その日、一郎太の住む片桐市で、大きな爆発が起きた。
ビルが吹き飛び、アスファルトがはぎ取られ、大地がえぐられたほどの大爆
発だ。
それはちょうど、一郎太と雪菜が学校から帰ってきて、家の中に入った瞬間
に起きたものである。
しかし、長沢家の者は、誰一人として、この爆発に気付かなかった。
なぜなら、爆発は玄関の『ドアを閉めた後』に起きたから。
そう。ドアを閉めてしまったが故に、彼らは気付かなかったのだ。
それでは何故、ドアを閉めただけで長沢家の者は爆発に気付かなかったのか
。
まず、爆発の際に発された光。もちろん、これは『ドアを閉めた』という理
由で十分だ。障害物があれば光は見ることは出来ない。
次に、爆発音。これは、一郎太の家の壁が、全て防音素材を使っているため
だ。この界隈は暴走族が多いので、安眠を守るために改装したのである。
最後に、衝撃による微かな地震。これについては一郎太の父、長沢晴一郎が
息子にこう言っている。
「この家はな、最新の耐地震設計なんだぞ。凄いだろ」
何故このような一般住宅に最新の耐地震設計が成されているのかは、永遠の
謎である。
とまぁ、以上の理由で雪菜を含む長沢家の人間は、誰一人として、この日起
こった爆発に気付かなかった。
そして、爆発が起きたビジネス街が大騒ぎしている頃。
一郎太は、部屋の壁にもたれて座ったまま、ぼぉっ、としていた。
学習机とクロゼットとベッドを除けば、この部屋にあるのは本ばかり。大き
な物から小さな物まで、併せて十一個の本棚が所狭しとひしめいている。
本棚の中に収まっているのは、殆どがファンタジー小説やSF小説だ。これ
を見れば少年の趣味は一目瞭然であろう。
「…………」
部屋の主の少年は、視線を中空にさまよわせながら、なにやら思考に耽って
いた。
一体何を考えているのかといえば。
(なんなんだろう。このジョーキョーは?)
何を今さら、というような疑問である。
なんだろうと聞かれても、完全防音で最新の耐地震設計の家を建てた父と、
そんな父の行動に文句一つ言わない母と、いきなり現れた可愛い雪女に囲まれて
いる状況、としか言いようがない。
事の発端は、雪菜が一郎太の目の前に現れたことだ。
アレはそう、雪を噴き出しながらの派手な登場だった。
(あの時の雪……冷たかったな)
あの時体に降り懸かった雪の冷たさを思い出し、一郎太は身を震わせる。
「…………」
ふと、視線を窓に向ける。本棚の間に挟まれた窓の向こう、そこには暗闇し
かない。雪は降っていなかった。
(それで……あの娘が『雪女』だって言って……)
ここまではいい。
だが問題はここからだった。
(何で僕はあの娘を連れて来ちゃったんだろう?)
最大の疑問である。
興味があったから?
(うん。確かに興味があった……、当たり前だけど、雪女なんて初めてだった
し)
視線が部屋中の本棚の上を撫でる。そこに収まっているのは、ファンタジー
とSFの塊だ。
(もしかして……僕は無意識に『こんな事』を望んでいたのかな?)
平凡な日常を打ち破る何か。それも大好きなファンタジーやSFになりそう
な、とびきり変わった何かを、一郎太は欲していたのだろうか。
(……わからない……)
今度は視点を変えて、別の方向から考えてみる。
可愛かったから?
(……ひ、否定できないっ……)
顔が赤くなる。自分で問うた内容とはいえ、少し情けなかった。
一目惚れ?
(……どうだろう?)
わからない。
だが、異性として意識しているのは、自分でもよくわかる。
一郎太の中で、雪菜は『友達以上恋人未満』と言う存在なのだ。
まぁ、相手がどう思っているかは、別にしてだが。
(──って、僕は何を考えているんだ。相手は雪女なんだぞ?)
頭の中で、自分で自分にハリセンで突っ込みを入れる。しかし、突っ込まれ
た自分は反省する気が無さそうだ。顔は赤いまま戻らない。
(おいおい……僕はどうしちゃったんだ? いつかは別れる女の子に──)
ズキッ。
「……え?」
胸が痛んだ。
思わず一郎太は胸に手を当てる。
(……何? 今の……)
今はもう痛くない。先程の一瞬、胸に杭を打ち込まれたような痛みが走った
のだ。
(あの娘と別れると思ったら……痛くなった?)
しばし呆然と、手を当てた胸を見つめる。
(……まさか……ねぇ?)
頭に浮かんだ一つの解答を無視して、一郎太は先程の胸の痛みを忘れること
にした。
(あの娘に会ってからまだ一日しか経ってないじゃないか……)
軽く頭を振り、天井に張り付いた蛍光灯を見つめ、ふぅ、と自嘲気味に溜息
をつく。
と、ドアのノックされる音が一郎太の頭を叩いた。
はっ、と意識が明瞭になる。いつの間にか魂が別の世界に言っていたらしい
。
「はい?」
返事をすると、ドア越しに母親、長沢皐月の声が聞こえてきた。
「いっくん、あのね、なんかね、柿木君と岩本君みたいなんだけどね、えっと
ね、タカとかユージとか名乗っててね、『トオルいますか?』なんて言っててね
、お母さんどうしたらいいか……」
「はいはいはいはい」
電話の『ピロピロピロ』という保留音と、困惑した母の声で一郎太は全てを
理解した。『タカ』だの『ユージ』だのと名乗る輩は、あの二人しかいない。ち
なみに『いっくん』とは一郎太のことだ。
ドアを押し開けて、廊下に立っている、歳よりも若く見える母親から、ピロ
ピロ鳴っているコードレスフォンの受話器を受け取る。渡してくれた母は情けな
いことに目に涙を溜めて、すんすんと鼻を鳴らしていた。
「いっくん……」
「はいはいありがとっ」
おざなりにそう言って、バタンとドアを閉める。
「もしもし?」
遠く『おとーさぁぁぁぁん』という母の涙声を聞き流しながら、一郎太は受
話器に耳を近付ける。
ピロピロピロピロピロピロピロピロ。
