一郎太は努力しなければいけなかった。
そう。それが決して実を結ぶことが無くとも。
努力するだけ無駄であっても。
どんなに努力しても、立て板に水、のれんに腕押し、ぬかに釘、猫に小判、
馬の耳に念仏、飛空ポケモンに土攻撃だったとしても。
一郎太は努力しなければいけなかった。
雪菜に一般常識を教えることを。
腹が減っては戦は出来ぬ。
誰が言ったか知らないが、いいことを言ったものだ。
実にその通り。
──というわけで。
今日は雪菜が一郎太の家にやってきて、四日目。
神無学園に裏口転校して三日目の朝である。
「雪菜さん、悪いが醤油をとって貰えないかな?」
「はい。おじさま」
一郎太はカリカリに焼いたトーストにかじり付いた。小気味よい歯ごたえを
得て、もぐもぐと口を動かす。
今朝のメニューは、典型的な洋風。トースト、ベーコンエッグ、フルーツサ
ラダ、コーヒーという献立だ。
「せっちゃぁん。ごめんなさい、そこのお皿とってぇ」
「はい。おばさま」
半熟の黄身を箸でつつき、砂糖を一さじ入れたコーヒーを口に含む。砂糖の
意味はあまりなく、苦みが口の中全体に広がる。
ふと、前を見た。そこには、キッチンで悪戦苦闘している母・皐月の姿があ
る。
余談だが、長沢家において食事を残すという行為は絶対に認められない。
それは何故か?
別段、父・晴一郎が怒り狂うわけでも、皐月が大暴れする分けでもない。
泣くのだ。
いつも全力で食事を作っている皐月が、大声で泣き出すのだ。
これには誰も勝てない。
彼女は見ているこっちがブルーな気分になるほど、落ち込んでしまう人なの
だ。そして、聞いているこちらがつらくなるほど、ブツブツと自分を卑下する言
葉を呟き続けるのである。
いっそ怒り狂ってくれた方が、どれだけましか。
以上の理由により、晴一郎は言うまでもなく、一郎太も幼少の頃から皐月の
作る料理を残したことはないのだった。
六畳ほどの広さを持つ、白い壁に囲まれた部屋。フローリングの床の上に足
の長い楕円形のテーブルを置き、その周りに椅子を四つ並べてある。テーブルに
は清潔な白いテーブルクロスがかけられていて、その上には花瓶に生けられた花
束が、ベーコンエッグやトーストの載った皿と共に鎮座していた。部屋の出入口
に近い方に晴一郎と一郎太が座り、キッチン側には雪菜が座り、皐月はキッチン
の中で朝食を作っている。
一郎太は雪菜を見た。
少女は例の高級そうな制服に身を包んでいる。ベレー帽はかぶっていない。
ちなみに両親達が制服についてどうこう言わないのは、彼らが『大らか』だから
だ。『呪文』を使ったわけでもないのに、一郎太の両親は雪菜の全てを認めてい
るのだ。
変な両親。
ここまで大らかと言うか、無責任というか。無条件で全てを受け入れてくれ
る親がいるのだろうか?
一郎太はそう疑問に思ったが、しかし。その方が都合が良かったので、何も
言わないのだった。
箸でベーコンエッグの白身の部分を切り分け、口の中に入れる。少し焼きす
ぎたのか、ぱりっと焦げていた。
もぐもぐと口を動かしながら、一郎太はまだ雪菜を見ている。
「雪菜さん、悪いがマーガリンを塗ってくれないかな?」
「はい。おじさま」
晴一郎が差し出した、トーストの載った皿を受け取る雪菜。一郎太の瞳が、
その皿を追う。
唐突に、嫌な予感がした。
そして、嫌な予感に限って、よく当たる。実際、今までがそうだった。
雪菜がマーガリンに『手を伸ばした』。
その瞬間。
体が自然に動き、一郎太は雪菜の手首を、はしっ、と掴んでいた。
「……一郎太さん?」
雪菜は不可思議そうに、自分の手と一郎太の顔とを、交互に見つめる。
一郎太は、しばらく時間を置いて。小さな溜息を一つ吐いた。
「……どうやって塗るつもり?」
その一言に雪菜は、
「あっ」
と、声をこぼした。
やっぱり、と一郎太は思う。
「昨日も教えたじゃないか。……そこのバターナイフとって」
一郎太は手を離して、視線でバターナイフを指す。
嫌な予感はまだ消えていない。
「あ、はいっ、すみませんっ」
雪菜はキョロキョロとテーブルの上を見回した。
バターナイフを探し、探して、探す。
一郎太は吐息。
やがて、雪菜が困惑した顔で、上目遣いに一郎太を伺い見た。
「……あ、あのぉ……」
どれがバターナイフかわからないらしい。
次は声に出して、
「やっぱり……」
と一郎太は三度目の溜息を吐いた。
「──それだよ」
一郎太は右手の人差し指で、雪菜に右手のすぐ隣にあるバターナイフを指す
。
「あ……」
雪菜の頬が朱に染まった。手元にあったのに気付かなかったことが、恥ずか
しかったらしい。確かに、少し格好悪い。
一郎太は苦笑い。
おかしかったのである。一生懸命バターナイフを探す雪菜の姿が、まるで小
動物のように愛らしかったことが。
「次は気を付けようね?」
