白い雪がしんしんと降る、そんな朝の事だった。
「──くしっ!」
雪の積もった道を歩く途中、長沢一郎太は少し立ち止まってくしゃみを出し
た。季節は冬。ちょうど風邪にかかりやすい時期である。
一郎太は、住宅街の家と家の間にある道を歩いていた。歩く度に、サクッ、
と積もった雪が音をたてる。他に足跡は無く、真っ白な雪に最初の跡を付けるの
が自分かと思うと、少し嬉しくなるものだ。
黒い詰め襟学生服に、右肩に背負ったリュックサック。それに昇りかけてい
る太陽から、彼が学校に登校する途中だということは明白だった。
「くぅぅぅ……寒いぃぃ……」
この道でこの台詞を言ったのは、これでもう何回目だろうか。小学校の時も
、中学校の時も、そして今通っている高校も、全てこの道を通らないと行けない
のだ。ここいらの風景は、もう忘れようにも忘れられなくなっている。
「早く学校に行ってストーブに当たろっと」
自分の腕で自分の身体を抱きながら、歩行速度を速めた。サクサクッ、と足
跡がテンポよく雪道に刻まれていく。
と、十歩ほど行った時だ。
いきなり一歩手前の雪が、空に向かって5メートル近く噴き上がった。
「でわぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁっ!?」
当然の如く、一郎太は奇妙な悲鳴を上げながら後ろへ飛び退った。尻餅をつ
き、そして背中が付きそうになるのを両肘で支える。じわっ、と背中に冷たいも
のを感じたが、今はそれどころではなかった。
「ななななななな、なぁんななな、なんだあっ!?」
訳が分からず、大きな声で疑問を叫ぶ。しかし答えるものは何も無い。
不意に、噴き出している雪が止まった。
遅れて、重力の力に負けた雪達が空から降ってきた。咄嗟に背を向ける。
「冷っ!? 痛っ!? ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああ!?」
馬の糞程の大きさで襲ってくる多数の雪塊に、一郎太はなす術もなく直撃を
受けた。
「うぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああっ!?」
雪が少しずつ一郎太の姿を隠していく。
やがて雪塊の強襲は次第に弱まっていき、最後の一個が、
「ぐえっ!」
一郎太の頭に直撃すると、雪玉の雨はそれで終わった。
「はぅぅぅぅぅ……」
突然の雪玉強襲を受けた一郎太は、半分雪に埋まったまま情けない呻き声を
出した。
「──あ、あのぉ……」
「ん?」
その時、一郎太の足元の方から、女性のものと思える声が聞こえてきた。
(見られた!? 今の情けない姿を!?)
と思って、身体をうつ伏せから仰向けに変えて、足元の方を見やる。
「だ、大丈夫ですかぁ?」
視線の先に、見慣れない可愛らしい少女の顔があった。
一郎太は言葉を失った。
サラサラと艶のある美しい黒髪。まるで宇宙を内包しているかのような大き
な瞳。そして、身に纏っている白い奇妙な服。
その髪の美しさと服の奇妙さとのギャップは、一郎太の頭を真っ白にするに
は十分すぎた。
そして、次に驚く。
少女が立っている場所は、先程雪が噴き上がった場所の中心だった。
(……どういう事?)
少女の服は、和服に似ている。ゆったりとしていて、着心地は良さそうだが
、運動に向いているようには見えない。足元まで隠す白い着物の様な物を、青い
帯でキュッと締めた感じだ。一郎太には見慣れない服である。
少女が一郎太の身体を、右から小走りに迂回して、頭の上まで来た。
「あ、あの、私、ちょっとタイミング間違えて……ご、ごめんなさいっ」
ばつが悪そうな顔でおろおろした後、慌てた様子で雪の上に寝転がっている
一郎太に向かって頭を下げる。頭を下げすぎたため、腰まで伸びた髪が振り回さ
れた。それが一郎太の顔に当たって、バチッ、と痛そうな音を出す。
「…………き、君、誰?」
少しチクチクしたようなヒリヒリしたような感じのする顔を撫でながら、一
郎太は頭を上げた少女に聞いた。
「はい。私、吹雪の巫女の雪菜といいます」
「……は?」
満面の笑みを浮かべた少女の答えが、一郎太には理解できず、思わずとぼけ
た声をこぼす。そんな一郎太に、少女は視線を中空にさまよわせながら、うーん
、と唸った。どうやら悩んでいるらしい。
そして、ぽんっ、と左手の平を右手で叩いて再び満面の笑みを浮かべながら
言った。
「こちらで言うところの『雪女』っていう奴なんです」
目が、点になった。
「……はいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいぃっ!?」
雪の降る朝の街に、一郎太の声が大きく響きわたった。
◎
「つ、つまり……君は<球地>っていう所から来たわけだね」
「はい。そうなんです」
一郎太の呆れた口調の問いに、雪菜と名乗った少女は、にっこりと笑顔で返
した。
ここは一郎太の家のリビング。分厚いコートを着た一郎太は、電源の入って
いないコタツの中に入り、雪菜はその向かいに正座して真っ直ぐに一郎太を見つ
めていた。家の窓という窓は、白い霜が張り付いて外の様子が見えなくなってい
る。
(そ、それにしても……)
正確には電源を入れることが出来ないコタツに両手両足を突っ込み、
(すんごく寒いぃぃぃぃぃぃ……本気で死ぬ……)
ガタガタ震えながら、冗談抜きで思った。
「どうしたんですか?」
皮肉かそうでないのか、この尋常でない寒さの原因は、不可思議そうな目で
一郎太を見ている。
「き……君って本当にゆ、雪女なんだね……」
「はい。そうなんです」
薄紫に染まった唇を震わせた一郎太だが、雪菜はその言葉に嬉しそうな響き
で答えた。
ただいま九時三五分。なのに何故、一郎太が家にいるのか。
答は簡単。
さぼったのである。
雪女が現れたのだ。人類にとって数少ない未知との遭遇である。このような
素晴らしいチャンスを逃す手は他にあるまい。学校に行っている場合ではなかっ
た。
ちなみに、ここに来るまでにこんな会話があった。
「ゆ、雪女……?」
「はい」
「……冗談でしょ?」
「いいえ」
「…………」
「……?」
「…………」
「……どうしたんですか?」
「…………じゃ、僕はこれでっ」
「はい」
「…………」
「……?」
「…………」
「あの……、どこかに行くんじゃないんですか?」
「え? あ、いや。……き、君、今から暇かな?」
「はい。そうですが」
とまぁ、このような成り行きで、一郎太は少女を家まで連れてきたのであっ
た。
「──で、ど、どうしてこ、こに来た……の?」
あまりに寒すぎて、うまく言葉が紡げない。ふと視線をコタツの上に向ける
と、一枚の紙切れと鉛筆が置かれていた。紙切れには『長沢一郎太』という漢字
と『雪菜』という漢字が書かれている。これは自己紹介の時に使ったものだ。ど
ちらも、一郎太の筆跡である。
「修行です」
「修、行?」
聞き慣れない言葉をオウム返しする。ちなみに、二人の前に置かれているカ
ップの中のコーヒーは、冷めるのを通り越して凍り付いていた。
「はい。和歌菜お姉さまが修行をするなら<異世界>がいいと言われたので」
全く持って、よく分からない話だった。雪菜にはどうやら和歌菜という姉が
いるらしい。そして<異世界>というのは地球のことだろう。しかし、『修行に
いい』とは一体どういう意味だろうか。
「ふ、ふぅん……」
だが、一郎太は曖昧に返事しただけだった。産まれた疑問をぶつけるよりも
先に、この寒さを何とかせねば。このままでは凍え死んでしまうかもしれない。
一郎太がどうしたものかとガタガタ震えていると。
「──あ、あのぉ?」
雪菜が少し控えめに声をかけてきた。
「ん? 何?」
震える声で聞き返す。
「もしかして……寒いのですか?」
見てわからない、と一郎太は言いかけた。が、思いとどまる。
わからないから聞いたに決まってる。特にこの雪女の少女はなんと言っても
、<異世界>から来たのだ。多分、ここではわからないことだらけであろう。
「う、うん。……すんごく寒い」
何度も大きく縦に頭を振りながら一郎太は言う。この部屋はもはや南極をも
越えているのでは無かろうか。死にそうだ。
「やっぱり……、すみません、ちょっとまっててくださいね」
(やっぱり、ってどういう事……?)
