなり反応に困ったんだけど、それとは比較にならないほど困る。だからせめて話だけでも聞いて欲しい。というか聞いて下さいお願いします」
 桂介は体勢を崩さず、あくまで左手を腰に、右手の人差し指を立てたまま早口に言った。ただ、目を伏せているのだけが先程との相違点だった。
「…………」
 輝色はしばし無言で桂介をねめつける。それを見ていない桂介は、一拍を置いてこう付け加えた。
「あと出来ればもう少し口を謹んでもらえると助かります」
「……人のことをすごく口が悪いヤツみたいに言わないでよね」
 輝色は両手を腰にあてて溜息を吐いた。やれやれ、と呟きながら桂介の側へ戻ると、先程と同じ机の下に潜り込む。
 しばし、じっとりとした視線で桂介を睨み付けた後、輝色は腕を組み顎を上げて口を開いた。
「で、どんな話?」
「あ、やっぱり興味あるんだ?」
「……で、どんな話?」
 声に篭もった怒気が無形の棘となって桂介に突き刺さる。輝色の瞳に宿る光は、殺人未遂犯のそれに近い物があった。
「あの、目が恐いんですけど。目が」
「生まれつきよ。なんか文句ある?」
「いえ、これっぽっちも」
 目を合わせてられなくなったのか、輝色の鋭い瞳から視線を外した桂介は、やや置いてから、うおっほん、と大げさな咳払いを一つ。
「つまりまあ、君はこう考えているはずだ。そもそも俺が幽霊だって話から怪しいけど、さっき起こった様々な現象──例えば空を歩いたりだけどね──を考えると、頭から否定するわけにもいかない、と。とはいえ俄には信じがたい事だから、理論的かつ納得のゆく説明を俺にして欲しいと思ってる」
「…………」
 輝色は敢えて相槌も打たず、頷きもしなかった。胸の内を見透かされているという複雑な不快感がそうさせた。そういった、ささやかな抵抗とも言えない抵抗の現れである沈黙を、桂介は肯定ととったようだった。
「オッケー。説明させてもらうよ。是非とも聞いて欲しい。でも、その前に一つ」
 おもむろに桂介は立ち上がった。
 輝色の口が、あ、と開く。
 短く刈った黒髪の先端が、すっと机の底板に吸い込まれた。
 と思った次の瞬間には、音もなく桂介の上半身が机を通り抜けていた。
「これから話すことに、嘘はないから。それだけは、信じて欲しい」
 幻のように見える、しかしそれは現実の光景だった。
 少年は机に下半身を埋めたまま、眼下の輝色に向かって手を差し出す。
 それを見上げて数秒後、ほとんど何も考えず、ゆっくりと輝色はそれを握っていた。
 それは無言無形の、了解の頷きだった。


「単刀直入に言うと、僕に協力して欲しいんだ」
 机を二つ並べ、互いに向き合うように座ると、桂介はそう切り出した。
「とはいえ、いきなりこんな事を言われて『はいそうですか』と答えるわけにもいかないだろうね。っていうか、そんな人は遠慮したい。……さっきも言ったけど、俺は幽霊みたいなものなんだよ」
「……幽霊、みたいなもの?」
「そう、みたいなもの」
「なにそれ」
「俺はね、死後の世界ってのを信じてない。だから、幽霊っていうのも信じてない。だから、俺は幽霊じゃない」
「……なんか理屈っぽいけど、理屈になってない気が……」
「そう? でも俺が考えるに、これは極めて科学的な現象だね。俺が検証した結果、いくつかの事がわかってる」
 桂介は椅子から立ち上がり、黒板の前に立った。白いチョークを一つ手に取る。
「まず、普通の人は俺を見ることも、触ることもできない」
 慣れた手つきで口に出したことを黒板に記してゆく。速い。ほとんど喋るのと同時に文字が生まれた。
「でも、ある特定の人間には俺が見え、触ることができる。例えば君とかがそうだ」
「『とか』ってことは他にもいたの?」
「うん。一番最近のは、空を歩いているときに飛行機の中の人に見られた事かな?」
「……可哀想に……」
 飛行機の中から桂介を見てしまった人物に思いをはせて、輝色は小さく呟いた。きっとものすごく驚いただろうに。
「ここまではだいたい幽霊っぽいんだけど、次の点はやけに奇妙だよ。俺はね、視線に引っ張られるんだ」
「……は?」
 輝色は桂介の言っていることが瞬時に理解できなかった。思わず眉根を詰めて聞き返す。
「ほら、俺は飛行機の中の人に見られたわけだけど、飛行機に乗っている人がそんな長時間、俺のことを見ていられると思う? 飛行機って滅茶苦茶速いんだから、普通は一瞬で通り過ぎてあっという間に見えなくなるはずだろ?」
「……うん」
 なるほど、言われてみれば。
「これはもちろん俺自身でコントロール出来るんだけど、俺を見ている人がそのまま移動したり、視線の向きを変えると、俺の体はその視野の中から出ていかないで引っ張られていくんだ」
「つまり、何処に行っても、どっちを向いてもアンタが見える、ってこと?」
 わりと嫌かも、という心の声を輝色は胸の内に秘めた。
「そう。だから飛行機に乗っていた人も、しばらく俺を観察することが出来た。もちろん、俺の方からそれを拒否することもできる。こういう現象を俺はリンクって呼んでるんだけど、あの時は手を振ったり足を振ったりした後、リンクを拒否した。すると、すごい勢いで飛行機は飛んでいった。何十キロも引っ張られたからその後だいぶ面倒くさかったけどね。あと、これはやってみないとわからないけど、多分、一度視野に入ってからじゃないと、引っ張られないはず。いきなりその人の視野に入ることは出来ないと思う」
「へぇ……」
 すごいのかすごくないのか、何とも反応に困る異常体質であった。輝色は机に肘を突き、掌に顎を載せてとりあえず感嘆の息を漏らしてみる。あまり真情は篭もっていない。
「では次。俺は、俺を見ることの出来る人が近くにいないと、物質に触れることが出来ない」
 言って、桂介は黒板に向かって勢い良く腕を叩き付けた。と思ったら、黒板がまるで立体映像であるかのように少年の腕を飲み込んだ。風を切る音すら聞こえなかった。
「いつもは何をどうしたってこうなる。だけど、近くに君みたいな人がいれば──」
 腕を引き抜き、もう一度黒板に向けて振った。
 どん、と重い音が響いた。
「こうやって触れることが出来る。こういった物質への干渉は、視線で引っ張られるのと同じで、もちろん制御可能。君のような人が側にいさえすれば、触ることも、すり抜けることも両方出来る」
「ふーん……そういえば、さっきもそうだったわよね。あんた机すり抜けてるのに、握手できたし」
「つまりはそういうことさ。便利だろ?」
 書き連ねた項目をまとめて円で囲み、桂介は自信に満ちた声でそう言った。
「ね? 幽霊にしちゃ、随分融通が利くだろう?」
「まあ、確かにね。妙に都合良いわね」
 輝色はまるで授業を受けているような気になってきて、常日頃そうしているように、怠そうな態度で合いの手を入れた。
「しかも、基本的には不老不死って奴なんだ。エントロピーの法則の外にいるんだろうね、俺みたいな存在は。ま、無敵ってわけじゃないんだけどさ」
 そういえば、と輝色は気付き、桂介の顔をまじまじと観察した。屋上で顔に拳を叩き込んだとき、あれは確かに良い手応えで、鼻を直撃していた。鼻血ぐらい出ても良さそうなものだったが、桂介はそんな醜態を見せてはくれなかった。
「ってことは、殴っても蹴っても大丈夫ってこと?」
「切っても突いてもダメ。君でも、俺に触ることはできても傷つけることはできないんだよ。でも一応痛いから試すのは勘弁してね」
「試したことあるの?」
「いや、そういうものってわかってるから」
「なんで?」
「なんでだと思う?」
 意地の悪い笑みが桂介の顔に閃く。その表情に、輝色は反射的にカチンときて反発する。
「別にいいわよ、説明したくないんなら聞かないから。帰るわよ」
 そっぽを向いてそう言うと、桂介は実に楽しそうに笑った。
「あっははははっ。素直で可愛いね、輝色ちゃんって」
「──んなっ……!?」
 火が点いたように輝色の顔が真っ赤に染まった。電流を流されたように体が反応して、椅子に座ったまま後ずさる。ガタガタと慌ただしい音が立った。
「い、いきなり何を言うのよ!」
「いや、素直に思ったことを口に出したんだけど」
「ニヤニヤするな! 人の顔見て楽しむな! この悪趣味! 変態!」
 両手で机を叩きながら猛然と抗議する輝色をこそ、桂介はおもしろそうに笑う。が、最後の単語にはやはり抵抗があるらしく、それが出た途端、口の端がひきつった。
「いや、だからさ、変態はさすがに……いいや、もう。話の続き。俺はね、こんな状態になる前は研究者やってたんだよ」
「はぁ?」
「こら、嘘つきを見るような目で人を見るもんじゃありません。簡単に説明すると、俺ってこう見えても天才って奴なんだよ」
「……自分で言う奴ほど信用できないわよ、その手のことは。しかも自分で『こう見えても』とか言ってるし」
「ま、いいさ。そういった反応には慣れてるよ。これに関しては信じるかどうかは好きにすればいいと思うし。それより……君は想像したことはないかい? 例えば、君は街中を歩いている。人混みの中だ。どっちを向いても人、人、人。人間しか見えない。でも、もしかしたら……もしかしたら、目に見えないだけで、『人間じゃない何か』が周囲を囲んでいるとしたら……?」
 輝色は想像する。人混みの中の自分。人と人の間を縫うように動いている、幽霊のような、得体の知れない『何か』。それらに囲まれていながら、気付きもしないで歩き続ける自分を。もしかしたら、今もすぐ隣や背後に『それ』はいるかもしれない。
 ぞっとした。
「……!」
 思い描いただけで鳥肌が立った。輝色はストーキングされる人間の心理を垣間見たような気がした。さらに想像の翼を広げれば、いついかなる時も──トイレであろうが風呂であろうが──何かに見られているのかもしれない。それは、
「……最悪な想像」
 としか言いようがない。思わず両腕で自分の体を抱きしめ、恨みがましい視線を桂介に向ける。苦い汁を吸ったような顔で自分を睨む少女に、桂介は苦笑して肩をすくめた。
「やけにリアルな想像したみたいだけど、まあ、そんな感じ。俺はね、ある時、そういった可能性を思いついたんだ。で、実際に調べてみた。何かおもしろいことがわかるかも、って思ってね」
「調べたって……どうやって?」
「一言で言うには難しいけど……色々な本を読んだし、色々な場所に行ってみた。つまりこの世界に目に見えない……っていうか原子核も持ってない、物理法則に関係ない『何か』があると仮定する。その上で、物理法則を無視したとしか思えない現象だけをリストアップして、その一つ一つの共通点を見つける。俺が見つけた共通点の一つは……って、あたし全然わかんなーいって顔してるけど大丈夫?」
「大丈夫なわけないでしょ馬鹿。何言ってんのか割とさっぱりよ。とにかく色々調べたっていうのはわかったけど」
 輝色は自信満々にそう言い放ち、腕を組んでふんぞり返った。桂介は大きく息を吸い込んで、吐いた。ふと顔を窓に向けて、もう半分以上姿を隠している夕日に目を細める。やおら、ふっ、と自嘲気味に笑う。
「……なにその態度。なんか腹立つんだけど」
「気のせいだよきっと。別に君の頭の悪さに憂いを抱いているわけじゃないから。地球の温暖化現象は大丈夫かなーって」
「……いい加減にしないと本気で帰るわよ」
「ああああ、ごめんごめん。そんなつれないこと言わないで。……まあ、とにかく俺は、どちらかというとオカルト方面を研究していた科学者だったわけで。んで、その研究の途中、ちょっとヘマをやらかしたらこんな体になっちゃったってわけ。理論上、この体は決して変化しない。常に『現状維持』を優先させる性質があるんだ。だから試さなくても、君でも俺を傷つけられないってことがわかる。そういうこと」
 桂介は一気にまくし立て、説明を終えた。あからさまに簡略化したことがわかる速度だった。態度を見るからにあまり悪気はないのだろうが、それでも輝色の精神をささくれさせるには十分なものがあった。
 輝色は口の中から飛び出しかけた怒声をぐっと飲み込み、今まで貯めておいた核心的な質問を溜息と共に吐き出す。
「……それで、そんなあんたがどうやって死ぬっていうのよ?」
「そう、それだ!」
 よくぞ聞いてくれたと言わんばかりの勢いで、桂介は輝色の鼻っ面に人差し指を突きつけた。
「本題はそこなんだ。ぶっちゃけ今までの説明なんかどうでも良かったんだよ。でも一応、君の協力を請うには説明した方が良いと思ってさ」
 桂介は黒板の前から離れ、再び輝色の向かいの席に戻ってきた。机の上で両手を組み、身を乗り出し、真っ正面から輝色に向かい合う。
 はっきり言った。
「俺は死にたいんだ」
 輝色は言葉に詰まった。というより、返す言葉を彼女は持っていなかった。自らの台詞を他人に取られてしまった役者のように。
 輝色自身も自殺願望を持っていたが、同じように自殺願望を持つ人間と会ったのはこれが初めてだった。奇妙な感覚が輝色の胸の内に芽生える。
「へぇ……あんたもなんだ」
 ようやく絞り出した台詞がこれだった。何故だか妙に落ち着かなくなり、真っ直ぐな視線をこちらに向ける桂介から目をそらした。そんな輝色に気付いていないのか、桂介は強い口調で続けた。
「そう、俺たちは仲間なんだ。同志なんだよ。だから、協力して欲しい」
「……協力……って?」
 視線を上げて不満そうな声を漏らす。本当は『勝手に仲間とか同志とかにするな』と思ったが、それは抑えた。そういえば、と先ほど桂介が言っていたことを思い出す。
「そういえばさっき、あたしに話を聞いてもらえないとすごい困るとか言ってたけど……それ?」
「そう、それ。さっき説明した通り、俺は君がいないと何もできないんだよ。物には触れないし、人とは話せない。車や飛行機にだって乗れない……」
 少年の瞳の中を、不意に暗い陰が斜めに滑り落ちた。ぽつりと呟くように言う。
「みんな俺を無視して行っちゃうんだ」
 その一言はあっけなく輝色の深いところまで入ってきた。隙をつかれて、胸の奥を指で摘まれたかと思った。それは輝色の中にもある言葉だった。しかし、こんなに寂しい言葉を聞いたのは生まれて初めてのような気もした。彼の言葉の中に、自分の寂しさを見たような気がした。
「だから、君の力を貸して欲しい。俺が死ぬために、協力して欲しいんだ」
「…………」
 しかし輝色は、桂介の話を聞いていて徐々に居心地が悪くなってきていた。どことなく微妙な不快感を感じる。違和感と言っても良い。はっきり言ってしまえば、輝色は桂介の死に臨む態度が気に入らなかった。
