(僕は一体何をしているんだろうか?)
一郎太は自問した。屋上でインスタントカレーを食べながら。
しかも箸で。
双子が弁当を交換したがった理由が、またも身に染みて理解できる。
鞘歌が残していったインスタントカレーは、辛いというより、むしろ酸っぱ
かった。
(……追いかけなくて、いいのか?)
自分で自分に問いつめる。もう一人の自分は、さっきから黙秘権を行使し続
けていた。
(……あの娘、泣いていたじゃないか)
自分で自分を追いつめる。脳裏に雪菜の泣き顔が浮かんだ。前に体育館の裏
で泣かしたのを合わせると、これで二回泣かしたことになる。我ながら、僕はひ
どい男なのかな、と思う。
(……ごめんなさいって、謝ってた……)
そんなことを言われる心当たりは、全然無い。確かに彼女のおかげで、今ま
で体験したことのない迷惑をかけられてはいるが、一郎太は少しも気にしたこと
はなかった。
少年は考える。少女は一体何について謝っていたのか。
可能性その一。家に置いてあげていることについて。
これは違うだろう。今さら、といった感がある。それに泣くほどのことじゃ
ない。
可能性その二。学校に連れてきてあげていることについて。
これもおそらく違う。やっぱり、今さら、といった感じだ。そしてやはり、
泣くほどのことじゃない。
可能性その三。今までかけた全ての迷惑について。
これは十分あり得る。今まで一郎太は散々な目にあっている。雪菜ならきっ
と、申し訳なさで泣いてしまうこともあるだろう。
可能性その四。一郎太が知らない事について。つまり、一郎太が聞いていな
い、又は雪菜が隠している、謝らなければいけない事についてだ。
これの可能性は低い。が、まるっきり皆無というわけでもない。少なくとも
、可能性その一やその二よりかは、あり得そうだ。気持ちとしては、雪菜が一郎
太に隠し事をしているなど、あまり考えたくないのだが。
思考の結果。一郎太は可能性その三とその四を選んだ。しかし、まだ選択肢
は二つ残っている。
悩むより先に、インスタントカレーが無くなった。箸を置いて、弁当の蓋を
閉める。
(……追いかけなくて、いいのか?)
再び、同じ事を問いかける。選択肢が三にせよ、四にせよ。雪菜にあって話
さなければ、どれが正解でどれが間違っているか、わからないはずだ。
一郎太は答えが知りたい。
しかし、体は動かなかった。
心のどこかで、追いかけることを躊躇っている。
「…………」
もう一度、雪菜の泣き顔が頭に思い浮かぶ。
少女は涙を流していた。
泣いていた。
泣くという事は、心に傷があることではないだろうか?
傷は癒されなければいけない。
今、雪菜の心の傷をいやせるのは──
(──僕でいいのか?)
本音がようやく首をもたげた。この問いが、一郎太の躊躇の元だ。
自分でいいのか。自分であの娘が癒されるのだろうか──そんな問い。
一人ではいつまで経っても答えが出ない問いだ。
しかし、答えが出ないことなど、一郎太はとっくに理解している。
問題は、もし自分が雪菜の心の傷を癒すことが出来なかったら、という恐怖
だ。
恐怖なのである。
何故かはわからないが、馬鹿みたいに、一郎太はその事を恐れていた。その
事に対して、怯えてすらいた。
(きっと、僕なんかより、ずっと、もっと……)
適役がいる、と考えるよりも早く。一郎太の頭に新しい問いが生まれた。
(──誰がいる?)
誰もいないのだ。この世界で、あの娘は<異世界>から来た、おそらくたっ
た一人の存在。
誰があの娘の事を理解して、傷を癒してやれるというのか。
(……もしかして、僕だけ?)
彼女が<異世界>の存在であり、雪女であることは、一郎太しか知らないは
ずである。
「…………」
少年は葛藤する。
(もし追いかけて、追いついて──何もできなかったらどうする?)
格好悪いだろうなぁ、と思う。
(……あれ? ……それだけ?)
それだけだった。
雪菜を追いかけて、その傷を癒そうとして──何もできない。
その結果、一郎太は自己嫌悪に陥る。
自分は格好悪い。自分は雪菜に対して何もできない。無力感。
それらを感じる。
だが、言ってしまえば、それだけだった。
そう。はっきり言ってしまえば、一郎太は自分が醜態を曝すことを恐れてい
たのだ。
ただ、それだけだったのだ。
(…………)
結局は、一郎太の勇気一つだった。
なら、答えはすぐに出る。
少年は立ち上がった。
やることはただ一つ。
あの少女を捜すことだ。
神無学園普通棟二階の廊下は、しん、と静まり返っていた。
誰も声を発さず、何も音を立てない。
無音という音だけがそこにあった。
耳が痛くなるほどの静寂の中。幾十の視線が二人の少女に注がれていた。
廊下に座り込み、互いを見つめ合っている少女たちに。
片や、この学校ではあまり見かけない、緑を基調とした制服を着た、腰まで
届く黒髪を持つ少女。
片や、紺のブレザーと灰色のスカートに身を包んでいる、ポニーテールの少
女。
ポニーテールの少女──桂子に変身したティアラが、ぱぁっ、と顔を輝かせ
て、沈黙を破った。
それは歓喜の声だったのだろうか?
キン、と金属音が、ティアラの口から発せられた。
それが、連続する。
まるで鉄琴を連打するように、頭に響く金属音が鳴り響く。
すさまじい音量である。空間に震え、全ての窓ガラスに亀裂が生まれた。
「ぬわあああああっ!?」
「な、何だこの音ぉっ!?」
「あ、頭が……!」
大太鼓の重低音とはまた違う、頭と腹に響く音と震動に、廊下に立っていた
者達がバタバタと倒れていく。
それでもティアラの口は閉じない。金属音は止まらない。
例外にただ一人、雪菜だけがキョトンとしていた。
ついに限界を超えて、窓ガラスが自己崩壊する。廊下の全ての窓ガラスが、
砕け散った。多くの破片は外に向かって飛び出す。が、わずかばかりの破片が倒
れている生徒達の上へ雹のように降り懸かった。
出し抜けに、ティアラは身を起こして緑色の制服の少女──雪菜に飛び付い
た。
「きゃっ!?」
甲高い金属音と叫び声をあげて、二人は勢い余って後ろに倒れる。
ガラスの破片が廊下で跳ねる。やかましい音が廊下中を跳ね回る。その音に
まぎれて、二人の倒れる音は聞こえなかった。
音が止み──はた、と沈黙。
驚いたような顔で雪菜の胸の上に頭を乗せたティアラ。その表情が、にまぁ
、と破顔する。そのまま猫のように、雪菜の胸に頬をすり付けた。
「あ、あの……」
雪菜は顔を赤くして、蚊の鳴くような声を出した。
ティアラが顔を上げ、返事の代わりに、キン、と金属音が鳴る。
「……どなたでしたっけ?」
「…………」
その問いに、ティアラはしばし呆然としたように硬直した。視線があらぬ方
向に向き、思考する。
やおら起きあがり、膝立ちの姿勢で、ぽんっ、と右拳で左掌を叩いた。
桂子の姿をしたティアラは、額に人差し指を当てて、口から金属音を発した
。
途端、その眉間に、ピシリ、と罅が走った。
それだけでは止まらない。眉間から顎。顎から首。首から胸。胸から腹へと
、亀裂は桂子の姿をしたティアラの体の上を駆け抜ける。
そして、亀裂が彼女の体を二つに分けた。
「──っ!?」
雪菜は思わず息を呑んだ。膝をついていた少女の体が、まるで桃太郎の桃の
ように、ぱっくりと左右に割れたのだ。
真っ二つに割れたポニーテールの少女の体内から出てきたのは、元気な赤ん
坊ではなく、紺色の髪と紅玉の如き瞳を持つ少女。
本来耳があるべき箇所から後ろに向く角を三対六本生やした少女は、雪菜の
前に立ち、にこにこと愛らしい笑顔を浮かべている。外見に相応した、実に子供
らしい笑顔である。
その笑顔に、雪菜は見覚えがあった。
「パティオ……さん?」
一つの名が、雪菜の口からこぼれた。
ティアラの口から、嬉しそうな響きの金属音が鳴る。その音と同時に、桂子
の姿をしていたモノ──殆どセミの抜け殻のようなモノ──が、ずざぁ、とまる
で渇いた砂の城のように崩れ落ちた。薄緑色の廊下の上に、真っ白な砂が広がる
。
「ぅぅ……」
「ぁぁ……」
一際高いその音に、倒れている数名が苦しそうな呻き声をあげた。中には泡
を吹いている者までいる。
声でそちらに向いた二人の顔が、一瞬にして真っ青になった。
「「あ……」」
妙に間抜けな声が重なって、廊下に落ちる。
ゆっくり、二人は視線だけをずらし、隣にあるお互いの顔を見合う。
「やばい……ですわね」
ここでようやく、ティアラが文字になる言葉を話した。
余談だが、先程までティアラの口から発していた金属音。あれは、彼女の世
界での言語である。しかも方言。もちろん、人間には発音できない。だから、人
に対しては頭が割れるほどの痛みを及ぼす高音なのだが、ティアラ自身や、雪女
の雪菜には何とも無いのである。
便宜上、ティアラの言語を竜人語と名付けよう。
とどのつまり、ティアラは今ようやく、竜人語が人間に対して害があること
を思い出したのである。ちなみに、先程の連続した金属音を翻訳すると、
「お久しぶりですっ私ですっああっ久しぶりでございますねっ会いたかったで
すわっもう三日も捜したのですよっでも見つかってよかったっ収穫の方はいかが
ですか? もう目的の者は見つかりましたか? いえいえそんなことよりなによ
り本当に会えて良かったですわっ!」
という感じである。日本語に訳せないモノまで混ざっていたので多少不完全
ではあるが、大体の意味はあっているであろう。
「……はい……」
ティアラの言葉に、沈痛な面持ちで雪菜は頷いた。
というより、死屍累々と転がっている生徒達を目の前にして、顔面蒼白の雪
菜は、そう応えるしかなかった。
改めて見ると、凄い光景なのである。
長い廊下。そこに倒れている数十人の生徒達。その上に降り懸かっているガ
ラスの破片。ガラスの破片が日光を反射して、きらきら輝いている。
一種の地獄絵図であった。
「──と、とにかく、ここにいたらまずいですわ。早く行きましょう」
ティアラは雪菜の手を引いて、顎で階段を指し示した。
「あ、は、はい」
手を引かれ、雪菜は片方の手でスカートを押さえながら、慌てて立ち上がる
。
「こちらですわっ」
三十センチ下から聞こえた声に応えるよりも早く、強く手を引かれて雪菜は
急いで走り出した。
こうして、神無学園史上最大の凶悪事件を起こした犯人達は逃亡したのであ
った。
一郎太は走った。
焦燥感が足を回転させる。
屋上の隅の小屋に入った。
下に続く階段が目に入る
彼は階段を駆け下りていく。
踊り場をで反転し、階段を下りると七階に着いた。ここは三年生の教室があ
る階だ。視界の端に、廊下で談話している先輩達が見える。だが、一郎太は気に
留めず、再び階段を下りた。
六階。ここも三年生の教室がある階だ。わき目もふらず通り過ぎる。
階段を下りている途中で、
「──!」
階下から金属と金属がぶつかり合うような音が聞こえてきた。波の音量では
ない。校舎全てを震わすような大音量だ。
思わず、足が止まる。
(……なんだろう?)