疑問に満ちた目で一郎太が見ている中で、雪菜は目をつぶり、顔の前で合掌
した。
雪菜の小さな唇から、聞いたことのない言語が朗々と漏れ出てきた。何を言
っているかわからないが、何処となしに『呪文』といった感じがする。
やがて、雪菜の口の動きが止まった。
すると。
「……あ、あれ?」
急に暖かくなってきた。先程の寒さが嘘だったように引いていく。
「暖かい……」
どこから来たのかこの不思議な暖かさは、窓の霜を払い、凍ったコーヒーを
溶かし、冷たかった一郎太の体を優しく包み込んだ。
「あの、申し訳ありませんでした。先程から寒いのかなぁ、とは思っていたん
ですが、なにぶん聞く機会がなかったもので……」
思いっきり、ものすごくそんな機会はあったと思う。
そんな心の声をしかし、一郎太は無理矢理飲み込んだ。彼女には彼女なりの
事情があったのだと『思いたい』し、初対面ならではの遠慮というものである。
「あ、いや、気にしないで」
どうにか動くようになった手を振って、一郎太は広い心でもって雪菜を許し
てあげる。というより、何もわざとやっていたわけでは無いのだから、責めるの
も人情に欠けるというものだ。
「──でも……優しいんですね」
「えっ?」
仄かに頬を染めながら言われた言葉に、一郎太の動悸が何故か早くなった。
見ると雪菜は少し俯いて、十本の指をもじもじ動かしている。
「その……私を気遣ってくれていたんですよね? こたつを点けていなかった
のは……」
ちら、と雪菜は一郎太を伺い見る。一郎太は早鐘を打つ心臓を沈めるのに必
死で、雪菜がこちらを見ていることに気付いていなかった。
「あ、いや、その、何というか……あれ?」
照れている一郎太は何やらごまかそうとして、とある事に気が付いた。
「何でこたつの事知ってるの?」
そうである。一郎太が寒がっている事にさえ確信できなかった雪菜がだ、何
故こたつがなんであるかを知っているのだろうか。
一郎太の疑問に、雪菜は顔を少し朱に染めたまま答えてくれた。
「和歌菜お姉さまが、<異世界>に行くのなら私たちの弱点だけは絶対に知っ
ておきなさい、と言っていたものですから」
ほほぉ、と一郎太は唸った。
(なるほど。雪女は熱に弱いって話だから、熱い物を調べておいたんだな。そ
れでこたつを知ってたのか)
心の中でそう納得する。
「それで私は和歌菜お姉さまが言われることを全て覚えてきましたので、一目
見てこれがこたつだと分かったんです」
言い終えた雪菜の顔はもう赤くなかった。どうやらあの頬の紅潮は『優しい
』という言葉を異性に使う気恥ずかしさから来ていたらしい。
「ふぅん、そっか。……それで? 修行ってどんな事するの?」
納得して、さらに問う一郎太。
と、その質問に対して雪菜の顔が引き締まった。
「……申し訳ありません。それは言ってはいけないと、和歌菜お姉さまが仰っ
ていましたから、言うことは出来ないんです」
急に真剣な顔をして言われたものだから、一郎太は少し驚いてしまった。
「そ、そう……ごめん」
つい習性で謝ってしまう。真剣な顔でこういう事を言われてしまうと、何と
なく謝りたくなるのは一郎太だけだろうか。
「いえ、一郎太さんが悪いわけでは……すみません」
と、雪菜もまた謝った。
「いや、それは──」
また謝りたくなった。こうなるともう謝り合戦になってしまう。一郎太は黙
り込み、何も言わないようにした。
「…………」
一郎太が何も言わないと、雪菜も黙り込んでしまった。
「…………」
お互い、沈黙が続く。気まずい空気が流れだした。
……静寂。
…………静寂。
やがて、二人同時に口を開いた。
「「あ、あのっ──」」
そして、二人同時にピタリと硬直する。
「──ど、どうぞ……」
先手を打てたのは一郎太だ。さすがに自分の家にいるだけあって、回復力は
並ではない。
「あ、はい。……実は、一郎太さんに折り入ってお願いがあるんです」
言いながら雪菜は姿勢を正した。前に手をついて一歩分ぐらい後ろに下がる
。
(……何だろ? 折り入ってお願いがあるってのは)
思いつつコーヒーの入ったカップに手を伸ばし、中の液体に口を付ける。先
程凍っていたコーヒーは溶けていたが、ぬるかった。熱くもなく冷たくもない。
どうせなら冷たいアイスコーヒーみたくなっていればよかったものの、こんな中
途半端なコーヒーは、ただただまずいだけである。
(……最悪の味だ)
一郎太がそんな風に苦そうな顔をしていると、やおら、雪菜が深く頭を下げ
た。それはもう額が下に敷いてある絨毯と触れる程に。
「私をこの家に置いてください」
「ぶはっ!」
一郎太はコーヒーを勢いよく噴き出した。
盛大に黒い液体が飛び散る。噴き出す寸前に横を向いたので雪菜に被害はな
かったが、カップを口元に持ってきたままだったので、発射されたコーヒーは容
赦なく一郎太の顔を濡らした。
「…………」
まるで時間が止まったようであった。
一郎太はカップを口につけて、横を向いたまま硬直している。
雪菜は額を絨毯に付けたまま固まっている。
ただ、少年の髪を伝って滴り落ちる黒い雫だけが、その存在を主張していた
。
しばらくして、一郎太がカップをこたつの上へ静かに置いた。
その目は閉じられている。まるで何も見たくない、と言いたげに。その手は
動かないのか、接着剤を塗ったかの様に、カップから離れていなかった。
恐る恐る雪菜が少し顔を上げて、上目遣いに一郎太の様子を探る。彼はカッ
プをこたつの上に置いた体勢のまま固まっていた。
「……だめでしょうか?」
雪菜の言葉に一郎太は答えなかった。
(……どうしよう……?)