「あれ? あ、しまった」
まだ保留状態だった。『通話』と書かれたボタンを押して、再び耳を近付け
る。
「もしもし?」
『よう。トオル、元気か?』
「柿木か? って、僕はトオルじゃない。で、何の用?」
遠く、父の『おやおや、どーしたんだいマイハニー』という声が聞こえた。
『おいおいそんな邪険にするなよ。なぁ、タカ?』
『あぁ、ユージ』
ユージこと柿木洋治の呼びかけに対し、別な声が応じた。タカこと、一郎太
の親友であり、漫画研究部部長である岩本正吾だ。彼は一年生の時は同じクラス
だったが、今は別々なクラスに分かれてしまっている。
二人の声が聞こえるという事は、相手はハンズフリーにしているらしい。
『俺達はただ、トオルと雪菜さんが変なことをしてないか確認しようとしただ
けじゃないか。なぁ、タカ』
『あぁ、ユージ』
「何で君たちがあの娘の事を気にするんだよ?」
『そりゃぁ決まってるだろ。あんなに可愛い……って、第一おまえに従妹がい
たなんて聞いてないぞ。なぁ、タカ』
『あぁ、ユージ』
遠く、雪菜の『どーしたんですか?』と言う声が聞こえた。一瞬、ドキリと
する。一郎太は、万が一を考えて彼女の声が入らないように口元を手で囲った。
「従妹の一人や二人、いて当たり前じゃないか。何で僕がそんなことをいちい
ち言わないといけないんだ」
『おいおーい、つーめたいぜぇ? オレ達の仲じゃないかぁ、なぁ、タカ』
『あぁ、ユージ』
『……どーでもいいけどさっきから同じ事しか言ってないなぁ、タカ』
『あぁ、ユージ』
ピッ。
一郎太は無言で電話の『切』のボタンを押した。これ以上あの二人の相手を
する暇はない。
「ふぅ……」
溜息。
座り込んで、ドアにもたれ掛かる。
あの二人の相手をする暇はないが、これといってする事もなかった。
コツン、と後頭部をドアに当てると、ズルズルと体が下に擦り落ちていく。
ずるるるるるるるる。
最後には、一郎太は頭をドアに向けて寝転がっていた。
「……何をやってるんだろう、僕は」
何気なく呟く。
プルルルルルッ。
手の中の電話が鳴った。一郎太は素早く『通話』ボタンを押して受話器を左
耳に当てる。
「はいもしもし」
『おいトオル、いきなり切るなんてひど』
ピッ。
一郎太は問答無用で電話を切った。ついでに一階に降りて電話線をひっこぬ
いてやろうか、とも考えたが、めんどくさいので止める。結局、手首のスナップ
で受話器をベッドの方へ投げた。受話器は壁に当たり、柔らかいベッドの上に落
下して、ぽすっ、と頼りない音を出す。
再び床の上に寝転がった。
「はぁ……」
溜息。
と、その時だった。
がちゃ、とノブが回されて、頭上のドアが開いた。
「あのぉ、一郎太さん」
開けたのは雪菜だ。キョロキョロと室内を見回している。どうやら足元に寝
転がっている一郎太には気付いていないらしい。
雪菜は白いブラウスの上に黄緑色のベスト、下は黄色のフレアスカートとい
う格好をしている。まるで人形のように愛らしい。今までストレートに下ろして
いた髪は後頭部の高い位置で結われ、ポニーテールになっていた。覗く白いうな
じが、仄かに色っぽい。
しかし、一郎太にそれらは見えてはいなかった。強いて言えば、見えていた
のは黄色のフレアスカートの裏側だろうか。
だがしかし。
彼はそこにある『白』を見ていた。
「…………」
赤い顔をして、言葉もない。
目に映っているものもそうだが、一郎太の頭の中もまた、真っ白〜になって
いた。
「一郎太さん?」
雪菜はまだ足元の一郎太に気付かない。おかしいな、と思いつつ何度も室内
を見回すだけだ。
キョロキョロキョロキョロ。
と、少女はようやく自分の足元に頭を置いてスカートの中を覗いている変態
を発見した。
「──えっ?」
空気が、物理的に固まった。その上、ピキキッ、と亀裂が走る。
……静寂
…………静寂。
そして絶叫──は、起きなかった。
「……何をしてるんですか?」
その声は意外にも無邪気なものだった。
別な意味でギクリとする一郎太。
一郎太はゴキブリの如く、カサカサッ、と寝そべったままベッドの方へ移動
した。上体を起こした。立ち上がった。歩いた。学習机の椅子を引いた。座った
。雪菜の方に向いた。
これらを全て、一郎太は一瞬の淀みない動作で行った。
そして一郎太はこの一言を言った。
「な、何の用?」
ごまかそうとしていた。誰がなんと言おうと、ごまかそうとしていた。わざ
とらしいまでに、ごまかそうとしていた。
にっこり、と笑う雪菜。
次の瞬間。
当然の如く。
一郎太の部屋は南極大陸と化した。
「ごめんっ! ほんとーに、ごめんっ!」
未だ寒さに身を震わせながら、一郎太は床に額をぶつけていた。
「…………」
謝罪の言葉を受けている雪菜はそっぽを向いていて、その表情はわからない
。
「悪気は無かったんだ、アレは偶然なんだよ!」
雪菜は答えない。
一分ほど前、南極と化していた室内は、まだ完全には渇いていなかった。所
々、まだ雪が残っている。一番の被害は本棚だ。もう読めなくなった、というわ
けではないが、紙がふやけて読み難くなったのは事実である。下手をすると紙同
士がくっついてしまっているかもしれない。
「だから……つまり……とにかくごめんっ!」
一郎太はただひたすら下手に出て謝っていた。本気で悪いことをしてしまっ
たと感じているからだ。きょうびの健全な青少年なら、口で謝りながらも『いい
もん見たなぁ』と思っている所を、一郎太は心の底から『や、やばいっ! なん
て悪いことをしてしまったんだぁ!』と思って謝罪しているのだ。全く持って今
時珍しい、真っ直ぐな心の持ち主である。
しかし、<異世界>にも下着を見られて恥じ入るという習慣があったとは。