と訝しがると、不意に音が止んだ。
静寂が訪れる。
「……?」
一郎太はしばし辺りを見回して、様子を窺い、
走り出した。
足の回転が速くなる。下で雪菜が何かしたんじゃないか、という不安が生ま
れたようだ。一段飛ばしで、階段を下りていく。
五階。ここから二年生の教室がある階だ。もちろん、迷いなく通り過ぎて、
階段を下りる。
四階。ここは一郎太のクラス──二年六組がある階だ。廊下で、一郎太の弁
当を抱えて千晶と会話している鞘歌が目に入った。が、一郎太はそれを無視。階
段を駆け下りる。
三階。ここの階にあるのは一年生の教室。と、廊下に大勢の生徒達が出てい
るのに気付く。皆一斉に窓から下を見下ろしていた。
(……まさか……)
先程の金属音と合わせて、この情報は一郎太の嫌な予感を呼び醒ました。
まるで飛び降りるような勢いで階段を下りていく。
二階。ここも二年生の教室がある階だ。一瞬、割れた窓ガラスと廊下に倒れ
ている人たちが見えた。急いでいる一郎太はこれを無視。階段を駆け下りる。
「──へ?」
ピタリ、と足を止めた。慣性が働いて、そのまま前に転けそうになるのを踏
ん張って耐える。
(……いま、とんでもないモノがあったような……)
嫌な予感は、的中しつつあるらしい。体の向きはそのままで、足をゆっくり
後ろに運ぶ。
後退しながら、一郎太は首を回して、背後を見た。
まるで人骨が風化したような、真っ白い砂の小さな山がある。が、一郎太の
脳味噌はそんなどうでもいいようなモノは知覚しない。
もっと、衝撃的なモノ。
割れた窓ガラスと、廊下に落ちているその破片が見えた。
再び、一郎太の足は停止。
「は、ははっ……」
苦笑い。
まさか、という思いと同時に、見たくない、という思いがあった。
まさかとは思うが『もしかしたら』ということもある。
しかも、先程見た光景に間違いがなければ、もしかしたら、の可能性が高い
。だから、余計に見たくなくなる。
しかし、一郎太の足は動き出した。後ろに向かって、ゆっくり歩む。
そして、一郎太はとんでもない光景を見た。
一郎太の表情が、苦笑いのまま凍り付く。
割れた窓ガラス。廊下に倒れている二年生達。よく見てみると、中に燕も認
められた。そして、それらの上にガラスの破片が被さっている。
絶望的な光景だった。
大事件である。
テロリストが現れた。突風が吹いた。地震が起きた。ミサイルが飛んできた
。怪獣が現れた。火山が噴火した。学校がロボットになった等々。一郎太の脳裏
に様々な言い訳が浮かんでは消えていく。
(やばい! これはやばいよぉ!)
一郎太は泣きたくなってきた。いくらなんでも、こんな事件まで起こすとは
。これじゃ絶対、事が大きくなる。一郎太にはごまかしきれない。
大変なことになる。否、なった。
一郎太の脳味噌は、最善の解決方法を捜して、出口のない思考を始める。が
、すぐに『そんなの無理だ』という答えにならない、救いのない答えが出た。
一郎太は目の前が真っ暗になった。
しかし、ここで倒れるわけにはいかない、と持ち直す。
とりあえず、今するべき事は──
「きゅ、救急車と先生呼ばなきゃっ」
一郎太は職員室に向かって走り出した。
「──ここなら大丈夫そうですわね」
ティアラと雪菜が逃げ着いた場所。そこは、いつぞやティアラが屋上から飛
び降りて着地した、普通棟の裏手だった。目の前に高い壁が見え、その側には、
こんもりと土の盛り上がった跡がある。雪菜は知らないが、ティアラが桂子の姿
に変身した時の形跡だ。
高い壁と校舎が日光を遮り、そこは薄暗かった。
ティアラは引いていた手を離し、雪菜を振り返る。
「改めまして──お久しぶりですわね、吹雪の巫女様」
にっこりと、満面の笑みを浮かべて言う。
しかし、
「……はい……」
雪菜は逆に、暗い顔と声で返答した。
「……?」
その応答に、ティアラは怪訝な表情を浮かべ、三十センチほど上にある雪菜
の顔を覗き込む。雪菜は丁度下を向いているので、二人の視線が音をたててぶつ
かり合った。が、雪菜の瞳は、目の前にあるティアラを見ていないようだった。
どこか、別なところを見ている。
泣きそうな──臆病な小動物のような目をしていた。
「……吹雪の……巫女様?」
どうしたのか、というニュアンスで名前を呼ぶ。
雪菜は目を、きゅっ、と閉じ、無言で首を横に数回振った。
その瞳から、涙がこぼれ落ちる。重力に引かれた水滴が、ぴちゃっ、とティ
アラの頬を濡らした。
「え……?」
ティアラは思わず手を頬に当て、指先が濡れているかを確認する。
「……ごめんなさいっ……」
震える声。
「──はい?」
ティアラは顔を上げ、突然、頭上から降ってきた涙と謝罪に、ただ目を丸く
したのだった。
「──つまり」
粗方の話を聞いたティアラは、溜息を吐いてまとめに入った。
「まだ対象の人間の魂を摘出していない──そう言う事ですわね?」
赤い目のまま、コク、と雪菜は頷いた。
「道理で……」
ティアラは先程、雪菜の手を掴んだ時のことを思い起こす。
成る程、と納得できた。もし既にこの世界へ来た目的──自分に一番近しい
存在の魂を手に入れていたのなら、手を引いた瞬間にもっと強い『力』を感じる
はずである。しかし、先の手応えでは、雪菜の『力』はこの世界に来る前と殆ど
変わっていなかった。
「どうしても……あの人の……一郎太さんの顔を見ていると……」
雪菜は両手で顔を覆い、頭を振る。
そう。彼女は何度も、『一郎太の魂を奪おうとしたのだ』。
だが、出来なかった。魂を奪えなかったのである。
「魂を取ろうとして……一郎太さんの顔を見たら……何故だか急に怖くなって
……」
一度、一郎太の寝込みを襲ったことがあった。
しかし、いざという時になって、理解不能な感情が雪菜を襲うのである。
体が熱くなり、膝は震え、頭が真っ白になり。
これでいいのか?
