刹那の雪
退敵師
「ふぅ……」
何処か可愛らしい溜息が、闇の中に生まれた。
「着きました……やっと着きましたわよ……ふぅ」
闇の中で何かが、ごそっ、と蠢いた。そこから聞こえる声はひどく疲れてい
る風である。
「さて、これからどうしましょうか? すぐ見つけないといけませんが……あ
まり早くてもアレでしょうし」
闇の中で蠢く者は、あれやこれやと思案する。しかし深い黒のヴェールで包
まれているので、その表情を見ることは出来なかった。ただ一つわかるのは、そ
の声が少女特有のものだという事。
「それにしても自由なる伯爵ったら、ひどいですわ。<異世界>に来れたはい
いですけど、出てくる場所がこんな所だなんて。真っ暗ではありませんか」
暗闇の中に、二つの煌めきが生まれた。それは瞳らしく、爛々と輝く二つの
赤い光が暗い空間に浮かんでいる。どうやら闇の中に潜んでいる人物が目を開け
たらしい。
「ほんと、災難ですわ」
まるで闇の中にぽっかり開いた穴のような目が、キョロキョロと左右に動く
。辺りを見回しているのだ。
「……それにしてもここは一体、何処でしょうか?」
ふと、疑問を口にした時だ。
その質問に答えるかの如く、いきなり目の前に正方形の穴が開き、そこから
眩しい光が飛び込んできた。
「えっ?」
正方形の光の中から、先端に小さな炎を灯した、親指ぐらいの長さの細い棒
が放り投げられてきた。
火を灯した小さな棒が、少女と思われる人物の手前に落ちる。
途端、ぼぉぉっ、と炎が辺り一面に広がった。
紅蓮の炎が闇を払い、そこに潜んでいた人物の姿を照らし出す。
確かに少女だった。
しかし、それを確認できたのは一瞬だ。
瞬く間に紅蓮の炎が少女を襲った。
「うっきゃぁあぁあぁあぁあぁっっ!?」
当然の如く、少女は熱さと恐怖と驚愕の入り交じった悲鳴をあげた。
……彼女が知るはずもなかった。
そこは神無学園の焼却炉の中だったのだ。
一時限目、現代社会。雪菜が燕に次々と質問を連発し、調子に乗せられた燕
が世間話を始めてしまったので、ただの雑談で終わってしまう。その後の休み時
間、鞘歌と光路郎がケンカをしていた。
二時限目、化学。実験中、雪菜の班の机が突如爆発して、もはや授業どころ
ではなくなる。その後の休み時間、鞘歌と光路郎がケンカをしていた。
三時間目、体育。男子はバスケットボールで、女子はバレーボールだった。
途中、ドリブルをしている一郎太の顔面にバレーボールが直撃。それは、隣のコ
ートで鞘歌がアタックしたボールだった、と気絶してしまった一郎太は後で聞い
た。しかも雪菜が触れたおかげでカチンコチンになっていたとかいないとか。そ
の後の休み時間、鞘歌と光路郎がケンカをしていた。
四時間目、現代国語。教科書を読まされた雪菜の口から、意味不明でしかも
聞いていると頭が痛くなる言葉が流れ出す。教師が頭痛で倒れたので、自習にな
った。
昼休み。一郎太は雪菜の昼食を買おうと、彼女と一緒に購買へ向かう。大分
混んでいたので『どうしたものか』と思っていると、一郎太の後ろで悲鳴が上が
った。ぎょっ、として振り向くと、雪菜が空中に浮いていた。ぎょぎょっ、とし
た一郎太は浮いている雪菜の足を引いて、その場を脱兎の如く逃げ出す。後でご
まかすのが大変だった。教室に帰ると、鞘歌と光路郎がケンカをしていた。
五時限目、英語。先生が和訳を言っていると、何故か泣き声が聞こえてきた
。誰かと思えば、それは雪菜の声。ちょうどその授業でやっていたのは『マッチ
売りの少女』の英文だったのだが、彼女は『か、可哀想ですぅ……』と言って大
声で泣き出したのだ。やはり授業どころではなくなった。その後の休み時間、鞘
歌と光路郎が(略)
六時限目、数学。そろそろ『授業潰し』の異名が定着してきた雪菜。この授
業もきっと彼女が潰してくれるものと皆が思っていたが、意外に何も起こらない
。どうしたのか、と転校生の少女を見てみると、彼女は安らかな寝息を立てて居
眠りをしていた。その後、教師が居眠り小娘を発見。何故か一郎太も一緒に廊下
に立たされる事になってしまった。
放課後。鞘歌と光路郎がケンカをしそうになったが、今度は千晶の仲介が入
り休戦となる。おそらく明日もまたケンカをするだろうが、誰も何も言わなかっ
た。
そして一郎太は、今日一日でもうボロボロになっていた。今の彼に『ぼろ雑
巾』という表現ほど似合うものはないだろう。
「はぅぅぅぅぅぅ……」
目から涙、口からエクトプラズムを出しながら一郎太は呻いた。別段、肉体
的な疲労はない。強いて言えば、体育の時間にボールを当てられた顔がまだヒリ
ヒリしているぐらいだ。一郎太は今、精神的疲労で参っていた。
「おい、大丈夫か? 長沢」
机に顎を乗せて呻いている一郎太に、鞘歌がそう聞いてきた。ちなみに、雪
菜は燕に呼ばれて今日のお説教を受けている。
「ぁあ、鞘歌ちゃんか……」
自分の顔にボールでクリティカルブロウをくれた娘を見上げ、疲れた声で返
事をする。すると、いつもつり上がっている様に見える鞘歌の眉が、さらにつり
上がった。
「な、何だよ。まだ体育の時のヤツが痛い、とか言うんじゃねえだろうな……
」
この言葉から察するに、どうやら彼女なりに気にしていたらしい。そういえ
ば一郎太はまだ、鞘歌から謝罪の言葉を聞いていない。こういう事はしっかりす
る少女だ。おそらく、ずっと謝る機会を伺っていたのだろう。
と、鞘歌がそっぽを向いて、横顔を少年に曝した。その顔が赤いのは、夕日
のせいでは無いはずだ。