当たり前というか何というか。これが一郎太の正直な感想であった。
なんと都合の悪いことか、この家には一郎太以外に父や母が住んでいる。そ
こらの漫画や小説のように『ちょうどよく両親とは別居中』という状態ではない
のだ。世の中、ご都合主義は罷り通らないものである。
よって、そうやすやすと返事をして、両親に文句を言われるのは勘弁したい
ところだ。しかしだからといって、ここまで頭を下げている雪菜に良くない返事
をするのは心が痛い。
「……あのぉ?」
いやいや、いくら雪女とはいえ若い女の子を自分と同じ一つ屋根の下に置く
というのはどうしたことか。一郎太は自分の理性を信じているつもりだが、万が
一、ということもある。
「もしもし?」
だが、雪菜を放り出すわけにも行かない。雪女という貴重な存在であり、美
少女だ。そして何よりも『可哀想だ』という情が働く。
「一郎太さん……?」
ああ、だがしかし。悩む、悩む、悩む。
そして出た結果とは。
「……前向きに善処させていただきます」
「はい?」
訳の分からぬ、どこぞの政治家のような文句を吐いた一郎太に、雪菜は顔に
疑問符を浮かべるしかなかった。
◎
翌日の朝。
再び雪が降り出しそうな曇天の下、一郎太は雪菜と出会ったあの道を歩いて
いた。
雪女と名乗る少女を連れて。
(いつから僕の両親はあんなに大らかになったのだろうか……?)
一郎太はそう思わずにはいられなかった。
昨日の晩、一郎太の両親が仕事とパートから帰ってきた頃合を見計らって、
雪菜を紹介し、事情を説明したのだが。
(まさかあんな簡単に承諾するとは……)
返事は一瞬だった。
「ほお、可愛いお嫁さんじゃないか。いいぞ。大歓迎だ」
本当に一瞬だった。
その後は永遠のようであったが。
サクッ、サクッ、と雪の上に足跡を残しながら一郎太は歩を進める。
聞くところによると、この雪は雪菜がこちらの世界に来た時の影響で降って
いるらしい。流石は雪女、とでも言うべきだろうか。
「あのぉ、一郎太さん?」
一郎太の後ろをトコトコとついてきていた雪菜が、前を歩く一郎太を呼んだ
。
「え?」
一郎太は歩きながら首を回して後ろを振り返る。
「一体、何処に行くんですか?」
やはりというか何というか。雪菜は一郎太が学生服を着て一緒に歩いている
というのに、何も分かっていないようであった。
「えっとね……学校、っていう所なんだ」
分かるかなぁ、と少し危惧しつつ、雪菜に説明する。
「学校、ですか?」
雪菜はキョトンとした。
(嗚呼、やっぱり……)
一郎太が心の中で号泣した時だ。
「ソーサラーズアカデミーの様な物ですか?」
しばし、うーん、と唸ってから、雪菜が聞いた。
あまりにあっさりと、聞き慣れない言葉を聞かされた一郎太は思わず、
「あ、うん、そんな物だね」
と答えてしまった。
(……ソーサラーズアカデミー、って何だろう?)
今さらそんなことを考える。だが、頷いてしまった手前『ソーサラーズアカ
デミーって何?』と聞き返すわけにはいかない。しかも一郎太の後ろでは、既に
雪菜が完全に納得したような顔をしている。
(……ま、いっか)
結局、一郎太はそう片づけた。大雑把な性格をした少年である。
それから、歩くこと十分ほど。
二人は一郎太が通っている神無学園の校門の前に立っていた。
「ここが……一郎太さんの学校ですか?」
校門と、それをくぐっていく登校中の生徒達を見回しながら、雪菜が一郎太
に聞いた。この世界は初めてだけあって、彼女は質問をすることが実に多い。
「うん。そうだよ」
キョロキョロしている雪菜を見ながら、一郎太は頷いた。
(……って、あれ?)
と、ここで一郎太は愕然とした。
(──何でここにこの娘がいるんだ!?)
愚かであった。あまりにも愚かすぎる。ここまでくると最早手の付けようが
ない。
(ど、どうしよう……)
一郎太の頭の中に混沌が生まれた。それが渦になってグルグルと回転を始め
た日には、もう一郎太は神に祈るより他無い。
(どうしようどうしようどうしようどうしよう!? ああ神様、仏様、アラー
様、シヴァ様、ヴィシュヌ様ぁっ!)