妙なところだけこちらの女の子と同じなんだなぁ、と一郎太はそれこそ妙なとこ
ろに感心していた。
「…………」
そっぽを向いていた雪菜が、一郎太の頭をチラリと見た。その紅潮した顔は
、怒っているようであり、拗ねているようであり、照れているような、複雑な表
情をしている。
雪菜は胸中複雑なまま、ふぅ、と溜息。身体と顔を一郎太に向けて座りなお
す。
「……もう、いいです」
「え?」
不意の雪菜の言葉に、一郎太は思わず顔を上げた。視界に恥ずかしそうな雪
菜の赤い顔が入る。その瞳は、一郎太をしっかりと見据えていた。真剣な表情を
しようとしているのだが恥ずかしさが抜けきらない。そんな表情だ。
不謹慎にも、一郎太の胸はドキリとした。
可愛い、と思ってしまったのだ。
「その……恥ずかしいですから……その話はもう止めてください……」
ついつい視線を逸らしながら、雪菜は言った。その声は少し震えていて、か
弱い。
そんな小さな声で、惚けていた一郎太は我に返る。
「う、うん……、ごめん」
一郎太は慌てて頷いて、最後にもう一度だけ謝った。コク、と雪菜が小さく
頷く。
そして。
沈黙が訪れた。
チッ、チッ、と時計の音が場違いなほど大きく聞こえる。窓の向こうで光が
瞬いた。この辺りを車か単車が通ったのだろう。いや、光は連続している。もし
かしたら暴走車の群──暴走族かもしれない。だが、一郎太にとってそんな事は
どうでもよかった。
(気まずい……)
聞こえるのは時計の針が時を刻む音。動くのは窓の向こうの光。しかし、光
は暴走族が通り過ぎてしまえばすぐに消えてしまうだろう。残るのは音だけだ。
そんなどうでもいい事が、今の一郎太にはとても危険に思えた。光が無くなって
音だけになれば、『何かとてつもなくヤバイんじゃないか?』という妙な焦燥感
があった。
不意に、自分の心臓の鼓動まで耳に届くようになる。
どくどくどくどくどくどくどくどく。
焦っている自分の心臓の音が、さらに焦燥感を駆り立てる。
次は息遣いが聞こえた。自分でも驚いてしまうほど荒い。雪菜に聞こえてな
いだろうか、と不安になる。様子を窺ってみると、雪菜は正座したまま固まって
、自分の膝あたりに視線を落としていた。
やがて、ついに窓の向こうの光が消えた。
かぁっ、と身体の芯が熱くなる。全身が火照って、頭がクラクラしてきた。
(ま、まずい……な、何か言わないと……)
一郎太の中に妙な使命感が生まれた。何か言わなければ、一体何がまずいの
か、それは誰にもわからない。
(ええぃ……ままよ!)
意を決して、一郎太は声を出す事にした。俯いていた顔を上げる。
声を出そうとした瞬間だった。
雪菜も同じように顔を上げたのだ。
「「あ、あのっ──」」
声が重なった。
その瞬間、二人は錆びたロボットの様に動きを止める。
再び、静寂が訪れた。
「──一郎太さんの方から、どうぞ……」
昨日と違い、先手を打てたのは雪菜の方だった。一郎太は心の中で、しまっ
た、と思う。できれば先に雪菜の用件を聞いて、心を落ちつける余裕が欲しかっ
たのだが。
「あ、うん……」
一郎太は頷いて、一度咳払い。
(──!?)
勢いが余ってタンが出てきた。びっくりして慌てて飲み込む。ちょっと間抜
けだ。
一つ、深呼吸。寒さを思い出した体が、再び微かに震え出す。
一郎太は口を開いた。
「その……僕に何の用だったの? さっき」
そう。一郎太はそれが気になっていた。
何故──つまり、何の用で、雪菜は一郎太の部屋に来たのか?
偶然、下着を見てしまい、南極大陸並の猛吹雪を喰らって、その結果『特に
用があったわけじゃないんですが』では、ちょっとやるせないではないか。一郎
太としては、何か用があって来たのだと思いたい。
一郎太の質問に、雪菜は口を『あ』の形に開いた。ポンッ、と右手で左掌を
叩く。
「忘れてました」
「え? 何を?」
一郎太が問いかけるより早く雪菜は立ち上がっていた。ドアを開けて外に出
る。廊下に出たところで、右を向いて屈み込んだ。
「んしょ」
可愛らしいかけ声と共に、何かを持ち上げる。
『何?』と訝しがる一郎太の前に雪菜が持ってきたのは、二人分の苺のショ
ートケーキと紅茶が乗った白いトレイだった。
「先程、一郎太さんのお母さまから持っていってあげなさい、と言われまして
……」
言いながら雪菜はトレイを一郎太の前に置き、そのまま座る。その顔がわず
かに紅潮しているのは、今しがたの事を思い出してるからだろうか。
一郎太にとって幸運だったのは、紅茶がまだ湯気を立てていたことだ。猛吹
雪を受けて冷えた体は、動揺したおかげで体温は上昇していたが、芯はまだ冷た
い。温かい飲み物は実にありがたかった。
雪菜が、ピンクの薔薇がプリントされた白いカップを皿ごと持ち上げ、一郎
太に手渡す。
「はい。一郎太さん」
「あ、ありがとっ」
礼を言うのももどかしく、一郎太は紅茶を口に含んだ。香りから、ローズテ
ィーだとわかる。少し舌に熱かったが、そのまま一気に飲み干した。
「ふぅ……」
熱い液体が冷たい体を芯から暖める感覚に、一郎太は嘆息した。静かに、体
の震えが止まっていく。
ふと、雪菜のカップが目に入った。一郎太が持っている物と同じカップに注
がれたローズティーは、湯気を立てていないどころか、表面に薄氷が浮いている
。流石は雪女だ、と一郎太は妙なところに感心した。
「あの……一郎太さん?」
「ん?」
カップに視線を落としていた一郎太は、呼ばれて顔を上げる。雪菜の顔はも
う赤くなかった。
「一つ聞いてもいいですか?」
「何?」
「これは……何なんですか?」
と、雪菜は苺のショートケーキを指さして聞く。
「はっ?」
一郎太の脳味噌はメロンになった。思わず間抜けな声がこぼれる。
(な、何でこたつ知っててケーキ知らないの……?)