そんな疑問が浮かんでくる。
本当にこの人の魂を奪ってしまっていいのだろうか。
自分は、取り返しのつかない事をしようとしているのではないか。
もし、これをやってしまったら、未知なる恐ろしい事が起きるのではないか
。
何故かはわからないが、そんな恐怖があった。
だから、彼女は一郎太の魂を奪うこと──殺すことが出来なかった。
彼女はまだ、その恐怖の源を知らない。
彼女はまだ自分の感情を理解していない。
自分は最低だ。
ただそんな自己嫌悪だけが、強くあった。
ティアラは困惑の表情を浮かべ、小さく呻いた。
「……しかし、吹雪の巫女様。そのイチロウタという少年の魂を手に入れなけ
れば……」
「それはわかっています……でも……」
どうしてもやりたくないんです。その言葉を雪菜は飲み込んだ。
悲しいことに、そんな言葉を言える状況ではないのだ。
雪菜の世界──<異世界>にも『世界情勢』というモノがある。
単純な『力』の世界ではあるが。
格闘技の世界に似たようなモノと思ってもらえばいいだろう。
弱肉強食。
強いモノが権力を握るのである。
こちらの世界と似ていると言えば、似ている。ただ、金やコネなどが無い分
、実に単純だった。
そして、その『世界情勢』が今、崩れようとしているのだ。
簡単に説明しよう。
ある世界に、AとBの二つのグループがありました。
この二つのグループは、仲が悪く、いつもお互いを潰そうと争っていました
。ちなみに雪菜ちゃんはAのグループに属しています。
ところが最近、Aのグループの力が弱まってきました。
このままではBのグループがAを潰しに来ちゃいます。
そこでAにいる雪菜ちゃん考えました。
私が強くなってバランスを取ればいいんだ、と。
実に単純な話ですね。
そして雪菜ちゃん、お姉ちゃんであるAのボスに相談しました。
Aのボスであるお姉ちゃんは二つ返事で『いいよ』と言ってくれました。
強くなる方法が一つあったのです。
それは、『自分と魂の波長が似ている者の魂を吸い取る』事でした。
ところが、その雪菜ちゃんと魂の波長が似ている人は、別世界にいたのです
。
それで、雪菜ちゃんは時空を越えて、魂の波長が似ている人の所へ行きまし
た。
それが一郎太君です。
一郎太少年にしては、はた迷惑な話ですね。
──とまぁ、本当は色々複雑なのではあるが、大体はこんな感じである。
というわけで。
雪菜の目的はただ一つ。
己の世界の均衡を保つため、無用な争いを避けるため。一郎太の魂を手に入
れ、強くなる事なのだ。
「それに早くしませんと……もう向こうでは……」
不安げな瞳で、ティアラは雪菜を見上げる。
雪菜がこの世界に来て、もう四日になる。向こうではそろそろ『何か』起き
ていてもおかしくない。
「ごめんなさいっ……」
雪菜はただ謝罪の言葉だけを口にしていた。それしか言えないのだ。
目的があるのに。それを果たさなければいけないのに。そうしないと家族、
友達、皆が消えてしまうかも知れないのに。
出来ない。否──やりたくない。
すまなさと情けなさが混同して、どうしようもなかった。
義理と人情の板挟み、というやつである。
そして、それからしばらく。
二人の少女は、ただ向き合っていた。
大きな少女は両手で顔を覆い、声を殺して泣いている。
小さな少女は、涙を流す大きな少女の顔を、黙って見上げていた。
やがて、どれほどの時が経ったのだろうか。
不意に、ティアラが口を開いた。
「わかりました」
「……え?」
突然の言葉に、雪菜は両手を開いて眼下のティアラの顔を見た。そこには、
強い意志の篭った瞳がある。
決心をした者の瞳だった。
「そのイチロウタという人間の魂。私が奪いますわ」
「……!?」
雪菜の顔に驚愕が走った。驚きのあまり、両目から涙が引く。
「そっ……!」
そんな。
そう言おうと口が開き──ややあって、閉じた。
言えるわけがない。この少女は、不甲斐ない自分の代わりをしてくれようと
言うのだ。
彼女らの世界にとって、一郎太の魂が必須である限り、誰かがやるしかない
。
雪菜が出来ないと言うなら、ティアラがするしかないのだ。
そう。そのためにティアラはここに来たのだろう。おそらく、雪菜の姉が、
彼女が目的を遂行できない場合を見越して、ティアラをこちらの世界に送り込ん
だのだ。雪菜の監視と、もしもの時の保険として。
またも、雪菜は義理と人情の板挟みになった。
唇を、きゅっ、と噛む。
本音は、一郎太を殺したくない。ティアラを止めたい。
だが、そうしたら故郷の姉や仲間が死んでしまう。
姉や仲間にも死んで欲しくない。
「いいですわね?」
ティアラの強い眼差しが、雪菜を貫いた。
「……ぁ……」
動揺。葛藤。そして生まれる焦燥感。
何が何だかわからなくなってきた。思考が白くなっていく。
涙腺が緩み、目の前にあるティアラの顔が、ぐにゃり、と歪む。
唇を強く噛み、雪菜は喉から絞り出すように言った。
「………………はい」
誰か助けて。
そう声を大にして叫びたかった。
只今、一時三十五分。通常なら、五時限目に入っている時間である。
そんな時間に、桂子は今日初めて神無学園普通棟に足を踏み入れた。
「あ、桂ちゃん」
階段を上がって二階に着いた途端、彼女にそんな声がかかった。
俯きながら歩いていたので、彼女はその声に頭を上げた。
「──あれ? 何やってんのよ、千冬」
階段を上りきった踊り場。教室が並ぶ廊下に続く曲がり角。そこに、級友で
ある、岡本千冬という少女が立っていた。
背中まで伸びた髪。その一部をリボンを結っている、人形のような少女であ
る。瞳が大きく、唇が小さい。男受けする愛らしい顔をしていた。
「今、授業中じゃないの?」
沸き上がって当然の疑問を、桂子は千冬にぶつけた。
「それが……」
千冬は言葉に詰まる。彼女の視線が、チラリ、と廊下の方に向いた。
「?」
何だろうと思いつつ、桂子は千冬に歩み寄る。
そして、すさまじい光景を見た。
「…………」
足を止め、絶句。
窓ガラスが全て割れていた。廊下にその破片が転がっている。開いた穴から
冷たい風がびゅうびゅう吹き込み、教室の戸をガタガタと揺らしていた。
「……何これ?」
廊下に視線を注いだまま、桂子は妙に抑揚のない声で尋ねる。
「わかんない……」
千冬は首を軽く横に振り、簡潔な言葉で答えた。
「……何があったの?」
「わかんない……」
首を横に振る千冬。桂子は視線を千冬に移した。動きに合わせてポニーテー
ルが小さく躍る。
「……どーいうこと?」
千冬は視線を中空に向け、小首を傾げる。人差し指を顎のラインに添えて、
えーと、と唸り、
「あのね、あたし、その時、まゆちゃんと一緒に中庭でお弁当食べてたから…
…」
「何が起こったか知らないの?」
「うん……」
申し訳なさそうに、廊下に視線を落として頷く。桂子はそんな千冬から視線
を外し、辺りを見回した。廊下にはガラスの破片だけではなく、少量の白い砂も
撒かれているようだ。
「まゆは?」
「なんか、変なこと言って、どっかに行っちゃった……」
「何て言って?」
「犯人は制服を着て音波兵器を持ったテロリストよ、って……」
確かに、まゆのその読みは間違ってはいなかった。意外と才能があるのかも
しれない。
「ふぅん……」
しかし、桂子は途中から千冬の言葉を殆ど聞き流していた。まさかまゆの読
みが本当に当たっているとは、露にも思わない。
足を動かし、落ちているガラスの破片を避けながら、教室に向かう。
「先生はなんて?」
後ろからついてくる千冬に、再度質問。
「窓が割れたのは突風が吹いたからで、倒れた人は食中毒じゃないかって……
」
もう一度、桂子の足が、ピタッ、と止まった。ゆっくりと、千冬を振り返る
。
「……人が倒れたの?」
その声に、表情はない。微かな冷気をこぼす瞳が、少女を見据えた。
桂子の顔は驚くほど無表情だった。まるで能面の如く。
「えっ……」
千冬はそんな友達の反応に、一瞬、ゾクリとする。まるで桂子が自分の知ら
ない何かに見えたのだ。
「え、あ、あ、う、うん……」
腰を引き、しどろもどろに頷く。すると、桂子の瞳に篭った冷気が、さらに
強くなったような気がする。慌てて言葉をつなげようとするが、頭が空回りして
、何を言えばいいかわからなくなった。そうこうしている内に、二人は二年六組
の教室の前まで来た。
ここに来るまで、彼女たちは誰にも遭遇しなかった。
教室を覗き込むと、案の定、誰もいない。
「そう」
冷たい声だな、と桂子は自分でも思った。
「みんな?」
倒れたの、という言葉を省いた。が、千冬はそれをちゃんと汲み取り、答え
る。
「う、うん……助かったのは、外でお弁当食べてたり、遊んでた人だけ……あ
、後、上の階にいる先輩達も……」
「へえ」
少し上擦った嫌な声だな、と桂子は自分でも思った。
やばい。『またキレてしまいそうだ』。
教室に入り、自分の席に向かう。陽が窓から斜めに射し込み、窓際の机を暖
めていた。日光を反射する己の机に、目を細めながら近づき、背中から下ろした
鞄を上に置く。
深呼吸。
桂子は努めて声を落ち着かせるようにして、口を開いた。
「そういえば、何で食中毒ってわかったの?」
「え? あ、うん。なんか、倒れた人が、菌って言ってたんだって……」
「菌?」
「うん。皆が『菌、菌……』ってうなされるように言ってたらしいよ?」
「ふぅん……」
相槌を打ちつつ、桂子は椅子を引いて座る。両肘を突き、両手で顎を支える
姿勢を取った。
と。
桂子は隣に立つ千冬の様子がおかしいことに気がついた。俯いて、十本の指
を恥ずかしそうにモジモジ動かしている。
「……? 何? どうしたの?」
「あ、あのね……その、ね……桂ちゃんに、その……」
桂子は千冬の態度に溜息一つ。
「はっきり言いなさいよ」
「う、うん……んとね、お願いが……あるの」
「お願い?」
「うん……あのね……実は昨日、佐藤君からこんなのもらっちゃって……」
そう言って、千冬は一枚の紙切れを取り出した。桂子は右手を伸ばし、それ
を受け取る。四つ折りにされた紙を開き、目を通す。
「なになに?──あなたのことが好きです。つき合ってください。放課後は時
間がないので、明日の五時間目と六時間目の間の休み時間に、屋上で待ってます
。返事をください。佐藤真一」
桂子の目が見開き、
「──って、らぶれたぁぁぁぁっ!?」
椅子を蹴って派手に立ち上がった。
千冬は俯いたまま、恥ずかしそうに、うん、と頷く。
「佐藤真一って、あの、学年成績首位の?」
千冬は俯いたまま、恥ずかしそうに、うん、と頷く。
「剣道部の主将の?」
千冬は俯いたまま、恥ずかしそうに、うん、と頷く。
佐藤真一。これは神無学園の女子ならば、誰でも知っているほど有名だった
。
文武両道。眉目秀麗。今時こんな高校生がいるのか? と言うぐらい、完璧
な男である。当然、学内の女子人気ナンバーワンであった。
「……まぢ?」
その質問に対してだけ、千冬は俯いたまま、恥ずかしそうに、首を横に傾げ
た。
「わ、わかんないの……も、もしかしたら悪戯かも知れないし……だ、だから
、桂ちゃんについて……きて……欲し……ぃ……の……」
段々声は尻窄みになっていって、最後は蚊の鳴くような小ささだった。
桂子は俯いているせいで頭しか見えない千冬を凝視。
(こ、この娘にまで男が……!)