「その……何だ。あ、あの時ぁ、わ、悪かったな……」
一郎太から見て左を向いている少女は、右手でボリボリと頭を掻きながらそ
んな言葉で謝った。誰が見ても『不器用な娘だ』と思うだろう。
しかし、一郎太は面倒くさそうに息を吐いただけだった。
「……別に。気にしなくていいよ」
精神が疲弊しすぎて、他人のことを気遣う余裕がないらしい。一郎太にして
は珍しく冷たい言葉だった。
「そ、そうか……? んじゃまぁ……悪かったな」
だが、一郎太の変化に気付かず、鞘歌はそう言い残して教室を出ようとした
。が、その足が入り口付近で止まる。
「卿、それに隼人」
つつっ、と視線をやると、そこには二人の人物が立っていた。見覚えがある
。鬼神と呼ばれる『柏原卿』と、燕の弟であり闘神と呼ばれる『川端隼人』だ。
あの三年生の二人がこの教室に来たという事は、光路郎に用でもあるのだろうか
。
「よう鞘歌。光路郎の奴は?」
短く逆立てた髪の下に、太い眉と軽そうな表情を張り付けた隼人が、鞘歌に
そう聞く。どうやら一郎太の予想は的中したようだ。
鞘歌が無言で後方を右手の親指で示す。その方向には千晶と談笑している光
路郎の姿があった。
頷いた卿と隼人は、出ていく鞘歌と入れ違いに教室へ入る。と、光路郎と同
じ制服のポケットに手を突っ込んで歩いていた隼人が、一郎太に目を向けた。
「──おっ? 一郎太」
進路を変更して、何故か隼人は一郎太の方へやって来た。しかし、卿はその
まま千晶と光路郎の方へ向ったようだ。
「よっ。元気か?」
片手を上げて、軽く挨拶。前から思っていたことだが、やっぱり川端先輩は
大きいなぁ、と一郎太は思った。隼人の身長は約百九十センチはある。広い肩幅
を持つ、筋肉質の身体だ。これを見れば誰もが、彼が闘神と呼ばれる謂れが分か
るだろう。
川端先輩に声をかけられて、一郎太は背筋を伸ばした。
「あ、川端先輩。どうも」
恐縮しつつ、机に座ったまま頭を下げる。
「おいおい……俺の事は隼人でいいって、いつも言ってるだろ?」
「あ、は、はいっ」
一郎太は上げた頭を、再び慌てて下げる。隼人は苦笑しながら、一郎太の肩
に、ぽん、と手を置いた。
「お前は俺達三人が認めた奴なんだからよ、もっと普通にしてくれよ。……ま
ぁ、光路郎ぐらい生意気でも困るけどな」
隼人の言葉に、一郎太は恐縮しつつ笑った。
闘神と呼ばれる彼が一郎太に、名前で呼べ、と言うのには理由がある。
三ヶ月ほど前のことだ。
体育の時間に剣道の授業があったのだが、その時、一郎太は光路郎と対戦す
ることになってしまったのだ。ちなみに、光路郎は剣道三段の腕を持っている。
誰もが光路郎の勝利を確信していた。名だたる武神と平凡な少年。結果は火
を見るに明らかだ。
しかしこの時、思いもよらぬ事が起こったのだ。
それは正に、一瞬の出来事だった。
『始めっ』という合図の次の瞬間、パァン、という軽快な音が剣道場内に響
き渡った。
誰もが己の目を疑ったものだ。
そこには、微動だにしない光路郎と、いつの間にか彼の横を通り抜けていた
一郎太の姿があったのだ。
胴を打った、一本だった。
「で、でも……あれは偶然ですよぉ」
しかし。この話は光路郎の負けだけでは済まなかった。
二日後、光路郎の敗退を聞いた卿と隼人が、一郎太に勝負を挑んできたのだ
。ちなみに、彼らに剣道の経験はない。
剣道三段の光路郎を下した一郎太は当然、鬼神と闘神に勝利した。
それからだ。光路郎が一郎太のことを『一郎太さん』と呼び、卿と隼人が自
分のことを、名前で呼べ、と言いだしたのは。
彼らには、自らが認めた人物は対等に扱う、というモットーがあるらしい。
「偶然で負けたんじゃぁ、俺達の顔が立たないんですけど」
隼人と一郎太の間に、軽やかな声が飛んでくる。二人同時に首を回すと、そ
こにはいつもの笑みを浮かべた光路郎が、雪菜の机の上に座っていた。
「光路郎か。……あん? 卿は何処行った?」
隼人が教室中を、キョロキョロ、と見回した。先程彼と一緒にここへ来た少
年が、見あたらない。
「帰ったよ。千晶と一緒に。確か北斗と南斗を迎えに行くとか言ってた」
爽やかな笑顔と爽やかな声で、光路郎があっさり言った。ちなみに、『北斗
と南斗』というのは卿の妹と弟らしいが、一郎太は知らない。
「へっ……?」
あまりにあっさりと言われたせいか、隼人の反応が遅れる。
夕日が差し込む教室。外でカラスが『アホー、アホー』と鳴いていた。
「──ぬぁぁぁぁぁぁにぃぃぃいいいいぃぃぃぃっ!?」
間抜けな大声と共に、隼人はその巨体からは想像も付かないほどの素早さで
、二年六組の教室を飛び出していった。
(……一体、何……?)
隼人が嵐のように去っていって一秒後。一郎太は呆然とそう思った。
「おろろ、行っちまった」
隼人の大きな足音が聞こえなくなった頃、光路郎が呟いた。茶髪の少年は首
を回して辺りを見回す。と、教室に用がないと悟ったのか、
「んじゃ、一郎太さん。俺、これで失礼します」
と言って机から降り、笑顔のまま頭を下げる。
「あ、うん」
一郎太の返事に、細い目をさらに細めると、光路郎は教室を出ていった。
光路郎が帰ると、教室は一郎太一人だけになった。
途端、言葉に出来ない寂寥感が一郎太の中に生まれる。
全身の力を抜いて、机の上に倒れ込んだ。
「はぅぅぅぅぅぅぅ……」
一郎太は疲れを吐き出すように、深い深いため息を付いた。
(……それにしても川端先輩、何で柏原先輩が帰ったって聞いてあんなに慌て
たんだろう?)