ごもっともな意見である。いくら世間知らずとはいえ、正直ここまで知識が
偏っているとは思わなかった。
しかし、相手は<異世界>の住人。常識は通用しない。
「え、えっと……本当に、知らないの……?」
「はい」
雪菜は容赦なく即答。一郎太の『名前ぐらいは知っているかも?』という一
縷の希望は奈落の底へと落ちていった。
がっくりと肩を落とし、深い深い溜息を一つ。それから口を開いて説明する
。
「……それはね、ケーキって言う、えっと……お菓子って分かる?」
「はい。お菓子なら分かります」
ちょっと、ほっ、とする。これで『分かりません』といわれた日には、一郎
太は本屋に行って広辞苑でも買ってこなければならないだろう。
「よかった……じゃあ、食べてごらん? おいしいよ」
言いながら、正座を崩して胡座をかく。じん、と少し足先が痺れていた。
「はい。私、辛い物好きなんです」
にっこりと、雪菜は柔和な笑みを浮かべ、とんでも無いことを言いながら、
なんとケーキを上から鷲掴みにしようとした。
「!?──ちょっちょちょちょっと待ったぁっ!」
あわや雪菜の右手がケーキを掴もうとする寸前、一郎太は大慌てで腕をバタ
バタさせて制止をかけた。
「はい?」
素直に手を止めて、無邪気に聞き返す雪菜。悪気の無さ過ぎる返事に、一郎
太の腕はヘナヘナと墜落した。
「あ、いや、『はい?』じゃなくて……」
「はい?」
「えっと……」
何と説明すればいいものか。
ケーキを『辛い物』と言った上、それを鷲掴みで食べようとするのだから、
<異世界>の人間は恐ろしい。いや、正確には雪女か。
冷や汗が一郎太の頬を流れる。
「ケ、ケーキは辛くないんだよ?」
「え? そうなんですか?」
辛いケーキという物はあるのだろうか?
「そ、そうなんです……、後、ケーキはフォークで食べるんだよ」
フォークを片手に持って一郎太は解説する。
「いい? こうやって──」
自分のケーキの皿を手に取り、フォークの使い方の見本を見せる。
「はい」
「──で、こうして──」
と。
雪菜にケーキの食べ方を教えていて、ふと、一郎太の脳裏に一つの考えがよ
ぎった。
(──ああ、そうか……)
まるで天啓の如く浮かんできた考えに、つい納得してしまう。
それは、少女を家に連れてきた理由。
(僕は、この娘が放っておけなかったんだ)
二年六組の男子は狡猾である。
それは何故かというと。
警戒心が強いのである。
だから、可愛い女の子が転校してきても、いきなり大勢で囲んで質問責めに
したりはしない。
顔が良くても性格が不細工ではダメだからだ。
よって、彼らは転校一日目は、まるで獲物を狙う猛獣の如く、転校生の様子
を観察する。決して近寄ったりはしない。あくまで遠くから対象の行動を監視す
るのだ。
そして判断する。
○か×かを。
観察され判断される側としては、これほど失礼な話は、まあ、ないだろう。
といっても、そんなことに気付く雪菜ではないが。
それはともかくとして。
彼ら二年六組の男子は昨日、研ぎ澄まされた鑑定眼で、雪菜をじっくりと観
察した。
そして出た結果は。
○である。
「ねえねえ歳は?」
「誕生日はっ?」
「す、スリーサイズはっ?」
「電話番号はっ?──って、トオルと一緒か……」
ここは二年六組の教室。二時間目の授業の後の休み時間。雪菜の机の周りは
、男子生徒の群に囲まれ、質問の嵐が巻き起こっていた。ちなみに、四つ目の質
問をしたのはユージこと柿木洋治である。
「え、えっとぉ……」
嵐の中心にいる雪菜は、しどろもどろ。機関銃のような質問に対応できない
でいる。
と、ここで疑問が湧く。
『授業潰し』の渾名まで付けられた雪菜に、何故○の判断が下されたのか。
その答えに、先程の言葉を少し補足して繰り返そう。
二年六組の男子は狡猾である。そして、常人とは違う感性を持っている。
つまり、彼らは雪菜を天然ボケと判断したのだ。
女の子の天然ボケは可愛いモノ。
以上。これが疑問の解答である。
「──ったく、あいつら……!」
嵐の外で吐き捨てるように言ったのは、腰まで届く髪を一本三つ編みにした
少女、白峰鞘歌だ。元よりつり上がっている目を、さらにつり上げ、男子生徒の
群を睨みつけている。ちなみに、群の中に光路郎の姿はない。今日はまだ学校に
来ていないのだ。
「ま、まぁ、しょうがないよ、お姉ちゃん。長沢さん、可愛いし」
冷や汗を垂らしながら姉をたしなめたのは、鞘歌と同じ顔の、しかし髪をス
トレートに下ろした双子の妹である千晶だ。
鞘歌は視線を千晶に移す。
「だから何だよ? いきなり手の平を返したかのように群がりやがって……気
にくわねぇ」
さらに眼光をきつくして、餌に群がる犬のような男子達を睨みつける。鞘歌
の目には、彼らがまるで、獲物に群がるケダモノの様に映っているらしい。
「まあまあまあ落ち着いて……」
といいつつ、千晶の背中から赤いオーラが出ているのは気のせいだろうか。
しかも仄かにどす黒い色に見える。
浮かべている笑顔が、妙ににこやかで、逆に恐ろしい。冷や汗は、飾りか?
