海へ行こう
〜Going My Way〜
最初に軽く、登場人物紹介なんぞ。
波田伸久(はだのぶひさ)28歳・男。
離婚経験ありのサラリーマン。元妻と海で結ばれた。
大前夏姫(おおまえなつき)20歳・女。
高校生の頃、恋人を亡くした。二人でよく海に行ったらしい。
小沢水城(おざわみずき)10歳・男。
海にあこがれる男の子。心臓の重い病気で、死ぬ前に一度海を見たいと思っている。
さて、いってみましょう。
| 太田商事ビル・五階。 営業課。 波田伸久が、上司の国松に怒鳴り散らされている。 「何をやっとるんだね君は!? どうしてこんな仕事もとれないんだ、この!」 「は、はぁ……すみません……」 波田は少しも申し訳なさそうに見えない表情で、国松に頭を下げる。 「すみませんですむかバカモン! これでうちの売り上げはガタ落ちだ! どうやって責任をとるつもりだ!?」 「は、はぁ……えっと……」 「ええい、もういい! さっさと仕事に戻れ! 今度こんな間違いをしたらクビだクビ! 覚悟してろ!」 「はぁ……すみません」 軽く頭を下げ、課長席から自分の机に戻る波田。途中、同僚達の声が耳に届く。 曰く。 「なんだよ、あいつまたポカやったのか?」 「みたいだな。まったく……なんであんなに間抜けかねぇ」 「生まれつきだろ? きっと、先祖代々、間抜けなんだぜ」 「そりゃぁいい。あいつがいる限り、オレ達の売り上げ最下位は無さそうだな」 「全く。波田様々だな」 これを聞いて、波田は小さな声で毒づいた。 「……俺だって好きで間抜けやってんじゃねぇよ……」 だが、その声は同僚達には届かない。波田はすごすごと自分の机に戻った。 「はぁぁ……」 深いため息を吐きながら、波田は椅子に腰を下ろした。背もたれに全体重を預け、伸び。 机の上を見ると、隙間がないほどに、書類やプリントで埋まっている。波田は小さく吐息。 「ちっくしょうめ」 場所は変わり、アパートの波田の自室。 「ただいまぁっと……はぁ、やれやれ……ったくよぉ……」 玄関で電気をつけ、靴を脱ぎ、入室。ぼやきながら、鞄を置き、ネクタイを外した。 そして、クーラーのリモコンに手を伸ばし、スイッチオン。次いで、テレビに手を伸ばし、スイッチオン。 テレビでは夏の海に関するニュースをやっていた。早速大勢の人々がやってきて、大繁盛らしい。 「海か……ここ数年、行ってないよなぁ……」 カップラーメンにポットの湯を入れながら、波田はしみじみと呟く。拍子に、お湯が少し跳んだ。熱い一滴が、波田の右の人差し指と親指の間に、付着する。 「あっつぅ!」 波田は思わず腕を振り回した。当たり前のように、カップラーメンが宙を舞い、中身を辺りにぶちまける。 「ぬあぁぁぁぁぁぁっ!?」 直後、言葉にならない絶望の悲鳴を上げる。麺が、具が、スープが、雑誌や下着の散らかっていた部屋を汚した。 「わっ、わわわっ!」 波田が慌てて手を伸ばしたのは、一冊のアルバムだ。青い表紙のそれに付着した麺と具を、素早く手で払い落とす。 「あっぶねぇ……」 すぐさま波田はアルバムの無事を確認。表紙が少し汚れただけなので、安堵の表情を浮かべた。 「…………」 しばらく、波田は表紙を見つめて無言。やおら、アルバムを開く。 そして、とあるページにある写真を凝視。 沈黙。 その内、その瞳が、大きく見開かれていく。 やがて、天井を見上げ、 「……海に、行くか……」 ポツリと呟いた。 水城は病室のベッドの上で、とある本を読んでいた。時刻は昼頃。明るい陽射しが、窓際のベッドを照らす。 「……海かぁ……」 爛々と輝く瞳で、彼は本に魅入っている。 病室には、他に人はいない。看護婦すらいない。彼一人だ。 セミの鳴き声が聞こえる空気の中で、水城は病室の天井を見上げ、 「……海に、行きたいな……」 と呟いた。 夕陽に照らされる講義室。白のカジュアルシャツとブルージーンズという格好の夏姫は、机に座り、ぼーっとしていた。肘を突いた右掌に顎を乗せ、ただただ、中空を眺めている。 数十秒、そうしていて。 やおら、彼女は、そっ、と右手を左胸に当て、立ち上がった。 胸ポケットの中にある写真の感触を確かめると、小さな声で、呟く。 「……よし、行くか」 波田は黒電話のダイヤルを素早く回した。 「……ああ、課長ですか? 波田です。お……私、まだ有休ありましたよね? すみませんがソレ、今日使います」 と言ったところで、国松の息を呑む気配がした。多分、次の瞬間、怒声が飛ぶだろう。だから、波田は先手を打つ。 「おい──!」 「それじゃ私急ぎますのでっそれではっ」 早口に言い放つと、返事も待たずに受話器を置いた。切れる直前に『クビ』とか聞こえたような気がしたが、無視する。 「さって……いっちょ、海に行きますかっ」 昨晩のうちに用意した荷物を担いで、波田はアパートを出た。