額に青筋が三六八個浮かび上がり、拳をぐぅぅぅと握りしめる。
愚かしい女の嫉妬であった。
「……はぁ……」
やおら、桂子は吐息。肩の力を抜いた。
嫉妬しても始まらない。今はただ友人の幸せを素直に祝福しよう。そうしよ
う。
そうすれば暗い気分も吹き飛ぶだろう。嫌な記憶も一時は忘れることが出来
るだろう。
「……いいわよ」
「──え? ……ほんと!?」
「嘘吐いてどうするのよ」
桂子は苦笑する。千冬の顔が、ぱぁっ、と破顔した。
「ありがとうっ」
極上の笑顔で千冬は言う。桂子は密かに、この娘の笑顔が好きだった。自分
とは違う、汚れのない少女の笑み。自分はもう出来ない、綺麗な笑顔。
血に塗れた自分には一生出来ない表情だからだろうか。
「気にしなーいのっ。あたし達友達じゃない。さ、行くわよ」
桂子は微笑む。大好きで綺麗な汚れのない笑顔が答えた。
「うんっ」
屋上は寒い。
桂子は正直にそう思った。
今、桂子は屋上へ出る唯一の出入口である小屋の屋根の上にいる。
眼下に、屋上の真ん中に立っている千冬が見えた。少女は不安そうに両手を
胸元で合わしている。
左手に巻いた腕時計を見ると、二時一分だった。後四分で、五時限目が終わ
る。
もう少しで約束の時間である。
屋上の真ん中に立つ千冬が、隅にある小屋の屋根で、身を伏せて隠れている
桂子を、助けを請うような目で見上げた。
桂子は右手を少し挙げ、安心させるようにヒラヒラと振る。
と、テンポの速い足音が聞こえてきた。小走りに階段を駆け上がってくる。
びくっ、と千冬の体が震える。桂子はさっと頭を下げて気配を殺した。
「あ、ごめん。待たしちゃったね」
小屋の中から、一人の少年が出てきた。桂子からは後ろ姿しか見えない。短
髪の黒い学生服に身を包んでいる。背中しか見えないが、誰かははっきりわかっ
た。
佐藤真一である。
かっこいい男の御多分に漏れず、彼は非常に礼儀正しかった。相手を待たし
ていたことを素直に謝し、軽くだが頭を下げる。
「ぁっ……は、ひゃぃ……」
対する千冬は、完全に逆上せ上がっていた。顔は紅潮し、声は裏返り、返事
が言葉になっていない。
桂子は小屋の上から、声を出さず唇だけを動かして、
「がんばれー」
と千冬を応援した。が、彼女にはそれに気付く余裕がない。真っ赤な顔で真
一と向かい合って、両手を胸元に持ってきた姿勢のまま、ただ呆然と突っ立って
いる。きっと今頃、彼女の脳味噌は沸騰しているのだろう。
「え、えっと……て、手紙読んでくれた……かな?」
視線を少し横にずらし、右手で恥ずかしそうに後頭部をポリポリと掻きなが
ら、真一は切り出した。千冬は無言で、まるで壊れたロボットの如くガクガクと
首を縦に振る。
どうやら悪戯の類ではないらしい。そう判断した桂子は、これ以上覗くのは
無粋だと思い、二人から目をそらした。
冷たい風が吹く。先端で小屋の屋根を撫でていたポニーテールが、風に合わ
せて揺れた。
何気なく、屋上よりもさらに高い、小屋の上から、眼下に広がる街並みを見
下ろした。
見えるのは、背の高いビルの群が主である。その隙間を縫うようにして一般
住宅の色とりどりな屋根が点々と見えた。
と、ある方向だけ、妙にぽっかりとした空間があることに気付いた。他のど
の方向を見やっても、必ず見える背の高い建物が、そちらには無いのである。空
が妙に大きく見えた。
そちらはティアラと戦闘を起こしたビジネス街の方向だった。
「…………」
苦笑いする。冷や汗が桂子の頬を流れ落ちた。つつっ、と視線があらぬ方向
に向く。
見て見ぬフリをすることに決めたらしい。無責任な娘である。
視線を逸らした先に、見慣れない──否、桂子にとっては、見慣れた風景が
あった。
見慣れた通学路の、見たことのある破壊された家々。
今朝の怪獣が遺していった爪痕だ。
四百トンの重りを付けられたかのように、気持ちが急速に沈んでいく。
あの辺りはきっと、大勢の『行方不明者』が出たと噂になるだろう。そして
、神隠しだの集団催眠だの、根も葉もないことを言われるのだ。
だが、所詮そこまでだ。
その内、誰も話題にしなくなり、忘れ去っていく。壊された壁や家も、あく
まで噂にだけ尾鰭背鰭がつき、誰も真実を知ることはない。
なぜなら、桂子の知り合いに情報を操作できる者がいるから。そして、もう
既にこの事を公にしないように、彼女がその人物に頼んだから。
だから、誰も何も知らず、あの場で死んでいた人たちは、『行方不明』とし
て扱われるのだ。
皮肉なことに、その事実が一層桂子の心を重くした。
情けない。
結局、自分には敵をとることしかできないのだ。
彼らの遺族に、彼らが死んだことすら伝えられない。
お尻の方から、千冬と真一の会話が聞こえてくる。その内容は、どこか現実
感を持っておらず、右の耳から入って左の耳から出ていった。
膝を曲げ、胸の前に持ってくる。両腕で両足を抱え、体を胎児のように丸め
る。
ふと、視線を下に向けた。
「──!」
桂子の目が見開いた。
視線の先に、二人の少女の姿があった。
緑を基調とした制服を着た黒髪の少女と、
紺色の髪と黄玉色の角を持ち、黄色のピンクハウス系の服を着た少女。
瞳がその姿を捉えた瞬間。カッ、と熱いモノが桂子の足元から脳天まで駆け
抜けた。
──ブツンッ!
桂子の中で何かが音をたてて弾けた。
その時、千冬はまるで天国にいるような、夢見心地だった。
手紙は嘘じゃない。悪戯じゃない。本当なんだ。
私は佐藤君から告白されたんだ。
頭の中に熱湯をそそぎ込まれたような気分だ。顔と言わず、全身が火照って
いる。
どうして私を?
「ど、どぉ……しを……?」
言葉を口にしようとしても、舌が回らず、訳の分からないことしか言えない
。自分は今火を噴きそうな顔をしているんだろうなぁ、と何処か冷静な部分で思
った。
千冬が言った謎の言葉の意味を、真一は汲み取ってくれたようだ。
「その……実は……初めて見たときから……」
一目惚れ。
千冬の頭は爆発寸前にまで来た。
(一目惚れ? 佐藤君が私に一目惚れっ!? 一目惚れって一目見て惚れるよ
ねっ!? 間違ってないよねっ!? きゃあー!?)