「あ、長沢君。おはよ」
混乱に陥った一郎太に、後ろから声がかかった。それは神の助けか、それと
も悪魔の陰謀か。
「……ねぇ、誰? この子」
悪魔の陰謀だったらしい。
一郎太に後ろから声をかけたのは、一郎太のクラスメイトの少女だった。腰
まで届く長い髪をストレートに下ろしている、大人しそうな顔をした娘だ。プリ
ーツの紺のスカートに、水色の線が三本走っている紺のセーラー服、そして喉元
に巻いた水色のリボン。実はこの服、神無学園の制服ではなく、中学校の時の制
服らしい。
神無学園に制服はない。だがしかし、私服を着て来ていいと言うわけでもな
い。とどのつまり、中学校の制服を今まで通り使え、というのがこの学園の意志
なのだ。
「や、やぁ、おはよ、千晶ちゃん」
一郎太はひきつった笑顔を浮かべた。無理に表情を作った結果、唇の端がヒ
クヒクする事となる。とてつもなく怪しい表情だった。
しかしどうやら、幸か不幸か、『千晶』と呼ばれた少女は、彼の妙な顔に気
が付かなかったらしい。彼女の関心は雪菜の方へ向いていた。
千晶の訝しげな顔で言われた言葉に、雪菜が笑顔で答えようとする。
「私は吹雪──」
「うわぁあぁあぁっ!?」
言いかけた雪菜の言葉を一郎太は大声で遮った。こんな所で『私は吹雪の巫
女の雪菜といいます』なんて言われた日には、一郎太は『変人奇人のお友達』と
いう十字架を背負って生きていかねばならない。
しかし、大声はよくなかった。道行く人々の注目を浴びることになってしま
ったのだ。
「……ど、どうしたのよ? 長沢君」
千晶が静寂の中、一郎太の様子をうかがう。周囲から視線の束を喰らった一
郎太は、叫んだ体勢のまま硬直していた。
「あ……いや……その……なんというか……あははっ……それが……ご、ごめ
んっっ!」
一郎太は視線を様々な方向に彷徨させた後、次の瞬間、雪菜の手を引いてそ
の場から一目散に逃げ出した。
「い、一郎太さん!?」
「あっ、長沢君!?」
雪菜と千晶の声が聞こえたがかまってられない。一郎太は強く雪菜の手を握
り、脱兎の如く校門の前から学校の中へ駆け込んでいった。
「あ、あれ……?」
大勢の注目を浴びたままで後に残された千晶は、一郎太の背中を見送った後
、ただただ呆然とするだけだった。
◎
「はぁ、はぁ、はぁ……」
場所は体育館の裏。人気の無い所である。そこに肩で息をしている一郎太と
、少年とは反対に息一つ乱していない雪菜がいた。一郎太は中腰になり、頭を垂
れて苦しそうに呼吸を繰り返している。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
やがて一郎太の呼吸が落ち着いてきた。一郎太は顔を上げ、雪菜の顔を見上
げる。少女は不思議そうに一郎太を見下ろしていた。
「ご、ごめん……急に走り出して」
謝った一郎太に、しかし雪菜は首を振った。
「いえ、私は大丈夫ですが……」
雪菜がそこで言葉を切る。何処か言い辛そうにしているのに、一郎太は気付
いた。
「え? 何?」
そこで、一郎太は雪菜を促してみた。
「その……どうしてこんな事を?」
それは一郎太が半ば予想していた問いだった。確かにいきなり逃げ出したと
あれば、雪菜が不思議がるのも当たり前の事であろう。
一郎太は腰を伸ばしてしっかりと立った。その呼吸は完全に整っている。
「うん。これは僕が勝手に考えたことなんだけど、君が雪女……いや、吹雪の
巫女だって事は黙っておいた方がいいと思うんだ」
「はい?」
雪菜はこれまた一郎太の予想通りの声を上げた。
度々思うことではあるが、彼女は自分がこの世界においてどれほど異質な存
在であるかを全く自覚していない。それはとても危険なことだ。
「この世界では普通、『雪女』は存在しない、という事になってるんだ」
「はぁ……」
一郎太の言うことが理解出来ているのか、いないのか。雪菜は気のない相槌
を打つ。
この後、一郎太は簡単に『珍しい動物は研究所に入れられる』や『研究所で
はいろいろと変な所を調べられる』さらには『君は珍しすぎるので正体を明かす
のはあまりにも危険だ』などと説明をしたが、その間中ずっと、雪菜は『言って
いることの意味が分からない』という顔をしていた。
「……わかった?」
念を押して確認をとろうとした一郎太の言葉に、雪菜は返事をしなかった。
何やら俯いて、微かに体を震わせている。
「……ごめんなさい……」
ぽつり、と雪菜が言った。
「へっ?」
思わず変な声が出る。
それは確かに涙声だった。
(も、もしかしてっ!? もしかしてもしかして……もしかしてっ!?)
ずざぁ、と一郎太は思いきり後ろに引いた。
一郎太の脳が焦りと驚きという調味料を加えられて頭蓋骨というフライパン
でこんがりと焼かれる。
要するにパニック状態に陥ったのだ。
まあ、彼に、いきなり女の子が泣き出して混乱するな、と言う方が無茶なの
かもしれないが。
(ど、どうすれば!? どうすればいいんだっ!?)
それは誰にも分からない。
一郎太は女性の涙に極端に弱いのだ。
ちなみに、ごく一部の『女をひいひい泣かすのがいいんじゃないか』という
意見は無視する。
「ごっ……ごめんなっ……いっ……」
はらはらと涙を流しながら、叱られた子供のように雪菜は頭を下げる。その
対象である一郎太は何も言えず、口をパクパクさせながら固まっていた。
何度もしゃっくりを繰り返し、何度も謝罪の言葉を口にし、何度も頭を下げ
た後。
雪菜はようやく落ち着いてくれたのか、訥々と話しだした。
「本当にすみませんでした……私、<異世界>にそんな危険があったなんて知
らなくて……」
右手で左目の涙を拭い、左手で右目の涙を拭う。合間に鼻をすする音が聞こ
えた。
「それなのに私はあんな軽率な行動をとろうとして……本当に……ごめんなさ
い……」
「は、はぁ……」
再度頭を下げた雪菜に、一郎太はようやく、吐息に似た返事をすることが出
来た。
(そ、そんなことで泣いてたのか……?)
早鐘を打つ胸をなだめながら、一郎太は唖然とした。
先程の『言っていることの意味が分からない』という顔は、どうやら一郎太
の勘違いだったらしい。雪菜は一郎太の言うことをよく理解し、深く反省してい
たのである。
「あ……いやぁ、そんなに謝ることは……無いよ、うん」
ぎくしゃくした動作で、一郎太は雪菜に近付いて彼女の肩をポン、ポン、と
叩いた。
とてつもなく不自然だった。
「はい……」
頷いた雪菜は本当に叱られた子供のようだった。一郎太の見る限り少女はお
そらく自分と同い年か、あるいは年下だろう。少なくとも十五歳以上、十七歳未
満のはずだ。
それがこの様である。
彼女は一体、彼女のいた世界でどんな生活をしてきたのであろうか。
(いい娘……には違いないだけどなぁ……はぁ)
複雑な思いを胸に、一郎太は雪菜に分からないようにして溜息をついた。
「──それで? どうして君がここにいるんだ?」
落ち着いた一郎太はまずこれを一番に聞いた。
どうしてもっと早く気付かなかったのか。
まるでこの娘と一緒に行くのが当たり前みたいだったので、全然分からなか
った。
それが一郎太の素直な感想であった。
「えぇ……っと」
雪菜は右手の人差し指を顎のラインに沿うように当て、小首を傾げた。
(……かわいい……)
ついつい雪菜の仕種をそう思って見入ってしまった一郎太だったが、次の瞬
間、
(──な、何考えてるんだ僕はっ!?)
