| O.B.K 〜あいつはオバケじゃない?〜 |
「これまでは運が良かったとしか言いようがない」
桂介はそう断言した。
薄暗い廃工場の、壊れた機材の陰で二人は身を小さくしていた。輝色は顔を真っ赤にして、荒い息と早鐘を打つ胸を抑えることに必死になっていた。桂介は右に、輝色は左に視線を向けて警戒している。
「ズージィの奴、やっぱり俺のことを捕捉できてたんだよ。今まで見つからなかったのが不思議なぐらいだ。ま、多分、あっちが余裕をふかしていたせいなんだろうけどさ」
こんな時でも桂介の口調から余裕の色は抜けない。彼はすでに両手に武器を持っていた。彼が『マルチメディア・ヴァリアブル・ウェポン』通称MVWと呼ぶ可変型銃剣と、追跡者の目を焼くためのレーザーガンである。現在は銃の形状をとるMVWと懐中電灯のごときレーザーガンを携えた少年はまるで戦場の兵士だった。その顔はこれまでになく凛々しく、頼もしさに満ちている。
輝色は耳の奥で響く心音に悩ませられながら耳を澄ます。自分の心臓が鼓動を打つ音しか聞こえない。不安が胸を締め上げ、恐怖が喉の奥で唾をねばつかせている。少女の手には短い鉄パイプが握られていたが、これを武器と呼べるほど輝色は戦いに慣れていなかった。
事の始まりは数十分前に遡る。
朝食を胃袋に納めた輝色はホテルをチェックアウトし、寄り道もせずに駅へ向かった。今日は新幹線を使用して一気に荷物を残してきた場所へ行くつもりだった。乗車券を購入して、ホームから新幹線に乗り込んだ輝色と桂介を待っていたのは、ズージィ=ヴォルクリングと伊達力だった。
時ならぬ再会に桂介と輝色は思考停止に陥った。一方、『退敵師』の二人はまるでこの鉢合わせを予知していたかのように落ち着き払っている。凍風を孕んだズージィの瞳が、オバケの少年とその傍にいる少女の顔を静かに眺めた。
意外なことに口火を切ったのは楸輝色だった。
「桂介!」
彼女が初めて大庭桂介を名指しで呼んだ瞬間だった。そしてその時、輝色の声は呪縛を解く呪文だった。輝色と桂介はほぼ同時に弾かれたように新幹線から飛び出し、全速力で逃げ出した。ズージィを肩に担いだ伊達がその後を追う。輝色を普通乗用車とし、桂介をプロペラ飛行機とすれば、伊達は改造スポーツカーだった。長身の男は、全身の筋肉を総動員してホームを駆ける輝色をあっさり追い抜き、背中の大刀を抜き放つと、空中を走る桂介に迫った。それはあたかも、背後から桂介に向かって黒い疾風が吹き抜けたかのように輝色には思えた。
懐からMVWを取り出し剣型に構えた桂介が足を止め、振り返りざまに叫ぶ。
「先に行くな! 俺から離れるんじゃないぞ!」
銀色の軌跡が少年から一閃し、肉薄した伊達に炸裂した。『澄んだ金属音』などというものは桂介の生きる次元には存在しない。輝色は、桂介の言葉が自分に向けられたものと気付くのに数秒の時間を必要とした。
先に行くな? 普通、この場合は逆なのではないのか?
この時の輝色は、彼女がいなければ桂介が物質に干渉できないという事を完全に失念していた。混乱した輝色は逃げ出していたところを立ち止まろうとし、それが完全に叶う前に再び逃げだそうとしたので、自らの足を絡ませて転んでしまう。
痛みに顔をしかめて体を起こすと、ホームの空気は粛然としたものから騒然としたものへと変わっていた。輝色以外の者の目からも、子供を肩に乗せた大男が突然刃物を抜いて振り回している姿は見えるのだ。当然の結果だった。しかしどういうわけか、悲鳴や狼狽の声は次第に静まり、人々は黙って伊達の動作を見守り始めた。輝色は不審に思って周囲の人々の顔をつぶさに見た。そして理解する。彼らは伊達の動きを大道芸か何かだと勘違いしているのだ。
鬼面をつけた大男の立ち回りは、まるで赤熊のかぶり物のない鬼剣舞だ。黒のシルクハットに赤い鬼面、ぼろぼろの黒衣に、その腰には『ヴォルクリング・サーカス』の文字。そして、桂介の姿は人々には見えない。それらを総合すれば、彼らの反応は当然のものだった。騒ぎを聞きつけてやってきた駅員達も我を忘れ、伊達の派手な動きに見入っていた。
輝色はその場に座り込んだまま、ただ桂介と伊達の闘いを凝視していた。素人目から見ても伊達は剣の達人と思えた。無駄のない素早い動き、しなる筋肉の運動、舞っているようにも見える連動する攻撃。だが、桂介も負けてはいなかった。学校の屋上から飛び降りても平然としている怪物を相手に、互角に渡り合っていた。伊達を『強い』と表するなら、桂介は『巧い』と表すべきだろう。剛腕から繰り出される重い一撃を桂介は剣型MVWをして巧みに受け止め、流し、巻き込み、反撃の一撃を打ち込む。今はレーザーガンを手にしていないため、刃による直接攻撃である。
そうやって互いに決定打を与えられないまま攻防が続いていたが、出し抜けに桂介が輝色にむかって叫んだ。
「向こうの! 一番向こうのホームに行って! 早く!」
顔を向ける余裕すら桂介にはない。鋭い眼光を伊達と、その肩のズージィに突き刺したまま離せない。
「……え?」
輝色は驚いて視線を逃げまどわせたが、誰も助けてくれる者はいなかった。
「早くっ!」
切羽詰まった桂介の声が輝色の尻を叩く。
「う、う、うん!」
気迫に圧されたように輝色は立ち上がり、走り出した。伊達の太刀が奏でる風切り音を背中に聞きながら、階段を駆け上がる。
「もう逃がしませんよ。悪あがきもここまでです」
激しく上下左右に動く伊達の肩に当たり前のような佇まいで座り続けているズージィが、桂介の耳元に囁いた。スターサファイアの如き瞳に、怪しい輝きが宿っている。桂介はズージィをちらりと見上げ、不敵な笑みを口元に作り上げる。その唇が音を発することなく動いた。
「?」
ズージィには理解できなかったが、桂介はこう言っていた。
『俺だけ捕捉してると手の早い怖いお姉ちゃんにしてやられるぞ、ズージィちゃん』
その時、地獄の門を押し開いたかの如き、重苦しく嗄れた声が生まれた。
「先程逃げた女に何かある」
次の瞬間、時を司る者までが驚愕の手に足首を捕まれたように、一人を除きその場にいた全員の動きが静止した。桂介とズージィは同時に同じ表情を顔に浮かべた。目を丸くし、我が耳を疑う表情である。
「……あ?」
「……今のは?」
二人の視線、いや、周囲の人々の視線までもが一人の男に集中した。すなわち、シルクハットの下に鬼面をつけた大男に。
伊達の声だったのだ。
初めて聞くその男の言葉に、オバケの少年と『退敵師』の少女は等しく驚きを隠せなかった。だが、当事者だけは全てを意に介さず動いていた。脊髄反射で伊達の剛剣を受け流した桂介の腹に、強烈な膝蹴りがねじり込まれる。
「──ぅぁっ……!?」
桂介はこれ以上ないほど顔をゆがませ、刹那、宙を舞った。その姿は子供に蹴り飛ばされる人形に似ていた。五メートル先の鉄柱に背から激突する。
伊達がさらなる一方を踏み込み、彼我の距離を削ろうとする前に、桂介は己の肺活量を誇るように声を上げた。
「そこから俺を見て! 次に横を見て!」
一拍の間を置いて、桂介の姿が忽然と消えた。いや、正確には音よりも早く彼の身体が移動を開始したのだ。
見えない糸に引き寄せられるように、強力な磁石に吸い寄せられるように、オバケの少年は腹を抱えた体勢のまま空中を滑走した。上空から俯瞰すると、障害物をすり抜けながら大きな曲線を描き、桂介は先程までいたホームの中央から一番奥のホームの端へと、一瞬にして移動したのだった。
四半分のケーキの縁に似た曲線を描いた桂介からたどると、その四半円の中心には一人の少女がいる。体中の筋肉に悲鳴を上げさせながら桂介の指示通りに動いた、楸輝色である。
「……これが、視線で『引っ張る』ってこと……?」
輝色は呆然と呟いた。よくできたマジックショーみたいだった。この一番端のホームにやってきて、桂介の言うとおり、彼を見た後に横を向いたら、その先にも桂介がいたのだ。ほとんど一瞬の出来事で、頭の中が真っ白で、何が何だかわからなかった。
と思ったらいきなり目の前に桂介が現れた。
「うっきゃあっ!?」
輝色は情けない悲鳴を上げて、今度こそ腰を抜かした。ホームに尻餅をついて転がる。
「あの女が……しまった……!」
遠く離れた場所でズージィが臍を噛む声が聞こえた。桂介を輝色の眼前まで運んだのは彼女だった。一瞬にして移動した桂介を見た後、咄嗟にその原因である輝色を見てしまったのだ。桂介はまんまとその視線に『引っ張ら』れ、瞬時に輝色に近づいたのである。
長い間乗客の靴底を受け止め、これからも受け止め続けるであろうコンクリートに背をつけた輝色に、白い腕が伸びて、その身体を引き上げた。ズージィの視線によって得た速度に乗ったまま、桂介は輝色の黒い腕をかっさらったのだった。輝色はまるで砂袋か何かのように扱われた。中肉中背の身体からは想像も出来ないような膂力で持ち上げられ、背中に担がれる。そして視界の中で周囲の人々の頭がどんどん足元へ下がっていく──いや、輝色自身が宙に浮き始めていた。
「きゃあっ!? ちょ、ちょっとぉっ!?」
「静かに! 暴れない! 逃げるから!」
不安と恐怖と恐慌にもみくちゃにされた輝色の抗議を、空気の階段を駆け上がる桂介はそれ以上の大声で叩き伏せた。
黒衣の少女を背に乗せて宙を駈け昇るその姿は、まるで伝説の天馬を想起させた。輝色の姿は桂介が触れた時点から人々の意識の外へはみ出し、幾人かは先程まで少女が転んでいた場所を見つめている自分を見つけ、不思議に思った。確かにそこで何か妙なものを見たような気がするのだが──と彼らは思いながら、全ての記憶と感覚を錯覚の小箱に封印し、それぞれの日常に戻っていくのだった。
「伊達!」
ズージィの一喝で巨体が躍動する。迷いも間違いもなく一瞬で刀を鞘にしまう神業を披露した大男は、次にその逸足を見せつける。刃の輝きを禍々しく放って駆け出すその姿は、まさに死神と等しかった。
空に逃げたオバケと少女、地上からそれを追う『退敵師』達は駅を飛び出し、一つの街を舞台とした逃走劇を演じた。逆説的に、その姿は凧を引いて走る少年のようであった。地上を這いずる『退敵師』が少年で、空を走るオバケが凧である。実際には凧の方が少年を引いていたのだが。
家を越え、川を越え、ビルを越え、小山を越え、行き着いた先が寂れた山の麓の廃工場だった。逃げ込んだというより、桂介はそこを戦場に選んだようだった。
施錠された扉をそのままに、窓を叩き割って輝色と共に潜入し、工場内を走り回った。桂介は懐からレーザーガンを取りだし、輝色はダッフルコートを脱いで適当な場所に隠すと、床に落ちていた短い鉄パイプを拾った。できればもっと長い物が欲しかったのだが、これ以上の物が見つからなかった。やがて扉が切り裂かれ、崩れ落ちる音が二人を壊れた機材の陰へと押し込んだのだった。
「こうなったからには、ここで決着をつけるしかないかな」
「……殺すの?」
輝色の質問は核心に迫っていた。桂介の瞳には殺意ととっても良い輝きが宿っている。だが、少年はそれに対して軽く笑って見せた。その目はまったく笑っていなかったが。
「まさか。殺しはしないって。ま、一生目が見えなくなるようにはなってもらうけど。ある意味、殺すより酷いかもね。こんなところで失明させようってんだから」
二人の脳裏にほぼ同じ光景がよぎる。光を失った少女と男、彼らは手探りで工場内を徘徊し続け、幾日費やそうとも出口にたどり着けない。挙げ句には力尽き、その場で朽ちていくのを待つばかり──
「でも、あいつって目が見えなくてもなんか大丈夫そうよね……」
超人としか言いようのない伊達の姿が、輝色の想像を断ち切った。桂介も同じ事を思ったらしく、彼は深い溜息をついた。
「君も嫌なこと言うねぇ……」
皮肉げに口元を歪めたとき、鈴を転がすような声が寂れた工場内を反響して回った。
「いるのはわかっています。出てきなさい、オオバカさん」
ズージィ=ヴォルクリングだった。輝色は全身を硬直させて悲鳴を呑み込んだ。桂介は機材の隙間から視線を通してその姿を見る。
神父の服によく似た黒衣に、同色のカウボーイハット、蛍光イエローのジャンバーとワインレッドのズボン。
「まったく悪趣味な恰好しといて何を偉そうに……つか誰がオオバカだあんにゃろう」
桂介は小声で吐き捨てると、ズージィから目をはずして隣の輝色に身を寄せた。少女の小さな耳に唇を寄せる。
「一つ確認しておきたいことがあるんだけど」
耳にかかる息のくすぐったさに肩をすくめながら、輝色は聞き返す。
「何よ?」
輝色と桂介の視線が絡み合う。精神的ストレスが身体に影響をおよぼし、輝色の顔は冷や汗で濡れていた。一方、痛覚はあっても疲労というものを知らない桂介は平然としていたが、その眼窩に収まっているのは強く真剣な眼差しだった。子犬のような輝色のつぶらな瞳はその視線を一生懸命に受け止めた。
「覚悟はあるかい?」
「かく、ご……?」
「何でも良い。ここで死ぬ覚悟以外なら。死なない覚悟は? 俺を裏切る覚悟は? 逆に裏切らない覚悟は? 戦う覚悟に負ける覚悟は? 自分は何があっても望むように生きて死んでやるって覚悟は?」
言葉早く桂介は並べ立てる。
「どれでも良い。一つで良い。覚悟を決めてみよう」
まるで喫茶店のメニューを差し出すかのように軽く、彼は言い放った。
「……それで何がどうなるってのよ」
突然の提案に、輝色はまずそう聞いた。桂介が何を考えているのか、輝色には想像がつかない。だが、先程も輝色に意味がないと思われる行動をとらせて、見事駅から逃走することに成功したのは彼の手腕だった。今度も何かしら考えがあるのだろう。そう思ったのだが、
「別に何もどうもならないけど」
「……はぁ?」
桂介の返答は悪い意味で輝色の期待を裏切っていた。当然と言わんばかりの顔で、当然といえば当然の事を言った少年に、輝色は首を傾げるしかない。
「……人のこと馬鹿にしてる状況か、このド阿呆」
しばらく間を置いてから、輝色はまなじりをつり上げて毒霧を吹き付けた。この非常事態に他人をからかうほどの余裕があるのならば、さっさと突っ込んでいって解決してこいと言いたい。
「別に馬鹿にしてるわけじゃないさ。ただ覚悟があるのと無いのとじゃ、ここぞって時の行動が変わってくるものだから。あんまり無様な姿をさらされると嫌なんだよ。わかってる? 君はもう、俺の相棒なんだってこと?」
聞き慣れない単語に輝色は眉をひそめた。
「あ、相棒ぅ? やめてよ、そんな風に言うの。あたしはただあんたに協力してるだけで……」
「でもあいつらはそう思ってない。君は俺の指示に従って俺を逃がす手助けをしたし、今もこうやって一緒にいる。名目がどうであれ、本質はそういうことだろ?」
ただ事実だけを淡々と述べる桂介に、輝色は反論の泉を埋め立てられていく。
「わかったなら、ほら、さっさと覚悟を決める。君がいざって時にあいつらに命乞いなんかしたら興ざめの極致。失望感で俺はへそで茶を沸かしちゃうって」
笑いもせずに少年は言った。そこに冗談でも誇張でもない、本気の匂いを輝色は嗅ぎ取った。輝色は奥歯を噛みしめた。桂介を見つめる目に力が籠もる。
「……馬鹿にしてんじゃないわよ。あんたね、あたしを誰だと思ってんの? 頭下げるのが嫌いで、大嫌いで、嫌いすぎて友達が出来なかった女よ? 本当に悪いことしたとき以外、お父さんとお母さんにも頭下げたことなんてないんだから。あんな奴らに命乞いなんて冗談じゃないわ。それこそ死んだってお断りよ」