駐車場に降り、愛車である白いワゴンに乗り込む。 エンジンを回し、彼は海へ向けて出発した。 走ること数十分。 とある交差点に来たときのことだった。 黒い影が、車の前を横切った。 「んなっ!?」 波田は驚いて、急ブレーキを掛ける。甲高い悲鳴を上げて、車は止まる。 窓から体を乗り出し、波田は横切ったものを確認した。 それは、パジャマ姿の男の子だった。 「危ないだろ!」 男の子に向かって怒鳴る。しかし、彼は聞いていない。こちらに近付いてきて、開口一番、 「ぼくを……海に連れていってください」 と、言った。 「は?」 「…………」 「なんで?」 「…………」 男の子は応えない。ただ俯き、波田の言葉を待っている。 「う、うーん……」 波田は困ったように唸った。いや、実際に困っている。いきなり現れて、海に連れていってくれと言われても困る。しかもパジャマ姿。波田は訝しげに男の子を眺める。 「名前は?」 「お、小沢……水城、です」 「歳は?」 「十歳です……」 「両親は?」 水城は応えない。ばつが悪そうに視線を逸らす。 と、その時。波田の背後でクラクションが鳴った。 「あ、やべっ。えっと……んじゃま、とにかく乗って」 波田の言葉に、水城は頭を上げた。 「え? い、いいんですか?」 「いいからいいから、ほら早く」 慌てて、しかし嬉しそうに助手席に乗り込む水城。波田はそれを確認してから、車を発進させた。 しばらく、無言で車は走る。 やおら、波田は水城に話しかけた。 「家出?」 水城はびくりと体を震わせる。 「……はい」 「だろうなぁ。パジャマで外うろつくなんて、普通しないもんな」 波田は苦笑しながら言う。水城は応えない。俯いている。 「……何で海に行きたいんだぁ?」 波田も運転中のため、視線を向けずに問う。彼に水城の様子はわからない。ぽつり、と水城は呟く。 「……海が、見たいんです」 「なんでまた?」波田は笑った。「いくら何でも、パジャマで出てくるほど慌てること無いじゃないか」 水城は応えない。波田は勝手に話を続ける。 「家は?」 「○○市です」 「……はい? ……俺の記憶に間違いがなかったら、そこってめちゃくちゃ遠くない?」 「遠いと思います」 「じゃあ、何であんな所にいたんだ?」 「……僕、病院に入院していたから……」 「ああ、なるほど。ソレでパジャマ……ってなにぃ!?」 思わず波田は視線を水城に向ける。慌てたのは水城だ。 「お、おじさんっ、前っ前っ!」 「──うわぁっ!?」 すぐさま視線を戻すと、前方に人が。一瞬見た動きによると、ヒッチハイクのようだ。波田は慌てて急ブレーキ。ヒッチハイクしていた女の子をよけて、車は止まる。 「……ふぅ……」波田は安堵の息をついた。 女の子は運転席に方へやってきて、窓を軽く叩く。波田が窓を開けると。 「どうもぉ。乗せてもらえるかな?」 「は?」 「は? じゃなくて。見えてなかったの? あたし、ヒッチハイクしてたの」 「いや、今さっき見えたけど……」 「んじゃ、止まったって事は、乗せてくれるって事よね?」 「いや、ソレとコレとはまた違う話で……」 「じゃあ、どうして止まったのよ?」 「人身事故を起こしそうだったからとはとても言えない……」 「はぁ?」 「い、いや、こっちの話……あ、そうだ。ヒッチハイクって、何処に?」 「海なら何処でもいいわ」 「海……?」 「……? なによ?」 「い、いや……別に」 「で、どう? つれていってくれる?」 「うーん……」 波田は救いを求めるように水城に視線をよこす。しかし、水城は視線を受け止めた途端、俯き、逃げた。波田は溜息1つ。 「……ま、旅は道連れ、世は情け……ってか。いいよ、乗りなよ」 「わぁお、サンキュウ。あたし、大前夏姫。おじさんは?」 「お、おじさん!? ……お兄さんは、波田伸久だ。いいか。お兄さんだぞ」 「はいはい、わかってるわよ、おじさん」 言いながら、夏姫は後部座席に乗り込んだ。 「全然わかってねーだろ……」 ぼやく波田の声は、夏姫には届かない。車に乗り込んだ夏姫は、助手席の水城を見つけ、体を前部座席の間から出し、 「あれ? この子、おじさんの子供?」 「だからおじさんじゃないって。……その子も君と同じ様に、海につれていってくれって言う変な人物」 「変とは失礼ねぇ、おじさん」 「だから、俺はまだ28才だってっ」 「八才も年上じゃない。おじさんよ」 二人の会話をよそに、水城は小さく、 「……僕もさっき、おじさんって呼んじゃったような……」と呟く。 「ね? あたし、大前夏姫。君は?」 俯いている水城に、夏姫はそう声をかけた。 水城はびくりと体を震わせて、顔を紅潮させる。 「あ、あのっ、ぼ、僕、小沢、水城、ですっ……」 「水城君? よろしくね」 と夏姫は笑顔を浮かべ、握手を求める。水城は真っ赤になりながら、その手をおずおずと握った。 