はっ、と気が付いて自分の頭をぽこぽこと叩きだした。
「い、一郎太、さん……?」
「はっ!」
一郎太は右拳を頭に当て、左拳を振り上げた体勢のまま固まった。
エンジェル様が通った、とはこの瞬間の事を言うのだろうか。
気まずい雰囲気が流れ出した。
「…………」
沈黙。
「…………」
静寂。
「……あ、はははっ、な、何でもないんだ、あはははっ」
一郎太は笑ってごまかした。
……それはそれは、とても苦しい言い訳でした。
「は、はぁ……」
思った通り、雪菜は一郎太の行動についていくことが出来ず、ただ曖昧に頷
くだけ。
「ぁあ、いやぁ──そ、それでっ!? 何でここに君がいるのっ!?」
一郎太はさらに、有無を言わさぬ迫力でこの場をごまかそうとした。
「あ、はい」
素直に雪菜は返事をする。どうやら今度は成功したらしい。
「まずはぁ……一郎太さんが家を出ていったので、ついていったんです」
うんうんと一郎太は頷く。
今朝、一郎太が学校へ登校しようとドアを開けた時、後ろから雪菜が声をか
けてきたのを覚えている。
(……何て言ってたっけ?)
雪菜が言った内容を、一郎太は覚えていなかった。どうやら昨日の父の言葉
によるショックが抜けきれてなかったらしい。きっと、知らぬ間に適当で、かつ
とんでもない返事をしていたのだろう。
「それで一郎太さんに、何処に行くんですか、と聞いたら、学校と言いました
ので……」
ちら、と雪菜は一郎太の様子を伺う。一郎太は彼女の表情に迷いを感じとっ
た。
が、雪菜は一瞬のためらいの後、意を決したように口を開けた。
「ダメかな、とは思ったんですが……興味があったんでついて来てしまいまし
た」
雪菜の言葉に、一郎太は固まった。
……それだけ?
……それだけの理由でついてきたの?
……ダメかな、って思ったのに?
……それで僕はあんな恥をかいたの?
あんな恥とは、先程の校門前で大声を上げた、あの事である。
一郎太さんは大きくて深ぁいため息をつきましたとさ。
おやおや、目から涙、口からエクトプラズムが出ております。
「ご、ごめんなさい……」
雪菜は一郎太の反応に、顔を赤く染めて俯いたままもう一度謝った。
「……いや、もういいよ……」
はらはらと涙を流しながら、一郎太は精も根も尽きたような声でそう答えた
。
「は、はい……あの、それで、一郎太さんにお願いがあるんですが……」
「へっ?」
雪菜が腰を一五十度は曲げて、深く頭を下げる。
一郎太の胸に不吉な予感が走った。
「学校を見学させてください」
嫌な予感は的中してしまったようだ。
(……どうしよう?)
昨日と違い、一瞬だけでも心の準備が出来たせいか、一郎太は落ち着いてい
た。
「……どうやって? うちの学校、制服着てないと入れないけど」
この子は何か考えがあるのだろうか、と思い、一郎太は雪菜に聞いてみた。
その裏には何とか断ろうとする意志が隠れている。
「あ、それなら大丈夫です。こんな風に──」
昨日と同じように、雪菜は顔の前で両手を合わせた。不思議なリズムの聞き
覚えのない言葉が、目を瞑った雪菜の口から溢れてくる。やはりこれは『呪文』
というヤツなのであろうか。
と、その時だ。
突如、雪菜の体が眩しく輝きだした。
「なっ──!?」
一郎太は仰天した。まあ、いきなり目の前の人が輝きだして、少しも動揺せ
ずに冷静でいられる人間はまずいないだろうが。
よく目を細めて見てみると、輝いているのは雪菜の服だ。彼女が着ていた白
い着物と青い帯が、眩い光を発している。
それから一秒後。
雪菜の着物から迸っていた白い光が収まった。
衝撃が一郎太を襲う。
「これでどうですか?」
いっそ『皮肉っているのか』と思うほどの笑顔で雪菜が聞いた。両腕を開い
て、先程の着物から変化した自分の服がよく見えるようなポーズを取る。
一郎太、無言。
「……どうしたんですか?」
訝しげな顔をした雪菜の問いに、一郎太は答えない。彼は下を向いて、何か
を堪えるようにブルブルと震えていた。決して寒いわけではない。
「な、何で……」
震えた声が一郎太の口から漏れる。
そして次の瞬間、一郎太は頭を抱えて叫んだ。
「何でガクランなんだぁぁぁぁぁぁっ!」
そう。不可思議な『呪文』で変化した彼女の服は、一郎太が着ているのと同
じ男子の詰め襟学生服だったのである。
今にも雪が降りそうな曇空の下。
一郎太の絶叫は灰色の雲に吸い込まれるのだった。
◎
神無学園普通棟の屋上。
コンクリートの上には、白い雪がまるで絨毯のように積もっている。
立入禁止のはずのそこに立っている生徒が、一人。
正確に言うと屋上に立っている人影は二つなのだが、その内、神無学園の関
係者は一人だけなのである。
人影の一つが生徒であるならば、もう一つの人影は──『鬼』。
額に、天に向かって螺旋を描いている角を持った、『鬼』である。
『鬼』はその角を除けば、人の姿をしていた。デニムシャツとブルージーン
ズに身を包んだ、青年の姿だ。やや前傾姿勢で、両腕をだらりと垂らしている。
その目は落ち窪んで、虚無が詰まっているかのようだ。
「グッグッグッグァァァッ……!」
二十代半ばに見える男の口から、気味が悪いくぐもった声が出る。その口か
らは、だらしなく唾液がボタボタとこぼれていた。
唾液を吸った雪が、赤く染まる。雪の上に落ちた唾液の中に、赤いものが混
ざっている。
血だ。
血の混じった唾液を見ても、『鬼』の前に立った生徒は表情を崩さなかった
。
紺のブレザーと灰色のスカートに身を包んだ女子生徒は、不意に両手に持っ
た剣呑な代物を、少し持ち上げた。
艶のある黒髪をポニーテールにしている彼女が手に持っていたのは、二本の
剣だ。
右手の、刀身や柄に『呪文』が刻み込まれた剣は、青銀色をした幅広の刃を
持っている。
左手の剣は、柄に血色のルビーをはめ込んでいるのが特徴だ。赤い不思議な
光沢を放つ刀身は、一メートル六十センチ程という、異様な長さを誇っていた。
と。
女生徒の表情が変化した。嫌悪感と怒りが入り交じった顔に。
「……下衆がっ」
少女の足が雪をえぐり、コンクリートの床を蹴った。素晴らしい速度で小柄
な体が『鬼』の懐に潜り込む。
「はぁぁっ……!」
気合いの吐息と共に、自分の身長ほどもある赤い剣を右下から左上に向けて
走らせる。走る剣と共に、刀身から噴き出した炎が彗星の如く尾を引いて『鬼』