しかし、その恐ろしい殺気のような、威圧感のようなモノを放っているのは
彼女だけではなかった。
そのどす黒いオーラは教室中の女子から噴き出していた。だが、ケダモノと
化した男子達は全然気付かない。
修羅場。この教室は今、そう言っても差し支えない状況にあった。
「……ん? そういえば、長沢のヤツは?」
ふと気付いた鞘歌は、千晶に聞いた。
「さあ?──って、あ」
千晶の右人差し指がケダモノの群の一部を指した。鞘歌の視線が指の指す方
に走る。
そこには、絨毯になった一郎太がいた。
雪菜の席の足元に倒れ伏し、何本もの足に踏みつけられている。
「…………」
双子の姉妹は声を失った。
情けない。
あまりにも情けなさすぎる。
二人は全く同時に、全く同じ動作で、眉間の辺りを人差し指と中指で押さえ
、力無い様子で首を横に振った。
そして、盛大な溜息を、これまた同時に吐いたのだった。
一方、嵐の中では。
雪菜は朱に染めた顔で、おどおどしながらも、質問に答えていた。
全員から来た『年齢は?』という質問に対し、
「えっとぉ……四五八歳です」
さらりとそう答えた。
時が凍り付いた。ざわめきが一瞬、消える。
「え? あ、え?」
逆に狼狽えたのは雪菜の方だ。
「あ、あの……私、何か変なことを言いましたか?」
雪菜はキョロキョロと周囲の少年達の顔を見回す。その机の下から、腕が一
本伸びてきて、一郎太の、
「よ、四と、五、と、八を足してぢうななさい……」
という弱々しい声が聞こえてきた。
どっ、とざわめきが蘇り、群の中から、
「なんだぁ、ははははっ」
「もー、長沢さんって冗談上手いんだから」
「いやー、今の最高!」
などという声が挙がった。彼らを馬鹿だと言わば言え。
彼らは本気だ。
「──っはぁっ」
溺れる者が必死で伸ばしたような腕を、一郎太は断末魔の吐息と共に下ろし
た。いや、落ちたと言った方が正しいか。
なんとか上手くごまかせたようだ。一郎太にしては、機転の利いたフォロー
である。
(ああ、もう……何度言っても口滑らすんだから……)
半ば諦めて、一郎太は心の中で呟いた。その口が、苦笑の形を取る。何故だ
かわからないが、いくら言っても聞かない雪菜と、そのフォローをしている自分
が、妙におかしかった。
一方、雪菜はまだ質問に答えていた。
十二人から聞かれた『誕生日は?』という質問に、
「誕生日って何ですか?」
と、小首を傾げて逆に質問したり、
三人から来た『ス、スリーサイズはっ?』という下世話な質問に対しても、
「スリーサイズ、って、何ですか?」
同じ様な対応を返して、男子生徒達を困らせていた。
それでも彼らはめげない。まだ雪菜のことを天然ボケだと思っている。
愚かだと言いたければ、言えばいい。
しかし、彼らは『本気』なのだ。
まあ、ここに『雪菜は<異世界>からやってきた』と考える人がいたらいた
で、その人は精神異常者か天才のどちらかだろう。おそらく前者だろうが。
さらにケダモノの一人が、新たに質問しようとした。
が、その時。
彼らの質問の嵐を吹き飛ばす超大型台風がやってきた。
「おらおら野郎共。席に着きやがれ」
川端燕先生が教室にどかどかと入ってきた。男子生徒は元より、女子生徒も
含んだ教室内の生徒が、疾風の如く行動する。
三秒だ。
たった三秒で、室内は静まり返り、全ての生徒は席について机の上に現代社
会の教科書とノートを出していた。
ただ一人、一郎太を除いては。
「──ん? 何をやっている? 一郎太」
燕は雪菜の机のすぐ側で寝そべっている一郎太にそう尋ねた。どうやら彼女
の目には、少年の背中にはっきり付いた無数の足跡が見えないらしい。
大した教師である。
「い、いえ……なんでもありません」
力のない声で答え、一郎太は、グググ、と力を込めてゆっくり立ち上がった
。手で服の汚れや足跡を払い落とし、席に戻る。まるでいじめられっ子の様だ。
いや、実際そうかもしれない。
「よし、野郎共。教科書五三ページを開け。昨日はあまり進めなかったからな
。今日は真面目に行くぞ」
燕の言葉に、大きな声での抗議はない。ただ、あちこちで小さな溜息が漏れ
るだけだ。
「…………」
一郎太は現代社会の教科書を開き、ちら、と雪菜に視線を向けた。雪女の少
女は、現代社会の教科書と必死な顔でにらめっこしている。
苦笑する。
今日はまだ、授業を潰すようなことはしていない。昨日の燕の説教が効いた
のだろうか。授業の進み具合は順調である。
雪菜の顔が、花が開いたかのように、ぱっ、と輝いた。どうやら書いてある
ことの一つが理解できたらしい。
正直、可愛いな、と思う。昨日考えていた『あの娘は雪女』という言葉は、
今は頭の中から消えていた。
一郎太は何となく、このままずっと雪菜を眺めていたい。瞬間的にそう思っ
た。
その刹那。
「そこっ!」
燕の投げたチョークが一郎太の側頭部を直撃した。
そこには鬼がいた。
紺色のブレザーと灰色のスカートに身を包んだ、ポニーテールの鬼である。
その鬼が、教室の教壇から眺めて一番右奥の席を陣取り、顎を机の上に乗せ
、両腕をだらりと垂らしているという、いかにもだるそうな格好のまま、帰路に
つく生徒達をジロジロと見ているのである。しかもそれが、窓から差し込む美し
い西日に照らされているのだ。
気色悪い事この上なかった。
この鬼──名前は滝山桂子というのだが──いつもは殆ど学校に来ない故、
あまり友人がいないのだが、今日はそのすさまじい形相のため、数少ない友人で
すら声をかけることができない。
しかし、臆病者の友人衆の中にも、この鬼に声をかける愚か者──おっと、
失礼。勇気ある者が一匹──おっと、度々失礼。
無謀な勇者が一人いた。
「ねぇ、桂子? どうしたの?」
声をかけた途端、鋭い視線が少女に突き刺さる。鬼の隣に立ったのは、つり
上がった鋭い瞳がまず目につく、少年の様な髪型の少女だ。着ている服は、桂子
と同じ紺色のブレザーと灰色のスカート。
鬼の数少ない友人の一人だ。
鬼がまるで瘴気でも吐き出しそうなその口を、気怠そうに開く。
「まゆぅ、あんたケンカ売ってる?」
「あいにく品切れ中」
「取り寄せなさい」
「いや」
いきなり不毛な会話を交わした。
「──で、何でそんなに一日中不機嫌なわけ? これが原因?」
問いつつ、まゆと呼ばれた少女は桂子の鼻の頭に貼られた絆創膏を、ちょん
、とつつく。鬼の形相が一層激しいものに変化した。
「うるっさいわねぇっどーだっていいじゃないそんなことっ!」
机に顎を乗せているという間抜けな格好のまま、唾が飛びそうな勢いで早口
に叫ぶ。口から蛇のように長い舌が出ているように見えるのは、幻覚だろうか?