この廃工場に入って初めて、桂介の顔に心からの笑みが浮かんだ。それは満足感を得た者の笑顔だった。自然、桂介の口調も嬉しそうにスキップするものに変わった。
「それでこそ俺の相棒、って感じかな? さすがは俺みたいな奴に協力してくれるだけあるよ。いいね、決まった。君の覚悟は『俺の期待を裏切らない覚悟』ってことにしておこう」
「別にあんたの期待通りに動こうなんて思ってないわよ。これぽっちも」
「いいさ、君が君の思い通りに動くことが、俺の期待を裏切らないことになるんだから」
意地の悪い笑みを閃かせる桂介に、輝色は憮然として見せた後、耐えきれなくなって小さく吹き出した。その瞬間、輝色は初めてオバケの少年と心を通じ合わせられたような気がしたのだった。
そんな二人に音もなく近寄る影があった。気付くのは桂介の方が早かった。彼は無言で輝色を突き飛ばし、自身は背後の機材の中に溶け込むように潜り込んだ。
「──っ!?」
悲鳴を上げる暇もなく転がった輝色の目の前を、死神の刃が銀色の軌跡を残して通り過ぎた。そら恐ろしい風切り音は前奏で、メインは桂介が隠れた──輝色にはまるで憑依したかのように見えた──機材を切り裂く音から始まり、切り裂かれて飛んだ部位が他の物とぶつかることで騒々しい合唱と化す。
床に散らばる砂利やガラクタを物ともせずに音を立てなかった伊達とズージィは、一心に桂介だけを狙っている。彼らは輝色には目もくれなかった。伊達の長刀が鉄の塊を豆腐かゼリーのように切り刻む。あっという間にそれは完成させることの出来ない立体パズルと化した。
落雷が如き轟音に支配された工場内で、輝色は自己の判断によって動いた。不思議と戦意が全身にみなぎっていた。無視されたことが屈辱だったからではない。逆に無視されたからこそ純粋な戦意が溢れたのだ。自分ならば付け込む隙がある。そう思った。
桂介の姿を見失ったのか、『退敵師』の二人が輝色に背を向ける。弱そうな奴から狙え、そう輝色の闘争本能が囁く。輝色は気付かれないよう静かに、しかし全力で手に持っていた鉄パイプをズージィの背中に向かって投げつけた。
そして少女は有り得ないものを見てしまった。
唸りを上げて飛来した鉄パイプを、蠅を払うような仕草ではねのけた少女がそれだった。ひらりと動いたズージィの掌が、命中すればただでは済まない金属の塊を弾き飛ばし、壁にめり込ませたのである。
「……はあぁ!? 嘘!?」
思わず喉の奥から抗議の声が飛び出した。それはまったく神や悪魔に詰め寄りたくもなる光景だったのだから。鬼面をつけた巨人ならともかく、それに比して著しく小柄な少女が投げ付けた鉄パイプを弾き返すなど、誰が想像できるだろうか。輝色は許されるものならばやり直しを要求したかった。
「ああ、あなたですか。そういえば、おとといも見かけましたね」
伊達の肩の上でズージィが振り返り、ドライアイスの針のような視線が輝色をその場に縫いつけた。ふわり、と身軽に『退敵師』の少女は大男の肩から飛び降りる。
その瞬間から、鎖から解き放たれた魔獣の如く伊達の動きが激化した。重戦車を思わせる勢いで邪魔な障害物を蹴散らしながら桂介を捜しに走る。
誰もが美的センスを疑ってしまう服装の少女と、輝色は真っ向から対峙した。輝色は脳裏にいつかの桂介の言葉を思い出していた。
『ズージィは見えないものが見えるのが特徴。伊達は斬れないものが斬れるのが特徴。その他の点に関しても人間レベルじゃないね。特にズージィの方が』
いくつかの情報にある仮定を当てはめれば、納得が出来た。桂介は伊達よりもむしろズージィの方を評価していたこと。彼女がいつも伊達の肩の上にいたこと。伊達がズージィに使える騎士のように見えること。
即ち、ズージィは伊達よりも強い。
そんな仮定ならば、全てに納得がいくのだった。
「先程はあなたにしてやられましたね。何のつもりかはわかりませんが、邪魔をするなら排除させていただきますよ」
もしかしてあたしはクジ運が悪いのだろうか?
輝色はそう自問する。そしてこう自答した。
いや、クジ運が悪いわけじゃない。そもそもの全体運が悪いんだ。きっとそう。
「殺しはしませんが、色々と聞かせてもらいますよ」
冷然と言い放ち、その全身から鬼気めいた『何か』が立ち上る。輝色の本能が警鐘を狂わんほどに打ち鳴らす。このままではやられる。運が悪ければ殺される。そう叫んでいた。
「……やれやれ……」
溜息と共に輝色はそう呟いていた。それは我ながら桂介の真似のように思えて、不意に苦笑がこみあげた。口元を歪めるこの笑い方も、いつの間にか伝染してしまったらしい。それならば、とついでに肩をすくめてみせる。
なるほど、と輝色は納得した。いつもこうやって自分の相手をしている桂介の気持ちが少し分かったような気がしたのだ。
これほどハッタリをかましやすい仕草は他にない。
それはズージィから見ても、大胆不敵を絵に描いたような大庭桂介の姿によく似ていた。オバケでも『退敵師』でもない普通の少女が豪語する。
「どいつもこいつも人をなめきってくれるわねぇ、全く。いいわよ、やれるもんならやってみなさいってのよっ!」
そして桂介よろしく逃げ出したのだった。
伊達の馬鹿が力任せに突っ込んでくるのを、まともに相手するほど俺は馬鹿じゃない。さっさとコンクリートの下に潜り込んでやり過ごすと、足音を頼りに奴の背後に出る。伊達は、ちょうど奴の愛刀『裂震』でこの工場のように不必要になった機械を切り裂いていた。相も変わらず烈々としていてうっとうしい男だ。
と、ズージィの姿が見えない。さっきまで伊達の肩にいたはずだが。二手に分かれたのか。ズージィはもしかしてあの子の方に行ったのか?
考えながら右手のレーザーガンを伊達の頭部に照準してから、左手の銃型MVWを上に向けて引き金を引く。銃声と呼ぶには少々頼りない音が生まれるが、伊達を振り向かせるにはこれで充分だろう。
ズージィと伊達が離れたのはこっちにとっては好都合だ。あの子──楸輝色ちゃんが少し心配だけど、あっちはあっちでなんとかしてもらうしかない。俺はイエス・キリストさんと違って、こっちを立てながらあっちも立てるなんて芸当は出来ないのだから。高いところに手を伸ばしても腕が伸びるわけはないし、それどころか身体のどこかを痙るのがオチだということを俺はよく知っている。
今はとにかく各個撃破の機会が到来している。これを生かさない手はない。まずはこの非常識な剣士からだ。
親指でスイッチを入れ、振り返った伊達の目元にレーザーガンの光線を照射する。赤く細い光の糸が真っ直ぐ飛ぶが、伊達はそれを読んでいたらしく、素早く頭の位置をずらすことでこれを避ける。黒のシルクハットに赤い光点が現れ、俺はそれを鬼面の目の位置に填め込もうと手首を回転させるが、それ以上の速度で伊達の顔は動き続ける。
やはり正攻法では無理だと悟る。まあ最初からわかっていたことだが、試さずにいられないのは自分の悪い癖だ。
『裂震』が唸った。それはまるで銀色の光が鞭となって宙を踊ったように見えた。薄暗い廃工場の中で、銀色の蛇が身をしならせながら俺に襲いかかる。
咄嗟にMVWで伊達の連続攻撃を受け流す。全くもって厄介な相手だった。速い、強い、正確の三拍子が揃ったそれは、一つごと、俺の精神の支柱をごっそり削っていく。いくら巧みに避け続けていても、いずれ心の方が折れそうだった。
ここで決着をつけると、もう決めている。なら、こいつの場合は短時間で終わらせないと先に俺の方が参るので、簡単に張れて効果の高い罠を考えるべきだ。
距離を取るために銃型MVWを伊達に向けて引き金を三回、連続で絞る。こいつは外見は子供の玩具じみているが、刃も真剣で、拳銃としてもそれなりの性能を秘めている。撃ち出す弾丸はもちろん人を殺せる。
それをこの巨漢はあっさりと避けるのだ。そうさ、わかっていたさ。こいつはそういう奴なんだから。反射神経が常人の数倍もあるのだから。だがこちらとしては一定の距離さえ取れればそれでよかった。罠をはめるために必要なのは十分な間合いと、絶妙なタイミングと、ほんの少しの悪戯心だ。特に三つ目には溢れるほどの自信がある。
場所は廃工場。一階建てで、天井は高く、明かりは高い位置にある窓から差し込む陽光だけ。そこら中に廃棄された機械やら鉄くずが山をなしている。
目的はただ一つ。伊達力の視力を奪うことだ。
まずは意表を突かなければいけない。相手は百戦錬磨の『退敵師』だ。生半可なことではあの集中力をほどくことはできない。
馬鹿の一つ覚えのように伊達は斬撃を畳みかけてくる。疾風怒濤の勢いとはこのことだ。というより、こいつにはそれ以外の選択肢がないのだ。俺が作成して与えた『裂震』でしか、俺を斬ることはできない。それ以前に『烈震』あるいは顔の鬼面がなければ、伊達は俺に触れることすら出来ないのだ。また、触れることが出来たとしてもその俺は不死身の超人で、奴の勝機はないに等しい。
伊達が俺を殺すために必要な手順は、まず『裂震』と同じ材質で出来ているMVWで攻撃を防げないようにし、その上で俺を斬る、これだ。
ならば餌を撒いてやればいい。
「……ぃぃっかげんにしつこいっ!」
まあ、正直言って伊達の執拗な連打に、いい加減俺の苛立ちも最高潮に達しようとしていた。『攻撃こそ最大の防御なり』を信条としているような伊達の戦闘スタイルは、まるで目の前に赤い布を垂らされた雄牛のようなものだ。顔につけた鬼の面がそのイメージに拍車をかける。
銃型MVWで彼我の距離を保ちながら工場の中を逃げ回っていた俺は、適当な鉄材に足を引っかけて転んで見せた。
痛覚はない。というか、ぶっちゃけ床には触れていない。触れる一センチぐらいの位置に俺の身体は浮いている。転んだのはあくまで見せかけであって、ほら、なんてたって俺ってオバケだし。
「……やべっ……!」
もちろん演技は忘れない。伊達のような鉄面皮に効果があるかどうかはわからないが、やっておいて損は無いだろう。それに、自分自身をノせる必要もある。素面でこんな馬鹿馬鹿しいことは出来ないのだ。
だがこの程度では、鬼人と称して良い男は不服らしい。むしろ警戒の色を強く発して、一転して攻めてこなくなった。肩越しに振り返ると、伊達は長刀を右腕に提げて、ただ俺を見下ろしていた。こいつは元々無口な男で、静寂を常に身に纏っているのだが、そんな奴がこうやって憤怒する鬼の表情を張り付けた姿を改めて見てみると、案外笑えることが発覚した。こんな鬼なら酢につけて食べられるな。
「くそっ!」
持てる演技力を動員して、俺はさらに餌を投げた。というのはもちろん修辞で、実際に俺が投げたのは銃型のままのMVWだ。でたらめに投げたそれは一応伊達の方へ向かったが、筋肉の塊に当たる前に力尽き、空しくコンクリートと身をこすり合った。
伊達はまだ動かない。こちらの右手にはまだレーザーガンがあるからだろう。俺は半ば本気で舌打ちして、身を起こした。走り出すと伊達も追いかけてくる。
壁際で立ち止まると、俺は身を翻して伊達と対峙した。下からすくい上げるような視線を大男に向けてやる。
「……そういえば、さっきお前の声を初めて聞いたよ。変な声だったよな。無口なのはコンプレックスからか?」
右手のレーザーガンを強く握りしめ、光量のレベルを上げる。太く明るくなる光線は、まるで無限の刃渡りをもつ剣にも見える。SF作品でよく見るライトブレイドとでも言おうか。当然、これは純粋な光のみで、何も切れやしないが。
「ま、気持ちは分かるよ、一応。あんな声じゃコンプレックスになってもしょうがない。まるで化け物みたいな声だったもんな。女にはもてないだろうから、身体ばっかり鍛えてたんだろう? その挙げ句がズージィの世話係か? ヤキが回ったな。このロリコン」
伊達はびくともしない。我ながら、無様な負け惜しみに聞こえること請け合いだ。俺はいかにも追いつめられた猫のように肩をいからせる。
「どうした? 何か言い返せよ。それともズバリすぎて反論の余地もないってか? ……何とか言えって」
ヤラセとはいえ実際にここまで言っても反応が無いというのは、いささか虚しいものがある。本気半分、冗談半分で俺は怒鳴りつけた。
「何とか言えっつってんだよ! この変態ロリコン野郎!」
そしてレーザーガンというよりレーザーソードとなった右手の物を振り上げた。条光が縦横無尽に伊達の体表を走り回る。が、唯一その瞳にだけは決して光は射し込まない。射し込めない。
「──んのおっ!」
苛立ちをふんだんに詰め込んだ正体不明の台詞を吐き出して、俺は最後の餌を放った。高速で回転するレーザーガンが赤い光を撒き散らしながら伊達へと飛んだ。無造作に立っていた男は当然、電光石火の速度でこれを切り裂く。
そしてとうとう奴は攻めに出た。刹那、前傾姿勢をとって重心ごと伊達の闘気が前へ出る。その物理的な烈風をともなう気配を、俺は全身で受け止めた。
仕掛けるタイミングは今だ。ここしかない。
いくら伊達の動きが速かろうと、どれだけ無駄な動きを無くそうと、人間なら両足を使って移動するのが大原則だ。伊達は俺のように宙を浮いているわけでもないし、ジェット噴射口が背中にあるわけでもない。だから、奴の右足が上がり、腰からそこに体重が移動するのはどうしようもないことなのだ。
隙とも言えない隙。生半可な手段ではそこ突くことなど到底出来ない。それこそ、光の速度で動きでもしない限りは。
だから、赤い光線は伊達の右目に突き刺さる。
それは俺の腹の中央を貫いていた。お気に入りの白いカジュアルシャツの背中に隠していた、もう一つのレーザーガンの閃光だった。実を言うと昨晩から仕込んであったのだ、これ。仕掛けは簡単で、レーザーガンのスイッチを入れたまま、服の裏側、背中に固定しておいただけだ。俺の身体でもその気になれば光を遮ることは出来る。こうやって切り札を用意しておけば、場合によっては役に立つかもしれないと考えての仕込みだったのだが、見事に功を奏したようだ。所持しているレーザーガンは一つだけだ、などと言った覚えのない俺だった。
俺の身体はその気になれば光を通す事が出来る。それは前兆もなく、予測もつかない場所から光を発射する事が出来るということだ。相手の視力を奪うのにこれほど意表を突いた方法は他に類を見ないだろう。
「……!」
感心なことに伊達は呻き声一つ漏らさなかった。刀を握る逆の手で右目を押さえるが、既に遅い。交換でもしない限り、もうその目で光を見ることは叶わない。
駆け出しかけていた巨体が揺らぐ。目を閉じていても常人のように動ける伊達のことだから、目が見えなくなったからではないだろう。間違いなく、精神に受けた衝撃によって身体の制御を誤ったのだ。こう見えてもこの男も人間だったということだ。
だからこそ罠にはまる。
よろめいた伊達の足が向かう先、そこは先刻俺が地下に潜ったときに見つけた落とし穴だった。
体重一〇〇キロを超える男の足が乗った途端、床がたわみ、次の瞬間にはずぼりと抜けた。そこはどうも、元は荷物を入れて蓋をする地下収納庫だったらしい。ここの工場の持ち主だった人物は何を思ってか、そこに薄い木の板で蓋をして、暗緑色のシートをかぶせていったのだ。はっきり言って、これで薄暗いとよくわからない。実際、俺も地面に潜らなければわからなかっただろう。