に迫った。
「グガッ」
青年の姿をした『鬼』が、何の予備動作もなく跳躍した。赤い剣と紅蓮の炎
が、何もない空間を空しく通り過ぎる。見上げると、『鬼』は三メートルほど上
空へ飛び上がっていた。
上へ逃げた『鬼』を追って、女生徒もまた跳躍した。
「逃がさないっ!」
跳躍した少女は空中で『鬼』を追い越し、相手の頭が自分の腹の高さまで来
た瞬間に、両手の剣を『鬼』の両肩めがけて一気に振り下ろした。
『鬼』は女生徒の剣を避けようとしたが、ここは空中。避けきれなかった。
人の形をした『鬼』の両肩に、二振りの剣が食い込む。そして次の瞬間には
、『鬼』の体に二本の平行線が縦に走り、その体は三つに分けられた。
「ガ……!」
空中で、『鬼』の断面から赤い血が盛大に噴き出した。
どちゃどちゃ、と三つに切り裂かれた『鬼』の体が雪の上に落ちた。屋上の
雪が、広範囲に渡って赤い絨毯へと塗り替えられる。
遅れて、少女も少し離れた所に、ザムッ、と華麗に着地した。
「…………」
女生徒は一言も発さず、『鬼』の死骸に歩み寄った。
『鬼』の傍らに立ち、少女は右手に持った青銀色の剣を持ち上げて、剣先を
その死骸に向ける。
「……覇王剣・浄化の光……」
女生徒の口から呟きが漏れると同時に、『呪文』が刻み込まれた刀身が己が
色と同じ青銀色の光を放ち始める。
剣から溢れた光に照らされた『鬼』の死骸が、次の瞬間、消えた。
ふっ、と消えたのである。
ついで、不思議なことに、雪に吸い込まれたはずの血液も、ふっ、と消えた
。
屋上に積もった雪は、元の姿を取り戻す。もはや屋上には一点の染みもない
、ただただ、白い雪だけが積もっている。
「……ふぅ」
緊張の糸が切れたのか、少女は空を仰いで軽くため息をついた。
「全く……昨日といい今日といい、一体全体どうなってんのかしら」
思わず独り言が漏れる。
昨日の事だが、『敵』の活動が急に活発になったのだ。
寄生して宿主を操ることしかできぬはずの下級の『鬼』が、人を喰うほどの
力をつけている。先程の『鬼』も元は善良な青年だったろうに、『鬼』に憑かれ
てしまった故に殺すよりほか、無かったのだ。哀れなことだ。
と、その時。
──ズクンッ!
「なっ!?」
強い『力の波動』が少女の体を震わした。
「誰っ!?」
素早く周囲を見回したが、怪しい影は一つもない。見えるのは屋上のコンク
リートと暗い雲に覆われた空だけだ。
「…………」
だが、少女は警戒を解かない。油断無く両手の剣を構えた。
強い『力』を感じる。少女が今まで出会った中でも、一番強い『力』の気配
だ。それが確実に少女の近くにいるのだ。
が、一秒ほど経つと、『力』の気配は消えた。
ここから離れたのではなく、消えた、のである。
(……どういう事?)
少女の中に疑問が生まれた。
(ここから離れるか『力』を抑えるならまだしも、消えるなんて……)
少女は構えていた二本の剣を下ろした。
(……もしかして、今のが『原因』?)
まさか、と思う。が、そんな簡単なことではないだろう。よくしてしまう短
絡思考だ。
だが。
(でも、だからといって見過ごすわけにはいかないわ。とにかく潰さなきゃ)
最後に出た結論は『先程の力の源に当たる』であった。
少女がスカートのポケットに右手を入れて、なにやら二枚の白い紙切れを取
り出す。墨で『呪文』が書かれた紙切れを剣の柄に貼ると、赤と青の剣が紙切れ
に吸い込まれるようにして消えた。
(さて、っと)
歩きだそうとした少女の体はしかし、一歩踏み出しただけで、ピタッ、と止
まる。
(……とりあえず授業に出てないとやばいかしら……)
すぐさま『力の源』を探そうとせずに、一限目にある現代国語の授業に出よ
うと考える。というより、そろそろ真面目に出なければ進級が危ういのだ。
「……はぁ」
ため息をついて、少女は屋上の隅にあるコンクリートの小屋に向かって歩き
出した。小屋の中に下へ続く階段があるのだ。
ポフッ、と少女のスカートの右ポケットから、青い手帳らしき物が、雪の上
に落ちた。
雪が音を吸い込んだせいだろう、少女はそれに気付かず、重い鉄の扉を開け
てコンクリート小屋の中へ入っていった。
明るい青の手帳は他でもない、一郎太も持っている神無学園の生徒手帳だ。
生徒手帳の表に張り付いている透明ビニールシートの中に、生徒証明書が映
っている。
生徒証明書には、
『一年四組 三六番 滝山 桂子』
という文字が少女の顔写真の隣に書かれていた。
◎
仄かな香水と木の香りが混ざったような匂いのする、二年六組の教室。
「──長沢君」
やはりというか何というか。一郎太は教室に入った途端、千晶に呼び止めら
れた。
「……な、何かなぁ……?」
油が足りないロボットの様な動きで、一郎太は後ろを振り返る。勿論そこに
は、眉をつり上げた千晶が立っていた。
「さっきの、一体何だったの?」
一郎太が予想したとおりの質問だ。と言うよりも、これを聞かずに何を聞く
というのか。
「ぁあ……あれは、そのぉ……」
後に一郎太は語ったという。『千晶から立ち昇る赤いオーラを見た』
と。
「ごまかさないでっ!」
「は、はいっ!」
赤い光のオーラを発する千晶の怒声に、ビクッ、と一郎太の体が竦んだ。そ
のまま、蛇に睨まれた蛙のように硬直する。
「長沢君のおかげで、私ものすごく恥ずかしかったんだからっ!」
千晶の言葉から、一郎太が逃げ出した後に彼女が周囲の人々からどんな視線
を受けたかが、容易に想像できる。
「あ……いや、その……ごめん」
素直に一郎太は頭を下げた。正直者の鏡だ、と言っても過言ではないだろう
。
が、赤いオーラは消えてくれなかった。
「ごめんで済むと……思ってるの?」
赤いオーラは健在だが、その言葉は静かだった。
時と場合によって、静かさとは、何よりも恐ろしいものである。
ちらっ、と上を見ると、そこには赤いオーラで出来たオタフクの顔があった
。
「ひぇえぇっ!」
一郎太は思わず後ずさった。何故だかわからないが、オタフクの顔が無性に
恐い。誰がなんと言おうが、とにかく恐いのだ。
(せ、せめて般若の方がよかったかも……)
冷や汗がダラダラと一郎太の背中を滑り落ちる。悪寒が少年の背中を縦横無
尽に走り回った。
冷や汗と悪寒が合体するとどうなるか。答えは即ち、凍結である。
一郎太は凍結して、物言わぬ氷の彫像と化した。
(こ、殺される……!)