苦笑を漏らしつつ、一郎太が言うと、
「は、はい……」
雪菜は体を小さくして恥ずかしそうに頷いた。その後ろで皐月が、一郎太の
隣で晴一郎が、一郎太と同じように苦笑する。ますます雪菜の体が小さくなった
。
「はぁい。皐月ちゃん特製ベーコンエッグ、出来上がりっ」
柔らかな空気に乗って、いい年こいて自分のことを『皐月ちゃん』と呼ぶ母
親が、一郎太の前に特製らしいベーコンエッグが載った皿を置いた。それは一見
して、普通のベーコンエッグなのだが──実はその通りである。特製とか言って
おきながら、ただのベーコンエッグなのだ。
「は、ははっ……ありがと」
それをよく知っている一郎太は、何も言わず、まるで背中に銃口を突きつけ
られたような顔で箸を手に取った。
(これで二枚目……)
皐月は料理を作るのが大好きだ。だからいつも、言っておかないとじゃんじ
ゃん同じモノを作っていくのである。だが、しまったことに、今日の一郎太は皐
月を止める事を失念していた。
(まだ一枚も食べてないのに……)
食べかけのベーコンエッグの載った皿が、視界の隅にある。
残してはいけない。その言葉を胸に、一郎太は必死に二枚の皿を空にするの
だった。
血の匂いがした。
とはいえ、輸血用の血液のように古くなければ、転んで出来るかすり傷程度
の血量でもない。
新鮮で濃厚で多量な、人間の血の匂いである。
「……!?」
登校中にその匂いを嗅いだ桂子は、身を強張らせた。
辺りを見回す。
見えるのは、二車線の道路と、その脇を走る歩道。そして、道に沿って建つ
軒並み。
誰もいない。車も走っていない。
気配すらない。
そう、この時間帯の通学路に、桂子以外誰もいないのだ。
おかしい。
歩道に立つ桂子は、正体不明の胸騒ぎを覚えた。
まさか、と思う考えが三つ浮かんだ。
一つ目は、全人類が桂子だけを残して全員消えてしまったのではないか、と
いう考え。
二つ目は、ここを通ろうとした人全員が、何者かに殺されてしまったのでは
ないか、という考え。
三つ目は──これが一番妥当だが──今、ちょうど何者かが『狩り』をして
いて、周囲に人を近付けない術を使っているのではないか、という考えだ。
桂子が選んだのは、三つ目の考えだ。どう考えてもこれが正解としか思えな
い。それでこの奇妙な状況も、いつも術に対抗する符を持ち歩いている桂子だけ
が、その影響を受けないでここにいるという事で、全ての説明が付く。
桂子の視界に、道路を挟んだ向こうにある、路地裏への道が入った。
塀と塀に挟まれた、狭い空間。
そこが、何故かひどく気になった。頭の中で誰かが警鐘を鳴らしている。
そこに行け、と言っている。
桂子は深呼吸して、目を閉じた。意識を澄ましていく。
ゆっくりと喉に溜めた息を吐き出して、桂子は目を開いた。
トン、とアスファルトの地面を蹴る。それだけで少女の体は二車線の距離と
ガードレールを飛び越え、向こうの歩道の上に着地した。
壁際に、背負っていた革の鞄を置いて、路地裏に入る。
狭く薄暗い道は真っ直ぐ延び、
「?」
向こうにある白い光の中に消えていた。
(こんな所に……?)
どうやらこの路地を抜けた先に、開けた場所があるらしい。鼻の頭に右手を
伸ばし、そこにある絆創膏を、ぺりっ、と剥がす。触れてみると傷はもう完全に
癒えていた。絆創膏を丸めて、そこらに捨てる。
そして、一歩、踏み出した。
その瞬間。
「……!?」
血の匂いが強くなった。思わず立ち止まり、路地の向こうを見据える。
何も見えない。逆光が強くて、向こうの様子はさっぱり分からないのだ。
スカートのポケットに両手を突っ込んで、片手に一枚ずつ、二枚の符を取り
出す。武器をいつでも出せるようにだ。自分でも、何故武器が必要なのか、わか
らない。ただ本能が、『気を付けろ』と叫んでいるのだ。
符を握りしめ、警戒しながら、桂子は再び歩き出す。
はたして、路地を越えたその先に、『そいつ』はいた。
「!?」
桂子の頭は真っ白になった。
犬だ。
犬が、路地を越えた先にあった、空き地の真ん中に四つ足で立っている。
犬種はドーベルマンだろうか。目つきが鋭く、黒い毛並みがサラサラしてい
そうだ。
ただ、その犬は、普通の犬と違うところがあった。
大きさが一戸建ての家ぐらいあって、口が血で真っ赤に染まっているところ
だ。
『『敵』にとり憑かれているのだ』。
きゅおん、と不思議な音が鳴って、桂子の両手に二振りの剣が現れる。
一辺が三十メートル程のコンクリートの壁に囲まれた、ペンペン草一本生え
ていない空き地の上に転がっているのは、三トンは軽く越えているだろう肉塊の
群。そして、元は車だったであろう、スクラップ達だ。
答えは三つ目ではなかった。二つ目だったのだ。
真っ白な頭の中。それが、下の方から少しずつ、純粋な赤色に染まっていく
。
「グルルルルルルルル……!」