 何故なのだろうか。何故、彼はこうまで積極的に死を求めることができるのだろうか、と。輝色の場合、自殺という道を選んだのは消去法によってだった。しかし眼前の幽霊もどきは自らの意志と行動によって、それを為そうと考えているのだ。根っ子にあるものは同じはずなのに、どうしてこうも彼と自分は違うのだろうか。
 輝色の沈黙を、桂介は迷いの現れだと思ったらしく、さらに言葉を重ねる。
「そりゃあ確かに、君が俺なんかに協力する義理なんかないと思う。実際、君はさっき飛び降りて死のうとしていたし、結果的に俺はその邪魔をした。死に急ぐ気持ちはわかるつもりなんだ。でも、だからこそ俺の気持ちもわかって欲しい」
「……まあ、あたしもわかるつもりだけど、さ」
 輝色は歯切れが悪い。死の谷へ身を投げようとしていた彼女は、頂を目指して死の山を登ろうとしている少年に引け目を感じていた。
「って言うか、あたしに何しろって言うのよ。言っておくけど何もできないわよ。さっきみたいな変人が出てきても、あたし勝てないし」
 いや、変人と言うよりも、あれは化け物だったか。輝色は心の中でそう思い直す。あの二人、確かズージィと伊達と言ったか、彼らの格好は輝色の知る限り最大級に奇抜なものだった。目立つとか浮いているとかそんな表現では追いつかない。明らかに次元がおかしい。あまりにも異質で、別の世界からこの世界へ紛れ込んだ異物のようにしか思えない。
「ああ、アレね。アレは……そうだな、俺だけでもなんとかなるよ。というか元々なんとかするつもりだったし、君を巻き込むつもりはないから。いや、むしろ巻き込まない。あの馬鹿共は俺が責任もって始末する」
 そう言う桂介の瞳を、輝色は迂闊にも見てしまった。ただ光を反射しているだけにしては、ひどくギラギラした光が宿っていた。輝色は一瞬、目の前にいるのが別人になったのかと思った。それほどまでに落差の激しい、危険な瞳だった。
「……あんた、なんか……怖い……」
 怖々と言った途端、夢から覚めたように桂介の顔から鬼気がはじけ飛んだ。彼は、腰を引いて自分を凝視する輝色の視線に気付き、あは、と笑う。
「ああ、ごめんごめん、ちょっとマジになっちゃった。……いやね? あいつらとはそれなりに因縁があってさ。さっき見た通り、俺の命狙ってるんだ、あいつら」
「命を……狙われている?」
 反射的に聞き直してから、これでは質問の意図が伝わらないと思って頭を整理してから語を継ぐ。
「ちょっと待ってよ。あんたさっき、自分で不老不死だって言ったじゃない。しかも死にたいって。なのに」
「なのにどうして命を狙われるのかって? いい質問だね」
 桂介はくすりと笑い、
「でもね」
 と右の掌を輝色に向けた。自分のよりも一回り大きいそれを、輝色は訝しげに見る。
「……なによ?」
「現段階までは俺が話すのはここまで」
「は?」
「これ以上はフェアじゃないってことさ。確かにお願いしているのは俺の方だけど、これ以上話すのはいくらなんでも話しすぎになると思う。これから先は、君が俺に協力してくれるって約束してからだね」
 輝色のまなじりが釣り上がった。今まで感じていた引け目も不快感も忘れて、桂介を睨みつける。
「なによそれ。ちょっと勝手すぎない?」
 桂介は肩をすくめ、苦笑する。
「自覚はしているよ、一応ね。でも今重要なのは、俺の話の続きじゃないだろう?」
 桂介の指が輝色を指す。
「君が、俺のために時間と労力を割いてくれるか、だよ。君が協力してくれるなら俺は全部話すよ? 質問にもいくらでも答える。けど、そんな暇はない、あたしは明日にでも死ぬつもりだ、っていうんなら話はこれまで。君は明日死ねばいいし、俺は別に協力者を求めて旅立つさ」
 桂介はそこで言葉を切ると、腕を組み、悠然と背もたれに身を預けて足を組んだ。わざとなのか、それはちょうど輝色と同じ体勢である。二つの机を挟み、同じ格好で対峙する少女と少年は真っ向から視線をぶつけ合った。少女は目で射殺そうとばかりに強い眼光を。少年は水面のように静かな、しかし不敵な瞳で。
 舞い降りた沈黙のヴェールを切り裂いたのは、意外にも桂介の方だった。突然、馴れ馴れしい口調でこう告げる。
「その顔、見ればわかるよ。正直になろうよ? 本当は俺に興味があるんでしょ?」
 この変化球は見事な成果を上げた。輝色の精神は出し抜けに大打撃を受けた。
「んなっ……!?」
 輝色は仰け反った。不意打ちだった。真っ先に一番弱いところを言い当てられてしまったのだ。桂介は続ける。
「君は即答しなかった。つまり、悩んでるか、考えているかだ。話もここまで聞いてくれた。自分から質問だってしてくれた。俺の読みは当たっているはずだ。そう、君はもう俺に興味を持ってしまったんだ」
 次々と言葉の刺が輝色の胸へと突き刺さる。桂介は痛いところばかり突いてきた。反論の余地を与えない、断定的な口調で。勝ち誇ったような笑みが彼の口元に浮かぶ。
 輝色はぐうの音も出なかった。まただ。またこの男はあたしの心を見透かしたかのようなことを言う。輝色は苦々しく彼の言っていることを認めざるを得なかった。絞り出すように、ささやかな抗弁を試みる。
「……あんたって、それなりに頭いいみたいだけど、馬鹿よね」
 苦し紛れの台詞だったのだが、意外な反応があった。桂介の眉根が詰まり、唇がやや尖る。
「それは聞き捨てならないなぁ。これでも脳味噌に自信はあるんだけど。なんで俺が馬鹿ってことになるわけ?」
「それがわかんないから馬鹿だって言ってんのよ」
 桂介はきょとんとした。数度、瞬きを繰り返す。そして視線を空中に泳がせた後、
「ああ……なるほど」
 と、もっともそうに唸った。
 ほらやっぱり馬鹿だ。
「うーん……まあそこは以後気をつけることにするとして。それより、どう? 俺に付き合わない? 退屈はさせないよ? お礼もする。ひとりぼっちで死ぬのは寂しいでしょ? どうせなら心中しよう。それなら俺も寂しくないし。……ほら、あれだよ。死ぬ前に、冥土の土産って奴」
 こいつはずるい奴だ。輝色は確信する。こいつはあたしをうまく舌で丸め込もうとしているのだ。何か裏があるに違いない。ポーカーフェイスを装っているのだろうが、甘い。ポーカーフェイスはポーカーフェイスと見破られた時点で意味を無くすと、何かの本で読んだことがある。こいつは何気ない表情のカーテンの向こうに、焦りや不安の感情を隠しているのだ。
 冥土の土産だと? 死後の世界など信じてないと言ったのはどこの誰だ。
「正直、あんたに興味があるのは認めるわ」
 輝色は開き直った。攻撃的に舌鋒を鋭くする。
「あんたにあたしの気持ちが分かる? わかんないでしょ? もう嫌になって、飛び降りて死のうと思って、誰もいない学校の屋上にのぼったってのに、いきなり幽霊が出てくるわ、お面つけた化け物と変な服着た女の子が出てくるわ、空飛ぶわ、屋上から飛び降りた人間が当たり前みたいに着地するわ、こうやってあんたと喋ってるわ……!」
 言い並べていると段々と腹が立ってきた。理不尽だ。どうして自分がここまで理不尽な目に遭わなければならないのか。我ながら、客観的に見ても幸せな人生だとは思っていなかった。しかし、だからといって、最期になってなお幽霊と化け物に引き合わさなくても良いではないか。神様は何を考えているのだ。
 腹の中で踊る怒りをなんとか宥めて、輝色は目に見えて苦労しながら呼吸を整えた。
「おかげで色々と未練ができちゃったわよ」
 それはあてつけであり、桂介の要望への了承でもあったのだが、彼は気付かなかったようだ。黙ったまま、輝色の次の言葉を待っている。
「……ちょっと、何とか言いなさいよ」
 桂介の反応は鈍かった。彼が口を動かしたのは、数秒間の間を置いてからだった。
「……へ? あ、いや……あれ? 今のって……つまりそういう意味? で、いいのかな?」
「それ以外にどうとれるっていうのよ」
「いや、自殺はやめてこれからも人生を謳歌する……っていう風にも聞こえなくはなかったかなと」
「ほんっとーにあんたって馬鹿。深読みしすぎよ馬鹿。いい加減なんとかしなさい馬鹿。むかつく」
「そう馬鹿馬鹿と連呼しなくても……でも、どういった風の吹き回し? 俺が言うのもなんだけど」
「別に。あんたが言った通りよ。興味が湧いたの。あと、冥土の土産。どうせ死ぬんだから、ちょっとぐらい寄り道したってかまわないでしょ。あたしの人生だし、あたしの勝手よ。それに」
 輝色はいったん言葉を切り、腕をほどいて椅子から立ち上がる。傲然と高見から桂介を見下ろし、右手をピストルの形にして突きつける。桂介の目が、輝色の顔と右手の間を何度も往復する。
「あんたみたいな奴がどうやって死ぬのか、見届けてみたくなったのよ」
 バン、と小声で言って撃つ仕草をした。
 存在しない弾丸の先には、絶滅したはずの希少生物を発見してしまったような、そんな驚きに満ちた表情があった。
 桂介は小さく吹き出した。
「……君って案外、変な子かもしれないね」
「あんたに言われたくないわよ」


 こうしてあたしは、幽霊と一緒に自殺するための旅に出る。


 死んでこの世からおさらばしようと思っていた。だから、今までの生活を捨てるのは簡単だった。
 学校は冬休みだったし、友達もいないし、両親ももういない。あたしを止める人間はどこにもいなかった。いや、止めてくれる人間がいなかった。
 あたしはひとりぼっちだった。
 まったく、こんな生活を捨てるのに一体どれほどの覚悟が必要だというのか。
「おまたせ」
 家の外に待たせておいた男にそう声をかける。大庭桂介と名乗ったそいつは玄関の前で待っていたらしく、あたしが扉を開けるとそれをすり抜けていきなり目の前に現れた。
 心臓を捕まれたかと思った。危うく上げそうになった悲鳴を必死に飲み込んだ。
「やあ、待ってたよ」
 硬直したあたしに、軽い口調で幽霊もどきは言う。
「……あんたね、わざとでしょ?」
 どうせ悪戯に決まっているのだ。私はそのまま桂介の体を透過して外に出ると、横目で睨みつけた。彼の服装は昨日と同じ、白いカジュアルシャツとブルージーンズ。シャツの背中には赤い刺繍で記された『O.B.K』の文字。何度見ても『おばけ』と読んでしまうが、そうではないらしい。
「まーね。本当は可愛い悲鳴を期待していたんだけど、まあ驚いてくれたんならそれで幸い」
「ふざけんなこのおばけ野郎」
 あっけらかんと笑っているその顔にジャブを叩き込む。
「ぶはっ」
 いい手応えがあったが、あまり音はしない。桂介曰く、彼には元より音を立てるという機能がないのだという。そもそも物に触れたり触れなかったりする時点で非常に『曖昧』な存在なのだそうだ。だから殴ったときも彼が黒板を叩いたときも、音を立てたのはあくまであたしの拳と黒板であり、彼の体は音を発していなかったのだ。
「い、いいモノ持ってるね、君……全然見えなかった……」
「アリガトウ」
 こんな風に殴ったり、さっきのようにすり抜けたりするのも、やはり基準は曖昧だ。今のところ桂介に触れられるのはあたしだけだが、そのあたしもやろうと思えば彼を空気のように扱える。桂介の方もまた、あたしが近くにいれば物に干渉するかしないかを選択できるわけだが、もし彼があたしに触れようとして、しかしあたしが触れられたくない場合はどうなるのか。ここもまた曖昧だ。基本的にはあたしの意志の方が優先されると、桂介は言っていたが。
 昨日、日が沈んだ後、あたしたちは視聴覚室で契約を交わした。それはあたしが一方的に桂介に協力するというものではない。
 あたしは彼の自殺に協力する。桂介はあたしに全てを説明し、『満足のゆく死』をプレゼントする。そういう契約だ。後者の『満足のゆく死』というのは、あたしが望んで決めたものではない。彼の方からもちかけてきたのだ。どういう意味かと聞くと、桂介は悪戯っぽく笑って『その時になればわかるよ』と言うので、とりあえず頬を一発殴ることで納得してやった。
 その後、あの大男と女の子の二人組を警戒しながら静かに視聴覚室を出て、あたしは家に帰った。あちらから『契約の発動は翌朝から』と言っていたくせに桂介はあたしの後をついてきた。幸か不幸かあたしの家は一人で暮らすには広く、人を泊めるのに問題はなかった。風呂もトイレも必要ないくせに、睡眠だけは必要なのだという。布団にくるまって寝られるのは久しぶりだとか言っていた。
 そして、桂介は家に着いて部屋へ上がるなり『じゃあ契約は明日からだから説明は明日ってことで。おやすみ』と言ってあたしのベッドの上に寝ころび──もちろん蹴り落として隣の部屋に押し込んでやったが──結局ほんの少し話をした後、彼は眠ってしまったのだ。
 そうして。
『そうそう、今日から遠いところに行くから旅支度した方がいいよ』
 朝食の場で彼がそう言ったので、あたしは急いで鞄に荷物を詰め込み──現在に至る。
「で、どこに行くの? 一応、言われたとおり大きめの鞄に荷物入れてきたけど」
 家にある物で一番大きい旅行向けの鞄を取り出して、着替え諸々を詰め込んである。タイヤ付きだからさほど重く感じない。あたしは一度も長期間の旅行に出たことはないから、これは母の形見である。
「俺が死ぬための道具があるところ」
 あたしの問いに桂介は短く答えた。いや、全然答えになっていない。
「だからどこなのよ、それって」
 突っ込んで聞くと、彼は気まずそうにあたしから目を逸らし、やや間を置いてから、
「……実は詳しい場所はわからなかったりするんだな、これが」
 などととんでもない事を言った。
「はあ!?」
 思わず素っ頓狂な声を上げる。
「何よそれ!? あんた、行く先もわかんないってのに旅行の準備させたっていうの!?」
「いや、ちょっと落ち着いて、違うんだ、これには深いわけが」
 桂介は何か言明しようとしたらしいが、あたしの頭の中の導火線には既に火が点いていた。彼の言葉をぶった切るように爆発する。
「うるさい! あんた昨日からそうじゃない! 肝心な所だけ毎度毎度隠したまんまで! 昨日だってそうだったじゃないのよ! いい加減にしないと本気で怒るわよ!」
 というより既に本気で怒っているのだが、これは言葉のあやというものだ。
「ああああ、ごめんごめん、これは本当に手違い。最初に言っておけば良かった。本当にごめん」