底辺を上に向けた半円形、俗に言うジト目で鬼に威嚇された少女はしかし、
視線をあらぬ方向へ逸らし、舌をぺろっと出して軽く肩を竦めただけだ。
話を変える。
「そういえば昨日、二年の方に転校生が来たこと、知ってる?」
「昨日?」
鬼の体がピクッと反応し、顔が元の人間のそれに戻った。
「そ。あの『二年六組』に」
「六組?」
桂子は素早く記憶の中を検索。一つの単語が引っかかった。
長沢一郎太。
父以外に、桂子が初めて負けた男。
さらに検索は続く。
藤木乃光路郎。川端燕。白峰鞘歌。
奇異さに置いては学園一と噂されるクラス。
「あの六組っ!?」
気がついたときには大声で聞き返していた。
まゆは軽く頷く。
「そ。あの二年六組」
「そ、そういうことはもっとはっきり言いなさいよっ。一瞬わからなかったじ
ゃない」
「はっきり言ったじゃない。あの『二年六組』だって」
「……ぁ、あんたの発音が悪かったのよ」
「バカ」
「……ぅ。バ、バカっていうヤツが一番バカなのよ」
「バカはみんなそう言うわ」
返す言葉に詰まり、桂子は口を閉ざした。
口ではまゆの方が一枚上手だ。
中学時代からの付き合いだが、桂子が彼女に口論で勝ったことは一度もない
。せめてもの抵抗か、まゆを睨みつける桂子。がしかし、それすら彼女は中空へ
視線を逸らすことによって受け流してしまった。
まゆは肩を竦め、桂子の前の席へ横向きに座り、話を続ける。
「──で、しかもあの長沢先輩の従妹らしいわ」
ピクリ、と桂子の肩が震えた。その顔が、すぅ、とまるで能面のような表情
に変わっていく。
桂子の反応を見て、まゆはわずかに唇の端をつり上げ、微笑する。
「とまぁ、これは単なるうわさ話だから。別にどうって事はないわね」
横目で無表情を装っている桂子を一瞥。内心、クスリ、と笑う。
三ヶ月前のことだ。
一郎太が鬼神、闘神、武神を相手に、剣道で勝った事件の後の事である。
件の噂を聞いた桂子は、なんと一郎太に剣で勝負を挑んだのだ。
しかし、当然の如く、一郎太はその申し出を断った。
『女の子に怪我でもさせたら大変だ』
と。
だが、この言葉は逆に桂子を憤慨させてしまった。
『もう勝ったつもりでいるのか』
と。
そして。
桂子は問答無用で、竹刀を手に一郎太に襲いかかった。
とんでも無い娘である。
その瞬間に起きたことを、桂子は鮮明に覚えている。
上段から振り下ろす、頭を狙った一撃だった。
一郎太はそれを避けた。見事なほどあっさり。ただ、横に動いただけで。
それだけではない。
左の手刀で、桂子の腕から竹刀を叩き落としたのだ。
その動き、まさに電光石火。
カラン、と渇いた音が廊下に響き。
静寂が訪れた。
竹刀を叩き落とされた桂子は、そのままの姿勢で呆然としていた。
竹刀を叩き落とした一郎太は、そのままの姿勢で桂子の反応を待っていた。
しばらく、沈黙が続き。
それからどうなったかというと。
やおら、桂子は顔を真っ赤に染めると、脱兎の如くその場から逃げ出したの
である。
そのスピードはまさに神速。
目撃者の話によると、オリンピック選手やダチョウを遥かに超えていたとい
う。
そして、この日から、桂子はそれとなくまゆに『長沢一郎太』について、い
ろいろと聞いてくるようになったのだ。
しかし、まゆがこの話を最初に聞いたときは、我が耳を疑ったものだ。
まゆも桂子の剣の腕は知っている。剣道部に入っておらず、大会にも参加し
ていないが、家が道場なだけに彼女の力は本物だ。
何故まゆにそんなことがわかるかと言えば、彼女も剣道有段者だからだ。そ
のまゆが認めるぐらい、桂子は『強い』。
おそらく、桂子が負けたことなど、師である父を除けば、これが初めてであ
ったのだろう。
桂子は初めて負けた男を気にしている。
それがまゆの判断だった。
そして、彼女が桂子に一郎太に関する情報を与える理由は、何のことはない
。
からかって楽しんでいるのだ。
意地の悪い娘である。
「本題はこっち。昨日、ビジネス街であった爆発、知ってる?」
「知らない」
即答。正確には、『爆発』という単語が出た時点で答えた。
怪しい。
そう感じたが、まゆはおくびにも出さず、続ける。
「凄い爆発だったらしいわよ。普通、爆発って地面を基盤とするから、下方向
には何の影響も無いはずなのに、その地面がえぐれていたって話よ」
「ふーん」
適当な相槌。
ますます怪しい。
「…………」
冷ややかな瞳で桂子を見つめるまゆ。しかし、ポニーテールの少女の表情は
、少しも変わらない。しかたなく、まゆは問いつめることを諦めた。この状態の
桂子はどれだけ追いつめてもムダだ。追いつめると物理的に逃げてしまうことを
、まゆは知っている。
と。
まゆの脳内で、何かが、ピン、と閃いた。
「──ああ、思い出したわ」
「何?」
冷たい声の返事を無視して、まゆは話を続ける。
「父さんに頼んで長沢先輩のこと調べたんだけどね。おもしろいことがわかっ
たわ」
ピクッ、と桂子の右眉が持ち上がった。ちなみに、まゆの父の仕事は探偵業
である。彼女も父と同じく探偵を目指しているそうだ。それで剣道有段者らしい
。
「長沢先輩のお父さん。書類じゃ『太田商事』という会社に勤めているはずな
んだけど──」
「だけど?」
「ないのよ」
「え?」
「太田商事っていう会社が、この街のどこにもないのよ」
「……嘘」
「本当よ」
まゆは溜息をつきながら肩を竦めて見せた。
「ちゃんと足使って調べたんだから」
「…………」
もはや桂子はまゆの言葉を聞いていなかった。彼女の意識は思考の奥底にあ
る。
まゆは桂子の机に右手、その前の机に左手をついて、立ち上がった。
「──というわけで、今日の報告終わり。……次はいつ来るの?」
「……明日……」
桂子は頭を回転させつつ、必要最低限の言葉で答える。
「そ。ちゃんと真面目にくるみたいね」
まゆは軽く頷く。そして、苦笑した。
「……でも、ちょっと遅かったわね」
「……え?」
聞きずてならない言葉に、桂子は耳を傾ける。まゆは微笑を浮かべ、
「燕先生が『滝山桂子は留年だ』って呟いてるの聞いたわ」
この言葉は物理的な刃と化して桂子の胸を貫いた。
「うっ」
「残念だわ。もうあなたとは一緒に勉強できなくなるのね」
桂子を楽しげに見下ろしながら、まゆはクスクスと苦笑する。
「……まぢ?」
桂子は上目遣いにまゆを見て、黒い縦線が幾本も並ぶ顔で尋ねた。
「嘘だと思う心当たりがあるの?」
まゆは爽やかな笑顔で言う。その顔は、明らかに桂子の反応を楽しんでいた
。
からかっているのだ。
意地の悪い娘である。
意地の悪い娘は一歩前に踏み出し、桂子を振り返る。
「──さて。それじゃ、あたしそろそろデートだから」
「……何ですって?」
具合の悪そうな顔から一転。桂子の顔が般若のそれに変わった。
「お・と・こぉ?」
机に顎を乗せたままの般若は、実に恨めしそうな声を出した。その口から、
再び瘴気が溢れ出る。
「そ」
まゆはにっこりと満面の笑みを浮かべた。桂子が初めて見る、初めて見る、
幸せそうな笑顔である。
濃厚な殺意の込められた視線がまゆに突き刺さった。だが、彼女は少しも気
付かない。
頬を朱に染めた恋する乙女の表情でまゆは続ける。
「一昨日……告白されたの。……可愛い人よ」
恥ずかしそうに、しかし嬉しそうにまゆは言葉を紡ぐ。
桂子の全身から青いオーラが噴き出した。その淡い青光は、空中で形を持つ
。その姿はすなわち、ひょっとこ。
もしこれを一郎太が見れば、腰を抜かす程驚いただろう。まゆはその存在に
気付いていないが、これはかなり恐ろしい。たとえその姿がひょっとこだとして
も──否、ひょっとこだからこそ、恐ろしいのだ。
「ほっ、ほほおぉぉぉ……でっ? その男の名前はっ?」
九十九%の殺意が篭っている鋭い眼光も、恐怖のひょっとこもしかし、恋す
る乙女には通用しない。
「名前は……大貫健太君」
桂子の顔が凍り付いた。
怒りでも悔しさでもない。驚愕によって、だ。
「……あの、骨格デカデカ、筋肉ムキムキのラグビー部のキャプテン?」
まさか、と思いつつも、拭いきれない疑惑に駆られ、桂子はより詳しいこと
を口にしてまゆに尋ねた。
(あ、あの、大貫が、か、可愛いぃ……?)