片目を失った伊達がその穴に落ちたとしても、責められる人間はいない。いたとしても俺ぐらいだ。と言っても『やーい馬鹿め』とわざわざ責めてやる理由などどこにもないのだけれど。
剣と体術の達人が無様に落とし穴にはまり、体勢を崩して倒れる。伊達をよく知る俺にとってはなかなか貴重というか、気分爽快な光景だった。
そして彼は何しろ疾風迅雷の速度を誇る伊達力だったのだ。余りに余った勢いは全て慣性の法則にのっとって消費される。並大抵の修辞では表現できない、ものすごい音が生まれた。まるで交通事故だった。
敢えてとどめを刺す必要はないだろう、と俺は判断した。ここでリタイアするにせよ、リベンジしにくるにせよ、片目ではもう勝負にはならない。狭まった視界のまま俺を阻もうなどというのは、さすがの伊達でも傲慢の極みなのだから。俺はそんなにか弱い男である自信は微塵もない。
まだ挑みかかって来るというのなら、その時は遠慮なくもう一つの目も潰そう。
そう胸の内で決めて、俺は走り出した。
次はズージィだ。
その小柄な身体のどこにこのような怪力を生み出す機構があるのか、ズージィ=ヴォルクリングの筋力は『人並み外れた』という表現が生易しく思えるほどのものだった。
楸輝色はこの世のものとは思えない光景を目撃していた。幼い少女が、背丈一メートル20センチ前後の子供が、拳の一撃で重量感溢れる工業機械を壁際まで吹き飛ばしていた。その足が蹴りを放つと、重機が二つ三つまとめて宙を舞う。
「に、人間じゃないぃっ!」
あんまりな現実に向かって輝色はそう口走った。物理法則に対する反則としか思えなかった。あり得べからざる現実だった。どこの世界に数百キロとおぼしき物体をパンチやキックで吹き飛ばす人間がいるというのか。もし異星人が侵略にやってきても、この少女だけは片手で蹴散らすに違いなかった。
輝色の逃げっぷりは見事なもので、桂介が目にしたならば口笛で賞賛の曲を三小節は演奏しただろう。輝色は運動神経はもともと良い方で、工場内に打ち捨てられた物を障害として利用し、脱兎も顔負けの逃げ足の速さを披露していた。
滑り、回り込み、飛び跳ね、走る。そんな忙しい輝色と打って変わって、ズージィの歩調は静かだった。輝色の逃げ込む方向を確認してから足を踏み出し、じわりじわりと退路を狭めていく。その余裕ある佇まいが輝色の焦慮を増幅した。『退敵師』の少女にとって恐れるべきは大庭桂介のみで、その他は取るに足らない存在であった。獅子は兎を狩るにも全力を尽くすと言うが、ズージィはそのような無駄にエネルギーを浪費する愚考をよしとしなかった。
「いつまで逃げ回るつもりですか? いくら足掻いたところで逃げ切れるものではありませんよ」
自信に満ちた声でそう告げる。この時、ズージィはこの先に続く未来をほぼ予知していた。逃げる女子高生を追いつめ、足を折り、人質にする。あの大庭桂介に人質などという陳腐な手が通用するかはわからないが、手の内の駒は多いに越したことはない。
「うるっさいわねクソガキ! 誰が逃げてるって!? あたしはね、あんたが人目をはばからず泣ける場所に案内してあげてんのよ!」
桂介と違い、輝色の場合は完全に負け惜しみだった。オバケでもなければ歴史の裏の住人でもない輝色は一介の女子高生であり、人間兵器が如きズージィと真っ向から組み合って勝てるわけがなかった。
逃げる輝色の視線の先、壁際にみすぼらしい梯子があった。瞳に移ったそれに、輝色は藁にもすがる思いで飛びつく。息が苦しく、胸が痛かった。この場にいる四人の中で輝色の体力が一番低かった。
全身が熱く火照り汗をかいていたが、それでも止まるわけにいかず、輝色は全力で梯子を昇る。梯子はどうやら天井まで続いているらしく、行き止まりには小さな扉があった。どうやら工場の屋上に出るための梯子らしかった。
「また屋上かよ……!」
ここ最近、何かといえば逃げる場所はいつも決まって屋上だ。馬鹿と煙は高いところが好きだとよく言うが、奇妙な共通点に輝色は苦笑を禁じ得ない。
両手両足をムカデのように動かしながら、足元を省みると、梯子のふもとでズージィがこちらを見上げていた。その目には悪戯っぽい輝きが、口元には微笑がそれぞれたゆたっている。緊張の電流が輝色の背筋を駆け抜けた。
「……まさか……」
輝色の直感は的中した。ズージィの両手が梯子を掴んだかと思うと、少女は深く腰を落とし、梯子を壁から引き剥がし始めたのだ。
コンクリートの壁が不吉な音を立てて、その身にいくつもの罅を走らせる。次の瞬間には壁に埋まっていた部分ごと梯子は安住の地から強制的に引き離された。
「ちょっと……嘘ぉぉぉっ!?」
悲鳴を上げて輝色は慌てて昇る速度を上げる。さっきまで全速力のつもりだったが、どうやら錯覚だったらしい。火事場の馬鹿力とはこのことで、輝色は10メートルの梯子を一気に登り切り、間一髪の差で天井の扉とその傍に張り出した取っ手に飛びついた。
「……まるで猿ですね」
感心したように呟いて、ズージィはそれを傍に放り投げた。かさぶたのように剥がされた梯子は寄り所を失い、伐採された大木のように倒れる。轟音を奏でる床との荒々しい抱擁が、砂塵のように埃を浮かばせた。
「くっ……!」
右腕一本で天井にぶら下がる形になった輝色は、左腕を頭上の扉に伸ばし、ノブを回した。が、扉は上に向けて開く物だった。輝色の現在の状況では踏ん張りがきかないため、開けられない。
「もうっ、なんでこんな時に限って……!」
それでも諦めきれずにノブを回しながら奮闘していると、不意に嫌な感触が手に伝わった。時間に浸食されたドアノブが壊れて外れる。
「きゃあっ!?」
いきなりひっこ抜けたので輝色は危うく落ちかけた。手から滑り落ちたドアノブはそのままズージィへと落ちていったが、彼女は少なくとも1キロはあるそれをものともせず、ゴムボールか何かのように払いのけた。
「こ、このぉっ……!」
右腕が痺れてきた。下方でズージィがあざ笑っているような気がする。熟れきった果実が自ずから落ちてくるのを待っているのだ。そう思うと、カッと熱い液体が脳内で弾けた。
輝色は賭に出た。どうせこのままでいてもいずれ落ちるだけなのだ。
元は綺麗な銀色であったであろう、錆び付いた取っ手に左手も添える。その際にみしりと軋むような音が聞こえたがかまってはいられなかった。輝色は鉄棒にぶら下がる体操選手のように身体を振り、勢いをつけると、
「──なろぉっ!」
逆上がりの要領で天井の扉に蹴りを叩き込んだ。重い手応えが靴底に生まれたが、輝色はそれを打ち破った。蹴り上げられた扉が勢いよく開く。輝色はもう一度勢いをつけ、振り上げた足を扉の縁へと引っかけた。途端、限界を超えた取っ手が外れる。
「──っ!?」
驚きと恐怖のあまり悲鳴も出なかった。まるでコウモリのように、膝を引っかけた状態で天井にぶら下がる。口から出なかった感情が後から涙になって滲み出た。緊張が少しほどけ、いつの間にか止めていた息を吐き出すと、輝色は下に目を向ける。ズージィが少し驚いたような顔で自分を見上げていた。輝色は無理に表情筋を動かして、不敵に笑って見せた。
どうだ、コノヤロウ。あんまり年上をナメンじゃねえぞ。涙目でそう主張する。口を開かなかったのは、胸の動悸が激しくて歯の根が合わなかったからだった。
普段あまり使わない腹筋を酷使して上半身を持ち上げると、両手も縁にかけて身体を持ち上げた。外に頭を出すと急速に開放感が体内に満ちる。
屋上は柵のない広場のようで、至る所にビールの空缶やコンビニエンスストアのビニール袋が転がっていた。それは、かつてこの工場で働いていた従業員達の和気藹々とした集いを連想させた。ここで夜空の星でも眺めながら酒と会話を楽しんだのだろう。
輝色は何かに突き動かされるように屋上の端まで走った。辿り着くと、目もくらまんばかりの風景が視界を占める。輝色の通っていた学校の屋上とそう変わらない高さに思えた。落ちればほぼ確実に死ぬだろう。
振り返った輝色は、自分が出てきた扉──今や穴と化していたが──を凝視した。嫌な予感とは当たるもので、人の予知能力はマイナスの方向性でしかその本領を発揮しないことを思わせる。神と悪魔はいつまでたっても意地悪なままだ。
小さな手が飛び出した。ただの手ではない。その拳の一撃でコンクリートの塊を砕くことのできる手だった。それが、輝色の出てきた穴から姿を現した。縁に手をかける。
予測していたこととはいえ、輝色は自分の心が萎えていくのを止められない。どうやったのかはわからないが、ズージィは屋上まで上がってくる。いったんはずした梯子をまた取り付けたのか、あるいは飛蝗のように跳躍したのか、そんなことはどうでもよかった。
やがて黒のカウボーイハットが見え、漆黒の髪、瑠璃色に輝く瞳、蛍光イエローのジャンバーが現れた。そして小柄な身体が曲芸師よろしく宙を舞い、華麗に着地した。
「お待たせしました」
澄まして少女はそう言った。誰も待っていない、と言いたいところだったが、輝色は敢えてこの言葉を肯定する。
「待ちくたびれたわよ。臆病風に吹かれて尻尾巻いて帰ったのかと思ったわ」
それはズージィの矜持をしたたかに傷付けたようだった。白皙の顔から余裕の色が弾け飛び、怒気が取って代わった。その原因は多分に輝色の表情にあったが、本人は気付かなかった。その剛胆な笑みはひどく大庭桂介に似ていて、それこそあのオバケの少年の真骨頂だった。
「いい加減にしていただけますか。あなたが何者かは知りませんが、あの男と関わって得をする人間などいませんよ。彼は生まれつきのペテン師です。あなたも騙されているに決まっています。今の内に私たちに協力するのが、身のためです」
傲然とズージィは言い放った。毅然とこちらを見据える氷色の瞳は嘘を言っているようには見えなかった。輝色は特に、ペテン師、という単語に賛同の意を得た。まったく、あの少年はとんでもないペテン師なのだ。いつも何かをはぐらかしていて、そのくせ不意にドキリとするほど、素顔らしき一面を見せる。自分はいまだ彼の出身地、住所、家族構成などは知らないくせに、その人となりだけはわかっていた。
少なくとも肝心な場面では信頼するに足る少年だった。
「よかったら自己紹介でもしてあげるわよ? それに、あたしがあいつにくっついて得するつもりだって考えてるんなら、やめてよね。全然違うんだから」
桂介が来るまで時間を稼がなくてはならない。輝色はそう考え、使い慣れない話術を駆使しようとする。
「あたしはね、単に興味があるだけ。あいつがどんな風に死ぬのかね。本気でむかつくし、うざい奴だけど、最期ぐらい看取る人間がいないと寂しいもんでしょ? 運がいいのか悪いのか、あたしにはあいつが見れるし、他にすることもなかったから」
我ながら、なんて道楽なのだろうと思う輝色だった。他人が同じ事をしていれば、酔狂としか思えないに違いない。とんでもない阿呆だと思う。だが、今の輝色は当事者だった。
好奇心は猫を殺すと言うが、輝色は大切にするべき命を持ち合わせていなかった。そんな、命を投げ捨てようとしていたところに桂介が現れた。胸の奥からわき上がってきたものを、最期の好奇心だと思った。目の前に常識では計れない奴がいる。しかも付き合ってくれと言う。知りたいことを教えてくれるとも約束してくれた。
こんなのも悪くはないと、その時は本気で思ったのだ。そしてそれは、今も変わっていない。
「得しない? そうよね、損をしてるかもしれないし、化かされてるのかも。ペテン師? 詐欺師? いいじゃない、上等よ。あたしはね、もう現実なんて懲り懲りなのよ。夢みていたいのよ。馬鹿になりたいの。騙されてるんなら騙されてるで、それでいいのよ。楽しければさ。騙されたくて騙されてるのよ、あたしは」
覚悟ならば、決めている。いや、覚悟することを覚悟している。
輝色は、桂介の期待を裏切るつもりはなかった。
「どうせ人間いつかは死ぬわけだし。死ぬまで夢見てたっていいじゃない。あいつならあたしに良い夢見せてくれんのよ。それとも、あんた達がそれ以上の夢をあたしに見せてくれるってわけ?」
輝色の長口上に対して、ズージィの言葉は静かで短かった。
「殺しますよ?」
あまりに何気ない口調だったため、後になってからぞっとした。だが、喉の下でざわつく不安に反して、輝色は吹き出してしまった。大声で笑い出す。
「ぶはっ、あはっ、あははははははっ! あっはっはっはっはっはっ!」
自分でも理由は判然としないが、ズージィの言ったことが腹がよじれるほど可笑しかった。ズージィが眉根のしわを増やし、目つきをさらに険しくするのがわかっていても止まらなかった。
「……何がおかしいのですか」
その声は噴火する寸前の火口を思わせた。沈着な顔の下で、怒りの溶岩が渦を巻いている。それがより一層、輝色の笑いのつぼを突いた。
輝色は横隔膜の痙攣に苦しみながら、あえぐように言う。
「な、何がおかしいって、あははははっ、あんた、バッカじゃないのぉ!」
とうとう真っ直ぐ立っていられなくなって、輝色は身を折って腹を抱えた。笑いすぎて涙が出てきた。ズージィの怒りの波動を肌にひりひりと感じる。空に、コンクリートに、大気に自分の笑い声が響くのがわかった。とても気持ちが良かった。二日前に屋上に昇ったときとはまるで違う、ひどく爽快な気分だった。
ひとしきり笑った後、輝色は右手をピストルの形にしてズージィに突きつけた。
「わかってないようだからもう一回言ってあげるわ。あたしと桂介はね、死ぬこと前提でつきあってんのよ。殺す? おもしろいじゃない、殺すなら殺しなさいよ。全然怖くないってのよ、バーカ!」
バン、と撃つ仕草をする。輝色は我ながら陳腐な挑発だとは思ったが、ズージィの表情を見て考えを改めた。陳腐なのはよく使用されるからで、よく使用されるのは効果が高いからなのだ、と。
そこにいたのは紛れもなく子供だった。白い顔を真っ赤に染めて、蒼氷色の目に涙を浮かべている。その姿は癇癪を起こす寸前の幼児にしか見えなかった。全身をふるふると震わせて、今にも声を上げて泣き出しそうだった。
内心、もしかしたら子供相手に大人げ無かったかも、と輝色は後ろめたくなった。
もっとも、その後の行動はまったく子供らしくなかったが。
「……わかりました。あなたはあの男と同じというわけですか。では、遠慮はしません。……全力でいきますっ」
涙で濡れた声でそう言って、ズージィは輝色に襲いかかった。
桂介が輝色とズージィを探しに屋上へ上がったとき、ショートカットの女子高生はぼろ雑巾のように転がっていた。
屋上の隅でこちらに背を向けて、眠っているように見えた。いかなる抵抗をしたのか着ていた黒のセーターはその身から離れていて、黄色のブラウスが屋上にたまった泥で汚れていた。
片腕がおかしな形に曲がっていた。身体はあちらを向いて寝ているのに、その腕はこちら側を向いていた。
その傍に立つ、ズージィ=ヴォルクリングが言った。
「遅かったですね、オオバカさん」
まったくその通りだった。手遅れだとしか言いようがなかった。
見ると、ズージィの目には泣いた痕があった。彼女と輝色の間で何があったのか、桂介にはわからない。わからないが、推測することは出来る。どちらから話しかけたのかはわからないが、ほぼ間違いなく輝色は時間を稼ごうとしたはずで、ズージィの涙はその結果に違いなかった。結局、桂介は間に合わず、輝色の努力を無駄にしてしまった。海水を吸い込んだ布のように心が重くなるのを、桂介は自覚する。