 桂介は顔の前で両手をあわせ、心の底からすまなさそうに謝罪した。素直な態度にあたしの怒りも少し宥められたが、この男の場合、どこまで本気なのかわからないあたりが厄介だと思う。
 あたしは胸を反らして腕を組み、腰を低くした桂介に高い位置から言葉の爆弾を投下する。
「大体ね、あたしが何であんたに協力してあげようって気になったと思ってんの? あたしがあんたに興味を持ったからだけだと思ってたら大間違いよ。あたしはね、一生懸命ポーカーフェイス気取ってあたしを説得しようとしているあんたが可哀想になってきたから協力してやってんのよ。わかる?」
「は?」
 桂介は顔の前で両手を合わせたまま、『何で今その話になるんだろう?』という顔をした。自分でもいきなり話を飛ばしすぎたとは思ったが、言わないわけにはいかなかった。これは彼とあたしが対等になるために必要なことのはずだ。
「バレバレよ、あんたの心の中なんて。本当は不安だったんでしょ? ビクビクしてたんでしょ? あたしが協力しないともう後がないって思ってたんでしょ? 顔には出てなかったけど、ぜーんぶ口から出てたわよ」
 どうだ。相手の胸の内を見透かせるのはお前だけではないのだ。私はそう言いたかった。昨日はこちらの心を見抜かれっ放しだったのだから、これぐらい返しておかなければ。
 しかしあたしの予想とは裏腹に、桂介は、ふっ、と笑った。余裕の笑みだった。
「……何よ、その笑い方」
 あたしが訝しげに言うと、彼はわざとらしく肩をすくめて見せる。気に入らない仕草だ。こいつはまるで、何をどうすればあたしの神経を逆撫でできるかを知悉しているようだ。
「いんやぁ、べっつにぃ。君って、案外だまされやすいんだなーって思って、さ」
 やけに嬉しそうに言う。次のように問いただすのには、個人的には大変な忍耐力が必要だった。
「……どういう意味よ、それ」
「そのまんまの意味さ。それにしても、俺の演技力って意外と捨てたもんじゃないんだなぁ……こんな体にならなかったら俳優ってのもよかったかも」
 桂介の言っていることを理解するのには、少し時間がかかった。
「……それってつまり、あれは演技だったとか言いたいわけ? 不安をポーカーフェイスで隠している振りでもしてたってわけ……?」
 怒りと言うより、屈辱感に声が震えた。
「うん、そう。……いやね? 君みたいな人には、そうすれば同情してもらえるかなと思ってさ。いやぁ、それにしても俺ってなかなか人を見る目あるよねー」
 あっはっはっはっ、と笑うその背中に跳び蹴りを食らわせてやったのは言うまでもない。


「というか話は最後まで聞こうよ、輝色ちゃん」
「気安く呼ぶなオオバカ」
「イエローって呼んで欲しいならそうするけど」
「普通に楸と呼べないのかこの馬鹿は」
「それは普通すぎてつまらないじゃないか」
「ああもう、いい加減にしなさいよもう!」
 鞄のタイヤが路面とぶつかり合う音をけたたましく鳴らしながら、携帯電話を片手にした輝色は足早に歩いていた。大声で喋りながら駅へ向かう少女に、通りがかりの人々が何事かと視線を向けるが、それはすぐに逸らされる。彼らには、輝色の隣を歩く桂介の姿は見えていない。携帯電話で口喧嘩をしていると思ったのだ。これは桂介の発案である。
『俺は君以外の人には見えないし、君が精神に異常を持っていると判断されたら困るし、君も嫌だろう? というわけで携帯電話ぐらい持ってるよね?』
 親しい友人はいないが、輝色も一応は携帯電話を所有していた。主に緊急連絡用として、母親に持たされたのだ。
「いい加減、機嫌なおしてくれないかな? そろそろ説明聞いて欲しいんだけど」
「あんたがふざけたこと言わなきゃいいのよ」
「はいはいごめんごめん。わかったから。とりあえず落ち着こうよ。ね?」
「……ふんっ」
 むくれる輝色をもはや無視し、桂介は話題を変えた。
「さっき俺は目的地の正確な場所は知らないと言ったけど、手掛かりがないわけじゃないんだ。俺はね、『そこ』を感じることができるんだ」
「へー、そりゃすごいわ」
 輝色の声には感動どころか愛想すら薄い。桂介はそれにもめげず続ける。
「多分、『そこ』には……いや、『それ』かもしれない。『それ』には何か俺と引き合う物があるんだろうね。どっちの方角にそれがあって、どれぐらい距離が離れているのか、なんとなくわかるんだ」
 輝色は携帯電話を畳み、コートのポケットに突っ込んだ。どうやら相槌も打ってくれないらしい、と桂介は息をつく。
「念のために言っておくけど、国内だから安心して。というか俺が見える人が日本人で助かったよ。俺、念のため外国まで……そう、文字通り、足を延ばしてたんだ。一人じゃ飛行機にも乗れなかったしね。歩いていくのは大変だったよ。別に疲れるとかそういうのはない体だから、どちらかというと精神的につらかったなぁ。だってさ、想像してみてよ。港を出てある程度歩くと、もうどっち向いても海と空しか見えないんだよ? 途中で方角わかんなくなるし、歩いても歩いても全然陸地は見えないし、ひとりぼっちだし。正直、何度も泣きそうになったね」
 輝色は想像してみる。空気の澄み切った青空に、流れる白い雲と輝く太陽、それらを写して輝く大海原。その上にぽつんと立っている一人の少年。どこを向いても無限と思える広い世界に、ひとりぼっちの大庭桂介。その傍には誰もおらず、何時間も、何日も、朝がきても夜が明けても、たった一人で歩き続ける孤独な幽霊。彼はきっと泣いただろう。真下に広がる海に何滴かしょっぱい水を注いだだろう。輝色はそう思う。何故なら、彼女自身が同じ立場になれば必ずそうするから。輝色は自身でよくわかっているのだ。いくら今の自分でも、さすがに世界から追放されたような寂しさには耐えきれない、と。
 輝色の歩調が少し緩まる。
「いやまあ、その話はどうでもいいんだけど。話が逸れたね。これから向かうのはね、とりあえず北。距離感はあまり正確じゃないからまだ何ともいえないけどね、結構北上しないといけないんじゃないか、な……ってあれ? ど、どうしたの?」
 前を向いて早足で歩いていた輝色が、いつの間にか速度を落として自分を見ていたことに気付き、桂介はぎくりとする。彼は、どうせまともに聞いていないと思ってろくに輝色の顔も伺わずに喋っていたのだった。
 輝色はしばし桂介の顔を見つめた後、再び携帯電話を取り出して耳に当てた。
「もしもし。要するにとりあえず北に向かえばいいのよね?」
「あ、ああ……」
 これは和解の証なのだろうか、と桂介が意を汲みかねている所に輝色は質問を畳みかける。
「鈍行電車でゆっくり? 新幹線? 飛行機?」
「うーん……新幹線ぐらい、かな? 直感だけど」
「それじゃ、大きい駅に行くまで鈍行使うから、何かあったらまたその時言いなさいよ」
「あ、うん、了解」
「あと、それと……」
「ん?」
 輝色は言いづらそうに口をつぐんだ。が、やがて意を決し、こう言った。
「……昨日の話の続きはどうなったのよ?」
「え? ……ああ、そういえばそうだったね」
 なんだそのことか、と桂介は笑みを浮かべる。昨日途切れた話題は『何故、桂介の命は狙われているのか』だった。輝色は会話を続ける内に桂介の人となりや境遇をある程度は理解したため、不躾に問いかけるのが躊躇われたのである。輝色なりに気を遣おうとしてくれている気配を感じたのか、桂介の口元がわずかに綻ぶ。
「そう急ぐこともないよ。時間は十分にあるから、道すがら、ゆっくり話そうとは思ってる」
「……あ、そう」
 努めて素っ気ない声で輝色は相槌を打った。実は好奇心の塊が今にも弾けそうな勢いなのだが、なんとか我慢した。話が話である。彼女自身も心の準備を済ませておかなければならなかった。
 旅行に出るため、輝色の服装は昨日とは違う。学生服ではなく、今の彼女はお気に入りの格好をしていた。全て誕生日に両親から贈ってもらった物で、黄色のブラウス、黒のセーター、黒のスマートパンツ、そして黒のダッフルコート。黒の中に黄色の襟が映えて見えるのが輝色は好きだった。
 その後は会話が発生することなく、二人は駅へと到着する。楸家から歩いて十分ほどの小さな駅だ。輝色は終点までの切符を購入し、改札を通る。それから背後を振り返ると、
「ん?」
 改札の真上を歩いていた桂介の視線が顔に落ちてきて、目が合う。輝色は今携帯電話を持っていないため、不可思議そうに自分を見つめる桂介を無視した。ホームへ向かう。
 輝色はふと思った。これは、この現在の状況は、幻なのではないだろうか? 全ては精神的に追いつめられた自分が頭の中で作り出した幻覚で、大庭桂介という幽霊もどきなど実在せず、あの奇妙な二人組も幻で、こうやって旅に出ようとしているのは無意識に生存本能が死以外の方法で現実逃避をさせようと抗っているだけなのかもしれない。
 それならそれもいいかもしれない。何だか、何もかもどうでも良くなってきている。現実だろうが幻だろうが、今は何かに流されて、流れ着く先を見てみたい気分だ。
 ホームの端に立って電車を待つ。吐く息が白い。荷物を引いて歩いてきたせいだろう、少し体が熱い。古い駅特有の匂いがする。そういえば、隣に立つこの少年には嗅覚はあるのだろうか。見ると、僅かに胸元が動いているのだが白い息は吐いておらず、まるで空気以外の何かを呼吸しているようだ。
 輝色は携帯電話を取り出して話しかけた。
「あんたってさ、息してるの? してないの?」
「はっ?」
 いきなり話しかけたせいか、桂介の反応は鈍かった。いったん聞き返して、頭の中に響いている声を聞き直しているような間を空ける。
「……してると思うけど。なんで?」
「だって息白くないじゃない」
「ははあ、そういうことか。そうだな……なんと言えばいいんだろう? 俺はね、ある種の電波的存在なのかもしれないんだ。わかる?」
「で、電波? ……なんか、ヤな言葉ね……」
「で、その電波を君の頭が受信しているわけだ。だからある意味で俺はここにいない。君が見ているのは俺の虚像かもしれない」
「きょぞう?」
「大きな象さんじゃないからそこんとこよろしく」
「それぐらいわかるわよ! ……それで、虚像ってどういう意味? よくわかんないだけど」
「そうだなぁ……簡単に言えば、蜃気楼みたいなものさ。君は俺という蜃気楼を見ているんだ。君にしか見えない、ね」
「ってことは、ほんとはあんたの本体がどこかにあって、あたしはインターネットみたいに電波でそれを見ているってこと?」
「おや、なかなか飲み込みが早いねぇ。そんな感じ。……かもしれない」
「なによ、その『かもしれない』って。違うの?」
 桂介は肩をすくめてみせる。
「俺にもよくわからないんだ。自分で自分の状況が理解できないし、説明できない。多分、俺が一番色々驚いたりしてるはずだよ? わかる? 気がついたら、寒いのに息が白くならないんだよ? これってけっこー微妙な気分だったりするよ?」
 正直、想像するのは容易いのだが、それを実感として感じるのは難しい。ものすごく驚くのだろうとは思うが、それ以上のことはよくわからない。だから輝色はこう返すしかない。
「ふーん……」
「ふーんって……適当な相槌だなぁ」
「じゃあ後もう一つ。あんた、匂いわかる?」
「匂い?」
 その単語を始めて聞いたかのような反応を桂介はした。
「匂いか……そういえば、どうなんだろう?」
「なによそれ」
 輝色と桂介は並んでホームに立っているが、どちらも周囲の目を気にしてか、互いに顔を見ることなく話している。輝色も桂介も、向かいのホームの人々を見るともなく見ていた。
「いや、そこは盲点だったな。全然気付かなかった。俺、こんな風になってから匂いかいだことあったっけ?」
「あたしに聞かないでよ。こっちが聞いてるんだから」
 どこからか踏切の音が聞こえてきた。そろそろ電車が来る。輝色は携帯をポケットにしまい、会話はそこで終了した。

 電車に乗ると、大庭桂介という存在のおかしさが浮き彫りになった。
「こいつはちょっと、面倒くさいな……」
 そう吐露した桂介の声に、輝色は笑うのをこらえて聞こえない振りをしなければいけなかった。
 電車に乗ってから彼らの間に会話はない。車内での携帯電話での会話は遠慮して欲しいと何度も車掌が言うため、輝色はその通りにしていた。
 桂介は車内の手すりに捕まり、後方へ置いていかれる自分の体を支えていた。
「まったく、我ながら妙な状態だ」
 問題が発覚したのは電車に乗り込んだ後だった。それまでは輝色も席に着き、桂介もその傍に浮いていたのだが、電車が発車した途端、桂介の体が進行方向とは逆方向へ動き出した。というのは錯覚で、正確には床に足をつけていない桂介の体がその空間に張り付いたままだったため、置いて行かれそうになったのだ。彼は車両後部の壁にぶつかり、それに押される形で電車内に留まった。
 桂介には重力の作用がないらしい、とこの時になってわかった。元より浮いてはいたが、地に足をつけてもそこに摩擦は生じないようである。その割には二本の足で立って歩いているのだから、不可思議なことであった。
「どうせなら漫画みたいに飛べたらよかったのに……なんでこんなに曖昧なんだ……」
 と言って溜息をつく。後半に関しては輝色も同感だった。まるで夢のように、幻覚のように、変に都合が良く、妙なところで厄介な存在。やっぱり、と輝色は考えてしまう。やっぱりこの少年は、自分の心が作り出した、自分にだけに見える存在なのではないのだろうか。彼の言っていることも含めて全てが輝色の妄想で、自分はもうとっくに気が狂っていて、本当は病院のベッドの上にいるのかもしれない。
 もしも真実がそうなのだとしたら、それこそ神様にお願いしたいと思う。
 どうせ夢なら幸せな夢にして欲しい。
 そして、そのまま死なせてくれ、と。
「あー、ようやく着いた……」
 車両後部から手すりをたぐり、輝色の座っている席の傍まで桂介がやってきた。
「やれやれ、君の所に来るだけだったのにとんだ苦労だ。もう少し都合良くならないのかな、この体は」
 輝色は聞こえない振りをしていて、ふと思いつき、携帯電話を取り出した。滅多に使用しないメール作成画面を利用して、桂介宛のメッセージを書く。
『おつかれさま』
 輝色の動作に気付いた桂介が、携帯電話の画面をのぞき込む。そこに並んだ文字列に彼は苦笑する。
「いえいえ。かえっていい運動になったよ。しかもこんなこと初体験だ。いつか誰かに自慢できるね」
 輝色はその言葉を聞き終えてから、再び文字を打つ。
『だれかって?』