「ほら、ちゃんと座っておきなよ? 危ないから」 と、波田が車のエンジンを回し、再び車は発進する。 しばらく、車内は無言。順調に車は進む。 と。 「……あ。それで変な反応だったのね」 「「は?」」 いきなり変なことを口走った夏姫に、波田と水城は変な声をこぼした。 「いや……ほら、さっきあたしが『海につれていって欲しい』って言ったら、おじさん、変な反応したでしょ?」 「ああ、それ?──って、おじさんじゃねーっての」 「で、水城君も海に連れていって欲しいって言ったんでしょ? 道理で……」夏姫は笑う。「そんな変な人がもう一人来たら、そりゃ変な反応も当然よね」 「……はあ……」話を聞かない夏姫に、波田は運転しながら溜息を吐いた。「……あ。そう言えば、えっと……」 「夏姫お姉ちゃんだよ。波田さん」 「あ、そうそう。えっと……なんて呼べばいい?」 「あたし? あたしは夏姫って呼び捨てていいわよ」 「……君は?」波田は水城に問う。 「あ、僕も……」 「そっか。んじゃ、俺も改めて自己紹介しておこうかな。俺は波田伸久。字は波の田んぼに伸びる久しぶり。28才のサラリーマン。有休とって海に向かう途中。ちなみに、呼び方は『おじさん』以外なら何でもOKだから」 「じゃあ、なみへー」夏姫が言った。 「……いや、それもかなり嫌かも……」 3人はどっと笑う。 「じゃ、あたしも改めて。名前は大前夏姫。字は大きい前に、夏のお姫様。年齢不詳の女子大生よ」 「年齢不詳?」水城が首を傾げる。 「おばさんだってこと」笑いながら波田がそう言った。「……あれ? さっき俺の年齢聞いた時『八歳年上』とか言ってなかったっけ?」 このつっこみに夏姫は顔を赤く染め、 「あ、う……ち、ちがうわよっ。えっと……あ、そうそう、呼ぶときは適当でいいわ。夏姫って呼び捨てていいし」 波田は小さく「何が違うんだか」と苦笑した。 「じゃあ……夏姫お姉ちゃん?」水城が聞く。 「あ、それでもいいわ」 「わかった。……ねえ、夏姫お姉ちゃんは何で海に行きたいの?」 「え? あ、いや……それは、その……ひ、秘密」 苦笑いを浮かべる夏姫。 「…………」 水城は呆然と夏姫の顔を見つめる。 波田は運転に集中。耳をこちらに向けているだけ。口を挟まない。 「は、はい、次は水城君っ」 「え? あ、僕? えっと……僕は、小沢、水城です。小さい沢に、水の城って書きます。呼び方は、好きに呼んでください。えっと……10才です。えっと……海が見たいです」 だんだん新学年に上がった頃の小学生がよくやる自己紹介と化していく。 「海が見たいって……見たこと無いの?」夏姫が聞く。 「あ、う、うん……僕、生まれつき体が弱かったから……」 「ふーん……」夏姫は曖昧な相づちを打った。 「──そういえば、何でそんな格好してるの?」 夏姫は水城のパジャマを摘んで、聞いた。 「何でも病院から抜け出してきたらしい──あっ」 今更ながら、波田は先程のことを思い出した。 「びょ、病院から逃げ出して来たぁ!?」 夏姫は素っ頓狂な声を上げた。 「う、うん……」 申し訳なさそうに、膝に視線を落とし、頷く水城。 波田は溜息を一つ。 「……さっきは思わず慌てちまったけど……なんでまた?」 「…………」 「……もしかして、海が見たいから?」 夏姫がそう聞くと、水城はこくんと頷いた。波田と夏姫は、同時に溜息を吐く。 「あ、あっ、でも、大丈夫だよ、誰もお見舞いに来ないし、気づかれないと思うから……」 「海を見たら、おとなしく病院に送り届けられる。……この約束が守れるなら、つれて行ってやる」 車を運転しつつ、強い口調で波田はそう言った。そして、試すような視線を水城に流す。 その瞳を見て、水城は、 「……うんっ」 と、嬉しそうに頷いた。微笑む波田と夏姫。 「よしっ──じゃ、行くかっ」 車は山に近づいていく。山を越えた向こうに、海があるのだ。 話題が無くなり、静かになった車内で、思い出したように夏姫が声を出した。 「──そういえば、おじさんは? 何で海に行くの?」 「…………」 夏姫が声をかけても、波田は返事をしなかった。無視する。 「ねえ?」 「…………」 「……わかったわよ、は・だ・さ・ん」 「なんでしょう、ナツキオネーチャン?」 このやり取りに水城が小さく吹き出した。 「波田さんは、何で海に行くの?」 「……さあ?」 「……何よそれ」 「いや、別に理由は……ないんだ。なんとなく、行こうかな、って思って。今朝、有休とって出てきた」 「え……それって……」 水城が怖々と聞く。その言葉を夏姫が継いだ。 「滅茶苦茶、勝手なんじゃない? いいの? クビになるんじゃない?」 「いーのいーの、あんな会社。いつでも辞めてやるよ」波田は呵々と笑った。 「まだ見つからないのか!?」 夏姫の父──大前雄一は、自室で部下に怒鳴り散らした。 