ただ単に、一緒に帰る約束をしていたのに先に帰られた、という隼人の事情
を少年が知る由もない。
何か込み入った事情でもあったのかなぁ、と思いつつ目を閉じる。吸い込ま
れそうなほど深い暗闇が、一郎太の瞼の裏に広がった。
美しい金髪美女の姿をした睡魔が、色っぽく一郎太を誘惑する。要するに眠
たくなってきたのだ。
(……いっか。あの娘が来たら起こしてくれるだろうし……)
今頃、燕からお叱りを受けているだろう雪菜を思い浮かべる。何故かその雪
菜は、いきなり金髪美女の睡魔と口喧嘩を始めだした。が、一郎太はそれをわざ
と無視する。
そして、一郎太の意識は暖かい闇の中へと落ちていった。
「補習をさぼって何処に行くつもりだ? 桂子」
「ぎくっ!?」
抜き足差し足で教室を出て行こうとしていたポニーテールの少女を、燕は抜
け目なく発見し、背後から容赦なく奇襲した。
「か、川端先生……ご、御機嫌麗しゅう存じますぅ……」
一年四組三六番、滝山桂子は卑屈な笑みを浮かべながら振り返った。そこに
立っているのは、男物の黒いスーツを着た女性、川端燕。どうやら白衣は脱いだ
らしい。
「私の機嫌はどうでもいい。それよりも、私の補習をさぼって何処に行くつも
りだった? 言っておくが、このままではお前は進級できんぞ」
「うっ」
ぐさっ、と燕の言葉が桂子の胸を貫いた。燕の言葉が、桂子の頭の中で何度
も反響する。『進級できんぞ。進級できんぞ。進級できんぞ。進級できん……』
今の桂子にとって、この言葉は強烈すぎた。
桂子がショックに放心していると、燕が片手に持っている出席簿を開き、そ
れに目を通しながら言った。
「……後、何回か授業を休めば、お前の留年は決定だな」
この言葉がさらに、貫かれた桂子の胸を、ぐりぐり、とえぐり回した。
「う……うぐぅ……」
桂子は胸を押さえて、小さく呻いた。燕はその様子を出席簿の向こうから伺
い見ている。
と、これは神の思し召しだったのであろうか。桂子はある事を思い出した。
「──そ、そうだっ! せ、生徒手帳を失くしたんですっ!」
今日の昼休み。桂子は生徒手帳の後半にある時間割表をちゃんと活用してい
るので、次の授業は何だろう、と思って生徒手帳を出そうとした。すると、何故
かポケットの中に入っていなかったのだ。
「何?」
訝しげな顔をする燕。まあ、当然の反応だろう。嘘を吐かれて逃げられるわ
けにはいかない。嘘か真かを見極めなければ。
しかし、桂子の行動は素早かった。
「それじゃ、そういうことでっ!」
言うが早いか、桂子は長いポニーテールを翻して、スッタカターッ、と廊下
を駆けてその場から逃げ出した。
ぴゅう、と桂子の髪の毛が廊下の角の向こうへと消える。
……静寂。
…………静寂。
夕日が眩しい廊下。そこに立ち尽くす燕。そして彼女の額に浮かんだ青筋。
しばらくして、燕は小さく溜め息を吐く。
そして呟いた。
「留年……決定だ」
留年決定の烙印を押されたとは露知らず。
桂子は校庭の隅にある焼却炉の前に立っていた。
目の前にある焼却炉は、見るも無惨に破壊されている。
桂子が級友から手に入れた情報によると、昨日の朝、ここで爆発が起こった
らしいのだ。
しかし、級友の言っていた事は半分嘘だった。
実際には、焼却炉は地面から突き出た五本の岩に貫かれていたのだ。
岩の槍、と形容すべき形をしている。長さは桂子の身長の二倍。太さは桂子
の腰の半分ほどであろうか。どうやらこれに貫かれた衝撃で、焼却炉は爆発した
ような音を発したようだ。ちなみに、桂子はその時は『仕事中』だったので、そ
の音を聞いていない。
「妙な岩……昨日……あいつらの活発化……」
右手の人差し指の第二間接を顎に当てて、ブツブツと呟きながら桂子は思考
に入る。
「それに、今日の朝のこと……」
今朝の事を思い出す。あの時感じた『力』は、並大抵の物ではなかった。
しばらく考えてから、桂子は溜息をつく。
「……だめだ。情報が足りない」
とりあえずこの焼却炉で起きた事と、『敵』の活性化、そして今朝感じた『
力』にはつながりが有りそうだという推測は出来たが、肝心な犯人の事が分から
ない。
これでは打つ手無しだ。
「とりあえず、情報買いに行ってみるしかないわね」
知り合いの、その筋の『情報屋』を思い浮かべ、桂子は焼却炉の前から立ち
去った。
一人の少女が、閑静な住宅街を歩いていた。
黄色のピンクハウス系の服を着た、一二、三歳頃と思われる紺色の髪の少女
だ。
紺色の髪の毛がピンクハウス系の服を着ているだけで十分奇妙なのだが、そ
れよりももっと奇妙な物が、少女にはあった。
本来なら耳があるべき箇所から、黄玉を思わせる細長い菱形の棒が六本三対
、後ろへ向かって縦の扇状に伸びているのだ。その一本の長さは三十センチほど
で、太さは小指ほどである。
そしてもう一つ。大きな愛らしい瞳が、まるで兎のように赤いのだ。
紺の髪と赤い瞳と黄色の服。はっきり言って、変だった。
「まったく……昨日は散々でしたわ。せっかく自由なる伯爵に頼んで<異世界
>に来たと言いますのに、暗闇に放り込まれるわ、いきなり火を点けられるわ─
─」
異形の少女の声は苛立ちに満ちている。どうやらご機嫌斜めな精神状態らし
い。少女は力を込めて、ずんずん、とアスファルトを踏みならした。
少女の身体から発せられている空気から、彼女の不機嫌の度合いが高まって
いくのがわかる。
「──あの方を捜しに来ただけだというのに、どうして私がこんな目に遭わな
ければいけないんですのっ!」
ついに不機嫌度が頂点に達し、少女は右足を上げてアスファルトの路面を思
いきり踏みつけた。
百トンの鉄の塊が、超高層ビルの屋上からアスファルトの上に落ちたような
音。
続いて、超高層ビルにいくつも罅が入っていくような音。
「あ、あらっ?」
音から想像する通り、少女が足を下ろした箇所を中心として、亀裂が路面の
上を放射状に走っていた。
静寂。
……静寂。
少女はゆっくりと辺りを見回した。
幸い、誰もいない。
「こ、これはとんだ失礼を……おほほほほほほほほほほほっ」
誰もいないのに、少女は取り繕うように上品に笑った。
その頭には大きな冷や汗が、ででん、と乗っかっている。
「…………」
右手の甲を口に添えた体勢のまま、少女は硬直した。その瞳だけが、キョロ
キョロ、と辺りを見回す。夕陽が家々を照らし、カラスがカーカー鳴いていて、
少女の影が長く伸びていた。辺りに人気はない。少女は視線を下げて、罅割れた
路面を見下ろした。
しばらく、じっと見つめる。
「……やばいですわね」
小さく呟いて。
そして次の瞬間、逃げた。
脱兎の如く、素晴らしい速度で少女は住宅街を駆ける。
ほんの数秒で、黄色の服と紺色の髪は見えなくなった。
「……なによ……これ」
曲がり角の影から、ポニーテールの少女が姿を現した。言わずとしれた、一
年生で早くも留年となった滝山桂子である。
知り合いの『情報屋』に会いに行こうと歩いていた矢先、先程の少女が地面
を踏み割る場面に遭遇したのだ。
今、桂子の真下には罅割れの中心がある。本当に、これをあの小さな少女が
したというのだろうか。この目で見ておきながら、にわかに信じることが出来な
かった。
「……それに、あの耳の……」
桂子の脳裏に少女の顔が浮かぶ。確かに、耳があるべき所に妙な物があった
。
「……追跡けてみるか」
そう決定づけて、桂子は少女が走り去った方向へと走り出した。
遠くから、可愛い声が聞こえてきた。
「……太さん……」
その声は遠くなったり近くなったり、まるでさざ波のように一郎太の耳に入
ってくる。
「……郎太さん……」
一体誰の声だろうか。いや、わかっている。わかっているが、何故か思い出
せない。
(誰だったけ……?)