犬が喉を鳴らした。遥か高みから、ぎらぎらと光る目が、桂子を貫く。少女
の足元の一歩手前まで、巨体の影が伸びていた。
少女は反応しない。二本の剣を手に、無造作に立っているだけだ。
その瞳が、辺りを見回す。
血で染まった地面の上に、同じく血で濡れた靴が転がっている。小さい靴だ
。幼稚園児か、小学校低学年ぐらいの子供の靴である。
その側に、赤いランドセルを背負った首無し死体が転がっていた。
「──っ!」
頭の奥で何かが弾けた。
加速的に、桂子の頭の中は真っ赤に染まる。あまりにも純粋な赤は、そのま
ま炎になった。
怒りの炎に。
「ぁあああああっ!」
炎はそのまま咆哮になって、口から飛びだした。声に応え、制服の中に縫い
込まれた符が発動する。全身の筋力、神経が強化された。
大地を割ろうとする勢いで、左足を踏み込む。
ぐんっ、と空気の壁を貫いて走った。髪が全て後ろへ流される。
一瞬で目の前に犬の前足が迫った。
その前足の手前に深い足跡を残して、右に飛ぶ。飛ぶと同時に、右手の覇王
剣を振るった。幅広の刃が、黒い肉に食い込む。
水っぽい音がして、犬の前足が勢いよく空に舞った。
三次元的な回転をするそれが頂点に達した頃、桂子はコンクリートの壁に身
を沈ませていた。勢いがついているので、重力に負けて落ちることはない。
「ギャウン!」
右前足を切り飛ばされた犬が悲鳴を上げる。が、当然、桂子はそれを無視。
「づぁあああああっ!」
左肘を前に突きだし、赤帝砕破剣を握った手を右肩に乗せ、桂子は壁を蹴っ
た。
三角飛びの要領で、家で言えば二階の窓あたりにある犬の顔に迫る。
半瞬で間合いを詰め、全身のバネを使って左腕を薙払った。
犬の首を狙って。
赤帝砕破剣の長い刀身が、大きな赤い弧を描く。その軌跡を紅蓮の炎が追っ
た。
ぶつん、と音がして、犬の首半ばから上が、天に向かって飛び跳ねた。
一秒にも満たない攻撃だった。瞬き一つ分ぐらいだろうか。
だから遅れて、血が噴き出す。まるでホースのように前足の断面から。まる
で間欠泉のように首の断面から。
慣性の法則に従う桂子の体は、犬の体を空中で通り越し、反転して、犬の方
を向いて、ずざぁっ、と膝を折って着地した。遅れて、無茶な加速をした代償が
彼女の体に伸し掛かる。
「くぅ……!」
襲い来るGに耐える。思わず目を閉じた。
硬直する。
一秒。
(……?)
さらに、目を閉じること三秒。
『何も聞こえない』
聞こえるはずの音が聞こえない。飛ばされた首が地面に落ちる音が。または
、首を失った体が倒れる音が。
六秒を数える。
まだ何も聞こえない。
「…………」
桂子は目をゆっくり開け──見開いた。
「なっ……!?」
そこには犬がいた。
否。それはもはや犬とは呼べない。
前足と首の断面から、赤黒い、臓物を思わせる触手が生えていた。首から九
本生えた、大人の腕ぐらいの太さを持つそれは、まるで花のように開き、その先
端で地面を撫でている。前足から三本生えたモノは、土の上に寝そべって、うね
うねと動いていた。
そして、斬り飛ばしたはずの頭を、首から生えた触手の一本が巻き付いて、
高々と持ち上げていた。
化け物だ。
「グルルルルル……!」
信じられないことに、犬は頭がないというのに、低く呻いた。
(嘘っ!? こんな馬鹿なことが……!?)
犬が『敵』に憑かれていることはすぐにわかった。当たり前である。そうで
なければ、こんな巨大な犬が存在するはずがない。
だが、犬がただ『敵』に憑かれただけならば、先程の一撃で葬り去れるはず
なのだ。
と、その時、あることを思い出した。
それは、耳があるべき箇所から六本三対の角を生やした少女の姿だ。
(あんっのクソガキのせいだわっ……!)
犬に感じたモノとはまた、色の違う怒りが体内から沸き上がってきた。
『敵』が強くなっている。
<門>からこちらに来た下級精霊を喰って、力を付けているのだ。
(あのガキさえさっさと帰っていたら……!)
こんなに多くの人が死ぬことはなかっただろう。地面に転がっている死体は
ランドセルを背負ったモノだけではない。制服を着たモノ、スーツを着たモノ、
エプロンを付けたモノ、等々。二桁の数が地面の上に寝転がっていた。
(許せないっ……!)
そして、殆どが原形を留めていなかった。
「ガァルルルル……!」
犬──否、怪獣が再び呻いた。怨念の篭った、腹に響く音だ。
首から生えた触手のうち三本が、かま首をもたげ、
「ガルァ!」
プロボクサーのジャブのような勢いで、桂子に向かって飛びだした。
「──っ……!」
息を呑み、跳躍。触手は桂子が先程までいた空間を通り過ぎ、後ろのコンク
リートの壁をまるで発泡スチロールのように破壊する。さらにその向こうの家の
外壁も、突き抜けていく。
家が一つ、崩れ落ちた。
空中にいる桂子は、それを見て胸中口笛を吹く。
(大した威力ね……!)