「す、すみません……」 「三日も家を空けて……何処に行ったんだ、アイツは!?」 「そ、それが、海に行くと言って出ていったきり、消息が……」 「警察共は何をしている!?」 「検問をしいているようですが……今のところ、報告は……」 「ええい! 大前の名前を使ってもいいから、もっと人数を使って捜索させろ!」 「は、はいっ!」 慌てて部屋から出ていく部下。一人残った雄一はぼそりと、 「まったく……大前財閥の娘とあろうものが……」 病院の廊下。 「み、水城がいないぃ!? なんですかそりゃぁ!?」 看護婦から話を聞いて、水城の父──晴一朗は素っ頓狂な声を上げた。 「聞いてないですよぉ!? うちの子、何処に行ったんですか!?」 「それがその……私どもが目を離した隙に、病院から出ていったらしくて……」 「出ていったぁ!? なんでどうしてなんですか!?」 「そ、それは、こちらが聞きたいぐらいでありまして……」 「アイツ、自分の体がどうなってるかわかっとんですか!?」 「は、はぁ……知らないはずは……と、とにかく、警察には通報いたしましたので、ロビーにてお待ちください」そう言って看護婦は頭を下げ、晴一朗の前から去っていった。 「な、なんで……なんでなんだ……」呆然と呟く晴一朗であった。 車は山を登り始めた。ゆるゆると蛇行しつつ、車は上へ上へと進む。 と、その時だった。水城の体が小刻みに震え始めたのは。 「……ん? どうした水城?」 「……っ……ぅっ……」 「ちょっと、どうし……水城君!? なに、すごい汗!」言って、夏姫は水城の額に手を当てた。「うわ……すごい熱……」 「風邪か?」 やや固い声で聞く波田。ゆるゆると速度を落とし、道路の端に車を止めた。ハンドルから手を離し、助手席の水城をのぞき込む。 水城は左胸──心臓を押さえて、苦しそうに息を繰り返している。そして、弱々しい声で呟く。 「だ、大丈夫……い、いつもの……発作だから……っ」 「大丈夫って……すごく苦しそうじゃないっ」 「と、とにかく、寝かそう」 波田は運転席から外に出て、フロントを迂回し、助手席のドアを開けた。体を丸めて呻いている水城を抱え、外へ。夏姫も彼の行動を察し、後部座席のドアを開けた。水城を抱いて入ってきた波田は、夏姫が座る座席より更に後ろの座席に、水城を寝かせる。 「大丈夫か?」 訪ねる波田。 「ねぇ……病院につれていった方がいいんじゃない……?」 「あ、ああ……」 頷いた波田の、その手を水城が掴んだ。 「だ、だめっ!……っ!」顔を歪めて、手に力を込める水城。脂汗がひどい。「だめっ……まだ、まだ海見てないのに……」 「だめって……でも、何かあったら、困るだろ?」 諭す波田に、しかし、水城は弱く首を振った。 「いいの……僕、もう……長くないから……」 「「えっ?」」 はっ、はっ、と苦しそうに息を繰り返し、水城は途切れ途切れに喋り始めた。 「ぼ、僕、生まれつき、心臓が、弱かったんだ……、じゅ、十歳まで、生きられないって、お医者さん、いってた……」 「なっ……」 絶句する波田と夏姫。 「ぼ、僕、先月、十歳に……なった、から……だから、もう……先が、無いの……」 「ちょ、ちょっと待ってよぉ……そんな……」 夏姫は泣きそうな声を零す。 「ぼ、僕……ずっと、ずっと思ってたんだ……死ぬ前に……海が、見たいって……ほ、本、読んで……ずっと、あこがれてて……あ、友達のひろくんとも、約束……してたの……で、でも……ひろくん、この間……し、しんじゃっ……」 ひうっ、と妙な声を上げて、びくん、と水城の体が跳ねた。 「水城!?」 「水城君!」 「だ、だから……僕……海に……」 ここまで言って、水城はすっと目を閉じた。 「……し、しんじゃった……?」 夏姫は恐る恐る波田に聞いた。 「……いや、気を失っただけみたいだ……」 小さく首を振りつつ、波田は否定する。 沈黙する。長い間静寂が続き、やおら、 「……行くか、海」波田は言った。 「え?」 「……連れていってあげようぜ、海。……やっぱ、人生、悔いは残したくないだろ?」 「う、うん……それは、そうだけど……」 「じゃ、出発しようか」 「で、でも……いいの? もし……」 「そん時はそん時に考えればいいさ」 運転席に戻り、波田は再び車を発進させる。 水城は夏姫の膝を枕にして、眠っている。 しばらく、車内は無言である。日も暮れ始め、辺りは夕焼け色に染まっている。 夏姫はだんだん眠くなってきて── 気がつくと、辺りは暗くなっていた。眠っていたらしい。 「……あれ?」 呟いて、辺りを見回す。車の中で、膝の上では水城が寝息を立てている。だけど、運転席に、波田の姿がない。 「波田さん?」 呼んでみるが、返事はない。 膝の上では、水城がスー、スー、と安らかな寝息を立てている。 「どこ行ったんだろう……?」 