頭の中で天使と桜の花びらが舞い踊る。どこからともなく現れたチャペルが
祝福の鐘を高らかに鳴らした。
と、彼女の視界の中で、もそり、と動くものがあった。真一の背後。屋上の
隅にある小屋の上。
「……?」
脳味噌がトコロテンになっている千冬は、それが桂子だとわかるのに、数秒
を要した。
「返事、聞かせて貰えるかな?」
真一が、わずかに朱に染めた頬を掻きつつ言った。千冬の意識は再び目の前
の男の子に集中──できなかった。
桂子が、小屋の屋根の上から、跳んだ。
飛び降りた。
「──え……?」
千冬の表情が凍り付いた。頭がゼリー状な少女は、現在の状況を把握しきれ
ない。だが、無情にも現実は進行し、桂子の体はニュートンの法則に従って下に
落ちていく。
一瞬で、桂子の姿が視界から消えた。
千冬の体は完全に凍り付いた。信じられない事実を無理矢理ねじ込まれた頭
が、オーバーヒートする。
「──嘘……」
「え?」
呟きを、真一が聞き返した。
が、それに答える力は、もはや千冬にはなかった。彼女の意識は闇の底。
がくりと膝が折れ、ばたり、と千冬は屋上のコンクリートの上に仰向けに倒
れた。
「おっ、岡本っ!?」
真一が慌ててコンクリートの上に転がった千冬に駆け寄る。抱き起こすと、
少女は完全に気絶していた。
余談だが、この後、二人は交際を開始。五年後、見事ゴールインする。
が、それはまた別のお話である。
「それで……そのイチロウタという人間は、どこにいるのですか?」
慇懃な口調で、ティアラは雪菜に問うた。しかし、雪女の少女は首をゆっく
り横に振る。
「そうですか……」
ティアラは視線をあらぬ方向に向け、曲げた人差し指の第二間接を顎に当て
て、うーん、と唸った。
(吹雪の巫女様も見つかったことですし、早くイチロウタという人間の魂を手
に入れないと。向こうでは既に何かが起きているはず。一刻も早く──)
はっ、とする。
ティアラの頭の中で、今、何かが引っかかった。それは、とても重要な事柄
のように思える。思える、というのは、その『何か』がまだ思い出せないからだ
。
(──なんですの? この妙な──)
その感覚に当てはまる言葉さえ見つからない。何故か、焦る。何か大切なこ
とを忘れているような──今か今かと思っていたものがすぐそこまで来たような
──そんな感覚。
「パティオ……さん?」
「……えっ?」
雪菜の声がティアラを我に返した。
「あ、はい、何ですか? 吹雪の巫女様」
黙考を中断し、顔を上げる。が、そこに雪菜の顔はない。気がつくと、彼女
はしゃがんで、視線の高さをティアラと合わしていた。
雪菜は少し逡巡する素振りを見せて、
「その……どうして、こちらに?」
来たのか、という言葉を省いての質問だった。
一瞬、ティアラの脳裏の言葉が浮かぶ。『氷柱の王女様から吹雪の巫女様の
監視、及び、もしもの時の──』
が、少女はその言葉は無視。建て前、とまではいかない、もう一つの本音を
語る。
「吹雪の巫女様に会いたかったからですわ」
無邪気な笑みを浮かべる。そう。今言ったことは決して嘘ではなかった。
ティアラは雪菜を尊敬している。いや、崇拝している、といっても過言では
ない。
それは何故か。
細かいことを言うときりがないので、大きな理由を一つあげよう。
それは雪菜が『二つ名』を持っているからだ。
吹雪の巫女。
知っての通り、これが雪菜の『二つ名』である。
『二つ名』というものは、一種の称号と考えてもらえばいいだろう。これを
持つ者は、言外に強力な力を持っているという事を指し示す。
そして、<異世界>において『二つ名』を持つ者の数は、少ない。
もっと簡単に言おう。
雪菜は<異世界>の強者・トップテンの中に入っている。
そして、ティアラはその雪菜に憧れ、畏敬の念を抱いているのである。
──雪菜はティアラの返答に微塵の疑いも持たなかったようだ。
少女は微笑みを浮かべた。
「そうですか。ありがとうございます」
優しすぎる人だ、とティアラは思う。
この人はあまりにも優しすぎるのだ。
イチロウタという人間の魂を奪えないのも、その優しさ故だろう。きっと、
あまりに親しくなりすぎて、情が移ってしまったのだ。
だからこそ、自分が補ってやらねば、と思う。雪菜が非情になれないところ
を、自分が代わりに非情になり、補ってやらねば、と。
その時である。
薄暗い普通棟の裏手にいる二人を、さらに濃い影が覆ったのは。
先生からの尋問。警察からの事情聴取。そして救急車を持ってきた医療セン
ターの人の質問。
それらからようやく解放された一郎太は、学校中を走り回っていた。
雪菜を捜して。
ちなみに何故窓が割れたのかという質問には、突風が吹いた、と答え、何故
人が倒れたのかという質問には、食中毒じゃないのか、と言っておいた。適当す
ぎるかな、とは思ったが、誰も疑っていないようだったので、よしとした。
(どこにいるんだろう?)
一郎太は普通棟の一階の廊下で立ち止まり、辺りを見回す。見えるのは白い
壁と、教室と、窓の外にあるグランドの風景。人影は見えない。
既に校舎の中で、入ることの出来るところは全て捜し終えていた。
が、未だ雪菜は見つからない。
と、言うことは──
(外かな?)
それ以外考えられない。
一郎太は捜索範囲を、校舎内から学園内へと広げることにした。
落ちる。
地球の力で加速しながら落下する。
落下予測地点にいるもの。それは二人の少女だ。
空中で桂子はスカートのポケットの中に手を入れた。そこから、二枚の符を
取り出す。
きゅおん、という音を頭上に置き去りにして、両手の中に二振りの剣が現れ
た。
青銀色の剣と真紅の剣である。
それを振り上げて、さらに落下する。
無言。
あと、三メートルというところで、下にいる二人は桂子の接近に気付いたよ
うだ。弾かれたかの如く、二人は桂子から見て左右に、地を蹴ってその場から離
れる。
桂子の体は止まらない。勢いに乗って、着地の寸前に覇王剣と赤帝砕破剣を
振り下ろす。空を切った二本の剣は大地に叩き付けられた。
轟音。衝撃を受けた土が空中へと吹き上がった。土煙がもうもうと辺りを包
む。
それが戦闘開始の合図だった。
土煙が風にまかれ、霧散する。
地面に巨大な窪みが出来上がっていた。その中心に、ポニーテールの少女は
立っている。両手に青と赤の剣を携え、俯いて。
そして、その少女を雪菜とティアラが挟んで立っていた。雪菜から見ると、
右手に壁があり、左手に校舎。前に少女。その背後にティアラ。そんな位置関係
である。
桂子の姿を認めたティアラは、ふぅ、と溜息。
「またあなたですか……」
呆れた口調で、賢しそうに肩を竦める。
桂子は壁に向いていた体を、ティアラに向けた。どうやら雪菜は眼中にない
らしい。
呟く。
「……アンタのせいよ……」
「──なんですって?」
その言葉の意味を計りかね、怪訝な表情で聞き返すティアラ。
直後、桂子は思いっきり台詞を省略して次の言葉を放った。
「──殺してやるっ!」
何とも理不尽な一言であった。だらりと下げていた両手の剣を持ち上げ、テ
ィアラに向かって大地を蹴る。
「あ、相変わらず無茶苦茶言ってますわよあなたぁっ!?」
「うるさいっ!」
そんなティアラの抗議を、桂子はあっさり却下。双振りの剣を上段に構え、
迫る。
「しょうがありませんわねっ」
対するティアラの手には、いつの間にか一丁の拳銃が握られていた。
桂子が以前にも見たことがある、異様なほど砲身の長いピースメーカーであ
る。
銃声。
別名フロンティアの銃口が火を噴いた。銃弾が桂子の眉間めがけて、飛ぶ。
右手の覇王剣が、右上から左下に向かって振り下ろされる。弾丸と青銀色の
刃がぶつかり合った。
澄み切った金属音。力負けした弾丸が地面に叩き付けられ、めり込んだ。
桂子は止まらない。突っ込む。
覇王剣を振り下ろした際の勢いに体を引っ張られ、ティアラに対して背を向
ける。円運動。そのベクトルに乗って、回転するように左手の赤帝砕破剣を薙ぎ
払う。
が、そこにティアラの姿はなかった。紅い剣が何もない空間を通り過ぎる。
目の前に小さな靴と黄色いスカートの裾が見えた。
ティアラは跳躍していた。
瞬間。銃口が、再び桂子の眉間を狙う。体を剣の重さに引っ張られている桂
子は、反応できない。
(しまっ)
た、と桂子が思考するよりも早く。
突然何処からともなく飛んできた雪玉が、ばふっ、とティアラの顔に直撃し
た。
「うきゃっ──!?」
可愛い叫び声をあげて、ティアラは空中で体勢を崩す。引き金を引く力が、
指から失せた。どっ、と背中から地面に落ちる。
一瞬の攻防は引き分けに終わった。
「──んもう、なんですのっ!?」
ティアラは上体を起こし、顔についた雪をぱっぱっと払う。そして、雪玉が
飛んできた方向を見やった。桂子も雪玉が飛んできた方向────自分の背後を
首だけ回して、見る。
そこには、右手をこちらに突き出して立っている雪菜がいた。
ティアラの目が点になる。
「……吹雪の巫女様?」
「ちょっと、誰よアレ?」
苛立たしげな口調で、桂子は背を向けたまま雪菜を見据え、足元のティアラ
に聞いた。
ティアラは答えず、ただ呆然と雪菜の瞳を見つめている。雪菜が自分に雪玉
をぶつけたことに、軽いショックを受けていた。こんなコトされたのは初めてだ
った。
雪菜はおどおどした態度で、
「あ、争いは、やめてください……」
そう言って桂子とティアラの顔を交互に窺い見た。
それに棘のある言葉で反論したのは桂子だ。
「助けてもらったのはありがたいけど、邪魔しないで貰える? あたし今、す
っごく頭にきてんのよっ……!」
桂子は、まるでその対象が雪菜であるかのように、嫌悪感の混じった声を吐
き出した。怒りに燃える瞳が、少女を睨みつける。
「…………」
桂子の言葉に対して、雪菜は無言。しかし、その右手は下ろされない。二人
に対して突き出されたままだ。
それは無言の意志表示だった。
桂子がなんと言おうと、雪菜は、これ以上二人が争うなら、何度でも邪魔を
するつもりなのである。
その事を理解したのか、桂子は顔しか向けていなかった雪菜に、体ごと向き
直った。
「そういえば、アンタ何者なのよ? このガキの仲間って事は、<来訪者>?