などと言っている場合ではない。一つでも喰らえば即死だ。
しかし、何故だろう。
彼女は高揚していた。
大きい悲しみがある。強い怒りがあった。
だが、それらが一つとなり、高揚感になっている。
高揚感は四肢を駆けめぐり、桂子に力を与えてくれる。
彼女は今、感情を己の力にしていた。
「はぁあああああっ!」
吠える。声を受けて、大気が震動した。同時に、制服の中の符が、また一つ
発動する。
桂子は空気を蹴った。
なんと、何もない空間を蹴って、前に飛びだしたのである。
前足から生えた触手が飛び跳ねる。桂子の右斜め前、左斜め前、真後ろに現
れ、一斉に中心に向かって、鞭の如くしなった。
三本の触手が交差した場所にしかし、少女の姿はない。再び空気を蹴って、
更に跳躍したのだ。
殴り合った触手は、互いの威力に嫌な音をたてて、ぱんっ、と弾け飛んだ。
臓物のようなモノが、辺り一面飛び散る。
桂子は宙に立っていた。高く、高く。眼下の怪獣が、まるでヌイグルミのよ
うに見える程の高みに。
首から生えた九本の触手の根本。その中心。そこに、大きな血色の眼球が一
つあった。紅玉のような単眼が、ぎょろり、と空中にいる桂子を見る。
その左手に、赤帝砕破剣がない。
刹那。
雷のような勢いで、何かが怪獣に向かって落ちてきた。
とてつもなく長い刀身を持つ、赤い剣だ。
避ける暇はない。
剣が吸い込まれるように、赤い単眼の中心に突き刺さった。ずぶり、と嫌な
音をたて、瞳が嫌な手応えを得る。遅れて、ヒュンッ、という音がやってきた。
剣は音よりは早く落ちて、否、飛んできたのだ。
「──!」
一瞬遅れで来た激痛に怪獣が叫び声をあげようとした瞬間。彼の体に、更な
る悲劇が襲いかかった。
火焔が、彼の全身を包んだのである。
「──!?」
もはや怪獣は驚愕と混乱で、悲鳴を上げることすら忘れていた。しかし、体
は自然と反応し、声帯が震えて音を紡ぎだした。
咆哮。
まるで轟音だ。この世のモノとはとても思えない。
怒りと憎しみを孕んだ雄叫びを聞きながら、桂子は空中で覇王剣を両手で持
った。
足を肩幅に開き、大上段に振り上げ、剣先で天を突く。
「はぁぁぁぁ……!」
幅広の刃が、日光の下でもなお視覚できる、青銀色の強い光を放つ。
光は刃の形に収束し、ぐん、と五メートルほど伸びた。
巨大な光剣が出来上がる。
怪獣の咆哮が、余韻を残しながら、終わった。
それが合図だった。
桂子を支えていた力が、ふっ、と消え失せる。重力が彼女を引き始めた。
落下する。
スカートがめくれようが、白い下着が露になろうが、今の彼女は気にしない
。頭の中は『敵』を倒すことでいっぱいだ。
重力加速度で落下速度は増えていく。位置エネルギーをそのまま剣に移し、
斬り裂く力に変える。
地上では、まるで激昂した子供のように、怪獣の触手が暴れていた。辺りの
家々が、触手の一払いであっさり破壊されていく。
再び、咆哮。
目を潰された怪獣は、闇雲に触手を振り回し、破壊を振りまいていた。彼を
包む炎は、不思議なことに家の残骸や、植物には燃え移らない。赤帝の炎は、主
の意志が望んだモノしか焼かないのだ。
「く・た・ば・れ・え・ぇ・!」
声すら置き去りにするスピードで、桂子は地上に立つ、全身を炎で纏った怪
獣に──
光剣を振り下ろした。
肉を切断する手応え。足が地面に触れる寸前、桂子の体はふわりと浮き、軽
やかに着地した。
覇王剣は怪獣の胸に刺さっている。いや、刺さっていると言うより、胸部分
の肉に挟まれていた。
犬は胸の半ばまで、真っ二つに斬り裂かれていた。
ぱっくりと、犬の体が左右に開く。まるで、本を開くように。
盛大に血が天に向かって噴き出した。まるで噴水のように。上だけと言わず
、前後左右にも、惜しみなく赤黒い血液が迸る。
血の雨が降った。
生臭い血の雨を全身に浴びながら、桂子は覇王剣から手を離した。肉と肉の
谷間に挟まれた剣は、自重で落ちることはない。
後退る。
コツ、と右足を何か軽いモノにぶつけた。
それは、靴だった。先程見た、血で濡れた小さな靴だ。血の雨を浴びて、さ
らに真っ赤に染まっている。
靴をしばし見つめ──桂子は腰を曲げて、それを拾い上げた。
「……さい……」
呟きが、口をついて出る。強く、靴を握りしめた。
「ごめん……なさいっ……」
口からこぼれたのは、謝罪の言葉。
悔しかった。
「ごめんなさいっ……」
情けなかった。
「ごめんなさいっ……!」
自分は何と無力なのだろう。
もっと強ければ、こんな事にはならなかったかもしれないのに。
あの竜人の少女を追い返すか、殺していれば、こんな事は起きなかったかも
しれないのに。
怒涛のような後悔。
いつの間にか、桂子の頬を涙が伝っていた。涙は降り懸かる血と混ざり、顎
で凝縮して、地面に落ちる。少女の顔はまるで、血の涙を流しているかのようだ
った。
血の雨が降る中で、桂子は声を押し殺して泣いた。
やがて、血の雨の勢いが段々弱くなってきた。
桂子は右腕をあげて、再び怪獣の胸に刺さった覇王剣を握る。
「…………」
今、彼女の胸の奥で、モヤモヤした何かが固まりつつあった。
「覇王剣・浄化の光」
毅然とした口調で言い放つ。
覇王剣の刀身に掘られた『呪文』が、青銀色の光を放った。
煌々とした光が桂子と怪獣と死体達を照らし──
桂子以外の全てが、ふっ、と消えた。
小さな靴さえも。
跡形もなく、消えたのだった。
一郎太は今、非常に困っていた。
時は正午。太陽が頂点に昇る時間。