再び辺りを見回すと、フロントガラスの向こうでボンネットが開いていることに気づいた。 「波田さん?」 夏姫は水城を起こさないよう、丁寧に彼の頭をシートに置き、車から出た。車の前に回ると、そこには顔中を黒い油で汚した波田の姿があった。 「波田さん? ちょっ──なにやってんの?」 「見てわかんない? 修理してんだよ」 「修理?」 波田はボンネットの中に上半身を入れて、なにやらガチャガチャといじる。 「壊れたみたいだ、このぽんこつ」 「う、嘘っ!?」 「こんな嘘つくほど、暇じゃないんだな、コレが。……ふー、やれやれ……」 言って、波田は上半身を出してくる。 「うーん……ガソリンスタンドが頂上にあるだろうから、押していこうか?」 「え?」 「悪いけど、キミは運転席に座って、ハンドルを切ってもらえるかな? 大丈夫、ゆっくりだから、簡単に曲がれるよ」 「え、ええっ!? 嘘、マジ!?」 「いやだから、そんな事言っている程、暇じゃないんだってば」 波田は苦笑する。 言われた通り夏姫は運転席に乗り込み、波田は車を後ろから押し始めた。 ゆっくりゆっくり、車はグネグネとうねる道を上っていく。 「ね、ねえ? 本当に手伝わなくていいの?」 夏姫は窓から頭を出して、後ろに声をかけた。 「だーかーらー、ハンドル切らないと、曲がれないだろー?」 そして、力を込めていることがわかる、波田の声が返ってきた。 「そりゃそうだけど……」 「いいから、ほら、前見て、前。水城に早く海、見せてあげたいんだから」 波田の何気ない言葉に、夏姫は、はっ、と表情を変え、 「う、うん……が、がんばってね!」 「あいよーっ!」 しばらく押し続けて、ようやく、頂上の辺り──ガソリンスタンドの光が見えてきた。 辺りは暗く、もう夜中だ。 「おおー……もう少しだぁ」 肩で息を繰り返し、力のない声で言いつつ、波田は車を押す。 ばん、と運転席のドアが開き、夏姫が飛び出してくる。 「あたし、ガソリンスタンドの人、呼んでくるね!」 言うが早いか、彼女は走り出した。波田はその背に力無い声をかける。 「た、たのんだぞぉー……」 二人はガソリンスタンドの店員に手伝ってもらいつつ、車を駐車場に入れ、修理を依頼した。車は運良く、部品を交換すれば、また走るようになるらしい。 「車が直るまで、ここでしばらく休憩して、3時頃、出発するか」 波田は車を出て、下界を見下ろせる展望台にいた。柵に腰掛けて、片手にコーラの缶を持っている。その隣には、アクエリアスを持った夏姫が座っている。水城は車の中だ。 「……ったく、海行くのにどれだけ時間かけてるんだろーね、あたし達」 夏姫は苦笑し、アクエリアスを一口。 「夜中に出発するから、多分、夜明けまでにはつくと思うけど……」 「……朝の海……かぁ……」 「ん?」 妙に懐かしそうな声で言う夏姫に、波田は怪訝な表情を浮かべた。 「……ううん……あのね……あたしね……」 夏姫はぽつりぽつりと語りだした。 「実は、お嬢様なんだ……知ってる? 大前財閥」 「大前財閥って、うちの会社、その系列だけど……って、はい?」 「え?」 「い、今、お嬢様、とか言わなかったか?」 「うん、言ったわよ」 「……まさか……」 「うん、そのまさか」夏姫は笑い、続ける「恐れ多くも、あたし、大前財閥の総帥、大前雄一の一人娘なの」 「な、なんだってぇ!?」 「そんなに驚いた?」 「お、驚くも何も……な、なんでだよ!? それなら、海行こうと思えば、いつでも行けるじゃないか!」 「うん……まあ、そうなんだけどね……」夏姫は自嘲気味に笑う。「……それでね、あたし……高校生の頃、彼氏とよく海行ってたの」 「お、おう……」 「……でもね……」ここで、あは、と笑い「彼氏、死んじゃったー、あはははっ」 「……へっ?」 「朝の海でさぁ……気がついたら、浮かんでたの……足がつって、溺死だって」 「…………」 「んでさぁ、朝っぱら泳ごうって誘ったの、あたしなんだよねー、いやぁ、まいったまいったー」 明るい声だが、明らかに元気がない。まるで、今にも泣き出しそうだ。夏姫は、溜息を一つ吐き。 「……だからね……海、行けなかった……ううん……行きたくなかった……すごく嫌な気分になるから……」 「……そりゃぁなぁ……」 ぼそりと相槌を打つ波田。 「……でもね……そろそろ、カタ、つけようと思ってさ」 「かた?」 「うん。そろそろ、忘れないと行けないかなー、なんて」 「……そうか?」 「そう。だって……そうじゃないと、あたし、いつまで経っても前に進めないから。ずっと、アイツのことばかり、考えちゃうから」 「…………」 「吹っ切るの。そのために、海に行くの」 「……そっか」 沈黙。 そして、また夏姫が切り出した。 「波田さんは?」 「えっ?」 「波田さんが海に行く理由」 「俺?」波田は苦笑。