精いっぱい意識を集中して思い出そうとする。しかし、金髪美女の睡魔が目
の前をちらちらと横切るので、すぐさま意識は拡散してしまう。『我が愛しのベ
リースウィートマイハニー』
何故かは知らないが、そんな単語が一郎太の脳裏に浮かんだ。
「ああ……君は『我が愛しのベリースウィートマイハニー』だったんだね……
」
訳の分からぬ事を口走る。
「──一郎太さんっ!」
声が突然、明瞭になった。
「へっ……!?」
ぱちくり、と目を開く。どアップで雪菜の顔が瞳の中に飛び込んできた。
「……あ」
一郎太は硬直した。目と鼻の先に、雪菜の顔がある。比喩ではなく、本当に
彼の目と鼻が触れそうな程近くに少女の顔があるのだ。一郎太とて健全な青少年
。こんな近くに異性の顔があれば、胸の鼓動が早くなるのは当たり前である。
「目が覚めましたか? 一郎太さん」
場所は教室だった。電気がついているので室内は明るいが、窓の外は暗闇で
、彼が寝てから大分経っていることがわかる。教室には一郎太と雪菜以外に人影
はなく、窓から見える隣の特別棟の窓も、明るいのは少なかった。
「……あ、うん。……ごめん、寝てたんだ、僕」
一郎太は顔を背け、赤くなった顔を見られないようにした。ついでに『涎、
垂れてないかな?』と口元を袖でゴシゴシと拭う。
「いえ。私が戻ってくるのが遅かったんです」
話を聞くと、最初は思った通りの説教だったらしい。しかし、時が進むにつ
れて何故か世間話になっていったそうだ。それからしばらく話し込んだ後、ふと
時計を見て慌てた雪菜は、燕に丁寧に断ってから教室に急いで戻ってきて、それ
から寝転けていた一郎太を起こしたのだ。
「すみません。遅くなりまして」
「え? いや、別にいいよ。僕も寝てたんだし。──それじゃ、そろそろ帰ろ
うか?」
一郎太は席を立ってリュックサックを背負い、雪菜を促した。
「はい」
二人は教室の電気を消すと、暗くて不気味な夜の学校を後にした。
「──あれっ?」
下足室で靴をはきかえて外に出た時、一郎太が声を上げた。
「どうしたんですか?」
後ろから不思議そうに雪菜が聞いてくる。
「……雪が……消えてる……」
「え?」
雪菜は一郎太の横に立って、辺りを見回した。少年の言う通りだった。今朝
、確かに積もっていた雪が跡形もなく消えている。地面は乾いていて、溶けた跡
さえ見られなかった。
「もしかして……君?」
がやったの、という言葉を省いて一郎太は聞いた。その問いに雪菜は首を横
に振る。
「私ではありません」
「そうなの?」
「はい」
一郎太は一歩踏み出してみた。感触は硬い地肌。完全に雪はない。どんどん
、と地面を踏みならしてみたが、地面は乾いていて、柔らかくなかった。
「……ま、いっか。じゃ、帰ろう」
「あ、あのっ──」
歩き出した一郎太を、雪菜が呼び止めた。一郎太は首を回して、顔だけを彼
女に向ける。
「ん?」
優しそうな微笑みをたたえて、一郎太は呻いた。
「あの……私、雪菜です」
「へっ?」
目が、点になった。
「私の名前は、雪菜です」
「はい?」
一郎太の顔がハニワになった。穴になった目と口を冷たい風が通り抜けてい
く。
「あの……その……一郎太さん、私の名前を呼んでくれないから……その、忘
れたのかな、と思いまして……」
雪菜は目を合わせないよう俯いて、両手の指をモジモジさせながら言う。暗
闇でよくわからないが、一郎太は雪菜の顔が赤くなっているような気がした。
「あ」
言われて初めて気がついた。一郎太は雪菜のことをずっと『君』としか呼ん
でいなかったのだ。
一郎太の顔に動揺が走る。
「い、いや、別に忘れていた訳じゃ……」
そう。彼は忘れていたわけではないのだ。
何故、一郎太は雪菜の名前を呼ばなかったのか。
それは、ただ単に名前で呼ぶ機会を失っていただけだったりする。とどのつ
まり、最初に『君』と呼んでしまったので、今さら名前で呼ぶのが不自然ではな
いかと思ってしまい、異性に対する気恥ずかしさも手伝って、今まで名前を呼ぶ
ことが出来なかったのである。
しかし、雪菜はそれを一郎太が自分の名前を忘れたと思ってしまったのだ。
(やばい……傷つけちゃったかな……?)
内心で反省する。自分の浅はかな行動が雪菜を傷つけたのでは無かろうか、
こんな事なら最初から名前を呼んでいれば良かった、と。
「ぁあ……その……ごめん」
言ってから、少し後悔する。もう少しましな謝り方も有るだろう。
「いえ……」
雪菜は指をモジモジさせたまま、小さく頭を振った。
結局、謝罪の言葉一つだけで、二人は歩き出した。
来た道をそのまま逆に辿るだけの道。道中、二人は口を開かず、暗い雰囲気
のまま静かに歩いていた。
沈黙。
二人の耳に届くのは、自分と相手の足音。時折、車の排気音や電車が走る音
が聞こえてくる。
やがて、歩いている内に一郎太と雪菜が初めて出会った所まで来た。そこで
、唐突に雪菜が口を開く。
「──あの……」
「え?」
「先生から聞いたんですが……一郎太さんって、強いんですね」
聞いた、というのは一郎太が剣道で<三神衆>を負かした、あの事であろう
。あの事件は学校中の人間が知っていることだ。どうやら燕が世間話の途中でこ
ぼしたらしい。
「あ、うん……まぁね」
一郎太は視線を逸らしたまま、曖昧な相槌を打つ。右手の人差し指で恥ずか
しそうに頬を掻いた。
はた、と沈黙。
二人の間に再び静寂が訪れた。
たっぷり数十秒の間を置いてから、今度は一郎太から口を開いた。
「──お父さんがさ、僕に教えてくれたんだ。ちっちゃい頃から中学の三年ぐ
らいまで。なんか、剣術知ってて、銃の使い方も詳しいんだ」
一郎太はそこで一息つく。
「剣術って、剣道とは違うんだ。わかる?」
「いいえ」
少年の問いに、雪菜は首を横に振った。礼儀正しく、その瞳は一郎太に向い
ている。
「剣道はよく知らないけど、何て言うかなぁ、こう、人の道みたいなものを、
剣を通して学ぶ、っていうのかなぁ」
半開きの右手の掌を上に向けて、何かを持ち上げるような動作をする。ただ
のジェスチャーだ。あまり意味はない。
「でも剣術はね、人を剣で殺すためのものなんだ。剣道とは目指すものが違う
んだよ。だから、強い。たとえ相手が剣道三段でも、僕には勝てないだ」
雪菜は何も言わない。一郎太の表情が、自慢をしているそれには見えなかっ
たからだ。
「他にも、銃の使い方や、爆弾の作り方……いろいろと危ないことを教えても
らったよ」
「はい」
また一郎太が一息ついたので、雪菜は先を促すように相槌を打った。
「──ま、全然役に立ってないけどね」
そう言って少年は苦笑を雪菜に向ける。雪菜もつられる様に笑顔を浮かべ、
くすっ、と笑った。
ここでまた、数秒の沈黙。気まずい雰囲気が流れそうになる。
それを防ぐように、一郎太が雪菜に聞いた。
「そういえば、き──」
はっ、とする。また雪菜のことを『君』と呼びそうになった。
「──雪菜の」
そう言い直した時だ。
「はいっ!」
「へっ!?」
雪菜が元気のいい返事をした。満面の笑みを浮かべて、まるで餌をねだる犬
のような目で一郎太を凝視している。
一郎太はびっくりして硬直。
(な、何……? もしかして、名前を呼ばれたことがそんなに嬉しかったの?