それにさっきの雪玉だって……」
チラリと桂子は視線を足元に落とした。地面の上に一片の雪塊が落ちている
。それは地面の上で溶けるどころか、逆に自身が冷気を放って、土を冷やしてい
た。
「並の雪じゃないわよね?」
「…………」
桂子の言葉に、雪菜は無言。その替わり、ティアラがある単語に反応した。
ピクリ、と小さな体が震える。
(雪──!)
先程、頭の中で引っかかったものがなにか、やっとわかった。
雪だったのだ。
雪菜がこの世界にいる限り、雪が積もって無ければいけない。なぜなら、雪
こそ、雪菜がこの世界にいる証だからだ。否、正確には少し違うが。
サイン、と思ってもらえばいい。
雪が降っていれば、異常なし。大雪が降るなら、何々──雪が降らないなら
、何々──という風に、雪に関連した天候の変化は、<異世界>からのサインな
のである。
当たり前のことだが、ティアラは自分達の世界に『異常なし』を求める。そ
うあって欲しいと願う。だからこそ、『雪が降り積もっていなければならないの
だ』。
しかし、今、雪は降っていない。そして積もっていた雪も、消えている。
それが何を意味するのか。
残念ながら、ティアラはそれを知らない。知っているのは、おそらく雪菜だ
けだ。
「あ、あのっ、吹雪の──」
と、ティアラが我に返り、雪菜に声をかけようとした瞬間。
「許せない」
ゾッとするような低い声がティアラの耳に届いた。声の主は、桂子である。
「アンタといい、このガキといい。人の迷惑ってヤツをまるで考えてないわ」
その言葉をそっくりそのまま返してあげますわ。ティアラはそう思った。
「その上、自分たちのせいで一体何人の人が……」
桂子はそこから先の言葉を飲み込む。脳裏に嫌な映像が浮かび上がった。
血。死体。怪獣。死体。ランドセル。死体。小さな靴。死体。死体。死体。
死体。
カッ、と熱いものが頭に昇ってきた。脳味噌が、沸騰する。一瞬、目の前が
赤く染まった。
「……ゆるせないっ!」
問答無用。桂子は覇王剣と赤帝砕破剣を振り上げ、雪菜に向かって駆け出し
た。
「……!」
雪菜の目が、きゅっ、と細められる。その口から不可思議な言語が溢れ、す
さまじい速さで『呪文』が紡がれた。
少女の右掌に、冷気が収束する。そして、大人の頭ほどの大きさの氷塊が生
まれた。
氷塊が、放たれた矢の如く前に飛びだした。が、桂子はこれをあっさり、赤
帝砕破剣で受け止める。ガキン、とグラスを叩き割るような音が鳴った。刀身を
包む炎が氷塊を一瞬にして蒸発させる。
「づぁああああっ!」
遮二無二突進する。覇王剣の柄を左側頭部の傍らまで持ってきて、袈裟斬り
。青銀色に煌めく弧を描く。しかし、雪菜は意外な運動性を見せて、左足で地面
を蹴ることで、これを避けた。
避けつつ、その口から『呪文』が紡がれる。二人の頭上に、巨大な氷の球体
が現れた。大人がそのまま中に入ってしまいそうな氷の球。
それが、地上十メートルの高さから落下する。同時に雪菜の姿が桂子の前か
ら消え失せた。その姿が、桂子から五メートルほど離れた前方に現れる。
「──!」
驚愕する暇もなく、頭上から丸い影が襲いかかる。頭にぶつかったら最後、
脳味噌をばらまいて死んでしまうことだろう。
桂子は左手を慌てて持ち上げた。ずん、と赤帝砕破剣の剣先が、氷の球体に
突き刺さる。が、皮肉なことに氷球の重さで、長い刀身がどんどん深く埋まって
いく。突き刺したのはいいが、このまま剣と氷が団子状態になって、結局、重み
で潰されそうだ。
「ぁあああああっ!」
咆哮。主の雄叫びに答えて、赤帝砕破剣は大質量の炎を吐き出した。
火焔が瞬く間に氷球の全身を覆った。大質量の氷球は、一瞬にして、大質量
の熱湯と化した。
熱湯が上から降り注ぐ。それを、桂子は覇王剣が展開した不可視の力場で防
いだ。そこにガラスのケースがあるかのように、降り懸かる熱湯が、桂子の周辺
で紡錘形に切り取られた。
バリアーよろしく展開された力場の中から、桂子は雪菜を睨み付けた。
(顔に似合わずやってくれんじゃない……!)
雪菜は気丈な眼差しでこちらを見ている。正直、あんな気の弱そうな顔をし
ていて、ここまでする娘だとは思っていなかった。
桂子は知らない。雪菜は最初、この世界に来るとき、人を殺す覚悟をしてき
たことを。雪女の少女は、いざとなったら人殺しが出来るのである。
目に見えない力場を解く。赤帝砕破剣を下ろし、構え直す。
その時である。
──ズクンッ。
何処かで感じた覚えがある、強い『力の波動』が、桂子の体を震わせた。
(この感触、何処かで……?)
その思考を中断させるように、濃密な影が、桂子と言わず、神無学園全体を
覆った。
「……?」
桂子は思わず空を仰ぐ。
「なっ──!?」
目を見開いた。
屋上よりもはるかに高い上空に、『巨大な』という形容詞が生やさしく思え
る程の氷の塊が浮かんでいた。いや、塊と言うよりは、板である。面積は広いが
、厚さはそれに比べて薄い。ただし、薄いと言っても三メートルはあるが。
二等辺三角形の氷の板が、日光を屈折させ、完全に遮っていた。
あまりにも非常識な存在。
「…………」
桂子は驚きのあまり、口もきけない。パクパクと唇が開閉を繰り返すだけだ
。その背後で、同じようにティアラが呆然と空を見上げている。
氷の板が、空中で動き始めた。ゆっくりと。
腹を見せていた氷の板が、立ち上がる。二等辺三角形の一番鋭い角が、下を
向き、一番短い辺が上を向いた。再び日光が、暖かく学園を照らす。しかし、や
はり校舎の裏手には射し込まない。
なぜなら、下に向いた頂点の延長線上に、桂子がいるから。
たとえ太陽が裏庭の真上に来ようとも、光を遮るものがあったから。
そして、氷の厚さと、校舎と壁に挟まれた裏庭の幅は、ほぼ同じ。
この後、何が起こるかは明白だった。
落ちる。
それはまるで、落下傘が下りてくるようだった。あまりにも大きすぎるせい
だろうか。ゆっくり、ゆっくりと、巨大な氷の二等辺三角形は落ちてくるのであ
る。桂子めがけて。
戦慄する。
(冗談──!?)