場所は神無学園。一番空に近い屋上。
「…………」
コンクリートの上に虹色のビニールシートを敷き、その上で一郎太は鞘歌と
向かい合って座っていた。彼の右隣では、同じように雪菜が千晶と向かい合って
座っている。
なんと、双子の姉妹は、光を放ちそうな程の笑顔を浮かべていた。
少年は、その笑顔に何か不気味な物を感じ、圧倒されている。
一郎太はおずおずと切り出した。
「え、えっと……ほ、本気……?」
「おう。オレ達は本気だぜ」
鞘歌は即答。一郎太は心の中で、
(まいったなぁ……)
と、諦めた口調で呟いた。
つい五分程前のことだ。鞘歌と千晶が不気味なほど優しげな笑みを浮かべな
がら、弁当の包みを開きかけていた一郎太と雪菜に近付いてきたのは。
まず、千晶が開口一番こう言った。
「ね、長沢君と長沢さん? 一緒にお弁当食べない?」
「へ?」
間抜けな声をこぼして返答する一郎太。
千晶の言葉を後押しするように、
「ここじゃなんだからよ、屋上に行こうぜ」
いつの間に後ろへ回ったのか、鞘歌が一郎太の肩に手を乗せた。
嫌な予感が一郎太の胸中を走り抜けた。肩に乗った鞘歌の手が、まるでペッ
トを逃がさぬように付ける首輪のように思われたのだ。事実、少女の右手は強い
握力をもって一郎太の肩を握りしめている。
一郎太は雪菜の方を見る。ちょうど、少女もこちらに顔を向けていた。
一郎太と雪菜は顔を見合わせ──
「──う、うん……」
悲しいことに、特に断る理由がなかったので、四人は教室から屋上へ場所を
変えたのだった。
が。
一郎太は知らなかったのだ。
双子の姉妹の目的を。
そして、この後起こる出来事を──
「本気で……お弁当、交換するの?」
鞘歌と千晶の二人は、全く同じ動作、タイミングでコクコクと頷いた。絶え
ることのない笑顔が、滅茶苦茶に怪しい。
というより、鞘歌が穏やかな笑顔を浮かべていることだけで、十分驚愕に値
する。気性の荒い彼女が、こんな風に笑うはずがないのだ。
(世界の終わりでも来るんじゃないかな……)
一郎太はついついそんなことまで考えてしまった。
それぐらい怪しすぎる。
「えっと……ど、どうしようか?」
一郎太は困惑して、隣で正座している雪菜に振った。
「…………」
しかし、雪菜は何の反応も返さない。
(……あれ?)
聞こえていないのだろうか?
「……雪菜?」
もう一度、今度は名前を呼ぶ。声にさっきよりも力を込めて。
しかし、それでも反応はない。少女は視線を自分の膝辺りに固定したまま、
動かない。
「……あれ?」
双子と一郎太は、三つの怪訝な顔を見合わせた。そして、六つの目が雪菜を
見つめる。
雪女の少女は、俯いたまま動かない。その表情が沈んでいるように見えるの
は、一郎太の気のせいだろうか。
躊躇いがちに、千晶が雪菜の肩に手を置いて、軽く揺さぶってみた。
「長沢さん?」
「──え? あ、はいっ!」
その行為に、雪菜は思った以上に過剰な反応を起こした。びくん、とまるで
電撃に撃たれたかの様に体を震わせ、顔を跳ね上げたのだ。
一拍置いて。
「……あ」
と、雪菜は間抜けな声をこぼす。その顔が朱に染まった。
「す、すみません……ちょっとぼーっとしてまして……えっと、何でしょうか
?」
「……どうしたの? 声かけても返事しないから……」
雪菜の反応に少し驚きつつ、怪訝な顔で一郎太は聞く。
「い、いえ……あの……その……えっと……な、なんでもないんです」
言葉に迷いつつ、雪菜はそう言って赤く染まった顔に苦笑いを浮かべた。
そして、また俯く。表情が、暗くなる。
「……?」
三人は『?』という疑問詞を顔に浮かべた。
さっぱりわからない。
何でもないと言いながら、再び沈んだ表情をするとは──ほとんど、何かあ
る、と言っているようなものではないか。
少なくとも、一郎太はそう感じた。
「あの、せ──」
一郎太が少女に疑問をぶつけようとした、その瞬間。
「まあ、とにかく弁当交換しよーぜっ」
鞘歌の声が一郎太の言葉をブッた斬ってコンクリートの上に叩き落とした。
「うっ……」
一郎太の額に線が数本、縦に走る。ついでに大きな涙滴型の汗も、でん、と
頭にのしかかる。
一郎太は錆び付いたロボットのような動きで、雪菜の方に向けていた顔を、
双子の姉妹の方へ向けた。
「ほ、本気……?」
この言葉に、鞘歌は、にっ、と笑みを浮かべる。
「長沢。オレ達はな、本気と書いてマジなんだ」
「そうそう」
鞘歌の言葉に、千晶が頷く。二人の顔にあの不気味な笑顔が蘇りつつあった
。
「…………」
一郎太の背筋に、悪寒が走る。
少年が困惑している理由は、双子の弁当にあった。
今、四人の間に、包みの解かれていない四つの弁当箱がある。
黒い袋に包まれているのは、一郎太の弁当だ。中に入っているのは、袋と同
色の弁当箱。一つの箱の中に米飯とおかずが全て入る物だ。
黄色のナプキンに包まれているのは、雪菜の弁当だ。中は、黄色い底の深い
箱。サンドイッチ等が入っている。ちなみに一郎太とメニューが違うのは、母・
皐月の単なる気まぐれである。
ここまではいい。
しかし、次からが問題だった。
千晶の弁当は、赤いナプキンに巻かれている。中身の大きさは、一郎太の物
と同じぐらいだろう。その横に、塔の如く魔法瓶の水筒がそびえている。
さらにその隣に、不可解な物があった。
コップだ。赤いプラスチックのコップが、水筒の横に置かれている。
(なんで水筒の蓋があるのに、コップをもってきてるんだろう……?)