)
こほん、と咳払い一つ。一郎太はひっくり返った胸中を落ち着かせた。
「……雪菜の両親って、どんな人?」
「えっ?」
少年の質問に、少女は意外な反応を示した。少し驚いたような顔で、一郎太
を見つめている。
「わ、私の両親は……」
何処か、言いずらそうだ。視線を落として、何か考え込んでいる。その表情
からは動揺が見て取れた。
「あ、いいよ。無理して言わなくても」
一郎太は雪菜を気遣ってそう付け加えた。実際には、興味津々だったのだが
。
「すみません……」
肩を落として沈んだ顔で、雪菜は一郎太に謝った。
と、そうこうしている内に、二人は家に到着した。
父か母か、どちらかが先に帰宅しているのだろう。窓から光がこぼれている
。
「さ、入ろうか?」
「はい」
一郎太はドアを開けて、二人は家の中に入り、雪菜がドアを丁寧に閉めた。
バタン、とドアが閉まった直後。
ずぅぅ……ん、という腹に響く低い地鳴りの様な音が、遠くの方から響いて
きた。住宅街の向こう、ビルの群が立ち並ぶビジネス街の方向からだ。
幸か不幸か、一郎太と雪菜の二人は、その音に気付かなかった。
「人に害なすモノ。それが『敵』だ」
白髪の混じり始めた髪を短く刈った頭に中肉中背の身体、そして巌のような
顔。滝山平八は壁と平行するように背筋を伸ばし、道場の真ん中に鎮座して厳か
な声でそう言った。
「はい」
父と同じく白い道着に身を包んだ桂子は、父と同じく背筋を伸ばして頷く。
「我ら『退敵師』は、その名の如く、『敵』を退けることが使命だ」
「はい」
親娘の間に二振りの剣が並べて寝かされていた。二つの剣先は太陽の方向に
向いている。東の空から昇る朝日が、格子窓の隙間を通り抜け、二本の剣を照ら
していた。
片や幅広の、刀身や柄に呪文が刻まれた青銀色の剣。名を覇王剣という。
片や長く赤い刀身を持つ、柄に紅玉が埋め込まれた剣。名を赤帝砕破剣とい
う。
「本来、『退敵師』は依頼を受けて『敵』を斬る者。しかし、滝山家の者は違
う。……わかっているな」
「わかってます」
平八の問いに、桂子は凛とした声で答えた。
代々、社会の裏で『退敵師』を営んできた滝山家は、誰の依頼もなく、報酬
もなしに『敵』を滅することで有名だ。ただし、名が通るのは裏の世界だけでだ
が。
「我らは勇者の子孫。誇り高い血を継ぐ者」
「はい」
父と娘の真摯な視線が絡まる。その四つの眼は、誇りの結晶で出来ていた。
気高さ、情熱、正義感。二人の瞳はそれらで満ち満ちている。迷いのない、宝石
のような瞳だ。
滝山家には、とある伝承がある。
それは勇者の物語だ。とはいえ、ロボットが原型がわからなくなるぐらい合
体を繰り返す物語、では決してない。
昔、二振りの剣を携え、胸と腹に『聖義』の文字を刻んだ白い鎧を纏った青
年がいた。
彼は『全てを知る賢者』から勇者の資格である兜を譲り受け、心許せる友と
共に数多くの悪を滅ぼした。
その勇者が覇王から譲り受けたのが、持ち主の力が強ければ強いほど強力に
なる剣、覇王剣。
赤竜帝から譲り受けたのが、闇を秘めた炎を発する剣、赤帝砕破剣だ。
今、二人の間に置かれている二本が、それらの剣である。
滝山家において『聖剣』と呼ばれているモノだ。
──はっきり言って、単なるお伽話である。他人が聞けば大爆笑間違いなし
、へそで茶が沸く話だ。
だが、滝山家の者はこれらを全て、信じていた。盲信と言ってもいい。
馬鹿も一緒に、先祖代々受け継がれているのだろう。
「正義のために剣を振るう使命と共に、今、覇王剣と赤帝砕破剣をお前に渡そ
う」
「…………」
桂子は床に手をおいて一歩分後ろに下がる。そして、両手をついて深々と頭
を下げた。
こうしてこの日。
桂子は『退敵師』三位の滝山の名と、勇者の資格である二振りの剣を受け継
いだ。
神無学園の入学式。その前日のことであった。
桂子はまるで忍者のように、ビルとビルの間の路地裏に隠れていた。
(一体、何処に行くのかしら……?)
正義に燃える『退敵師』の少女は、臭ってくるゴミの匂いに顔をしかめなが
ら、追跡している目標の後ろ姿を眺めた。
黄色いピンクハウス系の服を着た、紺髪の少女。
ビジネス街の歩道の上を歩く少女は、物珍しそうに辺りをキョロキョロと見
回しながら歩いていた。周囲にはまばらに、帰路につくサラリーマンのお父さん
達の姿が見える。この界隈のビルの明かりは、殆ど消えていた。
(……どうする? このままじゃ埒があかないわ……)
ジリジリした気持ちで、桂子は少女の背中から目を離さない。離されないよ
うに、しかし一定の距離をとりながら後を追跡けていく。時折少女が振り返るの
で、物陰に隠れながらの追跡となっていた。
ちら、と左腕を見ると、時計の針は八時五三分を示している。
(……ええい、もう! 当たって砕けろだ!)