 桂介もその文字が書き終わるまで待ってから口を開く。
「誰かって? そりゃあもちろん……君とか」
『とか?』
「とか……」
 長座席の端に座る輝色の傍で、出入り口近くに立つ金属の柱にしがみついている桂介は視線を宙に泳がせた。自慢する相手がとっさに思いつかなかったらしい。記憶の引き出しを漁っている。
「……友達、とか」
『ともだち、いるの?』
「し、失敬だな君は! 俺にだって友達ぐらいいるに決まってるじゃないか!」
『へえ』
「なんだなんだ、その反応は! あー、あと、ほら、父さんや母さんにだって自慢する! してやるさ!」
『あ、そう』
「うーわー……君、本当に遠慮とか思いやりってものがないねぇ。君のご両親は一体どんな育て方をしたのやら」
「……!」
 溜息まじりに言った最後の一言が、輝色の胸に深く刃を突き立てたことに桂介は気付かなかった。それ以前に、彼が輝色のことをしっかり洞察していれば、このような事は言わなかっただろう。
 輝色は誰にも気付かれないように息を呑み、無意識に両手に力を込め、携帯電話を強く握った。
 輝色は、呼吸一つで一つの文字を吐き出すように、文字を打った。
『いない』
「?」
 最初、桂介はその一言の意味がわからず、凝視した。そして彼が理解する前に、輝色はさらなる一言を打った。
『しんだ』
 古い床を踏み抜いてしまったような顔を、桂介はした。彼は地雷を踏んでしまったのだ。輝色とその家をもっと洞察していればすぐにわかったことだったのに、桂介はそれを忘れていたのである。
 ごめん、と言いかけて、彼はやめた。自分と少女の関係を考えると、それは言ってはいけない言葉だと思ったのだ。代わりに、できるだけ同情のこもらない声で、
「そっか」
 と言った。これは、輝色の両親のこと、そして彼女が屋上から飛び降りようとしていたことの双方を呑み込んだ一言だった。桂介は窓の外を流れていく風景に顔を向け、呟く。
「……遠慮とか思いやりとか、俺も人のこと言えないか……」
 その自嘲に輝色の指が動く。
『きにするな』
 それを読んで、桂介はくすりと笑う。
 これで終わり、と輝色は携帯電話を閉じて、ポケットにしまった。そして、傍に桂介がいないかのように済ました顔で目を閉じる。
 桂介はその横顔を見つめながら、
「前言撤回。君って結構……いや、かなりいい子だよね」
 と言って、いきなり輝色の頬に接吻した。
 輝色の目が見開かれる。
 悲鳴が上がった。


 終点に着く前に二人は電車を降りた。正確には駅に着いた途端、輝色が飛び出し、桂介がその後を追った。
 電車が去った後、輝色はオレンジ色の携帯電話を取り出して怒鳴る。
「いきなり何すんのよバカァッ!」
 その顔は耳まで真っ赤だ。
 電車内で悲鳴を上げた輝色は、そのまま人目を忘れて立ち上がり、桂介を勢いよく殴り飛ばした。傍目から見たそれは、突然悲鳴を上げて他人を殴る演技をしたようにしか見えなかった。それを自覚した輝色は恥ずかしさのあまり居たたまれなくなって、次の駅に着いた途端その場から逃げ出したのだった。
「おかげで大恥かいちゃったじゃないのよ!」
「あっはははははっ、ごめんごめん、つい」
 笑いながら桂介は謝罪する。が、それは全く誠意がこもってないため逆に輝色の激情を加速させる結果となる。
「ついぃ!? つい出来心であんなことしたって言うのかあんたは!」
「うん」
「うんじゃなぁいっ! うんって言うなぁっ! いきなり……いいい、いきなりっ……!」
 輝色の口がぱくぱくと金魚のように動く。いきなりキスするなんて何考えてのよ、と言いたかったのだが、大声で口にすることができなかったのだ。しかし桂介はその意を正確に汲み取った。
「いやいや。なんかさ、急に君が可愛く見えたって言うか好きだなぁって思ったっていうか、ほら外国じゃ挨拶みたいなものだし。気にしない気にしない」
「……!」
 桂介の台詞に言い返したいことが山ほど溢れかえって逆に言葉にならなかった。万感こもごも至った挙げ句、輝色の目に涙が浮かんだ。これにはさすがに桂介もあわてる。
「あ、いや、その……」
「もうあんたなんか知らないっ!」
 声の張り手を叩きつけて、輝色は踵を返して携帯電話をしまうと、鞄を引いて歩き出した。ずかずかと備え付けのベンチまで行き、乱暴に腰を下ろす。桂介が着いてきていたので、彼の方を見ないようにそっぽを向いた。
「いや、ほんと、ごめんって。まさかそんなに嫌だとは思わなくてさ、本当にごめん。この通り、謝るから。ね?」
 今度の謝罪には心がこもっているように聞こえたが、輝色は無視した。というより、何かしらの反応をする余裕がなかった。
 他人にあんな事をされたのは初めてだった。動揺するなという方が無理だった。嫌だったのか嬉しかったのか、自分でもよくわからない。ただとにかく驚いた。それだけしかわからない。
 頭の横で桂介がいろんな事を言っているが、胸の動悸が収まるまで無視し続けた。やがて途方に暮れたのか、桂介が口を閉じると、図ったように次の電車がやってきた。
「……乗るわよ」
 それだけ言って立ち上がり、輝色は電車に向かった。後ろから追いかけてくる桂介がほとほと参ったように言う。
「そろそろ機嫌なおしてもらえないものかなぁ……君の反応がおもしろそうだったからって、我ながら軽率だったと反省してるんだけどなぁ……」
 その声も無視して輝色は電車に乗り込んだ。先程と同じように端の席に座り、しかし今度は目を閉じないで前に立った桂介をにらみつける。桂介は吊革につかまりながら、輝色から視線を逸らして気まずそうに指で頬を掻いた。
 電車が動き出すと、前方からこんな会話が耳に届いた。
「おい、あの子、なんかお前のこと睨んでないか?」
「……やっぱりお前もそう思う?」
「知り合いか?」
「いや、わかんない」
「お前なんかしたんじゃねーのか?」
「してねーってっ」
 輝色は慌てて顔を逸らす。またも迂闊だった。桂介は他の人間には見えないのだ。いい加減学習しなければ、また大きな失敗をしてしまう。輝色は深呼吸を数度繰り返した後、携帯電話を取り出し、桂介宛のメッセージを打った。
『もういい。ゆるしてあげる』
 そういうことにしておかなければ、いつまでたっても腹の虫が治まりそうになかった。
「あ、本当に?」
 反応はすぐにあった。やけに目ざといあたり、密かに輝色の様子を窺っていたのだろう。
『ほんとうに』
「よかったー。このまま嫌われ続けられたらどうしようかとか、途中で君が帰っちゃったらどうしようとか思ってたよ」
 こいつは、こういった無神経なことを言うし、ああいった事をいきなりやってしまう奴なのだ。輝色はそう結論づけた。そう割り切りでもしなければ死ぬまで付き合うことなどできない。
『しゅうてんにつくまでしずかにしてろ』
 そう打って、輝色は携帯電話をしまった。
 桂介はそれに重い溜息で答えた。


 誰もが彼らを見て、おかしい、と思った。
 親子には見えない、兄妹には見えない、恋人同士には見えない、等々の以前に『一般人に見えない』という感想がほとんどである。彼らはまるで大道芸人のような格好をしており、奇抜で、周囲から浮いていた。
 小柄な少女を肩に担いだ大男──ズージィと伊達であった。
 この二人組は目立っていた。通りがかった人間全てが振り返るほどだ。ズージィの出で立ちも奇妙だったが、一番人目を引いたのは伊達の鬼面だった。案外それこそが本当の顔なのでは、と人々が思うほど生々しい仮面だった。それと彼の巨躯とがあいまって、威風すら漂う迫力を醸し出している。さしずめズージィは、伊達に守護される姫君のようであった。
 二人は駅へ向かっていた。迷いのない足取りである。一歩進むごとに伊達の背の長刀が彼の筋肉の上で跳ねる。
「右です」
 前方に交差点を迎えてズージィが呟くと、その言葉通りに伊達は角を右へと折れた。周囲の人々の中でも、伊達の刀に気付いた者が「あれは銃刀法違反なのでは?」と警察に連絡しようとしたが、通り過ぎた二人の背を見て思いとどまる。伊達の腰の裏にA4サイズの厚紙が張り付いており、そこにはこう書いてあったのだ。
『ヴォルクリング・サーカス』
 たったそれだけではあったが、彼らの格好に納得がいくには充分だった。人々は紙切れ一枚で彼らをサーカス団の人間と思い、これから始まる各々の生活について意識を移していく。そして不思議なことに、彼らは一晩眠るとそれ以降この奇妙な二人組を思い出すことはなくなるのだった。
「あの駅です」
 ズージィの蒼氷色の瞳が小さな駅を映す。つい先刻、輝色と桂介が呼吸と匂いについて語り合い、電車に乗った駅である。ズージィはそのことを知らないが、おそらくそうであろうことはわかっていた。
 桂介が彼の目的地を感じられるように、ズージィもまた大庭桂介という存在を感じることができる。正確には、それは大庭桂介に限ったことではない。彼女はその気になれば、例えそれがどんなものであってもその場所を知ることができるのだ。今、少女の心は世界中に広がり、ただ大庭桂介という存在だけに集中しているのである。そしてその事実を、大庭桂介は知らない。
「終点まで切符を買いましょう。奥のホームです」
 伊達は頷きもせず、ズージィの言葉に従う。身の丈が二メートルにも届かんとする大男が券売機で切符を買っている姿に異様なものを感じたのだろう。数人の駅員が陰から様子を窺っている。
 まとわりつく様々な視線を、二人は意にも介さない。注目を浴びることには慣れているのだ。
 ホームの端に立って電車を待っている間も、常に彼らを見つめる瞳はゼロにはならなかった。かといって、近づいて話しかける者もいない。はっきりと認識できる者はいなかったが、誰もがズージィと伊達の発する尖った雰囲気を恐れていた。
「依頼を受けてもう三日目です。そろそろギアを上げていきますよ、伊達」
 沈黙が伊達の肯定だった。
 ズージィ=ヴォルクリングと伊達力は『退敵師』を生業にしていた。一般的には『退魔師』や『除霊師』、身も蓋もない言い方をすれば『殺し屋』といえばわかりやすいだろう。『退敵師』は他者からの依頼ないし自己の判断により、『敵』と認められた存在を滅殺、もしくは拘束するのがその使命である。その需要は少なく、供給はさらに少ない。そのため少数精鋭が方針で、『退敵師』全てが異能の力を持つ。
 敵は倒す。
 それが『退敵師』の基本理念だった。
 電車を待つ間、ズージィは今回の『敵』について静かに思考に沈む。
 大庭桂介。知らない男ではない。彼の父とズージィの父が友人で、両家の間には深い付き合いがあった。ズージィ自身、桂介とは彼女がまだおしめをしていた頃からの付き合いだ。むしろ、よく知っている男である。
 厄介な相手だ、とズージィは噛みしめる。伊達と一緒にいて、たった一人の『敵』に三日以上かけるのはこれが初めてだった。自分は桂介の性格を把握しているが、あちらとてこちらの手の内を知悉している。大庭桂介は非常に頭の切れる男で、好奇心が強く、行動力も申し分ない。この上なく、デキる奴だ。一時期、憧れたことすらあった。勝算がないわけでもないが、高くもなかった。
 桂介があのような状態になったため、伊達には彼を『見る』ための仮面をかぶせたのだが、流石というべきだろうか、桂介は最初からこちらの目を潰すための準備を整えていた。彼は読んでいたのだ。自分を追ってくるのはズージィ=ヴォルクリングと伊達力である、と。
 そう、よく考えればわかることだった。あんな姿になった彼を探すことが出来て、肉眼で確認できる『退敵師』はズージィ一人だけなのだから。
 時々、ぞっとすることがある。全ては布石だったのではないだろうか、と。ズージィの父と桂介の父が友人だったことも、ズージィが幼い頃から桂介と慣れ親しんだことも、ヴォルクリング家が『退敵師』を生業としていたことも、こうして自分たちが彼を追っていることも、全ては大庭桂介が『ある目的』を達成するための布石だったとしたら。
 考え過ぎなのかもしれない。そう叱咤する、冷静な自分の声はちゃんと聞こえている。しかしズージィは不安を捨てきれずにいた。それに、最悪の可能性まで考えておくことは決してマイナスにはならないはずだった。誰よりも桂介がそう教えてくれたのだから。
 どこからか踏切の音が聞こえ、やがて電車が到着する。伊達は無言のまま、ズージィを担いで電車に乗る。車内でもやはり彼らを取り巻くのは好奇の視線ばかりだった。
「もうだいぶ近いようです。今は移動していませんね。どこかの駅で降りて食事でもしているのかもしれません」
 ズージィは周囲を気にしない。気にする必要を感じないのだ。彼女は生まれた頃から世間とは異なる次元を生きてきた。それ故、彼女は大庭桂介を追える。非常に徹しきれるのである。
 少しずつ桂介に近づいていくのを感じる。迷いがないといえば嘘になるが、それは無視できる程度のものだった。
 ズージィは伊達にこう呟く。
「あの人が何を考えているのかはわかりませんが、私たちは出来ることをやりましょう。その上で彼を出し抜きます。いいですね?」
 伊達は声や動作では返事をしない。静寂こそが彼の言葉であり、ジェスチャーだ。彼は昔からこんな男だった。必要なときに必要があれば必要なだけ口を開き、身振り手振りをすると父が言っていたが、未だズージィは伊達の声を聞いたことがなく、彼が何かしらの意志を伝えるために体を動かす所を見たことがない。それでも、彼は信頼できる相棒だった。つまらない男だが、ズージィを裏切ったことは一度もない。
「……ちょっと待ってください」
 不意にズージィは気付いた。桂介の反応が近すぎる。予想以上にすぐ傍にいるのを感じる。彼女は素早く視線を振りまいて桂介の姿を探した。しかし、見つからない。外かもしれない、と窓に目を向ける。
「…………」
 見あたらない。線路沿いの道路に人の姿はなく、当然、宙を闊歩する少年もいない。これは気のせいなのだろうか。それとも、まさかとは思うが、大庭桂介が自分に何かしらの妨害工作を施している可能性も考えられる。
「しかし……近すぎる」
 口元を抑えての呟きにも伊達は反応しない。ズージィはさらなる可能性を検討する。仮に自分の感覚が狂ってないとすれば、桂介はこの電車の赴く先、次の駅にいることになる。待ち伏せだろうか。いや、彼にはこちらの動向を知る術はないはずだ。しかしそれならば、どんな理由で? わざわざ電車に乗ったというのに次の駅で降車し、そこで待機する理由とは一体?