桂介は必要なことを聞いた。
「殺したのか?」
ズージィは軽く首を振った。
「いいえ。殺しては人質の意味がありませんから。逆に聞きますが、伊達は?」
「戦力外通知を叩きつけてやった。下で今頃しょぼくれてるんじゃないのか」
「彼はそんな男ではありませんよ」
桂介の皮肉った表現に、ズージィはきっぱりと言い切った。そんな少女の男に対する信頼をあざ笑うように、桂介は肩をすくめる。
「どっちにせよもう役には立たない。でもって、お前が俺に勝てると思うのか?」
「負けるつもりは金輪際ありません」
オバケの少年が投げかけた鋭い眼光を、『退敵師』の少女は真っ向から受け止める。両者の間を流れる空気が、徐々に張りつめていった。
「あなた相手に細かい説明は不要でしょう。どうします?」
「つまりその子の命と俺の命を天秤にかけろってんだろ? 分かり切ったこと聞くんだな。俺がどうするかわからない程度の付き合いだったか?」
「いいえ、薄々はわかっていましたけれど。では、こちらのお嬢さんは殺しても良いのですね」
「誰がいつそんな事を言った?」
「……は?」
素早い切り返しにズージィは一瞬、きょとんと目を丸くした。桂介は両手をジーンズのポケットに突っ込んで、胸を張ってこう言う。
「もちろん、俺はお前らに殺られないし、その子も返してもらう」
「……なるほど、そうきましたか……」
やれやれ、という風にズージィは片手で頭を抑えて溜息を吐いた。頭が回りすぎるほど回る少女である。桂介がこのような選択をする可能性も当然考慮していたのだろう。ズージィは毅然として突っぱねた。
「ですが、そんな都合の良い話が通ると思いますか?」
「……やっぱり無理か。そうだよなぁ、どう考えても無理っぽい」
「はぁ?」
あっさり掌を返した桂介に、今度こそズージィは素っ頓狂な声をこぼしてしまった。慌てて両手で口をふさいで体裁を取り繕いだが、後の祭りだった。桂介がにやりと笑う。
「そう驚くことでもないだろう? お前の言ったとおり、そんな都合の良い話が通るわけがない。かといって、その子は単に俺に着いてきただけで何の罪もない。だからってむざむざとお前らに殺されるのははっきり言って嫌なんだが……この際、しょうがないか」
台詞と照らし合わせると少年の表情はひどく不釣り合いだった。どこまで行ってもこれが彼の属性なのだろう。大胆不敵な笑みがいっそ凄味すら漂わせていた。
「いいぞ。俺を殺せよ。その代わり、その子はちゃんと帰してやってくれよ。これ、約束な」
傲慢と言って良い口調だった。その態度に、ズージィは訝しげな視線を向けて呆れるしかない。
「あなたという人は……本当にわからない。一体何を考えているのか。理解不能です」
「俺が何を考えているのかって? そんなに知りたい?」
「ええ、出来ればお聞かせ願いたいですね」
「はっきり言っとくけど、無駄だと思うぞ。お前に俺の考えてることは絶対に理解できないって」
「何故ですか?」
「何故って……」
桂介は、へっ、と笑った。
「お前が馬鹿な優等生だから、かな? 俺は頭のいい馬鹿らしいけど」
「……意味がよくわかりません」
「だろうなぁ。だから理解できないって言ってるんだけど。いい加減気付けよ、バーカ」
「!」
桂介は自ずからズージィに潜む地雷を踏んだ。彼は知っていたのだ。この少女が他人から馬鹿にされることに慣れていないことを。そしてその心の器は非常に小さく、ただ一言罵声を浴びせるだけで限界を超えてしまうことも。
落ち着きを取り戻したはずのズージィは、再び白皙の顔を赤く染め、鋭くつり上げたまなじりに涙を浮かべ、桂介を睨みつけた。その口からぎりぎりと歯軋りの音が漏れ出る。
「……さっきからこの人といい、あなたといい! 私のことをバカバカバカバカバカバカバカバカ、バカと! そんなに人を馬鹿にして何が楽しいのですか! あなたはいつもそうです! 他人を小馬鹿にしたような態度で飄々と! 周りの人間がどれほどその態度に我慢していたと思っているのですか! そもそも私が昔……っ!」
そこで夢から覚めたようにズージィは身を震わせた。またやってしまった、とその顔に書いてある。真っ赤な顔が、怒りとは違うものに取って代わった。
「そっちも相変わらず忍耐力が足りないよな。しかも体裁ぶるし。実際、向いてないんじゃないのか? 『退敵師』」
ズージィは桂介に非難の目を向けたが、口を開いたのは数度の深呼吸をした後だった。
「余計なお世話です。人の心配をしている場合ですか」
「それこそ余計なお世話だ。俺を殺すんだろ? なら、さっさとしろよ」
「…………」
ズージィの瞳の中に永久凍土の嵐が吹き荒れた。冷たい輝きが波動となって桂介を照らす。少女はその懐から匕首を取り出した。桂介はその名前が『炸雷』と言って、伊達の『裂震』と対になる刃であることを知っている。ズージィの小さな手が『炸雷』を鞘から引き抜くと、『裂震』と同じく、露の玉が散るような目眩く輝きを放つ刀身が現れた。
ズージィは桂介に向かってゆっくり歩き出した。いや、歩き出そうとした。
「……っと待ちなさいよ……」
蚊の鳴くような声が少女の足を止めたのだ。通りすがりの小悪魔に尻尾の先で背中をつつかれたように、ズージィは振り返った。声の発生源はすぐ足元にあった。
「なに、馬鹿なこと言ってんのよ……このクソ変態オバケ」
毒を吐く声も弱々しく、腕の痛みに顔をしかめながら輝色はなんとか身を起こした。
「……うわ、起きてたんだ」
桂介は緊迫感の欠片もない声で輝色の覚醒を受け入れた。
「……少し手加減が過ぎたようですね」
ズージィも無感動にそう呟く。
「あんたらね……」
桂介は桂介で相棒などと言っていた割には反応が冷淡に過ぎるし、ズージィはズージィで一撃で人の右肩を砕いておいて手加減もなにもあったものではないだろう、と輝色は思う。
「ま、いいけど……良くないけど……それより、人が黙って聞いてたら何ふざけたこと言ってんのよ、この馬鹿」
輝色は苛烈な怒気を孕んだ目で桂介を睨みつけた。
「……え? 俺? え、あ、あれ? な、なんで?」
最初は自分に向けられた言葉だと気付かなかった桂介は、本気でわからないといった面もちで狼狽えた。彼にしてみれば命を懸けて彼女を救おうとしていたはずで、礼を言われるならともかく、怒罵されるいわれはないはずだった。
「なんでもくそもあるか、この逆立ちカバ。なんであんたがあたしのために殺されることになるのよ。どういう理屈よ。ふざけんのもいい加減にしなさいよ。意味不明だわ。あんまりナメたこと言ってると口に足突っ込むわよ」
反射的に桂介はその状況を想像して、まるで女王様と犬みたいだな、と危険な感想を抱いた。
「うーん、さすがにそういう趣味は……ってちょちょちょ、ちょい待ち? あのさ、ちょっと待って欲しいのはこっちだって。なんで、俺が、こうやって怒られてるの? 俺もう全然わけがわかんないんだけど」
「人の質問に先に答えてから質問しろタコ。あんたいっつもそうやってはぐらかすんだから。単刀直入に聞く、あんた今なにするつもりだった」
「いや、だから俺は君を助けようとしていたわけで、怒られる理由はどこにも」
「あんた、今、なにするつもりだったって聞いてんのよ!」
輝色の怒声がぴしゃりと桂介の鼻っ面を叩いた。その拍子に折れた肩に激痛が走ったらしく、彼女は顔を歪めた。だが、すぐさま視線を桂介に向けて睨みつける。桂介は、やれやれ、と目線を逸らして溜息を吐き、観念することにした。
「……我が身を捨ててあなたの命を助けてもらおうとしました」
「それって命乞いじゃない」
「……!」
息の止まるような思いを桂介は久々に味わった。この子は時々魔法の呪文のように的確なことを言うよな、と桂介は感歎を禁じ得ない。なるほど、自分がよく『頭がいいのに馬鹿だ』と言われるのはこのことかもしれない。自分は理屈にこだわりすぎて直感を軽視する傾向があるのだろう。
「なるほど、ね。こいつは盲点だった。そういえば俺が言ったんだっけ、命乞いなんかみっともないって」
「そーよ、あんたが言ったのよ。へそで茶を沸かすぐらい失望するって。実際にはあたしが失望してるけどね、今」
「じゃあ沸かしてみる? へそでお茶?」
「物理法則の勉強してこい、この天才」
「……君って段々口が悪くなってきてるよね。しかもひねくれた感じに」
「誰のせいだと思ってんのよ。ともかく、あたしは命乞いなんてまっぴらだし、あんたにあたしの命を任せたつもりはこれっぽっちもないし。勝手なことはやめてよね」
輝色は怒りに燃え立つ瞳をズージィに移す。
「あんたもあんたよ、このクソガキ。つまんないことやってんじゃないわよ。人質なんてあざとい手なんか使って何が楽しいのよ。大体あんた達って知り合いなんじゃないの?」
対照的に氷の軋む音すら聞こえてきそうな瞳に輝色を映したズージィは、その言葉に何の感慨も抱かなかったようだ。
「楽しいか否かの問題ではありません。目的を達成できるなら手段は問わないつもりです。知り合いは知り合いでも仲が良いとは限りません。そもそもあなたが分からず屋なのが原因ではありませんか。私は丁寧に教えたはずです。あの男はペテン師だと」
「こらこら、人がいない間に勝手なこと吹き込むなって」
茶々を入れた桂介を輝色もズージィも無視した。
「あたしはペテン師でもいいって言ったはずだけど?」
「そんな考え自体が間違っています。我々としてはあなたがいるだけで彼の行動範囲が大きく広がりますから、見逃すことは出来ません。それに、大体あなたはあの男の目的を知っているんですか?」
この時、桂介の頬にかすかな痙攣が走ったことに気付いたのはズージィだけだった。
「知ってるわよ。死ねない身体になったから、死ぬために死ねる場所に行くんでしょ? それぐらい聞いてるに決まって……」
「やはり騙されていましたね」
「……え?」
輝色の言葉を遮ったズージィは、薄く微笑をたたえた。急速に輝色の意識は空白に近づいた。心の底の栓がはずれ、そこに詰まっていた信頼という名の水がこぼれはじめたようだった。
「あなたは大庭桂介に騙されている、と言ったんです。彼の目的が死ぬこと? まさか。冗談としては最低レベルですし、本気ならば最悪です。あの男が」
と、ここで桂介に一瞥をくれる。頭蓋骨の中で慌ただしく脳を活性化させていたとしても、桂介は表面上には決してそれを出してはいなかった。
「あの男がそんなロマンチシズムで動くはずがありません。彼の目的は復讐ですよ」
「……ふくしゅう……?」
「ええ、復讐です。自殺なんてとんでもない。それどころか、彼は殺人を企てているんですよ。だから、私たちに彼を滅する依頼がきたんです」
「さつじん……」
雑誌やニュースで聞き慣れた言葉が、意味のあやふやな呪文のように思えた。輝色はやや呆然と、桂介を見た。俺が死ぬために協力して欲しい──そう言った少年の顔には、石像が如き無表情があった。
「さらに言えば、私や伊達をこのような身体にしたのも彼の研究の成果です。その研究の結果、彼は望んであの姿になったんですよ? そんな人間が本気で死を望むとでも? はっ……そんなことは有り得ませんね。あなたはいいように利用されているだけなんですよ。わかりますか?」
わからなかった。わからなくなってしまった。ペテン師でも詐欺師でも良いと思ってたのに。それでも大丈夫だと思っていたのに。
頭の中で、『自殺』と『信頼』のスープに『復讐』と『殺人』が混じり込んで、激しい化学反応を起こしていた。
何があっても信じ続けるつもりだったのに、あまりにもあっさりと、桂介のことを純粋に信じることができなくなってしまった。
色を失った顔で輝色は桂介を見つめ続ける。何故、彼は何も言ってくれないのか。何故、ズージィの言っていることは嘘だと、いつものように笑ってくれないのか。疑問と不安が膨張していく。
「本当なの?」
そう言おうとして、輝色は声を出せない自分に気付いた。何か目に見えないものが喉を圧迫していた。
輝色の沈黙を、ズージィは肯定ととったようだった。
「つまりはそういうことですよ。この男は、私の知る限り利用できる物は全て利用し、使い捨てる冷血漢です。あなたが思っているような人間ではありません。確かに夢は見せてくれるかもしれませんが、夢から覚めた後の責任はとってくれませんよ、彼は」
桂介は何も言わない。輝色は何も言えない。ただ一言だけで良いのに。ただ一言、『俺を信じろ』と言ってくれれば、自分は彼を頼ることが出来るのに。ズージィの言っていること全てを嘘だと断定することが出来るのに。
輝色は桂介の静かな顔を見つめ続ける。
「気持ちは分かりますよ。私も昔は彼に騙されていましたから。でも、私に比べればあなたの傷は浅いはずですから、そう暗くならないでください。事が終わり次第、私たちがあなたを家まで送り届けますので」
家。その単語を聞いて輝色の脳裏をよぎるのは、世界にたった二人しかいない、彼女の味方だった。友達を作れず、学校の中で孤立していた輝色の心のオアシス。それが両親だった。二人が子供を容易に作ることの出来ない夫婦で、不断の努力で行った不妊治療の成果が自分であると知ったのは、両親が交通事故で死んだ後になってからだった。そのせいだけではないのだろうが、両親は輝色にとって世界で一番暖かい存在だった。友達が出来なくとも、いじめられようとも、どれだけ心が傷つこうとも、それでも頑張ってこれたのは両親がいたからだった。だが、今はもう二人はいない。家に帰っても、そこには家の形をした空虚な洞があるだけだ。本当の意味での輝色の帰る場所は、もうなくなっていた。
そうだ。もう自分は戻れないのだ。帰る場所もないし、もはやこの世界で生きていくつもりもない。そう考えて、あの日、学校の屋上に昇ったのではなかったのか。
桂介が冷たい顔で自分を見つめていることに、今ようやく輝色は気付いた。こちらが一方的に見つめているだけと思いこんでいたため、彼もまた自分を見つめていることに気付かなかった。両手をポケットに突っ込んだオバケの少年は、一途に輝色を見据えている。
試されている──不意にそう感じた。彼は何も言わないのではなく、輝色の選択を待っているのかもしれない。その可能性が閃いた。彼はきっと弁解も説明もしないだろう。大庭桂介は、楸輝色の『覚悟』を見極めようとしているのだから。
彼がいつか言ったことがある。
『俺の命はね、俺のものなんだ。自由にする権利は俺にしかない。死に方ぐらい自分で決める。だから、あいつらに殺されてやるつもりはこれっぽっちもない。俺が死ぬときは、その方法も場所も全部俺が決める。他人になんか決められてたまるものか。だから俺はあいつらと戦うし、逃げる。……わかる? つまりそういうこと』
他人など関係ない。生きるも死ぬも、何を決めるにも大切なのは自分自身の意志なのだと、彼は言っていた。
するりと言葉が滑り出た。
「やっぱりちょっと待ちなさいよ」
「はい?」
結局の所、桂介を信じるのか、ズージィの言葉を信じるのか。それを決めるのは輝色自身だった。
「あたしは……」
自分を持て。何かに流されるな。心の中を見つめろ。そこに答えがあるはずだ──輝色は自分にそう言い聞かせる。あやふやなものに騙されてはいけない。わかっていること、信じるべきこと、それは、
「……あたしは、自分が決めた覚悟に従うわ」