通常、水筒の蓋はそのままコップの役目を果たす。一人で飲むなら、別段も
う一つコップをもってくる必要はない。
そう。もってくる必要はないのだ。隣の鞘歌も、同じく魔法瓶の水筒をもっ
てきているのだから。
では、一体何に使うのか?
わからない。さっぱりわからない。
おそらく、弁当の中身に関係があるのだろうが──一郎太には全然予想でき
ない。
次いで、青い布に包まれた、鞘歌の弁当。二段重ねだろうか、四つの中で一
番背が高い。先程も言ったように、その傍らに水筒が鎮座している。そして──
さらに不可解な物がその横にあった。
ボウル、である。野球やサッカーで使う物ではない。ドームをひっくり返し
たような、半球体の入れ物だ。そういえば月のクレーターにも似ている。
赤ん坊の頭ぐらいの大きさの、黄色いプラスチックのボウル。ふと一郎太の
脳裏に、フィンガーボウル、という単語が浮かび上がってくる。
これは一体何なのか?
何に使うのか、を通り越して、そんな疑問が湧いて出てきた。
コップはまだいい。茶や水を入れて飲むのに使う物。昼休みに何度もお目に
掛かる物だ。
しかし。しかしである。
昼休みにボウルを見た事など、一郎太の人生で初めての事だ。
何の目的で使用するために、ここにそれがあるのか、さっぱりわからない。
まさか指を洗うわけでも無かろう。
コップとボウルの存在に合点がいかない一郎太に、千晶が聞く。
「長沢君……もしかして、いや?」
「うっ」
その質問に、一郎太はギクリとした。
迷う。
どうするべきなのか?
正直に言えば、断りたいのは山々である。触らぬ神にたたりなし、だ。
しかし、そうすると目の前の少女から鉄拳が飛んでくることがわかっている
。
「えっと……その……」
悩む、悩む、悩む。冷や汗が頬を伝わり落ちた。
と、その時。一郎太は見てはならないものを見てしまった。
二人の少女から立ち昇る赤いオーラを。
それを見た一郎太は、心中で歓喜の声をあげた。
(げっ!?)
失礼。訂正しよう。
それを見た一郎太は、心中で『恐怖』の声をあげた。
鞘歌の瞳が、ぎん、と赤黒い光を放つ。その光はちくちくと一郎太の体中を
つつきまわした。
「長沢ぁ……まさか、断ったりしねぇよなぁ……?」
鉄拳が迫る。少女の上空で、赤いオーラが文字を象っていた。
曰く。
『断ったらぶっ殺す』
理不尽の塊のようだ。一郎太の視線が助けを求めてさまよう。
屋上には一郎太達以外、誰もいない。
唯一の味方の雪菜は──暗い表情で視線を下に向けている。まあもっとも、
この場合では、彼女も力にならなかっただろうが。
結局、道は一つしかなかった。
「はぁ……わかったよ」
一郎太は降参宣言。それを証拠に、膝の前にある自分の弁当を、その前にあ
る鞘歌のと交換する。
「本当か!? サンキュー☆」
言うが早いか、赤いオーラは消え失せ、鞘歌は一郎太の弁当を持ち上げて─
─
屋上の隅にある小屋へと飛び込んでいった。一郎太の耳に、階段を駆け下り
る音が届く。
一郎太、無言。
「あっ!? お姉ちゃん待ってよっ!──あ、ごめんねっ」
遅れて千晶も、雪菜の膝の前にある弁当を手にとって、鞘歌の後を追ってい
った。
屋上に、一郎太と雪菜の二人だけが残された。
「……あれ?」
一郎太が声を発したのは、二人が消えてたっぷり十秒は経った後だった。
状況確認する。
一郎太の弁当がない。雪菜の弁当もない。鞘歌がいない。千晶もいない。
結論──二人にうまいこと逃げられてしまった。
「……はあ……」
吐息。
「しかたないなぁ」
言いながら、青色の弁当と水筒と謎なボウルを引き寄せる。結ばれている布
をほどくと、やはり中身は二段重ねの弁当箱だった。
まず上段の弁当箱を開けようとして──と、その前にやることがあった。
「雪菜?」
返事は、またもない。少女は俯いたままだ。
一郎太は溜息をつき、右手で後頭部をぽりぽりと掻く。そして、その手で、
とん、と雪菜の肩を軽く叩いた。
「──ひゃえっ!?」
雪菜は素っ頓狂な声を揚げた。左肩を後ろに引いて、丸くした瞳で一郎太を
見つめる。
目を丸くしているのは一郎太も同じだった。
「ど、どうしたの……?」
「あっ──ご、ごめんなさい。私……」
言葉はどんどん尻窄みになって、最終的に雪菜は黙り込んだ。視線も下のビ
ニールシートに三度目の落下をする。
三秒ほど、沈黙が降りた。
沈黙を破ったのは一郎太だ。
「ねえ? 何かあったの?」
その声に、雪菜はただ、首を横に振った。
「僕、何か悪いこと、したかな?」
雪菜は首を振る。さっきよりも強く。
「えっと……じゃあ、どうしたの?」
一郎太の声には気遣いの色が、多く含まれている。しかし、少女は首を振る
。何度も、何度も、横に振る。段々強く、段々早く。
そして。
「……っく……ぇっく……」
突然、泣き出した。大粒の涙が頬を伝い、顎で滞り、重力に負けた雫が落下
して、膝の上に広がるスカートに染みを作る。
「──へ?」
一郎太の脳味噌は大砲の中に入れられ、火を付けられ、花火みたくお空で爆
発した。その規模はビッグバンほどはなかったが、スーパーノヴァぐらいの規模
だったという。──要するに彼は大きなショックを受けたのだ。
簡単に言えば、金槌で頭を殴られたかの様なショックだった。
(なっ!? 何で泣くの!? ぼ、ぼぼぼぼ、僕、何か悪いこと聞いた!?)