そう思いたかったが、そうではなかった。
意識が警鐘を鳴らす。しかし、桂子の体は恐怖に竦んで動かない。
ただ、呆然と見上げていた。
そして、見事、桂子が立っていた場所に巨大な二等辺三角形は激突した。
轟音。
槍の穂先のような氷が、裏庭に突き刺さる。深く深く、潜っていく。
地震。
その高さは、校舎の屋上を少し越えるぐらいか。突き刺さり、潜って行くに
つれ、高さが屋上と同じぐらいになる。
そして、屋上より少し低くなったところで、氷の鏃の進撃は止まった。
静寂。
その一瞬後、光が空間を切り裂いた。
紫色の光である。その光が、まるで導火線に火を点けたかの如く、氷の鏃の
側面を、天に向かって駆け昇っていた。
光は、氷を切り裂いていた。丁度真ん中を斬られた二等辺三角形が、二つの
直角三角形に分かれる。
支えてくれるものなど無い二つの直角三角形は、重力に引かれて、傾き始め
た。突き刺さった先端を支点として、双葉が開くように倒れる。
その一方が倒れる先に、ティアラの姿。そして、もう一方の倒れる先には、
雪菜の姿がある。
二つの氷で出来た直角三角形が、重力加速度で加速しつつ、地面に迫る。
しかし、あわやその巨体が二人の少女を押しつぶすかと思った瞬間。
消え失せた。
溶けたわけでも、蒸発したわけでもなく、消滅したのである。
まるで幻だったように巨大な氷の塊はこの世から消えたのだった。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
氷の先端が落下していた場所で、荒い呼吸を繰り返す桂子。その手には、全
長二メートル半を越す、紫炎を放つ巨大な剣が握られている。
その顔は恐怖にひきつっていた。己より巨大なものに対する恐怖。つまり、
死に対する原始的な恐怖に。
本気で死ぬかと思った。
光剣を出したのは、意識してやったことではない。殆ど本能だ。体が勝手に
動いて、氷を切り裂いていた。
五メートル前方にいる雪菜を睨み付ける。が、視線に力が入らない。先程の
恐怖が横槍を入れて気力を萎えさせていた。
対する雪菜は、恐ろしいほど冷たい瞳で、桂子を見つめていた。その周囲で
、冷気が渦を巻き、大気中を上昇しては消えていく。その冷然さたるや、まさに
雪女。桂子はゾクリとした。
こみ上げてくる恐怖。頭の何処かが、勝てない、と小声で言っている。
あんな化け物、勝てるはずがない。今助かったのだって、殆ど奇跡みたいな
ものだ。
小声が段々、大きくなっていく。
逃げた方がいい。自分の命を優先させないと。恥だのプライドだの言ってい
る場合じゃない。
赤いランドセルを背負った首無し死体が、頭にちらついた。
しかし、桂子はその声を無視。本能が告げる声を、理性は弾圧した。
「ぅあああああっ!」
いや、もしかしたら、頭に響く声は理性のものだったのかも知れない。しか
し、それを本能は全否定。誇りを優先。恐怖の源を潰そうとする。
駆け出す。彼女の辞書から『手加減』という文字は消えていた。
巨大な紫の光剣を振り上げる。これなら、二メートルほど間合いを詰めれば
、それだけで斬ることが出来る。
一メートル。
二メートル。
三メートル。
剣を振るえる間合いに入った。無我夢中で、桂子は光剣を上段から振り下ろ
し──
その軌道が途中で逸らされた。
「!?」
自分の両手首が、誰かに掴まれている。
光剣は自ら雪菜を避け、地面に激突する。
桂子の視界の中で、ぐるん、と世界が回転した。
全身を強い衝撃が駆け抜けた。肺の中にある空気が、全て叩き出される。
そして、ようやく止まった視界の中で、桂子は見た。
人の良さそうな、気の弱そうな少年の顔を。
(ながさ……)
少年の名前を思い出すより早く、桂子は意識を失った。
桂子が迫る。その時、雪菜は右手を突き出し、吹雪を呼び出そうと思った。
しかし、その時、異変が起きた。
黒い影が、雪菜の背後から前へ、疾走していったのである。一瞬遅れて、同
じように風が後ろから前に吹いた。雪菜の黒髪が前に引っ張られる。
「!」
黒い影はとんでもない速度で、剣を持ってこちらに駆けてくる桂子に近寄っ
た。そして、その両腕を掴み、
桂子の体が逆さになって宙に浮かんだ。
「──っふぅ……びっくりしたぁぁぁ……」
桂子を背負い投げで地面に叩き着けた一郎太は、安堵の息をついて、その場
にへなへなと座り込んだ。
「い、一郎太……さん?」
雪菜の目が、点になった。
一郎太は顔を雪菜に向け、
「あ……あ、あはははは……な、なんか、危なそうだったからさ」
苦笑い。一郎太は照れくさそうに、後頭部を右手でポリポリと掻いた。
「ど、どうしてここに……」
「いや、なんか、こっちから銃声が聞こえて、何だろうと思ってさぁ……」
銃声。
その言葉に雪菜は慌てて頭上を仰いだ。校舎の窓から、大勢の人が頭を突き
出して、こちらを見ている。
そりゃそうである。こんな所で発砲したり、どでかい氷の塊を落としたり、
咆哮をあげたりすれば、目立って当然だ。
見る見るうちに雪菜の顔が真っ赤に染まっていく。
「ご、ごごごご──!」
「ごめんなさいなら、聞き飽きたよ」
狼狽して上手く舌が回らなかった雪菜に、一郎太は苦笑して言った。雪菜は
、はっ、として口元を押さえた。先程の事が脳裏に浮かぶ。自分は泣きながら『
ごめんなさい』を連呼して一郎太の元から逃げ出したのだ。
一郎太は上を向いて窓から顔を出している大衆を見、視線を下げて俯いてい
る雪菜を見る。そしてさらに視線を下げ、傍らで気絶した桂子を見る。
吐息。
「──とりあえず、この娘、保健室に連れていこうよ?」
反論はなかった。
神無学園・保健室。
幸か不幸か。保健室の先生は、先の事件──ティアラの超音波で大勢の生徒
が倒れた──で、病院に出払っていた。
長方形の狭い部屋である。入ってすぐ右に、ベッドが五つ並べられており、
左奥の窓の前に、古い木製の机が置かれている。
一郎太は一番奥まで行き、背負ってきた桂子を、窓際のベッドに寝かせる。
その様子を、雪菜は入り口付近に立って、じっと見ていた。ティアラはここには
いない。雪菜が気付いたときには、もう彼女はいなかった。よって、一郎太もテ
ィアラの存在は知らないはずだ。
「これでいいかな?」
桂子にシーツをかぶせ、一郎太は誰ともなしに呟いた。雪菜は答えない。俯
いて、視線を足先に落とした。
沈黙。
そして静寂。
しん、とした時間は、何秒ほど続いたのだろうか。
やがて、一郎太が破った。雪菜を見据え、口を開く。
「聞いていいかな?」
「…………」
「どうして、ゴメンなさいって言ってたの?」
「…………」
「……僕、何か悪いこと言ったかなぁ……?」
雪菜は首を横に振った。
「……違います……」
「……じゃあ、どうして、泣いてたの?」
「…………」
「……黙ってちゃ、わからないよ」
沈黙。
ちっ、ちっ、と時計が時を刻む音だけが聞こえる。
不意に、雪菜は口を開いた。
「……私は、一郎太さんに嘘をついていました」
「嘘?」
「はい……」
「どんな嘘?」
「…………」
再び、雪菜は沈黙する。一郎太は雪菜が話すのを待つ。
長い、長い沈黙。
雪菜は唇を噛み──そして、意を決して話し出した。
「……私は……一郎太さんの魂を──」
「そこから先は私が説明したいますわ」
雪菜の言葉を、柔らかな声が遮った。二人は同時に声のした方向へ顔を向け
る。
そこに、いつの間に窓を開けたのか、一人の少女が窓枠の上に腰掛けていた
。
一郎太が雪菜を見る。目が『誰? 知ってる人?』と聞いていた。しかし、
雪菜はそれに気付かない。
「パティオさん……」
落胆よりも深い感情、絶望の篭った声で、雪菜はティアラの名前を口にした
。
しかし、ティアラは雪菜の声を無視して、窓枠から飛び降りる。そして、一
郎太の方に向き直った。スカートの裾を持ち上げ、可愛らしく御辞儀する。
「はじめまして。私、ディスター=ゼクス=パティオ=ティアラともうします
」
「え? あ、は、はい。どうぞよろしく……」
ティアラが右手を差し出したので、一郎太は反射的に腰を屈め、その手を握
っていた。
そして、ティアラの左手が跳ね上がり、ピースメーカーの銃口が一郎太の額
に照準された。
「──へ?」
目の前に突きつけられた銃口に、一郎太は間抜けな声をこぼした。視線が、
泳ぐ。ティアラはニコニコと無邪気な笑顔で、一郎太を見ている。
「──!」
雪菜は顔を青ざめ、息を呑み、両手で口元を押さえた。
「説明を続けますわよ。私たちは、あなたの魂を奪いに来たのですわ」
さらりと言った。一郎太は反応できない。
「──はい?」
苦笑いを浮かべて、一郎太は聞き返す。無意識に両手を肩より上に挙げた。
「あなたが事情を理解する必要はありません。とりあえず、今は大人しくして
いくださいな」
「い、いや、あの……」
にこっと天使の微笑みを見せて、ティアラは引き金に指をかけたまま、ささ
やかな抗議をする一郎太から視線を外した。きりっ、と表情を引き締めて、雪菜
に顔だけ向ける。
「吹雪の巫女様。聞きたい事がありますわ」
「え?」
心底意外そうな顔を見せる雪菜。ティアラは言葉を続ける。
「雪が消えています」
「は、はぁ……」
「どういうことですか?」
「──え?」
「ですから、雪が消えているのです。これは、どういうことなのですか?」
「どういうことと言われましても……あ」
雪菜は目を見開いた。口元に両手を持ってきた体勢のまま、硬直する。
「あ?」
「…………」
ティアラが聞いたのは、雪が消えた=あちらの世界で何が起きたのか、とい
うことだ。
そして、雪菜は思い出した。雪がこの世界から消えたとき、それがあちらの
世界で何が起きたかを意味する事を。
それは、はっきり言って、あまりにもアホらしい答えだった。