動かなかった喉から声を出した瞬間、えもいえない力が全身にみなぎった。
「……へえ。どんな覚悟だったっけ?」
表情を抑えたままの桂介がようやく口を開いた。その顔が笑うのを我慢しているように見えるのは、輝色の気のせいではないはずだった。
輝色はにやりと笑って見せた。廃工場の中で『覚悟を決めよう』と迫られた時、密かに心の中で決めた覚悟を、彼女は口にした。
「あんたの期待を徹底的に裏切ってやる」
途端、輝色は肩の痛みを無視して猛然と立ち上がった。脳を針で突き刺すような激痛があるが、少しなら我慢できそうだった。左手にはズージィに叩きのめされる前に脱いだセーターを握りしめている。輝色はそれを凍りついたサファイアのような瞳めがけて投げ付けた。
『!?』
怪我人の意外に機敏な行動に、オバケも『退敵師』も咄嗟に反応することができなかった。後になって桂介は、ここに伊達がいれば、と思うことになる。彼ならばおそらく反応できたに違いないのだ。
ズージィは冷静だった。視界を遮る黒のセーターを右手で払いのけようとした。彼女は絶大なる剛力を誇るが、伊達の神速には程遠かった。伊達がスポーツカーであれば、ズージィはブルドーザーだったのだ。
払いのけたセーターの向こうに輝色の姿はなく、ズージィの目が見開かれた。刹那、桂介の瞳にも驚愕が弾ける。
投げたセーターの陰に隠れるように身を低くした輝色は、左腕を広げ側面からズージィに飛びかかっていたのだ。本塁に滑り込む野球少年のように全体重をかけて激突する。
「──なっ!?」
ズージィからすれば目の前の障害物を除いたときには、輝色がすでに左側面から腰に抱きついていたことになる。狼狽も露わにズージィは身をひねろうとしたが、遅きに失した。ズージィがいくら怪力であろうと、体重は年相応だった。よって輝色の全身から生まれた運動エネルギーはどうしようもなく少女の身体を押し流し、体勢を崩れさせる。
そして、二人の少女の倒れ込む方向には、何もなかった。
少女達を受け止めるコンクリートは、その先には無かったのである。
「ばっ……!」
馬鹿、と叫ぼうとして桂介は失敗した。
止める間など当然なく、輝色とズージィはもつれあって屋上の縁から宙へと身を投げた。
その光景はテーブルの上から落ちる玩具を思わせた。
少女達の姿がコンクリートの縁の向こうへと消える。
人体のひしゃげる嫌な音を桂介は聞いた。
「あの……馬鹿!」
さすがの桂介も激高せざるを得なかった。怒鳴ると同時に彼は走り出す。いちいち前へ進んでから下に降りるなどという手間はかけなかった。屋上のコンクリートに潜り込み、最短距離を駆け下りた。
いったん工場内に戻り、再び壁を抜けて外に出た桂介が見たのは、地面に並んで寝そべる二人の少女だった。
「輝色!」
桂介が叫んだ名前の少女は口から血を吐いて倒れていた。全身を強く打ったことが、推測ではなく説得力を持つ光景としてそこにあった。ぐったりとして、桂介が初めて名前を呼び捨てたことにも反応しない。
桂介はほとんど落下するように輝色の傍に降り立った。近づくと、耳や鼻からも血が流れ出ているのがわかった。一緒に落ちたズージィがクッションになったかもしれないが、輝色の姿は桂介を絶望的にさせるに充分だった。
「大丈夫か!? 生きてるか!?」
下手に触れるわけにもいかず、桂介は顔を近づけて大声で話しかけた。
輝色の耳に向けて桂介が肺を三回酷使すると、やがて輝色の瞼が弱々しく震え、うっすらと開いた。
まだ生きている。
「……けぃ、すけ……?」
夢の中を漂っているような輝色の口調だった。焦点の合わない瞳が桂介に向く。
「馬鹿、お前、なんでこんな馬鹿なこと……なんで……!」
小悪魔から言語教育を受けたような少年が、気の利いた冗談どころか、声に滲む落胆の色すら隠せずそんなことしか言えなかった。
「……だれ、が、おまえ、よ……え、っらそうに……」
ふっと輝色は微苦笑を浮かべたようだった。自身で吐いた真っ赤な血が、その顔を汚していた。荒々しく血に濡れた唇が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あたし、ね……あんたのこと……だい、きらい……」
喉と鼻に血が詰まっていたため、やや不明瞭な声を、桂介は黙って聞くより他なかった。もうすぐ輝色は死ぬ。それは推測でも願望でもなく、厳然たる事実としてそこにあった。
「でも……あんたのこと、しんじ、たかった……だから、あたし、きめたの……」
輝色は激しく咳き込んだ。血液が握り拳大の塊となって口から飛び出す。
「……あんたを、うらぎら、ない……でも、あんた、の、きたいは……うらぎ、ろうって……」
「……なんで」
桂介は声を絞り出すしかなかった。見えない何かが、胸を圧迫していたのだ。輝色は笑みを濃くする。
「だって……あんたの、きたい、どおりじゃ……あたし、だけの、せんたくに、ならない、じゃない……」
息の荒さがだんだんと加速しつつあった。途切れ途切れ、苦しげに輝色は口を動かし続ける。
「なめんじゃ、ないわよ……あたしはね、しにたくて、しぬんだから……あんた、ぜったい、あたしなんて、どうせ、しねない、って、そう……おもってた、でしょ……」
呼吸さえ困難かつ苦痛となった輝色は、言葉の合間にわずかに震える息を吐き出す。そのごと、彼女の生命力は大気に溶けていくようであった。
「ああ……でも、ごめん……あんたに、きょうりょく、できなく、なっちゃった……あは、は……」
ぎこちなく笑う。
「……じつは、さぁ……あたし、あんたに、ちょっと、あこがれ、てたのよ……かっこ、いいなぁ、って……ずるいなぁ、って……だって、じぶんが、しぬのに……まえむき、なんだ、もん……あたし……」
再び輝色は激しく咳き込み、ジョッキ一杯分はある血液を土に染み込ませた。
「……あ……あっ……なんか……あたし……もう……だめ、かも……」
ゆっくりと、その瞼が閉じられていく。
「……あのさ……やっぱり……おどろ、いた……? ……ごめん、ね……」
最期に一つ、深く息を吸い込み、ゆっくり吐き出す。
そして彼女の生命活動は終わった。
楸輝色は、一七歳の人生に自ら幕を下ろしたのだった。
まだ高い位置にある太陽が、穏やかに少女の顔を照らしていた。永遠なる静謐が輝色を包み込んでいる。
桂介は呼吸を止めた輝色に触れようとして、それが叶わぬ事を知った。頬にやった手がなんの手応えもなく皮膚の中に沈む。彼はまた、何も触れなくなってしまったのだ。
彼の背後で起きあがる気配があった。
「……お前は生きてたのか」
輝色の死に顔を見つめたまま、桂介は呟いた。死せる少女の顔は安らかだった。苦しくなかったわけなどないというのに、苦痛すらも自らの責任として甘受していたようだった。
立ち上がったズージィは、しかし無傷ではなく、左手で右肩を押さえていた。骨が折れている。奇しくも彼女自身が砕いた輝色の骨と同じ箇所だった。顔や衣服が血で汚れていたが、それはどうやら輝色のものらしかった。
「さすがのお前でも死ぬと思ったんだけどな」
「ええ、まあ、さすがの私も死ぬかと思いましたが。あなたは知らないでしょうが、私たちはあなたに『開発』された以降も続いた研究の成果を受けているのですよ」
抑揚のない桂介の声に、淡々と答えるズージィの声。
「そうか、あの時より頑丈になったのか」
「というよりも、今のあなたに近づきつつあります。その気になれば、この通りですよ」
そう言ってズージィは右肩に乗せていた手を下ろす。そして折れているはずの右肩をぐるりと回した。その動きには遅滞も乱れもない。ものの数秒で骨折が完治したのだ。
「へえ。俺がいなくても何とかなるもんなんだな。さすがは日本人、物真似を進化させるのが上手だ」
桂介は右手を輝色の顔の上に、左手を腹の上にかざした。
「新しい物を作るのには天才が必要でしょうが、それを育てるのは凡人でも可能だということですよ。それだけでしょう」
桂介は鼻で笑う。その声には言葉以上に毒が詰め込まれていた。
「はっ、ぼんくらが何を偉そうに。それより、でくの坊つれて帰らなくていいのか? 俺、今忙しいからお前らと遊んでられないんだけど」
ズージィは『O.B.K』の赤い刺繍に怜悧な視線を突き刺す。誰が死のうと我が身が傷つこうと、『退敵師』のすべきことはただ一つだった。
「まさか。ここでこのままあなたに消えてもらいますよ。ここまで追いつめたのですから。珍しく他人の死に感傷を抱いているようですが……」
限りなく透明に近い蒼の視線が、重力の見えざる手によって地面に叩きつけられた少女の顔を撫でる。その瞳が一瞬だけ、憐憫に揺れた。
「やめとけよ。お前じゃ俺に勝てないって。今帰らないなら本気で殺すぞ」
「望むところです」
静かな恫喝を、ズージィは凛として受けて立った。
沈黙の幕が降り、風にそよぐ木々のざわめきが優しく流れる。
ズージィの不幸は、桂介の背中しか見えない位置に立っていたところにあった。彼女は知ることが出来なかった。まるで眠っているようにも見える輝色を見つめる彼の瞳が、苛烈な光彩に満ちて輝いていることを。
「……そうか」
静かな、それは静かな声だった。静かすぎた、と言っても良い。
突然、輝色の顔と腹の上にかざされた桂介の両手が光を放つ。白い輝きだ。生まれた光量は並ではなかった。それはまるで小規模な超新星爆発だった。
「!?」
ズージィには声を上げる暇すら与えられなかった。
刹那、何もかもが光に漂白された。その中で瞼を開けるものは神か悪魔でしかなかっただろう。
小さな山の麓の、打ち捨てられた廃工場で、光の爆発が生まれた。
てっきり、自分は死んだものとばかり思っていたのだが。
気がつけば輝色は生きていた。
「えっ?」
まず目が見えていることに気付き、ついで声が出たことに驚いた。
「あれ? え? あれ?」
身体を見下ろすと当然、胸があり、両手があり、足があった。どうやら幽霊になったわけでもないらしい、とおぼろげに思う。
輝色は辺りを見回し、場所がどこかの路地裏の、突き当たりであることを知った。狭く、薄暗かったからだ。どこからかクーラーの廃熱ファンの音が聞こえる。
「……嘘。あたし、死んだはず……よね?」
自分に確認するように呟く。途端、閃光のように記憶が甦った。ズージィに体当たりをして、地獄への道連れにしようとした。それは見事に成功し、自分はズージィと一緒に真っ逆さまに落ちたのである。
もつれあいながら落下する途中、ズージィの拳が腹に突き刺さり、宙で口から血を吹き出したことを思い出した。飛び散った血が自分やズージィの全身を汚したはずなのだが、
「……汚れて、ないよね」
自分の恰好を確かめて口に出す。黄色のブラウスに黒のスマートパンツには血痕など一つも見あたらない。
輝色は狭い路地の行き止まりに座り、壁に背を預けて寝ていたらしい。とりあえず立ち上がり、桂介を捜そうと少女は思う。一〇メートル以上の高さから飛び降りて全身を強打したはずの自分が、こうして生きているのだ。あの自称天才のオバケが何かしたに違いない。そうに決まっている。見つけだして話を聞かねばならなかった。
「桂介?」
まず名前を呼んでみた。声が壁に吸い込まれたように、思った通りには響かなかった。狭い場所だからこだまを期待したのだが。もう一度、今度は大きな声で呼んでみたが、しばらく待っても返事は返ってこなかった。
彼はどこへ行ったのか? そもそも何故、自分をこんな所に置いていったのか? もしかすると、見捨てられたのだろうか。
「…………」
有り得ない話ではなかった。よくよく考えれば自分はとんでもないことをしたのだ。人質になって、助けてくれようとした桂介を突っぱね、挙げ句には自殺まがいのことをやってのけた。しかも途中まで彼は自分に大きな期待をかけてくれていたのだ。それを自分はかなり酷いやり方で裏切った。
怒っているかもしれない。
「……っていうか、怒ってるわよねぇ……」
怒り狂う桂介というのは想像に難かったが、無表情にこちらを睨みつけるその姿は簡単に脳裏に象を結んだ。
謝った方が良いだろうか? そう考えて輝色はすぐに頭を振った。冗談ではない。頭を下げるなどもってのほかだ。しかもあんな男に。
「……でも、助けてくれた……のよね」
意識を失う直前までの苦痛はもちろん覚えていた。全身がバラバラになったかと思うほど、身体の至る所が悲鳴を上げていた。衝撃が強すぎて痛いのか熱いのか冷たいのか、それすら判然としなかったものだ。体の中はぐちゃぐちゃで、内臓全てが破裂したのかと思った。まあその理由の大半は、地面に激突する前に受けたズージィの一撃だとは思うが。
それが今はどうだろう。痛みも苦しみもないどころか、心なしか体が軽くなったような気さえする。今なら桂介のように空を歩けるかもしれない、そんな錯覚すらある。
お礼ぐらいは言うべきかもしれない。輝色はそう結論を出した。謝罪も一応形だけは、と付け加えて、歩き出す。
と、十歩ほど行った時だった。
「……ん?」
奇妙な感覚が輝色をとらえた。
おかしい。何かが変だ。違和感を感じる。何だろう、これは? 気のせいか目線の位置が今までと違うような気がする。
というより、すぐ右にあるのは窓なのではないだろうか。しかも二階の。
「……えっ?」
すぐに足元を見る気にはなれなかったのは、頭のどこかでその可能性を考えていたからかもしれない。輝色の目は重力に引かれるように、足元に下がった。
浮いていた。
「……やっぱり?」
咄嗟に出てきた言葉がそれであった。何もない宙に立っている自分を発見した少女は、しばらくの思考停止に陥った後、大きく息を吸い込んだ。
悲鳴を上げたのは言うまでもなかった。
「あー、うるさいっ」
いきなり壁をすり抜けて桂介が現れたものだから、輝色はさらに悲鳴を上げた。
「うきゃあぁあぁっ!?」
「だからうるさいって。ちょっと落ち着こうよ」
輝色は鞭を打つような音が聞こえてきそうな動きで桂介を指さした。
「な、なななななんなんなんなんなん、なんでっ!?」
「なんでだろうねぇ?」
桂介は肩をすくめてすっとぼけた。そんな常套手段には騙される輝色ではなかった。
「とぼけるな! あんたが何かしたんでしょ!? あたしに何したのよ!?」
「何かしました」
「こらぁあぁっ! ちゃんとはっきり具体的に言いなさいよ馬鹿ァッ!」
「こらーって……またおばあちゃんみたいな怒り方するね、君」
「いいから早く説明しなさいよ! なんであたし浮いてんのよ!? あんたあたしに何した!」
「それを聞く前に、君は俺に言うべき事があるんじゃないかな?」
突如として桂介の舌鋒が鋭く尖った。それは輝色の良心をちくりとつつく。
「うっ……」
「あるだろう? 俺に聞く前に、言うことが」
むろん桂介の言っていることは、先程まで輝色が考えていた事と同じとみなして問題なかった。というより、そうみなすのが当然だった。
「そ、それは……」
お礼を言って形だけでも謝ろうと考えていたのだが、実際にその状況になってみると、輝色の舌は鉛のように重くなった。
「それは……何?」
腕を組んで斜に構えた桂介の視線は、ズージィの瞳以上に冷たく、メスのように鋭かった。輝色は顔を逸らして、もごもごと口を動かす。
「それは、その……なんというか……ありが」
「違う。その前にも言うことがあるだろう?」
「えっ……?」
礼を言おうとしたら遮られた。
──つまり先に謝れということだろうか?