 このように考え込むズージィを桂介が見たならば、おそらく『相変わらず深読みのしすぎで混乱する奴だな。知ってるか? 策士、策に溺れるって』と言うであろう。その通り、ズージィは同年代の少年少女より頭の回転が速い娘だったが、その速さ故に自らその足元をすくうことがしばしばあった。
「伊達、近くにいます。どうやら次の駅のようです」
 答えを出せないままズージィはそう告げた。伊達は『了解』と答える代わりに、右手を上げて背中の長刀にのばす。大きな手が絞り込むように柄を握りしめた。
 伊達の姿勢にズージィは気付かされる。そうだ。自分たちは『退敵師』で、大庭桂介は『敵』だったのだ。待ち伏せなら、倒す。単なる偶然でも、倒す。ただそれだけではないか。タールのような粘つく思考の泥沼に片足を突っ込んでいたズージィは、ようやく光り輝く正解の宝石を掴み取った。
 車内のアナウンスが、次の駅名を連呼する。徐々に強くなっていく桂介の存在感がズージィの胸に火を点けるが、少女の悟性は氷の檻となってその煌めきと熱量を覆っていく。
「見つけたと同時に仕掛けます」
 冷静な自分の声に、彼女はさらに落ち着いた。静かに気力が満ちていくのを感じる。もう近い。すぐ傍だ。電車を降りればすぐに見つけられる。確信する。心臓が強く鼓動を打つ。電車の速度が減るのと反比例して、伊達の全身から溢れる闘気が増えてゆく。電車が止まる。桂介の反応は、電車の進行方向側にある。一歩出れば再会だ。扉が開き始める。その遅さに苛立つ。伊達の大柄な体は開ききらなければ通れない。開ききった。叫ぶ。
「今です!」
 ズージィは伊達と共に疾風と化した。野獣のような敏捷さでホームに滑り降りる。
「!」
 桂介のいる方向に顔を向ける。長く伸びるホーム、並ぶベンチ、電車から降りる人々、その中に白いシャツとブルージーンズの少年の姿が──ない。
「……!?」
 見あたらない。桂介がいない。馬鹿な、反応は確かにあるのに。すぐそこにいるはずなのに。何故いない?
「伊達!」
 一気に衝き上がった焦燥が声になって弾けた。伊達も全方向に顔を向けて『敵』を探し求める。ズージィは冷静に自問する。やはり感覚が狂っているのか、それとも妨害されているのか、ただ単に人混みに紛れ込んでいるのか。
 どちらにせよ見つからない。
 とにかく視線を見える範囲全てに走らせたが、大庭桂介の姿は確認できなかった。その内にアナウンスが流れ、扉が閉まり、電車が動き出す。
 それでも諦めきれずにキョロキョロと見回していると、気付いた。
 桂介の反応が遠ざかっていく。電車が速度を上げるごと、桂介の速度も上がっていった。刹那、ズージィは理解する。
「! しまった……!」
 入れ違いになってしまったのだ。こちらが電車を降りた瞬間、あちらは電車の中に入ったのである。迂闊としか言いようがなかった。気付かなかった己を、ズージィは嫌悪した。
「こんな簡単なことに気付かないなんて……」
 このような時、相棒が物言わぬ男であることが逆に恨めしく思える。この場合、まだ何か言われた方がましな気分だった。
 奥歯を強く噛み合わせたズージィは、やがて溜息を吐いた。
 こうとも考えられる。大庭桂介は、自分たちを見事にはめたのだ、と。きっとそうに違いない。わざと近くまで近寄ることによってこちらを動揺させ、初歩的な失敗を誘ったのだ。昨日もそうだったではないか。あの時は、ようやく見つけたと思えば一般人の女と一緒にいた。あの女が何者なのかわからず、警戒しすぎた結果、逃げられてしまった。今回も同様の結果を狙われたのだ。そして実際、またも同じ手に引っかかっている。
「いい加減、学習せねばなりませんね」
 自嘲したズージィは、電車の去った方を見やると、万感の思いをこめて独白した。
「……恐ろしい男です」
 その台詞がどれほど間抜けであるか、知る術を彼女は持たなかった。


 今日もすぐ近くまでズージィと伊達の二人組が近づいてきたことなど、これっぽっちも気にとめていない桂介は、輝色の言うとおり終着駅まで唇を一文字に結んではいなかった。
 内心、輝色の聞きたがっていた話をせっかく道すがら話すつもりだったのに、などと思いながら大きく口を開けて欠伸をしている。じろりと眼下に座る輝色が冷たい視線を向けると、手で口元を押さえてばつが悪そうに顔を背けるなど、だらしない限りである。先刻、数秒の差ですれ違ったズージィの考察を知れば、彼は輝色に向かってこう聞くであろう。
『あいつって頭良いと思わない? 俺はすごく良いと思うよ。うん、めちゃくちゃ良い。……どうでも、ね』
 吊革に掴まる彼は、何もない空間に靴を乗せているところを除けば、輝色と同じ、どこにでもいる高校生に見えた。強いて特徴を挙げるならば、見た目の割にはやけに無邪気に笑うところと、悪戯好きなところだろうか。例え逆立ちしても、輝色には彼自身が主張するところの『天才』には見えそうにない。
 輝色は輝色で、桂介からすれば『初めて見る生き物』と言っても過言ではなかった。この少年のような短い髪の少女は、自ら命を捨てようとしている。が、そのわりには感情の起伏が大きく、時に苛烈かと思えば時には優しい。ある意味わかりやすい性格をしている。思ったことがすぐに口、あるいは行動に出るのだろう。ダメで元々と交渉してみたのだが、実際に一緒に来てもらえるとは桂介は思っていなかった。自殺願望を持つのは、元来は人生に対して前向きだった人間が多いと聞く。その反動故に死の眠りを求めるのだという。あるいは輝色の好奇心は、彼女が元々持っていた素質なのかもしれない。
 桂介は楸輝色という人間を理解できないでいる。いや、ある程度ならば彼女の心理や行動原理を洞察することは可能だ。しかしただ一点、『死にたい』という欲求だけは理解できなかった。彼女にはエネルギーがある。肉体ではない、精神のエネルギーだ。死を望んでいるにしては、その心は活気に満ちているし、疲れを感じているようにも見えない。両親を失った悲しみはわかるが、それだけでは死のうとは思わないだろう。彼女にはまだ、自分の知らない過去あるいは秘密があるに違いない。
 と、そこまで考えて桂介はふと気付き、輝色にわからないよう静かに苦笑した。何かを隠しているのは自分の方こそではないか。そう思ったのである。過去や秘密を隠しているのはお互い様なのだ。輝色がそれらを隠していることを桂介が責める道理など、ありはしないのである。
 結局、電車が終点に到着するまで二人の間に会話は発生しなかった。
「ここから新幹線に乗るんだね?」
 電車からホームに降りると、桂介は輝色に確認した。北と北東と南にデパートを内包する駅は巨大で、桂介はどこに向かえば良いのかわからない。輝色もあまりここに来たことがない様子で、辺りを見回している。携帯電話を持っていないため桂介を無視する形になった。
 輝色は天井につり下げられた案内図を見つめ、
「多分、こっち」
 と言って歩き出した。桂介はその後を追う。ホームは人でごった返しており、桂介の体は立体映像よろしく人々を通り抜けていく。彼にとって障害物はないに等しいのだ。
「ここは安全だなぁ」
「?」
 歩きながら桂介がそう言ったので、気になった輝色は携帯電話を取り出した。
「なによそれ、どういう意味?」
「いや、君もさすがにこんな所じゃ俺を殴れないでしょ? ならここで一発、何か仕返しを、と」
「……へぇぇ」
「あ、うそうそ、冗談だって。本当はここならズージィと伊達が来ても簡単に逃げ切れるな、って思って」
「ズージィと伊達……って、昨日のアレ?」
「そう、アレ」
 合計六つのホームを流れる人の波が、それぞれの端で合流する。輝色は鞄を引きながらその流れに同化し、改札へなだれ込む。改札機に切符を差し込んで通り抜けようとした時、桂介は避ける必要もないのに「よっ」と改札の前で飛び跳ねた。その跳躍は見事なもので、彼は助走もなく軽く改札一つを伸び越えたのだった。振り返った桂介が得意げに感想を聞く。
「どう?」
「のーこめんと。あんたは子供か」
「それノーコメントって言わないし、俺はまだ大人じゃないとは思うけど」
「生意気っ」
 鞄が引っかかって手間取ったが、改札を抜ければそこは広場である。天井が高く、十分な空間が確保されており、人々はここで余裕を取り戻して思い思いの方向へ散っていく。輝色は五本ある太い柱の一本に近づき、その傍で足を止めた。
「っていうかあの二人は一体なんなのよ? そこんとこ説明しなさいよ」
「説明しようと思ってたのに電車の中で喋るなと言ったのは、君だろ? それより次はどっちに向かえば?」
「なによ、そんなこと根に持ってるわけ? 仕方ないじゃない、あんな状況で変なこと喋られて笑っちゃったら恥ずかしいし。えーと……多分、あっち」
「根に持つ性格なんだよ。変なことって何さ。俺が変態みたいな言いぐさだなぁ。失礼な。んで、あっちってどっち?」
「ネクラ、ヘンタイ、このくそオバケ。だからあっちって言ってるじゃない」
「だからどっち?」
「あっちよあっち! あたし今ケータイと鞄で両手ふさがってんのよそれぐらい気付けバカ!」
「おおっと、それは気付かなかったぁ。いやぁ、失敬失敬」
 わざとらしく肩をすくめてわざとらしく笑う桂介に、こいつ絶対わざとだ、と輝色は確信する。少女は、後で暇と場所を見つけて殴ってやろう、と心に誓った。
 ここならば人は多いが、それ故に逆に輝色に注目する輩はいない。そう思った彼女はここで聞きたいことを全て聞くことに決めた。
「で、あの二人は何? 何であんた、あんなのに狙われてるわけ?」
 問いながら鞄を柱に密着させ、その横に腰を下ろす。他にも柱の足元に腰を下ろして携帯電話を使用している人間が数名いるため、輝色は目立たない。
「あれ? 新幹線に乗るんじゃなかったの?」
「そんなの後。今聞きたいのよ、あたしは。約束でしょ? あたしに全部説明するって」
「……ま、君がそういうならそれもいいけど」
 少し離れた位置に立っていた桂介は、柱に歩み寄って輝色の隣に座り込んだ。どっかりとあぐらを掻く。
「まずは自己紹介からいこうか」
「はぁ?」
「いや、俺たちってよく考えたらまだお互いに自己紹介してないだろう? この際だからやっておこうと思って」
「……うん、まあ、いいけど……」
 輝色は隣の桂介を怪しそうに見る。先程脳裏に掲げた桂介の特徴の欄に、今更だが追記する。こいつはちょっと頭が変な奴だ。いきなり『パンチラ』など下品な言葉を口にするわ、他人を抱えて空を走るわ、自殺したいから協力してくれと頼むわ、いきなりキスしてくるわ、今になって自己紹介をするわ。何を考えているのかさっぱりわからない。
「俺の名前は大庭桂介。君がイエローって呼ばれるのが嫌いなように俺もオオバカって呼ばれるのは嫌いだからよろしく」
「……わかったわよ。あんたってほんっとにネクラよね」
「年は一八。誕生日は四月十日。身長は一七〇センチで体重は五七キロ。スリーサイズは」
「言わなくていいから」
 輝色は桂介の台詞を叩き落とした。最初から冗談のつもりだったらしく、桂介はめげた様子もなく左手の人差し指を輝色に向ける。
「じゃ、次は君の番」
「あたし? あ、あたしもするの?」
「お互いに自己紹介しようって言ったばっかりじゃないか。もう忘れたの?」
「ひ、人を小馬鹿にしたような言い方するなっ!」
「はいはいはい、ごめんごめん。ほら」
「……楸輝色。イエローって呼ぶな。カレーも禁止。それ以外も厳禁。空を飛ぶなキスするな常識考えろ」
「なんか途中から俺への文句になっているようだけど……」
「……一七歳。誕生日は十月十日。身長と体重は言いたくない」
「スリーサイズは?」
「聞かなくていいから」
 輝色は桂介の質問を叩き落とした。深々と溜息をつく。
「あんたって煩悩の塊? そういうことばっか言ってるから『天才』とか言っても説得力ないのよ。わかってんの?」
 非難の目を向けながら忠告する輝色だったが、桂介は馬耳東風だ。
「自覚はあるよ、一応ね。というか、わざとだし。能ある鷹はなんとやらって奴だよ」
「あんたが口の減らない奴っていうのはよくわかったわ。自己紹介もわりと有意義よね」
「だろう?」
 輝色の皮肉にも桂介の笑顔はびくともしない。少女は舌戦の戦端を開く前に戦略的撤退を行った。口ではこのオバケには勝てそうにない、と判断したのだ。やはり後で拳に訴えようと思う。
「それじゃ、昨日の話の続きをしようか。君の質問はこうだった。俺は不老不死で、自由に死ねない。だから自分で命を絶つために、君に協力をお願いした。なのに、その俺が命を狙われていて、逃走しているのはおかしいんじゃないのか?」
 輝色は頷く。
「だって、おかしいじゃない。あんたが本当に不老不死なら殺せないんだし、そうでなくても死にたがってる所を殺してくれるっていうんだから、殺されたらいいのに」
「簡単に答えよう。あいつらは俺を殺すことが出来る。だけど、殺されるのは嫌だから俺は逃げてる。それだけ」
 淡々と言って言葉を切った桂介の顔を、思わず輝色は見返した。もったいぶった割に答えが簡単すぎて、いまいちピンとこない。
「……はぁ? なにそれ?」
「だから、あいつらは特別なんだ。俺を殺せる。だけど、俺は殺されたくないから逃げてる」
「ちょっ……ちょっと待ちなさいよ。そ、それだけぇ!? あんた、これだけ引っ張っておいてそれだけなの!?」
「うん、それだけ」
 桂介はさも当然そうに頷く。これで輝色の理性のタガが音を立てて外れた。
「きっぱり言い切るな! っていうかふざけんな! なんなのよそのオチは!」
 気付いたときには怒鳴っていた。輝色の声は床や柱に反響し、一瞬だが周囲の注目を集めた。大半は振り返っただけですぐに立ち去っていったが、残りは誰もいない空間に向かって妙なことを口走る輝色の観察を始める。
 桂介は天井を仰いで肩をすくめる。
「またすぐに怒る。君さ、もう少し大人にならない? 俺より若いみたいだけど、ちょっとアレだよ?」
「アレってなんだ! 今の説明で納得できるわけないでしょうが!」
「まま、とにかく落ち着いて。納得させてあげるから」
 輝色の剣幕に桂介は小揺るぎもしない。その態度は底の見えない湖を連想させる。中は見通せず、どんなものでも呑み込んでしまう。
 桂介はしばし宙に視線を泳がせてから、語を継いだ。
「じゃあ逆に聞くけど、君は昨日、どうして屋上から飛び降りることを選んだのかな?」
 予想外の角度からきた切り込みに、輝色は虚を突かれた。
「は? それとこれと何の関係があるのよ?」
「いいから、答えて。自殺のやり方なんてたくさんあるのに、どうして飛び降りを選んだのか。その理由は言える?」
「それは……」