一郎太は本気でそう思った。
と、その時。天の助けだろうか。始業のチャイムが高らかに鳴った。
リンゴーン、リンゴーン、リンゴーン。
……決して結婚式の鐘ではない。これはれっきとした、神無学園のチャイム
である。ちなみに、学内の壁には、
『チャイムはあたしの趣味だ! 文句のある奴はかかってこい! 理事長』
という張り紙が貼られているという。
「あ、授業だわ」
教室の天井に頭を触れさせていたオタフクが、しゅん、と形を崩して千晶の
体に吸い込まれた。
その瞬間。
「──どりゃあっ! ギリギリセーフッ!」
ゴラッ、と教室の戸が勢いよく開いて、一人の少女が姿を現した。が、勢い
よく開けられすぎた戸は、ドガンッ、と音を立てて跳ね返り、再び閉じてしまっ
た。当然の如く、少女の姿は戸に隠される。
「…………」
つい先刻までざわめいていた教室が、しぃぃぃぃん、と静まり返った。あま
りの間抜けさに、誰も声が出ない。
数秒の間。
ガララ、と戸がゆっくりと開く。その開け方が妙に恥ずかしそうなのは、一
郎太の気のせいではないだろう。案の定、顔を真っ赤に染めた少女がもう一度姿
を現した。
腰まで届く髪を一本三つ編みにしている、千晶と同じセーラー服に身を包ん
だ少女だ。目が少しつり上がってはいるが、不細工なわけではない。
よく見ると、彼女は千晶にとても似ていた。目のつり上がった千晶が髪型を
変えただけ、という風にも見える。
「お、お姉ちゃん……?」
静寂の中、千晶が彼女をそう呼んだ。ギロリ、と真っ赤な少女の瞳が千晶を
睨む。
「……千晶」
少女の全身から、千晶と同じ赤い淡光のオーラが噴き出した。噴き出したレ
ッドオーラが、空中で文字を形作る。
曰く、
『何も言うな。何も言うんじゃねえ。何か言ったらぶっ飛ばすぞっ!』
である。
一郎太が視線を下げると、そこにはオーラよりも赤い少女の顔がある。一郎
太の横で、青い顔の千晶が少女に向かって頭をぶんぶんと縦に振っていた。
と、トマトが真っ青になるくらい顔が赤い少女の瞳が、一郎太を捉えた。す
ぐさま一郎太は、少女に向かって頷く。そうしなければ彼女から鉄拳が飛んでく
る事を、一郎太は知っているからだ。
それを確認して頷いた少女は、ずんずん、と窓際の一番前にある自分の席へ
と歩き出した。有無を言わせぬ迫力が、少女の周りで渦を巻いている。誰も、何
も言わなかった。
が、一人いたのである。声をかければ殺す、というオーラを発している少女
に声をかける者が。
それは、少女が、その人物の座っている机の前を通り過ぎようとした時だっ
た。
「おーい、鞘歌ぁ」
ピタッ、と少女──鞘歌の歩みが止まる。
(命知らずだ……)
誰もが皆、そう思った。しかし次の瞬間、声をかけた人物の顔を見て全員の
考えは変わる。
藤木乃光路郎。
それが殺気立つ鞘歌に声をかけた少年の名だ。白いカッターシャツと紺のブ
レザー、灰色のズボンという制服で身を包み、髪を濃い茶色に染めている。
余談だが、この神無学園には<三神衆>と呼ばれる三人の生徒がいる。
『鬼神』、柏原卿。
『闘神』、川端隼人。
『武神』、藤木乃光路郎。
この三人は、つい半年前までこの界隈を騒がしていた暴走族、<鬼攻兵団>
の元総長、並びに元幹部達である。ちなみに<鬼攻兵団>は半年前に突然、解散
した。
暴走族の幹部と言うだけあって、光路郎は強かった。とてつもなく強かった
。どれほど強いかと言うと、暴力団員が百人かかって来ても一人で勝ってしまう
程の強さである。
世界広しと言えど、今の鞘歌に声をかけられる者はこの光路郎ぐらいなもの
だろう。
光路郎はニコニコと笑顔を絶やさずに、鞘歌を見つめている。ギン、と鞘歌
が鋭い眼光を光路郎へ向けた。
光路郎は常に笑顔を浮かべている少年だ。何故だかわからないが、いつも笑
っている。何も知らない人は、『お気楽な奴』とか、『ヘラヘラしやがって』と
思うのだが、本当はそうでないことを一郎太は知っている。
何を考えているかわからないのだ。
ニコニコとした表情からその真意を測ることは、容易ではない。しかも笑顔
を浮かべながらやることは、この上なく過激なのだ。
神無学園二年六組の生徒は、全員が彼のことを恐れていた。
何をしだすのかが予測できず、たとえ予測できてもそれを阻止することが出
来ないからだ。
そして次の瞬間。教室にいた者は皆、光路郎の次の言葉で凍り付いた。
「ま・ぬ・け」
──ぷっちぃぃぃぃぃぃぃぃん。
静けさや 風に染み入る キレた音。
「こうじろおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
鞘歌が怒りのメガトンパンチを繰り出した。赤いオーラの尾を引きながら、
鞘歌の拳は真っ直ぐ光路郎の顔面めがけて飛ぶ。
しかし、怒りの鉄拳はあっさりと受け止められる。ぱしっ、と小気味よい音
がして、鞘歌の右拳は見事、光路郎の左手に収まった。
「あ・ま・い」
「てんめぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
挑発する光路郎に向かって、さらに鞘歌は左の拳を叩き込む。しかしそれも
少年の右手に受け止められた。
二人はその体勢のまま、ぐぐっ、と硬直状態に陥る。
「あははは、俺を殴るのは無理だって」
「うるさいっ!」
笑う光路郎に向かって、今にも噛みつかんばかりの勢いで赤い顔の鞘歌は怒
鳴りつけた。
鞘歌が光路郎を睨んでいると、不意に教室の戸が、カララ、と開いた。教室
に二人の人物が入室してくる。一人は教師、もう一人は女生徒だ。
教師が入ってくるのを見た生徒達は、蜘蛛の子を散らすように散らばり、自
分の席へと戻っていった。一郎太と千晶もそれに倣う。鞘歌も二秒ほど光路郎を
睨んだままだったが、結局、赤いオーラを激しく迸せながらも自分の席に戻った
。
「おらおら野郎共。早速だが転校生を紹介する」
二年六組担任、川端燕は教壇の上に立った途端、乱暴な口調でいきなりそん
な事を言った。燕は何故か男物の黒いスーツを着て、その上にまっさらな白衣を
羽織っている。一郎太の記憶に違いがなければ、確か彼女は現代社会の教師だっ
たはずなのだが。
ちなみに彼女は<三神衆>の一人、川端隼人の五つ年上の姉である。
背中の中程まで届く、ゆったりとウェーブのかかった黒髪を踊らせながら、