輝色が沈黙すると、待ちかねたのか桂介は溜息を吐いた後、いつものようにつらつらと言葉を並べ立て始めた。桂介にしては低い声だった。
「あのさ、わかってないみたいだから言うけど。君、自分が何したかわかってる? 言っちゃ悪いけどすごく馬鹿なことしたんだよ? 一体何考えてんのさ。非常識にも程がある。もうちょっと頭を使って欲しい、お願いだから。いくらなんでも馬鹿過ぎる行動は俺でもフォローできないし、したくないって。本能だけで動くのはやめようよ。もうちょっと自分の頭ん中を見つめ直してさ、反省してくれないかな。そうじゃないともうこれ以上は付き合いきれないって。あのさ、わかってる?」
静かだが、それは怒気の結晶によるダイヤモンドダストとでも言うべき声だった。輝色はひしひしと桂介の怒りと不満と不機嫌さを感じた。申し訳ないという気持ちがわき上がる反面、沸々と込み上がる苛立ちもある。
桂介は言った。
「ごめんなさいは?」
その瞬間、大切な糸がぶちんと切れた。
「なによ! なによなによなによなによ! さっきから聞いてれば偉そうにベラベラベラベラと! ああそうですねあたしが悪うございました! 考えなしの無謀な行動でした! でもだからって何よ! なんでそこまであんたに偉そうに言われなきゃいけないわけ!? あたしの命なんだからあたしの好きにしたっていいじゃない! あんただってそうじゃないのよ!」
桂介は心の底からうっとうしそうに首を振った。
「あーあ、どうして素直にごめんなさいが言えないのかなぁ、この子は」
その態度が輝色の炎に油を注ぐ。
「むっかぁ……! なによ、あたしちゃんと謝ったじゃない! あんたが聞いてなかっただけじゃないの!?」
「謝った? 君が? ……いつ?」
「落ちたとき! 気を失う前! あたしちゃんと謝ったわよ!」
二人の脳裏に同じ映像が浮かび上がる。血を吐いて倒れている輝色、傍にいる桂介、『ごめんね』と言い残して目を閉じる少女。
「……ああ、そういえば。……ってあれって謝った内に入るの?」
「なによ、謝ったことには違いないじゃない!」
「そりゃまあ、そうだけど。何となく納得がいかないっていうか……改めて謝罪が欲しいっていうか」
輝色はとうとう爆発した。
「ゴメンナサイ! 助けてくれてアリガトウ! このゴオンはいつかきっとカエしマス!」
殴りつけるように言葉の爆弾をぶつけて、輝色は荒い鼻息をついた。顔を近づけて桂介を睨みつける。睨み殺してやろうかと思った。
桂介はまた溜息をついた。彼はまるでさっきから溜息だけで呼吸しているように輝色には見えた。それがまた輝色の神経を逆撫でにする。
「ま、いいさ。一応、許してあげよう。次がないようにお願いしておくよ。といっても、もう無理だろうけどさ」
「はあ?」
最後の一言が輝色には引っかかる。桂介は空を仰ぎ、言った。
「もう大体のことは君にもわかってるんじゃないかな? 自分の足元見れば、わかるだろう?」
靴底の下には何もないはずなのに、輝色は確かな接地感を伴って空中に立っていた。まるで特殊ガラスがあるかのようだった。つま先で蹴りつけても、確かな手応えがあるくせに音は一切しない。
「……やっぱり?」
奇妙に引きつった顔を輝色はした。それはそれは複雑な表情だった。
桂介はくすりと笑う。
「そう、そのやっぱり」
輝色は事実を言語化することに強烈な抵抗感があった。言ってしまえばそれが確定してしまうような、逆に言わなければまだ夢か何かのように元に戻るのではないかと、そんな気がしたのだ。しかし、彼女の相棒は残酷だった。
「君、オバケになったんだよ」
それは死刑宣告にもよく似ていた。
「……嘘」
ささやかな、それは本当にささやかな現実への抵抗だった。輝色のそんなはかない抵抗を、桂介は笑顔で踏みつぶした。
「本当」
にっこりと笑うその顔は、まるで翼のない天使だった。もっとも、そのジーンズの中には先の尖った黒い尻尾が隠されているに違いない、と輝色は思う。
輝色は空中ではあったが、へなへなとその場に座り込んだ。
「……そんなぁ……」
情けない涙声しか出せなかった。
あたしは幽霊と旅に出た。
あたしは幽霊と一緒に自殺するための旅に出た。
あたしは幽霊と一緒に自殺するための旅に出て幽霊になった。
ミイラ取りがミイラになるとはこのことだった。
「つまり俺達はオバケであり、神様であり、悪魔ってことなんだ」
これから全てを説明しよう、そう宣言した桂介はまずこのように切り出した。
「仕組みはよくわからないけど、君もイエス・キリストさんを見ただろう? あの人は生まれながらの超能力者だった。あるいはオバケになったのもその能力の一環かもしれないけど。ともかくオバケになった人間は何かしらの特殊能力を得る……はずだと思う。メカニズムを解明しない限りは断言できないからね。でもまあ多分、デフォルトで『オバケらしい』能力は得られるんだ。俺や君みたいに空中を歩いたり、壁をすり抜けたり、力が強くなったり。キリストさんぐらいになると怪我や病気を治したり、大災害を防いだり、他人の記憶を操作したり、色々できるんだけど」
いつか駅の待合い広場でそうしたように二人は並んで座り、路地の壁にもたれていた。どうやら物質に干渉する条件は、あくまで『自分を見ることの出来る人間が傍にいる』ということで、例えそれが同じオバケでも問題はないようだった。
「で、それが俺の場合は『他人をオバケにすること』だったみたいでね。まあ、まだ未熟なんだけど、一応それでズージィや伊達を相手に実験を繰り返したりした。でもあの二人の時はうまくいかなくて、結局オバケにはならないで、ただ特殊な技能だけがあいつらに芽生えた。ちなみにあいつらの化け物みたいな力や反射神経は、それ以前の研究の成果ね。っていうか、ていっ」
「あたっ?」
いきなり桂介は輝色の側頭部を小突いた。さして痛くもなかったが、不躾な行為に輝色は軽くとさかを立てた。
「な、なにすんのよ!」
「それはこっちの台詞。俺、あの時本気で心配したし、腹立てたんだから。これぐらいやらせてもらって当然」
「むぅ……」
心配した、などと言われては輝色も強くは言い返せなかった。
「ほんとに……本当に、色々……大変だった」
桂介の横顔に疲労の翳りが斜めに滑り落ちるのを輝色は見た。精神的なものではあっただろうが、それだけでも輝色の胸を締め付けるのには充分だった。
「大体にして成功率二〇パーセント以下だったと思う。ズージィと伊達の時は失敗してるし、しかも死人に対してやるのは初めてだったからね。ま、死人に対してやったのが初めてで成功したわけだから、計算上成功率一〇〇パーセントってことになるんだけど。とにもかくにも君の声が聞こえてくるまでは生きた心地がしなかったな。もとから死んでるようなものだけどさ」
この時、輝色は『やはりあの瞬間、自分は確かに死んだのだ』と理解した。実際、死んでなければおかしいのだ。あの高さから落ちて無事な人間など存在するわけがないのだから。
「で、もう一つ俺には能力があってさ。それが、オバケ化した人を操るってやつで。これはもちろんズージィと伊達には知らせてない。と言っても、あいつらには効果薄いんだけどさ。でもあの時の君は意識がなかったし、やたらと感度高かったなぁ」
「……なんか、やらしい言い方するな馬鹿」
「気にしない。で、俺は見事、オバケ化した君を操り、意表を突かれた形のズージィを叩きのめして、ここに移動したってわけ」
「叩きのめしたの? あの馬鹿力を? あたしが?」
「君だって今や無敵の馬鹿力さ。今の君から力を抜いたら、まさに無敵の馬鹿。怖いねぇ」
「……ほっほーぅ、じゃあ馬鹿は馬鹿らしく根拠無くあんたを殴り飛ばしてやろうか」
「うひぃ。これだから馬鹿は怖い。おおう、くわばらくわばら」
「……絶対殴る。あとで何がなんでも殴ってやる。とりあえず今は説明続けなさいよ」
「はいはい。できれば永遠に説明続けたくなっちゃったな。で、俺が思うに君にはまだ隠された能力があると思うんだけど、それはおいおい確かめるとして……」
「確かめるとして?」
言葉を切って沈黙した少年に、輝色は聞き返した。
「……俺の話をしようか。俺が君に言ったこと、ズージィが君に言ったこと、その本当の話を」
桂介は輝色を見た。真剣な瞳だった。
「君は俺を信じてくれた。俺はそれに応えなくちゃならないと思う。あの時、俺は黙って君のことを試していたけど、今度は俺が君に試される番だ。聞いて欲しい」
輝色は息を呑んだ。まさかこの少年がこのことを気にしていたばかりか、こんな誠意ある態度をとるとは思っても見なかったのだ。あまりの意外性に輝色は言葉がなく、頷くしかできなかった。
「はっきり白状すると、君に言ったことはほとんど本当のことだった。だけど、あくまで『ほとんど』であって、完璧じゃない。でも……俺が初めて、俺の事情を説明するとき、なんて言ったか覚えてる?」
輝色は素直に首を横に振った。そう言われてすぐに思いつく言葉は得になかった。桂介は小さく笑う。
「ま、当然かな。俺さ、『これから話すことに、嘘はないから。それだけは、信じて欲しい』って言ったんだよ、あの時。これはまったくの本心でさ。確かにあの時の俺は本当のことを言ってたんだけど……」
「黙ってたことがあるんでしょ」
直感で輝色はそう指摘し、桂介は首を縦に振った。
「俺は死にたいって言った。死ねる体になりたいってね。でもそれは、オバケをやめて人間に戻るって意味で、人間に戻った瞬間に自殺するって意味じゃなかったんだ」
「……なるほどね」
輝色は納得する。あまりよく覚えていないが、確かに桂介の話はその辺りをぼかしていたような気がした。当時は気付かなかったのだから、大した話術だ──と自分の知性を棚に上げて輝色は思う。
「それで、ズージィの話。あれも本当。俺はね、殺したい奴がいるんだ。だから、君にそこに連れて行ってもらおうと思ったんだよ。歩いていくって方法もあったんだけどね。やっぱり乗り物を使った方が早いから」
「殺したい奴……?」
桂介が殺意を抱くとはどのような人物なのだろうか。輝色はそちらに興味が湧いた。そして、よほど嫌な奴に違いない、と考える。桂介自身がそれなりに嫌な奴なのだ。きっとそいつは、それこそ悪魔のような奴に違いない。
その『殺したい奴』に関して、桂介は長い話を輝色に語った。
オバケ──彼は笑って『便宜上この名前にするけど、やっぱ間抜けっぽいな』と言った──の研究をしていたのは、実は桂介一人ではなく、彼の父・大庭克彦との共同研究だったそうだ。彼の父も小さい頃からオオバカと馬鹿にされていたそうだ、というのはつまらない余談だった。
大庭親子が所属していたのは科学研究機関として名高い『P.C.L』だった。輝色は詳しく知らないが、どうもそういった業界の権威らしい、とは理解できた。大庭親子はその中でもトップクラスの地位を獲得していて、一見馬鹿だとしか思えない研究テーマであっても、スポンサーからは巨額の資金を受け取ることが出来たという。その研究には『退敵師』であるズージィの父も関与しており、彼の娘とその相棒は資材として克彦に貸し与えられていたらしい。
結論から言えば、研究は成功した。桂介の存在こそがその証拠だった。もっとも、その喜びは長くは続かなかったのだが。
人体実験を行った三人のうち、完璧に成功したのは桂介一人で、残るズージィ=ヴォルクリングと伊達力の結果は不十分なものだった。『退敵師』の二人には異常なまでの筋繊維の強化が見られるのみで、オバケ化は果たせなかったのだ。
現実からオカルト世界の住人へと変貌を遂げた桂介は当然、肉眼では見えなくなっていた。だが、大庭親子はそれ以前に特殊なレンズを開発していた。『退敵師』の協力を得て、その異能の一つ『霊視』を科学的に再現させたものである。特に桂介はこれを普段から身につけ、オバケ化する以前にイエス・キリストとの出会いを果たしていたという。
便宜上『霊視レンズ』と名付けられたそれ──これは伊達のつけていた鬼面の目の部分にも使用されている──によって桂介の変化が確かめられた後、桂介はイエス・キリストとの会話の中から学んだいくつかのことを実践した。まずは自己の能力の確認だった。キリストが『神に祈れば自ずと答えは見えます』とのたまったことを、桂介は『意識を集中すれば直感的に分かるのか』と解釈した。それは実際その通りで、不明瞭ではあるが確かに神の啓示の如く、心のどこかで自らの能力の『質』を桂介は理解できた。それはおそらく無意識的なもので、手を動かしたり、歩行するのと同様の感覚だった。『自分にはこういうことが出来る』と悟るのである。
これにより桂介の能力の一つが『他人のオバケ化』であることが判明し、再びズージィと伊達による人体実験が行われた。結果は失敗だった。オバケと化して日が浅かったためか、桂介の能力はその本領を発揮することが叶わなかったのである。不完全な桂介の能力は、二人に様々な異能を与えると同時に、当時一〇歳に満たなかった少女と三〇代前半の男の時間を、凍結させた。
桂介はそれを半オバケ化と呼ぶ。
最初の実験で、現在の桂介の体を構成する『何か』が二人の筋肉繊維にも宿り、強化したのだろう──と、若き天才は言う。これは、『霊に憑かれた人間が異常なまでの膂力を顕現させる』という話のはっきりした裏付けにもなる、と。桂介はそんな仮説を立て、それがさらに桂介の能力の影響で時による腐敗を受け付けなくなったのだ、と結論を出した。
つまり、その瞬間からズージィ=ヴォルクリングと伊達力は不老の体になったのである。
実を言うと、当年とって桂介は三一歳、ズージィは一九歳、伊達は四三歳であった。桂介が自らを一八歳と言ったのは方便で、実際には彼は二一歳の時にオバケ化し、それから一〇年の歳月を食んでいた。勿論、一八歳と聞いて何の疑問も抱かなかった輝色はこれを聞いて驚いた。精神年齢はともかく、桂介の容姿は二一歳にはとても見えない、と。
不老不死を得た少年──いや青年は、同じく永遠の若さを得た二人と共に、新しい研究を続けながらしばらくは平和な時を過ごしたという。ズージィは『退敵師』として『霊視』の異能があり、レンズが無くとも桂介が見え、触れることが出来た。桂介はそれ以上ズージィに関して触れなかったが、輝色は『おそらくこのあたりにズージィは桂介に恋をしたのではないか』と勝手に推測する。彼女は言っていた。『気持ちは分かりますよ。私も昔は彼に騙されていましたから。でも、私に比べればあなたの傷は浅いはずですから、そう暗くならないでください』と。この発言を考えるに、過去、桂介とズージィとの間には何かあったと見るのが妥当だった。
悲劇は何の前触れもなく起こった。桂介の父、大庭克彦が死んだ。正確には殺されたのだ。
犯人は『P.C.L』の最高権力者、克彦の恩師でもある小板橋賢吾という男だと、桂介は言う。彼は目の前ではっきりと見たのだ。父を嫉み、その研究の成果を横取りせんがために小板橋の握る拳銃が火を噴く、その瞬間を。大庭克彦は息子の見ている前で胸にいくつもの穴を穿たれ、死んだ。
その頃には既に桂介は『裂震』と『炸雷』を開発しており、その金属はオバケを傷つけることのできる唯一の物質だった。傍にはズージィも伊達もおらず、桂介はMVWを掴んでその場から逃げ出した。当然『霊視レンズ』を使用して桂介の姿を認めた小板橋は追いかけてきたが、桂介を捕まえることはできなかった。この時も桂介は咄嗟に空に逃げたのである。
瞬く間に全てを失った桂介は、すぐさま『退敵師』を頼った。というより、頼れる者は彼らしかいなかったのだ。だが、時すでに遅く、『退敵師』はとうの昔に小板橋に買収されていた。当然、ズージィと伊達を頼ることも出来なかった。
桂介は反撃の手段を無くした。
こうして、その後十年間、桂介は流浪の旅に出るしかなかった。ただ、復讐を胸に誓って。
それは、新しい人材を捜す旅だった。まだ世の中には、潜在的に『霊視』の能力をもつ人物がいるはずだった。いや、そう考えなければ桂介に希望はなかった。桂介は二本の足で世界中を歩き回り、そして見つけたのだ。
それが楸輝色という少女だったのは言うまでもない。
「じゃあ……あんたは、そのコイタバシっておっさんを殺すってわけ?」
「ああ。で、ズージィと伊達はその邪魔をしてる……っていうか、俺が日本に戻ってきたこと知って、あの二人に依頼したんだろうね。ズージィの奴、ずっと俺のこと捕捉してたんだろうな」
「…………」
輝色は思う。自分がもしズージィのように、そう望む者の居場所がわかるのならば、好きな男の行方は常に把握して置くだろうな、と。それが乙女心というものなのだから。
「……ちょっと待って。あんたこの前、オバケの自分をズージィが捕捉できるかどうかわからない、とか言ってなかった?」
「ああ、あれ? 嘘だよ」
「なんですってぇ!?」
「というか、あいつらも半分は俺の能力でああなったんだから、俺にもあいつらの位置は大体わかるんだよね。ま、神様で言えば俺がゼウス様なわけだから、その眷属の行動は大体は、ね」
「なによそれぇ! あんた思いっきりあたしのこと騙してたんじゃないのよっ!」
「ごめん。あまりこういうことは説明するもんじゃないって考えてたものだから」
素直な謝罪に、輝色は反論を封じ込められた。頭を下げられてはそれ以上言及できないのが、楸輝色という少女の属性だった。
「……そういえば、そのズージィとあの大男は?」
「ああ、ぶちのめして気絶させた後、縛ってあそこに置いてきた」
「縛って……悪趣味ね」
「あははは、照れるなぁ」
「誉めてないわよ馬鹿。……でも、ズージィって子なら力ずくでなんとかなるんじゃないの?」
「ああ、そこのところは大丈夫。人間には力を込められない体勢ってものがあってね」