 何か言い返そうとして、輝色は何も思いつかなかった。その先を回り込むように、あるいは追いつめるように桂介が言う。
「手首を切って水に浸したり、毒を飲んだり、首を吊ったり。それが怖いなら他力本願として治安の悪いところをうろついてみるとか、誰かの恨みを買うとか、雪山で遭難するとか、殺人を犯して捕まって死刑になるとか……自殺にもいろいろあるだろう? でも君は飛び降り自殺を選んだ。理由は簡単。それは、君がそうやって死にたかったからだ。そうだろ?」
 輝色は桂介を睨みつけたまま、沈黙を守った。桂介が何を言うつもりなのか、それに対して期待がある。同時に何を言われるのかという不安もある。
「手首を切るのは痛いし、毒を飲んだり首を吊るのは苦しそうだ。物騒なところは怖いし、誰かを不幸にするほど芯の通った考えでもない。雪山を登るのは面倒だ。でも飛び降り自殺ならすぐに済むし、確実だし、怖いのも薬でも呑めば大丈夫。なにより……学校ならみんなが君の死体を見てくれる」
「!?」
 電撃のような衝撃が胸を貫き、輝色は息を呑んだ。何故ここまで驚くのか自分でもわからないほど、驚愕した。反射的に桂介の顔を振り返り、輝色はそこに鋭い光を見る。訳もなくドキリとする輝きだ。これこそが、普段は奥底に隠されている桂介の知性の光なのだ、と輝色は理解した。
「……なんで、そんなことが、わかるのよ……」
 驚きのあまり身体の制御が上手く出来ず、力の入らない喉から出た声は震えていた。桂介はそんな輝色を横目に見て、くっ、と口の端をつり上げて笑う。
「図星? やっぱりね。そんなところだろうと思ってたんだ。ま、簡単な推理だよエジソン君」
「……ワトソン君」
「ワトソン君だったか。飛び降り自殺って言うのは大概が周囲への当てつけを含んでいる場合がほとんどなんだよ。知らなかった?」
 知らなかった。そんなこと考えたこともなかった。なのに、桂介の言ったことに心はギクリとしている。おそらく無意識には彼の言うとおりだったのだ。心の醜い部分を見られてしまったような気がして、輝色は桂介の顔を直視できなくなった。顔が熱くなっていくのを止められない。
「ま、理由や原因なんて人それぞれなわけだから、それに関してどうこう言うつもりなんてないけどね。肝心なのは、君が君自身でその死に方を決めたことにある。ここが重要」
 桂介は突然立ち上がり、輝色の前に立った。しゃがみこんで輝色の顔をのぞき込むと、そのまま無言でじっと見つめてくる。見つめ返すこともにらみ返すことも出来ない輝色はしばらく顔を俯かせてそのプレッシャーに耐えていたが、やがて耐えきれなくなっておずおずと視線を上げた。拗ねた子供のような声が出る。
「な、なによぉ……?」
 桂介は輝色を真っ直ぐ見据え、右手を胸に当て、まるで神に訴えるような真剣な表情で言った。
「俺の命はね、俺のものなんだ。自由にする権利は俺にしかない。死に方ぐらい自分で決める。だから、あいつらに殺されてやるつもりはこれっぽっちもない。俺が死ぬときは、その方法も場所も全部俺が決める。他人になんか決められてたまるものか。だから俺はあいつらと戦うし、逃げる。……わかる? つまりそういうこと」
 一方的に言い放ち、彼は再び輝色の横に腰を下ろした。駅を利用する人々の靴音や雑談の喧噪の中、少女とオバケの間に沈黙の幕が下りる。
 輝色は昨日も感じた不快感を反芻していた。桂介の態度が、彼と輝色の姿勢の違いをまざまざと見せつけていた。桂介と比べて、輝色は死に対して何も考えていなかったということを痛感させられた。彼は能動的に死のうとしているが、輝色はただ生きていたくないだけであり、それは受動的だった。
 輝色は自分がひどく弱く、みすぼらしく、矮小な存在であるような気がしてきた。桂介を光とするならば、輝色は影だった。
 深く落ち込んだ輝色は、それでも沈黙に我慢できずに口を開く。
「……で、あの二人は何なのよ。まだそれ聞いてないわよ」
 流れ出た低い声に我ながらびっくりする。桂介の声は何気なかった。
「ああ、そうだっけ? あいつらは『退敵師』っていって、まあ超ローカルな奴。わかりやすく言えば『ああいう奴ら』。それなりに説明すると裏社会に昔からいた人種で、歴史の影で暗躍していたとかそんな感じ。あの二人はその末裔で、名前はズージィ=ヴォルクリングと伊達力。ズージィは見えないものが見えるのが特徴。伊達は斬れないものが斬れるのが特徴。その他の点に関しても人間レベルじゃないね。特にズージィの方が」
「……女の子の方?」
 耳に入ってきた言葉に軽い違和感を感じて、輝色は聞いた。
「そう、そっちがズージィ。身長高い方が伊達ね」
「……その、伊達の方じゃないの? 人間レベルじゃないのって……?」
 輝色の脳裏に、屋上から飛び降りて当たり前のように着地した伊達の姿が浮かび上がる。
「ああ、なるほど。確かにそうかも。そう言われてみるとあいつら甲乙つけがたいな……」
「?」
「ま、それはともかく。あいつらは多分、誰かから依頼を受けていて、それで俺を殺すつもりなんだよ。それが『退敵師』の仕事だからね」
「依頼って……誰がそんなこと頼むのよ? ……あんた確かに色々と恨み買ってそうだけど」
 桂介の横顔を胡乱な目でみる輝色。桂介は苦笑するしかない。
「おいおい、失敬だな君はぁ。確かに俺が聖人君子だなんて主張はしないけど、殺されるほど恨みを買うようなことはしてないって。俺に死んでもらいたいって思ってる奴は、単に俺みたいな幽霊もどきがこの世にいちゃいけないって考えてるだけで」
 桂介が不自然に言葉を切った。不思議に思って輝色が見ると、彼は改札の方へ顔を向けていた。桂介にならって輝色も改札へ視線を転じると、すぐ傍で舌打ちが聞こえた。
「まずい、もう追いつかれた。逃げよう」
「へ?」
「落ち着いて、何気なくね。下手に慌てて動くとすぐに見つかるから」
 真剣な表情がそこにはあった。有無を言わせない桂介の語調に輝色は事態の深刻さを理解する。
「まずはゆっくり立ち上がって。貸しロッカーを探そう。君の荷物を預ける」
 言われた通りに輝色は立ち上がり、天井の案内板からロッカーの方向を示す矢印を探す。動悸が速くなっていた。ライオンに追われる獲物の気分だった。追われる者のストレスは胃に悪いな、と思う。
 そこで気付く。自分はあの二人組に殺されることを恐れている。ということは、自分も少なくとも彼らに殺されるつもりがないということだ。なるほど、これが死に方を選ぶと言うことか、と輝色は納得した。
「どうするの?」
 輝色は『O.B.K』の赤い刺繍にそう尋ねた。前回の逃走劇も桂介の主導によるものだったため、ことこのような事態に関しては、輝色は自然と彼を頼りにしていた。
 桂介の返答は簡潔を極めた。
「逃げる」


 桂介の手口は鮮やかなもので、人の流れの影に隠れて歩き出し、するりとロッカーへ近づいたかと思うと、瞬時に輝色の鞄をロッカーにしまって鍵をかけたのだった。
「そういえば、あんたが持ってる物って他の人からはどう見えてるの?」
 人混みの間を縫うように歩く桂介の背を追いながら、輝色はふと思いついた疑問を口にした。
「ああ、それなら心配しなくても大丈夫。他の人の目からはこっちの都合の良いように解釈されるらしいから」
「はあ? なにそれ?」
「俺にも理屈はよくわからないんだけど、俺が触れている間はそれは『こっちの世界の物』になっているらしくてね。だから、多分浮いて見えたりしているんだろうけど、見ている人は『そんな現実はありえない』って考えて勝手に頭の中で見ている映像を修正しちゃうんだって。ま、簡単に言えば『バレないから大丈夫』って感じ?」
 桂介の妙な物言いに気付き、輝色は携帯電話越しに質問を重ねた。
「誰かから聞いたみたいな言い方ね?」
「ちょっと知り合いがいてね。その人が説明してくれたんだよ」
「知り合い? あんたに? 誰よその変態?」
「輝色ちゃんって悪気あるのかないのか知らないけど滅茶苦茶失礼だよね。その人のことは言っても信じてくれないだろうから教えてあげない」
「あんたの知り合いって事は、その人もオバケってことよね? 他にもあんたみたいなのがいるんだ」
 桂介のような存在を『オバケ』と呼ぶことに輝色は決めた。幽霊でもなければ人間でもないのだ。桂介の背中にある刺繍もあって、名称を『オバケ』にするのが妥当だと思ったのだった。
「オバケ、ね……ま、言い得て妙だけど。でもその人に会ったらオバケなんて呼べないと思うよ?」
「誰よ? あたしの知ってる人なの?」
 二人は駅を出て街へ出た。桂介は道路を挟んで向かいに立つデパートへ向かっているようだった。
 桂介はまるで看板に書かれた店名を読み上げるようにその名を言った。
「イエス・キリスト」
「……はあっ!? いえす・きりすとぉ!?」
 あまりといえばあまりの名前に輝色は声を裏返らせた。輝色の言及に対する見事なまでのカウンターだった。タイミングも威力もこれ以上のものはなかっただろう。輝色は歩調を上げて桂介の隣に並んだ。
「あんたふざけてるとこの場で殴るわよ」
「ほら、やっぱり信じてくれない。だから嫌だったんだよな、言うの」
 桂介の表情は諦めの混じった憂鬱だった。本人の言うとおり、最初から自分の言っていることに信憑性がないと諦めていたのだろう。それが実際に口に出してみて失望に変わったようだった。あらぬ方向を見やって溜息をつく。
「な、なによ……だって信じられるわけないでしょ、普通」
「まーね。普通はね。でも現状が普通だなんてまだ思っているんなら、君の頭は想像以上のお気楽さだと思うけど。っていうかバカ?」
「こっ、このっ……! さっきから人が手を出せないと思って好き勝手ばっかり……後で覚えてなさいよぉ……!」
 携帯電話を持つ手に力が籠もり、ふるふると震え出す。横目で思いっきり睨まれた桂介は、悪戯が見つかった子供のように視線を宙に逃げまどわせた。わざとらしく口笛を吹いてごまかそうとする辺りに、ストレートな感情をぶつけられたときの彼の弱さがわかる。この少年、こと口による勝負であれば輝色などは足元にも及ばない強さを持っているようだが、それはあくまで舌戦に限られていて、輝色のようにすぐ手が出る人間は苦手としているようだった。はっきり言ってしまえば、腕っ節に自信がないそぶりがある。あるいは非暴力主義なのかもしれないが、思い出してみると、逃げながらではあったが彼はあの伊達と互角に打ち合っていた。フェミニスト、という単語が輝色の頭によぎる。
「まさかね」
 その可能性は生まれ落ちると同時に死んだ。このオバケにこれほど似合わない言葉はない、と輝色は思う。
 二人は歩道橋を渡って道路を越え、デパートに入る。輝色は躊躇いのない足取りで前を行く桂介を追いながら、あの変な二人組の姿が見えないかとチラチラ後ろを気にしていたのだが、デパートの玄関で、
「あいたっ!?」
 ゴツン、とくぐもった音が輝色の側頭部に生まれた。前を向くと、ぶつかったのは開きかけたガラスドアだった。その向こうでニヤニヤと笑う桂介がいる。忘れていた。彼は物をすり抜けられるのだった。
「…………」
 敢えて文句は言わなかった。一言ぐらい声かけなさいよ、とは思ったが、言ったとしても桂介を喜ばせるだけだと判断した。なんとなくだが、少年は輝色の文句を聞きたがっているようにも思えるのだ。
 いじめっ子かこいつは。
 そう思いながら自動ドアをくぐって早足で桂介に突っ込む。「お?」と桂介が声を上げたときにはその身体をすり抜けて、輝色はずんずんと奥へと向かう。携帯電話を畳んでポケットにしまうと、速度を緩めないままエスカレーターに飛び乗った。追いかけてきた桂介が背後から告げる。
「とりあえず追ってきてる気配はないけど、あっちも馬鹿じゃない。回り込まれてる可能性があるから、屋上に出よう。最悪、また君を抱えて飛ぶから」
 先程の桂介の説明を応用すれば、彼が輝色を抱えて空を歩いても地上の人々からは見えない──というよりわからないのだろうか。しかし、出来ることであればそのような事態は避けたい輝色であった。何もない高空に、たった二本の細い腕だけで抱えられるというのはひどく──いや、生半可な言葉では言い表せないほど、怖い。
 輝色と桂介は各所にある案内地図を頼りにデパート内を歩き回り、階段を上がり、やがて屋上の立体駐車場へと出た。しんと静まりかえった薄暗い空間に人気はなく、色とりどりの車が気味の悪いオブシェのように勢揃いしている。
「あいつら、ついてきてるの……?」
 人目をはばかる必要を感じなかった輝色は、携帯電話を取り出すことなく口を開いた。少女の声がコンクリートに反響する。
「どうだろう? そもそもこっちに気付いた様子もなかったから、運が良ければ撒けてるかもね」
 逆に桂介の声はいつも通りに聞こえる。響かない。まるで彼の声がコンクリートに吸い込まれているようにも、見えざるイヤホンから聞こえているようにも思えた。
 やっぱりこいつは幻か、妄想か、電波なのだろうか。そう思いながら輝色は問い返す。
「運が良ければ?」
「ズージィの奴は俺を見る以外にも色々特殊な技能があってね。その内の一つに、見つけたいものの場所を知る力があるんだ」
 桂介の説明を頭蓋骨の中でこねくり回すと、輝色の顔はさっと蒼くなった。
「……ってことはなに? 逃げてもすぐ場所わかっちゃうってこと? それって発信器つけてるようなもんじゃない!」
 狼狽する輝色に桂介は平然と訂正する。
「運が悪ければ、ね。こんな状態……君に言わせれば『オバケ』になった俺にもそれが通用するかどうかはわからないし。もしかしたら俺と君が一緒にいることがばれていて、君が捕捉されているのかもしれない。このパターンが一番最悪だ。あいつの照準が君にあてられていたら逃げ切るのは不可能なんだから」
「え、でも、あたしが一緒にいるってことはとっくにばれてるんじゃない?」
 学校の屋上での出会いが輝色の脳裏に甦る。あの時、彼女はズージィという少女と言葉を交わしたのだ。名乗ってはいないが、顔は覚えられているかもしれない。
 輝色の不安を桂介は一笑に付す。
「それはどうだろう? 単にあそこで会っただけって考えてるかもしれないし。大体、あいつは昔から興味のないものは目に入らない奴だったからね。俺が君を抱えて逃げたのも、ただ普通の人を巻き込むのを恐れて救出した、って解釈してるかも」
 つらつらと並べ立てる桂介に、輝色は嘆息する。
「あんたって本当に頭と口だけは回るわよね。……ん?」
 輝色の声と靴音のみが鉄筋コンクリートに跳ね返って響く中、ふとその音が止む。つられて音もなく歩いていた桂介も立ち止まる。
「ん?」
「……昔から?」
「そうだけど?」
 何を今更、と言いたげな顔をする桂介の臑に輝色の蹴りが入った。