燕が黒板に白いチョークで隣に立つ転校生の名前を書いた。『長沢雪菜』
おおぉ……、と教室中がどよめいた。同時に全員の視線が一郎太に集中する
。
自分に殺到する好奇の視線の中、一郎太は乾いた笑顔を浮かべるしかなかっ
た。
「は、ははは……」
視線の束を笑顔の仮面で防ぎながら、一郎太は瞳を前に立っている雪菜に向
けた。
緑のベレー帽。白いブラウスの上に着た緑のジャケット。同じく緑のフレア
スカート。首には緑のリボンを蝶々結びで巻いており、リボンの中心には金色の
ボタンが付いている。
これが今の雪菜が着ている服だ。何処となく『お嬢様学校から来た令嬢』と
いう風に見え無くもない。
実は、一郎太が悲痛な絶叫をあげた後、雪菜がこう提案したのだ。『私が転
校生になるというのはどうでしょうか?』
聞いた話によると、一郎太が二度ほど聞いているあの『呪文』で、人の記憶
を操作することが出来るらしい。
結局、雪菜は一郎太の従姉妹という設定になり、制服は一郎太が知っている
有名な女子校の物を使う事となった。勿論、この制服は雪菜が『呪文』で創った
物である。
雪菜はとりあえず『親の諸々の事情で家が無くなったので一郎太の家に居候
している従姉妹』という風に、学校関係者の頭には刷り込まれているらしい。
「えー、この雪菜はどうやら一郎太の従姉妹で、同じ家に住んでいるらしいが
男子共は嫉妬しないように」
燕が言うが早いか、再び視線が一郎太に集中する。同時に色々な物が一郎太
めがけて飛んできた。
「ぐはっ!」
筆箱、教科書、体操服、辞書、箒、便器、等々、計二十六個。それらが一丸
となって一郎太に襲いかかった。一郎太は廊下側から三列目の一番後ろに座って
いるので、ちょうど視線や物が投げやすいのだ。
強襲する物体の群を、一郎太は何とか耐えていた。だがしかし、一呼吸遅れ
て六法全書が飛んできた。
「うがっはぁっ!」
不幸にも、一郎太は六法全書の角の一撃を喰らった。流石は六法全書。その
重さによるあまりの衝撃に、流石の少年も後方へ吹っ飛ばされた。『たとえその
娘が美少女だろうが不細工だろうが従姉妹だろうが、女と一緒に一つ屋根の下で
暮らしている者には、死、あるのみ』
これが二年六組の男子の、暗黙の了解だった。ちなみに、妹、姉、母などの
身内は当然除く。
「く……くぁ……」
力を振り絞って立ち上がった一郎太は、フラフラしながらも何とか自分の席
に戻ることが出来た。そこはもうゴミの山のようだったので、机の上に乗ってい
る物を払い落とし、力無く椅子に座り込む。
「では、雪菜から一言挨拶をしてもらう。野郎共、静かにしろよ」
悲惨な目にあった一郎太に関して一言も言わず、燕はそう言うと教壇を降り
て黒板の端まで移動した。
よく似合う制服に身を包んだ雪菜が、教壇の真ん中に立った。
「あ、あの……」
雪菜は赤い顔を俯かせ、十本の指を恥ずかしそうにモジモジと動かしている
。
どうやら、着慣れない制服を着て大勢に注目されているせいか、緊張してい
るらしい。『可愛いねぇ』という声が何処かから挙がった。
「わ、私、吹雪の──じゃなかった──長沢、雪菜と申します。めっ、迷惑を
おかけ、す、するかもしれませんが、どっ、どうかよろしくお願いします」
火を噴き出しそうな顔で一郎太が教えた通りの事を述べて、ベレー帽を脱ぎ
、深く頭を下げる。頭を下げた拍子に、雪菜の艶のある黒髪が踊った。サラサラ
とした質感のある黒髪が、まるでスローモーションの如く華麗に舞い降りる。確
か、一郎太はあれの直撃を受けた覚えがあるが、あの時結構痛かった。
一瞬の間。
そして次の瞬間、盛大な拍手が沸き上がった。
「うむ。なかなかいい心がけだ」
手を叩きながら燕が教壇に上がり、雪菜の横に立った。
「では、雪菜の席は一郎太の隣だ。あそこに座れ」
燕は一郎太の席の右隣に座っている男子生徒を、右指で指した。どうでもい
い事だが、燕は生徒を名字ではなく、名前で呼ぶ。なにやら『同じ名字がいたら
面倒だからだ』という理由かららしい。つけ加えて『それにこちらの方がフレン
ドリーでいいではないか』という理由もあるという。ならば、名前が同じ人がい
たなら、と聞くと『その時は愛称で呼べばいい』だそうだ。
「えっ?」
当然の如く一郎太の隣に座っている生徒は困惑の表情を浮かべ、間抜けな声
を出した。
「あ、っと……先生ぇ? ここ、俺が座ってるんスけど……」
彼は恐る恐る、燕に小さな抗議の言葉を言う。しかし、それを聞いた燕は、
ふっ、と笑った。
「洋治。お前の席は、ここだ」
ちょいちょい、と燕の指が窓際から三列目の一番前にある空席を指した。そ
こは、皆が転校生用の空席と信じて疑わなかった席である。
一郎太の隣に座っているのは、洋治こと柿木洋治という少年だ。一郎太の友
人であり、パソコン部の部長であり、学年最低の成績の保持者でもある。よって
、彼が黒板に一番近い席に呼ばれるのは当然だ、と一郎太は思った。
「……冗談、ですよね?」
「いいや。アメリカンジョークは好きだが日本の冗談は好まん。ついでに言え
ばバスケットボールもあまり好きではない。いいからさっさと荷物をまとめてこ
こに来い」
「あぅぅぅ……」
微かな希望を粉々に砕かれた洋治は、涙を流して情けない声を出しながら、
荷物をまとめて一番前の席に移動した。
「よし。では雪菜、お前もあそこの席に座れ。そろそろ授業を始めるぞ」
言われた通り、雪菜がお淑やかに歩き出した。流石に席に向かう途中で、足
を出して躓かせようとするような者は今時いない。
やがて左前方に一郎太が見える所まで来た。少年は大量の教科書や辞書に囲
まれた席に座り、疲れたように机に突っ伏している。
一郎太と雪菜の目が合った。
「──や、やぁ……」
一郎太は片手をあげてそう言ったが、雪菜は何も言わず、赤い顔をしたまま
ペコリと頭を下げて自分の席に座ってしまった。こうやって再会すると何となく
気恥ずかしい、というのが原因だ。
「野郎共、授業を始めるぞ。教科書五一ページを開け。あー、雪菜は一郎太に
でも見せて貰えよ」
それだけ言って、燕はチョークを片手に授業を開始した。
「……朝から色々あったけど、とにもかくにも、やっと一日が始まったような
気がするなぁ……」
随分とペースの早い燕の授業を聞きながら、一郎太は疲れた声で小さく呟い
た。