考えただけでも身の毛がよだつ。
が、しかし。
まゆはにっこりと満面の笑みを浮かべて──頷いた。
信じられない事実を押し込まれた桂子の脳味噌はチンジャオロースに調理さ
れた。
「──嘘……」
呆然と呟く。
信じられない。
あのがさつで粗暴な大男が可愛い?
脳味噌の神経がどこか数本、焼き切れてるんじゃない?
まゆは桂子の呟きが聞こえなかったようだ。窓際から三列目、前から三番目
にある自分の席へ鞄を取りに行く。
黒い革の鞄を右肩にかけ、
「じゃ、ね」
彼氏が出来たせいなのだろうか。桂子が初めて見る、初めて見る、茶目っ気
たっぷりの笑顔を残して、まゆは教室から出ていった。
後に残されたのは、まるでエリマキトカゲに支配された地球を見たような顔
をしている桂子。
世の中とは、よくわからないモノである。
桂子は今、その事を痛切に感じていた。
──『あの時』だってそうだった。
桂子は机に顎を乗せたまま、回想する。
一郎太に竹刀で襲いかかった時、『負けるわけがない』、そう思っていた。
そう。正確には、『多少は手強いかもしれないが勝つことは出来るだろう』
、そう思っていたのだ。
(それが……あんな一瞬で終わるなんて……)
完敗だった。
誰が何と言おうと、完敗だった。
桂子は今まで実戦の中で生きてきた。
だから、もしアレが実戦ならば、と考える。
武器を簡単に奪われた。
これだけで既に、致命的である。
そして、彼女は思いも寄らぬ事に頭を真っ白にしてしまった。
どうしようもないミスだった。戦いの最中に我を忘れることなど、許される
ことではない。
もし、一郎太が『敵』だったら、鋭い爪で喉笛をかっ切られていただろう。
もし、一郎太が『敵』でなくても、戦意があれば掌底で顎を砕かれていたか
もしれない。
そう。
実戦だったら桂子は死んでいたのだ。
(胸が──重い……)
心が苦しい。
情けない。
悔しい。
油断していたと言えば、それまでだ。そう、『確かに』それまでだ。
しかし、桂子はそう考えない。考えたくない。
油断していた自分が愚かだったのだ。
(でも……)
油断が無くても、勝てただろうか?
(多分……)
勝つことは出来なかっただろう。
(今のあたしじゃ……かなわない)
悲しい程、理解できていた。
たった一瞬の攻防。
しかし、それだけで桂子は一郎太との力の差を感じとっていた。
天と地ほどに違っていた。
どうしようもない、それこそ逆立ちしようが土を持って来ようが埋められな
い差があった。
彼は武器を持った自分を相手に、一瞬で勝利をさらっていったのだ。
格が違いすぎる。
溜息。
じわり、と鼻の頭に鮮やかな痛みが浮き上がってきた。
そこに貼られた絆創膏を見つめ、
ふと、昨晩のことを思い出す。
脳裏に思い浮かぶのは、赤い瞳、紺色の髪、黄色のピンクハウス系の服、そ
して、黄玉色の『角』。
ぶつかる黄玉色の光弾と紫色の光剣。
(──まさか、赤帝砕破・覇王斬が相殺されるなんて……)
思ってもみなかった。
アレはいわば桂子の切り札だったのだ。それが通用しなかったということは
。
桂子にあの竜人の少女を倒す術がない、ということになる。
(しかも昨日はあの爆発で見失って結局殺すこと出来なかったし……)
少しイライラしてきた。
額に数百の青筋を乗せ、拳を握りしめる。
「……はぁ」
と、不意に拳の力を緩めた。
そういえば、さっきから気の滅入ることや腹の立つことばかりを思い出して
いる。
(よくないよくない……忘れなきゃ)
机に顎を乗せたまま、横に頭を振る。暗い思考を振り払った。
(前向きに考えなくちゃ)
まるで穴から這い出るモグラのように、だらりと下げていた両腕を机の上に
乗せ、重い腰を上げる。
「んっ……」
両手を振り上げ、背筋を伸ばす。じん、とした感触が脊髄を駆け抜けた。体
の動きに合わせて、長いポニーテールが揺れる。
深呼吸。
ぐっ、と腰を落とし、右拳を握りしめる。
「よぉぉぉぉしっ! あたしはやるわよぉおおおおおっ!」
気合い一発。桂子は己の精神に活を入れた。
ただし、正体不明の気合いであるが。
「絶対あのクソガキを見つけだしてやるわっ!」
天井に向かって大声で誓う。
この時、少女は気付いていなかった。
自分のすぐ側に探し求めている者がいたことに。
教室のすぐ上の屋上にいたことに。
ティアラが屋上に落ちていた生徒手帳を拾っていることに。
気付いていなかったのである。
「バカ──ですわね……」
神無学園普通棟の屋上の縁にて、桂子の雄叫びを聞いたティアラは、腕を組
みぼそりと呟いた。その瞳は、子供らしくない冷たさを持っている。下から吹き
上げる風が、その前髪を躍らせていた。
少女は意地の悪そうな目つきで、足元のコンクリートを睨みつける。この向
こうで、かの無礼なバカは叫んでいるのだろう。
下から桂子の声で『絶対あのクソガキを見つけだしてやるわっ!』と聞こえ
てきた。
ふぅ、と溜息。
「これだからバカはいやですわ。きゃんきゃん吠えて、うるさいったらもう…
…」
腕をほどき、賢しく肩を竦め、相手に聞こえるはずがないのに口に出して言
う。こういう所がまだ子供らしいと言えば、子供らしい。
と、ティアラの視界に、異物が映った。
青い手帳だ。ティアラから数歩離れたコンクリートの上に、無造作に落ちて
いる。
「……?」
歩み寄り、腰を屈め、拾い上げる。
水でも吸ったのだろうか、紙が少しカサカサして、ふやけた跡があった。雪
が溶けた時にでも吸ってしまったのだろう。
と、ティアラはここで疑問を抱いた。
(……もし本当に溶けた雪を吸ったのでしたら、まだ湿っていてもおかしくは
ずなのでは……?)