「俺はさっき言ったとおりだよ。行きたいなって思ったから、有休とって車だしたんだよ」 「なんで?」 「へっ?」 「なんで、海に行きたいな、って思ったの?」 「…………」 「なんかあるでしょ? 死ぬ前に海が見たいとか、自分の気持ちにケリつけたいとか、ナンパしたいとか」 「ナンパなんかしないって」波田は軽く笑う。「そうだなぁ……まあ、君と似たり寄ったり、かな」 「え?」 「あー……つまりだなぁ……何というか……その……」 「……?」 「……別れた妻と、よく行っていたんだ、海」 「えっ……」 「昨日さ、ひょんな事からアルバム開いてさ、眺めてたら……急に、海が見たくなって」 「…………」 「んー……まあ、それだけ、かな。流石に、君たちほど重いものは背負ってない。後は……そうだなぁ……仕事が面倒くさくなった、とか」 波田はそう言って、あははは、と笑う。夏姫はそんな彼を、じぃっ、と見つめている。 「……結婚、してたんだぁ……意外」 「意外って……俺、そんなにもてなさそう?」 「うん。とゆーか、女に声かける度胸がなさそう」 「をいをい……」 苦笑する波田に、夏姫は、あは、と笑う。 「ん……まあ、そう言うところ、あるかも。俺、よく仕事でポカするし」 「へぇ……そうなんだ?」 「まぁね。……好きで間抜けやってんじゃないんだけどねー」 愚痴っぽくならないよう、笑いながら波田は言った。 「そう……だよねぇ……、好きで、不幸になる人なんかいないみたいにねぇ……」 「……そうだなぁ」 二人は何時しか夜空を見上げていた。だんだん声は小さくなり、呟くような調子になっている。 しばし、沈黙。 「……海、楽しみだね」 夏姫が呟いた。 「……ああ」 大前雄一の部屋。部下が走り込んでくる。 「夏姫お嬢様の情報が入りました!」 「なんだと!?」 椅子から立ち上がる雄一。 「海から帰る途中、山の上でそれらしい人を見たとのことです!」 聞きつつ、上着を手に取り、羽織る。 「車を出せ! わしも出るぞ!」 「は、はい!」 病院のロビー。看護婦が、小沢晴一朗と会話中。突然、晴一朗が立ち上がり、 「本当ですか!?」 「え、ええ……警察の方がそう言っておりましたが……」 「何で山の中で水城を見かけるんですかぁ!?」 「わ、わたしに言われても……」 「──俺、そこに行ってきます!」 「えっ?」 背を向け、ずんずんと歩き出す晴一朗。ぐるりと首だけを看護婦に向け、 「あっちですよね!? あっちの山ですよね!? 確か海の方の!?」 「え? あ、お、小沢さん!?」 制止する看護婦を無視。晴一朗は前を向き。 「自分の息子ぐらい、自分で迎えに行きます!!」 車は、まだ暗い山道を走っていた。 「……ねえ」 夏姫は背後から波田に声をかけた。水城はその膝の上で寝ている。 「ん?」 「あのさ……なんか、嫌な予感がするんだけど……」 「そうか?」 「うん……、だって、あたしのお父さん、そろそろ捜索願い出すだろうし、警察とか……」 「大丈夫だろう? そんなにすぐ見つかんないって」 「そうかなぁ……?」 「そうそう、大丈夫だいじょう──ぶじゃないな、やっぱり」 「えっ?」 夏姫が前を見ると、暗がりに浮かぶ、無数の赤い光。まるで立ちはだかるように、赤い光が瞬いている。 「あ、あれって……」 「警察以外の何に見える?」 「ど、どうしよう……」 「どうしようたって……国家権力には逆らえないだろ」 「でも、海までもう少しなのに……」 「…………」 波田は押し黙り、ゆっくりと減速。車を止めた。 「……波田、さん?」 「……水城、起こしてみて」 「え?」 「早く」 「あ、う、うん……水城君、水城君」 優しく水城の体を揺する。 「ん……?」 「あ、起きた?」 「夏姫お姉ちゃん……あれ……? ここ、何処?」 「海までもう少しって所だ」 「ほ、本当!?」 「ああ。後……多分、一キロぐらいかな? 暗くて見えないけど……太陽が出てたら、海が見えててもおかしくない所」 「あ、そうなの?」 夏姫が不可思議そうに聞いた。しかし、いくら目を凝らしても、海らしきモノは見えない。 「俺の記憶が正しければ、だけど」 「……? 何で車止まってるの?」 これまた不可思議そうに聞く水城。 「警察が海の前で検問やってるんだよ」 「検問?」 「まあ……多分、夏姫と水城を探しに来てるんだろうなぁ」 二人は同時に息を呑んだ。そして、沈黙が流れる。しばらくして、波田はハンドルに両腕を載せ、 「……なぁんかさ、俺、すごく海がみたいんだよな……」 つぶやき声で、沈黙を破った。夏姫と水城は何も言わない。 「……でも、君たちの方がもっと……海見たいんだろうなぁ……」 何も言わないと思われた二人だが、しかし、彼らは頷いた。 「うん。もちのろんよ」 「僕、絶対海が見たい」 波田は驚いた顔をして、次いで、笑った。 