いい加減面倒くさくなってきたのか、桂子は路地裏から出て、早足で少女を
追いかけた。
まだ玄関口の明かりがついているビルの前で、素早く少女の前に回り込む。
「ねえ、あなた。こんな時間に何してるの?」
さりげなく、『世話好きで子供好きでお節介で優しいお姉さん』を装いなが
ら話しかける。ピタ、と少女の足が止まったので、桂子も合わせてその場に立ち
止まった。
しゃがみ込んで、少女の視線に合わせようとする。覗き込んだ瞳の色は、紅
玉のように赤く、美しかった。そして、耳があるべき箇所から黄玉の如き妙な棒
が六本、後ろに向かって生え出ている。
「お名前は何て言うの?」
『お姉さん』は少女の肩に手をおいて、優しく語りかける。
しかし、返ってきたのは思いがけない辛辣な言葉だった。
「相手の名前を尋ねる時は先に名乗るのが礼儀でありませんこと?」
「えっ?」
あまりに予想外の反応だったためか、桂子は数秒ほど固まってしまった。
と、少女がこちらを見ているのに気付き、慌てて言葉を紡ぐ。
「え、あ、そ、そうね。お姉ちゃんは滝山桂子って言うの。あなたは?」
聞かれた少女は、肩に乗っている桂子の手を静かに外した。そして一歩後ろ
に下がり、スカートの裾を両手で少し持ち上げ、可愛らしく御辞儀をする。
「私、ディスター=ゼクス=パティオ=ティアラと申します」
「へっ?」
長い名前だった。名前に対して、氏と名、と言う観念がある日本人に対して
、これは厳しい。当然の如く、桂子は覚えきれなかった。
「え、えーっと……」
人差し指を顎に当てて、冷や汗を掻きながら頭を回転させる。しかし、先程
聞いた名前どころか、何も浮かんでこなかった。
ふぅ、と少女が溜息をつく。
「物覚えの悪い方ですわね。ディスター家の六女のパティオ。愛称をティアラ
と言います」
小さな唇がスラスラと言葉を並べ立てる。ご丁寧にも説明してくれたらしい
。
「えっと……な、何て呼べばいいのかしら?」
「ティアラで結構ですわ」
賢しく肩を竦めるティアラ。子供とは思えない態度だ。ぷい、と横を向いて
髪を後ろに流す動作も、何処か大人っぽい。
「じゃ、じゃあ、ティアラちゃん。こんな時間にこんな所で何してるの?」
心なしか、桂子の額に青筋が浮かんでいるように見える。優しかった笑顔が
、ひきつった笑顔になっていた。
そしてそれは、ティアラの次の言葉で明確なものとなる。
「『ちゃん』を付けないでもらいませんでしょうか。馴れ馴れしい」
空間に亀裂が走った。まるでガラスを叩き割ったかのように、目に見えない
罅が二人の間に出来る。桂子の青筋は既に三十個を越えていた。
(こ、このクソガキ……!)
『お姉さん』は心の中で血が滲むほど拳を握りながらも、平静を取り繕う。
ここで怒ってはダメだ、と自分に何度も何度も言い聞かせることで、何とか冷静
さを保った。
顔は聖母、心は般若。ちょうどそれが、今の桂子だった。
「じゃ、じゃあ、ティアラさん──」
桂子が譲歩して、そう言い直そうとした時だ。
ティアラが追い打ちをかけた。
「『さん』? 図々しい。ティアラ『様』とお呼びなさい」
──ぷっちぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃん。
何かの糸が、何処かで切れた。
ゆらゆらと、『お姉さん』の全身から青いオーラが起ち昇る。
「……? 今、何か音がしませんこと?」
「……いいえ、お姉ちゃん、わかんないなぁ……」
見ているのが恐ろしいぐらい、桂子は笑顔を保っていた。既に限界は超えて
いる。今ここで少女をフクロにしても、不思議ではないはず。だが、彼女は笑っ
ている。額の青筋は、もはや数える気にもなれない。
それは、形容できないほど恐ろしい笑顔だった。
「……ねぇ、ティアラ様。あなた、何処から来たの……?」
暗い影のさす笑顔で、桂子は震える声で聞く。『様』の部分で語調がやや強
い。
「<球地>からですわ」
『様』を付けたことで満足したのか、今度のティアラは正直に答えた。
「……きゅうち……?」
桂子は陰鬱な声で、聞き慣れない単語をオウム返しにする。
ティアラは、ふぅ、とまた溜息をついた。
「無知な方ですわね。……いいですか。私は、<球地>の機械国家カ・グラス
から、自由なる伯爵の御力によって、ここ<異世界>へとやってきたのです。お
わかり、いただけます?」
苛立ちげで、それでいて侮蔑をふんだんに詰め込んだ声で説明する。
しかし、桂子からの反応はない。相槌も、頷く動作もなかった。
桂子の右腕が持ち上がり、その人差し指が、ティアラの、耳があるべき箇所
から後ろに向かって生えている黄玉の如き妙な棒を指した。
「……その棒は何……?」
無表情な声。桂子の人差し指は、微かに震えていた。
桂子の問いに、ティアラの顔が少し、ムッ、としたものに変わる。
「棒とは失礼なっ。誇り高い竜人の角に向かって、何て物言いですかっ」
腰に手を当てて、髪を後ろに振り払いながら、ティアラは子供らしかぬ瞳で
桂子を睨み付けた。
しかし、桂子はティアラの言うことを聞いていなかったようだ。
「……球地……自由なる伯爵……異世界……機械……竜人……角……?」
下を向いて、なにやら小声でブツブツと呟いている。
「──ちょっとあなた、私の話を聞いているのですかっ!?」
「いつ、ここに来たの……?」
文句を言うティアラの声を無視して、桂子は聞いた。
「昨日の朝ですっ! それが何かっ!?」
怒声で答えるティアラ。どうやら彼女は相手に無視されることが嫌いらしい
。話を聞いていなかった事に随分こだわっている。
と、桂子が両手を天に向けた。
足を伸ばして、立ち上がる。つられるように、ティアラの顔が上を向いて桂
子を見上げた。
きゅぉん、という不思議な音。
天に向かって伸ばされた桂子の両手に、青と赤の光が生まれる。二つの光球
の正体は、墨で紋様が書かれた紙切れ。
ぽん、と光が弾けて、光を放つ紙切れが青銀と赤紅の剣に変化した。
「こんっ──!」
細い少女の両手が、力強く二本の剣を掴む。
そして、眼下の少女めがけて、勢いよく振り下ろした。
「──のクソガキぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」
ティアラの目が、見開かれる。
「きっ──きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
ティアラの甲高い悲鳴と、岩の砕ける様な音とが、同時に辺りに響き渡った
。
「──なっ!?」
二本の剣は、少女を切り裂いてはいなかった。まるでティアラを守るかの様
に、そして囲む様に飛びだした数枚の岩の壁によって受け止められている。ちな
みに、足元のアスファルトは突き破られ、細かい罅が走っていた。
「ちっ」
舌打ちしながら、桂子は岩にめり込んだ剣を抜く。
(やっぱりっ……! このガキが焼却炉壊した犯人ねっ!)