「ふーん……」
まさか縛る前にズージィと伊達の身ぐるみを剥いで適当なところに捨てたとは言えない桂介であった。服がなければ簡単には街に出られまい、と考えたのである。
その後、桂介は、彼自身がキリストから聞いた話を輝色に語った。それはオバケとしての常識だった。空を歩くこと、他人の視野に閉じこめられること、壁をすり抜けながら向こうの物を取り出せること等々、輝色にとって興味深い話が目白押しだった。オバケも悪くない、そう思わせる内容だった。
その後で、輝色は何気なく尋ねた。
「それで、そのコイタバシっておっさんがいるところにあたし達は向かってたのよね?」
「そうだよ」
「どこなの?」
「ん?」
「だから、そのおっさんのいる所」
桂介は路地の出口方面を指さした。狭い路地の向こうは光に満ちていて、眩し過ぎて何も見えない。桂介は軽く言う。
「この路地を出たところにあるビル」
「ええっ!?」
近すぎた。一体いつの間に──と輝色が思った瞬間、桂介はとんでもないこと言い放った。
「っていうかもう撃ち殺してきたんだけど、そのおっさん」
「嘘ぉッ!? 早ぁッ!?」
目を剥く以外に何が出来るというのか。輝色はただ仰天して叫んだ。桂介は笑いながら、からかうような口調で、
「あのね、君、自分がどれだけ死んでたと思ってんの?」
「ど、どれだけって……どれだけ?」
桂介は『やっぱりな』と言って、くくく、と笑う。輝色のおずおずとした質問の答えは簡潔を極めた。
「十日」
一言だった。輝色は浦島太郎の気持ちを初めて理解した。いかんとも言葉で表現しきれない心情である。強いて言葉にするとすれば、
『なんということだろう』
としか言いようがない。そんな気分だった。
「説明するとね、君が眠っているっていうか死んでる間に、君を操って連れて行って、小板橋の野郎とか他にも復讐の対象をとりあえずぶっ殺した。向こうはレンズ使わないと俺が見えないから気付かれなかったよ。MVWでドキュンと一発ずつね。で、それから君をここに安置して、このあたりをうろうろしてた。そしたら君の悲鳴が聞こえた──というか目を覚ます反応を感じたから、喜んで戻ってきたってわけ」
「……ぶ、ぶっ殺したんだ……へ、へぇ……」
本来ならばここで慄然とするべきなんだろうな、と思う輝色だったが、いかんせん現実感が伴わない。その現場に自分はいたのかもしれないが、なにしろその時は死んでいたのだから。
「……でも、なんであたしが起きるまで待ってたの?」
「? なんでって?」
「だって、もうあたしがいなくても大丈夫じゃない。復讐は果たしたわけだし、そのまま死んでるあたしを使って……その……人間に戻ることとか、できたんじゃないの?」
「ああ……」
桂介は得心して頷いた。彼は輝色に顔を向ける。
「そりゃ勿論、君を愛しているからさ」
「え? なに? なんか言った?」
輝色は伊達をも凌駕する神速の反応を見せた。にっこりと笑って右手に握り拳を作り、その表面に血管を浮かび上がらせるほどの力を込めて、ふるふると震わせた。
「……えと。その。あながち冗談でもないんだけど……ま、いいか。強いて言えば、単なるけじめだよ。俺だって冷血漢じゃない。これぐらい当然のことさ」
冷血漢、という単語に輝色はズージィを思い出す。
「でもズージィはあんたのこと、利用できる物は全部利用して使い捨てる冷血漢っていってたけど?」
そう言うと桂介は空を仰いで、肺を空っぽにするような溜息を吐いた。その中には失望と悲哀の微粒子が含まれている。
「小板橋のせいだよ。あいつが吹き込んだんだ。誤解を解くことはできなかった。あいつはずっと、俺を恨んでる。恨むように思い込まされてるんだよ」
その言い方はつまらなさそうで、どうでもよさそうだったが、今更、その心情を輝色は推し量れた。こいつはいつもこうだ。いつも何かのフィルターやカーテンやヴェールを使って自分の感情を隠している。だけど、そのパターンは簡単だ。悲しいことはつまらなさそうにして、つらいことはどうでもよさそうにして、苦しいときには笑うのだ。来るところまで来ないとその感情はストレートに出てこない。例えば、輝色が死ぬときがそうだった。
輝色の手は自然に動いていた。何故そんなことをしたのか、自分でもよくわからなかった。
輝色の右手が、桂介の頭を優しく撫でていた。
「……へ?」
間抜けな声を桂介はこぼした。目を丸くして、信じがたい行動に出た輝色を見つめる。
その時には輝色も自分のやっていることに気付き、あわてて手を引っ込める。顔がトマトのように真っ赤に変色していった。
「……あのさ」
桂介が小さく問いかけようとしたら、
「言うな! 聞くな! 知らない! あたし知らない!」
輝色はとんでもない勢いで顔を横に振りまくって、それ以上の言及を頑として拒否する姿勢を見せつけた。
「あ、うん……それならいいんだけど……」
「違う! 違うの! 違うんだから! 違うんだからぁぁぁーっっっ!」
オバケは音を発しない。二人の会話は大気以外の何かを伝って行われていた。
ムキになった輝色の主張は桂介以外の誰にも届かないのだった。
桂介の案内で輝色は件のビルに足を踏み入れた。
自分が他人の目に映っていないという経験は奇妙な物だった。誰もが輝色に気付かない。誰もが輝色を見ない。誰もが輝色を無視していく。その孤独感は、桂介が傍にいても小さいものではなかった。この青年は、これ以上の孤独の中に十年間もいたのだ。それは輝色の想像力の及ばない領域だった。
また輝色は、物をすり抜けるという経験も当然、初めてだった。壁の中が見えると思って潜り込んでみたら、真っ暗で何も見えなかった。桂介に感想を述べると彼は笑った。
「それは当然、光がないからね」
それはそうなのだろうが、新しい世界が見られると思っていた輝色は少なからず落胆した。
『P.C.L』のビルは地上五十階、地下六階という構造で、桂介の目的地は最下層にある。玄関の自動ドア横の壁をすり抜けて中に入ると、正面には受付嬢が二人座り、ビジネススーツや白衣といった種々様々の人々がそこらを歩き回っていた。
「エレベーターを使うの?」
と輝色が聞くと、桂介は床を指さしてこう答えた。
「いや、潜ろう」
輝色は『潜り方』を教わった。壁のすり抜けという『横』の移動はともかく、上下の移動にはまだ慣れていなかった。実際、初めて浮いたときは無意識で、後で自力で降りることができず、結局桂介に運んでもらったのだ。
「目を閉じて、階段を降りるイメージで」
と桂介は簡単に言ってくれるが、事は口で言うほど簡単ではなかった。何度練習してもうまく行かず、結局エレベーターを使う羽目になる。
オバケも二人いればポルターガイストを起こせる。桂介はエレベーターの下りのボタンを押した。
エレベーターに乗り込み、いつか電車の中で桂介の姿を内心で笑ったことを、輝色は後悔した。次は我が身だったのだ。地下に降りるエレベーターの中で二人は仲良く天井に頭を打った。
「あんた経験者でしょ!? 先に言いなさいよ!」
「いやごめん、俺も流石にこれは迂闊だった。ここしばらくエレベーターなんか乗ってなかったものだから……」
エレベーターの中で乗り合わせた学者らしき人物達が、過日の殺人事件について語り合っていた。
「密室殺人らしいな」
「しかも銃殺だったらしい。銃声を聞いた奴もいないし、硝煙反応もなくて、弾丸も見つからなかったそうだ」
「目撃者もいないんだろう? しかも十人とも別々の場所だって俺は聞いたが」
「ああ、俺も聞いた。誰かが大庭克彦先生の亡霊だとか何とか言っていたが……」
「まさか。あれから何年経ってると思ってるんだ。今更だろう」
「そうだよなぁ……」
そこでエレベーターが地下五階に留まり、彼らは出ていった。輝色が桂介の顔を盗み見ると、彼は平然そうに無表情を装っていた。
そこでふと輝色は気付く。
そっか、そういえばこいつって、人殺しなんだ……
不思議と翳りのない思考だった。輝色自身がこれから死ぬつもりだったからかもしれないが、他人の死に対して彼女はやや鈍くなっているようだった。
やがてエレベーターは地下六階に到着した。
一歩出ると、そこは漆黒の闇の支配領域だった。エレベーターの扉が閉まると光は完全に息の根を止められ、二人は互いの姿をも確認できなくなった。
「ちょっと……電気は?」
不安そうに輝色が言うと、意外に遠いところから桂介の声が聞こえた。
「ちょい待ち。今点けるから」
照明に火が入ると、広大な空間が輝色の視野いっぱいに現れた。地下だというので、じめじめした薄暗い場所を想像していたのだが、どちらかというと明るくすっきりしていて、むしろスタイリッシュと言っても良かった。天井、壁は共に柔らかいクリーム色で統一されていて、床はどうやら天井や壁と雰囲気のよく似た、大理石であるようだった。照明や棚、机などもデザインを考慮して選択されているようで、高級感溢れるブティックにも見える。打ちっ放しのコンクリートに灰色の机や棚という、殺風景な空間を予想していた輝色の精神は小さくない衝撃を受けた。
「……ここが……」
「そう、研究室。……って、しばらく来ない間に随分綺麗になったなー。小板橋のおっさん儲けてたんだな」
研究室の中を見回して桂介は口笛を吹いた。煌びやかな部屋において、彼の服装は浮いていた。もっとも、輝色自身の恰好も人のことを言えるものではなかったが。
桂介は部屋の中を歩き、至る所に視線をさまよわせた。輝色もそれに倣ったが、目に付くのはやたらと高価そうな万年筆であったり、日本語以外の言語が記された書類であったりしたので、わけもわからず目がくらんでしまうだけだった。
「お、あったあった。これだよこれ」
「え? なになに?」
部屋の隅の方で桂介が膝を折って何かを見ていた。輝色もそちらへ顔を出すと、青年は珍妙な機械を触っていた。試作機という呼び名がしっくり来るそれは、幼稚園児ほどの大きさで、臓器のような内部の構造が露出しており、一見、生きた無機物のようにも見えた。
輝色は生唾を呑み込んで、喉を鳴らした。
「もしかして……それが?」
「そう、これだ。名前はないけど、敢えてつけるなら『オバケ作成機』って感じ?」
「……ダサ……」
「うん、俺もそう思った。あんまりデザインとか考えてなかったからねぇ」
「馬鹿、あんたのネーミングセンスのことよ。で、それでどうするの?」
心なしか自分の声が弾んでいることに輝色は気付いた。わくわくしている自分が、客観的に見て可笑しかった。何なのだろうか、この気持ちは。まるでピクニックにでもでかけるような、妙に高揚した気分だった。
桂介は子細に機械を調べながら、
「これはね、直列に回路をつないでると人間をオバケにするわけなんだけど……」
なにやら部品を外してははめ直し、はめ直しては外すということを繰り返す。
「だけど?」
「こうやって回路をいじってルートを変えてやると……」
カチカチやらガチャガチャやらそれらしい音を響かせながら桂介は作業を進めていく。
「やると?」
「いつもとは逆の事が起こる」
「……逆のこと?」
「通常ならオバケを作るはずが、オバケを消しちゃうんだよ」
「へぇ……」
「正確には、オバケ的なもの、かな。ズージィ達が近くにいれば、あいつらは確実に人間に戻れると思う。ま、残念ながらあいつらはそう願わないだろうし、ほっとけば寿命が来るからね。だけど俺達は純粋なオバケだから、人間に戻るか消えちゃうかのどっちかなんだ。どっちかはやってみなけりゃわかんないけど」
人間に戻るか、消滅するか。究極の博打だ。
「人間に……って、そういえばいいの? あんた、もし人間に戻ったら戻ったで、あいつらに勝てないんじゃない? 殺されるわよ?」
「ええ?」
作業を中断して桂介は顔を上げた。まじまじと輝色の顔を見つめる。言われて初めてそのことに気付いたような表情を、桂介はしていた。
「……ま、大丈夫なんじゃない?」
しばしの思案の後、彼はそう言って作業に戻った。あまりに適当な発言だったため、輝色は思わず噛み付いた。
「なによ適当ね。らしくないわよ。あんたいつも色々考えてから行動する奴なんじゃないの?」
「そうだったかな? でも確かに何も考えてないよね、俺。もう疲れたって感じ。それに……」
「それに? なによ?」
「……いや、何でもないんだけどね。それより君さ、死んでるときの気分はどうだった?」
唐突に桂介はそんな質問を輝色にぶつけた。輝色は一瞬だが言葉に詰まる。
「死んだときの気分って言われたって……」
「待って。言い当てよう。ほとんど寝てるみたいだったし、死んだなんて自覚はなかった。……そうだろう?」
「……そりゃ、だって意識がなかったのよ? 何もわからないに決まってるじゃない」
「だろうね。で、感想は?」
「感想?」
「嬉しかった? 楽しかった? 何か良いことあった?」
この時になってようやく輝色は気付いた。桂介は鋭利な舌鋒を輝色の喉元に突きつけていたのだ。静かな質問は、実は苛烈な詰問だった。彼は今、輝色に自殺の是非を問うている。
「……別に。何にもなかったわ」
死を体感するという、常人では為し得ない経験を輝色はしていた。それは決して小さくない影響を少女の精神に、確実に与えている。いつしか、輝色の心は死を超越した領域にあった。
「今ね、ちょっと思ったことがあるのよ、あたし。生きるってことは、夢みたいなものじゃないのか、って。覚めない夢。で、熟睡するのが死ぬって事なの。夢を見ない眠り。それには何もないの。楽しくもなければ、苦しくもなくて。本当に無。ゼロもないゼロって感じ。わかる?」
「なんとなくはね」
「なんだか……どっちでもいい気分よ、今。死ぬのも悪くないし、生きるのも悪くないかもって。まあ、どうせいつか死ぬんだから、しばらく生きてみるのもいいかもね、とか……」
輝色は視線を過去へと向けた。その先にいるのは、学校の屋上の縁に立つ自分だった。生きていることが苦痛で、孤独で、寂しくて、夢も希望もない輝色がそこにはいた。
「今、出来るなら、あんたと会った頃の自分に言いたいことがあるわ。何だと思う?」
「さあ? わからないな。なに?」
桂介は率直に言った。そこには嫌みも皮肉もなく、純粋に輝色の本心への興味があった。
輝色は微笑した。こんな風に穏やかに笑えたのは、両親の前以外では初めてかもしれない。
「あたしにもわかんない。それぐらいたくさん……たくさん、言いたいことがあるのよ、今。……なんか変な気分。昔の自分が自分じゃないって感じ。なんて言うか、友達みたいにお喋りしてみたいのよね」
「なんとなくわかるなぁ、それ。多分、それは君が変わったからだよ。成長って言葉、俺は嫌いなんだけどさ。物事を良い方へとらえてる言い方で、客観的じゃないから。でも、君のそれは成長って呼んでいいかもね──っと、これにて準備完了」
カチリと小気味よい音が鳴った。桂介は、ふーっ、と息を吐くと立ち上がり、輝色に右手を差し出した。輝色はその手に遠慮のない視線を投げかける。
「何よ?」
「握手だよ」
そう言って桂介は腕を伸ばして輝色の右手を掴んだ。
「ありがとう。ここまで来れたのは君がいたからだ」
「ちょっ……なによ、いきなり。て、照れるじゃない……」
頬に熱を感じて輝色は手を振りほどこうとしたが、桂介が意外に強く握っていたため、それは出来なかった。数瞬の逡巡を挟んで、輝色は観念し、桂介の手を握り返した。思いもよらず堅い手だった。男の手だな、と思う。
「あたしこそ……ありがとね。結構、楽しかったわよ。あんたって嫌な奴だったけど、おもしろかったし。基本的には良い奴だと思う。ほんと、ありがと」
はにかみながら微笑む輝色に、桂介も目を細めた。
「いえいえ、どういたしまして。ところで、実はもう一つ君に隠し事があったんだ」
輝色はもはや驚きはしなかった。桂介は何かを隠していて当たり前、と思うようになっていた。彼は生粋のマジシャンで、いつも何かしらで輝色を驚かせてくれる存在なのだ、と。
「なによ、それ」
「実は俺、他人をオバケにすることができるわけなんだけど、逆も可能なんだよね」
輝色は一瞬、その内容を把握しかねた。オバケにすることの逆、逆と言えば……
「今から君を人間に戻すから。っていうかもう戻したんだけど」
「……ええぇっ!?」
輝色の驚愕の声はただ桂介を喜ばせる最高級の料理のようなものだった。青年は満足げに笑い声を立てた。少女の手を離して、腹を抱えて笑う。
「あっはっはっはっはっはっ! そんなに驚かなくてもさぁ!」
輝色は桂介の言葉など無視して、慌てて壁に向き合った。右掌を壁につけ、腕が沈み込むイメージを脳裏に描く。
当たり前のように右手は壁の中に潜り込まなかった。
「……ほんとに戻ってる……」
右手を見つめて呆然と呟く。さっきまで壁をすり抜けたりしていたのが白昼夢か何かのように思えた。だが、視線を上げると、そこには相変わらずのオバケがいる。夢ではないはずだった。
「なんで……どうしてよ」
詰問の声に青年はいつものように肩をすくめて見せた。
「悪いね。さっきも言ったけどこの機械使うの結構な博打なんだ。これで人間に戻れるって保証は一〇〇%じゃないんだよ。だからせめて、君だけは確実な方法で戻しておこうと思ってね」
ぱちりと片目を閉じてみせる。輝色は瞬間湯沸かし器の如く、一瞬で暴発した。
「な、なによそれ! あんた、あたしが何しにここまで付き合ったのかわかって言ってんの!?」
「俺の死に様を見届けるため、だったと記憶してるけど」
「違うわよ! それだけじゃなくて、あたしは……あたしは……!」
輝色は自分でも何が言いたいのかわからなくなって混乱した。何故だろう、何故自分はこんなに苛立っているのだろう。正当な理由なんてあっただろうか。違う、何かが違う。こんなの良くない。間違ってる!