「正直だな」 「だって、明日……というか今日、アイツの命日に海に行かないと、あたし絶対後悔するもん」 「僕も、海見ないまま……死にたくない」 「…………」 波田は視線を動かさない。じっ、とガラスの向こうの赤い光を眺めている。 「……よし」 波田はキーを回してエンジンをかけた。 「ギリギリまで車で行くから、そこで君たちは車を降りて、海に行け。ちょっと危ないけど、道の横に出れば、検問を迂回して海に行けると思う」 「……おじさんは?」 「いや、だからおじさんじゃないって」水城の言葉に波田は苦笑。「俺は、そのまま検問を通る。大丈夫、俺だけなら何とかなるよ。それに、まだ君たちを捜していると決まった分けじゃないし」 そう言って車を発進させる。 「……あれ?」 波田は素っ頓狂な声を上げた。 「どうしたの……って、なんか、近づいてきてない?」 赤い光を指して聞く夏姫。そう。警察がこちらに向かってきているのだ。次の瞬間、マイクで増幅された声が轟いた。 『見つけたぞ、誘拐犯!』 「……はい?」 変な声を零す波田。ちょうど車は山を下り、広い路面に出た。そして、その周囲をパトカーが包囲する。 「ゆ、誘拐犯……? 俺が? 嘘?」 「……なんか、すごく誤解されてるみたいよ?」 「お、おじさん、どうするの……?」 「ど、どうするたって、説明するしか……」 と、波田の声を遮るような怒声が響いた。 「何をしておる夏姫!」 「水城ぃ! 無事かぁ!? お父さんだぞーー!!」 この二つの怒声に、夏姫と水城は 「「お、お父さん!」」 と叫んだ。 『犯人に告ぐ! 今すぐ人質を解放し、両手を頭の後ろで組んで、車を降りなさい! 繰り返す! 今すぐ人質を解放し、両手を頭の後ろで組んで、車を降りなさい! 従わない場合は、実力行使に出る!』 三人は各々顔を見合わせ、やがて、車を降りる。 「す、すみません! 誤解なんですよ! 話を聞いてください!」 と、波田が両手を頭の後ろで組み、マイクを持った男に言ったが、相手は聞いていなかったようだ。 「逮捕しろーーーー!!」 十数人の警察官が一斉に波田に掴みかかった。 「なっ!? ちょっ、うそっ!?」 「波田さん!?」 「おじさん!?」 大人数にもみくちゃにされ、波田はあっという間に押さえ込まれてしまった。 「夏姫!」 「お、お父さん……」 雄一がつかつかと夏姫に歩み寄る。そして、ぱぁん、と夏姫の頬をはたいた。 「この放浪娘が! 恥をかかせおって!」 夏姫は叩かれた頬を押さえ、きっ、と雄一を睨み付ける。そして、泣きそうな声で叫ぶ。 「……なによ! お父さんなんかに何がわかるのよ! あたしはただ海を見に来ただけ! 何が悪いのよ!」 「ふざけるな! 親に何も言わずに出ていく奴がいるか!」 「言わなかったんじゃないわよ! 言えなかったの! 仕事だって言って人の電話もろくに取らなかったくせに、何いってんのよ! バカ!」 「な、なんだと!? 親に向かってバカとは何だ!!」 「バカだからバカだっていったのよ! お父さんなんか大嫌い!」 「この……バカもの!」 「……ふんっ」 そっぽを向く夏姫。雄一はその手をむんずと掴み。 「さ、帰るぞ! 私も暇じゃないんだ!」 「やっ……いやっ! 離してよっ!」 「うるさい! 車を待たせている、行くぞ!」 ズルズルと夏姫を引く雄一。 「嫌だって言ってるでしょ、もうっ!」 「水城!」 「お父さん!」 走りより、水城に抱きつく晴一朗。 「心配したぞぉ……ダメじゃないか! 病院抜け出すなんて。体がこれ以上悪くなったらどうするんだ!?」 「……でも」 「でももかかしもない! とにかく、すぐ病院に帰るぞ! きなさい!」 水城の手を引いて、歩き出す晴一朗。 「あっ……ま、まって! ちょっと待ってお父さん!」 「なんだ?」 「ぼ、僕、海、みたい……」 晴一朗は溜息を吐いた。 「こんな時に何を……そんなのはまた今度だ! さ、早く帰るぞ!」 「い、いやだ! 嫌だよ! もう少しなの! もう少しで海に着くの!」 「いいから、ほら!」 「一度でいいから見たいの! だから頼んでつれてきてもらったのに!」 「くどいぞ、水城!」 「いやだぁぁぁぁぁぁぁっ!!」 「いい加減にしろよ!!」 その怒声に、その場にいた全員が動きを止めた。 声の主は、手錠をかけられ、パトカーに乗せられる寸前だった波田だ。 辺りは少し白くなりつつある。夜明けが近い。 波田はゆっくりと辺りを睨め付け、 「あんたら、子供がそんなに一生懸命に言ってんだぞ!? 少しは聞いてやれよ!! 叶えてやればいいじゃないか! 見せてやればいいじゃないか! たかが海を見るだけじゃないか! それを……それを話も聞かずに押しつけて! それでも大人かよ!? ……確かに勝手に抜け出してきたのは悪いことだ! だけど……だけどな……それぐらい本気だって事ぐらい、少し考えればわかるだろ!?」 