「あだっ!?」
 飛び上がった桂介の襟元が輝色の両手で絞り上げられる。
「そうだけど? じゃないでしょアホか! 今ようやく気付いた! あんた結局肝心なこと全然言ってないじゃないのよ!」
「な、何が? 俺ちゃんと説明したじゃないか、あいつらはこれこれこうだ、って」
 痛みに顔をしかめる桂介に輝色は猛然と噛みついた。
「あんたが言ってたのは全部説明じゃない! あいつらが昔からの知り合いだなんて聞いてないわよ! っていうか、そもそもあんた何者なのよ!」
 がらんとした空間に輝色の声がこだまする。
「またその質問? それも昨日言ったじゃ……というより、さっき自己紹介したじゃないか。あれじゃ不服?」
「当然!」
 輝色はぴしゃりと言った。
「出身地は!? 学校は!? 住所は!? あんた何か色々詳しいけどなんで!? 昨日なんで屋上の近くにいたのよ!? オバケになったのはいつ!? なんでイエス・キリストと知り合いなのよ!? お父さんとお母さんは!? きょうだいはいるの!?」
 怒濤のごとく質問が溢れた。次々とうち寄せる波濤に桂介は気圧されるばかりだ。
「変な研究しててオバケになったって言ってたけど具体的には何したのよ!? 自殺するって言ってるけどその具体的な方法は!? なんであの背のでかい人は屋上から飛び降りても平気なのよ!? 大体なんであたしにあんたが見えるのよ!? 納得いかない納得いかない納得いかないったらいかないっ! 理不尽よっ! なんであたしなのよっ! ふざけるのもいい加減にしろっ! 隠し事するな約束守れ! こっちは一応命預けてるようなもんなんだから! ああもう何でも良いから納得のいく説明してみなさいよぉっ!」
 輝色の台詞の九割が導火線で、最後の一言が爆弾だった。爆音にも勝る衝撃波を立て続けに叩きつけられた桂介は、しばらく肩を上下させて荒い呼吸を繰り返す輝色を無表情に見つめていた。嵐が収まったことを悟ってから、彼はぽつりと言った。
「あのさ……君、そんなに俺のことが好きなの?」
 神速の右ストレートがその顔に炸裂した。
「もう死ねぇっっっ!」
 顔全体を怒りに染めて輝色はぶっ倒れた桂介にそう吐き捨てた。
 その時、笑い声が輝色の耳に入った。不思議な笑い声だった。とてもよく透る声で、優しい感じがした。そして桂介の声のように、コンクリートに反射していない。純粋な声だった。
「だ、だれっ?」
 我知らずか細い情けない声が出た。振り向いたそこに、ずらりと並んだ車の陰に、輝色は一人の男性を見る。
 美形と言っていい顔立ちがまず第一の印象だった。次いで雪のように白い髪と、輝きを放つ黒曜石のような瞳が輝色の胸に強烈な印象を焼き付ける。出で立ちは上下一式を黒で統一して、タートルネックセーターとスラックスをすっきりと着こなしていた。
「相変わらずのようですね、桂介さん」
 高い鼻の下にある唇から、流暢な日本語が流れ出た。男性は先程から両手を何度も叩いているのだが、一切音が聞こえてこない。それに気付いて輝色は戦慄した。
 この人もオバケ──
「あー、あなたは……久しぶりです」
 むくりと起きあがった桂介が片手を上げて男性に挨拶した。もう片方の手で殴られた箇所を撫でながら、彼は笑顔を浮かべて見せる。
「みっともないところを見られちゃいましたねぇ。というか、また会えるとは思ってませんでした」
「神のお導きでしょう」
 桂介の皮肉ともとれる発言に、男性は至極穏やかに答えた。その顔には暖かい微笑みがある。どんな荒んだ人間の心をも溶かすような波動が、彼の全身から溢れ出ていた。
「俺は神様を信じてないんですけどね。まあ、そういうことでもいいですよ。でも、本当に奇遇ですね。どうしてまだ日本に?」
 輝色は横目で桂介をねめつける。何だこいつ、敬語なんか使っちゃって、猫かぶりめ。そう目で訴える。桂介は気付いてないのか無視しているのか、取り合わない。
 男性はゆっくり首を横に振った。
「特に理由は。いつものように旅をしていました。すると、あなた方に出会いました」
 柔和な言葉遣いには不思議な雰囲気があり、輝色はその声をとても心地よく感じた。
 桂介はコンクリートにあぐらを掻いて、あっけらかんと笑う。
「あなたこそ相変わらずなんですね。正直言って、心の底から感心できますよ。変な人だ。そんなになってもまだ他人を助けるために世界中を歩き回ってるんですから。僕には真似できませんよ。というより、真似しようとも思いませんけど」
「ありがとうございます」
「いえいえ、お礼を言われるようなことではないですよ」
 全くだ、と輝色は思う。こんな優しそうな人を相手に、毒ばっかり吐いて。なんて失礼な奴なのだ。
「……あなた」
 輝色が男二人の会話に勝手に憤慨していると、男性が彼女に声をかけた。話しかけられるとは思っていなかったため、輝色は最初、自分のことだとは思わなかった。
「……え? あ、え、あ、あたし、ですか?」
「はい、あなたです」
 けぶるような微笑が輝色に向けられていた。輝色は胸に温かい水が満ちていくような錯覚を覚えた。男性に見とれていたと気付くまで、彼女は光に六十万キロほど旅をさせた。
「あ、あの、はい! な、なんですか?」
 声が上擦るのを自分で止められなかった。反射的に敬語を使っているあたり、彼女も桂介のことを言えなかった。
 男性は音もなく輝色に歩み寄り、思わず腰を引いた彼女の手をとった。
「傷をお持ちですね」
 静かな声に、しかし輝色の胸は強い鼓動を打った。短い髪の下にある顔が驚愕に染まる。男性は片手で輝色の左腕を掴み、もう一方の手で手首の辺りを優しく撫で始めた。男性はそこの視線を落として、続ける。
「私にはあなたの心を癒すことは出来ません。ですが、身体の傷ならば、癒すことが出来ます」
 その手が黄色の服の袖にかかり、優しく捲り上げた。
「あっ、やっ……」
 上がった小さな声は、抵抗と呼ぶには弱々しかった。露わになった輝色の左腕、その内側、手首から肘にかけて、いくつもの傷跡が肩を並べて走っていた。治りかけのものから、つい昨日生まれたものまで、無数のためらい傷があった。
 頬に桂介の視線を感じて、輝色は思わず顔を背けた。自分でもその行動の理由はわからなかったが、その感情は『恥じらい』ではないことだけは確かだった。
「……別に、後ろめたく思う事ないって」
 桂介の声がいきなり核心を突いたので、輝色はこのまま消えて無くなりたくなった。
「お嬢さん、心を強く持ってください。神は、いつでもあなたのことを見ています。この傷を見て、天の父は涙を流しておられます。あなたの痛みは神の痛み、流れる血は神の血でもあるのです」
 朗々と説かれる言葉は自然と輝色の心の奥底まで降りてくる。顔を上げると、吸い込まれそうな漆黒の瞳に見つめられた。いや、本当に吸い込まれる。輝色の意識の大部分が目の前の男性に占められていき、心にはえた翼が大きく羽ばたいた……

「そろそろ目を覚ましてもらえるとありがたいんだけど」
 呆れきった声が輝色の精神に冷水を浴びせかけた。
「……あれ……?」
 輝色は寝ぼけたような頭で、目をしばたたかせた。いつの間にか周囲の風景ががらりと変わっていた。
 蒼く透き通った空が視界いっぱいに広がっていた。冷たい風が全身をくすぐっている。少し寒い。見回すと、あの男性の姿はなく、眼下に町並みが見えた。高い場所にいる、それはわかった。足元を見ると、罅だらけのコンクリートのタイルがあった。
 輝色はもう一度呟いた。
「……あれ……?」
「あれじゃないって。いつまで寝ぼけてんの、君は」
 こつん、と桂介の右手が輝色の後頭部を小突いた。痛くもかゆくもなかったが、小突かれた部分を押さえて振り返ると、やはり呆れ顔の桂介がいた。
「……あたし……? あ、あれ? な、なんで? ここ、どこっ?」
 ようやく事態を理解して、輝色は慌てた。気がつけば、あの男性は影も形も見えず、桂介と二人して見知らぬ場所にいたのだ。男性に見とれたのはほんの一瞬だと思っていたのだが、いつのまにか何分も過ぎてしまったのだろうか。しかも無意識に体を動かしてここまで来たのだろうか。
 周章狼狽する輝色に、桂介は腕を組んで諦めと失望の微粒子を含んだ溜息をついた。
「やっぱり何も覚えてない……見とれすぎだって。君があの人に腕の傷を治してもらった後、俺が頼んでここに運んでもらったんだよ」
「あの人が傷を治してここに……え?」
 輝色は自分の左腕に視線を向けた。袖がめくれて素肌が直接大気にさらされている。そこにあったはずのためらい傷が、消えていた。傷一つない肌が、太陽の光を浴びている。
「うわ、もしかしてそこも覚えてないわけ? あーあ……これから死のうって言うのに、乙女心は元気なもんだねぇ」
 肩をすくめて、やれやれ、とぼやく。
「ま、さすがは神の御子ってところかな。治癒能力に時空操作。世界中を歩き回ってえっさほいさと人助け。御子というか、神様そのものかな? 奇跡がめったに起こらないのは神様が平等なわけでも冷たいんでもなくて、単に人手不足っていうのは笑える裏話だけど」
 桂介は苦笑いにも嘲笑にもとれる形に口元をゆがめる。輝色が見るに、この少年はあの男性を好ましく思ってはいても、その行動原理は忌避している。なにせ死後の世界を信じていないのだ。神の存在もきっと信じていないのだろう。
「……あの人って、やっぱり……?」
 輝色はその先に出てくる名称を敢えて言わなかった。口にすると、何かが損なわれるような気がした。桂介がそっけなく肯定する。
「そっ。イエス・キリスト様」
 そして彼は詳しく説明した。日本では『イエス・キリスト』と呼ばれている彼が、桂介と同質の存在であり、多種多様な超能力を持っていることを。輝色の傷を瞬時に癒し、空間を操って二人を駅前のデパートから遠く離れたこの場所へ移動させたことを。彼は大昔からあのように各地を自らの足で回り、多くの人々に救いの手を差し伸べてきたことを。それこそが太古から現代まで続く神話の正体であると。
「つまりみんなが『神様が助けてくれた』っていうのは大概あの人が関わってるんだよ。そういうことだから、本質的にはあの人が神様とも言える。みんなが神様って呼んでる存在があの人なんだから」
 屋上の縁の腰を下ろした桂介は、つまらなさそうにそう語る。その瞳は眼下の町並みへ向けられていたが、焦点は別のどこかへ定められているように見えた。
「どう? これで俺の話信じる気になったでしょ? 俺の言うことに間違いはないんだって」
 自信満々と呼ぶにはほど遠い声だった。淡々と喋っていて、言ってるほどには感情が伝わってこない。機嫌が悪いのだろうか、と輝色は考える。
「ああ、ちなみに他にもいろんな人……いや、オバケがいるよ。どうも引かれ合う性質があるみたいでね、俺達。たまにああやって会えることがあるんだ。神話に出てくる英雄とか美女とか……あと、サンタクロースとか」
「さっ、さんたくろーすぅ!?」
 喫驚する輝色に、桂介は振り返りもせずボソボソと続ける。
「サンタクロースは実在するよ。正確には聖ニコラウスさんっていうカトリックの聖人なんだけど。本当にトナカイのソリで空を飛び回っててさ、世界中の人にプレゼント配ってた。あの人もキリストさんと一緒だなぁ。いつも人助けばっかりして嬉しそうにしてるし、幸せそうだし、不満なんてないって感じで。羨ましい限りだ」
 最後を溜息で結ぶ。いい加減その態度が癇に障ってきたので、輝色は文句を付けた。
「ちょっと、さっきから何なのよ。感じ悪いわね」
「そう? 別に何でもないんだけどね。俺もあの人達みたいに何かの宗教やっておけばよかったかも、って思ってさ。そうしたら細かいこと考えないで、何もかも神様の言う通りに生きられたのにな、って。だってさ、前にあの人たちに『あなた達は多くの人を救っていますけど、より多くの人は救われていませんよね。それはどう思います?』って聞いたら、あの人達なんて答えたかわかる? それが神の御意志です、だってさ。簡単だよね」
 今度こそ彼の口調は嘲弄めいていた。態度と声音が明らかに『あの人達は信じがたい馬鹿だ』と語っていた。そのようなものを見て黙っていられる輝色ではない。両手を腰に当てて、高みから持てる限りの毒舌を投下する。
「なにそれ、いじけてんの? まあ確かにあんたなんかじゃあの人の足元にも及ばないんだから当然よね。意地が悪い、性格が悪い、気が利かない。羨ましくなるのもわかるわ。あんたが百年がんばっても絶対追いつけっこないし」
 輝色なりに最大限に尖らせた舌鋒は、しかし桂介にはうまくさばかれた。
「ああ、そうだね。羨ましいんだよ、俺。あんな風に幸せになった記憶なんてほとんどないからねぇ。女の子に見とれられたこともないし?」
 あっさり肯定されて、輝色は続ける言葉を失った。沈黙すると、桂介がちらりと輝色を見て、ふっ、と笑った。
「ば、馬鹿にしたわね! 今、あたしのこと馬鹿にしたわねぇっ!」
「いやいやいやいや、そんなことないって。単にキリストさんに見とれてた君の顔を思い出しただけさ」
 と言って今度は声を立てて笑う。痛いところを突かれて輝色は羞恥に頬を染めて、ぐぅと呻いた。自分ではわからないが、おそらくとても情けない顔をしていたであろうことは想像に難くない。
「それにしても、もったいないなぁ。空間転移なんてめったにできる体験じゃないのに。覚えてないなんて」
 確かに話を聞くにそれはしっかり体感したかった。輝色も内心そう思ってはいたが、素直に認めたくなくて心にもない事を言う。
「……別に、どうだっていいわよ。どっちかっていうと、あの人にお別れ言えなかった方が残念よ」
「へぇぇ。……ああ、そうそう。おもしろい事を教えてあげようか。キリストさんの顔、まだ覚えてる?」
「はあ?」
 いきなり何を言い出すのかこいつは。そう思いながら脳裏にあの優しい男性の姿を思い浮かべる。
「……え?」
 浮かばなかった。髪の色も長さも、瞳の色も形も、とても綺麗で優しいと思った微笑みも、身につけていた衣服でさえも、輝色は思い出せなかった。あの時は確かに強烈な印象を受けたはずなのに、『強烈な印象があった』という記憶だけが残っていて、肝心の印象がどんなものだったのかがわからない。ただただ、どこまでも深く暖かい雰囲気だけを覚えている。
「ほとんど忘れてるだろう? そういう人なんだ。俺も再会するまで顔が思い出せなかったし。これも本人から聞いたんだけど、人によっては会ったこと自体忘れちゃうらしい。ほら、あの人、君が『見える人』だってこと驚かなかっただろう? 俺は君に会ったとき結構驚いたんだけどね。ま、神様になって長いから君のような人とも何度も会ったことあるんだろうね。例えば、信心深い神父とかシスターとかに見られても、その人達の記憶はいつか忘却の彼方、よってあの人が存在する事実は今になっても世間には伝わらないって寸法……ってところかな」