輝色は首を横に振る。
「……違うじゃない、こんなの、何か違うじゃない!」
「あれ? 自分でもわからないのかな? じゃあ俺が言い当ててあげよう。君は今、仲間はずれにされたって気分なんだよ、きっと。本当は俺と一緒に消えるつもりだったんじゃない? でもさ、俺思うんだよ。少なくとも今の君は生きていた方が良いって」
輝色は頭を振る。大きく、段々と強く。
「やめてよ、今更そんなこと言わないでよ。ねえ、博打でも何でもいいから、あたしにも乗らせなさいよ! もう一回あたしをオバケにして、それからその機械動かしてよ! もし、もし……もしあんただけ消えちゃったら、あたし、あたし……あたし一体どうすればいいの? ねえ?」
「それは自分で考えよう。というか、それはまずは俺が消えるかどうか確かめてから考えることだろ? 先急ぎすぎだって。それに俺はもう君をオバケにするつもりはない。元々そのつもりじゃなかったんだよ。イレギュラーだったんだよ。だからダメ。それより落ち着いて欲しいかな。あんまり取り乱す君は見たくないなぁ、俺」
どこか透明な雰囲気を全身にまとって桂介は笑う。涙の堤防が崩れる一歩手前まできていた輝色は、少し躊躇う素振りを見せたが、結局は桂介に従って深呼吸を繰り返した。やや落ち着きを取り戻した輝色は、周りを赤くした目で恨みがましく見つめ、桂介に言い放つ。
「あんたって、ずるい」
「自覚はあるよ、一応ね」
そして、桂介はいきなり機械のスイッチを入れた。
目の前で幾万もの光の粒子が飛び散った。
光の波濤が視界を埋め尽くし、眩い波動が輝色の全身を包み込んだ。
いくつもの輝きが愛撫するように優しく、しかし輝色を乱打し、さらに細かく散っていく。やがて輝色は目を閉じてその感触を体中どころか心にも感じ、気がつけば、全てが終わっていた。
目を開くと、そこに桂介は──
「…………」
桂介は──いた。
『O.B.K』の赤い刺繍の入った白のカジュアルシャツにブルージーンズという恰好のまま、大庭桂介は変わらぬ姿でそこにいた。
彼はまじまじと自分の体を眺め回していた。ふと輝色の視線に気付くと、いつものように口の端をつり上げて笑ってみせる。
「……賭に勝ったみたい」
悪戯っ子の笑い方だった。輝色はその顔を見た途端、えもいえぬ感情が体内から衝き上がり、たまらなくなって気がつけば桂介の頬を平手で殴っていた。
乾いた小気味良い音が研究室に響いた。
「いったたた……どうも、夢じゃないみたいだねぇ」
殴られても桂介は笑顔を崩さず、頬を撫でてそんなことをのたまう。その体が不意にぐらついた。
輝色が勢いよく抱きついたのだ。
「馬鹿! バカバカバカバカバカバカぁっ! もうバカ! 本当にバカ! バカバカ!」
「あの……そんなに馬鹿バカ言われると、流石にちょっと傷つくんですが……って何で俺は抱き付かれてるんだろう?」
「うるさいぃ! あたしが知るかぁっ!」
「知るかって……あの、抱き付いているのは君なんだけど、楸輝色さん」
「うるさいうるさいうるさぁい!」
輝色は泣いていた。子供のような涙声だった。桂介には見えなかったが、きっとぐちゃぐちゃな顔なのだろう、と想像するのは難くなかった。
「あんな、あんないきなりっ、いきなりやるなんて……! 死ぬかと……死ぬかと思ったじゃないのよ馬鹿ぁぁぁぁ」
「……まいったな」
桂介は台詞の通り、困ったように後頭部を掻いた。どうも断りもなく機械を作動させたのがまずかったらしい、と彼は分析する。女の子は驚かせ過ぎると泣くものなのだなぁ、とも場違いな感想を抱いた。
その後の輝色は桂介の胸に顔を埋めて、言葉にならない声で何かをわめき立て、わあわあ泣いた。
桂介は少女が泣きやむまで待つしか術を持たないのだった。
だが、運命とは底意地の悪い魔女の横顔を持っているもので、この時も例外ではなかった。世界には意地悪な神と、もっと意地悪な悪魔しかいない。そうとしか思えない出来事だった。
それはあまりにも突然で、前触れなどなく、衝撃的だった。
桂介の全身が一斉に砂のような粒子になって崩れ落ちた。
一瞬のことだった。
まるで大庭桂介という青年が幻か何かだったかのように、瞬きにも満たない短い時間に、崩れ去ったのである。
「えっ……?」
乾いた砂の城に抱き付いたかの如く、輝色はより所を失い前のめりに倒れた。咄嗟に受け身もとれずに顔から床に激突する。
桂介を構成していた粒子は、崩れると同時に一つずつ順番に消失し始め、輝色が身を起こす頃には一つも残っていなかった。
もう痕跡すらなかった。
「……嘘?」
大理石の床に手を突いて起きあがった輝色は、周囲を見回した。
桂介はいなかった。
今、目の前で消えてしまった。
それが信じられなかった。
「……嘘でしょ?」
自分でも誰に向けて喋っているのかなんてわからなかった。わからないどころか、そんなことは全然考えていなかった。
「……嘘なんでしょ? ……また、何かの悪戯よね? ねえ? ……桂介? あんた、またあたしを驚かせようとして、遊んでるだけよね……?」
答える者はいない。自分でも判然としない理由で、輝色は笑顔を浮かべた。笑うしかないから笑った、そんな笑い方だった。
「だって……嘘よ。こんなの嘘よ。なんで? なんでこうなるの? あたし、折角あんたのこと好きになりかけてたのに……悪戯じゃないの? 本当なの? 桂介、あんた、本当に消えちゃったの……?」
静寂が圧倒的な肯定だった。現実が巨体をもって輝色にのしかかる。
輝色の顔は涙で濡れていたが、新しい涙は出てこなかった。
それ以上に絶望していた。涙が出ないほど悲しいことがあるのだと、輝色は知った。両親が死んだときは目が潰れるかと思うぐらい泣いたのに。
絶望感が目の前を真っ暗にさせるとは本当のことだった。もう、何も見えなかった。光は消えてしまったのだ。
大庭桂介という光が。
「……そんな……」
項垂れる他に、輝色に出来ることはなかった。
「なんで……どうして……桂介……桂介……」
なにもわからなかった。
わかるのは桂介がいなくなったことだけだった。
その後、輝色は自分がどうやって家まで戻ったのかを記憶していない。
何も覚えていない。記憶は混乱していて、精神はいまだに錯乱していた。
気がつけば、駅のロッカーに放置していた鞄を手に、家の前に立っていた。体の至る所が痛かった。覚えがないが、何度か転んだらしい。らしい、というのは服が汚れていたので、そこから推測したからだ。
冬休みが明けていたが、輝色は学校には行かなかった。行く気がまったく起こらなかった。何も食べず、何も飲まず、自分の部屋に閉じこもった。
このまま餓死するか衰弱死するのもいいかもしれない。ベッドに座り、壁に背を預けて、そんなことを考えている。
どうしてこうなるのだろうか。
自分はどうして、こうなのだろうか。
欲しいものが、大切なものが、どんどん指の隙間から滑り落ちていく。
何も手に入らないくせに、肝心なものだけが次々と無くなっていく。
両親を亡くして、輝色は闇の中にいた。そこに光が射した。抜け出せると思った。だが、その直前に光はまたも消えてしまった。後に残ったのは、さらに濃密になった闇だけだった。
この世にイエス・キリストはいても、神様はいなかった。
サンタクロースもいて、奇跡もあったが、それは輝色には関係ない世界の話だった。
輝色は思う。
やっぱり自分もオバケのままいられればよかった。
そうすれば、桂介と一緒に消えることが出来たのに。
また死ぬことが出来たのに。
なんであたしは生きているのだろうか。
どうしてあたしは死なないでいるのだろうか。
桂介やイエス・キリストのように、自分にも力があれば良かったのに。
誰かをオバケにしたり、誰かの傷を治したりするように、自分に、オバケを生き返らせる力があれば良かった。そんな奇跡が欲しかった。
そんな都合の良いことあるわけがない。そんなことはわかっている。わかっているのに、それを厚かましく望んでいる自分がいた。
どれだけ祈っても、届く場所に神様はいなかった。奇跡が起こらないのは人手不足が原因なのだ。
つまらないことを思い出す。いつだったか、もう名前も顔も思い出せないが、小学校のクラスメイトがこんなことを言っていた。
飛び降りて死んだ奴はこの世にいない。
久しぶりにそいつに会って話をしてみたくなった。飛び降りて死んだ奴がここにいるぞ、と。
そんなくだらないことが脳裏をよぎることで、輝色は自分がさらされているストレスの大きさを明確に思い知った。こんなつまらないことを考えるほど、自分の心は追い詰められている、と。
もういい。疲れた。眠ろう。
輝色はベッドに倒れ込む。目を閉じながら、こう思う。
もう二度と目を覚ましたくない。
目を覚ますなら、その時は目の前に桂介がいればいいのに──と。
輝色の焼き切れる寸前の意識は眠神の愛撫を受けて、さらなる闇へと沈んでいった。
小鳥のさえずりが耳をくすぐり、輝色は目を覚ました。
まだ生きているのか──絶望感が胸の中を満たした。
気怠い気持ちで目を開き、輝色は我が目を疑った。
絶望感が全て吹き飛んだ。
夢だと思った。これが夢でなければ何だというのだろうか。
奇跡なのか。それとも、知らない内にイエス・キリストがこの部屋へやって来たのか。
輝色は恐る恐る手を伸ばした。頬に触れ、冷たい感触が掌にあった。
「……嘘……!」
涙が溢れてきた。止まらない。喜びの波動が涙の堤防を蒸発させていた。涙は次々と頬の下のシーツに吸い込まれていく。
「……うそぉ……!」
桂介がいた。
目の前に桂介がいた。目を閉じて、輝色の隣で眠っていた。いつもの恰好で、見慣れた顔で、すぐ近くに彼はいた。
信じられなかった。都合が良すぎた。こんなことがあってもいいのか、と本気で思う。
だが、それ以上の喜びが輝色を支配していた。
震える指先で桂介の寝顔に触れる。目を覚ましてしまわないように、そっと。起こしてしまうと、そのまま消えてしまうような気がした。
桂介が目を開いたら、聞きたいことがたくさんある。もしこれが本当のことなら、きっとまた彼が何かを隠してたに違いないからだ。輝色が聞けば、彼はいつものように説明してくれるのだ。輝色が納得できる理由を、ごく軽い口調で。それがどんな理由であろうとかまわなかった。桂介の言うことならば、なんだって信じられるのだ。
そして、その後で聞いてもらおうと思う。臆病で、そのくせ負けず嫌いで、不器用で、頭を下げるのが嫌いで、友達が出来なくて、いじめられっ子で、泣き虫で、お父さんとお母さんに抱き付いてばかりの甘えん坊だった女の子の物語を。
楸輝色のことを知ってもらおうと思う。
だけど、その前にまず、聞かなければいけないことがある。とても重要なことだ。まず最初にこれを聞かなければ始まらない。尋ねるのが遅すぎたぐらいだ。
意地悪で、見栄っ張りで、優しくて、憎めなくて、三一歳のくせに二一歳で、そのくせ一八歳に見えるような童顔で、嘘つきで、隠し屋で、自分と同じ不器用な大庭桂介という名の青年に。
彼が瞼を開けて、輝色の顔を見たら、開口一番こう聞くのだ。
「ねえ。『O.B.K』ってどういう意味?」
二人はこれからも生きていくのだから。
完