一郎太は混乱する。前にも述べたが、少年は女性の涙に非常に弱いのである
。天敵、といっても過言ではない。何と言っても心の声までもがどもってしまう
という、筋金入りなのだ。
慌てて辺りを見回す。誰もいない。よかった。こんな所を知り合いにでも見
られたら、何を言われるかわからない。
「え、ぇっと……!? えと……!?」
あたふたとする一郎太に気付かず、雪菜は泣きじゃくっていた。
「ごめんなさっ……ごめんなさいっ……わたしっ……ごめんなさぃっ……」
嗚咽混じりに、雪菜は何度も何度も謝罪の言葉を口にする。それを聞かされ
る一郎太には、何について謝っているのか、さっぱり理解できない。ただ狼狽え
るだけだ。
「ごめんなさいっ……!」
「あっ……」
一郎太が声を出す暇があればこそ。出し抜けに雪菜は立ち上がり、その場か
ら走り去っていった。鞘歌や千晶と同じように、屋上の隅の小屋に駆け込んで、
音を鳴らしつつ階段を下りていく。
「あ……」
この時、一郎太はひどく混乱していた。
もし、彼と雪菜が何かについて口論していて、弾みで一郎太が少女の頬を殴
り、それで泣き出して走り去っていったのなら、まだ追う気が起きたかもしれな
い。
しかし、そうではないのだ。
一郎太は何もしていないのに、雪菜は泣きだし、謝罪して、走り去っていっ
たのだ。
一郎太の脳味噌は、追うことよりも情報の整理を優先した。
しかし、その割に一郎太の頭は回転していなかった。
呆然とする。青空の下、暖かな日光が照らす屋上で、少年はただ呆然として
いた。
やがて、一郎太の手が思い出したように、上段の弁当箱を開ける。白い米飯
が入っていた。続いて、下段の弁当箱を開ける。
インスタントカレーの袋が入っていた。
「…………」
なるほど、と一郎太は二つのことを理解した。
少年は今さっき無理矢理渡された情報は整理もできないのに、変なことに関
してだけは、不思議と頭が回るらしい。
一つは、鞘歌達が弁当を交換しようと提言してきた理由だ。こんな適当な昼
飯、誰も食べたいとは思わないだろう。まあ、例外もいるだろうが。
二つ目は、ボウルの存在。一郎太の推測が正しければ、水筒の中身は熱湯だ
。ボウルに熱湯をいれ、カレーの袋を浸し、温めるのである。
ちなみに、千晶の弁当箱を開けてみると、素麺と袋に入ったつゆとが入って
いた。コップはつゆを入れて素麺を浸すのに使うのだろう。
「…………」
気持ちいい冬の晴天の下、少年は黙々と、馬鹿みたいに、インスタントカレ
ーを温めるのだった。
私は最低だ。
私は嘘をついている。
私はあの人を騙している。
私はあんなに優しい人に嘘をつき、騙しているのだ。
心が痛い。
胸が苦しい。
涙が溢れる。
今、私は自分に対してまで嘘をついているのだ。
この世界に修行できたなんて、とんでもない大嘘だ。
真っ赤な嘘。
本当はそんなことをしに来たんじゃない。
もっと、簡単で、短時間ですむ目的で来たのだ。
でも──
私には、それが出来ない。
こちらに来るまでは簡単だと思っていた。
すぐに終わらせて、元の世界に帰るつもりだった。
それが──
出来なかった。出来ると思っていたのに、いざとなった時、私は何もできな
かったのだ。
機会はいくらでもあったのに。
──いや、違う。
出来るのに、機会があったのに──私はやらなかったのだ。
やりたくなかった。
やりたくない、と私は思うようになっていたのだ。
──何故だろう。
私は何を躊躇っているのだろう。
何を恐れているのだろう。
──わからない。
いくら考えても。
どんなに考えても。
どうしても。
わからない。
ただ、心だけが痛い。
胸が苦しい。
涙が溢れる。
あの人の優しさを裏切っていることが、苦痛だった。
私は嘘をついている。
あの人に──そして自分にも。
私は最低だ。
(見つかりませんわねぇ……)
ティアラは神無学園普通棟二階の廊下を歩きながら、嘆息した。
姿形は昨日のまま──滝山桂子のものだ。
(そろそろ迎えにあがらないといけませんのに……)
キョロキョロと、ポニーテールを振り回すように辺りを見回す。右手には窓
。左手には一年六組の教室。廊下に出てトイレに向かう男子生徒や、窓際でお喋
りに花を咲かしている女子生徒達。
何の変哲もない、しかし、ティアラが初めて見る光景がそこにあった。
物珍しく思う心もあるが、今は落胆の色が濃い。
求めるものが見つからないからだ。
(反応は確かこの辺りで……)