早めの回転で思考しつつ、桂子はスカートのポケットから呪文の書かれた符
を取り出し、上空に向けて放った。
「いっ、いきなり何をするんですのっ!」
岩の壁に遮られて見えないが、壁の向こうからティアラのヒステリックな声
が聞こえてきた。
「うるさいっ! あんたっ、<来訪者>でしょっ!」
しかし桂子はそれを無視して、壁越しに少女に向かって怒鳴りつける。
「はっ? い、一体何の事ですのっ!?」
壁の向こうから、本当に訳が分からない、といった感じの声が返ってきた。
「<異世界>って言葉でわかったわ! あんたがこっちの世界に来たから、<
門>からそっちの世界の下級精霊が流れ込んできて、こっちの『奴等』が活性化
したのよっ!」
ティアラは『ここ』の事を<異世界>と呼んだ。それはつまり、桂子から見
ればティアラが来た世界こそが<異世界>と言うことである。
かつて、<異世界>の存在が『ここ』に来たことが何度かあった。
『退敵師』の間では<異世界>から来た存在を、<来訪者>と呼んでいる。
そして同時に、忌み嫌ってもいるのだ。
<来訪者>は『ここ』へやってくる際、余計なおまけをつれてくるからだ。
『余計なおまけ』とは、先程の桂子の言葉の中にもあった『下級精霊』の事
である。
これまた『退敵師』の定義ではあるが、精霊には四段階あると言われている
。下級精霊、下位精霊、中位精霊、高位精霊の四段階だ。
この内、下級精霊とは、属性や意志を持たない存在。つまり、『力』そのも
のを指す。
それ故、桂子達『退敵師』が『敵』と呼ぶ者達は、下級精霊を得ることでそ
の『力』を強める。いわば、下級精霊は滋養強壮ドリンクに近い物があるのだ。
これらの事を一言で大阪の『退敵師』に言わせれば、
「うわぁおんどれ等こんな所来たらあいつら強くなってこっちゃてんてこまい
になるやないか」
と言うことになるらしい。ちなみにプライバシー保護のため、一部音声を変
えております。
「だからあんたを追い返すなり殺すなりしないと、<門>が閉じなくてこっち
は収拾がつかなくなっちゃうのよっ!」
<門>とは、二つの世界を繋ぐ接点のことである。簡単に言えば時空の歪み
。宇宙にあるワームホールのようなものだ。
そして、<門>はそこを通った者が元の世界に帰るか、あるいは<門>を維
持する力を失うまで存在し続けるのだ。
「──んでもって、追い返すのは面倒だし、あんたムカつくから……」
一息。
「退治してあげるわっ!」
「むっ、無茶苦茶言ってますわよあなたぁっ!」
「問答無用っ!」
ティアラの訴えを非情にも却下しつつ、左手に持った赤帝砕破剣を上段に構
える。赤い剣の刀身から、紅い炎が溢れだした。
「でやぁあああああぁっ!」
振り下ろした炎を纏う剣が岩の壁を打ち砕く。悲鳴を上げつつ、岩の破片が
いくつも宙に舞った。
しかし、そこに竜人と名乗った少女の姿はない。
「!」
ふっ、と上空から影が差した。
「上かっ!」
見上げると、そこには月光を遮る物体。
「降り懸かる火の粉を払わないほど──!」
空中でティアラが叫んだ。同時に、チャキッ、と言う音が桂子の耳に届く。
「──私はお人好しではありませんわよっ!」
銃声。
一発の弾丸が、桂子の足元のアスファルトを穿った。
「……へっ?」
キョトン、とする桂子。
しかし上空からの攻撃は止まらない。
銃声とアスファルトが削られる音が連続で響く。
最初のも含めて、合計五つの銃声が夜気を叩いた。
桂子の前に、ティアラがスカートをヒラヒラさせながら華麗に着地する。そ
の右手は黄金色の拳銃を握り、銃口を桂子に向けて固定していた。
その銃は一八五五年頃のパーカッション式リボルバーだ。自動コック、ダブ
ルアクション式で、片手で操作できる。トリガーガードの下に付いている下引き
金を引くと弾倉が回り、撃鉄が起きる仕組みになっているのだ。
が、そんなことが桂子にわかるはずもない。ただ単に、
(妙な銃ね)
と思っただけだ。
だが、流石の桂子も、ティアラの拳銃を見て少したじろいだ。
「ちょ、ちょっとぉっ!」
「何ですの?」
「あんた地面から岩出すだけが能じゃなかったの!? 何でそんな危ない物持
ってんのよっ!」
むちゃくちゃな物言いだ。大きな刃物を二本も持つ人間が言う言葉では無か
ろう。
ティアラは、ふぅ、と溜息。
そして、赤い瞳で桂子を見据える。
「先程のあなたの言葉をそっくりお返ししますわ」
「えっ?」
「問答無用、です」
瞬間、キン、と言う金属音が辺りに響き渡った。同時にティアラの拳銃の弾
倉が回転する。
そして銃声。
「きゃぁっ!」
弾丸が桂子の顔のすぐ横を通り抜けていった。
「ど、どーして弾丸が……!?」
桂子とて伊達に『退敵師』をやってはいない。何発弾丸を込められるか、弾
倉を見ただけでわかる。彼女の見た限り、あの銃は五発しか入らないはずである
。そして、先程の五発で弾丸は全て撃ち終えたはずだ。
しかし、六発目が飛びだした。
(一体どういう……)
考えている暇はなかった。撃鉄の起こる音が聞こえたからだ。
桂子は身体、いや、身体を包む制服に意識を集中させる。
すぅ、と身体が軽くなるような感覚。服の中に仕込んである符が発動したの
だ。
そして、先程上空に投げた符の効果もそろそろ出てくる頃だ。あの符には術
者の意思が命じる存在以外を周囲から遠ざける効果がある。
既に周囲の人気はない。ビルの灯も全て消えている。サラリーマンのお父さ
ん達は皆、家族の元へ帰ったようだ。
リボルバーが火を噴いて四発の弾丸を吐き出す。
銃声と同時に桂子は路面を蹴った。
「はぁああぁっ!」
眼鏡を掛けた人間が見れば眼鏡を取り外して拭くだろうか。桂子は四つの鉛
玉を両手の剣で弾き飛ばした。そのまま勢いを殺さずに一瞬で間合いを詰める。
制服の中に仕込んであった符には、術者の身体能力を数倍に跳ね上げる効果
があったのだ。
一閃。覇王剣が下から上へ伸びる青銀色の線を描いた。
しかし、ティアラは後ろへ跳んで紙一重の差で切っ先を避ける。光の弧が鼻
の先スレスレで通り過ぎていった。
キン、と金属音。リボルバーの弾倉が回転する。ティアラは空中で、銃口を
桂子に向けた。
銃口の数は、二つ。
「!?」
ティアラの左手に、もう一丁の銃が現れていた。
拳銃の中でも有名な、黒いピースメーカーだ。別名フロンティア。最もオー
ソドックスなリボルバーである。しかし、ティアラの持つピースメーカーには通
常とは違う所があった。銃身が四十センチほどもあるのだ。通常の二倍以上はあ