「波田さん……」 「おじさん……」 波田は警察が動かないのを見て、走り出した。そして、雄一に体当たりをする。 「うおっ!?」 衝撃で雄一は夏姫の手を離し、転ける。波田は今度は晴一朗に体当たり。 「のわぁ!?」 同じく水城の手を離し倒れる晴一朗。 波田が二人に向かって叫ぶ。 「行け! 行って海見てこい!! 満足してこい! 自分の気持ちにカタつけてこい!」 「あ……で、でも……」 夏姫がとまどうように呟く。 「いいから行ってこい! 早く!!」 「き、きさま、何を勝手なことを……」 雄一が立ち上がり、波田の肩に手を置いた。 「うるさい!」波田はその手を振り払い。「少しは子供の我が儘も聞いてやれよこのタコ!」 「た、タコだとぉ!?」 「タコじゃなかったらバカだ! 少しは子供の気持ちも考えてやれよ!」 「貴様ぁ、言わせおけば勝手なことをっ!」 「そ、そうだ、あんた、何様のつもりだ!」 晴一朗も立ち上がり、雄一とそろって、波田につかみかかる。 「そっちこそ何様のつもりだ! 子供は親の道具じゃないんだぞ!!」 波田は吼え、必死に抵抗する。 乱戦が巻き起こった。 「ほら、二人とも早く行け!!」 手錠をかけられた両腕を振り回して、波田は水城と夏姫に向かって叫ぶ。二人は声をそろえ、 「「あ、ありがとう!」」 そして、走り出した。 海へと。 生まれて初めて見た海は、暗くて、臭くて、汚かった。 水城は呟く。 「何これ……本と違うよ? 海って、青くて、綺麗じゃないの? 海って、大きくて、楽しくて……なんで? なんで? なんで? ……なんか……さびしいよ……」 「そ、だね……寂しいね……」 夏姫はじっと海を見つめている。 「ほんと……いろんな意味で、寂しいよね……」 しばらくの間、二人は、ただただ、海を見続けた。 「……海はどうだ?」 振り返ると、警察に脇を固められた波田がいた。顔にいくつか痣がある。 「おじさん?」 「波田さん……」 「結局、つかまっちまった」波田は苦笑。「でもま、親父さん達は気を失っているから、好きなだけ海見ろよ」 水城はうつむく。 「でも……」 「まーまー、待てよ。君が見るべき海は、『これ』じゃない」 「え?」 両脇の警官に軽く会釈し、波田は水城に近づき、手錠をはめられたままの両手で、少年を持ち上げた。肩に担ぎ、海に向ける。 「時間的にはもうすぐだと思うんだけどな」 「え?」 水城が海を見た瞬間だった。日が、昇った。日の出である。ゆっくりと、海が輝き出す。 「あ……」 「夜明けだよ……綺麗だろ?」 水城は惚けたように 「うん……」 と頷いた。 「俺もこれが好きでなぁ……よく、アイツと見たよ」 「アイツって……奥さんのこと?」 隣に立つ夏姫が聞いた。 「ああ。……今となっちゃ、いい思い出だけど」 波田はそう言って苦笑。そして、夏姫も苦笑して 「そうそう。思い出思い出。つらいことは全部忘れましょーっ」 と言った。次いで、あは、と笑う。 笑い声はだんだん大きくなり、波田が混じり、水城も混ざり──そして、三人で大声で笑った。 夏姫の部屋。侍女が夏姫を呼ぶ。 「お嬢様、お手紙が届いております」 「え? 誰からだろ」 「えぇ……波田、伸久、様からとなっていますね」 「波田さんから!?」 侍女の手から手紙をひったくる夏姫。 「ありがとう」 夏姫が礼を言うと、侍女は黙って頭を下げ、引いていった。もどかしそうに、夏姫は手紙の封を切る。 「前略、大前夏姫様へ。 元気ですか? 俺は元気です。 一年前はありがとう。君と水城の証言のおかげで、刑務所入りしなくてすんだよ。 あの時、御礼を言えなかったから、ここで言っておくよ。ありがとう。 あ、そうそう、親父さんにも、殴って悪かった、と言っておいて。流石に気絶するまで殴ったのはやりすぎたよ。 そういえば、水城の手術、うまくいったらしい。外国から凄腕の医者を呼んできたらしいんだ。あ、そう言えば、言ってなかったっけ。俺と水城は、あの時以来、文通しているんだ。 そっちの調子はどうかな? ちゃんと学校に行っている? 俺? 俺は前勤めていた会社(君の会社の系列のね)を辞めて、知り合いが最近起こした会社に就職した。まだ、社員が3人しかいないけど、それだけにやることが多くて、充実しているよ。 閑話休題。 そろそろ夏だね。最近、また海に行きたいな、なんて事を考えてるんだ。 というわけで、ここでお誘い。 海に行きませんか? もちろん、あの時の三人で。 返事、待ってます」 読み終えて、夏姫は、ふぅ、と息をついた。 「……ふふっ」 笑う。 「ふふふふふっ……あはははっ、あっはっはっはっ」 だんだん声を大きくして、笑う。 部屋の窓を開け、背筋を伸ばし、両手を広げて、 「うんっ!」 そして叫んだ。 「海へ行こう!」 〜FIN〜 |
あとがき |