この学校に探している人物がいる。ティアラはそれを確信していた。なぜな
ら、この建物の近くで『あの人』が『力』を使った反応があったから。
ティアラの予想では、この建物の半径一キロ以内に必ず『あの人』はいるは
ずだ。
だが、この周辺は既に十分探索したにも係わらず、『あの人』はまだ見つか
っていない。
と、すると──残る場所はは、中心であるこの神無学園の校舎内だけだ。
しかし、いつもの格好で校舎に入ったら、用務員のおっちゃんにすぐ追い出
されてしまった。確かに外見が子供なのだから、当たり前といえば当たり前であ
る。
しょうがなく彼女は屋上でぼんやりしていると──
知っての通り、ティアラは桂子の生徒手帳を見つけたのである。
少女は『これはしめた』と思った。
これを持って、この『馬鹿』に変身すれば、疑われることも、追い出される
こともないだろう、と。
とまあ、そうな理由で昨日、ティアラは桂子に変身したのだった。
そして、今一通り校舎内を見回っているのだが──
「…………」
吐息。
目標発見できません、である。
(──とりあえず、念のためもう少し探してみましょうか……)
もう一度校舎内を回ってみようと思った、その時。
「桂子」
ティアラの背に声が掛かった。
が。
少女は自分が変身している者の名前をろくに覚えていなかったため、気付か
なかった。
そのまま歩調を緩めることなく歩く。
六歩ほど歩いて、その肩に手がかかった。
「こらこら。待てとゆーのが聞こえんのか」
振り向くと、背中まで届くゆったりとウェーブのかかった黒髪の女性が立っ
ていた。男物の黒いスーツの上に、白衣を羽織っている。ティアラは知らないが
、川端燕という名の現代社会教師である。
「……何かご用ですの?」
自分が変身していることを忘れたのか、ティアラは慇懃な口調で燕に問うた
。その瞳が、冷気を放つ。気安く触れるな、と目が語っていた。
「何かご用ですの、じゃない。このド阿呆」
「なっ……!?」
いきなりぶつけられた罵言に、ティアラの、いや、正確には桂子の顔が真っ
赤に染まった。もちろん、怒りの赤に、である。
「こんな時間に登校とはいい度胸だ。素晴らしいまでの遅刻だな」
そんな燕の溜息混じりの言葉を、ティアラは聞いていなかった。少女の瞳に
、淡く黄玉色の光が灯る。
「ぶっ、無礼者っ!」
出し抜けに怒鳴りつける。それは信じられないほどの大音量だった。大気が
、ビリッ、と震動し、一部の窓ガラスに亀裂が走る。
至近距離にいた燕は、その波動だけで、ぶん殴られたかの様に後ろへ吹っ飛
んだ。身長一六五センチ、体重四九キロの体が廊下一メートル上空を疾走する。
そして、丁度進路方向に立っていた大柄な男子生徒にぶつかって、何とか停止し
た。
が、その時既に燕の意識はお花畑。
「は、はにゃぁ……」
ナルトになった目を廻して、意外と可愛い声をこぼしながら座り込む。それ
を慌ててぶつかられた男子生徒が両脇に手を入れて抱き留めた。
廊下中の人間が、当然の如く、交互に視線をティアラと燕に集中させる。ヒ
ソヒソと小声で交わす会話が幾つか生まれた。
「──ふんっ」
鼻息荒く、ティアラはへたりこんだ燕を見下すと、周囲の視線を振り払うよ
うに背を向けて歩き出した。ずんずん、という勢いで進む少女を、誰も止められ
ない。ただ呆然と見送るだけだ。
ティアラが廊下の角にまで来た時だ。
角を曲がり、その先にある階段が視界に入った瞬間。
二階に続く階段から緑色の人影が駆け下りてきて、彼女に激突したのだ。
「「きゃっ──!?」」
重なる悲鳴と体。突撃してきた人影とティアラは、廊下の上に派手に転がっ
た。
二人はよく磨かれた廊下の上を一メートルほど滑り、壁にぶつかって止まる
。ごん、とティアラの後頭部が結構いい音を出した。
「──っ……!」
ティアラは壁に打った頭を抑えて、上体を起こした。キッ、と自分の腹の上
に乗っている人物を睨み付け、
「あなた一体どこに目をつけていらしゃ──!」
怒鳴りつけようとしたティアラの声が、言葉半ばにして途切れた。
「──っ……ご、ごめんなさいっ!」
ぶつかってきた人影は慌てて身を起こし、緑色のフレアスカートの乱れを直
しながら、ティアラに向かって頭を下げた。
その顔に、ティアラが見覚えがあった。
呟きが、口をついて出る。
「……吹雪の巫女──様?」
「えっ?」
震える声での問いに、雪菜はキョトンとした顔で聞き返した。