雪菜が姉である氷柱の王女・和歌菜と決めたサイン。それは、
雪が降っている=異常なし。これはティアラも知っているサインだ。
大雪が降る=Bのグループが攻めてきた。危ない、という意味である。これ
は雪菜しか知らない。
雪が消えた=?。これも雪菜しか知らない。
そのサインの意味は──
Bのグループと和平しました。
本当にアホらしい答えだった。
結局、一郎太は最後まで訳が分からなかった。
翌日の放課後。
灰色の空の下、一郎太と雪菜のティアラは、焼却炉の前に立っていた。焼却
炉は、相変わらず地面から突き出た五本の岩の槍に貫かれている。鋼鉄の肌がご
つい岩に突き破られ、障子をぶち破ったような穴が空いていた。
ティアラは一歩前に進み出て、一郎太を振り返る。少女の格好は、変わり無
い。黄色のピンクハウス系の服だ。
「本当にご迷惑をおかけしました」
紺色の髪が地面に触れてしまいそうなほど、深く頭を下げる。
一郎太は狼狽する。彼は事情を知らないのだ。ご迷惑、といわれても何の事
やら。一つ心当たりがあるとすれば、拳銃を突きつけられたことぐらいだ。まあ
、これだけでも十分謝罪するに値するが。
「い、いや、気にしなくていいよ。あはっ、あはははっ」
黒のタートルネックのセーター、ブルージーンズ、その上に紺色のコートを
羽織った一郎太は、苦しそうに笑った。少し腰が引けてる。一度とはいえ、拳銃
を向けられたのだ。無理もないだろう。
あの後、保健室で雪菜は慌ててティアラに銃を納めるように言い、雪が消え
た意味を説明した。当然、ティアラはその説明を聞いて真っ白になった。それも
そうだろう。最終目的である一郎太を目の前にして、『あ、やっぱりそれいらな
い』である。泣きたくなってくる。
一郎太にも一応の説明を成されたが、結局、彼は自分の命が狙われたらしい
、としかわかっていない。最終的には、丸く収まったらしいので、どうでもいい
やと考えている。
この世界にいる意味を無くした二人は、<異世界>に帰ることになった。口
には出さないが、自分たちの世界が心配なのだろう。一郎太の両親は、ティアラ
を雪菜の妹と勘違いして、同様に家に置いていいと言ったが、二人はそれを丁重
に断った。
そして今、両親の記憶から二人の少女の記憶はさっぱり消えているだろう。
雪菜の『呪文』によって。
ついでに言えば、学校関係者の記憶も、既に『処理』してある。
もう誰も──一郎太以外、誰も、雪菜やティアラのことを覚えていない。も
ちろん桂子も例外なく。
一郎太はあの事件──ティアラの奇声で窓が割れたり、生徒が倒れたりした
ことや、雪菜と桂子のケンカ等──をごまかすことが出来ない、と思っていたの
だが、どうしてどうして、世の中、意外とご都合主義だったようだ。
「それでは、私は一足先に帰ってますわ。吹雪の巫女様」
「はい」
笑顔で言葉を交わすティアラと雪菜。雪菜は、初めて一郎太と会った時に着
ていた、あの和服に身を包んでいる。
ティアラはトコトコと焼却炉に歩み寄り、背伸び。焼却炉の蓋を開けて、跳
躍する。四五度の角度で空に向かって口を開けた焼却炉の中に飛び込む。
「では」
焼却炉の口から顔だけ出して、ティアラは一郎太と雪菜に手をヒラヒラと振
った。二人もそれに答えて、手を振る。そして、んしょ、という小さなかけ声と
共に、内側から蓋を閉めた。
ゴウン、と轟音が響き、岩の槍が一本、地面に引っ込んだ。音は連続する。
ゴウン、ゴウン、と連鎖で、岩の槍は引っ込んでいく。
五本全ての岩が姿を消すと、辺りは、しん、と静まり返った。
「…………」
焼却炉の蓋を開けて確認するまでもない。ティアラの気配は鉄の箱の中から
消えていた。
一郎太は白い息を吐いて、雪菜の方に首を向ける。
「──じゃ、行こっか?」
「はい」
寒くないのだろうかと思うほど薄着に見える雪菜は、満面の笑みを浮かべて
頷いた。
二人は歩き出す。
一郎太が聞いた話によると、彼女たちは帰る場合、来た所から帰らなくては
ならないらしい。つまり、ティアラはこちらの世界では焼却炉の中に現れたので
、焼却炉の中から異世界に帰る。そして、雪菜は一郎太の通学路に現れたので、
通学路から異世界に帰るのだ。
二人は肩を並べ、無言で歩いていた。
一郎太も、雪菜も、言葉を発さない。そしてその足どりは遅い。まるで、別
れを惜しむように。別れの時が少しでも先に延びるようにと、願っているかの如
く。
やおら、一郎太が口を開いた。
「──あの……さ?」
「……はい?」
「また、こっちに……来れるの、かな?」
「……わかりません」
「そっか……」
沈黙が降りる。二人の間には、ただ足音だけがあった。一郎太は左隣にいる
雪菜を見ないように、右を向いて歩き、雪菜は俯いて、チラチラと右隣にいる一
郎太を窺いつつ、歩いている。吐く息の白さが、濃くなってきた気がする。
別れの時は刻一刻と近付いていた。
無言。無音。二人は黙って足を動かす。ゆっくりと。
しかし、ゆっくりとはいえ、進んでいればいつかは目的にたどり着く。
二人は今、初めて出会った、住宅街の家と家の間にある道を歩いていた。
そして、どちらからともなく、徐々に歩調を緩め、やがて立ち止まる。
「…………」
「…………」
一郎太も、雪菜も、何も言わない。
と。
「……あ」
一郎太が小さく声を挙げた。掌を空に向けて、前に突き出し、降ってきたそ
れを受け止めようとした。
雪が降っていた。
「雪かぁ……」
その声は自分でも驚くほど、感慨に耽ったものだった。確か数日前にも見た
はずなのに、何故か、ひどく懐かしい。
「一郎太さん……」
「え?」
雪菜の声に、一郎太は振り向いた。
雪菜は俯き、視線を足元に落としている。
ゆっくり顔を上げ、まるで捨て犬のような瞳で一郎太を見つめる。
「あの……」
「……なに?」
一郎太の鼓動が出し抜けに跳ね上がった。
こちらを見つめる雪菜を、可愛い、と思った。かぁ、と顔が紅くなるのを、
止められない。
一息の間。
「……また、こちらに来ても……今度は遊びに来ても、いいですか?」
「あ、当たり前じゃないか」
どぎまぎしながら、一郎太は上擦った声でそう答えた。
雪菜は嬉しそうに顔をほころばせ、
「ありがとうございます」
雪菜は一歩前に踏み出して、一郎太を振り返る。
一郎太は、息を呑んだ。
少女の姿が、透けて見えるのだ。彼女の背後で降る、綿のような雪が、この
目に見える。
「あ……」
心臓を素手で掴まれたような気がした。訳も分からず、息が喉を通り、言葉
にならない声が出る。
正体不明の焦燥感。
「短い間でしたけど、本当にお世話になりました」
ぺこり、と雪菜は深く腰を曲げ、頭を下げる。
別れの時が、もうすぐそこまで来ていた。
何か言わなきゃ。一郎太は焦った。しかし、その思いとは裏腹に、頭の中は
真っ白になっていく。
「……ぁ……」
口から出ていくのは、意味のない音だけだ。
「それじゃ……」
雪菜は右手を胸の前まで持ち上げ、一郎太に向けて振った。その姿が、さら
に透き通っていく。存在感が、薄くなっていく。
真っ白な思考。臨界点を突破する焦燥感。どくんっ、と心臓が大きく跳ねた
。
「ちょ、ちょっと待ってっ」
「え?」
気がついた時には、一郎太は雪菜を呼び止めていた。
「──あ……えっと……その……」
何か言うべき言葉があるはずだ。一郎太はそれを心の何処かで確信していた
。しかし、その言うべき言葉が見つからない。わからない。
「──また、遊びにおいでよ。僕も、父さんや母さんも……は忘れちゃったか
。えっと……とにかく、待ってるから、さ。歓迎するから、さ」
その言葉は、間違ってないような気がしたが、正解でもないような気もした
。
「……はい。ありがとうございます」
そう言った雪菜の瞳には、うっすらと涙が溜まっていた。うれし涙である。
「本当に……本当にっ……ありがとっ……ございますっ……」
話している内に耐えきれなくなったのか。少女はとうとう堰を切ったように
泣き出してしまった。止めどもなく、涙が頬を伝い、ぼろぼろと地面に落ちる。
「私っ……忘れません……あなたのこと……忘れませんからっ……!」
両手でこぼれる涙を拭いつつ、雪菜は笑顔を浮かべた。つられて、一郎太も
微笑する。少年の瞳も、わずかに潤んでいた。
「うん……僕も忘れないよ。だから……」
だから──何だろう? 早く戻ってきて、だろうか。いや、違う。彼女は今
から自分の世界に戻るのだ。この言葉は適切ではない。
しかし、一郎太は雪菜のことを家族だと思っていた。たった五日間という時
間ではあるが、共に過ごした彼女は、確かに自分の家族だったのである。少なく
とも、一郎太はそう感じていた。
ならば──
「また、帰ってきて」
言った瞬間、心にしっくりときた。
「はいっ」
頷いた雪菜の姿が、次の瞬間、ふっ、と消えた。まるで、空気に溶けるみた
いに。音もなく、静かに。
静寂が訪れた。雪が、チラチラと降っている。
一郎太は動かない。じっと雪菜が立っていた空間を見つめている。すんっ、
と鼻を鳴らした。
ふと、頭上を見上げた。雪が降っている。少量の雪だ。殆どが地面に落ちる
前に、溶けてしまっている。積もることはないだろう。
やがて、その雪も止んだ。たった一分かそこら降っただけで、刹那の雪は終
わった。
まるで雪菜のようだな、と一郎太は思う。
五日間。長いと言えば長く、短いと言えば短い時間。そんな中途半端な時を
過ごした少女は、中途半端に降る刹那の雪に、とても似ていた。
「…………」
一郎太は無言で空を見上げていた。その目は、灰色の雲を見ていない。顔を
上に向ける行為が、涙を流さないため、ということは少年にしかわからない。
ポツリと、呟く。
「結局、さよならは言えなかったなぁ」