 世の中ほんとにうまく出来てるよ、と呟いて桂介は立ち上がった。
「さて、あの人のおかげで完璧に撒くことができたし、そろそろ行こうか」
 階段に向かって歩き出す。
「あ、ちょっと待ちなさ」
 その背中を追いかけようとして、不意に、天啓のごとく輝色は思い出した。少女の全身の筋肉が一瞬、一時停止する。
「……あ」
「ん?」
 桂介が立ち止まり、振り返る。その視線が輝色の全身を撫で、何事かと聞く。輝色は俯いてしばらく考え込んでいたが、やがて顔を上げた。その表情筋は、刺々しい怒りを内包していた。鋭い眼光が光線と化して桂介を貫く。
「な、なに……?」
 たじろいだ桂介に輝色は言葉の平手打ちをかました。
「荷物どうすんのよ! 駅のロッカーに預けた奴!」
「……あ痛っ」


 神の奇跡によって、二人は駅前のデパートから新幹線で三時間の街へと移動していた。話し合った結果、今日中に駅へ戻るのを諦め、適当なところで宿を取ることで落ち着いた。
 一方その頃、彼らの突然の空間移動によってズージィ=ヴォルクリングが人知れず混乱と錯乱と恐慌の嵐の中へ飛び込んでいることを、当然、輝色達は知る由もない。桂介は思い至っていたかもしれないが、輝色はそもそも『瞬間移動』なるものが実現できることすら信じていなかったため、それ以上思考を進めることなど出来るはずもなかった。『退敵師』の末裔たる少女は知恵熱を発生させるまで頭を回転させ、現状に整合する解答を導き出すのに必死になっていた。彼女はイエス・キリストなる存在が現世にあることを知らないのだ。
 鈍行電車を二本、終点まで乗り継いだ輝色は降り立った駅で今晩の宿を探した。駅員に声をかけ、一番近くにある大きなホテルに部屋を取る。
「随分と太っ腹だね。いや、君の身体のことじゃないよ?」
 オバケの少年は余計な一言が多い。ホテルのボーイは、何もない空間にじろりと視線を射込む女性客を不思議そうに見つめた。
「親の遺産よ。二人とも生命保険に入ってたし、遺書はなかったけど、親戚のおじさんおばさん達は遠慮してくれたから」
 部屋に入ってから輝色はそう説明した。
「それに、あたしもうすぐ死ぬんだから、少しぐらい贅沢したってどうってことないわよ」
 空いている部屋の中で最上級のものを選択した。一応、桂介も数に入れてツインルームを頼んだ。後で文句を付けられるのも面倒だと思ったからである。とは輝色の建前で、それもあるが実際には部屋を追い出すのも忍びないと考えたからである。
「なんかどっかで聞いたような話だねぇ。家族みんなでおっきい遊園地で遊んで、美味しい料理をおなかいっぱい食べて、ものすごく高いホテルのスウィートルームに泊まって、子供に綺麗なお化粧をして」
「最後には富士の樹海で、って? あたし、お風呂はいるけど覗くなよ」
「そう、その話。ああ、安心して。俺、貧乳には興味ないんだ」
「誰がひんっ……し、死ねっ!」
 抗議しかけて、輝色は話が下世話な方向へ向かっていることに気付き、実力行使に出た。見事な右ハイキックが桂介の後頭部へ向けて唸りを上げた。
 入浴の後、備え付けの寝間着に着替えた輝色は、自分の服をクリーニングサービスに出した。翌朝までには洗濯し乾燥させて返却されるという。
「あんたは?」
 風呂はどうする、という意味で輝色は聞いた。ソファーの上にあぐらを掻いてテレビを見ていた桂介は、視線を画面に固定させたまま答えた。
「もちろん、俺は入る必要がないから結構だよ」
 どうやらそういうものらしい、とは輝色にもわかっていた。彼は少なくとも数日以上はあのカジュアルシャツとジーンズという格好をしているはずで、それにしてはその白さと青さは少しも損なわれていないのだ。どちらもつい先刻アイロンをかけたかのようにさっぱりしている。それは少年自身をとってみてもそうだった。
「でも、心の洗濯はした方がいいわよね」
「ええ? 俺みたいな善良な一般市民には必要ないって、そんなの」
「嘘つけこの変態サディスト」
 輝色は遠慮がない。もはや少年に対して距離を置いた発言をしようとは思わなかった。彼女自身はそれを自覚していなかったが、二人の親密度は確実に増していた。
「あのさ、俺から一つ聞いて良いかな?」
 リモコンを拾ってテレビを消した桂介が、出し抜けにそう言った。タオルを頭にかぶせて冷蔵庫の中身を物色していた輝色は、オレンジジュースの缶を取り出しながら無造作に返事をする。
「ぇえ? なによ?」
「そこで君がビール取り出してたら予想以上に柄が悪かったんだけど、そうじゃなくてよかった……ではなくて。失恋したの?」
 その質問は輝色に電光石火の衝撃をあたえた。思わず手の中の缶ジュースを取り落とす。毛足の長い絨毯がそれを受け止め、よく冷えた缶ジュースは不本意な接吻に悶えるように転がった。
「なにょ、いきゃ、へん……っ!」
 慌てて振り返った輝色は驚きのあまり口が動かず、舌も回らなかった。何をいきなり変なことを、と言いたかったのだ。
「直感」
 桂介の一言は短かったが力強かった。その瞳には確信の光がある。それは当然、輝色の反応から生まれたものだ。
 短髪の少女は表情の選択に困った挙げ句、一番使いやすいものを選んだ。顔に怒りのカーテンを掛けた輝色は勢いよく食ってかかった。
「根拠なしでいい加減なこと言うのやめなさいよ! あんたって本当にデリカシーないわね!」
「悪いね、俺ってオバケなもんだから神経がないんだ。だから無神経……なんつって」
「おもしろくない!」
 手厳しい評価が桂介の冗談に下された。桂介は少し傷ついたように憮然とした。どうやら今のでウケを狙ったつもりだったらしい。彼はやれやれと肩をすくめてから、人差し指を輝色の頭に向けた。
「髪の毛が短い。手首にためらい傷があった。屋上で君は飛び降り自殺をしようとしていた。それが根拠。……いや正直、腕の傷を見たときは驚いたけど。君、本当に死にたいと思ってるんだね」
 輝色は答えずに足元の缶ジュースを拾い、桂介の向かいのソファーへ移動した。どさりとソファーに身を放るように預けて、缶のプルタブを起こしてオレンジジュースを喉へ流し込む。まるで親の仇のように喉を鳴らして全て飲み干すと、輝色は挑むような目つきを桂介に向けた。
「そうよ。それが何よ。あんたには関係ないじゃない。あたしはあんたに、あたしが自殺する理由を話すなんて約束してないわよ。あんたが勝手に妄想するのは自由だけど。……大体、キリストさんのせいでうやむやになったけど、結局あんただってあたしの質問に答えてないじゃない。教えて欲しかったらあの時のあたしの質問に答えてからにしなさいよ」
 音を立てて強化ガラスのテーブルに空き缶を置く。我ながら、まるで酔っぱらいのようだと思ったが、それ以上に胸の裡を隠すのに輝色は必死だった。
 好きかもしれないと思っていた人が、他の女生徒と付き合っているという話を聞いた。それだけだった。別段、片思いをしているつもりはなかった。彼はクラスで唯一、輝色にも挨拶をしてくれていた。よく気を遣ってくれて、文化祭の準備期間も輪の中からはみ出していた輝色の手を引いてくれた。よく笑いかけてくれたし、笑わせてくれた。彼と話しているととても心地が良かったし、自分に少なからず好意を抱いていてくれるのだと信じていた。いつか自分から告白するか、彼から告白されたらいいなと、妄想したこともあった。
 よくあることだ、と理性ではわかっている。つまらない話だし、いつかは笑い飛ばせるようになれるとも思う。しかし、だからといって心に生まれた傷口がそんなに早く癒えるわけはなかった。
 自分でも馬鹿だと思う。結局、自分は彼になけなしの救いを求めていて、勝手に勘違いをしていただけなのだ。恋と呼べるようなものではなかったし、裏切られたと感じるのも筋違いだ。これを失恋というのは、本当の失恋を経験した人に失礼だと思う。でも、心のどこかではこれを失恋にしたかったのだろう。長くて幽霊のようだった髪を切ったのは、きっとそのため。
『なにより……学校ならみんなが君の死体を見てくれる』
 そんな桂介の声が不意に甦った。きっとその通りなのだ。自分は頭のどこかで、死んだ姿を彼に見せようと考えていたのだ。だから、学校を死ぬ場所に選んだのだろう。それに現場が学校であれば噂が立つし、彼の耳にも、その恋人の耳にも入る。そんなあさましい願望があったに違いないのだ。
 口をつぐみ、自己嫌悪の海をどこまで深く潜っていく輝色に桂介は言った。
「……別に君が死ぬ理由を知りたいとは思ってないけどさ。ただ、もし失恋が原因で自殺するっていうんなら、馬鹿だな、って言おうと思って」
「!?」
 桂介の発言は、輝色の逆鱗に触れるどころか、勢いよくちぎり取るようなものだった。
 輝色の手から空き缶が飛んだ。
「おっと」
 しかしそれは空を切ってソファーの背もたれに跳ね返る。桂介は最初から当たらないことがわかっていたかのように微動だにしなかった。あるいはすり抜けるとでも思ったのだろう。
 輝色はソファーを蹴って立ち上がり、開いた口から激情を迸らせた。
「あんたなんかに……あんたなんかに言われなくてもわかってるわよ! それぐらいわかってるんだから! そうよ、どうせあたしは馬鹿よ! 悪い!? それであんたに迷惑かけたっていうの!? いいじゃないあたしがどんな理由で死んだって! あんなには関係ないでしょ!」
 昂った感情が涙を呼んだ。輝色は瞳に涙を浮かべ、喉を詰まらせながらなおも叫ぶ。
「あたしだって……あたしだって好きで馬鹿やってるんじゃないんだから! でもどうしようもないじゃない! あたしにどうしろって言うのよ! 馬鹿なんだからしょうがないじゃない! あんたみたいに頭が回らないんだからっ……!」
 言葉が尽きたのではなく、輝色はそれ以上声を出すことが出来なくなった。胸の底から感情の奔流がとめどもなく溢れてきて、堤防が決壊したのだ。輝色は顔をぐしゃぐしゃにして子供のように泣きじゃくった。全身を強張らせて、ふるふると震えていた。
 嗚咽を漏らす輝色を、桂介は冷静な顔で見つめていた。それはどこか、少女の泣き方を観察しているようにも思えた。
 輝色は黙ったまま何も言わない桂介を泣きながら恨んだ。どうしても何も言わないのか、何か言えばいいのに、何か言ってくれないと困る、と。やがて、とうとう沈黙に耐えきれなくなって、輝色はリビングから二つある寝室の一つへと逃げ込んだ。勢いよくドアを閉めて鍵をかけた後、ダブルベッドに潜り込む。シーツを頭からかぶって、枕にしがみつき、声を上げて泣いた。
 桂介の言葉が悲しいのではなかった。
 どうしようもないほど彼の言う通りな自分が悲しかった。


 翌朝。輝色が部屋から出ると、数秒の間を置いて向かいのドアから桂介が出てきた。もちろん彼はドアを開くことなどせず、すり抜けて、だが。
 室内では、昨晩から続く気まずい静寂が澱になっていた。どちらかが何かを言えば、劇的な反応が起こるに違いない。そう感じさせる空気が滞留していた。
 互いが互いを無視して動き始めた。桂介はソファーに座ってテレビをつけ、輝色は出入り口へむかってクリーニングに出した服が返却されているかを確認する。幸い服はすでに返却されていて、輝色はそれを手に寝室へ戻った。桂介は小さな箱の中でニュースを読み上げる男性を退屈そうに見ている。
 前日と同じ、黄色のブラウス、黒のセーター、黒のスマートパンツ、そして黒のダッフルコートを腕に抱えた姿で寝室から出てきた輝色は、冷蔵庫を開けて牛乳を取り出した。ダッフルコートを傍に置き、腰に片手を置いて一気飲みする。コップ二杯分の牛乳を飲み干すと、輝色はテレビを鑑賞しているように見える桂介を一瞥した。桂介は一心にニュースを聞いているようだった。
「……ふんっ」
 その姿に輝色は唇を尖らせて、備え付けの電話でルームサービスの朝食を注文する。電話を置いた途端、輝色の背中が電流に痺れたように震えた。桂介が声をかけたのだ。
「昨日のこと、謝るつもりはないよ」
 その言葉の意味が輝色の脳に浸透するまで少々の時間が必要だった。輝色は爆発しかけた感情を無理矢理押し込めてから、口を開いた。
「別に謝ってもらうつもりなんてないわよ」
 受話器を置いた体勢のまま、少女の視線は壁に向かって固定されていた。
「あれは俺の本心だよ。失恋なんかで命を捨てる人間は馬鹿だと思う」
「失恋したことない奴ほどそう考えるのよね」
 輝色の台詞は刺々しい反論にしかなり得なかった。
「そうかもね。でもやっぱり馬鹿だと思うよ。俺は失恋したこと無いから」
「なら偉そうな口叩かないでよ」
「だからこそ言ってるんだけど。失恋したこと無い人間だからこそ、冷静に客観視してこういうこと言えるんだって」
「それが何よ。だから何よ? あんた、今更あたしに考え直せとでも言いたいわけ?」
 輝色は振り返った。瞳の中に苛立ちが炎のように揺れていた。桂介はいつか視聴覚室でもそうしていたように、腕と足を組んでソファーに座っていた。
「別にそういうことじゃないけど、まあ、そうとらえるのも結構だと思う。君の解釈に干渉するつもりはないよ」
「ああ、そう。つまりあんたはあんたの言いたいことが言いたかった、それだけでしょ? ならもういいじゃない。あたしも同意見よ。失恋だけで自殺するのは馬鹿だと思うわ。でもそういう人がいるってことを否定しようとも思わない。人にはね、人の事情ってものがあるのよっ!」
 これで話は終わり、とでも言うように輝色は洗面所へ向かった。その背中に、桂介の呟きが聞こえる。
「そうだね。人には人の事情ってものがあるんだよな」
「?」
 輝色はその言葉に奇妙な違和感を感じたが、大して気にしなかった。きっと彼が死を求める事情に関することなのだろう、と思った。彼も死を望む者なのだ。輝色の言葉になにかしら感じるところがあったのだろう。

 輝色が洗面所へ姿を消した後、桂介は立ち上がって窓に顔を向けた。朝日が眩しく、燦々と町並みを照らしている。高い位置から望む景色はまるでミニチュアの模型のようにも見えて、そこに住まう多くの人々の生活を想像すると、天文学的なスケールに呑み込まれてしまう。桂介は目を細めもせずにその光景に見入る。彼に眩しいという感覚はないのだ。
 人々には、人々それぞれの事情がある。
「でも、死を望む欲求と自尊心っていうのは両立できないもの……なのかねぇ?」
 どうせ人はいつか死ぬ。ならば、自分の人格を尊重し、誇りと品位を保って死にたいと思う桂介なのだった。




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