手帳の歪み具合から見て、相当な量の水を吸っているはずだ。渇ききれない
水分は、どこに行ったのか。
ふと、気付く。
そういえば、雪はどうなったのだろうか?
確かティアラがこの世界に来たときはあったはずだ。
そう、あの雪は無ければならないモノなのだ。無いということは、あっては
ならない。あってはならないのだが──事実、ここに雪はない。
(──消えた? どうして? 一体いつ?)
わからない。
見当も付かない。
ティアラはしばし思考して──
考えてわかることではない、と判断を下した。
答えを知る方法はたった一つだ。そして、ティアラはその方法を知っている
。
今はただ、『あの方』を探すのみ。この周辺にいることは間違いないのだが
──まだ、見つからない。
(早く見つけないといけませんわね……それより)
頭に浮かんだ疑問を隅に追いやり、ティアラは手に持った手帳に意識を集中
させた。
表に張り付いた、透明なビニールシートの中に、生徒証明書が入ってる。
『一年四組 三十六番 滝山 桂子』
という横文字が、ポニーテールの少女の顔写真の横に書いていた。
「これは──」
『バカ』だ。ティアラに襲いかかった、そして先程階下で雄叫びをあげた、
『バカ』の生徒手帳である。
ティアラはまじまじとその生徒証明書の、顔写真を見つめる。穴が空くほど
に。
「…………」
つ、と視線をあらぬ方向に逸らす。逸らした先には、屋上の隅が見えるが、
ティアラはそれを見ていない。
思考している。
しばらく、ティアラは硬直して、
にっ、と笑みを浮かべた。
スタスタと歩き、屋上の縁に立つ。
何の躊躇もなく飛び降りた。
なんと、地上数十数メートルの高さから。あっさりと、さりげなく。
落ちる。
地面まで一秒とかからない。
風に持ち上げられる髪とスカートを両手で抑え、軽やかに、渇いた大地に着
地した。重力に引かれて、紺色の髪と黄色いスカートがふわりと降りる。
曲げた膝を伸ばし、直立。
両手を使って乱れた髪を全て肩の後ろへと流し、整えた。
と、ティアラは辺りをキョロキョロと見回した。
ここは普通棟の裏手。見えるのは高い壁と、少女の後ろにそびえ立つ普通棟
のみ。他には何もない。人気もない。上を見上げて、飛び降りているところを見
られていなかったか、確認する。どの窓からも様子を窺ってくるような気配はな
い。どうやら誰にも見られなかったようだ。
夕陽は射し込んでこない。壁に遮断されている。辺りは影になっていて、薄
暗かった。
ティアラは、ふぅ、と溜息。そして、小さく口を開いた。
キン、と金属音が鳴り響く。
途端、少女の足元、その周囲の土が盛り上がった。彼女を守るように、周囲
の土が一メートル七十センチ程立ち上がり、ティアラを囲む。
そして──
キン、と金属音。
全ての土が一斉に崩れ落ちた。足元から崩れていく土に、少女の足が飲み込
まれていく。ティアラの体が土砂に埋もれていく。
両足、腰、両手、胸、首、そして顔、最後に頭。
やがて、ティアラを内包した、大人ほどの背丈を持つ、小さな山が完成した
。
ギン、とくぐもった金属音。
土の山の側面が、もこり、と盛り上がった。ぼこ、と土を押し退けて筍よろ
しく飛びだしたのは、右手だ。
形から見て、女の手である。ティアラのものではない。指が、彼女ほど細く
なく、短くないのだ。
さらに、今度は左手が山の側面に生えた。
次の瞬間、土砂の山は崩壊した。両手がさらに伸びて、腕となり、暴れたの
である。
土が払い落とされ、中に入っていたモノが、露になった。
それは、他でもない──
滝山桂子の姿だった。
「──さて……」
土の山の中から現れた『桂子』は、まじまじと自分の体を見回した。
しかし、おもしろいことにその声はティアラのものだ。多大な違和感がある
。
そう。当然の如く、土の中に小さな女の子を入れて、掘り返せば成長してい
た、なんて事は有り得ない。
ティアラは変身したのだ。見ての通り、滝山桂子に。
土の中から出てきたので、ブレザーが泥だらけだ。
しかし、ティアラは気にしない。
パッパッ、と適当にブレザーの汚れを払うと、腰を深く沈め、跳躍した。
高い。
二メートルある壁を越え、その上に立つ。眼下に見えるのは、神無学園を囲
んでいる道路だ。その向こうには、古ぼけた大きい屋敷が建っている。
夕陽を全身に浴び、ティアラは改めて自分の体を見回した。
「随分と変な服ですわね」
右手を持ち上げ、肩越しに背中を覗きながら呟く。夕陽に照らされたせいか
、余計に汚れているような気がした。
キン、と金属音が鳴り響く。
ふっ、とブレザーを汚していた泥が消えた。
消えたのである。まるで一瞬で風化して、風に流されたかの如く。
「……これでいいですわ」
にっ、と桂子の顔がティアラの笑みを浮かべる。
見ると、夕陽は沈みかけていた。ゆっくり、余韻を残しながら、沈んでいく
。
ティアラは沈み行く夕陽を見て、呟いた。
「──ここの夕陽も、なかなかのものですわね……」
その言葉が合図だったかのように、太陽はその姿を隠し、辺りは宵闇に覆わ
れた。
「…………」
そして、彼女は行動を開始したのだった。