る。
二本の引き金が順番に、連続で引かれる。順々に二つの銃口が火を噴いた。
これに対し、桂子は覇王剣と赤帝砕破剣を自分の前で交差させる。桂子の頭
、腕、足、各箇所を狙って飛んできた無数の鉛玉は、覇王剣と赤帝砕破剣が展開
した不可視の力場によって弾き返された。
見えない盾を前に出しながら、先程とは逆の足で、桂子はもう一度地を蹴る
。
ぐん、とティアラに近付いた。
「でやぁあああっ!」
交差させていた双剣が×の字を描く。覇王剣の刀身は光を放ち、赤帝砕破剣
は闇を含む炎を纏っていた。
ティアラはもう一度バックステップ。これを避ける。
ゴバァ、とティアラの手前のアスファルトから岩の壁が飛びだし、桂子の視
界からティアラを隠す。幅一メートル、高さ二メートルの壁だ。
「しゃらくさい!」
叫びながら、剣を引いて構え直す。
光を放つ覇王剣が壁の中心に炸裂して、壁を砕き散らせる。岩の破片でティ
アラの姿は確認できない。それでも桂子は左手の赤帝砕破剣を上段から振り下ろ
した。
手応えは──無かった。
「私はここですわよ」
声は上空から聞こえた。
すぐ上。距離は近い。見上げて撃たれる愚を避けて、桂子は後ろへ跳んだ。
──が、攻撃は来なかった。
「え?」
気抜けして、辺りを見回す。竜人の少女の姿はない。上を見る。
「──あっ!」
ビルからビルへと跳んでいる人影が見えた。シルエットは小さい。スカート
らしき影がヒラヒラしている。
ティアラだ。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよぉっ! 逃げるなんて卑怯よっ!」
奇襲を仕掛けた者が何を言うか。
慌てて桂子も跳躍。近くのビルの、半分の高さまで跳んできて、覇王剣を半
ばまで壁に刺し込む。手を離し、覇王剣の握りを足場としてもう一度跳躍。屋上
までは届かなかったので、手を屋上の縁に掛ける。重力に捕らわれる前に身体を
持ち上げ、宙返りしながら屋上に乗った。
「来いっ!」
桂子が手を下に向けて叫ぶと、覇王剣の刀身に刻まれた呪文が光を放つ。ま
るで超能力者の念動力で操られるかの様に、覇王剣が壁から抜け、上昇して桂子
の手に収まった。
「逃がさないわよっ!」
ティアラを追ってビルの屋上から屋上へと跳ぶ。
何度かその繰り返しをして、そろそろティアラに追いつきそうになった、そ
の時だ。
ティアラが大きく跳躍した。上に。
「──っ!?」
そして、少女は跳躍の頂点で高度を維持する。背に生えた、黄玉色のオーラ
の羽根で。
桂子は一つのビルの屋上で立ち止まり、呆然と天使のような少女を見上げた
。
ティアラが空中で振り返る。その手に、新しい銃が一丁握られていた。
銃身が太く長い、機能美を追求した飾り気のない、少女には似合わない無骨
な銃だ。まるで闇を固めたような質感で、金属のように月光を反射していない。
その銃はまるで光を吸い込んでいるようだった。
ティアラが銃口を真下に向ける。
キン、と金属音。
「なっ!?」
ビルの下から、大地の至る所から黄玉色の光が飛びだした。真っ直ぐ、幾条
もの光の紐は空に吸い込まれ──はしなかった。
全ての光の紐は物理法則を無視して、空中でその軌道を変え、ティアラの持
つ銃の、下に向けた銃口へと吸い込まれていた。
そんな幻想的な光景を、桂子は呆然と見つめていた。
光の羽根を生やした、光を操る天使。少女が竜人だと知らなければ、そう思
っていただろう。ただし、その羽根は蝶々のようで、鳥のそれとは少し違ったが
。
やがて、光の紐の放出が止まった。
空に浮かぶ少女が、銃口を持ち上げる。そして、桂子に向けて照準を固定し
た。
「──!?」
桂子は、はっ、と我に返った。
素早く両手の剣を構える。
直感が、次の攻撃は強力だと告げていた。
少女は自分の直感を信じている。
そして直感は、防ぎきれないかもしれない、とも告げていた。
(防げないのなら、撃たせなきゃいいのよ……!)
そう決意し、剣を持つ手に力を込める。彼女の辞書に『避ける』という文字
は、隅っこに小さく書かれているだけだ。
見ると、黒い拳銃は全体から黄玉色の光を放っていた。その輝きが、段々、
段々、強くなっていく。
「はぁぁぁぁぁ……!」
力強い呼気と共に身体の奥底から力を引き出していく。覇王剣の柄と赤帝砕
破剣の柄を隣合わせ、切っ先を空に浮かぶティアラに向ける。
覇王剣が青銀色の光を、強く強く放つ。応えるかのように、赤帝砕破剣も強
く強く闇をはらんだ炎を放ちだした。
桂子は深く息を吸い込み、あらん限りの声を張り上げる。
「赤帝砕破ぁっ!」
桂子の声に応え、赤帝砕破剣を包んでいた炎が剣先で凝縮し、赤い閃光とな
って飛びだした。きりもみ状に回転しながら飛ぶ赤光の先には、銃を構えた竜人
の少女。
赤い閃光はティアラの一メートル手前で突然、弾け分かれた。四方八方に分
かれた光は弧を描き、上手にティアラを避け、後ろに回り込んで再び合流する。
ティアラを囲む球体の檻が完成した。
桂子は二振りの剣を下段に構え、両腕を腰の右に移動させる。そして剣先を
持ち上げて後方に向け、剣の腹を地面と水平に固定した。
腰を屈め、左足を前に出す。
タン、とビルの屋上を蹴った。
ふわり、と少女の身体が浮き上がり、まるで滑るように空中を走る。
速い。
覇王剣の放つ光が爆発的に強くなり、すぐ隣にある赤帝砕破剣を飲み込んだ
。
二本の剣が、桂子の手の中で融合し、一本の剣となる。紫炎を放つ巨大な剣
に。
長さ二メートル半を越す紫の光剣を引きずる様にして飛びながら、桂子は強
い視線でティアラを見据える。
竜人の少女は、檻に囚われていながら、それでも銃を構えて笑みを浮かべて
いた。
「覇王──!」
雄叫びを上げながら、桂子はティアラに迫る。
ティアラまで後一五メートル。
十メートル。
八メートル。
六メートル。
そして四メートル。剣を振るえる間合いまでもう少し。
刹那。
ティアラの手にあった光の点が、瞬時に円となった。
それがティアラの銃から打ち出された、直径一メートル、長さ三メートルを
越す紡錘形の光弾だと気付くのに、桂子は一瞬の間を要した。さらに、黄玉色の
光弾によって赤光の檻はあっさり壊されてしまった事に気付くのに一瞬の間。
その頃には既に光弾は目の前にまで迫っていた。
「──斬っっ!」
何も考えず、殆ど反射神経によって、桂子は全身の筋肉を総動員して紫の光
剣を旋回。光弾にぶつけていた。
黄玉色の光弾と紫色の光剣が、一瞬せめぎ合い──
爆発した。